成都旅行記(ブログ) 一覧に戻る
杜甫草堂は成都の市街地にあり、かつて杜甫が4年間ほどをここで過ごし、多くの詩を詠んだところである。杜甫は「詩聖」と讃えられる、唐の時代の中国を代表する詩人である。唐の玄宗皇帝の先天元年(712年)に河南省の裕福な家に生まれ、代宗の大歴5年(770年)に失意の中59歳で亡くなった。杜甫は朝廷に仕えることをずっと望みながら、安史の乱(安禄山の乱)の戦乱もあり、大きな官には就けず、一生を貧乏と苦労と失意と流浪のうちに過ごした。どん底の生活や囚われの身も体験し、庶民の視点で庶民の苦しみや悲しみを詠んだ詩や国を想う詩が多く、現実主義の詩人と言われ、その詩は「詩史」とも言われて現在1400首余りが伝えられている。<br />

成都の杜甫草堂

13いいね!

2009/06/17 - 2009/06/17

296位(同エリア984件中)

旅行記グループ 四川省の旅・九寨溝・成都

0

35

中国の風景

中国の風景さん

杜甫草堂は成都の市街地にあり、かつて杜甫が4年間ほどをここで過ごし、多くの詩を詠んだところである。杜甫は「詩聖」と讃えられる、唐の時代の中国を代表する詩人である。唐の玄宗皇帝の先天元年(712年)に河南省の裕福な家に生まれ、代宗の大歴5年(770年)に失意の中59歳で亡くなった。杜甫は朝廷に仕えることをずっと望みながら、安史の乱(安禄山の乱)の戦乱もあり、大きな官には就けず、一生を貧乏と苦労と失意と流浪のうちに過ごした。どん底の生活や囚われの身も体験し、庶民の視点で庶民の苦しみや悲しみを詠んだ詩や国を想う詩が多く、現実主義の詩人と言われ、その詩は「詩史」とも言われて現在1400首余りが伝えられている。

旅行の満足度
5.0
観光
5.0
ホテル
5.0
グルメ
5.0
ショッピング
5.0
交通
5.0
同行者
一人旅
交通手段
鉄道 高速・路線バス
旅行の手配内容
個別手配

PR

  • 759年の暮に杜甫は安史の乱を避けて、友人を頼って家族と共に長安の都から成都に移り住んだ。<br />

    759年の暮に杜甫は安史の乱を避けて、友人を頼って家族と共に長安の都から成都に移り住んだ。

  • 風光明媚な浣花渓(かんかけい)のほとりに茅屋を建て「草堂」と呼び4年近く住み、草木を植え野菜を作り、釣りをしたり交友を楽しみながら240余首の詩を詠んだ。<br />

    風光明媚な浣花渓(かんかけい)のほとりに茅屋を建て「草堂」と呼び4年近く住み、草木を植え野菜を作り、釣りをしたり交友を楽しみながら240余首の詩を詠んだ。

  • 成都で暮らした4年間は杜甫にとっては最も落ち着いて充実した暮らしのできた時期であった。<br />

    成都で暮らした4年間は杜甫にとっては最も落ち着いて充実した暮らしのできた時期であった。

  • その後成都を離れたが、故郷に帰れることはなく流浪の果てに、湖南省で住みかとした小舟の上で病死した。<br />

    その後成都を離れたが、故郷に帰れることはなく流浪の果てに、湖南省で住みかとした小舟の上で病死した。

  • 杜甫の死後早くも唐の末期から偉大な詩人を記念するためその旧居跡に草堂が建てられ、その後10回以上も建て替えや拡張整備がなされ、明と清の時代には大幅に拡張整備されてほぼ現在の形になった。<br />

    杜甫の死後早くも唐の末期から偉大な詩人を記念するためその旧居跡に草堂が建てられ、その後10回以上も建て替えや拡張整備がなされ、明と清の時代には大幅に拡張整備されてほぼ現在の形になった。

