2011/08/24 - 2011/09/07
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prinprinさん
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イベリア半島イスラム支配の終焉の地として知られるグラナダ。
その歴史は、多様な民族による支配の歴史でもあります。
紀元前3世紀には古代ローマ、5世紀には西ゴート王国の支配を受け、8世紀からはイスラム王朝に統治されます。
グラナダ王国(ナスル王朝)は1237年誕生し、アルハンブラ城内に王宮を建設し始めた頃、イスラム教徒の本拠地コルドバ(1236年)とセビーリャ(1248年)は、キリスト教徒によって陥落しています。
イスラムには「ねたまれる家は滅ぶ」という格言があり、アルハンブラ宮殿も反感を買わないように、外観は質素です。
ホテルでチェックアウトしていたら、目の前のバス停をバスが行ってしまった。
あわててタクシーで行ったら、私が8:30と思っていた集合時間は、9:30の間違いでした。日本人の団体がいくつも、羊飼いに連れられた羊たちのように、ガイドに連れられて入って行きました。
2か月前に、アルハンブラ宮殿をインターネットで予約した時、特別拝観の英語ガイド付きツアーVisitas por el entorno urbano y paisaj?・sticoを買いました。
9:30になったので、英語のガイドさんが来ました。
回りをきょろきょろ‥‥、他にだれもいません。いろんな国の人が英語のガイドで見て回ると思っていたら、私たち3人だけでした。(^_^;)
- 旅行の満足度
- 5.0
- 観光
- 5.0
- ホテル
- 5.0
- グルメ
- 4.0
- 交通
- 4.5
- 同行者
- 家族旅行
- 交通手段
- 鉄道 高速・路線バス タクシー 徒歩
- 旅行の手配内容
- 個別手配
-
アルハンブラ宮殿は、14ヘクタールあります。
王様は6km離れたダーロ川からここに水を引いて、「パラダイス」を造ろうとしました。畑もあります。アルハンブラの敷地には、街の名前グラナダ(ざくろ)とイチジク(豊穣を表す)とオレンジの木がたくさん植えられています。
アルハンブラ宮殿の東側に、「王女たちの塔」があります。
ワシントン・アーヴィング著「アルハンブラ物語」で、
美しい3人の王女が捕虜のスペイン騎士3人と愛し合うようになり、上の2人の王女は塔から縄梯子を使ってかけおちし、末の王女は最後の瞬間に思いとどまり、嘆きのうちに短い生涯を閉じる。というお話の舞台です。 -
むこうにいるのがガイドさん、イスラム芸術の専門家のようでした。一般の人と逆にコースを回っているので、行ったことがある人はへんだと思うかもしれません。
イスラム教は偶像崇拝禁止なので、アラベスク模様(イスラム美術の幾何学文様)が進化し、王への賛美・自然への憧憬などを込めていたと言われています。
アルハンブラには7つの宮殿があったと伝えられますが、今はナスル朝宮殿群の「コマレス宮」「メスアール宮」「レオネス宮」と、最も古いと言われる「パルタル宮」、計4つの宮殿と、谷を挟んだ離宮(ヘネラリーフェ)、砦(アルカサバ)が残っています。
アルハンブラ宮殿は、その優美さに反して、血塗られた歴史で覆われています。
ナスル王朝では、権謀術策、暗殺、王位簒奪、復讐‥‥が繰り広げられていました。最後の75年間には、王様は9人で、戴冠式は18回も行われています。
最後の王ボアブディルも、実父ハッサンを追い出して王位に就いています。 -
パルタル庭園:
「パルタル宮」を造った王は、実の弟に王位を奪われ投獄され、毒殺されました。
貴族の館やモスクがあったと言われています。
小さな庭がたくさんあります。整えられた綺麗な庭もありますが、手の入っていない所もあります。8月下旬なのに、バラの花が所々咲いていました。
客3人に、お付き2人(ガイドと、特別拝観の場所のカギを持った警備員)で、コースを逆に周っている私たちを、みんなが見るので、ガイドさんが「首相の家族だと思われているよ」と笑ってました。 -
「コマレス宮」アラヤネスの中庭:
左右の壁の小窓は「嫉妬の窓」と言われ、ハーレムの女性たちは訪問者を覗けても、姿をさらすことはできませんでした。
