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瀋陽2日目の午後です。午前中の「昭陵」と「遼寧省博物館」で頭は満腹しましたが、思いがけず時間がかかってしまいお昼はとっくに過ぎてお腹はペコペコです。博物館の裏手に回民街(イスラム街)があるので行ってみる事にしました。昼時を過ぎていて人通りは少なかったので勘を働かせて店を選びましたが、西安での経験が生きたのでしょうか美味しい店に当たりました。後は一筆書きで「大清宮」(老子と関羽を祭った道観)をお参りして、中街を抜けて「瀋陽故宮」の見学をしました。そして「張氏師府博物館」で念願の張作霖の官邸兼私邸の見学もできました。今回の旅行では9月18日に瀋陽(奉天)から長春(新京)に列車で移動すると言うのが目的の一つでもありました。9月18日は日本で言う柳条湖事件その日です。これでようやく旅行記のタイトルの「マンチュリアン・リポート」っぽくなってきました。最後に中国東北地方最大級の「天主教堂」(キリスト教会)を見学して瀋陽の観光は終わりました。さっとタクシーで夕食を食べてホテルに戻ろうと思ったら、夕方の5時過ぎから7時過ぎまでは全くと言って良い程タクシーを捉まえる事は出来ませんでした。何とか捕まえたタクシーで「国府肥牛」というしゃぶしゃぶの店で満腹になるまで美味しい牛肉を頂いて元気になりました。

マンチュリアン・リポート(6)「瀋陽故宮」と「張氏師府博物館」で満州の歴史と張作霖と張学良について学び、しゃぶしゃぶに舌鼓。

7いいね!

2010/09/13 - 2010/09/21

135位(同エリア321件中)

kojikoji

kojikojiさん

瀋陽2日目の午後です。午前中の「昭陵」と「遼寧省博物館」で頭は満腹しましたが、思いがけず時間がかかってしまいお昼はとっくに過ぎてお腹はペコペコです。博物館の裏手に回民街(イスラム街)があるので行ってみる事にしました。昼時を過ぎていて人通りは少なかったので勘を働かせて店を選びましたが、西安での経験が生きたのでしょうか美味しい店に当たりました。後は一筆書きで「大清宮」(老子と関羽を祭った道観)をお参りして、中街を抜けて「瀋陽故宮」の見学をしました。そして「張氏師府博物館」で念願の張作霖の官邸兼私邸の見学もできました。今回の旅行では9月18日に瀋陽(奉天)から長春(新京)に列車で移動すると言うのが目的の一つでもありました。9月18日は日本で言う柳条湖事件その日です。これでようやく旅行記のタイトルの「マンチュリアン・リポート」っぽくなってきました。最後に中国東北地方最大級の「天主教堂」(キリスト教会)を見学して瀋陽の観光は終わりました。さっとタクシーで夕食を食べてホテルに戻ろうと思ったら、夕方の5時過ぎから7時過ぎまでは全くと言って良い程タクシーを捉まえる事は出来ませんでした。何とか捕まえたタクシーで「国府肥牛」というしゃぶしゃぶの店で満腹になるまで美味しい牛肉を頂いて元気になりました。

旅行の満足度
4.0
観光
4.0
ホテル
4.0
グルメ
4.0
ショッピング
3.0
交通
3.0
同行者
カップル・夫婦(シニア)
一人あたり費用
5万円 - 10万円
交通手段
鉄道 タクシー 徒歩
航空会社
ANA
旅行の手配内容
個別手配
  • 回民街の手前で奉天街を通りました。昔は奉天城と呼ばれた名残でしょうか?満州時代に奉天と呼ばれていたので替えられそうな名前です。

    回民街の手前で奉天街を通りました。昔は奉天城と呼ばれた名残でしょうか?満州時代に奉天と呼ばれていたので替えられそうな名前です。

  • 回民街の青く塗られた集合住宅は、名前の通り回教(イスラム教)の人達の住居です。幼稚園や小中学校も集中していてひとつのコミュニティが出来あがっているようです。「清真美食街」はお昼をだいぶ廻っているので人通りはありませんが、店の中には人の気配はあります。

    回民街の青く塗られた集合住宅は、名前の通り回教(イスラム教)の人達の住居です。幼稚園や小中学校も集中していてひとつのコミュニティが出来あがっているようです。「清真美食街」はお昼をだいぶ廻っているので人通りはありませんが、店の中には人の気配はあります。

  • 美食街と言ってもこんな通りです。夜になると歩行者天国の夜市のようになるのかもしれません。

    美食街と言ってもこんな通りです。夜になると歩行者天国の夜市のようになるのかもしれません。

  • 西門から入って一番奥になる東側の「希来順清真牛肉大餅」という店です。青く塗られたインテリアが可愛らしい食堂に入ることにしました。

    西門から入って一番奥になる東側の「希来順清真牛肉大餅」という店です。青く塗られたインテリアが可愛らしい食堂に入ることにしました。

  • 妻の勘と西安での経験を生かして入った店は大正解でした。<br />

    妻の勘と西安での経験を生かして入った店は大正解でした。

  • メニューを読んでも普通の中華料理では無いので理解できません。いつもの手でおじさんに「隣の人達が食べてる丸い揚げパンはどれ?」と尋ねると「牛肉大餅」「1人2枚だろうね。」と言うので「じゃあ、4枚ちょうだい。それとあのスープは。」「あれは羊スープで美味しいよ。そのままでも良いけどニンニクか唐辛子を入れても美味しいよ。」との事でした。

    メニューを読んでも普通の中華料理では無いので理解できません。いつもの手でおじさんに「隣の人達が食べてる丸い揚げパンはどれ?」と尋ねると「牛肉大餅」「1人2枚だろうね。」と言うので「じゃあ、4枚ちょうだい。それとあのスープは。」「あれは羊スープで美味しいよ。そのままでも良いけどニンニクか唐辛子を入れても美味しいよ。」との事でした。

  • ビールを注文すると「これをつまみにやんなよ。」と煮豆と煮昆布を出してくれました。先ほど表でおじいさんがこれをつまみにビールを飲んでるのを思い出しました。<br />「お正月が来たみたいだね。」と言いながら2人で摘まみます。

    ビールを注文すると「これをつまみにやんなよ。」と煮豆と煮昆布を出してくれました。先ほど表でおじいさんがこれをつまみにビールを飲んでるのを思い出しました。
    「お正月が来たみたいだね。」と言いながら2人で摘まみます。

  • 「羊湯」は最高においしかったです。というよりは体が温まりました。<br />スープは少し塩のきいた薄味で、具は羊のいろいろな部位の細切れです。<br />私はこのままいただきましたが、妻はニンニクと唐辛子を入れて地元の人のように食べます。

    「羊湯」は最高においしかったです。というよりは体が温まりました。
    スープは少し塩のきいた薄味で、具は羊のいろいろな部位の細切れです。
    私はこのままいただきましたが、妻はニンニクと唐辛子を入れて地元の人のように食べます。

  • 普通の中国のレストランでは出てこないような料理ばかりです。

    普通の中国のレストランでは出てこないような料理ばかりです。

  • テーブルに置いてあったメニューです。注文したのはこの2つです。

    テーブルに置いてあったメニューです。注文したのはこの2つです。

  • こんなスープだと普通の日本人の女性は中身を確認すると思いますが、躊躇することも無くそのまま蓮華ですくってパックリ行く妻はすごいなと思います。妻の鼻はよく利くので、選んだ店で不味い物が出てきた事はありません。初めて行く国や言葉が分からない時にはとても重宝します。

    こんなスープだと普通の日本人の女性は中身を確認すると思いますが、躊躇することも無くそのまま蓮華ですくってパックリ行く妻はすごいなと思います。妻の鼻はよく利くので、選んだ店で不味い物が出てきた事はありません。初めて行く国や言葉が分からない時にはとても重宝します。

  • シンプルながら素敵なインテリアです。親父が1人で切り盛りしているようです。

    シンプルながら素敵なインテリアです。親父が1人で切り盛りしているようです。

  • 牛肉大餅1枚1元、羊湯1碗2元、全部で21元でした。ビールが無ければ8元(約100円)で2人が食事出来ます。入るときにビールを飲んでいる人がいたのでこの店を選びましたが、店によってはアルコールを置いていないと思います。

