2010/09/13 - 2010/09/21
33位(同エリア142件中)
kojikojiさん
- kojikojiさんTOP
- 旅行記1760冊
- クチコミ1205件
- Q&A回答73件
- 3,461,792アクセス
- フォロワー169人
瀋陽北火車站から動車(新幹線和階号)に乗って約2時間で長春に到着しました。青島の旅に続き中国で2回目の新幹線乗車ですが、今回は1等車と少々贅沢してみました。この日は9月18日で79年前の1931年の柳条湖事件の日でした。同じ日に同じ場所を通過することに意味を感じていました。
長春での宿泊するホテルは旧新京ヤマトホテルだった「春諠賓館」にしましたが、本館は迎賓楼で新館は貴賓楼でした。予約してあったのは新館の貴賓楼でしたが古くて少しくたびれた建物でした。迎賓楼に変えてもらおうとも思いましたがデイユースの料金では本館のほうが安いので、これ以上古くては大変なのでそのままにしました。今回の4都市の中では長春のホテルは早くに改装されているので昔の面影はあまり無いように感じました。ただ駅前に位置するのに変わりは無く、鉄道で移動するには便利ではありました。
- 旅行の満足度
- 4.0
- 観光
- 4.0
- ホテル
- 3.0
- グルメ
- 4.0
- ショッピング
- 3.0
- 交通
- 4.0
- 同行者
- カップル・夫婦(シニア)
- 一人あたり費用
- 5万円 - 10万円
- 交通手段
- 鉄道 タクシー 徒歩
- 航空会社
- ANA
- 旅行の手配内容
- 個別手配
-
朝ご飯を食べてホテルを出るとすぐにタクシーが捉まり、そのまま瀋陽北火車站へ向かいました。セキュリティを通って身分証明書を見せて候車室へ向かいます。北駅は瀋陽火車站のような情緒は無く、機能優先な新幹線の駅という感じがします。
-
時間になってホームに降りると列車はすでに入線していました。
-
昨年の青島站では写真を撮りたいというと係員に制止されましたが、瀋陽站ではお好きにどうぞと言う感じでした。一応中国では鉄道は準軍用施設らしいですが、日本の新幹線の技術を導入して好き勝手している割にはうるさいことをいうものです。
-
近代的なトラスの架かったホームの中に、前時代的なディーゼル機関車が客車を牽いてやってきました。
-
新幹線も在来線と同じ線路を走ります。本当は在来線も魅力的なのですが、今回は時間短縮のために断念しました。
-
中国高速鉄道CRH5型電車は中国国鉄が第6次在来線スピードアップのために、フランスのTGVを製造したアルストム社と提携して導入した高速鉄道車両です。外国からの技術移転を基にライセンス生産されている全てのCRH車両は「和諧号」(調和の意)と呼ばれています。
-
車内は2列席なので日本の新幹線というよりもヨーロッパの高速鉄道を感じさせます。座席が回転しないところなども似ている気がします。
-
今回の旅は大連と瀋陽と長春と哈爾濱の各ホテルまで列車のチケットのデリバリーをお願いしましたが、個人旅行では時間をかけて駅で並ばなければならない手間と時間が省けたので有効的な旅が出来ました。
-
瀋陽站を出発するとすぐに柳条湖事件の場所が近づき、9月18日にこの場所を通過すると言うことに意味を感じていましたが、同じ車輌の日本人の年配の団体さんは酒盛り中ですし、中国の方も気にしている様子はありません。
-
車窓からは延々と高梁畑が続きます。66年前の今頃の日本で言う終戦の後にロシア軍に追われた人たちがこの辺りを彷徨ったと思うと流れて行く車窓の景色も重みを感じます。
-
在来線の線路を走るので途中で幾つかの駅に停まりました。四平站で10分ほど停車すると向かいのホームでは硬座のお兄ちゃん達が売り子のおばさん達をからかいながらいろいろな物を買っています。
-
昔は日本でもよく見受けられた光景ですが、中国でもこんな風景はこれからどんどん減っていくのでしょうね。ホームの屋根を支える支柱が古い線路なのが日本と同じなので親しみがわきます。昭和40年代の高崎線を走っている気分です。
-
延々と高粱なのか玉蜀黍の畑が続いています。
-
午前8:55に瀋陽を出た和階号は長春火車站には定刻の午前11:14に到着しました。結構長い時間停車するのでみんな煙草を吸いに表に出てきます。車内は全て禁煙になっています。哈爾濱に向かって列車が発車するのを待って写真を1枚撮りました。
-
降り立った長春駅は工事中で、駅舎とホームの間は瓦礫の山です。
-
ホームには人間の身長くらいの高さのある巨大な看板が下がっていました。ホームが長いのでこれくらいの大きさが必要なのでしょうか。
-
今回の旅では大連と旅順と瀋陽に続き、4番目の訪問都市です。
-