コマレス宮を造った王は、モスクで礼拝中、暴漢に刺し殺されました。
カルロス5世宮殿がない頃は、来訪者がこの中庭を通って、向こうに見える大使の間(コマレスの塔)へ行っていました。
インドのタージ・マハールに似ていますが、こちらの方が古いそうです。
「アラヤネス」は、左右に切りそろえられている常緑樹の名前です。一般的に「天人花」と訳されていますが、植物関係の本には「銀梅花」と訳している本が多いです。
銀梅(銀香梅、マートル)…学名:Myrtus communis。地中海沿岸原産。
披針形の葉、白い花。ユーカリに似た香りがし、香水スパイスに使う。
天人花…学名:Rhodomyrtus tomentosa。東南アジア・台湾の湿気の
多い森に生え、長楕円形の厚め葉、ピンク?紫の花。
後日記:アラヤネスとマートルの両方植えられているそうです。 -
イチオシ
←アラヤネスの中庭のアーチ 上の写真の向い側(カルロス5世宮殿側)
壁にデザインされているアラビア文字は、詩句や祈りの言葉で、 一番多い「神のみが勝利者なり。」は、書体や背景の模様を変え、縦になり横になり、繰り返し宮殿中に刻まれています。
グラナダは、過去に大きな地震が何度も起きています。アルハンブラ宮殿の柱の接合部には、鉛が入っていて、免震の為のクッションになっています。 -
「コマレス宮」大使の間:
アルハンブラで最も大きな部屋で、王はここで訪問客と対面しました。
イスラム王ボアブディルが、カトリック両王に屈して、グラナダを明け渡した場所として有名な部屋です。
木製の組み天井は、ヒマラヤ杉の8017個のはめ木細工で、宇宙(夜空)を表しています。下の方は鮮やかな幾何学模様のタイルになっています。
グラナダ王国は、すでにカスティーリア王国(キリスト教)に献納金を支払う同盟関係にありました。
しかし、熱心なキリスト教徒だったイサベル女王は、着々と準備をしていました。義勇兵や大砲をイタリア・フランス・イギリスから買い、1481年グラナダに攻撃を開始します。
グラナダを包囲されたイスラム軍は、11年後降伏します。
この美しい城を愛していたボアブディル王が、戦って城を壊してしまうより無血開城を選んだと言われていますが・・・・
本当は、出陣した際にキリスト軍の捕虜になってしまったボアブディル王が、キリスト軍の取り引きに応じて釈放してもらい、明け渡さざるをえなかったらしい。
1492年1月2日、戴冠してから18年後41歳のカスティーリァ女王イサベルと、アラゴン国王フェルナンドは、イスラム国家グラナダ王国を制圧し、約800年にわたったレコンキスタを完成させます。 -
表面は平らで白く、彫られた溝は彩色の跡があり、不思議な感じです。(もっと接写しないと見えませんね)
ボアブディル王は、王の住まいから最も遠い、アルハンブラ宮殿南側の、七層の塔の城門から、モロッコ(北アフリカ)へ去って行きました。グラナダの街が一望できる丘から市街を振り返って、涙を流すボアブディルに、母親アイシャは「男として、(国を)守り切れなかったからには、女のように泣くがいい。」と言ったという。この丘は「モーロ人の涙の丘」と名づけられています。
1496年、フェルナンドとイサベルは、イベリア半島から最後のイスラム勢力を駆逐した事が讃えられ、ローマ教皇から「カトリック王」の称号を授けられます。 -
特別拝観のバルコニーから写した、アルバイシンの丘。
アルバイシンとアルハンブラの間の谷は、狭いので、アルハンブラの夜景(昨日、この丘のレストランから見た)が、堪能できました。
もっと左にグラナダ市内があります。
この右には、サクロモンテの丘があり、遠目には白い家にしか見えなかったけど、奥は洞窟住居になっているそうです。今でもジプシーが暮らしているらしい。
もともとグラナダにあった歌や踊りを、洞窟住居にすむジプシーが自分たち流にアレンジしたのが、フラメンコの発祥と言われています。 -
「コマレス宮」と「メスアル宮」を隔てる壁
アルハンブラには、建物が女性となって語っている詩文が、たくさん刻まれています。
←正面壁面上部の黒い部分の詩文
「私は扉の上の、額がかぶった王冠。 私を見て、東は西をねたんでいる。 (私は光り輝いている。ここ西洋の栄光を、東洋ですら妬む。)