    牛肉大餅1枚1元、羊湯1碗2元、全部で21元でした。ビールが無ければ8元(約100円)で2人が食事出来ます。入るときにビールを飲んでいる人がいたのでこの店を選びましたが、店によってはアルコールを置いていないと思います。

  • 時間があれば夜にもう一度来てみたい回民街でした。

    時間があれば夜にもう一度来てみたい回民街でした。

  • 回民街でお腹がいっぱいになったので、歩いて「太清宮」まで来ました。入場料2元払って参拝します。中国には孔子を祀った孔廟は多いですが、ここは老子を祭った道教のお宮です。

    回民街でお腹がいっぱいになったので、歩いて「太清宮」まで来ました。入場料2元払って参拝します。中国には孔子を祀った孔廟は多いですが、ここは老子を祭った道教のお宮です。

  • 太清宮は清の康煕2年(1663年)に全真教龍門派の第8代当主の郭守真により創建された道観(道教寺院)です。太清宮は創建時に三教堂と称して、清の乾隆44年(1779年)に太清宮と改称します。

    太清宮は清の康煕2年(1663年)に全真教龍門派の第8代当主の郭守真により創建された道観(道教寺院)です。太清宮は創建時に三教堂と称して、清の乾隆44年(1779年)に太清宮と改称します。

  • 立派な建物に驚かされますが、歴史は古さに対して建物は比較的新しく、工事中の部分もあり開発が進んでいるようです。

    立派な建物に驚かされますが、歴史は古さに対して建物は比較的新しく、工事中の部分もあり開発が進んでいるようです。

  • 太清宮の本殿は太上老君を祀る老君殿で、金庸の武侠小説などでお馴染みの全真七子の丘処機が祀られています。ここでは全真教龍門派の創始者として祀られているようです。不思議な装束の道士が占いをしてくれます。装束はまるで映画の霊幻道士さながらです。道士の服装は道袍と称し、中国古代の漢服の一種で、頭には古代の冠巾をかぶり、足には雲履と称する下履きを履いています。<br />

    太清宮の本殿は太上老君を祀る老君殿で、金庸の武侠小説などでお馴染みの全真七子の丘処機が祀られています。ここでは全真教龍門派の創始者として祀られているようです。不思議な装束の道士が占いをしてくれます。装束はまるで映画の霊幻道士さながらです。道士の服装は道袍と称し、中国古代の漢服の一種で、頭には古代の冠巾をかぶり、足には雲履と称する下履きを履いています。

  • 内には関帝殿があり三国志に登場する関帝聖君(関羽)、関羽の息子の関平(かんぺい)、周倉(しゅうそう)の像が祀られています。樹下には関羽の愛馬だった赤兎馬の像も見えます。

    内には関帝殿があり三国志に登場する関帝聖君(関羽)、関羽の息子の関平(かんぺい)、周倉(しゅうそう)の像が祀られています。樹下には関羽の愛馬だった赤兎馬の像も見えます。

  • 「太清宮」から中街までは歩いてすぐでした。古い物と新しい物が混在した不思議な景色です。西方向のずっと先の城壁があったところに、復元した「懷遠門(大西門)」が見えます。多分奥にそびえる「新恒基国際大廈」には風水上の何かがあるのだと思ってしまいます。

    「太清宮」から中街までは歩いてすぐでした。古い物と新しい物が混在した不思議な景色です。西方向のずっと先の城壁があったところに、復元した「懷遠門(大西門)」が見えます。多分奥にそびえる「新恒基国際大廈」には風水上の何かがあるのだと思ってしまいます。

  • 瀋陽は明の宏武21年に最初の城壁の建設を開始しましたが、建設は遼東都の司令官である閔忠負が指揮しました。 主に北方の蒙古人と女真人からの軍事的な攻撃に対抗するためのものです。当時の瀋陽には東に龍寧門、南に宝安門、西に永昌門、北に安平門の4つの門がありました。後にヌルハチは瀋陽に遷都したので8つの門の改造が彼によって命じられたと誤解されています。 遷都後の城壁や城門には大きな変化は無かったそうです。

    瀋陽は明の宏武21年に最初の城壁の建設を開始しましたが、建設は遼東都の司令官である閔忠負が指揮しました。 主に北方の蒙古人と女真人からの軍事的な攻撃に対抗するためのものです。当時の瀋陽には東に龍寧門、南に宝安門、西に永昌門、北に安平門の4つの門がありました。後にヌルハチは瀋陽に遷都したので8つの門の改造が彼によって命じられたと誤解されています。 遷都後の城壁や城門には大きな変化は無かったそうです。

  • 瀋陽の観光のメインである「瀋陽故宮博物院」に着きました。瀋陽に到着した前日の夕方に見てしまおうかと思いましたが、薄暗かったのと寒かったので止めましたが正解でした。

    瀋陽の観光のメインである「瀋陽故宮博物院」に着きました。瀋陽に到着した前日の夕方に見てしまおうかと思いましたが、薄暗かったのと寒かったので止めましたが正解でした。

  • 17世紀に中国北方の遊牧民族である満州族は、清朝の前身となる後金王朝を建国し、その勢力を拡大しました。初代皇帝のヌルハチは瀋陽を都とし、後を継いだホンタイジが国号を清と改めて皇帝として即位しました。

    17世紀に中国北方の遊牧民族である満州族は、清朝の前身となる後金王朝を建国し、その勢力を拡大しました。初代皇帝のヌルハチは瀋陽を都とし、後を継いだホンタイジが国号を清と改めて皇帝として即位しました。

  • この2人が居住したのが瀋陽故宮で、後に清が中国を支配すると都は北京へと移されます。瀋陽は副首都となり瀋陽故宮は副都宮殿となります。

    この2人が居住したのが瀋陽故宮で、後に清が中国を支配すると都は北京へと移されます。瀋陽は副首都となり瀋陽故宮は副都宮殿となります。

  • 瀋陽故宮は広さは約6万平方メートルと北京故宮の12分の1ですが、部屋数はおよそ300で建築物の数は約70もあります。北京の故宮のミニチュア版といった感じがします。清朝建国の地ですから歴代の清朝の皇帝も瀋陽の陵墓には参拝しています。西太后もイギリス製の特別仕様の列車で来ていることが、浅田次郎の「マンチュリアン・リポート」に描かれています。

    瀋陽故宮は広さは約6万平方メートルと北京故宮の12分の1ですが、部屋数はおよそ300で建築物の数は約70もあります。北京の故宮のミニチュア版といった感じがします。清朝建国の地ですから歴代の清朝の皇帝も瀋陽の陵墓には参拝しています。西太后もイギリス製の特別仕様の列車で来ていることが、浅田次郎の「マンチュリアン・リポート」に描かれています。

  • 崇政殿は桁行五間梁間三間で前後に廊を出す造りで、両脇は厚い煉瓦の壁になり、正面は美しいタイルで覆われています。モチーフのほとんどが五本爪の龍で、それ以外にも麒麟などの瑞獣で覆われています。この建物は皇帝が臣下や外国使節を引見する建物として使われています。

    崇政殿は桁行五間梁間三間で前後に廊を出す造りで、両脇は厚い煉瓦の壁になり、正面は美しいタイルで覆われています。モチーフのほとんどが五本爪の龍で、それ以外にも麒麟などの瑞獣で覆われています。この建物は皇帝が臣下や外国使節を引見する建物として使われています。

  • このような建築は初めて見ましたが肘木が龍の形になっています。横から見上げると美しい木組みと彩色を見る事が出来ます。

    このような建築は初めて見ましたが肘木が龍の形になっています。横から見上げると美しい木組みと彩色を見る事が出来ます。

  • 崇政殿の内部には見事な玉座が設けられています。玉座の上に掲げられた「正大光明」の扁額は、清王朝第5代皇帝の雍正帝が考案した「儲位密建(ちょいみっけん)」の法で有名です。北京の故宮では後継者となる皇子の名を記した勅書を厳封した上でこの「正大光明」の扁額の裏に置き、自分の死後に皆で立ち会ってこれを開封して次帝を立てるようにと定めています。

