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瀋陽2日目も天気予報の通りに雨でした。気温も低く最高気温は19度なんて状態です。前日のうちにユニクロでインナーウェアとフリースを買っておいて正解でした。移動は全てタクシーにして瀋陽火車站から「北陵公園」と「遼寧省博物館」の順で観光しました。瀋陽に来て北陵公園の「昭陵」を見学するのは当たり前ですが、今回いろいろ調べて訪れた「遼寧省博物館」はとても素晴らしい収蔵品を持っていました。以前は有料だったそうですが現在は無料で、特に3階の時代毎に分けられた部屋は商・周の時代の青銅器や華夏・遼の遼三彩に沢山の俑、契丹時代の宝物など魅力ある収蔵品に溢れていました。

マンチュリアン・リポート(5)瀋陽の「北陵公園」と「遼寧省博物館」と「昭陵」を訪ねる。

9いいね!

2010/09/13 - 2010/09/21

103位(同エリア321件中)

kojikoji

kojikojiさん

瀋陽2日目も天気予報の通りに雨でした。気温も低く最高気温は19度なんて状態です。前日のうちにユニクロでインナーウェアとフリースを買っておいて正解でした。移動は全てタクシーにして瀋陽火車站から「北陵公園」と「遼寧省博物館」の順で観光しました。瀋陽に来て北陵公園の「昭陵」を見学するのは当たり前ですが、今回いろいろ調べて訪れた「遼寧省博物館」はとても素晴らしい収蔵品を持っていました。以前は有料だったそうですが現在は無料で、特に3階の時代毎に分けられた部屋は商・周の時代の青銅器や華夏・遼の遼三彩に沢山の俑、契丹時代の宝物など魅力ある収蔵品に溢れていました。

旅行の満足度
4.5
観光
4.5
ホテル
4.5
グルメ
4.0
ショッピング
3.0
交通
3.5
同行者
カップル・夫婦(シニア)
一人あたり費用
5万円 - 10万円
交通手段
鉄道 タクシー 徒歩
航空会社
ANA
旅行の手配内容
個別手配
  • 旧奉天ヤマトホテルである「遼寧賓館」での夜が明けました。食事はロビー奥の餐廰でいただきました。

    旧奉天ヤマトホテルである「遼寧賓館」での夜が明けました。食事はロビー奥の餐廰でいただきました。

  • ステンレスのトレイの形が小学生の給食のお皿に似ていると妻に話したら、「知らない。給食のお皿はアルマイトでしょ。」と言われました。たまに世代間の隔たりを感じる事があります。

    ステンレスのトレイの形が小学生の給食のお皿に似ていると妻に話したら、「知らない。給食のお皿はアルマイトでしょ。」と言われました。たまに世代間の隔たりを感じる事があります。

  • 瀋陽に来てからずっと寒いので熱々のお粥と油条が嬉しいです。<br />おかずの種類は少ないですが、まあこんなもんでしょうか。

    瀋陽に来てからずっと寒いので熱々のお粥と油条が嬉しいです。
    おかずの種類は少ないですが、まあこんなもんでしょうか。

  • 朝食会場のシンプルな部屋の横にはダンスホールがありました。<br />この辺りはヤマトホテル時代の内装が残されているようです。

    朝食会場のシンプルな部屋の横にはダンスホールがありました。
    この辺りはヤマトホテル時代の内装が残されているようです。

  • 翌日の結婚式の準備が整っていて、華やかな雰囲気でした。デビュー前の李香蘭が初めてステージに立ったのがこのダンスホールだと思うと感慨深いものがあります。残念ながら誰もいないので電気をつけてもらう事が出来ませんでした。

    翌日の結婚式の準備が整っていて、華やかな雰囲気でした。デビュー前の李香蘭が初めてステージに立ったのがこのダンスホールだと思うと感慨深いものがあります。残念ながら誰もいないので電気をつけてもらう事が出来ませんでした。

  • 1920年(大正9年)に山口淑子は奉天北煙台で生まれ、南満州鉄道で中国語を教えていた佐賀県出身の父山口文雄と福岡県出身の母アイ(旧姓石橋)の間に生まれ「淑子」と名付けられます。

