2008/06/28 - 2011/04/10
4882位(同エリア7326件中)
ドクターキムルさん
- ドクターキムルさんTOP
- 旅行記7569冊
- クチコミ134件
- Q&A回答247件
- 7,254,610アクセス
- フォロワー40人
平政子(保元2年(1157年)?嘉禄元年(1225年))は、源頼朝の正室であり、鎌倉に武家政権が樹立されると御台所と呼ばれた。頼朝死後は尼御台(あまみだい)と呼ばれた。法名は安養院という。源氏3代続いた征夷大将軍の後は、傀儡将軍として京から招いた幼い藤原頼経の後見となって幕政の実権を握り、世に尼将軍と称された。承久3年(1221年)に起こった承久の変では御家人を叱咤して、大軍を京に攻め上らせた。官位については、建保6年(1218年)4月に朝廷から従三位に叙され、同年10月には従二位に昇叙し、その4年後には剃髪し二位尼と称されたりしている。
「平政子」の名は建保6年(1218年)に朝廷から従三位に叙された際に、父・時政の名から一字取って命名したものであり、それ以前は何という名であったかは不明であるとされている。しかし、政子が開基である西向山乗蓮寺(尼将軍乗蓮寺)(横浜市南区井戸ヶ谷上町)には「朝日御前」と名付けられたと伝わっている。未亡人の晩年の名前が政子だったのである。
政子の死後、遺体は源氏の菩提寺であった勝長寿院に埋葬されたという。源政子として埋葬されたのであろう。しかし、政子の墓として伝えられているのは壽福寺のやぐら内にある五輪塔と、政子の法名から寺名を採った安養院に宝篋印塔が残っている。しかし、後に建てられた供養塔であろう。
また、北条政子というのも後世(近世以降)になってそう呼ぶようになったのだろう。金剛山勝長寿院大御堂浄楽寺(神奈川県横須賀市芦名)に残る伝北条政子奉納銅鏡(承久2年(1220年)銘)には「平政子 敬白」と刻まれており、建保6年(1218年)以降嘉禄元年(1225年)までは朝廷や寺社には吾妻鑑に記載されている「平政子」を名乗っていたと考えられよう。頼朝や息子たち(頼家、實朝)が死亡し、もはや源家(源氏)が途絶えると「源」を名乗る意味もなく、「平」を名乗ったのであろうか?
(表紙写真は北条政子の墓と伝わる五輪塔(壽福寺))
利用規約に違反している投稿は、報告する事ができます。
コメントを投稿する前に
十分に確認の上、ご投稿ください。 コメントの内容は攻撃的ではなく、相手の気持ちに寄り添ったものになっていますか?
サイト共通ガイドライン(利用上のお願い)報道機関・マスメディアの方へ 画像提供などに関するお問い合わせは、専用のお問い合わせフォームからお願いいたします。
ドクターキムルさんの関連旅行記
旅の計画・記録
マイルに交換できるフォートラベルポイントが貯まる
フォートラベルポイントって?
0
2