    崇政殿の内部には見事な玉座が設けられています。玉座の上に掲げられた「正大光明」の扁額は、清王朝第5代皇帝の雍正帝が考案した「儲位密建(ちょいみっけん)」の法で有名です。北京の故宮では後継者となる皇子の名を記した勅書を厳封した上でこの「正大光明」の扁額の裏に置き、自分の死後に皆で立ち会ってこれを開封して次帝を立てるようにと定めています。

  • 故宮の敷地内は東路と中路と西路の3つに分けられます。東路は最も古くてヌルハチの時代から使われていました。代表的な建物は大政殿で、帳殿式という独特な建築様式が用いられています。大政殿自体は、遊牧民族が使用した移動式テント(ゲル)を模しているといわれています。ここでは、ルハチが政務を執ったほか、式典が行われていました。

    故宮の敷地内は東路と中路と西路の3つに分けられます。東路は最も古くてヌルハチの時代から使われていました。代表的な建物は大政殿で、帳殿式という独特な建築様式が用いられています。大政殿自体は、遊牧民族が使用した移動式テント(ゲル)を模しているといわれています。ここでは、ルハチが政務を執ったほか、式典が行われていました。

  • 「頤和殿」の扁額は漢字と満州文字が併記されています。額には8匹の竜がうごめいているようです。

    「頤和殿」の扁額は漢字と満州文字が併記されています。額には8匹の竜がうごめいているようです。

  • 故宮の四殿(大政殿、崇政殿、迪光殿、頤和殿)として重要な建物でもあります。内部は清の時代から時間が止まったままのように見えます。

    故宮の四殿(大政殿、崇政殿、迪光殿、頤和殿)として重要な建物でもあります。内部は清の時代から時間が止まったままのように見えます。

  • 「大政殿」は八角重層宝形の建築で、八面に廊を出して正面の柱には龍を配置し、天井と下り龍の藻井を設けています。この大政殿は瀋陽故宮で最も厳粛で神聖な場所で、ここで皇帝は即位や詔書の頒布、軍出陣の宣布や凱旋将士の迎接などの大典と執り行いました。

    「大政殿」は八角重層宝形の建築で、八面に廊を出して正面の柱には龍を配置し、天井と下り龍の藻井を設けています。この大政殿は瀋陽故宮で最も厳粛で神聖な場所で、ここで皇帝は即位や詔書の頒布、軍出陣の宣布や凱旋将士の迎接などの大典と執り行いました。

  • 大政殿は帳殿式という独特な建築様式が採用され、満州族が草原のテント文化に源を発し、満州族や漢族、チベット族や蒙古族など諸民族の文化を内包し、その建築特徴も融合させたものとなっていることがわかります。

    大政殿は帳殿式という独特な建築様式が採用され、満州族が草原のテント文化に源を発し、満州族や漢族、チベット族や蒙古族など諸民族の文化を内包し、その建築特徴も融合させたものとなっていることがわかります。

  • 宮殿の高さは19メートルあり、外から見ると八角形をしています。真正面の両柱にはそれぞれ頭を高く上げ爪を振るう金色の龍がからみついています。

    宮殿の高さは19メートルあり、外から見ると八角形をしています。真正面の両柱にはそれぞれ頭を高く上げ爪を振るう金色の龍がからみついています。

  • 大政殿の外側の木造の軒はチベット仏教の建築特色を備えた獣面彫塑も参考にしている不思議な木組みです。どう組み合わさっているのか見当もつきません。

    大政殿の外側の木造の軒はチベット仏教の建築特色を備えた獣面彫塑も参考にしている不思議な木組みです。どう組み合わさっているのか見当もつきません。

  • 中に入ると中央の八本の盤竜柱(竜がからみついている柱)に囲まれた台座の上に、木彫りに金泥の施された玉座が設けられています。天井の中央には竜の図案が刻まれ、そのまわりに垂れ幕と福禄寿喜の文字が図案化され、そして円型のサンスクリット語の木彫りが施されています。

    中に入ると中央の八本の盤竜柱(竜がからみついている柱)に囲まれた台座の上に、木彫りに金泥の施された玉座が設けられています。天井の中央には竜の図案が刻まれ、そのまわりに垂れ幕と福禄寿喜の文字が図案化され、そして円型のサンスクリット語の木彫りが施されています。

  • 博物館は敷地面積が7000平方メートルで収蔵されている文物は数万点あり、いずれも清朝の宮廷の歴史、宮廷の生活を反映した実物や資料です。典制文物や宗教関係の文物に書や絵画、磁器や刺繍や碑刻などが含まれ、そのなかには国宝級の収蔵品も数多くあるそうです。その1部が博物館のように陳列してありました。

    博物館は敷地面積が7000平方メートルで収蔵されている文物は数万点あり、いずれも清朝の宮廷の歴史、宮廷の生活を反映した実物や資料です。典制文物や宗教関係の文物に書や絵画、磁器や刺繍や碑刻などが含まれ、そのなかには国宝級の収蔵品も数多くあるそうです。その1部が博物館のように陳列してありました。

  • 高さ30センチほどの透明な瓶(へい)です。一見何でもないようなものですが、素材は水晶です。最高級の水晶を刳り貫いて瓶とし、蓋と両脇には遊環(ゆうかん)まで備えています。水晶の硬度は7で御影石が6から7でほぼ同じ硬さです。なので石材研磨剤やダイヤモンドカッターが無い時代にどうやって作ったのか言葉が出ません。

    高さ30センチほどの透明な瓶(へい)です。一見何でもないようなものですが、素材は水晶です。最高級の水晶を刳り貫いて瓶とし、蓋と両脇には遊環(ゆうかん)まで備えています。水晶の硬度は7で御影石が6から7でほぼ同じ硬さです。なので石材研磨剤やダイヤモンドカッターが無い時代にどうやって作ったのか言葉が出ません。

  • 商代後期の中頃から出現した觚形尊(こけいそん)は、觚が径を増し全体に大型となって盛酒用(せいしゅよう)に転じたものと考えられますが、その「尊」の形を翡翠で表したものです。明の万歴年間の陶器と同じデザインなのが分かります。どれだけの時間をかければこのようなものが造られるのでしょうか。また素材の玉の透明感にも驚きます。

    商代後期の中頃から出現した觚形尊(こけいそん)は、觚が径を増し全体に大型となって盛酒用(せいしゅよう)に転じたものと考えられますが、その「尊」の形を翡翠で表したものです。明の万歴年間の陶器と同じデザインなのが分かります。どれだけの時間をかければこのようなものが造られるのでしょうか。また素材の玉の透明感にも驚きます。

  • 翡翠の硬度も水晶と同じくらいあります。電動工具も無かった時代は手動で回転させる工具を使うことは想像できますが、これだけ細かい細工をする旋盤を見てみたい気がします。この「璧」を見て思うのは、趙の国に「和氏の璧(かしのへき)」と呼ばれる名宝があり、秦の国の昭王はこの璧がほしくなり、これを秦の15の城と交換しようと話を持ちかけます。強国の秦からの話に趙の国の王は、この璧を渡すべきか渡さないべきか迷います。この時に趙の国の家臣の藺相如(りんそうじょ)が璧(へき)をもって秦への使いに発ちますが、秦の国の昭王が璧だけをうばい取り15の城を趙の国にわたす気持ちがないと見ると、藺相如(りんそうじょ)は秦の国の昭王をあざむいて、無事に璧を趙の国に持ち帰ったことか「完璧」という言葉が出来た故事です。

    翡翠の硬度も水晶と同じくらいあります。電動工具も無かった時代は手動で回転させる工具を使うことは想像できますが、これだけ細かい細工をする旋盤を見てみたい気がします。この「璧」を見て思うのは、趙の国に「和氏の璧(かしのへき)」と呼ばれる名宝があり、秦の国の昭王はこの璧がほしくなり、これを秦の15の城と交換しようと話を持ちかけます。強国の秦からの話に趙の国の王は、この璧を渡すべきか渡さないべきか迷います。この時に趙の国の家臣の藺相如(りんそうじょ)が璧(へき)をもって秦への使いに発ちますが、秦の国の昭王が璧だけをうばい取り15の城を趙の国にわたす気持ちがないと見ると、藺相如(りんそうじょ)は秦の国の昭王をあざむいて、無事に璧を趙の国に持ち帰ったことか「完璧」という言葉が出来た故事です。

