2010/09/13 - 2010/09/21
408位(同エリア1068件中)
kojikojiさん
- kojikojiさんTOP
- 旅行記1755冊
- クチコミ1205件
- Q&A回答73件
- 3,458,412アクセス
- フォロワー169人
旅順旅行の続きです。一応史跡である「203高地」と長年の夢だった「旅順博物館」を見終わって満足気味だったのですが、「白玉山」の山腹で運転手さんが声を掛けた青年が偶然日本人で、その後一緒にタクシーで史跡巡りをする事にしました。彼の予定に合わせてこちらの見学先を変えましたが、本当は行きたかった(妻が行きたくないとの事で断念)「日露監獄旧蹟博物館」に行くことが出来て良かったです。最後に遅い昼食を一緒に摂って、彼は203高地へ、我々は出発時間の迫った旅順火車站へと別れたのでした。
- 旅行の満足度
- 5.0
- 観光
- 5.0
- グルメ
- 4.0
- 交通
- 4.0
- 同行者
- カップル・夫婦(シニア)
- 一人あたり費用
- 5万円 - 10万円
- 交通手段
- 鉄道 タクシー
- 航空会社
- ANA
-
当初の予定を変更して「日露監獄旧蹟博物館」にやってきました。
旅行前に妻から「ここは行きたくない。」と却下された場所でしたが、思い掛けない同行者の出現により願いが叶いました。 -
写真の「俄」という字はロシアを意味する中国語の俄羅斯の頭文字から来ています。1898年に旅順と大連を租借した帝政ロシアは旅順港を侵略基地として植民統治機構を設置して軍隊と特殊警察が各地に配置されます。反抗的な人民が逮捕拘禁されていったことから大規模な監獄が必要となり、1902年に旅順監獄の建設に着手します。
-
しかし1904年には日露戦争が勃発したことから85の牢獄を建設しただけで建設計画は中止され、戦時は野戦病院及び兵営として利用されたそうです。
-
日露戦争勝利後には日本が建設途中であった建物を接収して更に253の牢獄と4の地下牢と18の病人用獄舎を拡張し、「関東庁監獄旅順刑務所」として運営を始めます。犯罪人や中国人や満州人や朝鮮人などの反日抵抗者を主に収監します。
-
1945年8月にソ連軍の旅順進駐により監獄は解体されますが、1971年7月監獄旧跡として修復され、中国人の為の抗日愛国教育拠点となります。その後中国政府は海軍基地がある旅順を軍事機密を保護するという理由で外国人の立ち入りを制限していたため、この旅の前年の2009年の旅順解放に伴い外国人に対しても博物館として開放されました。
-
ロシアは青レンガを使用し日本は赤レンガを建材としたため、両国の施工部分がはっきりと分かります。監獄塀内の占有面積は26万平方メートルで、東側の3階に87室、中央2階に84室、西側2階に82室の監獄が配されて、最終的には最大2000人余を収容できる規模となりました。
-
全体的に見ると日本時代の蔵相部分がはるかに多いように見えました。
-
部屋には収容人員を表すのか草鞋が置いてあります。この部屋は6人部屋のようですので1人1畳強の専有面積です。表の窓にはガラスが入っていますが、廊下側は鉄格子だけですから冬は寒かったでしょう。
-
監獄としての特性上から窓の面積は最小限のようで、暗い部分は廊下の天井(2階の床)をグレーチングのようにして明り取りとして利用しています。
-
厳めしい扉も日本が使っていたままの姿で残されています。多分ペンキw塗り替えただけだと思います。
-
3階まで吹き抜けているので意外に明るい印象を受けます。下の階が見えることで看守の数も少なくすることが出来たのではないでしょうか。
-
廊下から続く階段などにはいちいち鉄柵の扉が設けられてあります。
-
個別の房に入ることはできませんでした。
-
伊藤博文をハルピン駅で暗殺した韓国人の安重根(あんじゅうこん)が収容された監房がそのまま残っています。
-
看守部長の当直室の横に単独で拘禁されていたそうです。
-
安重根は144日に渡って収監され、最後は「国事犯」としてこの地で絞首刑に処されたそうです。
-
中は窓からのぞくことが出来て、この部屋で過ごしたのだと思うと時間がそのまま止まっているような気になります。当時のままに残して置けるのは大切なことだと思います。
-
トイレは汲み取り式ではなく木桶で用を足し、中身が溜まったら表に運び出されたようです。
-
独房の辺りは廊下も狭く、窓もほとんどなくて陰湿な感じがしました。
-
