2011/08/24 - 2011/09/07
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prinprinさん
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セビーリャ2日目 ↑
月曜なのでアルカサルは休みのはずですが、なぜか開いていました。
セビーリャは、人口70万人。
ローマ時代には、既にこの地方の中心都市のひとつでした。
8世紀〜12世紀イスラムの支配下にあり、
13世紀に入り、イスラム教徒の統治力が衰えて、内戦が頻発、
1248年カステーリャ王国軍(キリスト教)が、セビーリャを奪還しました。
追放されたムーア人はグラナダ領に逃げ、240年間のグラナダ王国の歴史を助けた。
1492年グラナダでレコンキスタ(キリスト教徒による再征服活動)が完了したのと同じ年、
コロンブスが新大陸(カリブ海・サン・サルバドル島)を発見。
アメリカ大陸への拠点となって、新大陸との交易を独占(1503年)し、
ペルー・メキシコの銀を運んで、17世紀初頭まで栄えた街です。
アメリゴ・ヴェスプッチ(イタリア人)は1497年セビーリャから船出し、
1519年マゼラン(ポルトガル人)も、カルロス5世の援助を受け5隻の船を率いてセビーリャを出航、地球が球体であることを実証した。
今日は、泊りもセビーリャなので、丸1日あります。
娘は、セゴビアが寒かったので風邪をひいたようで、「寝ている」と言うので、夫婦2人で出かけました。
- 旅行の満足度
- 5.0
- 観光
- 5.0
- ホテル
- 5.0
- グルメ
- 4.5
- 交通
- 4.5
- 同行者
- 家族旅行
- 交通手段
- 鉄道 タクシー 徒歩
- 旅行の手配内容
- 個別手配
PR
-
まず、コイン・ランドリーに行きました。
ホテルで教えてもらったヌエバ広場の南には、いくら探しても無く、
ヌエバ広場のツーリスト・インフォメーションで教えてもらって、シェルペス通りの北東まで歩いて行くことになりました。
ここでも何人ものスペインの人に親切にしてもらいました。
最後に道を訊いたおばあさんは、私たちが曲がる角を間違えないか見届けてくれて、「そこじゃないよ」と声をかけてくれました。
LAVASOL(Pasaje Los Azahares通り)、すごい入り込んだ所にある小さな店でした。
←ヌエバ広場、像はセビーリャを奪還したフェルナンド3世(1201~1252) -
←ヌエバ広場前の市庁舎(裏側)は、こんなに豪華です。
ランドリーのおじさんが「1hour」と言ったので、朝食に行きました。
すぐ近くに小さな広場があって、テラス席でたくさん人が食べていました。ハムサンド2つ、コーヒー、生オレンジジュース、全部で4.90ユーロ! おいしかったです。
この町には、所々に物乞いがいます。
朝食の間に、紙コップを持った物乞いがやって来て、
「??セニョール」と言っても、夫は「やらない」と言って無視します。私が首を横に振ったら、あっちに行きました。
もう1人、女の物乞いも来ました。
怖い感じはしないんだけど、やって良いんだか悪いんだか、困りました。 -
ついでだから、シェルペス通りを歩いて帰ることにしました。
街一番の繁華街だそうですが、そんなに大きくない歩行者専用道でした。
歩いて7分で終わります。 -
こんなクラシックな街を、モダンな路面電車が通っていました。電線もないので空が広い。
←カテドラルの裏側 -
カテドラル:
入口に、ヒラルダの塔のてっぺんにあるのと同じ、
ローマ時代の衣装を着た(信仰の勝利を象徴する)女性像があります。像だけで4メートルです。
塔の上のこれが、風で回る(Girar)ので、ヒラルダ(風見)の塔と言われるそうです。
こんなデッカイ物、どうやって上げたんだろう?