  • 今回の旅で「旅順博物館」でも琺瑯(ほうろう)の素晴らしい作品を見ましたが、この博物館の香炉は仰々しいデザインで、皇帝の威厳を高めるものだったと思えます。

    今回の旅で「旅順博物館」でも琺瑯(ほうろう)の素晴らしい作品を見ましたが、この博物館の香炉は仰々しいデザインで、皇帝の威厳を高めるものだったと思えます。

  • 瓢箪の形をした器に立体的に七宝を施し、さらにその上に白玉を貼り付けています。

    瓢箪の形をした器に立体的に七宝を施し、さらにその上に白玉を貼り付けています。

  • 若い頃はこんなデザインは全く興味が持てませんでしたが、歳を重ねると共に良く見えてくるのが不思議です。広島の金城一国斎(きんじょう いっこくさい)の高蒔絵を思い出させるデザインです。

    若い頃はこんなデザインは全く興味が持てませんでしたが、歳を重ねると共に良く見えてくるのが不思議です。広島の金城一国斎(きんじょう いっこくさい)の高蒔絵を思い出させるデザインです。

  • 銅胎画琺瑯西洋人物龍耳瓶といった感じでしょうか。乾隆帝時代には西洋人物を描いた図柄が好まれたようで、台北の故宮博物院でも幾つか見た記憶があります。

    銅胎画琺瑯西洋人物龍耳瓶といった感じでしょうか。乾隆帝時代には西洋人物を描いた図柄が好まれたようで、台北の故宮博物院でも幾つか見た記憶があります。

  • 外側が美しく花で覆われた高杯は欲しいなと思える逸品でした。

    外側が美しく花で覆われた高杯は欲しいなと思える逸品でした。

  • とても中国で造られたとは思えない様な器の形と絵付けです。フルーツの描き方などはイタリアの陶器のようにも見えます。

    とても中国で造られたとは思えない様な器の形と絵付けです。フルーツの描き方などはイタリアの陶器のようにも見えます。

  • 「粉彩鳳凰紋茶壺」<br />金や玉で装飾され過ぎて本来のお茶の味が分からない気がします。

    「粉彩鳳凰紋茶壺」
    金や玉で装飾され過ぎて本来のお茶の味が分からない気がします。

  • 康熙年間末期には粉彩という新技法が開発され、これは西洋の七宝の技法を磁器に応用したもので、石英の粉末と鉛を混ぜたものを基礎に、さまざまな色料を用いて絵画的な図様を器面に描くことができるようになります。

    康熙年間末期には粉彩という新技法が開発され、これは西洋の七宝の技法を磁器に応用したもので、石英の粉末と鉛を混ぜたものを基礎に、さまざまな色料を用いて絵画的な図様を器面に描くことができるようになります。

  • 面白い形をした青磁の瓶(へい)は首が6つあります。胴を貼り合わせたのか、首は轆轤を挽いたのかどうやって形にしたのか不思議です。

    面白い形をした青磁の瓶(へい)は首が6つあります。胴を貼り合わせたのか、首は轆轤を挽いたのかどうやって形にしたのか不思議です。

  • 「清粉彩唐子遊戯文水注」は西域を思わせる形の水注です。描かれた唐子が遊ぶさまに引き込まれます。

    「清粉彩唐子遊戯文水注」は西域を思わせる形の水注です。描かれた唐子が遊ぶさまに引き込まれます。

  • 子供の頃は京都の祖父母の家で毎年新年を迎えていましたが、床の間に必ず「百唐子図」の掛け軸が掛けられ、何回数えても100人にならなかったことを思い出します。<br />今では叔母が1人でその家を守っていますが、もう子供が集まることも無くなってしまいました。

    子供の頃は京都の祖父母の家で毎年新年を迎えていましたが、床の間に必ず「百唐子図」の掛け軸が掛けられ、何回数えても100人にならなかったことを思い出します。
    今では叔母が1人でその家を守っていますが、もう子供が集まることも無くなってしまいました。

  • 「琺瑯彩松竹梅紋瓶」は松竹梅の透かしになった胴の部分の中にもう一つの胴があり、透かし越しに中の絵を見る事が出来て胴は回転します。どうやって造ったのかは見当がつきますが、透かし越しに絵を描いたことが驚きです。

    「琺瑯彩松竹梅紋瓶」は松竹梅の透かしになった胴の部分の中にもう一つの胴があり、透かし越しに中の絵を見る事が出来て胴は回転します。どうやって造ったのかは見当がつきますが、透かし越しに絵を描いたことが驚きです。

  • 「粉彩桃文天球瓶」粉彩は西洋の七宝の技法を応用したもので、西洋の金属器ではなく磁器にエナメル製釉を施してあります。淡い色合いと色彩のグラデーションが美しいです。

    「粉彩桃文天球瓶」粉彩は西洋の七宝の技法を応用したもので、西洋の金属器ではなく磁器にエナメル製釉を施してあります。淡い色合いと色彩のグラデーションが美しいです。

  • 「闘彩?後鳳紋吉祥紋盒」<br />非常に凝った紋様で飾られて、見込みの中央には?後鳳(キホウ)という怪獣のようなものが一対描かれています。?後鳳紋の上部に法輪のような物が描かれ、周りには唐草紋や雲紋や七宝紋が描かれています。

    「闘彩?後鳳紋吉祥紋盒」
    非常に凝った紋様で飾られて、見込みの中央には?後鳳(キホウ)という怪獣のようなものが一対描かれています。?後鳳紋の上部に法輪のような物が描かれ、周りには唐草紋や雲紋や七宝紋が描かれています。

  • 「青花釉裏紅竜濤文盤」清の雍正年製の大皿です。上等な呉須の波の中を泳ぐ釉裏紅で描かれた龍が見事です。還元炎焼成によって赤く発色する銅の性質を利用して、透明釉の中に呈色剤として銅を含ませて赤い釉薬として用いたものを「辰砂釉」と呼び、透明釉の下に銅を含む絵具によって文様をあらわしたものを「釉裏紅」と呼びます。

    「青花釉裏紅竜濤文盤」清の雍正年製の大皿です。上等な呉須の波の中を泳ぐ釉裏紅で描かれた龍が見事です。還元炎焼成によって赤く発色する銅の性質を利用して、透明釉の中に呈色剤として銅を含ませて赤い釉薬として用いたものを「辰砂釉」と呼び、透明釉の下に銅を含む絵具によって文様をあらわしたものを「釉裏紅」と呼びます。

  • 博物館から出てくると先ほどまで大勢で記念写真を撮っていた中国の国内ツアーの人たちが1人もいなくなっていました。

    博物館から出てくると先ほどまで大勢で記念写真を撮っていた中国の国内ツアーの人たちが1人もいなくなっていました。

  • 沢山の鉢植えがありましたが、これが一番フォトジェニックでした。もう少し花が残っていたら最高だったのですが。

    イチオシ

    沢山の鉢植えがありましたが、これが一番フォトジェニックでした。もう少し花が残っていたら最高だったのですが。

  • 綺麗に影壁が残されていました。元々の壁の前に影壁を建てた意味は何だったのでしょう。

    綺麗に影壁が残されていました。元々の壁の前に影壁を建てた意味は何だったのでしょう。

  • 吉祥模様の鶴が描かれていますが、ここでツーショットの写真を撮れば年賀状に使えたと思いましたが、周囲には誰もいません。

    吉祥模様の鶴が描かれていますが、ここでツーショットの写真を撮れば年賀状に使えたと思いましたが、周囲には誰もいません。

  • 宮殿の中には他に観光客の姿も無く、工事を偲びながら歩くにはちょうど良かったです。

    宮殿の中には他に観光客の姿も無く、工事を偲びながら歩くにはちょうど良かったです。

  • 瑠璃瓦と黒い中国の煉瓦の対比がきれいです。煉瓦の積み方はイギリス積みでした。

    瑠璃瓦と黒い中国の煉瓦の対比がきれいです。煉瓦の積み方はイギリス積みでした。

  • 迷路のような故宮の中を歩いて「鳳凰楼」の裏側まで来ました。<br />鳳凰楼の周囲にある宮殿の「清寧宮」はホンタイジと皇后・ボルチジの寝室で、両側にはそれぞれ妃と宮女の寝室があり、東側に「関雎宮」と「衍慶宮」と「東配殿」、西側に「麟趾宮」と「永福宮」と「西配殿」が配されています。