日本の敗戦時の監獄所長であった田子仁郎氏についての資料も展示してありました。戦後は身柄を拘束され、遼寧省北部にある撫順戦犯管理所へと送られたとあります。
-
部屋によっては床が板張りになっているので、その分だけでも冬は暖かいのではないでしょうか。
-
時間が止まったままのような事務室。
-
これが何の為にある部屋かは一目瞭然です。重さ11kgの鉄球は脱獄を試みた囚人などに装着されたそうです。
-
場所によっては修復が追い付いていないところもあり、その分監獄としてのリアリティが高いです。
-
職員のエリアは一目瞭然です。少し廊下も狭いですが、簡単に行き来できる階段が設けられ、扉にも鉄格子はありません。
-
看守台もそのまま残されています。V型に広がる2本の通路の股の部分に設けてあります。
-
看守台からに座ると1人で2方向を同時に見渡すことが出来ます。囚人からも見張られていることがすぐにわかるので合理的に出来ています。
-
部屋の中央に屋根付きの立派な仏壇が置かれていたのでびっくりしました。形から見ても日本の時代の物ですが、誰を祀っていたのでしょう。
-
床に当たった太陽光線を見るだけで何かホッとします。冬の曇った日にここへは来たくないと思いました。
-
日本時代の煉瓦の積み方は手本にしたイギリス積みなのだなと感心しました。
-
トップライトから夏の日差しを受けた煉瓦は美しく見えてしまいます。まるでどこかリゾートホテルのようにさえ。
-
これで監獄部分の見学が終わりになります。
-
検身室には当時の囚人服らしいものが掛けられてあります。そのままの形で展示されていて、仕切りなど無いので自分も囚人になった気がします。
-
ようやく表に出られると思うと気持ちが楽になります。たった1時間ちょっとでそう思うのですから囚人にはなれそうもありません。
-
監獄の周囲の刑務所用地には果樹園や造林地、野菜畑が開発されて服役者が労働にあたっていたそうです。労働時間は季節によって7段階に分けられていて、1番短い1月と12月は1日5時間半、1番長い6月と7月は9時間半で、それぞれ室内労働の場合は1時間追加されていたそうです。
-
敷地内には工場と医務室も設けられました。被服や紡績や織布、印刷や鉄工木工など、合計で15の工場も建てられました。
-
こうやって見ている分にはどこかの私立大学の寄宿舎のようにも見えてしまいます
-
美しい芝生の庭の先には医療棟がありました。当たり前ですが病室は同じように鉄格子が設けられています。伝染病の場合は隔離もされたようです。
-
室内もその当時の雰囲気が分かるようになっています。子供のころに行った病院ってこんな感じの内装だったなと思い出しました。
-
誰もいない廊下がどこまでも続きます。途中で知り合っただけとはいえ、同行する人がいるだけでも気が楽になります。
-
塀には鉄条網が張り巡らされ、監視塔もそのまま残されています。
-
敷地の一番奥に処刑室がありました。ロープは当時の物がのこされているそうです。
下に板の間があり、手前の階段から地下に降りられるようになっています。 -
半地下になったロープの真下には木桶が置かれています。処刑後にそのまま木桶に入れて、天秤棒で担いで監獄の外に埋めたそうです。
別棟に蝋人形で再現され、最後に木桶に入った人骨が展示されています。 -
別棟の展示室には旅順港を封鎖した日本海軍の艦艇の錨が展示されています。1904年(明治37年)からの旅順口攻撃において、大日本帝国海軍が行ったロシア帝国海軍旅順艦隊の海上封鎖作戦(閉塞作戦)で使用されたものです。3次にわたって行われたがいずれも旅順港を十分封鎖するに至らず、第2次閉塞作戦は閉塞船「福井丸」を指揮した広瀬武夫少佐(のち中佐に特進)が戦死し、のちに軍神とされ崇められたのは「坂の上の雲」にも描かれています。
-
「金州城」
山川草木 転荒涼 十里風腥し 新戦場
征馬前まず 人語らず 金州城外 斜陽に立つ
乃木希典
碑の下半分は失われていますが、有名な歌です。 -
山も川も草も木も砲弾の跡が生々しく、見渡すかぎり荒れ果てた光景になっている。戦いがすんだ今もなお血生臭い風が吹いている。私が乗る軍馬は進もうとせず、兵士もまた黙して語らない。夕陽が傾く金州城外にしばらく茫然とたたずんでいた。
-
監獄の見学が終わり、タクシーの運転手さんに新市街のバスターミナルの近くで降ろしてもらい、近くの餃子店で遅い昼食にしました。
3人なので半斤ずつ3種類の餃子を選びましたが、それでも少々多すぎました。でも1皿10元程度と安くておいしかったです。 -
ビールのつまみには細切りの豆腐「豆腐干絲」がよく合いました。