1248年フェルナンド3世がセビーリャを奪還した後、153年間、大モスクをキリスト教会として使いましたが、
1366年に起きた大地震で大モスクも被害を受け、
1401年から、モスクの土台の上に、このカテドラルを建設しています。 -
セビーリャのカテドラルも、豪華キンピカです。
世界第3位の面積を誇る聖堂です。トレドのカテドラルより少し大きい感じ。
セビーリャ第2の美術館と言われるだけあって、ムリーリョ、ゴヤなど絵画もたくさんあります。
手前左で数人覗き込んでいる所は、コロンブスの墓石のようでした。
ジェノヴァの商人コロンブスは、
1484年西周りインド航路を開拓しようとポルトガルに航海の援助をもちかけたが、既にアフリカ航路を開拓しアフリカ南端まで今一歩に迫っていたポルトガルはこれを拒否した。
1486年コロンブスはカトリック両王に謁見した。
6年後の1492年1月グラナダでレコンキスタを完了すると、3月異教徒に追放令を出して財産を没収。
4月ポルトガルに遅れをとっていたスペインはコロンブスとスペイン王室は契約を交わし、8月帆船3隻でアンダルシアのバロス港から西に出港、10月カリブ海バハマ諸島に到着し、西回りインド航路を発見したと宣言した。
帰国したコロンブスはセビーリャに立ち寄り、市民から熱狂的な歓迎を受けています。
船に乗ってない時はほとんどセビリアで過ごしましたが、この大聖堂はまだ建設中で、彼の死後13年して完成しました。 -
大きなコロンブスの墓もあります。
4人のスペインの王国(カスティーリャ、レオン、ナバラ、アラゴン)の服を着た王の使者に担がれていて、棺には遺灰が収められています。
コロンブスは、計4度新大陸へ航海に出たが(1492~1504)、偏屈な性格から、航海を重ねる度にトラブルが続き、植民地総督の地位も解任された。
コロンブスがアメリカ大陸を東アジアであると考えたのに対し、1501年アメリゴ・ヴェスプッチがアジアとは別の「新大陸」であると主張すると、コロンブスは詐欺師呼ばわりされ、不遇の内に54歳の生涯を終えた。
遺体は一旦セビリアで葬られた後、植民地を含む各地を転々として1902年ここに葬られた。 -
豪華な格子に囲まれた内陣に、世界最大の木製祭壇があります。3トンの金を使って塗装されたと言われています。
刻まれているのは、キリストの生涯の数々の場面。
どうして大航海時代が起こったのか?
まだ肉・魚の保存技術が発達していなかったヨーロッパ人は、11世紀十字軍の遠征などによって、コショウの存在を知る。
香辛料はインド商人、アラビア商人、イタリア商人と多くの仲買人を経て運ばれて、末端価格は銀と等価ほどの高値になったため、ヨーロッパ人は香辛料をインドから直接安く買おうと考えました。
15世紀終わり、約200年前に書かれたマルコ・ポーロ「東方見聞録」が大いに読まれて、アジアへの関心が高まった。(黄金の国ジパングなど)
また、それまで常に陸地が見える所を航海していたのが、羅針盤の改良で遠海航法が確立されてきた。
しかし、地球球体説もとなえられるようになったとはいえ、まだ南下して行くと海はぐつぐつと煮え立っていて、船も人も燃え尽きてしまうと思われていた。
そういう船乗りたちを、励ましたり脅したりしながら冒険に出たのです。 -
聖具室は、壁が白くて明るいです。銀の大きな宗教用具がたくさん、ここも「どーだ!金あるぞ~」って感じ。
南米を支配していたスペインは、先住民や後には黒人も奴隷にして、満足に食事も与えず銀を掘らせた。
アンデス山脈ポトシ(標高4000m、現在はボリビア)は、1545年(カール5世の時代)発見され、17世紀半ばまで世界の銀の半分を産出していた。
持ち込まれた天然痘など伝染病により、280年間のスペイン統治時代に800万人が命を落としたと言われている。
当時の銀鉱山セロ・リコは枯渇し、今はスズが採掘されている。
現在モスクの名残を留めているのは、ヒラルダの塔とオレンジの中庭だけです。
オレンジの中庭:
