2010/09/13 - 2010/09/21
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kojikojiさん
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「偽満皇宮博物院」があまりに巨大で見所が多く、写真がたくさんになってしまったので分割します。博物院の門を出ると扶余近くの川底から見つかった100年前の機関車が鎮座しています。そしてその前には「東北倫陥史陳列館」があります。前日に旅行社の方にここも見忘れないようにと言われたのを思い出したので何も考えずに入りました。中国の方が少なかったので周りを気にしないでじっくり見学できましたが、日本人には懐かしい物もたくさん残っていますが半分は胸に詰まるものもあります。知らないでいる事はそれも罪だと思うのでちゃんと見学した方が良いと思います。
懐かしく思えるものだけ写真に収めてきました。結局4時間近い見学になりましたのでタクシーを捉まえてレストランに直行です。やはり旅行社の方に聞いた北朝鮮レストランに行きました。聞いていなかったら来なかったかもしれませんが、まあ料理が美味しいのに安い事。日本では韓国料理は高いので今回の旅では一番安さを感じた店でした。ここは地質宮に近いので偽満州国の各省庁を廻るのには都合も良かったです。各省庁は行ってみれば国会議事堂から虎ノ門辺りまで歩き回るようなものでとても疲れました。ツアーだと一体どのように見学するのか不思議でした。
- 旅行の満足度
- 4.0
- 観光
- 4.0
- ホテル
- 3.0
- グルメ
- 4.0
- ショッピング
- 3.0
- 交通
- 3.5
- 同行者
- カップル・夫婦(シニア)
- 一人あたり費用
- 5万円 - 10万円
- 交通手段
- 鉄道 タクシー 徒歩
- 航空会社
- ANA
- 旅行の手配内容
- 個別手配
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「百歳の蒸気机車」の案内板には「この機関車は中国の吉林省内のハルピン-北京線のハルピンから北京に向かって162キロの地点、扶余県蔡家溝鎮付近の拉林河大橋の下で出土されたものです。鉄道の工事作業員が思いがけず地下5メートルの深さに埋没しているこの100年余りの歴史を持つX-180蒸気機関車を発見しました。」
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「この機関車は当時世界最大の蒸気機関車メーカーである米フィラデルフィアのパウエル・ロコモーティブ・ファクトリーで製造されたものです。汽車の長さは7.8メートル、高さは4.7メートル、車輪径は1.27メートルで線路幅は1.524メートル、車輪規格は1-4-0、木材を燃料としたエンジンで、かつてロシアの経営する中東鉄道が南支線を建設中に動力車として使用されました。この汽車は現存するパウエル社の最も初期化型の機関車であり、吉林省の文化財認定委員会の認定を経て中国の国家第2級文化財に暫定認定されました。偽満皇宮博物院の所蔵として提供し、苦心して復元修理したうえで公開するものです。」
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「東北倫陥史陳列館」は2006年に竣工した立派な建物です。中には満州時代から近代までの歴史が豊富な展示品で説明されているそうです。
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前の日にホテルまで列車のチケットをと添えてくれた旅行会社の方が「東北倫陥史陳列館は必ず見逃さないでくださいね。」とおっしゃっていたので中に入ることにしました。その言葉がなかったら立ち寄らなかったかもしれません。
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日本海海戦30周年記念ポスターにはZ旗が描かれています。
日露戦争時の1905年5月27日から28日にかけて日本海で行われた日本海海戦の際にトラファルガー海戦の事例に習い、東郷平八郎連合艦隊司令長官の座乗する旗艦「三笠」のマストにZ旗を掲揚し、「皇国ノ興廃此ノ一戦ニ在リ、各員一層奮励努力セヨ」という意味を持たせて掲揚しました。この文案は名文家として有名な連合艦隊参謀の秋山真之であるとされています。 -
同じ日露戦争30年を記念するポスターには「満蒙は天日に輝く」と書かれてありますが、奉天を占領した日である3月10日の陸軍記念日のポスターです。
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「承認二週年紀年」は満州国が承認された2年目を記念するポスターで、満州国の国旗の前で関東軍の兵士と握手する満州の人々の姿が描かれています。明治38年(1905年)の日露戦争後のポーツマス条約により、日本は長春―旅順間とその他の鉄道や重要炭鉱の権利等を獲得し、翌年これらを経営する南満州鉄道株式会社(満鉄)を設立します。同じくポーツマス条約により、遼東半島のロシア租借地をも獲得し、関東州の名のもとに日本の管理下におきます。
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関東州と満鉄附属地の警備のため明治39年(1906年)に設置された関東都督府陸軍部が、大正8年(1919年)に独立して関東軍となり、やがて関東軍は関東州や満鉄附属地の警備を超え、日本の大陸政策の先頭に立ち、昭和6年(1931年)の満州事変や翌昭和7年(1932年)の「満洲国」の建国を強引に押し進めます。
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「満洲国」は「王道楽土、五族協和」をスローガンとし、それは日本を盟主として満州に居住する人々を統合するためのスローガンに過ぎず、その資源と市場を日本のものとするために「満洲国」を建国したのでした。
