2010/09/13 - 2010/09/21
284位(同エリア1051件中)
kojikojiさん
- kojikojiさんTOP
- 旅行記1484冊
- クチコミ1138件
- Q&A回答73件
- 2,685,907アクセス
- フォロワー151人
2010年は旅順口区への外国人入域規制が緩和されてすぐのタイミングでもあり、個人でも簡単に観光できるようになりました。今回は大連を基準に瀋陽・長春・ハルピンを旧南満州鉄道を使うので大連と旅順間も必然的に列車を使う事になります。バスで行けばゆっくりと短い時間で行けるのですが妻には列車のほうが安いからと説得しました。(列車4.5元でバスが6元ですから20円も安い)早起きが苦手なのに良く起きてついて来てくれました。旅順では日露戦争の旧跡を巡るのが当たり前ですが、私にとっては「旅順博物館」が見られる、大谷光瑞が中央アジアで発掘調査した「大谷コレクション」を見る事が出来る方がはるかに意義のあることでした。それと妻の反対で予定に入れていなかった旅順監獄でしたが、ひょんなことから見る事になったのが印象に残っています。尖閣諸島の中国漁船問題の事など知らず写真を撮りまくっていましたが…。
- 旅行の満足度
- 5.0
- 観光
- 5.0
- グルメ
- 4.0
- ショッピング
- 2.0
- 交通
- 4.0
- 同行者
- カップル・夫婦(シニア)
- 一人あたり費用
- 5万円 - 10万円
- 交通手段
- 鉄道 タクシー
- 航空会社
- ANA
- 旅行の手配内容
- 個別手配
PR
-
大連に着いた翌日は大連火車站から列車に乗って旅順への日帰り旅行です。バスに乗っていけば簡単な旅ですが、大連から瀋陽と聴衆と哈爾濱迄列車で移動して、寝台列車で大連に戻る旅程なのでここはバスにすることはできません。
-
列車は午前6時35分の1本と夕方の戻りの列車しかありません。ということで早朝の午前5時にホテルを出発なので朝ご飯は食べる事が出来ませんでした。
-
日中は大渋滞の中山路も午前5時ではこんな感じで道路の真ん中を歩けました。「友好広場」の水晶玉が見えます。1950年代に中国と前ソ連同盟友好記念するために「友好広場」と名づけたそうで、東側には中山広場、西へ行くと大連火車站です。
-
広場中央にある巨大な水晶球は1996年に造られ、吉祥と幸運をもたらす願いが込められています。水晶球が5本の柱にて支えられ、世界5大洲が支える意味があるそうです。
-
重さは117トンで直径は15メートル、モニュメントの中にカラーライトが7852個仕込まれ、夕方となるとライトアップされてとても綺麗です。
-
路面電車の通りを越えると、「ああ、上野駅」といった感じの建物があります。
大連火車站に到着しましたが、上野駅自体を表から最後に見たのはいつだったか? -
日本に帰って上野駅に行って見たら、大連の駅の建物の方が数段立派でした。
-
駅の周辺はお客を見込んだレストランがたくさん並んでいました。もう少し時間があればこんな店で食事したかったです。
-
さて、と意気込んで集票処に向かうと拍子抜けするほど人がいませんでした。かつて盲流と言われ、人が溢れている印象の中国の駅とは思えません。
「旅順、大人2枚」10元出して切符とお釣り1元を受け取って待合室に向かいます。 -
大連火車站の候車室まで来ると多少の賑わいを感じます。超市でポテチとプラムジュースを購入しましたが、プラムジュースって酸梅湯でした。
珈琲の自動販売機があり何と1元で、ちゃんとしたミルクコーヒー(ブラックの習慣は無いみたい)でした。 -
昨日は池袋6:44発の成田エキスプレスに乗って、今日は6:35発の旅順行きの列車なので2日続きの早起きです。
-
この緑色の車体が中国の鉄道らしさを感じさせます。
大連と旅順間は旅順支線と呼ばれ全52キロを1日に2往復しています。早朝に大連を出発して9時に旅順に着いた後折り返して、午後に1往復の列車があるだけです。ほとんど移動は路線バスが担っているようです。 -
妻は中国の列車に乗るのはこれが2回目で、前の年に「シ博」から「青島」まで高速鉄道に乗ったのが初めてでした。
-
列車はお客の姿もまばらで、これで採算がとれるのだろうかと思いました。
-
扇風機付きの列車は台湾で台北から九分に行くとき乗って以来です。長閑な旅になりそうと思ったのはここまででした。
-
列車はガラガラのまま大連火車站を定刻に出発しましたが、空港近くの「周水子」でたくさんの工場労働者のような人達で満席どころか身動きできないほどになりました。そして4人掛けの椅子席ではトランプ賭博が始まります。その光景は「叉車廠」まで続き、そして全員が降りてしまうとまた静けさが戻ってきました。
-
ほっとしていると次の「営城子」から500人ほどの迷彩服を着た高校生が乗り込んできました。彼らは旅順まで行くそうです。ここで思うことは帰りの列車は16:25発の1本しかありません。と言うことは…。予想は的中です。帰りの列車では高校生に囲まれた後に博打打ちに囲まれて帰りました。
-
旅順火車站到着です。新しく造られた看板のようなので、第2次世界大戦前の風情は感じられません。後ろを歩いているのが高校生たちです。
-
初めて降り立つ旅順火車站です。自分にとっても前年の高速鉄道以外では十数年前に上海から蘇州までを列車に乗って往復しただけの中国の鉄道旅行です。
-
小さい駅なので高校生たちに先を譲ってゆっくり駅舎に向かいました。
-