    迷路のような故宮の中を歩いて「鳳凰楼」の裏側まで来ました。
    鳳凰楼の周囲にある宮殿の「清寧宮」はホンタイジと皇后・ボルチジの寝室で、両側にはそれぞれ妃と宮女の寝室があり、東側に「関雎宮」と「衍慶宮」と「東配殿」、西側に「麟趾宮」と「永福宮」と「西配殿」が配されています。

  • 屋根の稚児棟には先頭に仙人が配置され、続いて「脊獣」と呼ばれるものが並びます。並べる数は奇数と決まっていて、3・5・7・9というふうに数が増えるほど建物の格があがるとされます。

    屋根の稚児棟には先頭に仙人が配置され、続いて「脊獣」と呼ばれるものが並びます。並べる数は奇数と決まっていて、3・5・7・9というふうに数が増えるほど建物の格があがるとされます。

  • 中国では奇数は吉祥の数であり、北京の故宮の屋根の棟には10体の神獣がいます。仙人の後ろには麒麟・鳳凰・獅子・海馬・天馬・押魚・サン猊・カイ豸・斗牛・行什と続きます。

    中国では奇数は吉祥の数であり、北京の故宮の屋根の棟には10体の神獣がいます。仙人の後ろには麒麟・鳳凰・獅子・海馬・天馬・押魚・サン猊・カイ豸・斗牛・行什と続きます。

  • 通常陶製で出来た脊獣や走獣などと呼ばれ、大棟と4つの隅棟を五脊とし、そこを装飾する小像(神獣)を指して六獣と言い、併せて五脊六獣と呼びます。

    通常陶製で出来た脊獣や走獣などと呼ばれ、大棟と4つの隅棟を五脊とし、そこを装飾する小像(神獣)を指して六獣と言い、併せて五脊六獣と呼びます。

  • 先頭には霊鳥に乗る仙人の像(仙人騎鳳)があり、その後ろに様々な霊獣が並びます。霊獣の順番や形態には様々なバリエーションがあるようです。鳳凰に乗る仙人については、怪異を除いた太公望、あるいは治水で知られる帝王禹、周の敏王、周の敬王など様々に伝えられているようです。容姿は梅福仙人に似ているとも言われますが、この仙人は日光東照宮の陽明門の彫刻に見ることができます。下に見える獏のような動物は套獣と呼ばれます。

    先頭には霊鳥に乗る仙人の像(仙人騎鳳)があり、その後ろに様々な霊獣が並びます。霊獣の順番や形態には様々なバリエーションがあるようです。鳳凰に乗る仙人については、怪異を除いた太公望、あるいは治水で知られる帝王禹、周の敏王、周の敬王など様々に伝えられているようです。容姿は梅福仙人に似ているとも言われますが、この仙人は日光東照宮の陽明門の彫刻に見ることができます。下に見える獏のような動物は套獣と呼ばれます。

  • 屋根の上だけではなく軒下にも獅子の彫刻が施されてあります。

    屋根の上だけではなく軒下にも獅子の彫刻が施されてあります。

  • 軒には水を好む竜生九子の像を置き、軒下には邪気や魔除けのために獅子を置いています。どれだけの風水上の防衛を考えていたのでしょうか。

    軒には水を好む竜生九子の像を置き、軒下には邪気や魔除けのために獅子を置いています。どれだけの風水上の防衛を考えていたのでしょうか。

  • 清代の太宗天聡年間(1627~1635年)に建設された鳳凰楼は瀋陽故宮中央に位置する中路の建築群の中心軸線上にあり、三層入母屋造の屋根に黄色の瑠璃瓦と緑色の縁瓦を配して回廊を巡らせています。建設当時は瀋陽で最も高い建物?え、楼上から街全体を眺めることができ、日の出は「鳳凰のあかつき」として名高い「盛京(瀋陽)八景」の1つとされていたそうです。

    清代の太宗天聡年間(1627~1635年)に建設された鳳凰楼は瀋陽故宮中央に位置する中路の建築群の中心軸線上にあり、三層入母屋造の屋根に黄色の瑠璃瓦と緑色の縁瓦を配して回廊を巡らせています。建設当時は瀋陽で最も高い建物?え、楼上から街全体を眺めることができ、日の出は「鳳凰のあかつき」として名高い「盛京(瀋陽)八景」の1つとされていたそうです。

  • 青空が広がったのでもう1度「大政殿」を見ておきましょう。貸し衣装で記念写真しておけば良かったと後悔します。

    青空が広がったのでもう1度「大政殿」を見ておきましょう。貸し衣装で記念写真しておけば良かったと後悔します。

  • 通りの左右に1対に置かれた「文徳坊」と「武功坊」と呼ばれる牌坊があります。

    通りの左右に1対に置かれた「文徳坊」と「武功坊」と呼ばれる牌坊があります。

  • 牌坊にはそれぞれ満洲文字とモンゴル文字と漢語の3言語によって書かれた扁額が掲げられています。それぞれ中段と左端が漢文で上段と左端の小さな字が満州文字で下段と右端の小さな字がモンゴル文字となっています。

    牌坊にはそれぞれ満洲文字とモンゴル文字と漢語の3言語によって書かれた扁額が掲げられています。それぞれ中段と左端が漢文で上段と左端の小さな字が満州文字で下段と右端の小さな字がモンゴル文字となっています。

  • この門から故宮に入ると正面が「大政殿」です。扉は閉ざされていますが通りすがりの大人が中を覗いていくので子供も興味を持ったのでしょうか。ただ保護者の人はどこにいるのでしょうか?

    この門から故宮に入ると正面が「大政殿」です。扉は閉ざされていますが通りすがりの大人が中を覗いていくので子供も興味を持ったのでしょうか。ただ保護者の人はどこにいるのでしょうか?

  • 故宮に隣接する消防署の建物も世界遺産に負けないくらいのクオリティです。いつか世界遺産の一部として認めらるかもしれませんね。エアコンの室外機がちょっと残念です。

    故宮に隣接する消防署の建物も世界遺産に負けないくらいのクオリティです。いつか世界遺産の一部として認めらるかもしれませんね。エアコンの室外機がちょっと残念です。

  • 消防車が表に出ていなければ気が付かなかったと思います。ここからは休憩も無く「張氏師府博物館」に向かって歩き始めます。

    消防車が表に出ていなければ気が付かなかったと思います。ここからは休憩も無く「張氏師府博物館」に向かって歩き始めます。

  • 「張氏師府博物館」の手前にも古い洋館が残っていました。ここも張氏の建築群の1つで「帥府舞庁(帥府弁事処)」と呼ばれたダンスホールを備えた建物です。客人を接待するために使われたもので2階まで吹き抜けだそうです。

    「張氏師府博物館」の手前にも古い洋館が残っていました。ここも張氏の建築群の1つで「帥府舞庁(帥府弁事処)」と呼ばれたダンスホールを備えた建物です。客人を接待するために使われたもので2階まで吹き抜けだそうです。

  • 博物館の正面に廻ると張学良将軍と張作霖の息子の像があります。博物館には張学良が亡くなるまで使っていた遺品が展示してありましたが、目覚し時計や体重計や健康器具やジャージにアイロンまでありました。最近の物ですがいつかは貴重な品になるのでしょうか?

    博物館の正面に廻ると張学良将軍と張作霖の息子の像があります。博物館には張学良が亡くなるまで使っていた遺品が展示してありましたが、目覚し時計や体重計や健康器具やジャージにアイロンまでありました。最近の物ですがいつかは貴重な品になるのでしょうか?