    1920年(大正9年)に山口淑子は奉天北煙台で生まれ、南満州鉄道で中国語を教えていた佐賀県出身の父山口文雄と福岡県出身の母アイ(旧姓石橋)の間に生まれ「淑子」と名付けられます。

  • 親中国的であった父親の方針で幼い頃から中国語に親しんだそうで、小学生の頃に家族で奉天へ移住します。その頃に父親の友人であり家族ぐるみで交流のあった瀋陽銀行の頭取・李際春将軍(後に漢奸罪で処刑される)の義理の娘分(乾女児)となり、「李香蘭(リー・シャンラン)」という中国名を得ます。

    親中国的であった父親の方針で幼い頃から中国語に親しんだそうで、小学生の頃に家族で奉天へ移住します。その頃に父親の友人であり家族ぐるみで交流のあった瀋陽銀行の頭取・李際春将軍(後に漢奸罪で処刑される)の義理の娘分(乾女児)となり、「李香蘭(リー・シャンラン)」という中国名を得ます。

  • 日本語も中国語も堪能で、またその絶世の美貌と澄み渡るような歌声から、奉天放送局の新満洲歌曲の歌手に抜擢され、日中戦争開戦の翌1938年(昭和13年)には満州国の国策映画会社・満洲映画協会から中国人の専属映画女優「李香蘭」(リー・シャンラン)としてデビューします。

    日本語も中国語も堪能で、またその絶世の美貌と澄み渡るような歌声から、奉天放送局の新満洲歌曲の歌手に抜擢され、日中戦争開戦の翌1938年(昭和13年)には満州国の国策映画会社・満洲映画協会から中国人の専属映画女優「李香蘭」(リー・シャンラン)としてデビューします。

  • 映画の主題歌も歌って大ヒットさせ、女優として歌手として日本や満洲国で大人気となりますが、流暢な北京語とエキゾチックな容貌から日本でも満洲でも多くの人々から中国人スターと信じられていました。

    映画の主題歌も歌って大ヒットさせ、女優として歌手として日本や満洲国で大人気となりますが、流暢な北京語とエキゾチックな容貌から日本でも満洲でも多くの人々から中国人スターと信じられていました。

  • 日中戦争中には満映の専属女優として日本映画に多く出演して人気を得ます。長谷川一夫と「支那の夜」くらいしか観たことはありませんが、何度も行った蘇州に風景や大原美術館の絵画を現地で収集した児島虎次郎の絵画とイメージが重なり、劇中歌の「蘇州夜曲」を妻と2人で歌いながら、蘇州の町を自転車で走ったこともありました。

    日中戦争中には満映の専属女優として日本映画に多く出演して人気を得ます。長谷川一夫と「支那の夜」くらいしか観たことはありませんが、何度も行った蘇州に風景や大原美術館の絵画を現地で収集した児島虎次郎の絵画とイメージが重なり、劇中歌の「蘇州夜曲」を妻と2人で歌いながら、蘇州の町を自転車で走ったこともありました。

  • ホテルのロビーに置かれた古いポストに絵葉書を投函して、タクシーで瀋陽火車站に向かいました。駅の手前まで来るとここで降りるよう促されます。汽車に乗るなら冗談では無いと言うところですが、こちらは写真を撮る都合があるので従いました。後で分かりましたがタクシーは駅構内に入る手前で料金を徴収されていました。

    ホテルのロビーに置かれた古いポストに絵葉書を投函して、タクシーで瀋陽火車站に向かいました。駅の手前まで来るとここで降りるよう促されます。汽車に乗るなら冗談では無いと言うところですが、こちらは写真を撮る都合があるので従いました。後で分かりましたがタクシーは駅構内に入る手前で料金を徴収されていました。

  • 瀋陽火車站の手前から全体像を写真に撮りました。かつての満洲国の南満州鉄道の重要な中心駅であり、建築家の辰野金吾の学生であった太田毅と吉田宗太郎によって設計されています。そのため東京駅と外観が似ているといわれ、遼寧省文物保護単位に指定されています。<br />

    瀋陽火車站の手前から全体像を写真に撮りました。かつての満洲国の南満州鉄道の重要な中心駅であり、建築家の辰野金吾の学生であった太田毅と吉田宗太郎によって設計されています。そのため東京駅と外観が似ているといわれ、遼寧省文物保護単位に指定されています。