先頭のディーゼル機関車は一度軍港施設内の引き込み線まで行き、ポイントを切り替えて、隣の線路を戻って来まました。多分もう一度車両の先まで行って折り返すのでしょう。電化されていないと架線や支柱が無いのでホームはスッキリするものですね。
-
旅順火車站は1903年開業でロシア風の木造建築の駅舎がきれいでした。 この当時大連火車站から旅順站まで1往復の普通列車と1往復の快速列車が運行されていましたが、2014年4月21日をもって廃止され、現在は貨物列車のみ運行されています。
-
駅を出るとすぐにタクシー運転手が寄って来ました。ただタクシーは拍子抜けするくらい少なくたった1台しかありません。これでは値段交渉も比較もしにくいです。どうしようか考えると足元を見られるので、先に帰りの切符を買う!と言うと「それが良いよ。ここに並べば良い。」みたいな感じで案内してくれます。
-
折り返しのすぐに出発する大連行きの切符を買う人が窓口に割り込みますが、地元の人は知らん顔で許しています。こんな静かなのは中国じゃない!という感じがしました。切符を買い終わると運転手がいなかったのでちょっと焦りました。すぐに戻ってきた所で書き出しておいた行先を見せて値段交渉を始めました。
-
「半日だと200元だけどこれだけ周ると1天(終日)かかるから300元だ。」との事。廻りで見ている人に「ほんと?サンパイユエン?」と振り返るとスススと下がって離れてしまうので妥当なのかも分かりません。値下げ交渉して260元で手を打ちましたが、終わってみればそんなに高いと感じませんでした。
駅前で記念写真を撮ってから出発しました。 -
最初は「203高地」に向かってもらいました。駐車料金は別途10元かかります。運転手さんは「あっちにトイレ、先に陳列室を見て、坂道を登って・・・。」と案内もしてくれる人の良いおじさんでした。
土産物屋には日本語を話す女性がいたので、「1日チャーターして260元は妥当ですか?」と尋ねると「それは安い。」と言っていましたが…。
店の名前は「坂上雲」そう司馬遼太郎の「坂の上の雲」にちなんでいます。 -
この旅の頃はNHKのスペシャルドラマ「坂の上の雲」が3年に渡って放送していた2年目だったので、旅順に来たいという思いもありました。司馬遼太郎が新聞記者時代に企画した「美の脇役」という本があり、その中で母の実家の二条陣屋が紹介されているせいもあって、司馬遼太郎は好きな作家のひとりです。それ以外にも「街道を行く」では中国旅行のヒントもたくさんいただいています。
-
203高地なので爾霊山(にれいさん)と書かれた碑の所まで上がってきました。子供の頃に本で知った日露戦争の激戦地に到達しました。子供のころはまさかこうやって現地に来るなんて考えもしませんでした。
-
大連から来る日本のツアーバスはもう少し遅い時間なのか、午前9時過ぎでは観光客の姿もありませんし、上の土産物店も閉まったままです。
-
203高地周辺は裾野部分を含めて一帯が観光地として解放されたのは1990年代前半のことで、それまでは軍用地として立入禁止となっていたそうです。203高地は海抜203メートルだったという意味がありますが、この漢字を使っているのはこの地で犠牲となった日本兵への慰霊を意味しているからです。建立は乃木希典大将であり、彼こそが日露戦争における旅順攻囲戦の指揮を執った第三軍司令官でした。
-
遠くに旅順港が霞んで見えました。ここから射程距離7キロ程の28センチ砲で砲撃したと思うと非常にリアルに感じられます。やはり百聞は一見に如かずですね。
-
案内看板には日本軍国主義の恥の柱と書かれています。乃木将軍には二人の息子がいましたが、日露戦争においてどちらも戦死しています。長男の勝典は南山の戦いで腹部に砲弾を受け戦死、次男の保典はまさに203高地において、兄の死から6カ月後に戦死しています。そのような状況でも乃木将軍は最後まで作戦を指揮し、勝利に導いています。
-
旅順港を睨む「二十八糎砲」の実物模型が置かれてありました。1904年12月5日に日本軍が占領し、陸上からの砲撃でロシア東洋艦隊を壊滅させたというのが通説ですが、陥落後の陸海軍による沈艦への調査では、ほとんどの艦は命中しても艦底に損害を受けておらず、浸水などは起こしていなかったと報告されています。
使用した二十八糎砲の砲弾が古くて信管の動作不良もあったようで、不発弾も多かったといわれます。 -
二十八糎榴砲は明治17年(1884年)に大阪砲兵工廠が製作したもので、明治25年(1892年)から量産されました。全長は2,863ミリで砲身重量は10,758キロにもなる巨大なものです。最大射程距離は7,800メートルあるで、203高地から旅順港までは約4キロであることから余裕を持って軍艦を狙うことが出来たようです。
-
山を降りてきた妻はそのまま売店に向かい、アイスを買って満足そうです。
-
タクシーに乗って一度市内に戻りました。車窓から「蛇博物館」を見つけ、妻に「次ぎはあそこ。」と言うと、真顔で嫌な顔をされました。すると運転手さんは本当に蛇博物館に車を付けました。一瞬冗談が通じたのかと思いましたが、後で「旅順博物館」と両方見るチケットがあるのを知りました。
-
念願の「旅順博物館」です。運転手さんはこんなところまでと思うほどの、建物の車寄せにタクシーをつけてくれました。親切心もあるけど逃げられないためだったのかもしれません。
-
「旅順博物館」では特色のある豊富な収蔵品がありますが、そのうち「大谷コレクション」と呼ばれる新疆および中央アジアの文物は数量も価値も高く、重要な位置を占めています。これらの収蔵品を通じて大谷光瑞と旅順博物館は切っても切れない縁で結ばれています。