勝利を予感した王は、早くその扉を開けるようにと、私に促す。地平線に曙の光がさす時に、王がその麗しき姿を現すのを、私はいつもここで待っている。」
降伏文書では、イスラム教徒の自由・財産・武器の所有や、イスラム教施設を残すことを約束していたのに、約束は守られなかった。
1492年1月2日グラナダ陥落
同年3月30日異教徒に対してキリスト教への改宗か、さもなければ全財産を没収して国外追放、という方針を決定する。
→17万人のユダヤ人が国外に追放され、→国庫に余裕ができることになる。
→10年後にはイスラム教徒にも強制改宗を命じ、追放した。→多くは農民だったので、食糧難になった。20万人のイスラム教徒が改宗した。
同年4月、夫フェルナンドの反対を押し切って、(7年待った)コロンブスと契約(終身提督。純益の10%は彼の取り分など)を結んだ。→8月出航 -
←「レオネス宮」アベンセラヘスの間
「メスアル宮」を造った王は、いとこの愛人を奪って恨みを買い、刺し殺されました。
メスアル宮の(アルバイシンが見える)窓側には、メッカの方角を向き、崖に張り出した礼拝室がある。壁には「祈りを捧げよ。怠け者になるべからず」と彫られている。
キリスト教徒で初めてアルハンブラの主となったイサベルは、最も質素な宮殿「メスアル宮」に滞在した。
イサベラ以降何人もの王が改築を重ねた。メスアールの間では、壁のアラベスクを削って王の紋章をいくつもつけ、自分の名前を掲げ、現在の姿からイスラム時代の宮殿を想像するのは難しい。
イサベラは1つだけ、小さく「TANTOMONTA(2人は平等)」をアラベスク模様に埋もれるように彫っている。 -
←「レオネス宮」アベンセラヘスの間
「レオネス宮」二姉妹の間:
ハーレムだった所で、王妃が住んだ部屋とも一番の寵愛を受けた女性がいた部屋とも言われます。
イスラムは正妻は4人ですが、多いときは200人の女性をハーレムに囲っていました。
5416個の鍾乳石装飾(モカラベ)が緻密な計算によってはめ込まれた、幻想的な部屋。
イスラム教の預言者ムハンマドが弾圧から逃れて籠った洞窟を表す。
天井は八角形、ムハンマドを追っ手から守った蜘蛛の巣が再現されている。 -
←「レオネス宮」アベンセラヘスの間
アベンセラーへ一族は騎士階級の頂点に立つ誇り高い家系で、王はこの一族の族長に宰相に、親族を宮廷の要職につけて重用し、族長間の軋轢が絶えない要因となった。
アベンセラーへ一族のある騎士が王妃と恋に落ちてしまい、二人は密会を重ねたが、ある晩その騎士が後宮の壁をよじ登り、お后の住む部屋の窓から侵入しようとしたところを、運悪く人に見られてしまう。
それを知らされた王は怒り狂い、アベンセラーへ一族の騎士36人全員をライオンの中庭に集め、家臣に一人ずつ中庭に面したこの広間に連れ込んで噴泉の脇で首をはねさせた。その広間は「アベンセラーへ家の間」と呼ばれるようになった。 -
胸高までは、幾何学模様のタイルになっています。
宮殿のいたる所にあるタイルも、鮮やかできれいでした。茶色はあるけど赤がないのは、やはり柿右衛門のような赤が作れなかったのだろうか。
残念なことに、ライオンの中庭は工事中でした。
昔は金色だったという12匹の白いライオンたちは、狭い室内で放射状に並んでいましたが、撮影禁止でした。
ほんとにライオン? ひょうきんな顔をしたコロコロした犬のようでした。 -
優雅なイスラムの宮殿を出てきたら、こんなバカでかい建物が。
コルドバでは、モスクの中央にカテドラルを造ったのを見て嘆いたというのに、グラナダではこんな物造ってるじゃない
ガイド(美術の専門家みたいでした)とは、ここでさよなら。
「ゆっくり見て行ってください」と言われましたが、わからない英語を聞きながらだったので、けっこう疲れました。
カルロス5世宮殿:
イサベル女王夫妻の孫(1527年)カール5世が新婚旅行でアルハンブラ宮殿に泊まり、建設を命じました。
日本では、神聖ローマ皇帝としての名前「カール5世」を使いますが、ヨーロッパではそれぞれの国の言語で呼ぶので、スペイン語では「カルロス・キント」となります。スペイン王としては「カルロス1世」という名前があります。 -
←カルロス5世宮殿の中には丸い中庭があり、博物館が2つあります。さっきガイドさんと一緒に行った美術館は、どこだったんだろう?