文字どおりオレンジの木がたくさん植えてあり、中央の噴水から、木につながる細い水路が、縦横に掘ってありました。 -
セゴビア、トレドに続いて、3つ目のカテドラルなので、もう違いが判らない。
とはいえ、日本にはこんな教会は1つもないと思います。東京・目白の東京カテドラル(日本カトリックの総本山)ですら、殺風景なもんです。
この時代、既にイタリアが陸からの交易の主要を全て牛耳っていました。
スペインより早くレコンキスタを完了したポルトガルは、
1415年北アフリカへ乗出し、1445年西アフリカで金や奴隷の交易を行った。
半世紀の遅れをとったスペインは、グラナダでレコンキスタが完了した1492年、西からインドをめざした。
コロンブス新大陸発見の6年後、1498年ポルトガルはアフリカ南端を経てインドに到達した。
1500年にはインドに渡る途中でブラジルに漂着し、このことから南米でブラジルだけがポルトガル領となる。
1510年にはインドのゴアを占領して根拠地とし、
1513年にマカオに到達し、明との交易を開始した。
1543年室町時代後期(戦国時代)に日本の種子島へ漂着、鉄砲を伝えることになった。
1549年には、イエズス会創設メンバーのフランシスコ・ザビエルが日本にキリスト教を伝え、2年3ヵ月布教活動を行った。 (カトリック・イエズス会は、プロテスタントが拡大するなか創立され、世界宣教をテーマにしていた)
1557年ポルトガルはマカオの居住権を獲得し、極東の拠点とした。→1999年中国へ返還された。 -
ヒラルダの塔に登りました。(高さ98m)
長~いスロープ(上がるにつれて狭くなっています)と、17段の階段で、この階段から上の26mがカトリックの鐘楼になる時付け足した部分です。
やっとセゴビア・アルカサールの筋肉痛が治ったのに、また坂かい (^^ゞ
12時に頭上の鐘が鳴るというので狙っていましたが、13時になってしまった。
展望台のある70メートルまでが、モスクのミナレット(イスラムの祈りの時を伝える)だった部分で、
そこから上の鐘楼部分は、1568年キリスト教徒によって付け加えられました。 -
市街が一望できます。
セビーリャには山も高い建物もありません。
黄金の塔と、グアダルキビル川(アラビア語で偉大なる川)が見えます。
黄金の塔(13世紀建てられた頃は、黄色のタイルが陽に輝いた)は、昔は対岸にも塔があり、太い鎖が張られて、船の侵入をコントロールしていました。
あの上流に、明日行くコルドバがあります。
セビーリャは、海から100km以上も内陸にありながら、大型船が行き来できました。
ローマ帝国時代には、ジュリアス・シーザー(BC100〜BC44)の支配下で港湾設備が整備され、
800km北のカンタブイアンから「銀の道」を使って運んできた金銀や、その途中の農産物を、川を使ってローマに運んでいました。 -
イチオシ
カテドラル前の広場で、たすきをかけた美女たちが、写真を撮っていました。ドレスもフラメンコ風。
ビゼーの「カルメン」もこんな美人だったのかしら。
ロッシーニの「セビリアの理髪師」、モーツアルトの「フィガロの結婚」「ドン・ジョバンニ」も、セビリアが舞台です。 -
インディアス古文書館
大航海時代の資料を収蔵しているというので、期待していたのですが、本当に収蔵しているだけで展示はありませんでした。
銀の大量流入により、ヨーロッパでは急激なインフレが起き、銀貨1枚で買えたものが、次の年には3枚、その次には6枚出さなければ買えない状況でした。
これによって最も打撃を受けたのが、地代収入に頼っていた封建貴族で、地代として支払われる銀貨の価値が暴落して、没落していきました。
その代りに新しい主役として登場したのが、企業家的な商工業者(ブルジョア)で、資本主義の原型を作り上げていきました。 -
カテドラルの入場券に、サルバドール教会の無料券が付いていたので、行ってみました。
カテドラルよりずっと小さいですが、コッテリです。
柱の模様が幾何学的でめずらしかた。 -