駅前の人混みと大きな通りの車をすり抜けて旧新京ヤマトホテルだった「春諠賓館」に到着しました。写真を撮っていると後ろから名前を呼ばれてビックリしました。長春と哈爾濱間の列車のチケットはホテルのフロントに届く手筈にはなっていましたが、旅行会社の方がわざわざ時間に合わせて持ってきてくれたのでした。
-
我々がホームで写真を撮っている間、駅の出口で待っていてくれたそうですが人の流れが途切れたのでホテルで待っていてくれたとのことです。ホテルに戻ったところで上手く会うことができたわけです。
-
ホテルは迎賓楼ではなくて貴賓楼でした。外壁の横断幕の値段は迎賓楼の方が安かったのでそのままチェックインしました。チケットを旅行社の張さんから受け取ると「何かお手伝いできますか?」とてっきり1日ツアーにでも誘われるのかと思ったら全く違って、個人で観光するに当たっての見ておくべきポイントや美味しい店などを丁寧に教えてくれただけでした。いつもそうですが、我々の旅行は現地の方の親切の上に成り立っているのだなと思います。
-
妻は妻で私が旅行社の方にいろいろ教わっている間に、日本の大学で教鞭をとっていた大学教授のご夫婦と貴州省と雲南省の旅の話で盛り上がっていたようです。
-
今回4つの旧ヤマトホテルに泊まりましたが、この「春諠賓館」が一番大したことのないホテルでした。日本経済が日露戦争後の恐慌下にあった1910年(明治43年)に就職難の中で東京高等商業学校(一橋大学)を卒業した犬丸徹三は、恩師の紹介によりこの長春ヤマトホテルのボーイとして就職したそうです。経営改善策を拒絶されて辞表を提出しますが、犬丸は帝国ホテル社長となるなど日本のホテル業界に大きな足跡を残しています。
-
長春の規模と観光かしょする場所の数を考えると翌日1日でも充分なので部屋で一休みして、昼寝をしてから「旧関東軍司令部」を見に行くことにしました。
-
ホテルから見える駅舎は足場に囲まれて少し無残な感じがしました。
-
張さんに教わったホテルの裏のバスターミナル横の長江路歩行街に行ってみました。アーケードの中に洋服や雑貨の店がぎっしり並んでいます。中ほどにウォールマートがあったので入ってみました。食品のお土産は大連で買ってあったのでビール程度の買物のつもりが旅行用のキャリーバックを買ってしまいました。
-
日本からは撤退してしまったマンダリアーナダックと良く似たデザインの鞄型のトローリーが3,000円もしない値段でした。買物をしてしまったのでホテルに1度戻る事にして肯塔基(ケンタッキー)で軽い昼食を摂りました。
-
ホテルの部屋に戻りましたがビールが冷えていないのでケンタッキーで貰ってきた氷を入れて飲んで、暗くなる前に気を取り直して観光に出発です。
風情のある郵便局があったので切手を買っておきました。 -
その先には瀋陽でも見たコメディを演じる東北二人転の劇場がありました。「和平大劇院」劇団は1997年の立ち上げですが、建物は1910年代のアールデコのファサードが美しいです。
-
大通りを南下して「関東軍司令部」に向かいますが、手前の「勝利公園」に入ってみました。遊園地の観覧車が見えたので高い位置から建物が見えるのではと思ったからです。
-
近づいた観覧車を見上げると、本当にこれに乗ってよいものか迷いました。
-
町の鉄工所で鉄板を溶接してペンキを塗ったような鉄の箱で出来た観覧車です。妻は「2人で観覧車に乗ったの初めてね。」と嬉しそうでしたが、私は写真を撮るのに夢中でした。ゆっくり1周して10元ででした。
-
何とも散漫と配置された遊具がやる気のなさを感じます。
-
観覧車が頂上部に差し掛かると思っていた風景が見え始めました。
-
長春市は1932年3月から1945年8月終戦までの14年間「新京」と呼ばれる満州国の首都でした。今から約80年前に満州の大平原に大規模な都市計画に基づいて建設された都市です。
-
「関東軍司令部」は1919年に竣工され、現在は中国共産党吉林省委員会の建物となっています。旧関東軍の司令部は日露戦争以前は旅順に置かれていましたが、満州国が建国された後の1934年に「新京」現在の長春に移転されました。当時の満州の実権を握っていたのは、満州国国務院でも皇帝である溥儀でもなくこの関東軍司令部でした。
-
現在は背の高いビルに囲まれてますが、当時は日本の城郭の天守のようにそびえていたに違いありません。
-
現在も省の委員会が使用しているので中に入ることはできませんし、ガイドブックには入口で写真を撮ると警備員に注意されるとあったので撮影ポイントを探していたわけです。
-
ここの遊具は10元から25元で、周りの物価から考えると高い気がします。何とも言えない古臭さもありますが、返って懐かしさも感じます。
でもこの遊具はなにか土木工事の機械を改造して造ったのではないか、と思うような武骨さがあります。 -