-
ガーリック風味のきゅうりのタタキ「涼拌黄瓜」は暑くなった体をクールダウンするには最適です。そして冷たいビールが最高のごちそうです。
-
食事しながら両親宛てに書いた絵葉書を投函しました。この時後ろの郵便局で切手を買っておけばよかったとちょっと後悔しました。
-
「203高地」に行く彼と別れて早めに旅順火車站に戻りました。案の定朝一緒だった高校生たちが駅を埋め尽くしていました。先に改札を済ませていたので帰りは座れないかと心配しましたが、一般客用に車両が用意されていたので杞憂に終わりました。
-
列車が入線する前に女性の車掌さんが1両ごとにホームに立ちます。こんな風景も現在では見る事が出来ないと思うと寂しいものです。
-
道路から見た鉄路です。駆動車はここまで来てポイントを切り替えて先頭に移動します。ここで振り返ると道路を挟んで軍港があり、以前はこんな場所で写真など撮れなかったそうです。
-
この時は尖閣諸島の話など知りませんでしたが、1週間後だったら日本人が軍事施設を撮影して身柄を拘束されたと新聞を賑わせたかもしれませんね。
-
路線バスの倍以上の時間と早朝にしか列車がないというハンディがありながら、大連と旅順往復は列車にして良かったと思います。
-
妻もお疲れですが私も疲れました。
-
通りがかった駅の近くでは夕涼みに来た家族が列車を見に来ていました。人が乗った列車は1日に2往復しかしないので珍しいのかもしれません。
-
帰りもしばらく博打列車になりました。
-
西の海に夕焼けの太陽が沈みそうです。夕焼けなのか空気が汚れていて赤く見えるのかは微妙です。
-
現在は大連から旅順の支線は軍港へ資材を運ぶ貨物路線としか使われていないそうです。
-
お疲れさまでした。もうすぐ大連に到着しますよ。
この旅行記のタグ
利用規約に違反している投稿は、報告する事ができます。
旅行記グループ
2010 大連・旅順・瀋陽・長春・ハルピンの旅
-
前の旅行記
マンチュリアン・リポート(2)外国人入域規制が緩和された旅順へは今は無き普通列車で向かい、日露戦争の旧跡と「...
2010/09/13~
大連
-
次の旅行記
マンチュリアン・リポート(4)大連火車站から瀋陽北站へ向かい、旧奉天ヤマトホテルだった「遼寧賓館」に泊まり、...
2010/09/13~
瀋陽
-
マンチュリアン・リポート(1)旧ヤマトホテルに宿泊し、古き日本の面影を探しながら大連の町を彷徨う。
2010/09/13~
大連
-
マンチュリアン・リポート(2)外国人入域規制が緩和された旅順へは今は無き普通列車で向かい、日露戦争の旧跡と「...
2010/09/13~
大連
-
マンチュリアン・リポート(3)旅順の旧跡巡りは「日露監獄旧蹟博物館」で終わり、水餃子を食べて旅順站から各駅列...
2010/09/13~
大連
-
マンチュリアン・リポート(4)大連火車站から瀋陽北站へ向かい、旧奉天ヤマトホテルだった「遼寧賓館」に泊まり、...
2010/09/13~
瀋陽
-
マンチュリアン・リポート(5)瀋陽の「北陵公園」と「遼寧省博物館」と「昭陵」を訪ねる。
2010/09/13~
瀋陽
-
マンチュリアン・リポート(6)「瀋陽故宮」と「張氏師府博物館」で満州の歴史と張作霖と張学良について学び、しゃ...
2010/09/13~
瀋陽
-
マンチュリアン・リポート(7)長春の新京ヤマトホテルだった「春諠賓館」に泊まり、「偽満皇宮博物院」にラストエ...
2010/09/13~
長春
-
マンチュリアン・リポート(8)長春の「東北倫陥史陳列館」で戦時中の日本を知り、偽満州国の官庁街の建築を訪ねる...
2010/09/13~
長春
-
マンチュリアン・リポート(9)哈爾濱の旧大和旅館に泊まり、中央大街と船で渡った太陽島に露西亜を想い、夜行寝台...
2010/09/13~
哈爾濱
-
マンチュリアン・リポート(番外) 記念艦三笠と軍港巡り
2013/09/04~
横須賀
旅行記グループをもっと見る
コメントを投稿する前に
十分に確認の上、ご投稿ください。 コメントの内容は攻撃的ではなく、相手の気持ちに寄り添ったものになっていますか?
サイト共通ガイドライン(利用上のお願い)報道機関・マスメディアの方へ 画像提供などに関するお問い合わせは、専用のお問い合わせフォームからお願いいたします。
旅の計画・記録
マイルに交換できるフォートラベルポイントが貯まる
フォートラベルポイントって?
旅行記グループ 2010 大連・旅順・瀋陽・長春・ハルピンの旅
0
61