タクシーで、スペイン広場:
タクシーから降りて2分歩くと、タイルで飾られた、半円形の公園に出ました。 -
テレビの取材班が、たくさんいました。
正面入り口で、アラブ人たちが、将軍の写真をかざして、軍用車に乗った兵隊たちを讃えています。
アラブの王様でも来ているのかと思って、取材スタッフに「どこの国旗?」って訊いたら、
「フェイク」だと言われました。 映画の撮影でした。 ナ〜ンダ
おかげで、タイル絵のベンチのある公園に入れませんでした。 -
タクシーでカテドラル(ホテル・ドニャ・マリア)に帰ってきたら、
アレッ!月曜なのにアルカサルが開いてる。
入ってみることにしました。
ホテルの名前「ドニャ・マリア」は、このアルカサルを修復したペドロ1世の妻マリア・デ・パディーリャ。 (ドニャDONAは、貴族などの女性の名前に冠される尊称。男性はDON)
貴族出身の侍女だったが、王の結婚前からの愛妾で寵愛され、結婚後すぐ幽閉されていた正妃ブランシュ(フランス王族の娘)が7年後病死した後、正式に結婚し王妃となった。
セビリアを奪還した時破壊したアルカサルを、現在の形に改築したのは、カスティーリャ王ペドロ1世(ドニャ・マリアの夫)です。 -
「ペドロ1世宮殿」
キリスト教徒の支配下でイスラムとキリストの建築様式を融合させた「ムデハル様式」の最高傑作と言われる。
壁の彫刻は、イスラムの幾何学模様に混じり、ペドロ1世の紋章である城とライオンが描かれています。
入り口2階上部の青い模様は、イスラム教徒が祈りの言葉をアラビア文字で建物に刻むように、「最高位、最高貴、最強なる征服者カスティーリアの王ドン・ペドロがこれら宮殿の建設を命じた」とゴシック文字で書かれています。
元々イスラム王室の居城であったアルカサルは、
1248年カスティーリャ王フェルナンド3世がセビリアを奪還し、
以後、カスティーリャの歴代国王が使用し、レコンキスタ(1492年グラナダで達成)の前線基地になりました。
今でも、スペイン王室がセビリアに滞在するときは、ここに泊まるそうです。 -
ペドロ1世は、「ターバンを巻いていないスルタン」と言われるほどイスラム文化が大好きで、国中から職人を呼んでセビリアのアルカサルを造らせました。
最後のイスラム教国グラナダは、既にこの時代、カスティーリャ(キリスト教国)へ貢納をする同盟関係にあり、ペドロ1世も行ったことがあるようです。
手に入らないアルハンブラ宮殿を夢見たのでしょうか。
よく見れば、イスラム教が禁じる人物や動物、剣を持った王、カスティーリャ王国の紋章があるそうです。
注 : この時代、イベリア半島に「ペドロ」王が3人います。 欧州の王様の名前、めんどくさいです。 -
いろいろな様式の庭園があって、どれもきれいでした。
砂漠の民であったイスラム教徒にとって、水は天国を意味します。
ペドロ1世は、嫡子でありながら、父王に遠ざけられて育ち(王妃だった母が、夫と不仲だった)、
1350年(室町時代初期)15歳で即位しました。
異母兄弟(父の庶子)たちは、敵国(アラゴンやフランス)へ逃亡して対抗し、のちに母からも裏切られました。
ペドロ1世は、隣国アラゴン(バルセロナ・バレンシア・サラゴサ)との戦争を繰り返します。 -
←庭の中にあった一室
残酷な行為は、中世の王たちの慣習でしたが、
王権強化を目指すペドロ1世は、対立する親族や貴族の特権を取り上げ処刑したので、「残酷王」と呼ばれました。
逆に、貴族の圧政に苦しむ商人・職人・ユダヤ人に対しては公正だったので、「公正王」「正義王」とも言われました。
既得権を守りたい有力貴族はペドロ1世に反発し、王位継承権をめぐる争いに発展します。
(ペドロ1世、グラナダ、イングランド)対(庶子兄エンリケ、アラゴン、フランス)の争いとなり、戦乱が拡大する。
1369年ペドロ1世は34歳の若さで戦死し、庶子であるが故に王位を継げなかった異母兄エンリケ(エンリケ2世)がカスティーリャ王に即位しました。 -
「大使の間」
イスラム教の天井は、「宇宙」を表している。