  • 清末以後荒廃したが、新中国の成立以後整備が進められ、1955年には「杜甫草堂博物館」となり、1961年には全国重点文物保護単位(重要文化財)に指定された。

    清末以後荒廃したが、新中国の成立以後整備が進められ、1955年には「杜甫草堂博物館」となり、1961年には全国重点文物保護単位(重要文化財)に指定された。

  • <br />北門の横には2001年に新たに発掘調査で発見された唐の時代の民家の遺跡があり、保存展示されている。数棟の家屋と庭や井戸などからなり、この遺跡の民家の雰囲気や建物の様子は、杜甫が書き残した草堂のそれとよく合致する。成都の唐代の民家の実物資料としても貴重なものである。<br />


    北門の横には2001年に新たに発掘調査で発見された唐の時代の民家の遺跡があり、保存展示されている。数棟の家屋と庭や井戸などからなり、この遺跡の民家の雰囲気や建物の様子は、杜甫が書き残した草堂のそれとよく合致する。成都の唐代の民家の実物資料としても貴重なものである。

  • 民家の素朴で暖かみのある趣を伝える門です。<br />

    民家の素朴で暖かみのある趣を伝える門です。

  • 有料となっている杜甫草堂は約400m四方の広さがある。このうち主な地区は正門から北門に至る一帯で、清の嘉慶年間(1811年)に建てられた古建築群があり様々な展示館となっている。南から正門、大廨(だいかい)、詩史堂、柴門、工部祠が直線上に並んでいる。これらの建物とその庭は比較的小さく、飾り気もほとんどないため、宮殿や寺院と違い、民家の素朴で暖かみのある趣を伝えている。<br />

    有料となっている杜甫草堂は約400m四方の広さがある。このうち主な地区は正門から北門に至る一帯で、清の嘉慶年間(1811年)に建てられた古建築群があり様々な展示館となっている。南から正門、大廨(だいかい)、詩史堂、柴門、工部祠が直線上に並んでいる。これらの建物とその庭は比較的小さく、飾り気もほとんどないため、宮殿や寺院と違い、民家の素朴で暖かみのある趣を伝えている。

  • これらの古建築群と北門の間は、「少陵草堂」碑や杜甫の住んだ茅葺きの家を再現したものもある庭園となっている。杜甫草堂の全体の庭園はかなり広く、杜甫が住んでいたころの雰囲気を再現して、杜甫がここで詩に詠んだ植物が多く植えられている。特に杜甫が好んでいた楠、梅、竹、キンモクセイ、蓮などが多く、杜甫の詩を偲ぶことができる。

    これらの古建築群と北門の間は、「少陵草堂」碑や杜甫の住んだ茅葺きの家を再現したものもある庭園となっている。杜甫草堂の全体の庭園はかなり広く、杜甫が住んでいたころの雰囲気を再現して、杜甫がここで詩に詠んだ植物が多く植えられている。特に杜甫が好んでいた楠、梅、竹、キンモクセイ、蓮などが多く、杜甫の詩を偲ぶことができる。

  • 水檻は水に面した手すり、欄干の意味である。柴門の西側に池に面した橋のような建物がある。これが水檻である。杜甫は草堂の池に木を渡し簡単な欄干を造った。杜甫はここに好んで来て、手すりにもたれて遠くを眺めたり、釣り糸を垂れたりした。詩の中にも水檻が詠われている。<br /><br />

    水檻は水に面した手すり、欄干の意味である。柴門の西側に池に面した橋のような建物がある。これが水檻である。杜甫は草堂の池に木を渡し簡単な欄干を造った。杜甫はここに好んで来て、手すりにもたれて遠くを眺めたり、釣り糸を垂れたりした。詩の中にも水檻が詠われている。

  • 丞相祠堂何処尋、錦官城外柏森森。 映階碧草自春色、隔葉黄鸝空好音。<br />三顧頻煩天下計、両朝開済老臣心。 出師未捷身先死、長使英雄泪満襟。

    丞相祠堂何処尋、錦官城外柏森森。 映階碧草自春色、隔葉黄鸝空好音。
    三顧頻煩天下計、両朝開済老臣心。 出師未捷身先死、長使英雄泪満襟。

  • 丞相の祠堂いずくにか尋ねん、錦官城外柏森森。階に映ずる碧草は自ずから春色にして、葉を隔つる黄鸝(こうり)は空に好き音。三顧頻煩して天下を計り、両朝に開済する老臣の心。出師未だ捷(か)たずして身は先に死す、長く英雄をして泪を襟に満たしむ。<br />