良く分からない世界感で伊豆の山奥にでもありそうな雰囲気です。廃墟ではありませんがマニアにはたまらないかもしれません。中国にいるのに昭和を感じます。
-
「勝利公園」は夕方になるほど人が出てきて賑やかになりました。最近日本では見掛けなくなったカンナの花が真っ赤に咲いていました。妻は懐かしそうにしています。ユーミンの「カンナ8号線」って曲を思い出しました。
-
建築様式は現代的な構造のビルに日本の城をのせた「帝冠様式」で造られ、大林組が建築に当たっています。この頃建設された新京の官衙の多くはコンクリート建築に中国風の屋根を載せた「興亜様式」となっています。これらは翌日見学する予定です。
-
「旧関東軍司令部」の正面かと思って写真を撮ったら違いました。横の入り口だったようで、どうりで歩哨の人がいないと思いました。気付いたのが帰国後だったので正面は見ていない事になりました。
-
ガイドブックにある「東方餃子王」の店は南湖公園の外れにありますが、ここまで行く観光客はいないと思います。旅行社の人に「あそこはチェーン店だから他にもありますよ。」と教えてもらったのが、関東軍司令部のある人民大路と新発路の交差点を新発路を東に進んだ南側の店でした。
自宅でも妻に作ってもらう「炒土豆?」をビールのつまみにします。 -
「涼拌拉皮」は葛切りと胡瓜の和え物で、拉皮(ラーピー)のプルプルがたまりません。胡麻ダレの葛きりのような料理で、これも美味しかったけれど食べても食べても量が減りません。
-
ここの店のシステムはメニュー用紙にレ点をつけるだけなので注文は簡単です。
問題は餃子の注文する量が分からなくて理解するのに時間がかかりました。忙しいのに一生懸命教えてくれた係の女の子に感謝です。 -
餃子は基本1斤(500g)の粉で作る量なので、50から60個出てくる場合があります。注文するときに必ず確認するのですが、この店のメニュー表には1両と書かれていました。3種類にレ点を付けましたが、これでは少ないと言われました。1両の単位が分からなかったのですが、1斤=10両、粉50gの餃子ですから5個か6個にしかなりません。3種類注文しても2人では少ないですよと言いたかったのです。
-
おなかも満腹になったのでホテルまで歩いて帰ることにしました。観覧車に乗った「勝利公園」の入り口の毛沢東像は緑色にライトアップしていました。瀋陽のホテルの前の中山広場の毛沢東像が懐かしく思えます。
-
長春は二人転の本場なので劇場は賑わっていました。入場料は20元から100元とありましたがその違いが分かりません。昔の温泉街にあるスナックみたいな客席でしたが飲み物は持ち込み禁止でした。
-
夜の長春火車站です。人民大街を北に向かって歩くと正面に見えますが、威圧的な感じがします。
-
「春諠賓館」までようやく戻ってきましたが昼間よりは情緒を感じます。夜になると以外に人の出入りが多いホテルです。このホテルは1909年(明治42年)に帝政ロシアや清国高官との交渉の場に充てるべく、南満州鉄道と東清鉄道との接続点だった長春火車站前に新築されたホテルでした。建設工事中の1908年(明治41年)10月1日に長春倶楽部の建物を利用した10室で開業し、建物竣工後の1910年(明治43年)2月1日に本格営業を開始します。
-
建物の内外装はアール・ヌーヴォー(セゼッション)様式で装飾されたのは東清鉄道が本拠地である哈爾濱にアール・ヌーヴォー様式の建物を多数建てており、これに対抗したものと思われます。満州国の成立後は新京ヤマトホテルに改称して、現在は「春誼賓館貴賓楼」として営業していますが、食堂などの内装に残されていたアール・ヌーヴォー様式の装飾は1987年の改装で大部分が失われています。
-
翌朝はホテルから「偽満皇宮博物院」に直行しました。下町みたいな所を抜けて歩いて行きましたが、地図で見るよりとても遠かったです。
-
満州国の国章は蘭花紋章と呼ばれます。 ベルナルド・ベルトリッチ監督の「ラスト・エンペラーの劇中でこの満州国皇宮がロケで使われていて、ダンスパーティーの途中で溥儀との離婚を望んでいた婉容が涙を流しながら花瓶に生けてあった蘭の花をちぎっては食べるシーンがあります。蘭の花の繋がりに気づいたときは鳥肌が立ちました。
-
右の「同徳門」の奥にその舞台となった「同徳殿」がありますが、子供を産んだ婉容が療養のためと溥儀から引き離されるシーンで使われました。関東軍によって閉じられた「同徳門」は開けられることのなかった紫禁城の門と重なって見えました。
-
見学のルートは最初に写真を撮った「菜薫門」から敷地を大きく左に廻りますが、その先には馬場がありました。周辺は住宅地なので不思議な感じがします。
-
