2011/08/24 - 2011/09/07
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prinprinさん
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コモ湖から、1時間でミラノ北駅に着きました。
カドルナ駅に、コインロッカーは無いらしいので、ホテルに荷物を置いてから、17:15予約の「最後の晩餐」へ向かいました。
「最後の晩餐」とブレラ美術館とスフォルツォア城の博物館は、明日月曜日はお休みです。
2日目、地下鉄で、スリにあいそうになりました。
私は、ショルダーバッグのチャックから手を離し、自分で作った旅の予定表をめくっていました。
隣に中年の白人女性が立っていましたが、普通の女性だと思って、気にしていませんでした。
娘が「晴れなのにコートを持っているので変だ」と思ってキッとにらんだら、何もしてないよというふうに手を広げてお腹を見せたそうです。
隣に立っていた黒人のスーツ姿のおじさんが、私のバッグを指さしてイタリア語で私に何か言ったので、何を言われたかわからずきょとんとしましたが、やっと気が付きました。
女はあわてもせず、次の駅で降りて行きました。
危うく免れました。黒人のおじさん、「グラッチェ!」
混雑で働く日本のスリと違って、空いていて人から見えようが、横に同伴者がいようが、狙ってきます。
よくある手だと思います、お気をつけください。
- 旅行の満足度
- 5.0
- 観光
- 5.0
- ホテル
- 5.0
- グルメ
- 4.5
- ショッピング
- 4.0
- 交通
- 3.0
- 同行者
- 家族旅行
- 交通手段
- 鉄道 タクシー 徒歩 飛行機
- 旅行の手配内容
- 個別手配
PR
-
2か月以上前に「最後の晩餐」の予約サイトを見たら、すでに売り切れでした。時々チェックしながら空席を待ったら、7月28日に9月4日17:15のチケットが15枚出ました。
カドルナ駅から、案内標識を見つけながら8分位で、サンタ・マリア・デッレ・グラツィエ教会に着きます。
まだ予約時間の40分前だったので、隣の教会に入ってみました。祭壇が工事中でしたが、中庭の展示室で、レオナルド・ダ・ビンチ自筆の書付や設計図が見られました。
(イタリア語が読めるわけじゃないので、10ユーロは高い。)
その後、日本語のオーディオガイドを聞きながら待合室で待っていました。サンタ マリア デッレ グラツィエ教会 寺院・教会
-
撮影禁止なので、写真はフリー素材です。
剥離でかなり傷んでいて、実際こんな風に白っぽく見えます。見学者も何重にもドアを入るという念の入れようでした。
フレスコ画は、まず壁の表面を削り取り、一日に描くことの出来る量の壁に漆喰(砂と石灰を混ぜて作る)を塗り直し、その漆喰がまだ「フレスコ(新鮮)」つまり生乾きの状態で、水で溶いた顔料で描きます。すると、漆喰が乾く過程で、空気中の二酸化炭素と反応してできた透明な石灰の結晶の中に、顔料の一粒一粒が閉じ込められるため、fresco(英語のfresh)に輝く美しさを保ち続けます。
ミケランジェロが描いたバチカンの「最後の審判」は、フレスコ画で描かれていたので、1981?1994年の修復で、表面の汚れを洗浄してやると、製作当時の鮮やかな色彩が蘇ったのです。
ダビンチは、色を固定させ鮮やかさを加える為、壁にカルシウムやマグネシウムを塗り、壁を乾かしてから、テンペラ画で描き(卵黄で油と水と顔料を乳化させる。塗り重ねができて、深みのある色で重厚感のある表現ができる)、完成直後から称賛を浴びました。 -
礼拝堂ならば、テンペラ画は良かったのでしょうが、ここは食堂(料理の湿気)で、下には地下水が流れていました。
さらにこの壁の裏は台所で、湿気と熱が壁の中を伝わり、表面を接着剤で固めたような壁は、絵の具が剥がれ落ちていきました。 (水滴が流れるほどで、修道士が拭いていたそうです)