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溥儀は満州国皇帝の即位にあたり、歴代の清朝皇帝しか許されなかった黄色い皇帝服を着ることを望みましたが、日本の関東軍は「満州国陸海軍大元帥正装」という軍服を贈り、「清国ではなく満州国の皇帝として即位するのだから、こちらを着るように」と溥儀に言い渡したのでした。
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「萬古精忠」の書は山本 五十六(やまもと いそろく)で最終階級は元帥海軍大将で連合艦隊司令長官でもあった人物です。
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山本五十六の書を見るのは初めてでしたが、どのような来歴が合ってここに展示されているのかが気になりました。
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館内はこのような大型の陳列ケースの中にその当時に残されたものが並べられています。
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元々アンティークの地図のコレクターではあるのですが、戦時中の大きな地図を見るのは初めてでした。
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吉林省や黒竜江省の文字の中の鉄路を追っていくと哈爾濱や新京の文字を見つける事が出来ます。
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そして奉天から大連と旅順と今回鉄道で旅しているルートがこの当時から整備されていたことを再認識します。そして子供の頃に見ていた国鉄の時刻表の表現に似ていることにも気づきます。
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大きなポスター以外にも絵葉書だったりビラなどがきれいに残されていることに驚きます。
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昭和17年12月8日の太平洋戦争(大東亜戦争)の1周年を記念したポスターでは水に沈んだロシア兵とイギリス兵とアメリカ兵の頭を踏んで進んでいく関東軍の兵士の姿があります。
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「慶祝 政府成立一周年紀年」の文字を彫る満州の青年の顔に表情がありません。
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土耳古まで大亜細亜圏と考えられていたと分かります。「兵戦商戦 欧美侵呑 敵国吾域 携手同心」本当にここまでアジアを統一する気でいたのでしょうか。
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巨大なレリーフの前では満州国陸海軍大元帥正装をした溥儀が玉座に座り、「日満議定書」に調印する姿が描かれ、その不平等な約定についてが壁に書かれ、その上では関東軍と戦う人々の姿が現されています。
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奉天北煙台で生まれた山口淑子は日本語も中国語も堪能であり、またその絶世の美貌と澄み渡るような歌声から、奉天放送局の新満洲歌曲の歌手に抜擢され、日中戦争開戦の翌1938年(昭和13年)には満州国の国策映画会社・満洲映画協会(満映)から中国人の専属映画女優「李香蘭」(リー・シャンラン)としてデビューしました。映画の主題歌も歌って大ヒットさせ、女優としても日本や満洲国で大人気となります。流暢な北京語とエキゾチックな容貌から、日本でも満洲でも多くの人々から中国人スターと信じられ、「東洋のマタ・ハリ」と呼ばれた川島芳子との親交もあったそうです。
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先ほど見てきた礎石の上に建っていた「建国神社」の在りし日の姿です。
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流言にデマとルビが振ってありますが、デマとはデマゴギーの略でドイツ語なので敵性語では無かったのでしょう。首都防諜団なんて韓国のグループみたいな名前です。
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昔はプラスチックは無いので、駅で売っていたお茶は陶器製だったということが分かります。胴には南満洲鉄道株式会社のロゴが入っています。持ち手は紐か何かだったのでしょうか。子供の頃に10円くらいで駅弁と一緒に買った記憶があります。そのころはすでにポリ茶瓶でしたが、これは正に汽車土瓶です。
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キリル文字の併記が満州がロシアが近い事を感じさせます。「鶏口と為るも牛後と為る勿れ」という言葉を信条としていた上山英一郎は、明治43年(1910年)「金鳥」の商標を登録しました。業界の先駆者として「鶏口」になるべき自覚と気概を持ち、品質をはじめ、あらゆる面で他より優れたトップの存在であることを考えてのことです。4代目の赤い商標の下には赤い丸の中に上山の文字が見えます。
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満州開拓団のいた看板がよく残されていたものです。普通なら真っ先に燃料として燃やされてしまう気がします。