-
大谷光瑞(おおたに こうずい)は浄土真宗本願寺派第22世法主でありながら1902年から1914年にかけて西域探検と仏蹟の発掘調査のため3度の探検隊を編成しています。これがいわゆる「大谷探検隊」と呼ばれるものです。
-
京都生まれの母方の祖母が子供時代に本願寺の大谷さんの娘さんの家に遊びに行くときは、白い馬の牽く馬車がお迎えに来たものだと言っていたのを思い出します。
-
見学ルートは2階から始まるので、美しい階段ホールを登っていきます。その完成された美しさに息が止まりそうです。
-
美しい大理石の階段を上って2階の陳列室に入ると日本建築のような内装と陳列棚に目を奪われます。
-
陳列棚には90年前のアンティークなガラスが嵌め込まれ、かつての上野の国立博物館の陳列棚と同じものが並んでいます。
-
ベトナムの北部を中心にした紀元前5世紀頃のドンソン文化に特徴的な青銅器。中国昆明地方から始まり北部ベトナムに広がり、さらに東南アジア全域に広がった。大きなものは直径1m、高さ80cmほどの鼓型の青銅器である。表面に太陽をかたどったと思われる模様が描かれ、側面には船を漕ぐ人々や、さまざまな動物が図案化されている。
-
格天井を想像させるデザインと西洋風のシャンデリアの組み合わせが何とも言えません。
-
さて建築や備品の美しさを堪能した後は陳列棚の中を覗いていきます。個人的に好きなものだけ写真に残しました。この当時はキャプションの写真など取らなかったので正確な名前は定かではないのと、日本で使われない漢字も多いので名前も分からないものも多いです。
-
陳列品はミイラを除いて写真取り放題でした。一応係員に写真を撮っていいか尋ねましたが何でそんな事を聞くのと怪訝そうな表情をされました。周囲では中国の女子学生がフラッシュをバシバシ焚きながら写真を撮っていましたから。以前は外国人は申請して許可を取らなければならなかった場所ですが、拍子抜けするほど観光地になっていました。
-
いくつか写真に撮ったキャプションも古代中国の青銅容器で戦国時代 (紀元前 475年-221年紀元前)
-
紀元前453年に晋の領土は韓、魏、趙の3国に分裂し、これらに斉、楚、燕、秦を加えた七雄が覇権を争う時代です。
-
我が家にあるのと同じような彫漆の盆がありました。中国では黒漆の層に文様を彫り表したものを「剔黒」と呼び、屈輪文様は「ぐりもん」「ぐりぐり」「ぐり」と呼ばれています。
-
こちらも見事な堆朱の喰籠です。清の乾隆帝の時代の物には優れたものが多いと思います。堆朱とは油を混ぜた柔らかい漆を何回も塗り重ねて固め、彫りやすい硬さになった漆の上に文様を彫刻したものになります。彫った文の側面から漆が堆積していることが見える様子からこのように呼ばれています。
-
個人的にはこんな盆が欲しいですが、一生手に入らないでしょう。
-
「螺鈿八宝園角方盆 清」
見事な螺鈿細工の盆の蓋表には、仏教の八吉祥(はちきちじょう)である法輪(ほうりん)・法螺貝(ほらがい)・宝傘(ほうさん)・白蓋(はくがい)・蓮華(れんげ)・宝瓶(ほうびん)・金魚(きんぎょ)・盤長(ばんちょう)が描かれてあります。 -
中国大陸では琺瑯(ほうろう)と呼ばれる七宝は、元の時代より製造が盛んとなり、日本に七宝が伝えられたのも同時期とされています。
続いて明の時代すなわち景泰年間の作品の?制糸琺瑯は歴史的にも非常に評価が高く、中国の七宝を景泰藍絶妙と称される理由と伝えられています。 -
ちなみに景泰藍はその名の通り青色(藍色)が好まれ、青銅と日本の泥七宝に通じる不透明な釉薬が用いられています。また青銅から釉薬が崩れ落ちるのを防ぐべく、細かい植銭を全体に張り巡らせる技法も特徴的です。
-
「?制糸琺瑯鳳耳三足尊 清」
中国の七宝(琺瑯)の技法は「内填琺瑯(ないてんほうろう)」と呼ばれる彫刻を施した金属製の土台にエナメルを施すシャンルヴェ、あるいは日本の七宝の技法のひとつである象嵌七宝があります。次に金属板の上に細い金属線でモチーフの輪郭を描き、そこにエナメルを流し込む技法のクロワゾネや象嵌七宝に相当する「?制糸琺瑯(こうしほうろう)」。そして3つ目がペイントエナメル(描画七宝)に相当する「画琺瑯(がほうろう)」です。 -
緑色の玉(ぎょく)を彫り込んだ見事な皿も欲しいなと思えるものでした。
-
よく見ると陳列ケースも何種類かに分かれています。陳列台の腰のアールデコの花のデザインが可愛らしいです。
-
木工の精度の高さには目を見張ります。現在こんなケースを造ったら幾らかかるでしょうね。
-
妻はすでに飽きてきてしまったようです。2日続きの早起きが堪えたようです。
-
「唐三彩馬俑」
鞍覆(おお)いや馬具類にも美しい三彩釉がかけられ、馬の毛並ひとつにも手が込んでいます。京都国立博物館に黒白1対の馬俑を思い出しました。 -
「渦遊紋彩陶瓮 馬家窯文化半山類型」
馬家窯文化(ばかようぶんか)は紀元前3100年頃から紀元前2700年頃の中国西北の内陸部である黄河最上流部の甘粛省や青海省に存在した新石器時代後期の文化でです。甘粛彩陶文化とも呼ばれ陶器表面にさまざまな文様が描かれた彩陶が代表的です。焼成前の壺や調理器に筆を使い酸化鉄などで黒や赤の文様を描き、1000度前後の温度で焼いています。 -
「泥塑彩絵仕女騎馬俑 唐(618年-907年)」
-
とうとう妻は「旅順博物館」の収蔵品になってしまいました。
-