(メモ)
カール5世(カトリック両王の孫)の時代から、スペインの黄金時代が始まります。
カール5世は、カトリック両王の娘フアナがハプスブルク家の嫡子(ネーデルランドの領主)フィリップ美公に嫁いで、1500年フランドル(現ベルギー)で生まれています。
両親(スペイン王家⇔ハプスブルグ家の二重結婚だった)は、1506年にカスティーリャ王位を継承するためスペインへ渡ったので、ネーデルラント総督になっていた叔母(スペイン王子と死別して母国へ戻った)に育てられ、優秀な人たちから帝王学を学びました。 -
スペインに渡って間もない父が急死したので、幼くしてブルゴーニュ公(ベルギー)となり、母方の祖父フェルナンド2世(イサベルの夫)が死去すると、16歳でスペイン国王を宣言しスペインに渡り、スペイン語を学んだ。(母語はフランス語)
精神を病んでいた母ファナ(1504年イサベルの死後、カスティリア女王)の代行者として、実質的に統治し、1526年ポルトガルの王女(母方の従兄妹)と結婚してポルトガルも手に入れる。
カール5世は、強大な兵力を率いて生涯ヨーロッパ全域を転戦した。
国内の税収や、南米から収奪された金銀は、スペインの為ではなくハプスブルク家の進める戦争の為に諸外国に流出した。
また、1517年ルターがカトリックの腐敗や免罪符の乱発を批判して始まったプロテスタント運動は、たちまち欧州中に広がるが、その興隆を食い止められなかった。
晩年は、長年の痛風や、新大陸も含む広大な領土の統治と相次ぐ戦争に疲れて自ら退位し、2年後(1558年)58歳で亡くなった。 -
ガイドさんに、「ヘネラリーフェは似ている」と言われたので、疲れていて行きませんでした。 (-_-;)
その時は、効率的に見られて(それでも3時間です)、満足だったのですが、今考えると、せっかくのアルハンブラ宮殿を、もったいない見方をしてしまった。
パラドールのレストランで昼食をして、帰りました。
イサベルが建てさせた聖フランシスコ修道院を改装して造られました。
イサベルはこの修道院に埋葬するよう遺言を残し、セゴビア近くの小さな町から、ここに運ばれました。
夫フェルナンドも、妻と共にグラナダに埋葬するよう遺言し、王室礼拝堂ができるまで(20年近く)ここに安置されていました。
修道院の一部が残っていて、イスラム建築のアーチの下に、イサベルの遺言どおり、床の石に墓標を刻むだけになっているそうです。 -
ホテルで休憩して、カテドラルに行きました。
モスクの跡地に建設された、イタリアルネッサンス様式をスペイン風にアレンジした、プラテレスコ様式。
ステンドグラスは、当時の王カール5世の故郷フランドル(ベルギー西部)で作られました。
天井の近くに窓があって白壁なので、明るい教会です。
どうして王室礼拝堂に娘ファナ夫婦も眠っているのか?