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日本でもあまり見る機会が無いものも沢山展示してあります。
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先ほどの神社の横には外から入る門があります。一時は塗り込められていたそうですが今は修復されています。
中国人の今時の女の子が変わりばんこに写真を撮っていました。時代は変わっていくのだなと感じました。 -
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遅いお昼は地質宮近くの北朝鮮料理の「仁風閣」までタクシーを急がせます。3時前のお店は閑散としていました。ガイドブックには2店舗掲載されていましたが、旅行社の方曰くもう1つの店は高いし美味しくないと言っていました。
メニューには写真が載っているので注文は簡単でした。が、最初の数ページは狗料理(犬料理)です。ちょっと強烈なリアルな写真もあるので愛犬家の方は…。
ナムル盛り合わせは量も多くお味も良いです。他の料理が来るまでビールのつまみです。 -
上等の牛肉のユッケは最高に美味しかったです。その量の多い事と言ったら嬉しい限りです。日本で食べる時はチビチビ食べますが、この量で22元(300円)なのでこの時はバクバクいただきました。
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平壌冷麺も本格的でおいしかったです。昔神戸の長田の有名な「元祖平壌冷麺屋」で食べて以来のおいしさでした。
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冷麺も鋏で切り分けてこんな感じで混ぜてくれます。ルーツは現在の北朝鮮にあり、平壌と咸鏡南道咸興が本場として知られ、韓国側には1950年に朝鮮戦争が勃発した際に南に逃れた北朝鮮出身者を通じて本格的に普及したといわれます。本来は寒い冬に暖かいオンドル部屋の中で食べる料理なので、まさに今我々がいる座敷の状態です。
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座敷の床は掘りコタツになっていて、床もオンドルでくつろげました。係りのお姉さんが給仕してくれます。
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朝早くから「偽満皇宮博物院」と続く「東北倫陥史陳列館」までずっと歩き続けていたので2人ともへとへとでした。遅いお昼ご飯になってしまいましたが、美味しい料理に大満足です。
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北朝鮮のチヂミは、主成分に緑豆(りょくとう)を使っているのが特徴で、本格的なおいしさを堪能しました。
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午後2時になろうとしているので、我々の席以外は電気が消されてありました。他にお客もいないので、トイレに行ったらそのまま拉致されるのではないだろうかなんて考えてしまいました。
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これは私には塩辛らすぎましたが上に乗ったミル貝は美味しかったです。他にも松茸炒め88元なんて料理や当然焼肉もありますが、これ全部で150元なので2000円弱の安さです。晩御飯にも一度来ようなんて考えてしまいまいた。
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食事が済んで少し歩くと偽満州国の官庁街につきました。番北側にある「地質宮」は元々は「満州国宮殿」として建てられた建物です。まずは広大な敷地に驚かされます。サッカーの競技場が軽く3面は取れそうです。
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宮廷用地は3つの区域から構成されており、南側の正門外広場である「順天広場(文化広場)」と中部の政殿を中心とする「内廷」と北側の西洋風回遊式庭園の「宮苑」に大別され、政殿は東西220メートル、高さ31メートルの鉄骨鉄筋コンクリート造り2階建で、屋根瓦は清朝宮殿と同様の黄金色の瑠璃瓦が葺かれ、外壁は花崗石張りで内装は大理石仕上げの壮大な東洋式建築物でした。。
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政殿は構造物は完成しましたが戦争の激化による建築資材不足に配慮して1943年(康徳10年)1月に建設が中断されます。この建物は中華人民共和国が設計図を元に4階建で完成させて長春地質学院教学楼として使われ、「地質宮」と通称され、後年になって吉林大学地質宮博物館として一般公開されています。
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文化広場から南に延びる新民大街に向かって歩き始めます。右手には「偽満洲国軍事部旧址」で左手が「偽満洲国国務院旧址」です。日本でいう霞が関の辺りのような場所です。ここに居並ぶ建物は帝冠様式(ていかんようしき)とか帝冠式(ていかんしき)と呼ばれる建築様式で、1930年代(昭和10年前後)の日本において、伊東忠太や佐野利器や武田五一らによって推進された和洋折衷の建築様式です。
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彼らが審査員を務めた競技設計では様式規定に日本趣味が盛り込まれ、鉄筋コンクリート造の洋式建築に和風の屋根をかけたデザインが選ばれています。現在日本で残っている建物としては上野の国立博物館や神奈川県庁舎や九段会館や歌舞伎座などがあります。仕事で3か月ほど滞在した以前の琵琶湖ホテルも帝冠様式の建物だったなと思い出しました。