シンプルな窓枠ですが、収蔵品の防犯の観点からフェンスが設けられています。ただその意匠も竣工当時のデザインのまま残されている気がしました。
-
アールデコのデザインの陳列棚の美しさが印象に残ります。
-
建築と陳列棚の組み合わせの素晴らしい空間だと思いませんか?ずっとこの中を彷徨い歩いていたい気分になります。
-
2階の奥には大谷探検隊が持ち帰った木乃伊(ミイラ)が陳列してあります。こちらは撮影禁止で、さすがの中国の人も自重していました。
驚いたのは骨格標本を元に蝋人形で復元したものです。当時の風俗や髪形や化粧まで非常に分かりやすく展示してあります。 -
窓枠や手摺や階段などの細かいディテールにも目を惹かれます。旅順博物館の建築は旧大連市役所を設計した松室重光です。
-
なるほどネオ・ルネッサンス様式のファサードからエントランスから階段にかけての美しさが納得いきます。
-
仏教美術のコーナーの多くは大谷コレクションと言われる西本願寺の大谷光瑞の探検隊によって持ち込まれたものではないでしょうか。この「旅順博物館」へどうしても来たかったのは「月刊太陽」の1991年発行の「特集大谷探検隊」を読んでからだったと思います。
-
大谷探検隊は20世紀初頭に日本の浄土真宗本願寺派第22代法主である大谷光瑞が、中央アジアに派遣した学術探検隊で、シルクロード研究上の貴重な業績を挙げています。1902年から1914年の間に前後3次にわたって行われましたが、戦時中という状況も重なり活動の詳細は不明なところも多いとされます。
-
探検隊の収蔵品の多くは現在の須磨離宮公園の地にあった大谷光瑞の別荘である「二楽荘」や本願寺に納められますが、第3次探検隊をはじめとする教団事業の出費がかさみ、大谷家の負債が表面化するとともに、1914年(大正3年)には本願寺に関する疑獄事件が突発するなど多くの問題を抱え大谷光瑞は西本願寺住職・浄土真宗本願寺派管長を辞任するにいたります。
-
二楽荘の建築や地所や美術品一切を含んで大阪の富豪の久原房之助に売却されますが、1932年(昭和7年)に不審火とされる原因不明の火事によって焼失してしまいます。
-
日本に残された収蔵品の多くは上野の国立博物館の東洋館に収蔵されています。
東洋館:https://4travel.jp/travelogue/10756461
そしてこの旅順にも残されているわけです。 -
「礼拝佛陀故事浮雕」(1世紀から4世紀のガンダーラ出土)
釈迦は菩提樹の下の四角い台座の上に座って、目を少し閉じて瞑想しています。左手で衣の裾を持ち、右手では施無畏印を表します。釈迦の右側には寄進者がおり、合掌した姿で描かれています。左側の僧は左手に菩提樹の実を持っています。 寄進者の側にはコリントスの石柱が表されています。これは初期のガンダーラの時代の寺院の建物にこのレリーフが埋め込まれたことを示しています。 -
「石雕仏頭像」(1世紀から3世紀のガンダーラ出土)
唇は明確に表現されており、口の角は三角形で下顎は隆起している初期のガンダーラスタイルの特徴があります。 -
「石雕菩薩頭像」(1世紀から3世紀のガンダーラ出土)
-
「金剛礼佛(2世紀から4世紀ガンダーラ出土)」どんな遺跡からどんなふうに剥がしてどんなルートを通ってここのたどり着いたのでしょう。
-
ストゥーパはもともと仏教の開祖である釈迦が荼毘に付された際に残された仏舎利を納めた塚を表します。 釈迦入滅後に仏舎利は8つに分けて配られ、容器と灰土を合わせて10基のストゥーパが造られたと言われます。アショーカ王はそれらのストゥーパを壊して8万4000に細分化し、各地に新たなストゥーパを建設したといわれ、その後仏教が各地へ広まると仏教の盛んな地域にもストゥーパが建てられ仏舎利を祀るようになります。
-
仏教遺跡からの来歴品ですが、インドネシアのジャワ島のブランパナン遺跡で見るようなヒンドゥーの彫刻を連想させます。
-
上海博物館に収蔵されている「千佛石碑」という北周時代の石碑を思い出させます。
-
触地印の姿はボロブドゥールのストゥーパに中に納まった佛陀の姿のようでもあります。ストゥーパの形や脇侍の姿からもインドに近い土地で造られた仏だと感じます。博物館の収蔵品でもお金を投げ入れてしまうところが中国っぽいです。
-
ガンダーラ出土の小天使とありました。期限2世紀から4世紀とありました。
これは全く仏教とは関係のないものだと思います。 -
波状のガーランドを担ぐ天使の姿はトルコのアンタルヤ考古学博物館に収蔵されたペルゲ遺跡の石棺のデザインと全く同じです。
アンタルヤ考古学博物館:https://4travel.jp/travelogue/11571550 -
同じデザインでも西と東に分かれ、片方がガンダーラに伝わり、片方はトルコのアナトリアに伝わる面白さを感じました。
-
「石彫豊収女神(Harvest Goddess)」とあります。
女神は背中に刻まれた模様のある背もたれの高い椅子に座っています。円形の光背の前で女神は高さのある王冠をかぶり、髪は額の中央で分けられ、三つ編みは肩まで下げられています。白湯の手には豊穣を表す穀物の束が握られています。 -
高い冠と豊満な胸を見るとトルコのエフェス辺りで信仰されたアルテミスの姿と重なってきます。
-
礼拝弥勒菩薩(Future Buddha)