完成からわずか20年足らずで、ダ・ビンチは、修復に取り掛かりましたが、くい止めることができませんでした。
絵にはカビが生え、壁画がダメになったと思った修道士たちは、ドアを広げるために、キリストの足の部分(テーブルの下)は剥がしてしまいました。
第2次世界大戦で、修道院は爆撃で破壊され、土嚢を積んで守っていた「最後の晩餐」の壁は倒れなかったものの、風雨にさらされないようにしながら、天井が無い状態で3年も放置されました。 -
12人の弟子の中で、キリストの死と復活に大きくかかわる人物は、キリストのすぐ左に描かれています。
キリストに愛され、十字架の下で嘆き悲しんだヨハネ。
キリストを愛し、キリストを捕まえに来た人物の耳を切り落としたペテロ。(腰の右手にナイフ)
キリストを裏切り、その報酬を持っているユダ。(右手の袋)
500年間の度重なる修復で、絵の具が塗り重ねられ(11層になっていた)、描き加えられていましたが、1977?1999年本格的な修復が行われ、一人の女性修復家によってようやく原画に近い形で公開されています。
ダ・ビンチの「最後の晩餐」は、古典的な最後の晩餐と違って、動きも顔も生き生きしていました。
存在自体が奇跡と言われますが、こんなに傷んでは、見れなくなる日が来るかもしれないと思いました。
キッチリ15分で、外に出されました。
ちょうど、タクシーで来た人がいたので、そのタクシーでブレラ美術館に向かいました。 -
18:00ブレラ美術館:
正面階段を上がって、2階がブレラ美術館です。
1572~1772年、イエズス会の本部が置かれています。
ここも6割以上宗教画でした。
中庭の回りを展示室が囲んでいて、玄関の見た目よりたくさん展示物がありました。ピカソや、ジャコメッティの小さな彫像も、少しだけあります。
レストラン・ナブッコ: ブレラから徒歩2分。
あさりのボンゴレ、パスタに濃厚なスープがしみ込んで、とてもおいしいです。郷土料理・ミラノ風カツレツも、さっぱりしておいしかった。JCBカードで10%割引がありました。 お薦めです。ブレラ絵画館 博物館・美術館・ギャラリー
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9月5日 8:00にドゥオーモの鐘が鳴りました。
朝ゆっくりしてから、ドゥオーモに向かいました。
レース編みのような繊細な佇まいは「気まぐれな菓子職人のデコレーションケーキ」と揶揄されるほど、尖塔135本、外回りの彫刻だけでも2245体。幅94m、奥行き158.5m、高さ108.5m、敷地面積1万2千㎡。
ドゥオーモ広場には、黒人たちが、素手に少しだけ鳩の餌を握って売っています。なにげに渡して来るので、気を付けてください。ドゥオーモ (ミラノ大聖堂) 寺院・教会
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ドゥオーモは世界最大のゴシック建築で、4万人も収容できるという。
1386年(室町時代 足利義満将軍)にヴィスコンティ家10代目領主ジャン・ガレアッツォ・ヴィスコンティが建設を命じ、竣工1965年(東京オリンピックの翌年)、600年近くかかっています。
5枚の黒いブロンズの扉の彫刻も華麗で、 -
真ん中の扉は、1908年「聖母マリアの生涯」
右が赤ちゃんのキリストを抱いたマリアで、
左がピエタ -
中は撮影禁止になってますが、みんな撮っていますし、フラッシュもピカピカ光ってました。警備員も何も言いませんでした。
巨大な柱が並び、上部には彫像が飾られています。
ドゥオモを作った【ヴィスコンティ家】は、
(ミラノの北西)マッジョーレ湖西岸の出身で、1200年に開かれた新しい交易ルートに早くから目をつけて、急成長しました。
このルートは、川や湖をフルに使って、イタリア(地中海)~ヨーロッパ北部(北海・バルト海)を、安く安全に水上運搬することができ、南北に長いマッジョーレ湖は、この水上交通の要でした。
ミラノは、途中で運河を利用してそのポー川につながっています。