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現在は病院なので中まで入ることが出来ますが、1つ1つの建物が大きいので中まで進む元気もありません。
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「偽満洲国軍事部旧址」は文化広場の南側の偽満洲国国務院の向かいに位置しています。長春の偽満洲国軍事部は1935年に竣工され、旧満州国の軍務を掌った機関でした。現在は吉林大学医科大学第一臨床学院として使われています。
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近代建築の上に日本的な屋根を乗せた重々しい外観となっていて、満州国時代の軍事部は満州国の中枢機関の中でも最重要の任務を担っていたと考えられています。
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正面から見上げるとかなりの威圧感を感じます。そう確かにお城の天守閣の下に立つときと同じような感じがします。
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国会議事堂に似ている建物ですが内部を見学できないのが残念です。ここから長春駅まで地下道で繋がっていたなんて聞くと日本の議事堂にも秘密がありそうな気がしてきます。国会議事堂と同じ年1936年(昭和11年)に完成した「偽満洲国国務院旧址」です。
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新京特別市は日本が蓄積してきた都市計画の理念と社会資本整備の技術を投入して建設したとされます。無電柱化された道路は地中に電線や上下水道とガス管を埋設し、住居は水洗トイレにガス炊飯、ペチカ壁暖房とスチーム暖房システムが採用され、電話までが完備されていたそうです。
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「偽満洲国国務院旧址」は白求恩医科大学として利用され、その後は吉林大学の基礎医学院になっています。
白求恩(ベチューン)とはカナダ人医師の名前で、1914年に勃発した第1次世界大戦に従軍し、傷ついた兵士の治療を行っていました。戦争が終わるとアメリカのデトロイトに渡り、無料で肺結核の治療を施す活動をしていましたが、貧困層の人々は次々と結核に感染し亡くなっていきます。医療の限界を感じたベチューン医師は、貧困撲滅にこそ命を助ける鍵があると考えるようになり祖国カナダの共産党に入党し、1938年には中国共産党の本拠地である延安に渡り、毛沢東の共産党の活動を支援しまう。その功績を讃えて大学の名前と像が残されました。 -
新民大街は美しい並木道ですが、それが逆に建物を隠しています。ただ「吉林省広播電視塔」は背が高いので良く見えました。この当時何の案内も無かったので、上に登れるのかもわかりませんでした。
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切れ目なく行き来していた車が一周だけ無くなりました。片側3車線の大きな通りです。満州国時代は日本に倣って左側通行でしたが、現在は右側通行になっています。
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「偽満洲国司法部旧址」は現在「吉林大学白求恩医学部」として使用されています。
母の叙勲で法務省の中に入ったことがありますが、どうもお役所の本庁は苦手な雰囲気があります。子供の頃には共同通信に勤めていた父の所へ行って、通産省の古ぼけた売店のある通路で何か買ってもらった記憶も蘇ってきます。 -
和漢洋折衷の建築らしいですが,文字通り西洋風の建築に和風の城郭の天守のような屋根を乗せ、左右には中国風の屋根を乗せています。
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中央分離帯にはこんな小道がありますが、誰も歩いてはいません。
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中央分離帯の歩道から見た「偽満洲国経済部旧址」です。もう通りを渡って近くにまで行く元気もありません。
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現在は「吉林大学第三医院」として使用されています。建物の構造上病院や学校に転用するのが安易だったのではないでしょうか。
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「偽満洲国交通部旧址」外から見るだけでは歴史を窺い知る事は出来ないと分かりました。現在は白求恩医科大学予防医学院として使用され、建物は1935年竣工しています。道路や郵便や電信、航空や水運などを管理する交通部として使用されていました。
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「偽満洲国交通部旧址」この辺りまで歩いてくると、大通りを踏破するのが目的になってきました。
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切妻屋根の側面を正面に据えている面白いデザインです。神社建築では妻部分の斜め材を囲う破風(はふ)部分の破風板が延長して千木(ちぎ)と呼ぶ斜め材が突出するのですが、デザインのルーツはその辺りにありそうです。建物の正面として重厚さが感じられないので、花崗岩の疑似柱を設けたような気がします。
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緑の瑠璃瓦が美しいのは吉林省図書館です。松並木に映えて日本的な風景に見えますが、満州時代は何の建物だったのでしょうか?