「鹵簿(しぼ)車庫」と案内板にあったので儀仗用の馬車や車両の車庫だと思われますが、扉が閉じられているので中をうかがい知ることはできません。
-
ここが実際の入場口で、「内廷入口」とありました。ここの入場料は1人80元とかなり高い金額設定です。
-
入口の門を潜ると途端に世界が変わります。最初は「宮内府」の見学から始まります。1934年(康徳元年)3月1日の帝制移行に伴い、執政府は「宮内府」と改められます。「宮内府」は溥儀が政治活動を行う「外廷」と日常生活を過ごす「内廷」に分かれています。
-
外廷(皇宮)の主要な建物として、「勤民楼」と「懐遠楼」と「嘉楽楼」があり、「勤民楼」では溥儀が公務を執り、各種の典礼が行われました。「懐遠楼」には宮内府の事務部門と清朝歴代皇帝の祭祀を司る「奉先殿」が設けられました。内廷(皇宮)は溥儀とその家族の生活区域で東西両院に分かれており、西院に「緝煕楼」と東院に仮宮殿「同徳殿」が建設され、「緝煕楼」は溥儀と皇后婉容の住居とされ日常生活を過ごしていました。
-
満州国は日本の傀儡政権と言われ、展示してある資料によると政権は中国人で占められていますが、実際は各省庁の事務官である日本人が実権を握っていたようです。
-
この建物にもそんな日本人の部屋がいくつもありました。周囲を囲まれてさぞ窮屈な皇帝だったのでしょう。
-
「宮内府」では満州の中国人官吏や日本人の役人を紹介した展示がありました。
-
たくさんの人物が顔写真入りのパネルで紹介してありましたが、そのほとんどを知らないことが残念でした。
-
ここの建物も思った通りにアールデコの意匠が取り入れられています。照明器具に目を奪われますが、その種類の多い事には驚かされました。
-
1934年に満州国宮内府次長になり、溥儀の訪日にも随従した入江貫一の執務室だった部屋です。
-
溥儀の父である醇親王の愛新覚羅載ホウが溥儀の弟と妹を連れて、1934年7月28日の溥儀の皇帝祝賀の際に滞在した部屋です。日本が満州国を成立させ、溥儀を皇帝に担ぎ出した時には前途を危ぶんでこれに反対しています。その後も溥儀には従わず、もっぱら北京市内の自邸である醇親王府に居住して、満州国とは最後まで一線を画します。このため中国が日本との戦争に勝利したあとも溥儀のように漢奸として糾弾されることはなかったそうです。
-
「宮内府」から「中和門」を潜ると「勤民楼」があります。こちらに来るとまた威圧的なものを感じます。詔勅発布や謁見や祭礼に使われた建物だそうです。
-
「勤民楼」の意味は大志を示すため「天を敬い 祖を則り 政に勤 民を愛す」という清王朝の家訓から命名されたそうです。
-
ここまでも意外に時間がかかってちょうど正午になりました。影を見ると左右対称になっていますが、9月中旬の太陽は真南に近い位置あると感じました。
-
古代の皇帝は南面して座し政治を執るとありますので、この建物も南向きなのだろうと思いました。実際に執政府(後の皇宮)造営地は新京の地形及び執政について愛新覚羅溥儀の「絶対南面」の要望から大房身と杏花村と南嶺の3か所に限定され、最終的に既存市街に近い杏花村が選定されたという記録があるそうです。
-
見学ルートが「緝熙楼」を先に示しているので先にこちらの見学をすることにしました。この建物は溥儀と皇后の婉容(えんよう)や側室の生活の場です。元々は吉林省や黒竜江省の塩の倉庫と官庁で、中国人の設計による木造と煉瓦を組み合わせた構造になっています。
-
「緝熙楼」の名前は「于緝熙敬止」という「詩経」の文言からとられれています。緝熙とは前途が「光り輝くこと」を意味していて、清国4代皇帝康熙帝を引き継ぎ、清国を復活させることを願ったことですが、実際は関東軍の管理下だったためその願いは果たせませんでした。
-
その場所のためか建物の前には江沢民前国家主席の揮毫が刻まれた碑があり、「九月一八日 満州事変の日を忘れるな」と書かれてあります。
-
この建物が一番生活感があって溥儀と言う人がリアルに感じられます。
-
豪華なエントランスホールから見学を始めます。淡いピンクの天井が女性の住まいだったことを感じさせます。
-
入口のある中央は階段のある吹き抜けで、2階の東半分は皇后の部屋です。西側の1階は居間で、ここでは溥儀が官僚を個人的に呼び出し、後に溥儀の愛人の譚玉齢の住居にもなりました。
-
西側の2階は溥儀の宮殿で、中央は食堂としても機能するホールです。通路の南側は溥儀の寝室で、寝室の西側は書斎になっています。北側の廊下の左側は理髪室で反対は仏殿です。通路の右側はバスルームとトイレになっています。階段の吹き抜けは3階の薬局にも通じています。
-
瀋陽で見学した張作霖の邸宅と同じように窓ガラスは2重扉になり、窓の下にはセントラルヒーティングの設備も残されています。窓の数は多く部屋の中はかなり明るい印象を受けます。