当時、陸上移動は強盗や、土地の支配者の徴税があり、その負担は過酷でした。
1277年ミラノ大司教オットーネ・ヴィスコンティが、ミラノの支配権を獲得し、
ヴィスコンティ家は約100年後、絶頂期を迎えます。 -
荘厳な主祭壇、ステンドグラスがきれいです。
-
床の模様
地下に、16世紀に殉職した聖カルロの棺があり、ミイラが見えました。 -
出口近くの祭壇
【ドゥオモの建設を命じたジャン・ガレアッツォ・ヴィスコンティ】
マジョーレ湖の採掘場から採れ、運河で運ばれてくる大理石を使って、1386年大聖堂Duomoの建設に着手しました。
彼は、神聖ローマ皇帝に賄賂を贈り、1395年ミラノ公の称号を手に入れ、都市国家だったミラノは公国となります。
もはや彼が「イタリア王」を名乗るのは時間の問題と思われた矢先、1402年ペストで急逝してしまう。
息子たちは公国を維持する力量が足りず、彼らが跡継ぎを残さず死んで男系が絶えると、その娘と結婚していた【傭兵隊長フランチェスコ・スフォルツァ】に、1450年、実権もミラノ公位も奪われてしまいます。 -
そのステンドグラス
15世紀以降、ヴィスコンティ家は貴族として、その血脈は現代まで継続しています。
スカラ座の運営には、常に一族の誰かが関わり、スカラ座が経営危機の時には、私財を投げ打って救出しています。
また、「郵便配達は2度ベルを鳴らす」「ベニスに死す」で有名な映画監督ルキノ・ヴィスコンティも、この血脈です。 -
(見苦しくてごめんなさい。初めてのカメラ、なぜかブルーになってしまいました。)
外に出てから、エレベーターで屋上に上がります。
屋上からでも、頂上の金色のマリア像の顔は、双眼鏡で見ないとよく見えない。 -
さらに階段を上ると、広いスペースがありました。夫が3年前来た時は、ここでエレキギターのバンドがコンサートをしていたそうです。
尖塔には、先端に聖人が一体ずつ立っていて、台座に名前も彫ってありました。 -
新市街の高層ビルも見えます。
-
裏側から見ると。
てっぺんがドゥオモのシンボル、黄金の聖母マリア像 マドンニーナ(ちっちゃなマリア)4mもあるんだけど。
ドゥオーモの辺りは、ランジェリーショップがたくさん。 -
凱旋門みたいなアーケードを通って、スカラ座に行きます。
それほど長いアーケードではありません。
ヴィットリオ・エマヌエレ2世(イタリア王国初代国王)のガッレリアは、1861年のイタリアの統一を記念して、1865~1878年に建設されました。
石造りの伝統工法を基盤に、ガラスや鉄を採り入れて、優美なアーチ形のガラス天井で覆われています。
新バロック様式と新ルネッサンス様式が融合した、この近代ミラノ建築は、19世紀初頭の古き良きミラノを象徴する建物です。ヴィットーリオ エマヌエーレ2世のガッレリア 散歩・街歩き
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第2次世界大戦のとき爆撃を受けましたが、戦後修復されました。
看板は、黒に金字と決まっていて、マクドナルドも高級店を装っていた。(笑
みんながやっているように、中央の牛の♂の上で、右に回っておきました。 -
スカラ座:
「今日の公開は、12:00まで」となっていたので、早く来てよかった。
バルコニー席から館内を見られます。
パリのオペラ座ほど大きくないので、鑑賞するにはこちらの方が見やすいと思います。
展示室には、音楽家の彫像や、舞台衣装を展示していました。スカラ広場 広場・公園
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歩いて、スフォルツォア城に行くことにしました。
地図と磁石を片手に、10分歩くと歩行者天国になっていて、
ジェーラートを食べながら、さらに5分ほど行くと、カイローリ広場の噴水に出ました。
向こうにあるのが、背の高いフィラレーテの塔(正面入口)、異様に大きなお城です。