  • 張作霖(ちょうさくりん)は中華民国初期の軍閥政治家で、北洋軍閥の流れを汲む奉天派の総帥です。満州の統治者であり張学良の父親でもあります。息子の張学良は「第二次国共合作」の立役者であり、抗日統1戦線結成のきっかけを作った事から、非常に高く評価されており、「千古の功臣」「民族の英雄」と呼ばれています。中国共産党からすれば、西安事変によって国共両勢力が統一し、日本軍と戦ったが、むしろ蒋介石に追い詰められていた窮境から脱出できたことが大きく張学良は逆境にあった中国共産党の救い主とも言われます。

    張作霖(ちょうさくりん)は中華民国初期の軍閥政治家で、北洋軍閥の流れを汲む奉天派の総帥です。満州の統治者であり張学良の父親でもあります。息子の張学良は「第二次国共合作」の立役者であり、抗日統1戦線結成のきっかけを作った事から、非常に高く評価されており、「千古の功臣」「民族の英雄」と呼ばれています。中国共産党からすれば、西安事変によって国共両勢力が統一し、日本軍と戦ったが、むしろ蒋介石に追い詰められていた窮境から脱出できたことが大きく張学良は逆境にあった中国共産党の救い主とも言われます。

  • 「張氏帥府博物館」とは北方軍閥の首領・張作霖とその長男・張学良の官邸兼私宅で、「大帥府」とか「小帥府」とも呼ばれています。<br />1914年に完成した邸宅は総面積は約29.1平方キロで、そのうち東院と中院と西院からなる宅地は、27.6平方キロを占めます。<br />中院は別名参進四合院と呼ばれ、中国の伝統的な建築様式を採用しています。<br />

    「張氏帥府博物館」とは北方軍閥の首領・張作霖とその長男・張学良の官邸兼私宅で、「大帥府」とか「小帥府」とも呼ばれています。
    1914年に完成した邸宅は総面積は約29.1平方キロで、そのうち東院と中院と西院からなる宅地は、27.6平方キロを占めます。
    中院は別名参進四合院と呼ばれ、中国の伝統的な建築様式を採用しています。

  • 1番南には塀があり北側に向かって建物が続いています。論語に「天子南面」という言葉があり、皇帝などの偉人は南に向いて座り、北面は臣従することを意味しています。南に向いたときに日の出の方角が上座で、日没の方向が下座とされていますが、それに倣ったように思えました。

    1番南には塀があり北側に向かって建物が続いています。論語に「天子南面」という言葉があり、皇帝などの偉人は南に向いて座り、北面は臣従することを意味しています。南に向いたときに日の出の方角が上座で、日没の方向が下座とされていますが、それに倣ったように思えました。

  • 四合院正門の南側には「鴻禧」(大いなる幸い)の2文字が大理石で彫られた壁が見え、両側には鼓を抱えた獅子と馬の石像が座っています。

    四合院正門の南側には「鴻禧」(大いなる幸い)の2文字が大理石で彫られた壁が見え、両側には鼓を抱えた獅子と馬の石像が座っています。

  • 目の字の形に構成された一進院は厨房や会計室及び電話室や兵士の詰め所として使われていました。二進院は張作霖が要人を接待した場所で、入り口で歓迎の儀式を行ったのでこの門は「儀門」と呼ばれています。三進院はこの邸宅の婦人の控え室でした。

    目の字の形に構成された一進院は厨房や会計室及び電話室や兵士の詰め所として使われていました。二進院は張作霖が要人を接待した場所で、入り口で歓迎の儀式を行ったのでこの門は「儀門」と呼ばれています。三進院はこの邸宅の婦人の控え室でした。

  • 1920年代に張氏帥府で使われていたという馬車が保存されています。子弟の学校の送迎に使われていたそうです。

    1920年代に張氏帥府で使われていたという馬車が保存されています。子弟の学校の送迎に使われていたそうです。

  • 三進四合院という伝統的建築様式で奥行きはどこまで続いているのか見当もつきません。

    三進四合院という伝統的建築様式で奥行きはどこまで続いているのか見当もつきません。

  • これまで見てきた中国の伝統的な建築には倣っていますが、その彩色の鮮やかな青や緑や黄色には驚かされました。

    これまで見てきた中国の伝統的な建築には倣っていますが、その彩色の鮮やかな青や緑や黄色には驚かされました。

  • 半面建物の内部は伝統的な左右対称の落ち着いたデザインになっています。

    半面建物の内部は伝統的な左右対称の落ち着いたデザインになっています。

  • かなりリアルな蝋人形が置かれてあるのでちょっと気持ち悪い感じがしました。個人の邸宅というよりはかなり事務的な部屋も多いように思えます。座っているのは張作霖の人形のようです。

    かなりリアルな蝋人形が置かれてあるのでちょっと気持ち悪い感じがしました。個人の邸宅というよりはかなり事務的な部屋も多いように思えます。座っているのは張作霖の人形のようです。

  • 張氏帥府では「大青楼」が中心の建物に当たります。張親子はここで起居し、政務を執り、重要な接客もここで行われます。日本の関東軍の要人や外国人の商人などもここで張氏親子と対面しました。庭には江南の太湖から産する太湖石の假山(築山)が置かれているのでここが中国だと感じることが出来ます。

    張氏帥府では「大青楼」が中心の建物に当たります。張親子はここで起居し、政務を執り、重要な接客もここで行われます。日本の関東軍の要人や外国人の商人などもここで張氏親子と対面しました。庭には江南の太湖から産する太湖石の假山(築山)が置かれているのでここが中国だと感じることが出来ます。

  • 広角レンズで写真を撮っていますが、建物と庭の太湖石の壁が迫っているので全体を俯瞰することが出来ません。

    広角レンズで写真を撮っていますが、建物と庭の太湖石の壁が迫っているので全体を俯瞰することが出来ません。

  • 「大青楼」に張作霖と学良の展示がありますが、日本ではあまり知られていない張学銘(1908-1983)と張学思(1916-1970)についての展示にスペースが大きく割かれていました。

    「大青楼」に張作霖と学良の展示がありますが、日本ではあまり知られていない張学銘(1908-1983)と張学思(1916-1970)についての展示にスペースが大きく割かれていました。

  • 1931年9月満州事変が起こると日本軍によって、彼らは兄の学良とともに満州から追われ、さらに1936年の西安事変後に国民党軍によって兄が捕らわれると共産党に入党して日本軍に対して華北や東北部でゲリラ闘争を行っています。

    1931年9月満州事変が起こると日本軍によって、彼らは兄の学良とともに満州から追われ、さらに1936年の西安事変後に国民党軍によって兄が捕らわれると共産党に入党して日本軍に対して華北や東北部でゲリラ闘争を行っています。

  • 学思は海軍将官として活躍しますが、文化大革命のために無念の最期を遂げます。学銘は天寿を全うし、台湾の国民政府に軟禁されていた兄の学良の消息を問うなどしていたそうです。

    学思は海軍将官として活躍しますが、文化大革命のために無念の最期を遂げます。学銘は天寿を全うし、台湾の国民政府に軟禁されていた兄の学良の消息を問うなどしていたそうです。

  • 日本軍は張作霖を援助しながら彼を利用して中国国内への進出を狙っていましたが、全国的な軍閥として成長してアメリカとのつながりを持つなど必ずしも日本の言うことに従わなくなります。

    日本軍は張作霖を援助しながら彼を利用して中国国内への進出を狙っていましたが、全国的な軍閥として成長してアメリカとのつながりを持つなど必ずしも日本の言うことに従わなくなります。

  • 1928年(昭和3年)6月4日の早朝、蒋介石の率いる北伐軍との決戦を断念して満洲へ引き上げる途上にいた張作霖の乗る特別列車が、奉天(瀋陽)近郊の皇姑屯(こうことん)の京奉線と満鉄連長線の立体交差地点を時速10キロ程で通過中、上方を通る満鉄線の橋脚に仕掛けられていた黄色火薬300キロが爆発します。列車は大破炎上し交差していた鉄橋も崩落します。

    1928年(昭和3年)6月4日の早朝、蒋介石の率いる北伐軍との決戦を断念して満洲へ引き上げる途上にいた張作霖の乗る特別列車が、奉天(瀋陽)近郊の皇姑屯(こうことん)の京奉線と満鉄連長線の立体交差地点を時速10キロ程で通過中、上方を通る満鉄線の橋脚に仕掛けられていた黄色火薬300キロが爆発します。列車は大破炎上し交差していた鉄橋も崩落します。

  • 張作霖は両手両足を吹き飛ばされた現場で、虫の息ながら「日本軍の仕業だ。」と言い遺したといわれます。奉天城内の統帥府のこの屋敷に担ぎ込まれたときには絶命していましたが、関東軍に新政府を作らせまいと死亡は6月21日に発表したそうです。