  • 台湾の総統府や中国ではこの当時の建築物が大切に残されていますが、破壊して晒しものにする国もあるのが残念です。

    台湾の総統府や中国ではこの当時の建築物が大切に残されていますが、破壊して晒しものにする国もあるのが残念です。

  • 残念ながら切符が無いので構内に入ることが出来ませんでした。雨も降っているのでタクシーに乗ろうとしましたが、構内のタクシー乗り場では乗せてくれません。駅前の通りを渡った所でタクシーを捉まえて「北陵公園」まで移動しました。

    残念ながら切符が無いので構内に入ることが出来ませんでした。雨も降っているのでタクシーに乗ろうとしましたが、構内のタクシー乗り場では乗せてくれません。駅前の通りを渡った所でタクシーを捉まえて「北陵公園」まで移動しました。

  • 公園の入り口で「昭陵」のチケットを買っているとガイドさんと日本人のご夫婦と一緒になりました。日本旅行のツアーだそうですが、お客はお2人だけだそうです。大連から夜行列車で哈爾濱に移動して長春から瀋陽と南下してきたとの事です。我々とは逆ルートですが、妻は余程心配していたのか「寝台車はどうでした?」と真剣に尋ねていました。ガイドさんは我々がガイドなしで旅しているのを非常に驚いていました。

    公園の入り口で「昭陵」のチケットを買っているとガイドさんと日本人のご夫婦と一緒になりました。日本旅行のツアーだそうですが、お客はお2人だけだそうです。大連から夜行列車で哈爾濱に移動して長春から瀋陽と南下してきたとの事です。我々とは逆ルートですが、妻は余程心配していたのか「寝台車はどうでした?」と真剣に尋ねていました。ガイドさんは我々がガイドなしで旅しているのを非常に驚いていました。

  • 門の裏に電動のカートが待っていたので乗ることにしました。ちょうど5人になったのですぐに発車しました。天気が良ければ歩くのですが、雨の中をかなり歩くので体力を消耗しないようにしましょう。

    門の裏に電動のカートが待っていたので乗ることにしました。ちょうど5人になったのですぐに発車しました。天気が良ければ歩くのですが、雨の中をかなり歩くので体力を消耗しないようにしましょう。

  • 左右に池が見えてきます。この日は余程寒かったのでしょうか湖面に湯気が上がっています。水より大気の方が温度が低いと言うことです。

    左右に池が見えてきます。この日は余程寒かったのでしょうか湖面に湯気が上がっています。水より大気の方が温度が低いと言うことです。

  • ここも観光客はほとんでいませんでした。日本旅行の3人の方とは少し離れて見学しました。一緒について行って説明を聞くほど無神経ではありませんから。皇帝の通る中心の石組は歩けないようになっていました。清東陵ではこの部分だけに石が敷かれ、他は舗装されていなかったので、ここだけが建設当時のものかもしれません。

    ここも観光客はほとんでいませんでした。日本旅行の3人の方とは少し離れて見学しました。一緒について行って説明を聞くほど無神経ではありませんから。皇帝の通る中心の石組は歩けないようになっていました。清東陵ではこの部分だけに石が敷かれ、他は舗装されていなかったので、ここだけが建設当時のものかもしれません。

  • 見事な「牌坊」が建っています。西安の孔廟(碑林博物館)や清真大寺に立派なものがあったのを思い出します。

    見事な「牌坊」が建っています。西安の孔廟(碑林博物館)や清真大寺に立派なものがあったのを思い出します。

  • 見渡す限り観光客は2組しかいません。正面の「正紅門」から中に向かいます。

    見渡す限り観光客は2組しかいません。正面の「正紅門」から中に向かいます。

  • 門の左右には龍壁にあるような交趾釉で焼かれた龍が嵌め込まれてありました。

    門の左右には龍壁にあるような交趾釉で焼かれた龍が嵌め込まれてありました。

  • よく見るとタイル状になったパネルを組み合わせています。

    よく見るとタイル状になったパネルを組み合わせています。

  • 1枚1枚を釘のようなもので固定しているのが面白いです。

    1枚1枚を釘のようなもので固定しているのが面白いです。

  • 石畳も雨に濡れて風情が感じられますが実際は寒かったです。「牌楼」まではかなり歩くことが分かり、その先もまだまだ長いのは前日の「福陵」を歩いているので想像できます。