スフォルツァ城は、もとはヴィスコンティ家の城で、
スフォルツァ公爵家が実際住んだのは1466(フランス軍が侵攻)~1499年の33年間だけでした。
その後、ミラノを支配したフランス、スペイン、オーストリアが使い、1893年からスフォルツァ家の原型に戻す改修工事が行われました。 -
レオナルド・ダ・ヴィンチを雇った【ルドヴィコ・スフォルツァ(通称イル・モーロ)】
傭兵隊長フランチェスコ・スフォルツァはミラノを手に入れましたが、その跡を継いだ息子ガレアッツォ(イル・モーロの兄)が若くして亡くなり、その息子ジャン・ガレアッツォ(8歳)が跡を継ぐと、1476年(四男)イル・モーロは摂政となって実権を握り暗殺しました。
(注:ドゥオモの建設を命じたのは、ジャン・ガレアッツォ・ヴィスコンティ)
ルネッサンスの時代、まだ画家にとって一番の成功は、バチカンに絵を描く事でした。しかし、(ミケランジェロ・ラファエロ・ボッティチェリとちがって)ダ・ヴィンチはバチカンに雇われませんでした。
ダ・ヴィンチは自ら、スフォルツア家イル・モーロに軍事技師として売り込み、14歳から彫刻家の修業を積んだフィレンツェ(メディチ家)での様々な挫折から逃れるように、1482年30歳でライバル国の新興国ミラノにやって来ました。
豊富なアイデアを持つ天才ダ・ヴィンチは、軍事技術・建築・都市計画など多彩に才能を発揮し、膨大な手稿を残す一方、依頼者に訴えられるほど遅筆(完璧主義)で、現存する絵画はわずか十数点にすぎません。
1494年イル・モーロは、甥ジャンを追い出してミラノ公になります。
「最後の晩餐」はスフォルツァ家イル・モーロの依頼で、1495年(42歳)から3年かけて描かれました。
しかし、「最後の晩餐」完成からわずか1年後の1499年、フランス王ルイ12世が「ヴィスコンティ家の血を引く父オルレアン公からミラノを継承した」と主張して侵攻。イル・モーロは捕虜としてフランスで幽閉されてしまいます。
パトロンを失ったダ・ヴィンチはその年17年間住んだミラノを離れ、イル・モーロは1508年フランスで獄死します。
1513年メディチ家から新教皇レオ10世が誕生すると、フランス軍がミラノから追放され、スフォルツァ家が一時復帰していましたが、 1515年フランソワ1世20歳が即位すると再びミラノを占領。
1513年からローマ・ヴァチカンに滞在していたダ・ヴィンチは、この時ボローニャで行われたフランソワ1世とローマ教皇の和平調停の立会人に任命されます。
翌1516年、ダ・ヴィンチ64歳はフランソワ1世の居城アンボワーズ城(ロワール川沿い)に隣接した館 (クロ・リュセ) に招かれ、年金を受けて余生を過ごし、 1519年67歳で亡くなりました。
この時フランスに持って行った1点が「モナ・リザ」で、そのためイタリアではなくルーブル美術館に所蔵されています。 -
月曜なので博物館はお休みと知っていましたが、
庭を通って行った所にあったのは、博物館の入口だけで、お城には入ることはできませんでした。
1535年ミラノは、ハプスブルク家のスペイン王カルロス1世(神聖ローマ帝国皇帝カール5世)によって征服され(ミラノ公国は終焉)、170年間スペインに統治されています。
18世紀初頭のスペイン継承戦争(フランスブルボン家 対 スペインハプスブルグ家)後、ミラノはオーストリア・ハプスブルク家に帰属することになるが、
1866年に起こった普墺戦争でプロイセンがオーストリアに勝利しため、プロイセンと結んだイタリア王国に統合されることとなった。 -
奥に、東京ドーム10個分もの広さがあるイギリス式庭園のセンピオーネ公園があります。
昔はドゥオモを中心に、市街を取り囲む城壁があったようで、今は門だけが何カ所も残っています。
池の向こうに見えるのは、パリの凱旋門をモデルにした平和の門。
ミラノを支配していたオーストリアを破ったナポレオンに敬意を表すために1807年に着工されました。
この方向が昨日いた湖水地方です。
ベンチで休憩をして、5分ほど歩いてカドルナ駅まで行きました。 -