    張作霖は両手両足を吹き飛ばされた現場で、虫の息ながら「日本軍の仕業だ。」と言い遺したといわれます。奉天城内の統帥府のこの屋敷に担ぎ込まれたときには絶命していましたが、関東軍に新政府を作らせまいと死亡は6月21日に発表したそうです。

  • その後日露戦争の勝利で長春から旅順間の鉄道および付属利権を獲得した日本は、1931年9月18日瀋陽(奉天)郊外の「柳条湖」付近で起きた満鉄線路の爆破事件を中国側の仕業として、日本軍の中国東北部への進出が始まり、「満州国」を樹立するに至ります。

    その後日露戦争の勝利で長春から旅順間の鉄道および付属利権を獲得した日本は、1931年9月18日瀋陽(奉天)郊外の「柳条湖」付近で起きた満鉄線路の爆破事件を中国側の仕業として、日本軍の中国東北部への進出が始まり、「満州国」を樹立するに至ります。

  • そんな歴史の舞台だった場所にいると思うと身が引き締まる思いがします。

    そんな歴史の舞台だった場所にいると思うと身が引き締まる思いがします。

  • ビックコミックオリジナルに連載されていた「龍-RON-」のストーリーとも重なって不思議な感じがしました。

    ビックコミックオリジナルに連載されていた「龍-RON-」のストーリーとも重なって不思議な感じがしました。

  • 子供の頃に横須賀中央の山の上に海上自衛隊の管理するお屋敷があり、叔父の家族が管理人としてそこに住んでいました。玄関ホールの階段の脇に戦艦長門の巨大な絵が飾ってあったのですが、そのお屋敷の雰囲気を思い出しました。

    子供の頃に横須賀中央の山の上に海上自衛隊の管理するお屋敷があり、叔父の家族が管理人としてそこに住んでいました。玄関ホールの階段の脇に戦艦長門の巨大な絵が飾ってあったのですが、そのお屋敷の雰囲気を思い出しました。

  • 威圧的な印象を受ける建物の中でこのタイルだけが可愛らしさを醸し出しています。多分英国から取り寄せたタイルではないかと推測されます。

    威圧的な印象を受ける建物の中でこのタイルだけが可愛らしさを醸し出しています。多分英国から取り寄せたタイルではないかと推測されます。

  • 日本の近代の歴史の一部に触れられた気がしました。もっともこの後の長春ではもっと強烈な印象を受けるのですが。

    日本の近代の歴史の一部に触れられた気がしました。もっともこの後の長春ではもっと強烈な印象を受けるのですが。

  • 大連から旅順を経て瀋陽の順で旅してよかったと思いました。

    大連から旅順を経て瀋陽の順で旅してよかったと思いました。

  • 豪華な「大青楼」に対して黒い中国の煉瓦を積んで重々しい建物が「小青楼」です。

    豪華な「大青楼」に対して黒い中国の煉瓦を積んで重々しい建物が「小青楼」です。

  • 耐火煉瓦で造られていますが、正面から見ると「大青楼」のような威圧感は無く、女性たちが住んだと言われると納得するような趣を感じます。

    耐火煉瓦で造られていますが、正面から見ると「大青楼」のような威圧感は無く、女性たちが住んだと言われると納得するような趣を感じます。

  • この建物は1918年に張作霖が第5夫人の壽氏のために建てました。1階の西側が客間で東側が寝室でした。<br />

    この建物は1918年に張作霖が第5夫人の壽氏のために建てました。1階の西側が客間で東側が寝室でした。

  • 張作霖の奥さんの部屋が向かって左のようです。この部屋の1対の玉の置物は瀋陽故宮にあった物と同じデザインでした。この部屋で張作霖は亡くなったのでしょうか?

    張作霖の奥さんの部屋が向かって左のようです。この部屋の1対の玉の置物は瀋陽故宮にあった物と同じデザインでした。この部屋で張作霖は亡くなったのでしょうか?

  • こういった階段も建築当時のものが残されているのでしょうか。

    こういった階段も建築当時のものが残されているのでしょうか。

  • 若奥さんはこちらの部屋だったのでしょうか?入り口を挟んで左右に並んでいるので、嫁姑の確執なんてあったのだろうかと下世話な想像をしてしまいます。

    若奥さんはこちらの部屋だったのでしょうか?入り口を挟んで左右に並んでいるので、嫁姑の確執なんてあったのだろうかと下世話な想像をしてしまいます。

  • 壽夫人は張作霖と1917年に結婚して4人の息子(学森、学俊、学英、学銓)をもうけました。

    壽夫人は張作霖と1917年に結婚して4人の息子(学森、学俊、学英、学銓)をもうけました。

  • この建物が一番生活感が感じられます。

    この建物が一番生活感が感じられます。

  • ヨーロッパから持ち込まれた照明や家具でありながら、何となくシノワズリーな感じがするのは何故でしょう。

    ヨーロッパから持ち込まれた照明や家具でありながら、何となくシノワズリーな感じがするのは何故でしょう。

  • 壁にはシルクの生地を布団張りしたパネルが嵌め揉まれてあります。豪華さを演出すっる意味もあったのでしょうが多分防寒の意味もあったのだと思います。

    壁にはシルクの生地を布団張りしたパネルが嵌め揉まれてあります。豪華さを演出すっる意味もあったのでしょうが多分防寒の意味もあったのだと思います。

  • よく見ると窓もベランダに出る扉も全て2重になっています。窓の下にはヒーターのグリルが見えます。床もオンドルだったのかもしれませんね。

    よく見ると窓もベランダに出る扉も全て2重になっています。窓の下にはヒーターのグリルが見えます。床もオンドルだったのかもしれませんね。

  • 「張氏師府博物館」を出た左側に「趙一萩故居(趙四小姐楼)」があります。チケットは共通なので見逃さないようにしなければなりません。趙一萩は張学良の愛人だった人ですが、館全体にシノワズリーとアールデコが融合したセンスの良い建物です。<br />ちょっと東京都庭園美術館の「旧朝香宮邸」を彷彿させます。

    「張氏師府博物館」を出た左側に「趙一萩故居(趙四小姐楼)」があります。チケットは共通なので見逃さないようにしなければなりません。趙一萩は張学良の愛人だった人ですが、館全体にシノワズリーとアールデコが融合したセンスの良い建物です。
    ちょっと東京都庭園美術館の「旧朝香宮邸」を彷彿させます。

  • 出口の前には観光客目当ての果物屋さんが店を出しています。全く同じ品揃えのリヤカーが3台ありましたが同じ経営なのでしょうか?この建物が出来た頃から同じような売り方だったのだろうなと思うと大切な景色のひとつに思えます。

    出口の前には観光客目当ての果物屋さんが店を出しています。全く同じ品揃えのリヤカーが3台ありましたが同じ経営なのでしょうか?この建物が出来た頃から同じような売り方だったのだろうなと思うと大切な景色のひとつに思えます。

  • 更にチケットには張作霖が経営していた銀行だった「瀋陽金融博物館」の入場券も含まれています。ここは妻曰く今回見学した中で最高に面白い場所だそうです。

    更にチケットには張作霖が経営していた銀行だった「瀋陽金融博物館」の入場券も含まれています。ここは妻曰く今回見学した中で最高に面白い場所だそうです。

  • この金融博物館は張氏父子が設立した銀行の博物館で、実際にその銀行があった場所に「瀋陽金融博物館」を建てました。<br />

    この金融博物館は張氏父子が設立した銀行の博物館で、実際にその銀行があった場所に「瀋陽金融博物館」を建てました。

  • 張氏父子は当時の中国東北三省の実際の統治者として、政治的な地位だけではなく中国東北地区の経済発展と統治を目的として、辺業銀行を創設しました。<br />

    張氏父子は当時の中国東北三省の実際の統治者として、政治的な地位だけではなく中国東北地区の経済発展と統治を目的として、辺業銀行を創設しました。

  • 1925年に張作霖は天津で辺業銀行を正式に創設した後、奉天帥府の東側に新しい辺業銀行を建設し1930年に竣工しています

    1925年に張作霖は天津で辺業銀行を正式に創設した後、奉天帥府の東側に新しい辺業銀行を建設し1930年に竣工しています

  • 現在中国にある同類の博物館の中で規模がもっとも大きく、蝋人形が本物の人間と見間違えるほどのリアルさで展示されています。当時の中国の銀行の様子が楽しめる最高の博物館です。