同じガンダーラ仏でも東洋的な顔立ちですが、建物のデザインはギリシャやローマ的です。弥勒は古代インドではマイトレーヤと呼ばれ、慈悲から生まれた者を意味しています。仏となることを約束されているため、弥勒仏・弥勒如来と呼ばれることもあります。釈迦が亡くなられてから56億7千万年後に仏となりこの世に現れ、釈迦の教えで救われなかった人々を救済するといわれています。ちなみに56億7千万年後とは、地球を含む太陽系が消滅する余命とほぼ一致しています。 -
右足を曲げて左膝の上に乗せ、右手の指を頬に当てて物思いにふけるような半跏思惟像(はんかしいぞう)が多く造られました。これは将来どのようにして人々を救えばよいか思い悩んでいる姿とされていますが、この像は施無畏与願印を結んでいます。
-
寺院の柱の礎石までこのような小さな仏様で埋め尽くされています。
-
仏像を安置する陳列室はまた違った意匠の内装でした。美しく装飾されたコリント式の柱は天井を支えるほどの強度は無さそうです。
-
中国の仏像になると日本にも近くなるので、その顔立ちにも親しみがわいてきます。
-
この三尊仏の石像は見事でした。東洋的ではありますが、そのモチーフやデザインは西域の流れを感じます。菩薩に数珠をかけようとしている天女の姿には安らぎを感じますが、その上の怪鳥は悪魔的な印象を受けます。
-
こういった仏様があると何故かホッとします。見慣れているせいでしょうか?
-
トルコのエフェスで見たアルテミス女神(豊穣と多産の神)の頭飾りに良く似ています。頭飾りの瓔珞紋は古くはインドの貴族の装身具として用いられていたものが、仏教に取り入れられたもので、菩薩などの仏像に首飾りや胸飾りとしてもちいられています。
-
仏龕は仏教における尊崇対象を安置するための厨子で、蓮座の上部が観音開きになり、釈迦と脇侍仏と四天王の姿が見えます。
-
簡単なロープパーテーションで囲われただけで貴重な彫刻が無造作に置かれている印象を受けます。
-
本尊と四天王像は元々は別の組み合わせなのでしょう。年代も様式も違います。
-
日本の四天王像と中国の像とでは持ち物が違います。増長天は剣を持っているので唯一日本の四天王と同じです。
-
持国天は琵琶を奏でていますが、日本の持国天は刀か槍を持っています。
-
こちらは多聞天で傘を持っています。日本だと宝塔と三叉の戟です。
この鎧を見ていてどこかで見たような…。胸と腹と肩に獅子の意匠を使っている所などが古代ローマの皇帝の鎧の意匠にソックリです。 -
中国の陶器は当然ですが素晴らしい物がたくさんあります。
-
個人的に欲しかった鉢です。呉須の青と赤の波が美しいです。20世紀の終わりころまでは上海などでも骨董品としてぎりぎり持ち出せる大清光緒年製の鉢なんかが手の届く値段で買えました。
-
「乾隆款炉釣釉起弦瓶」
釣窯釉の素地は半透明で肌色は鮮かな青色から青白色まで変化が多く、なかには銅釉を用いて斑文や一部分に紅紫色を発色させた特殊な技法もみられます。高台の裏には「大清乾隆年製」の6文字があるそうです。 -
中国だけかと思ったら李朝などの朝鮮陶磁器も時代考証しながら展示してあります。
-
同じ青華でも朝鮮のものはノビノビしていて好きです。昔は日本の陶器の手本でもあった朝鮮半島の陶器の衰退はいかがかと思います。
-
壬辰倭乱(朝鮮出兵)当時に日本に連行されなかった陶工が朝鮮の地にはるかに多くいたはずですが、なぜ朝鮮の陶器は産業として大きく発展せず世界的な名声を得ることもできなかったのでしょうか。「朝鮮後期には官営手工業を維持することさえ難しくなっていた。」と韓国の歴史教科書にあるそうです。
-
「人首獣身土偶」は群馬県太田市出土の埴輪ですが、こんな埴輪始めてみました。
中国の地で日本の埴輪について知るとは思いませんでした。 -
どんな来歴が合ってこの博物館に納められたのでしょうか…。
-
日本の陶磁器もたくさんあります。
「五彩山水図三足洗 日本 江戸末至明治初」とありました。 -
高さ15.5センチ口径49.2センチの大きなもので、2008年に山東文化遺産総店で購入されましたので、最近の収蔵品のようです。
-
「青華三足洗 五良大甫呉祥瑞造」
「茶道筌蹄」に「染付 古染付 虫喰手 祥瑞 呉洲 菱馬は御本にて等顔の下画也と云ふ」「祥瑞 地名也チアンスエンの転語也 五郎太甫は伊勢の津の人、明末に祥瑞に渡り焼ものをなし、其後帰朝す、桂林漫録に詳か也、五良大甫呉祥瑞造、如此の文字あるは五郎太焼也、文字なきは只祥瑞焼也、遠州時代より古し、一説に呉しょんずいと云ふは唐人の名也、五郎太甫は模様をほりて藍を入たるものと云ふ」とあります。 -
私にとっては天国のような場所でしたが、妻にとってはお疲れのようでした。
-
来るまでは収蔵品にロマンを感じていましたが、建物のデザインにも魅了された「旅順博物館」でした。
-
往時をしのばせる扉と枠は美しいアール・デコのデザインです。
-
1945年に中国に接収されて以来この建物は大切に使われてきたのだと感じます。
-
ソ軍烈士記念塔には訪れる人も無く静まり返っていました。
-
念願の「旅順博物館」に来ることが出来て大満足でした。
-
本当は外観も1周してみたかったのですが、妻の機嫌が悪くなる前に次に向かうことにします。
-
次は「白玉山」までタクシーで移動しました。最初は自分たちで駅から歩いて行こうなんて考えていましたが、タクシーで間違えなし。麓からリフトが出ていますが車でここまで来た方が良いです。
-
「白玉山塔」は日露戦争後に東郷平八郎と乃木希典が発案し、1909年に戦没者追悼のために忠魂塔として建立されました。落成式に乃木は夫人とともに参列しているそうです。当時は「表忠塔」と命名されますが、中華人民共和国となってから「白玉山塔」と改名されます。