    丞相の祠堂いずくにか尋ねん、錦官城外柏森森。階に映ずる碧草は自ずから春色にして、葉を隔つる黄鸝(こうり)は空に好き音。三顧頻煩して天下を計り、両朝に開済する老臣の心。出師未だ捷(か)たずして身は先に死す、長く英雄をして泪を襟に満たしむ。

  • これは成都の武候祠を詠んだものである。武候とは三国志の諸葛孔明で、蜀の丞相であった。武候祠には柏(ひのき)が森のように繁っていた。錦官城とは成都の別名。黄鸝はうぐいす。三顧は劉備が諸葛孔明を三度訪ねて得た故事で、その時孔明は劉備に天下三分の計を授けた。両朝とは劉備とその子劉禅で孔明は二人に誠心誠意仕えた。蜀の天下を目指す戦いはまだ勝利してもいないのに、孔明は先に死んでしまった。

    これは成都の武候祠を詠んだものである。武候とは三国志の諸葛孔明で、蜀の丞相であった。武候祠には柏(ひのき)が森のように繁っていた。錦官城とは成都の別名。黄鸝はうぐいす。三顧は劉備が諸葛孔明を三度訪ねて得た故事で、その時孔明は劉備に天下三分の計を授けた。両朝とは劉備とその子劉禅で孔明は二人に誠心誠意仕えた。蜀の天下を目指す戦いはまだ勝利してもいないのに、孔明は先に死んでしまった。

  • 昔はこの辺りには多くの花が咲いていたために浣花渓(花を洗う川)と呼ばれたとか、昔、成都は錦と紙の名産地で、ここのきれいな流れで錦を洗い、紙をすくと花のように美しかったので浣花渓と呼ばれるようになったとか言われている。<br />

    昔はこの辺りには多くの花が咲いていたために浣花渓(花を洗う川)と呼ばれたとか、昔、成都は錦と紙の名産地で、ここのきれいな流れで錦を洗い、紙をすくと花のように美しかったので浣花渓と呼ばれるようになったとか言われている。

  • 杜甫の時代は静かな農村風景が広がっていたようで、杜甫はそんな風景を多くの詩に詠んでいる。<br />

    杜甫の時代は静かな農村風景が広がっていたようで、杜甫はそんな風景を多くの詩に詠んでいる。

  • 大廨は正門を入って小さな橋を渡ったところにある、草堂の中軸線上の一つめの建物である。大廨とは古代の役所の執務室のことである。杜甫は高官になり国と人々のために働くことを夢見ていたが、結局は小さな官職にしか就けなかった。清の時代に杜甫草堂を再建整備したときに、この杜甫の志を偲んで、この建物を大廨と名付けたものである。<br />

    大廨は正門を入って小さな橋を渡ったところにある、草堂の中軸線上の一つめの建物である。大廨とは古代の役所の執務室のことである。杜甫は高官になり国と人々のために働くことを夢見ていたが、結局は小さな官職にしか就けなかった。清の時代に杜甫草堂を再建整備したときに、この杜甫の志を偲んで、この建物を大廨と名付けたものである。

  • 今はこの中には杜甫の彫刻が飾ってある。詩想を練っているかのような痩せた姿の像である。<br /><br />

    今はこの中には杜甫の彫刻が飾ってある。詩想を練っているかのような痩せた姿の像である。

  • 次の建物は詩史堂である。詩史堂は杜甫草堂の中心の建物である。杜甫は唐の盛んな世が衰退してゆく世に生き、人々の苦しみや悲しみを詠った詩はさながら歴史を叙述しているようなので、その詩は詩史と呼ばれた。建物の中には世を見つめているような杜甫の胸像が飾ってある。両側の対聯は朱徳が書いたもので、「草堂留後世、詩聖著千秋」とある。そのほか、郭沫若が書いた「世上瘡痍詩中聖哲、民間疾苦筆底波瀾」という対聯もある。