-
皇后の婉容(えんよう)の若い頃の写真が飾られていました。子供時代からの写真が展示されていて、とても綺麗な方だったのが分かります。今まで溥儀には興味がありましたが改めてこの人の印象が強く残りました。
-
正妻の婉容との確執が深まった側室の文繍と別居後、1931年に文繍が生涯再婚をしないという条件で離婚が成立し、溥儀は中国の歴史上で初の離婚歴を持つ皇帝となります。 離婚後の文繍は溥儀に対して慰謝料を求めて告訴し、これに応じて溥儀が慰謝料5万5千元を支払ったものの、文繍は溥儀の性癖や家庭内および宮廷内の内情をマスコミに暴露します。この事を受けて文繍は離婚後にすべての位を剥奪されて平民となり、小学校の教師として1953年に死亡します。
-
「天子南面」という考えで建てられた宮殿ですが、この建物の執務室の机は日当たりの良い南を背にして北を向いています。
-
建物の中央に鎮座する階段室の重厚な造りが印象に残ります。
-
観光客が入れて手で触れる階段の部分だけが傷んでいましたが往時を偲ばせます。この階段を溥儀や婉容が昇り降りしたと思うと感慨深いものがあります。
-
婉容の住むエリアに入ると途端に女性らしい雰囲気に変わります。シャンデリアもここの物が一番豪華ですし、壁のモールディングも繊細なデザインです。
-
媛容の部屋では阿片中毒になった姿が哀れです。溥儀が2年間の執政を経て1934年3月1日に皇帝に即位すると婉容もまた皇后となりますが、皇后に相応しくないと見なす関東軍の意向により公式の場に姿を見せることはほとんどなく、告天礼の儀式にも即位式にも参列することは叶わなかったそうです。
-
自由のない閉塞的な暮らしと皇后としての振る舞いも許されない状況下でアヘンへの依存は高まり、1935年頃には新しい衣料を購入することもなくなります。溥傑の妻であった嵯峨浩は1937年秋頃の様子として、アヘン中毒の影響から婉容の食事の様子に異常な兆候があったと自伝に記しています。
-
満州国時代末期に婉容の姿を見た者によると、彼女はボロ同然のすり切れた服をまとい、髪は乱れたままで化粧はおろか顔を洗うこともなくなり、不健康な生活のため視力をほとんど失い、自力で立ち上がることすらできなかったといいます。ついには精神錯乱を来していたといわれますが溥儀は手をさしのべることもなく、むしろ離婚と婉容の廃妃を考えていたそうです。
-
日本の敗戦後に溥儀が日本への亡命を企て逃亡した後、義妹の浩らわずかな親族や従者と共に取り残された彼女は、ソ連・モンゴル連合軍とともに満州にやってきた八路軍に逮捕され各地を転々とし、親族や従者と引き離され、釈放の許可が出たものの引き取り手がなかったため軍の移動に伴い留置所や刑務所を転々とします。延吉の監獄内でアヘン中毒の禁断症状と栄養失調が進み、世話に訪れた浩のことも誰ともわからぬ錯乱した状態となり孤独の内に死亡したといわれます。
-
溥儀の寝室です。シングルサイズのベットが置かれてありますが、溥儀はおなかが弱かったのでタオルケットが1年中手放せなかったそうです。
-
皇帝の寝室にしてはシンプルな造りです。
-
旅行に来る前にいろいろ調べた時はこんな蝋人形を置いてと思いましたが、目の前にすると出来も良いので違和感はありません。と言うよりもその場にいるような臨場感さえ感じます。今回の旅での瀋陽の張作霖の銀行のインパクトが強かったようです。
-
溥儀の理髪室です。日本人の津田さんと言う理髪師が務めたそうです。毎回切った髪の毛は黄色いシルクの布に日付けを入れて保管したそうです。それほど皇帝の頭髪である「龍髪」は大切にされたようです。
-
同時に荷爾蒙注射(ホルモン注射)していたようです。
-
溥儀の仏堂です。神仏信奉は清朝歴代皇帝の伝統で、溥儀はそのために寝室の横に仏道を設けて斎戒読経し、運命判断をし、売らないと祭礼と神仏の加護を祈ったそうです。
-
美しいシャンデリアの先はバスルームがありました。
-
バスルームの右奥は溥儀のお風呂です。
-
左には摺りガラスの奥にトイレがあります。溥儀は毎朝起床すると便座に座ってその日の新聞を読み、経費収支帳簿を調べて時間を過ごしたそうです。満州国の後期には便座に座って上奏文の裁可も行ったそうです。
-
ようやく見学ルートの半分も過ぎたでしょうか。
-
「中和門」を潜って先ほどの「勤民楼」に戻りました。
-
「勤民楼」は我々以外に見学する人の姿も少なく、往時を偲ぶにはよかったです。
-
バロック様式のファサードには中国らしい五光星がデザインされています。
-
中央に正方形の中庭の周りを2階建ての正方形の建物が囲んだ形になっています。この建物は住居では無いので質実剛健と言った感じの内装です。
