2008/06/21 - 2008/06/21
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ドクターキムルさん
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大塔宮(おおとうのみや)護良親王(もりながしんのう)は後醍醐天皇の第三皇子で、天皇とともに鎌倉幕府を倒し建武中興を実現したが、その後、足利尊氏と対立し、捕えられて東光寺に幽閉され、建武2年(1335年)の中先代の乱のさなか、混乱の中で足利直義(尊氏の弟)の命により、家来(淵辺義博)によって殺害された。明治2年(1869年)になってから、明治天皇の命により、建武中興に尽力した護良親王を祀る神社として鎌倉宮が東光寺跡の現在地に造営された。大塔宮と呼ばれたのは、京都東山岡崎の法勝寺九重塔(大塔)周辺に門室を置いたとみられることに因るとも、11歳で比叡山延暦寺の大塔に入室したことに因るとも伝えられている。
護良親王墓は鎌倉宮より奥に入った「理智光寺跡」にある長い階段を上った山の頂に営まれている。また、護良親王の御子の日叡上人により妙法寺裏山山頂にもお墓が建てられている。どちらもお参りしたが、いずれにも宮内庁管理の立て札は見つけられなかった。妙法寺裏山山頂のお墓には宮内庁管理の立て札がないのは当然としても、「理智光寺跡」にある山頂のお墓の前に鳥居がないのは不可解だ。それでもお墓の扉には菊のご紋が輝いていており、中には五輪塔が建っていた。後醍醐天皇の第一皇子の尊良親王も足利尊氏方に攻められて越前金ヶ崎城に篭城したが、建武4年(1337年)に落城し、自害した。尊良親王墓には鳥居が建っている。理智光寺は明治の廃仏毀釈で廃寺になったのであるから、その跡地に建つ護良親王墓も、おそらくは、明治以降に整備されたものであろう。650年前に建てられた妙法寺裏山山頂の供養塔と思しきお墓の方が500年以上も古いということだろう。
なお、横浜市戸塚区柏尾には、護良親王の首を洗い清めたとされる井戸と、護良親王を祭神としている王子神社があり、護良親王の首を密かに王子神社本殿の位置に埋葬したと伝えている。
(表紙写真は護良親王墓)
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