-
ここまで来る途中の九十九折りの登り道で運転手が歩いている男性に声を掛けました。「上まで5元で乗せてやるよ。」そして乗ってきた男性は日本人の旅行者でした。流暢な中国語なので最初は分かりませんでしたが、我々が話し出したら「日本の方ですか?」と驚いていました。
-
白玉山は道連れなので3人旅となりました。
良いタイミングで鳩が飛んで来てくれました。建設当時は日露戦争の戦没者の納骨祠でしたが今は10元で中を登る事が出来ますが高さは66.8メートルあります。 -
唐の先は展望台になっていて旅順港がきれいに望めました。
-
ここは眺めが良いので中国の観光客もたくさん立ち寄っていました。
-
旅順港です。午前中の203高地からこの湾の半分くらいまでが射程距離だったと思うと…。霞がかかってはっきり見えませんが、現在も軍事施設ですのでどこまで写真を撮ってよいのやら。解放されて1年経っていないのであまり情報もありませんでした。
-
展望台から見上げた「白玉山塔」。
-
一応お約束の場所で記念写真を撮りましょう。
もう9月ですから年賀状用の2ショット写真の事が頭を過ります。 -
「旅順口」の石碑の前でももう1枚撮っておきましょう。
-
ここで午後の行先を変更することにしました。まあせっかく来たから程度で考えていた「水師営会見所」は止めにして、「東鶏冠山北堡塁」は予定通り、追加で「日露監獄博物館」に行くことにしました。同じ道行きになったS君は午前中に水師営に行っているので彼の予定に合わせる事にしました。我が家にとっては「203高地」と「旅順博物館」でほぼ満足の旅でしたから。彼はこの先を40元で交渉しましたので、運転手にとっては合計300元で予定通りの収入です。
-
「東鶏冠山北堡塁」に向けて白玉山を下る途中の「甲午古炮」でタクシーを停めてもらいました。この砲のことは中国人向けの本には記載されていますし、旅順1日遊のコースにも入っていますが、日本語ガイドブックには記載はありません。
-
「甲午古炮」の嘉武砲は1881年に清政府がドイツから購入した大砲で、口径は210 ミリありました。中国では日清戦争のことを甲午戦争と呼ぶことに由来しているのだと思います。甲午は戦争の始まった1894年明治27年のことを指します。
-
東鶏冠山北堡塁に到着です。
ここも駐車料金10元。綺麗な公園に整備されています。 -
東鶏冠山は海抜119メートルにある帝政ロシアが日本軍の防御の為に建設した堡塁であり日露戦争の激戦地でもあります。
-
帝政ロシアは1898年に旅順を租借し、旅順の東側の半永久的な防御線として1900年に中国人労働者を使役して堡塁を建設します。堡塁は周囲496メートル、面積9900平方メートルの不規則な五角形で、天然の岩にコンクリートと石、そして泥土で覆って造られました。通路になっている部分が外壕だった場所です。
-
銃弾の跡がリアルですが、年月が経って風化した趣を感じるのは樹木が生い茂っているせいかもしれません。203高地もそうでしたが当時の写真を見ると砲撃のせいで全くの禿山になっています。現在は松林で覆われて当時を窺い知る術もありません。
-
鉄条網を突破して外壕へ進入した日本兵は前方の胸墻と後方の側防窖室から挟撃され、ここで死体の山を築くことになりました。側防窖室というのは壕に進入してきた敵を掃射する防御施設です。
-
側防暗堡入口にもたくさんの銃弾の跡と砲弾の跡が見えます。
-
日本軍による爆破突破口ですが、中を見ると支柱の高さが天井の高さにほぼ近かったです。すなわち柱から上のコンクリートの厚さが天井の厚さです。これでは天井は抜けないので横から突破口を開く必然性があったのだと実感できます。堡塁の正面で2.3トンのダイナマイトを爆破させ、これに乗じて占領しましたが、日本軍はこの堡塁を突破するために約8,000人の死者を出したそうです。
-
日露戦争後の1916年に「満州戦績保存会」がこの石碑を建てたそうです。石碑の高さは6メートルで、碑文は鮫島重雄中将が題したものだそうです。
-
このような案内板が設置してあるので分かりやすいです。
-
レプリカですが空き地を整備して古い大砲を設置してありました。
-
ロシア大砲陣地の錆付いた砲が時の流れを感じさせます。
-
砲弾の形をしたごみ箱と日傘をさした妻の姿がシュールです。
-
要塞内部ですがまるでローマ時代の円形闘技場のように見えました。史跡もいつかは遺跡になるのでしょうか。
-
ロシア軍の宿泊所跡ですが、ロシア兵も冬場は相当寒かったのではなかろうかと思います。
-
何故このような長い通路のような兵士宿舎を設けたのでしょう。
-
土嚢を積んだ機関銃の銃座がリアルな感じです。銃口の先には茂った木々しか見えません。
-
203高地で28センチ砲を見て、砲弾はどれくらいの大きさなのだろうと疑問を感じていたらちゃんとありました。この後係員の方がジオラマを使って日露戦争当時の両軍の事を事細かに説明してくれました。日本人でありながら知らないことが多くて勉強不足を感じました。
利用規約に違反している投稿は、報告する事ができます。
旅行記グループ
2010 大連・旅順・瀋陽・長春・ハルピンの旅
-
前の旅行記
マンチュリアン・リポート(1)旧ヤマトホテルに宿泊し、古き日本の面影を探しながら大連の町を彷徨う。
2010/09/13~
大連
-
次の旅行記
マンチュリアン・リポート(3)旅順の旧跡巡りは「日露監獄旧蹟博物館」で終わり、水餃子を食べて旅順站から各駅列...