    次の建物は詩史堂である。詩史堂は杜甫草堂の中心の建物である。杜甫は唐の盛んな世が衰退してゆく世に生き、人々の苦しみや悲しみを詠った詩はさながら歴史を叙述しているようなので、その詩は詩史と呼ばれた。建物の中には世を見つめているような杜甫の胸像が飾ってある。両側の対聯は朱徳が書いたもので、「草堂留後世、詩聖著千秋」とある。そのほか、郭沫若が書いた「世上瘡痍詩中聖哲、民間疾苦筆底波瀾」という対聯もある。

  • この建物は清の時代には文人墨客が集まり、杜甫を偲び詩を吟じたところでもある。

    この建物は清の時代には文人墨客が集まり、杜甫を偲び詩を吟じたところでもある。

  • 詩史堂の後ろは柴門である。簡素な造りである。柴門は杜甫が住んでいた時の草堂の門である。杜甫は自分の住み家を草堂と呼び、門を柴門と名付け、質素ながら趣のある暮らしをしていた。杜甫の詩の中にも柴門はよく出てくる。「白砂翠竹江村暮、相送柴門月色新」。杜甫が訪ねてきた友人を見送った様子である。清代に草堂の建物を再建整備したときに、この杜甫の質素で趣のある暮らしを表現するために、このような簡素な門を造ったものである。しかしもちろん杜甫が造った柴門はこれよりずっと粗末だったはずである。<br /><br />

    詩史堂の後ろは柴門である。簡素な造りである。柴門は杜甫が住んでいた時の草堂の門である。杜甫は自分の住み家を草堂と呼び、門を柴門と名付け、質素ながら趣のある暮らしをしていた。杜甫の詩の中にも柴門はよく出てくる。「白砂翠竹江村暮、相送柴門月色新」。杜甫が訪ねてきた友人を見送った様子である。清代に草堂の建物を再建整備したときに、この杜甫の質素で趣のある暮らしを表現するために、このような簡素な門を造ったものである。しかしもちろん杜甫が造った柴門はこれよりずっと粗末だったはずである。

  • 工部祠についた。中国では人を尊敬して呼ぶときには官職名で呼ぶ習わしなので、後世、杜甫を尊敬して杜工部と呼んだ。この建物はそのために工部祠と名付けられた。清の時代の建築である。工部祠の中には正面には杜甫の塑像が祭ってあり、両側には宋代の愛国憂民の詩人である陸遊と黄庭堅を祭ってある。また堂内には杜甫や杜甫草堂を描いた明清時代の石碑も展示してある。柴門を過ぎると工部祠がある。杜甫は成都に居たときに検校工部員外郎という小さな官 工部祠の両側には杜甫に関係する古今東西の書籍を展示している建物と、記念品を売る建物とがある。<br />

    工部祠についた。中国では人を尊敬して呼ぶときには官職名で呼ぶ習わしなので、後世、杜甫を尊敬して杜工部と呼んだ。この建物はそのために工部祠と名付けられた。清の時代の建築である。工部祠の中には正面には杜甫の塑像が祭ってあり、両側には宋代の愛国憂民の詩人である陸遊と黄庭堅を祭ってある。また堂内には杜甫や杜甫草堂を描いた明清時代の石碑も展示してある。柴門を過ぎると工部祠がある。杜甫は成都に居たときに検校工部員外郎という小さな官 工部祠の両側には杜甫に関係する古今東西の書籍を展示している建物と、記念品を売る建物とがある。

  • 休憩所<br />

    休憩所

  • 売店<br />

    売店

  • 工部祠の右側の庭園内には茅葺きの小さな亭の中に「少陵草堂」と書いた大きな石碑がある。少陵草堂とは杜甫草堂のことである。杜甫はかつて長安の都に住んでいたが、近くには漢の宣帝とその皇后の陵墓があり、それぞれ杜陵、少陵と呼ばれていた。そのため杜甫は自らを「杜陵野客」、「少陵野老」と呼んでいた。このため後世の人は杜甫のことを杜少陵、杜甫草堂のことを少陵草堂と呼ぶようになったものである。<br /><br />