-
思ったとおりでここには関東軍の影が色濃く感じられます。この部屋は溥儀の執務室だったので豪華な調度品が並んでいます。
-
1階の西側には日本憲兵隊事務所と皇居衛兵事務所があります。
-
それぞれの部屋の内側からは中庭に出る事が出来る造りになっています。
-
重々しい部屋が続くので中庭側に出ると息が付ける気がしてホッとしました。
-
これらの部屋は非公式の会見が行われた部屋だったようです。
-
医療用の模型がこの部屋の使い道を物語っています。
-
日満議定書を調印したテーブルです。1932年9月15日に大日本帝国と満洲国の間で調印された議定書で、日本側全権は関東軍司令官の武藤信義陸軍大将、満洲国側は鄭孝胥国務総理が席に着きました。この議定書(条約)では満州国における日本軍の駐屯が明記され、また溥儀附属文書(交換公文)において満州国国防の関東軍と日本軍への委任が取り決められます。
-
そして部屋の北側には第一接見室があり、この部屋では溥儀が外国の使節に謁見する場所でもありました。
-
北側に置かれた皇帝の玉座は南向きに置かれ、ここでようやく「天子南面」が成り立っています。
-
妻も南側を向いて記念写真を1枚。
-
玉座の後ろにはさらに部屋があり、仏様が祭られています。少しホッとした気持ちになりますが、溥儀の苦悩も感じられる場所でもあります。
-
ここで溥儀は何を祈ったのでしょうか。
-
北側から南に向かって長くテーブルが並んだ「饗宴堂」は名前の通り宴会のためのホールです。
-
北側には溥儀が座った椅子が置かれてあります。
-
この並びで食事をしても楽しいことは何もなかったのではないでしょうか。
-
オーケストラボックスも設けられています。椅子の上に無造作に置かれた楽器が慌てて逃げてしまった楽団員の姿を想像させます。
-
息の詰まりそうな部屋から逃げ出したくなります。
-
吉岡安直の執務室です。吉岡は1932年3月の満州国建国後の1935年(昭和10年)3月に愛新覚羅溥儀の御用掛(関東軍司令部付)となり新京に赴任します。その後日本の駐満州国大使館附武官などを兼務しながら同職を務めます。
-
1945年(昭和20年)8月8日にソ連軍がソ満国境を越えて満州国に侵攻した際に、溥儀ら満州国首脳とともに新京を放棄して朝鮮にほど近い通化省臨江県の大栗子に避難し、8月15日に日本が連合国に降伏したことに伴い8月18日に溥儀が満州帝国解体と満州帝国皇帝からの退位を宣言したため、吉岡も全ての職位を失ないます。
-
その後、溥儀らとともにソ連軍に捕まることを避けて日本へ逃亡することを考え、奉天の飛行場でソ連軍に捕らえられます。このシーンは映画「ラスト・エンペラー」の中にも出てきました。
-
溥儀の弟の溥傑の日本人妻である嵯峨浩は自著「流転の王妃」で、軍と御用掛という身分を笠にきて皇帝をあやつる傲岸不遜な人物と評している一方で、満州国崩壊後に一行を守るべく危険を顧みず行動したことを称賛しています。
吉岡と親しかった山口淑子(李香蘭)も自著の中で「皇帝を尊敬していると口にしていた」、「皇帝と関東軍の板挟みで苦慮していた」と述べていたそうです。 -
ここへ来る前には旧満州の歴史や人物についてある程度知っておいた方が良いと思いました。
-
満州国陸海空軍大元帥の正装がガラスケースの中に置かれてあり、主の去ってしまった寂しさを感じました。
-
溥儀の宮廷御用車の写真が飾られていました。後ろに見えるのは昨日見た「関東軍司令部」の建物です。1932年3月9日の溥儀の執政就任式のパレードの写真のようです。
-
溥儀の公用車も置かれてありました。
-
ルネ・ラリックほどではありませんが、ラジエターグリルのマスコットがかっこいいです。
-
この車を見ているとやはり映画の「ラスト・エンペラー」を思い出します。妻の婉容が妊娠したと伝えられ、その相手がこの車の運転手だと知らされます。婉容は無事に出産しますがすぐに子供は薬品を注射され殺されてしまいます。婉容は養生のためと言われ皇宮から連れ去られ、車を磨いていた運転手は後から銃で撃たれて殺されます。
-
清朝の歴代皇帝や皇后である「清室列祖」の神位(位牌)祀った本堂があり、ここでは年始とそれぞれの皇帝が生まれた日と亡くなった日に香が焚かれたそうです。
-
歴代皇帝とは違う小さい祠堂が誰のためなのか分かりませんでした。
-
西洋風の建物の中に伝統的な祠堂の建築が取り込まれているようです。
-
ここからは「同徳殿」まで延々と廊下が続きます。
-
廊下は途中でスロープになっているので建物の床の高さが違っているのが分かります。その差が日本と満州国の埋められない差のように思えました。
-