    石畳も雨に濡れて風情が感じられますが実際は寒かったです。「牌楼」まではかなり歩くことが分かり、その先もまだまだ長いのは前日の「福陵」を歩いているので想像できます。

  • ここから先は皇帝の歩いた中心の石畳を歩きました。

    ここから先は皇帝の歩いた中心の石畳を歩きました。

  • 「華表」が一対置かれてありました。一般的に台座と蟠龍柱(とぐろを巻く龍)と承露盤とその上の蹲獣像で構成されます。「華表」は建築シンボルの一種であり、すでに中国を象徴するものの一つで、宮殿や陵墓へ続く参道の入り口両側に置かれ、神道柱や石望柱などとも呼ばれます。 通常きめの粗い白玉を彫り上げたもので、台座は方形でこれを蓮華座あるいは須弥座といいます。上面には龍の図案が彫刻され、蟠龍柱上には蟠龍盤とともに流雲紋が飾られています。上端側面には雲板という「誹謗木」(天子の過ちを人民に書かせる札)を模した板があり、石柱上には円形をした承露盤があり、天球と地上に対応しています。柱上には天に向かって吠えるポーズを取った神獣が蹲踞しており、これを「朝天吼」と呼びます。

    「華表」が一対置かれてありました。一般的に台座と蟠龍柱(とぐろを巻く龍)と承露盤とその上の蹲獣像で構成されます。「華表」は建築シンボルの一種であり、すでに中国を象徴するものの一つで、宮殿や陵墓へ続く参道の入り口両側に置かれ、神道柱や石望柱などとも呼ばれます。 通常きめの粗い白玉を彫り上げたもので、台座は方形でこれを蓮華座あるいは須弥座といいます。上面には龍の図案が彫刻され、蟠龍柱上には蟠龍盤とともに流雲紋が飾られています。上端側面には雲板という「誹謗木」(天子の過ちを人民に書かせる札)を模した板があり、石柱上には円形をした承露盤があり、天球と地上に対応しています。柱上には天に向かって吠えるポーズを取った神獣が蹲踞しており、これを「朝天吼」と呼びます。

  • そしてその奥には「石像生」と呼ばれる神像が並びます。<br />「蹲姿解豸(かいち)」<br />姿は大きいものは牛に似て、小さいものはヒツジに似ているとされ、全身には濃くて黒い体毛が覆うとされます。頭の真ん中には長い一角を持つことから一角獣とも呼ばれ、この角を折った者は死ぬと言われます。

    そしてその奥には「石像生」と呼ばれる神像が並びます。
    「蹲姿解豸(かいち)」
    姿は大きいものは牛に似て、小さいものはヒツジに似ているとされ、全身には濃くて黒い体毛が覆うとされます。頭の真ん中には長い一角を持つことから一角獣とも呼ばれ、この角を折った者は死ぬと言われます。