←壁の最上部には、カスティーリャ王国の歴代の王の肖像画が取り囲んでいる。その中には、イサベル女王ではなく、夫フェルナンド2世が描かれている。
部屋が多いので、出口がわからなくなってしまいました。
1614年に、伊達政宗の命により慶長遣欧使節団を率いて、メキシコ(スペイン領)経由でやって来た支倉常長は、セビリアのアルカサルに1か月滞在しています。
伊達政宗は、西国大名や堺商人が行っていたアジア経由のポルトガル貿易に対し、(幕府がキリスト教弾圧を強める中、仙台藩での布教容認し、)太平洋経由のスペイン貿易の交渉を始めたのです。
しかし、幕府の厳しいキリシタン弾圧が原因で、交渉は成立しませんでした。 -
←「乙女の中庭」です。
「漆喰の中庭」だけが、レコンキスタ以前にイスラム教徒によって12世紀建築された所です。
あさって行く「アルハンブラの妹」というので、あまり期待してなかったけど、
アルハンブラに比べれば小さいので、きれいな形で残っています。 -
せっかくマリア信仰が厚いセビリアに来たのですから、マカレナ教会堂に行きたかったのですが、疲れたし、19:00になったので、取り止め。
近所の「ロブレス・タパス」に行きました。
系列のお店が3軒並んでいます。
左奥は、タパス&レストラン、日本人のウェイターがいました。
右奥が、「ロブレス・タパス」。カウンターを覘いてみましたが、時間が早かったせいか種類が少ないのでやめました。
昨日もお客さんがたくさんいた、手前真ん中(三角地)の、パエリヤ店「Pizzeria Dna Francisquita」 のテラス席にしました。
イカ墨のパエリヤ、パスタのパエリヤ(味は、日本の蕎麦めし)。
「フンギ(きのこ)」を頼んだら、きのこがちょこっと入ったクリームパスタが来ました。3人で67.2ユーロ
明日は、8:00発のRENFEなので、早く寝ました。
(ホテル・ドニャ・マリアには、ヒラルダの塔を見ながら飲める、屋上プールがあるのを忘れていました。)
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この旅行記へのコメント (7)
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- しゅんたまさん 2013/07/25 13:33:37
- スペイン旅行記、参考にさせていただきます!
- prinprinさん
はじめまして!
2週間後にスペイン周遊旅行を予定しています、しゅんたまと申します。
ちょうどセビーリャの滞在がprinprinさんと同じ日曜で、ホテルがドニャマリアでしたので、思わず書き込ませていただきました。
参考になる旅行記をありがとうございます。
またゆっくり立ち寄らせていただくかと思いますがよろしくお願いいたします。
しゅんたま
- prinprinさん からの返信 2013/07/25 17:15:36
- RE: スペイン旅行記、参考にさせていただきます!
- しゅんたまさん
初めまして。
ご結婚おめでとうございます。
新婚旅行でクルーズなんて、すてきですね。
私は、スペインでイスラム建築が素晴らしかったのと、
ビザンツ帝国(東ローマ帝国)から贈られた(?)コルドバのメスキータ(モスク)の装飾がきれいだったので、
去年はトルコに行ってきました。
イスタンブールは、オスマン帝国になる前はビザンツ帝国(正教会)の首都で、
第4次十字軍(カトリック)の時、ベネチアにお宝をごっそり持っていかれました。
サンマルコ寺院の4頭の馬像もその1つです。
サンマルコ寺院はビザンツ建築で有名なので、次はベネチアに行きたいと考えていました。
スペイン、面白かったですよ。
イタリアほどスリは多くない感じでしたが、とはいっても気を抜かず、スペイン楽しんで来てください。
- しゅんたまさん からの返信 2013/07/25 23:24:14
- RE: RE: スペイン旅行記、参考にさせていただきます!