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「偽満洲国総合法衛旧址」は1936年(昭和11年)に建てられた満州国の最高検察庁だった建物で、現在は中国人民解放軍第461医院として利用されています。妻は腰が痛いと泣きそうです。「あと1つだから。」と宥め賺して先に進みますが、こちらももう限界です。この辺りで気づきましたが誰も歩いて観光していません。
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この通りを歩いて観光するには難しいところです。6車線と分離帯にも公園がある広い通りを行ったり来たりして、1ブロックも何百メートルも歩かなければなりません。長春の人にとってはそれぞれ病院だったり図書館だったりと生活に関係した施設になっているのでしょうが、懐かしがるのは日本人だけでしょう。
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以前は満州国最高検察庁、最高法院、新京特別市高等検察庁、高等法衛がこの場所にあり、それを総合して総合法衛と呼ばれていたそうです。これだけ病院が並んでいるのですから、痛くなった腰をどこかで観てもらえばよかったかもしれません。
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夜の列車まで時間があるので休憩も兼ねて「南湖公園」に入ってみます。正面には巨大な「解放紀念碑」が建っています。この規模なら有料かと思いましたが無料でした。ただ湖があるだけかと思っていたら以外に樹木が生い茂り、数十年前に人工的に造られたとは思えない雰囲気です。程よく整備され貸自転車や電動バスがお客を運んでいます。
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南湖の一部には蓮の葉が生い茂っていました。初夏の頃であれば蓮の花が満開なのだろうなと思います。
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どこかで見た風景だと思って考えていると昆明の「大観公園」にそっくりだと気づきました。この先に広大な南湖が続いています。
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蓮の花は咲いていませんでしたが、湖岸にはダリアが咲き誇っていました。
もうすぐ10℃を下回る日がやってくるので、花の季節も終わりだと思います。ダリアも最近日本では見掛けない様な気がしました。 -
最近の記憶だと雲南省の麗江から四川省との省境の濾古湖(ルーグーフー)の島へ手漕ぎ舟で渡ったときにチベット寺院の庭で見事に咲いていたのを思い出します。
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ダリアと呼ぶより中国だと和名の天竺牡丹と言ったほうが雰囲気があります。
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「立てば芍薬座れば牡丹歩く姿は百合の花」は女性の美しい立ち振る舞いや容姿を花にたとえて表現する言葉ですが、妻は立っても座っても歩いても牡丹のようです。
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言葉のもう1つの由来は、それぞれの花を「立って」「座って」「歩きながら」見るのが最も美しいとされることが挙げられます。花には背の高い花、低い花、細くて揺れる花、などさまざまな特徴があり、花を最も美しく鑑賞する方法も異なると言われています。
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芍薬は立って見るのが一番であり、牡丹は座ってみるのが最も美しく鑑賞でき、そして百合は歩きながら眺めるのが最も良いとされています。
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真夏のような大連からスタートした旅は瀋陽で肌寒くなり、北へ向かうほど気温も下がり、夏から晩秋まで一気に季節が変わったようです。
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ここにも電動船がありました。昆明でも乗りましたが、自分で漕がなくても良いのでどこまでも行けます。流石に船に乗る時間も元気も残っていませんでした。
公園前からタクシーに乗って重慶路まで出てみましたが、若者向けの店ばかりで特に興味を惹く物はありませんでした。 -
そこからブラブラホテルに戻ると、。勝利公園の中からマオさんが手を振って見送ってくれています。長春ではもう残された時間はありません。
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ホテルで今日の分の絵葉書を書いて入口のポストに投函します。最後に夜景の旧新京ヤマトホテルを撮影しました。この日は9月19日で、翌々日の21日が中秋節でした。「次の夜から欠ける満月より14番目の月が好き」と歌ったのはユーミンだったなと思わずハミングしながら駅に向かいます。
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