イサベル46歳の時、唯一の男子は、フィリップ美公の妹(後にカール5世を育てた人)と結婚してまもなく亡くなり、その子も妊娠中に死亡。
ポルトガルに嫁いだ長女もその翌年亡くなっていたので、(その息子も死亡)
1501年カスティーリャの王位継承者に指名されたのは、フランドルに嫁いでいた次女ファナ(カール5世の母)だった。
ファナは、ハプスブルク家の嫡子(ネーデルランドの領主)フィリップ美公(父は、神聖ローマ帝国を多民族国家に発展させたマクシミリアン1世)に1496年嫁いでいたが、女好きの夫に嫉妬し、精神状態が不安定だった。(イサベルの母も精神疾患だったので、遺伝の可能性がある)
1504年母イサベルは、精神を病んだ娘を心配して長い遺書を残して死去。
ファナはカスティーリャ王位を継承し、夫婦でスペインへ渡るが、精神を病んで養育できる状態でなく、4人の子供はフランドルの叔母(夫フィリップ美公の妹)に育てられた。
1506年ファナは、夫フィリップ美公が急死すると、精神の錯乱をおこして、夫の棺を馬車に乗せ遺骸を眺めて、787日間国内をさまよう。
父フェルナンド2世によって修道院に幽閉され、死ぬまで退位を拒み、46年後(1555年)生涯を閉じた。 -
娘「こんな豪華な建物ばかり見ているヨーロッパ人が日本に観光に来て、おもしろいんだろうか?」 確かにね〜
(カール5世の)弟フェルディナント1世は、スペインで生まれ育った。(母親ファナは精神に異常をきたしていたので、祖父フェルナンド2世に育てられた。)
1516年に兄カール5世とトレードされる様な形でオーストリアへ趨き、ハンガリー・ボヘミアの王女と結婚してその領土も手に入れる。
2人の兄弟は、広大な領土を統治するために、生涯を戦いに明け暮れた。
カール5世はイタリアのパヴィアでフランス軍を破り、
フェルディナント1世はオスマントルコ軍による第一次ウィーン包囲を押し返した。 -
スペインハプスブルク家は1700年血脈が途絶えて、フランスブルボン家に王位が渡ったが、
弟フェルディナント1世を祖とするオーストリアハプスブルク家は、1918年まで続いた。(第一次世界大戦の敗戦で、最後の皇帝カール1世が亡命、共和国となる。)
イサベル女王は、奪還したイスラム宮殿を壊さず、アルハンブラに埋葬するよう遺言している。アルハンブラを愛したのは、ボアブディルよりイサベルの方だったのかもしれない。 -
カテドラルを出て右側を右折すると、王室礼拝堂があります。
入口と窓がアーチ形になった、トルダノ様式。
カトリック両王と娘ファナ夫婦(カール5世の両親)の霊廟(大きな棺)がある、小さな教会です。
質素な墓を希望したイサベル女王でしたが、立派な墓でした。地下には、本当の棺がありました。
跡を継いだカール5世は、息子フェリペ2世が造ったエル・エスコリアル修道院(世界遺産、マドリッドから1時間)で、歴代の王とともに眠っています。
王室礼拝堂の向かい(写真の左横)に、アルカイセリアがあります。アラブの小さいみやげ店がたくさん並んでいました。 -
21:00を過ぎたので、タクシーでRENFE駅に向かいました。
タクシーのおじさん、日本のガクトの漫画のファンだそうで、
フロントガラスにそのシールを貼っていました。(日本に、ガクトが主人公の漫画なんてあります?)スペインでも、漫画は「マンガ」と言うんですね。降りる時に、「サヨナ~ラ」と言ってくれました。
21:57発の夜行寝台で、バルセロナへ向かいました。
→グラナダの修道院ホテルと展望レストランは、「⑦コルドバと、グラナダの夜景」
→イサベラの生い立ちは、「③セビリア」
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この旅行記へのコメント (2)
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- グラナダさん 2012/02/20 21:31:15
- もう一度と言わず
- 何度もグラナダに行って下さい!もっともっとグラナダの良さが分かります。私が好きなのはヘロニモス修道院なのですが、観光ルートから外れているので観光客があまりいません。メジャーなスポットだけを見て評価をするのは一度目で、二度目からは隠れ穴場を目指して下さい。もっともっとグラナダを大好きになります。来年に又行く予定を立てて現在進行形です。
自称私設グラナダ観光大使
- prinprinさん からの返信 2012/02/21 13:47:29
- RE: もう一度と言わず
- グラナダさん、こんにちわ
スペインの歴史に惹かれて書き散らした旅行記に来ていただいたようで、恐縮です。
サンヘロニモス修道院、きれいなようですね。「歩き方」に載ってないので、知りませんでした、次回はぜひ行ってみたいです。
またスペインに行かれるんですか。いいですねぇ〜
夫のマイレージが溜まっているので「アンダルシアだけでも」「(メスキータが面白かったので)イスタンブールでもいいよ」と誘うのですが、
「休めない」「予定が立たない」「一人で行ってみろ」と言われて、
英語もできない私は、二の足を踏んでいます。
今朝、夫はロンドン出張に出かけて行きました。またマイレージが溜まります。フフフ・・・・
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