細い廊下を抜けると突然視界が開かれ、「同徳殿」のエントランスホールに出ました。ここはまさに映画の「ラスト・エンペラー」の中でも出てくる場所です。坂本龍一が演じる満映理事長の甘粕正彦がカメラを回し、溥儀に挨拶に来る高橋英郎演じる菱刈隆一行を撮影したそのアングルです。映画の中と天井から吊られた照明が違いました。
-
新宮殿建設が長期間となることから、宮内府敷地内に仮宮殿が建設されました。東洋式外観の仮宮殿の設計は営繕需品局営繕処宮廷造営科長の相賀兼介が担当し、施工は戸田組が行っています。1937年(康徳4年)施工、1938年(康徳5年)末に竣工し「同徳殿」と命名されましたが、関東軍の盗聴を恐れて溥儀自身は使用しなかったそうです。
-
後に同徳殿には側室の李玉琴(福貴人)の住居が置かれますが、こんな楽しそうな出来事もあったのでしょうか?溥儀が若い女性に何か手渡す場面のようです。
-
暗い廊下の南側には娯楽的な部屋が続き、北側にはトイレがありました。見学者が実際に使えるので記念に小さい足跡を残してきました。
-
この楼かのシャンデリアは個性的で非常に美しかったです。
-
側室の李玉琴(福貴人)の澄んだ部屋は箱根の富士屋ホテルみたいです。
20数年前に琵琶湖ホテルでひと夏過ごした事がありましたが、本館のこんな部屋の窓の外には琵琶湖が広がっていました。 -
海外へ行くときはその都市のクラシックな歴史のあるホテルに宿泊するのが好きなのですが、日本ではそんなホテルが無くなってしまったり、値段が高かったりするのが残念です。
-
この辺りは奈良ホテルを思い出させます。
-
写真を見ながら妻は2階の見学を終えたようです。
-
1937年(昭和12年)4月3日、溥儀の弟の溥傑と嵯峨浩の結婚式の時の写真です。浩が女子学習院を卒業した1936年(昭和11年)当時、日本の陸軍士官学校を卒業して千葉県に住んでいた溥傑と日本人女性との縁談が関東軍の主導で進められていました。当初溥儀は溥傑を日本の皇族女子と結婚させたいという意向を持っていたが、日本の皇室典範は皇族女子の配偶者を日本の皇族、王公族、または特に認許された華族の男子に限定していたため、たとえ満州国の皇弟といえども日本の皇族との婚姻は制度上認められませんでした。そこで皇室とも繋がりのある侯爵家の長女であり、しかも結婚適齢期で年齢的にも溥傑と釣り合う浩に白羽の矢が立つことになります。
-
1945年(昭和20年)8月にソ連対日参戦によって新京を脱出し、終戦を朝鮮との国境近くの大栗子で迎えます。溥傑は溥儀の日本へ亡命する飛行機に同乗し、浩は陸路で朝鮮に向かい、海路で日本へ帰国する予定でした。 その後拘束されたり通化事件に巻き込まれながら流転して、上海から引揚船で日本に帰国します。1960年(昭和35年)に溥傑が釈放され、翌年に浩は中国に帰国して溥傑と15年ぶりに再会し、浩は溥傑とともに北京に居住します。
-
この博物館には行ったどれだけの建物と部屋があるのでしょうか。その1つ1つに歴史が色濃く残っているので、どれだけ時間をかけても見学が終らない気になってきました。
-
溥儀の宝座は東から西に向かって置かれてありました。今までで一番豪華な部屋のように思えました。
-
壁に開いた穴の向こうは映写室で、ここは溥儀が映画を楽しんだ部屋です。
-
1階の南側の部屋の先には広い廊下があり、外光が差し込んできます。冬は厳しい長春ですから冬には重宝したのでしょう。
-
廊下の南側には大きなガラス窓が9つ並び、「九龍門」としても知られています。北側には4つの部屋が並んでいます。
-
廊下の1番奥には小さな泉が設けられ、海中の風景がタイルで表されています。
-
4つある部屋の1つは溥儀が関東軍の将校と会談している情景が蝋人形で再現されています。
-
続く部屋は中国風のインテリアでまとめられた居間です。
-
-
スリークッション用のキャロムの大台が置かれてありました。高校生の頃四つ玉に嵌って、よくビリヤード屋に通いましたが、奥に置かれたスルークッションの台でゲームしている大人の人たちが格好良く見えたのを思い出します。
-
1番奥には和室がありますが、使っていないのか修復されたのかきれいに残っています。畳は古びているのは仕方がないことかもしれません。テーブルに碁盤が組み込まれているのが面白いです。
-
ここだけ見ているとここが中国だとは思えません。
-
東御花園は1938年は佐藤昌が中国北方庭園と日本庭園とを組み合わせて作った庭だと説明されていました。
-
庭へ出る2重扉の押手のデザインがアールデコのクロムメッキの美しいものだったのが印象に残ります。
-
正に映画「ラストエンペラー」の世界です。2階の奥で甘粕が記録映画用のカメラを回し、1段上がった奥に溥儀が座り、この視線の場所には媛容が座り、花瓶に生けられた蘭の花を食べていました。
-