    現在中国にある同類の博物館の中で規模がもっとも大きく、蝋人形が本物の人間と見間違えるほどのリアルさで展示されています。当時の中国の銀行の様子が楽しめる最高の博物館です。

  • この辺業銀行は貯金と貸付と引き出しと振込み以外にも、貨幣の発行や国庫の代理の権利も取得してありました。当時の中国東北三省で最大の銀行の1つで、資本金総額は2000万元あり、そのうち張家が取得していた株式は95%ですので、名実共に張氏父子の私設銀行だったわけです。

    この辺業銀行は貯金と貸付と引き出しと振込み以外にも、貨幣の発行や国庫の代理の権利も取得してありました。当時の中国東北三省で最大の銀行の1つで、資本金総額は2000万元あり、そのうち張家が取得していた株式は95%ですので、名実共に張氏父子の私設銀行だったわけです。

  • ここは博物館としてよりも蝋人形館として素直に楽しめました。自由に人形たちの中に身を置けるのが良いです。

    ここは博物館としてよりも蝋人形館として素直に楽しめました。自由に人形たちの中に身を置けるのが良いです。

  • 置かれている人形も当時の衣装に身を包み、それぞれが生きているかのような動きをしているので、時間だけが止まってしまった空間に迷い込んだようです。

    置かれている人形も当時の衣装に身を包み、それぞれが生きているかのような動きをしているので、時間だけが止まってしまった空間に迷い込んだようです。

  • この時は警備員さんが1人いらっしゃいましたが、現代的な制服なのがちょっと残念です。

    この時は警備員さんが1人いらっしゃいましたが、現代的な制服なのがちょっと残念です。

  • 今まで一度も蝋人形館に行ったことは無いけれど、子供の頃にあった東京タワーの下の蝋人形館に行っておけばよかったなと思いました。

    今まで一度も蝋人形館に行ったことは無いけれど、子供の頃にあった東京タワーの下の蝋人形館に行っておけばよかったなと思いました。

  • 蝋人形館に入るのも初めてでしたが、この旅の翌年にパリのグレヴァン蝋人形館に行くきっかけにもなりました。

    蝋人形館に入るのも初めてでしたが、この旅の翌年にパリのグレヴァン蝋人形館に行くきっかけにもなりました。

  • 長い時間ここにいたら妻を見失いそうです。

    長い時間ここにいたら妻を見失いそうです。

  • 瀋陽最後の観光は「瀋陽天主教堂」です。東北地方では有数の大きさのキリスト教会だそうですが、確かに中国では大きな教会は上海以外で見た記憶がありません。

    瀋陽最後の観光は「瀋陽天主教堂」です。東北地方では有数の大きさのキリスト教会だそうですが、確かに中国では大きな教会は上海以外で見た記憶がありません。

  • 「瀋陽天主教堂」は正式名称「瀋陽耶蘇聖心主教座堂」または「瀋陽南関天主教堂」といいます。この教堂は1878年(光緒4年)に着工した代表的なゴシック建築で、堂の長さは66メートルで幅は17メートル、尖塔までの高さは40メートルあり、教会堂内の高さは20メートルあります。

    「瀋陽天主教堂」は正式名称「瀋陽耶蘇聖心主教座堂」または「瀋陽南関天主教堂」といいます。この教堂は1878年(光緒4年)に着工した代表的なゴシック建築で、堂の長さは66メートルで幅は17メートル、尖塔までの高さは40メートルあり、教会堂内の高さは20メートルあります。

  • 24本の花崗岩(御影石)の石柱に支えられたユニークな構造で、同時に1000人余りの人が礼拝することが出来るそうです。この規模の教堂は中国全土でも数えるほどわずかしかないそうです。<br />

    24本の花崗岩(御影石)の石柱に支えられたユニークな構造で、同時に1000人余りの人が礼拝することが出来るそうです。この規模の教堂は中国全土でも数えるほどわずかしかないそうです。

  • 1900年の義和団の乱で破壊されて信者も多数殺されたそうですが、この事件の賠償金で1905年教堂再建が始まり、1912年に完成した大聖堂がいまそのまま残っています。1985年2月に瀋陽市政府から市の保護文化財に認定され、1988年12月に遼寧省人民政府から省の保護文化財に認定されました。

    1900年の義和団の乱で破壊されて信者も多数殺されたそうですが、この事件の賠償金で1905年教堂再建が始まり、1912年に完成した大聖堂がいまそのまま残っています。1985年2月に瀋陽市政府から市の保護文化財に認定され、1988年12月に遼寧省人民政府から省の保護文化財に認定されました。

  • 教会の中にも入ってみましたが、赤いベルベットに金の房のついたベールを被った信者さんがミサに参加するように近づいてくるので早々に退散しました。<br />

    教会の中にも入ってみましたが、赤いベルベットに金の房のついたベールを被った信者さんがミサに参加するように近づいてくるので早々に退散しました。

  • 夕方の5時を過ぎたこの後の移動が大変で、タクシーが全くつかまりません。瀋陽市内を散々歩いた後なのでもうへとへとです。すると反対側を走っていたタクシーがUターンして戻って来てくれました。行きたい店の住所を書いた紙を見せましたが分からないと言われますが、ここでタクシー逃したら大変なので妻は後部座席に座り込んでいます。

    夕方の5時を過ぎたこの後の移動が大変で、タクシーが全くつかまりません。瀋陽市内を散々歩いた後なのでもうへとへとです。すると反対側を走っていたタクシーがUターンして戻って来てくれました。行きたい店の住所を書いた紙を見せましたが分からないと言われますが、ここでタクシー逃したら大変なので妻は後部座席に座り込んでいます。

  • 運転手さんは運転しながら携帯電話で知り合いに尋ねてくれて無事に目的の店に到着しました。Uターンしてくれたお礼と電話してくれたお礼で10元奮発してしまいました。それくらい困窮していたわけです。

    運転手さんは運転しながら携帯電話で知り合いに尋ねてくれて無事に目的の店に到着しました。Uターンしてくれたお礼と電話してくれたお礼で10元奮発してしまいました。それくらい困窮していたわけです。

  • お店は高級店のようで、ちゃんと係りのお姉さんが受付もしてくれます。満席でしたが10分ほどで席に案内されたので助かりました。メニューには写真が載っているので安心して注文できます。

    お店は高級店のようで、ちゃんと係りのお姉さんが受付もしてくれます。満席でしたが10分ほどで席に案内されたので助かりました。メニューには写真が載っているので安心して注文できます。

  • 今日はがんばったご褒美にA5ランクのお肉を頼んじゃいましょう。中国でも上等の牛肉が人気のようで、メニューにもA5の文字がたくさん書かれてあります。

    今日はがんばったご褒美にA5ランクのお肉を頼んじゃいましょう。中国でも上等の牛肉が人気のようで、メニューにもA5の文字がたくさん書かれてあります。

  • こんなお肉が数百円で食べられるのですから中国旅行はやめられません。全部で156元で約2,000円の贅沢ディナーでした。

    こんなお肉が数百円で食べられるのですから中国旅行はやめられません。全部で156元で約2,000円の贅沢ディナーでした。

  • 日本式の大鍋ではなく1人1人の鍋なのがちょっと寂しいです。子供の頃に父がしゃぶしゃぶ用の「火鍋子」(ホーコーズ)という鍋を買ってきて、真ん中に穴の開いた形に驚いたことを思い出しました。

    日本式の大鍋ではなく1人1人の鍋なのがちょっと寂しいです。子供の頃に父がしゃぶしゃぶ用の「火鍋子」(ホーコーズ)という鍋を買ってきて、真ん中に穴の開いた形に驚いたことを思い出しました。

  • おなかが満腹になった後はお店でタクシーを呼んでもらい、無事にホテルまで戻る事が出来ました。

    おなかが満腹になった後はお店でタクシーを呼んでもらい、無事にホテルまで戻る事が出来ました。

  • コンビニで買ってきたビールで乾杯して、大満足の瀋陽最後の夜でした。翌日からは長春の旅が始まります。

    コンビニで買ってきたビールで乾杯して、大満足の瀋陽最後の夜でした。翌日からは長春の旅が始まります。

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