2010/09/13~
大連
-
マンチュリアン・リポート(1)旧ヤマトホテルに宿泊し、古き日本の面影を探しながら大連の町を彷徨う。
2010/09/13~
大連
-
マンチュリアン・リポート(2)外国人入域規制が緩和された旅順へは今は無き普通列車で向かい、日露戦争の旧跡と「...
2010/09/13~
大連
-
マンチュリアン・リポート(3)旅順の旧跡巡りは「日露監獄旧蹟博物館」で終わり、水餃子を食べて旅順站から各駅列...
2010/09/13~
大連
-
マンチュリアン・リポート(4)大連火車站から瀋陽北站へ向かい、旧奉天ヤマトホテルだった「遼寧賓館」に泊まり、...
2010/09/13~
瀋陽
-
マンチュリアン・リポート(5)瀋陽の「北陵公園」と「遼寧省博物館」と「昭陵」を訪ねる。
2010/09/13~
瀋陽
-
マンチュリアン・リポート(6)「瀋陽故宮」と「張氏師府博物館」で満州の歴史と張作霖と張学良について学び、しゃ...
2010/09/13~
瀋陽
-
マンチュリアン・リポート(7)長春の新京ヤマトホテルだった「春諠賓館」に泊まり、「偽満皇宮博物院」にラストエ...
2010/09/13~
長春
-
マンチュリアン・リポート(8)長春の「東北倫陥史陳列館」で戦時中の日本を知り、偽満州国の官庁街の建築を訪ねる...
2010/09/13~
長春
-
マンチュリアン・リポート(9)哈爾濱の旧大和旅館に泊まり、中央大街と船で渡った太陽島に露西亜を想い、夜行寝台...
2010/09/13~
哈爾濱
-
マンチュリアン・リポート(番外) 記念艦三笠と軍港巡り
2013/09/04~
横須賀
旅行記グループをもっと見る
この旅行記へのコメント (10)
-
- タイムトラベラーさん 2015/05/31 11:12:21
- はじめまして
- 突然の訪問で失礼します。
7月に大連旅順を二泊三日でまわろうと思い、4traで皆さんの旅行を見て参考にさせてもらおうと思いました。娘と二人で2日目に旅順を観光する予定です。バスで旅順に行き、そこからタクシーで203高地 旅順博物館 水師営 東鶏冠山 白玉山頂を考えております。しかしどの順番で行けばいいか、妥当な金額はどのくらいか、などなど考えが及びませんでしたがkojikojiさんの旅行記が一番参考になりました。ありがとうございました。
- kojikojiさん からの返信 2015/06/07 21:14:29
- RE: はじめまして
- 旅行記にお立ち寄りいただきありがとうございました。自分でも旅行先を調べる時に必要な情報があると助かるのでガイドブックなどにない情報はなるべく詳しく書き込んでおくようにしています。お役にたててうれしく思います。5月中旬から3週間の予定で今成田から戻ったところです。お返事が遅れて申し訳ありませんでした。またお時間がありましたらお立ち寄りください。
-
- stmasaさん 2013/06/23 11:38:25
- ご無沙汰しております。
- こんにちは、本旅行記に記載の旅順にて
途中からタクシーでご一緒させていただいた者です。
kojikojiさんが4travelに旅行記をお書きになっていると伺っていたため、
以前から拝見させていただいていましたが、
最近4travelのアカウントを作成しましたので、ご挨拶させていただきます。
私も旅行記を書いておりますので、お時間がございましたらご覧ください。
最近の登録ですので、少しずつ遡って書いております…。
- kojikojiさん からの返信 2013/06/23 11:58:04
- RE: ご無沙汰しております。
- stmasaさん
ビックリしました。
御無沙汰しています。
お元気そうですね。というかいろいろ旅行されているようで何よりです。
旅行記を見てくれていたそうでありがとうございます。
2週間ほど前にインドネシアから帰った所で現在少しずつ旅行記作成中です。
stmasaさんも行かれたジョグジャにも5日ほどいましたが、その前のバリ島に苦戦中なのでアップするのはまだ先になると思います。
またお立ち寄りください。
面白そうなところを旅されているようですね。
旅行記面白く拝見しました。
妻もビックリして、よろしくお伝えくださいとのことです。
- stmasaさん からの返信 2013/06/25 22:59:41
- RE: RE: ご無沙汰しております。
- お返事ありがとうございます。そして突然驚かせてすみません(笑)
なかなか、kojikojiさんのような中身の濃い旅行記にはなりませんが…。
少しずつ足していっています。
比較的得意分野である中国もそのうち書いていこうと思います。
- kojikojiさん からの返信 2013/06/25 23:57:40
- RE: RE: RE: ご無沙汰しております。
- いえいえ連絡いただいてうれしかったですよ。
得意の中国シリーズをぜひお願いします。
楽しみにしています。
インドネシアの旅行記は細かくなりすぎてあまり進捗しません。