- prinprinさん
ご返信ありがとうございます!
トルコ、私も行きたい国のひとつなのでうらやましいです!
トルコの旅行記も今度ゆっくり拝見させていただきますね。
歴史がわかると、旅がより一層楽しくなりますよね。
そして、旅行に行くと歴史を勉強したくなります。
prinprinさんはとても歴史にお詳しいようなので、すごいなぁと思って旅行記を拝見していました。
スペイン旅行は欲張ってかなり詰め込んでしまったので、体力的に心配ですが
スリにあわないよう、気を引き締めて楽しんできたいと思います。
しゅんたま
-
- Mirabellaさん 2011/09/26 23:15:55
- スペイン広場の写真がきれい
- prinprinさん、こんばんは。
スペイン広場の写真、良いですね!
私が行った時は工事中で広場の中央部には入ることができませんでした。
今は水路も水が流れているようで、とっても良い雰囲気です。
ちょうど友人が旅行中でスペイン広場の写真をアップしていたけど、地面のタイルも美しくリニューアルされてますね。
prinprinさんはテレビの撮影にかちあったようですが、地面は見ることできました?
フラメンコ衣装の女性に出会うなんて、セビージャらしっくって良いな♪春祭りも一度見てみたいイベントです。
Mirabella
- prinprinさん からの返信 2011/09/27 19:29:48
- ありがとうございます。
- Mirabellaさん、こんにちわ。
他のかたの旅行記を見ると、スペイン広場きれいなようですね。
私は、門の中には全然入れなかったので、タイルを張り替えた地面まで行ってないんだと思います。
前にUPした旅行記を、ちょこちょこ書き直しているので、なかなか進みません。
「?セビーリャ1日目」 ムリーリョの絵が「無原罪の御宿り」じゃないことが判明しました。
「?セビーリャ2日目」 アルカサルの解説を加えています。(説教臭くなるかもしれないけど)
そのうち、また読んでやってください。
-
- churros さん 2011/09/25 09:28:46
- !Hola! amiga Buenos dias
- prinprinさん、おはようございます。
セビージャ編を拝見させてもらいました、スペインも大都市に行くとメンディーゴ(乞食さん)が居ますね、その都市その都市によって少しずつメンディーゴの質が違いますが、大きく分けて2種類有るみたいですね、prinprinさんの会われた物乞い(コップに小銭をカランカラン)タイプ、と神の御加護タイプと大きく分かれます。
両者共人畜無害で御主人のされた様に「ノー」の一言で去って行きます、神の御加護タイプはプライドの高い正に「乞食さん」と呼べる方々です、お恵みを頂いても絶対「グラシアス」とは言わない、なにがしかのお恵みをあげると、上から目線で「あなたの神の御加護が有りますように私から神にお願いしてあげます」趣旨のお言葉が頂けます。
文化の違いってすごいですよね〜、最初メンディゴさんに会った時は、上から目線に思わず私が「グラシアス」と言ってしまいました、メンディーゴは無視に限りますね、次回スペインに行かれた時にはマドリーのメトロの中で、背広を着た神の御加護タイプのメンディーゴと会われる事をお奨めします(最高ですよ)。
churros
- prinprinさん からの返信 2011/09/25 17:33:08
- RE: !Hola! amiga Buenos dias
- churrosさん、ありがとうございます。
そういえば、日本にも乞食坊主みたいなのがいましたね。幼いころ祖母の家に行くと、家の前でお経をあげて、小銭をもらう袈裟姿の人がよくいました。
背広姿じゃありませんでしたけど、ありがたいと思わせるのは、いいやり方でしょうね。
セビリアは2泊しても見切れなかったし、
イスラム風、キリスト教会、ユダヤ人街、スペイン広場も入れなかったし、闘牛も見たいし、ロス・ガリョスもまた行きたいし。
またヨーロッパに行く時は、できればフェリアを狙って、セビーリャだけでも、
できればコスタ・デル・ソルでリゾート……セビーリャ、良いですよね。
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