「ラスト・エンペラー」は妻と何度も観た映画で、北京の紫禁城を旅した時も映画の話をしました。
-
吹き抜けから表に出られました。と言うかこちらが正面入り口で、この奥が吹き抜けになっているわけです。出産後に連れ去られる媛容を追いかけるために出てきた場所です。
-
その入り口の脇の休憩スペースには神社の石碑が打ち捨てられています。この皇宮の中にあった建国神社は、満洲国の建国の元神とされた天照大神を祀った宗教施設でした。1940年(康徳7年)創建され終戦の1945年(康徳12年)に廃絶されています。
-
先ほどの9連の外廊下を表から見たところです。扉の押手のデザインがカッコいいです。
-
日本庭園には池が必要ですが、水がきれいすぎてプールのように見えてしまいます。
-
コンクリートで固められて人工的な感じな上に、水が澄んでいるので金魚が空中に漂っているように見えます。これでは金魚もフンするのを戸惑うでしょう。
-
1940年に造られた天照大神防空壕が残されていました。残念ながらこの時は扉が閉まっていたので中を見る事が出来ませんでしたが、普段は中を見る事が出来るそうです。「建国神社」と同じころに造られ神官は空襲のたびに祀神の厨子を壕の中に運んだそうです。
-
建国神社の社殿は銅版葺木造の権現造で、内陣と祭祀殿と拝殿で構成されていたそうです。 満洲国版の「伊勢神宮」という位置づけで創建されましたが、日本の宮中三殿のように帝宮内にあるため一般人が参拝することは事実上不可能でした。
-
この帝宮内の神廟は当初仮神廟とされ、帝宮外に一般の参拝もできる神廟の造営に着手することとされます。1945年8月11日夜に溥儀が逃げ出した際に関東軍によって放火され礎石だけが残っています。
-
「同徳殿」を俯瞰してみるとこんな感じです。この建物の2階の裏側から入るのが観覧ルートです。結局この皇宮の見学だけで半日近く架かってしまいました。が、これで終わりなわけではありません。
この旅行記のタグ
利用規約に違反している投稿は、報告する事ができます。
旅行記グループ
2010 大連・旅順・瀋陽・長春・ハルピンの旅
-
前の旅行記
マンチュリアン・リポート(6)「瀋陽故宮」と「張氏師府博物館」で満州の歴史と張作霖と張学良について学び、しゃ...
2010/09/13~
瀋陽
-
次の旅行記
マンチュリアン・リポート(8)長春の「東北倫陥史陳列館」で戦時中の日本を知り、偽満州国の官庁街の建築を訪ねる...
2010/09/13~
長春
-
マンチュリアン・リポート(1)旧ヤマトホテルに宿泊し、古き日本の面影を探しながら大連の町を彷徨う。
2010/09/13~
大連
-
マンチュリアン・リポート(2)外国人入域規制が緩和された旅順へは今は無き普通列車で向かい、日露戦争の旧跡と「...
2010/09/13~
大連
-
マンチュリアン・リポート(3)旅順の旧跡巡りは「日露監獄旧蹟博物館」で終わり、水餃子を食べて旅順站から各駅列...
2010/09/13~
大連
-
マンチュリアン・リポート(4)大連火車站から瀋陽北站へ向かい、旧奉天ヤマトホテルだった「遼寧賓館」に泊まり、...
2010/09/13~
瀋陽
-
マンチュリアン・リポート(5)瀋陽の「北陵公園」と「遼寧省博物館」と「昭陵」を訪ねる。
2010/09/13~
瀋陽
-
マンチュリアン・リポート(6)「瀋陽故宮」と「張氏師府博物館」で満州の歴史と張作霖と張学良について学び、しゃ...
2010/09/13~
瀋陽
-
マンチュリアン・リポート(7)長春の新京ヤマトホテルだった「春諠賓館」に泊まり、「偽満皇宮博物院」にラストエ...
2010/09/13~
長春
-
マンチュリアン・リポート(8)長春の「東北倫陥史陳列館」で戦時中の日本を知り、偽満州国の官庁街の建築を訪ねる...
2010/09/13~
長春
-
マンチュリアン・リポート(9)哈爾濱の旧大和旅館に泊まり、中央大街と船で渡った太陽島に露西亜を想い、夜行寝台...
2010/09/13~
哈爾濱
-
マンチュリアン・リポート(番外) 記念艦三笠と軍港巡り
2013/09/04~
横須賀
旅行記グループをもっと見る
コメントを投稿する前に
十分に確認の上、ご投稿ください。 コメントの内容は攻撃的ではなく、相手の気持ちに寄り添ったものになっていますか?
サイト共通ガイドライン(利用上のお願い)報道機関・マスメディアの方へ 画像提供などに関するお問い合わせは、専用のお問い合わせフォームからお願いいたします。
長春(中国) の旅行記
旅の計画・記録
マイルに交換できるフォートラベルポイントが貯まる
フォートラベルポイントって?
旅行記グループ 2010 大連・旅順・瀋陽・長春・ハルピンの旅
0
170