    工部祠の右側の庭園内には茅葺きの小さな亭の中に「少陵草堂」と書いた大きな石碑がある。少陵草堂とは杜甫草堂のことである。杜甫はかつて長安の都に住んでいたが、近くには漢の宣帝とその皇后の陵墓があり、それぞれ杜陵、少陵と呼ばれていた。そのため杜甫は自らを「杜陵野客」、「少陵野老」と呼んでいた。このため後世の人は杜甫のことを杜少陵、杜甫草堂のことを少陵草堂と呼ぶようになったものである。

  • 建物の中には世を見つめているような杜甫の胸像が飾ってある。両側の対聯は朱徳が書いたもので、「草堂留後世、詩聖著千秋」とある。<br />

    建物の中には世を見つめているような杜甫の胸像が飾ってある。両側の対聯は朱徳が書いたもので、「草堂留後世、詩聖著千秋」とある。

  • 万佛楼<br />

    万佛楼

  • 情系草堂陳列室<br />

    情系草堂陳列室

  • <br />大雅堂は杜甫草堂に隣接する昔の草堂寺の本堂である大雄宝殿を改修したものである。草堂寺は杜甫草堂の南門から入った所で、今は杜甫草堂と一体となって有料の「杜甫草堂」の一部となっている。<br /><br />


    大雅堂は杜甫草堂に隣接する昔の草堂寺の本堂である大雄宝殿を改修したものである。草堂寺は杜甫草堂の南門から入った所で、今は杜甫草堂と一体となって有料の「杜甫草堂」の一部となっている。

  • 堂内の正面の壁には杜甫の一生を描いた壁画が飾られている。堂内には中国の有名な詩人の彫像が展示されており、屈原、陶淵明、李白、王維、白居易、蘇軾などおなじみの詩人の彫像が見られる。<br />

    堂内の正面の壁には杜甫の一生を描いた壁画が飾られている。堂内には中国の有名な詩人の彫像が展示されており、屈原、陶淵明、李白、王維、白居易、蘇軾などおなじみの詩人の彫像が見られる。

  • 恰受航軒

    恰受航軒

  • 杜甫草堂詩書画院美術館<br /><br />

    杜甫草堂詩書画院美術館

  • 南から正門、大廨(だいかい)、詩史堂、柴門、工部祠が直線上に並んでいる。<br />

    南から正門、大廨(だいかい)、詩史堂、柴門、工部祠が直線上に並んでいる。

  • <br />民家の素朴で暖かみのある趣を伝える門です。<br />


    民家の素朴で暖かみのある趣を伝える門です。

  • 杜甫の時代は静かな農村風景が広がっていたようで、杜甫はそんな風景を多くの詩に詠んでいる。<br />

    杜甫の時代は静かな農村風景が広がっていたようで、杜甫はそんな風景を多くの詩に詠んでいる。

この旅行記のタグ

13いいね!

利用規約に違反している投稿は、報告する事ができます。 問題のある投稿を連絡する

旅行記グループ

四川省の旅・九寨溝・成都

コメントを投稿する前に

十分に確認の上、ご投稿ください。 コメントの内容は攻撃的ではなく、相手の気持ちに寄り添ったものになっていますか?

サイト共通ガイドライン(利用上のお願い)

報道機関・マスメディアの方へ 画像提供などに関するお問い合わせは、専用のお問い合わせフォームからお願いいたします。

旅の計画・記録

マイルに交換できるフォートラベルポイントが貯まる
フォートラベルポイントって?

中国で使うWi-Fiはレンタルしましたか?

フォートラベル GLOBAL WiFiなら
中国最安 219円/日~

  • 空港で受取・返却可能
  • お得なポイントがたまる

中国の料金プランを見る

フォートラベル公式LINE@

おすすめの旅行記や旬な旅行情報、お得なキャンペーン情報をお届けします!
QRコードが読み取れない場合はID「@4travel」で検索してください。

\その他の公式SNSはこちら/

PAGE TOP