-
- gofukujiさん 2010/09/30 16:40:20
- 旅順博物館、興味深く拝見しました。
- KOJIKOJIさま。
旅順訪問記、興味深く拝見しました。
特に、控え目で格調高いコメントが、一層印象深く感じられました。
博物館には、大谷探検隊のシルクロード探検の遺品の一部が展示されているこ とをはじめて知りました。貴重な興味深い発見です。コメントのとうり、展示 ケースも素敵ですね。
旅行記全体に、実に丁寧で行き届いたコメントが添えられてており、心温まる
ものです。優れた旅行記と申せましょう。
中国は、列車の旅が一番なのですが、なかなか時間的にゆとりが取れず、そう
した意味からも、羨ましい思いがしております。
一層のご活躍を祈ります。
大谷 秀雄
- kojikojiさん からの返信 2010/10/01 00:24:25
- RE: 旅順博物館、興味深く拝見しました。
- 大谷様
旅行記を見て頂いてありがとうございます。
自分で旅行をするときに4トラベルを参考にしていますが、以外に自分が
知りたいことと他のトラベラーの方の興味を持つ事に違いを感じます。
そう思うと自分が旅した後に同じ趣向を持つ方の手掛かりになればと思ってしまいます。旅行中には意識はしませんが旅行記としてアップする時に強く感じる時があります。そしてそんな思いを感じ取っていただいた方からお便りをいただくととても嬉しく思います。こんな博物館の陳列品を時間をかけてアップしても思うこともありますが見ていただける方があるのだと励みになります。ありがとうございます。旅順〜瀋陽〜長春〜ハルピンと旅の記録は続きます。お時間がありましたらご覧になってください。
よろしくお願いいたします。
- gofukujiさん からの返信 2010/10/01 18:58:30
- RE: RE: 旅順博物館、興味深く拝見しました。
- > KOJIKOJI様。
早速のご返事、有難うございました。
以前、KOJIKOJIさんの掲示板に感想を書いたことを思い出しました。
これまでの旅行記も拝見させていただき、KOJIKOJIさんの視点と申しますか、
対象や景観に対する距離感・間合いが実に洗練されており、優れた批評力・
観賞力に富んでいることを感じさせられました。
私も中国には、以前から(最初の訪中は1968年、大学2年生の時でした)
興味を持っており、これまで中国へは13回ほど訪れました。それでも、
北京、上海、西安、延安、シンセン、中山市、ハルピン、杭州と言ったところ だけですし、列車の旅行は時間的なゆとりもなく過ごしてまいりました。
ともあれKOJIKOJIさんの旅行記を拝見しているだけで、一度訪れてみたいとの
期待感が湧いてきますし、実際に旅行に参加させていただいているような気分 を感じています。一言、御礼まで。
大谷 秀雄
- kojikojiさん からの返信 2010/10/01 23:09:14
- RE: RE: RE: 旅順博物館、興味深く拝見しました。
- 大谷様
恐縮至極と同時に私に旅の仕方物の見方、見ると視ると観るの違いを教えてくれた父に感謝の念を禁じえません。父とは物心ついた昭和40年頃から日本中を一緒に旅しました。小学生になる頃には数日間の登山に何が必要で、その場所に行くにはどの電車でどこの駅から何時に乗るのかなど叩き込まれました。そして日記を書くことと旅先でスケッチすることなど今の旅の仕方は40年前には出来ていたのだと思います。残念なのはそんな旅行好きの父はパーキンソン病を患い一緒に旅行できないことです。ですので旅行前には予定表を見せて感想を尋ね、旅先からは一日も空けずに絵葉書を書いています。もう500枚は超えたでしょうか。旅行記をアップさせる前に絵葉書と日記を書いているのでコメントも多少こなれているのかも知れません。物を書くのはあまり得意では無いのですが、不特定多数の方が読まれる以上不快感を持たれない様には心がけています。ただ自分の言いたい事もあるので回りくどく表現を変えていることもあるかもしれません。
またこうやって大谷さんからお便りをいただいたりすると旅先で出会った沢山の方々のことを思い出します。旅先でいろいろな方に助けていただいたりすると自分の旅は自分だけのものでは無い様に思えます。自分達の旅に関わった全ての方に感謝しながら、全てプラス思考で解釈してこれからも楽しく旅を続けたいと思います。そして共感していただける方がいる限り旅行記も続けたいと思います。ありがとうございました。
コメントを投稿する前に
十分に確認の上、ご投稿ください。 コメントの内容は攻撃的ではなく、相手の気持ちに寄り添ったものになっていますか?
サイト共通ガイドライン(利用上のお願い)報道機関・マスメディアの方へ 画像提供などに関するお問い合わせは、専用のお問い合わせフォームからお願いいたします。
旅の計画・記録
マイルに交換できるフォートラベルポイントが貯まる
フォートラベルポイントって?
旅行記グループ 2010 大連・旅順・瀋陽・長春・ハルピンの旅
10
150