カドルナ駅から地下鉄を1駅乗ったところに、駅名と同じ、サンタン・ブロージョ聖堂があります。
ミラノ最古の、さびしげな教会です。 ↑入口を入ると、左右に柱廊のある前庭。
13:10着いたら閉まっていたので、午後の公開14:30まで、駅の近くのピッツェリアで昼食にしました。ふっくら生地のピザでした。 -
落ち着いた祭壇天蓋があり、「黄金祭壇」に近寄って、双眼鏡で見ると、聖書の場面の細かな彫刻が見えました。
3世紀ローマ帝国は、キリスト教を国教にしようとする皇帝と、反対する元老院が対立し、皇帝はミラノに居住し、事実上ローマに代わる首都となっています。
このミラノで、皇帝コンスタンチヌス1世が、313年キリスト教を公認(ミラノ勅令で信仰の自由を保障)し、
皇帝に仕える聖アンブロージョ(ミラノの守護聖人)が、374年ミラノ司教に選ばれて、
386年この聖堂を建てています。
395年、ローマ帝国は東西に分かれて統治しますが、皇帝はビザンチウム(現トルコ・イスタンブール)を首都とする東ローマ帝国の皇帝になり、ミラノは衰退していきました。 -
磁石と地図を片手に、歩いて13分
サン・ロレンツオ・マッジョーレ教会:
8角形のサンタクイリーノ礼拝堂 -
奥に、金色の宝物入れ?
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教会の目の前に、古代ローマ時代の列柱(移設してきた) が並んで、それに沿って線路が1本だけありました。Duomo行きのトラムが走っていたので、それで帰ることにしました。
トラムの運転手が指差した売店に、チケットが売ってなかった(売り切れ?)ので、タダで乗せてくれました。
終点の停留所は、ペック・カフェの前でした。
ホテルで休んでから、モンテ・ナポレオーネ通りに行きました。
貴族の邸が並んでいたという狭い通りで、ブランドショップがいっぱい、というよりブランドショップしかなかった。
一周して退散しました。 店員のお兄ちゃんたち、かっこよかった? -
9月6日(火):帰国
ホテルでタクシーを呼ぶと、15分してあわてたようにやって来たタクシーの運転手が、「ゼネラルストライキだ。地下鉄、マルペンサエクスプレス、アリタリア航空は止まっている。」と言ったので、初めて知りました。
タクシーで空港まで行きました。50分、90ユーロ。
「私はアエロフロートなので、大丈夫」と思っていたら、空港に着いてアリタリア運行便だと知りました。
エ〜ッ、ミラノでもう1泊? といっても空港から離れるわけにいかないし‥‥ -
搭乗待合口まで着いたら人は少なく、よくストがあるみたいで、みんな落ち着いたものでした。
幸い2時間半遅れで出発できました。でもアエロフロート日本行きは1日1便なので、モスクワ1泊は覚悟しました。
モスクワ空港に、20:00成田行きの出発15分前に到着し、急いでInternational Transferカウンターに行きましたが、乗れませんでした。
モスクワ(アエロフロート)→ソウル(アシアナ航空)→成田にしてくれました。 ホッ!
ソウル・インチョン空港で、無料のシャワーを浴び、24時間かかって帰国しました。
疲れたけど、往路便じゃなくてよかった (*^^)v
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この旅行記へのコメント (1)
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- わんぱく大将さん 2012/01/23 00:03:55
- 恐るべしイタリア人
- prinprinさん
パレード見ていただき有難うございました。
いや〜、いま、アメリカで活躍している監督とか、俳優さん。イタリアの血を流してるとか、ユダヤ人、多いですね。 おそるべし。
大将
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