  • 「臥姿駱駝」は北京の「明の十三陵」の神道に並んでいたものに似ています。

    「臥姿駱駝」は北京の「明の十三陵」の神道に並んでいたものに似ています。

  • 「立姿象」は明時代の物の方が立派でした。

    「立姿象」は明時代の物の方が立派でした。

  • ようやく「神功聖徳碑亭」に到着しました。康煕帝が建てたもので、自筆の文が刻まれた碑を贔屓が担いでいました。

    ようやく「神功聖徳碑亭」に到着しました。康煕帝が建てたもので、自筆の文が刻まれた碑を贔屓が担いでいました。

  • 写真を撮っているうちに妻はどんどん先に行ってしまいました。早く見学を切り上げたいということなのだと思います。基本的に構造は前日の「福陵」と同じですし。

    写真を撮っているうちに妻はどんどん先に行ってしまいました。早く見学を切り上げたいということなのだと思います。基本的に構造は前日の「福陵」と同じですし。

  • 「隆恩門」までたどり着きました。ここから「方城」の中に入ります。

    「隆恩門」までたどり着きました。ここから「方城」の中に入ります。

  • 入り口に飾られた鳳凰と龍のレリーフは清の初代皇帝である太宗ホンタイジとその妻の孝端文皇后の陵墓を意味するのでしょう。

    入り口に飾られた鳳凰と龍のレリーフは清の初代皇帝である太宗ホンタイジとその妻の孝端文皇后の陵墓を意味するのでしょう。

  • 正面には「隆恩殿」と左右にはそれぞれ「配殿」が並びます。

    正面には「隆恩殿」と左右にはそれぞれ「配殿」が並びます。

  • 「昭陵」は陵墓と建築物などが現在でも良好な状態を残し、清朝初期の建築技術や文化の一端を知ることができ、2004年にユネスコの世界遺産の「明・清王朝の皇帝墓群」の一部として追加登録されます。規模は清の関外三陵(他の二陵は福陵と永陵)のうち最大規模になります。

    「昭陵」は陵墓と建築物などが現在でも良好な状態を残し、清朝初期の建築技術や文化の一端を知ることができ、2004年にユネスコの世界遺産の「明・清王朝の皇帝墓群」の一部として追加登録されます。規模は清の関外三陵(他の二陵は福陵と永陵)のうち最大規模になります。

  • ホンタイジの死亡した崇徳8年(1643年)に着工し、完成は順治8年(1651年)で、その後康熙年間と乾隆年間と嘉慶年間にもそれぞれ多少の改築と増築工事が為されている。

    ホンタイジの死亡した崇徳8年(1643年)に着工し、完成は順治8年(1651年)で、その後康熙年間と乾隆年間と嘉慶年間にもそれぞれ多少の改築と増築工事が為されている。

  • 陵墓のみならず城壁や建築群は清朝初期の中国東北地域の気風をよく残していますが明の陵墓をまねた部分もおおく見られます。この部分は康熙期以降の建設であると考えられています。

    陵墓のみならず城壁や建築群は清朝初期の中国東北地域の気風をよく残していますが明の陵墓をまねた部分もおおく見られます。この部分は康熙期以降の建設であると考えられています。

  • 「隆恩殿」でようやく妻に追いつきました。相変わらず雨が降り続いています。

    「隆恩殿」でようやく妻に追いつきました。相変わらず雨が降り続いています。

  • 今まで歩いてきた石畳の延長には見事な「雲龍階石」が敷かれてありますが、ここから先は歩くことはできません。

    今まで歩いてきた石畳の延長には見事な「雲龍階石」が敷かれてありますが、ここから先は歩くことはできません。

  • 「大明楼」で雨宿りしていると「隆恩殿」の基壇の彫刻で竜生九子の一つである「覇下」が妻を食べそうになりました。竜生九子にはそれぞれ得意なことがあり、「覇下」は水を好むので火除けの守り神なのでしょう。牌楼の亀のような贔屓は重いものを好むので石碑を担いでいます。

    「大明楼」で雨宿りしていると「隆恩殿」の基壇の彫刻で竜生九子の一つである「覇下」が妻を食べそうになりました。竜生九子にはそれぞれ得意なことがあり、「覇下」は水を好むので火除けの守り神なのでしょう。牌楼の亀のような贔屓は重いものを好むので石碑を担いでいます。

  • 「大明楼」の先には皇帝夫婦が眠る「月牙城」の壁が見えます。煉瓦の壁は「羅圈墻」と呼ばれその前には「影壁」が建ちます。

    「大明楼」の先には皇帝夫婦が眠る「月牙城」の壁が見えます。煉瓦の壁は「羅圈墻」と呼ばれその前には「影壁」が建ちます。

  • 「宝頂」(墳丘)の上には楡の木が植えられてありました。ここまで延々と歩いてきた終点がここです。直径が36メートル、周囲の長さは110メートルあります。楡の木には特に意味はないそうです。

    「宝頂」(墳丘)の上には楡の木が植えられてありました。ここまで延々と歩いてきた終点がここです。直径が36メートル、周囲の長さは110メートルあります。楡の木には特に意味はないそうです。

  • 方城の上から「隆恩殿」と「隆恩門」を望みます。

    方城の上から「隆恩殿」と「隆恩門」を望みます。

  • 小さな牌坊の先は「宝頂」の地下陵墓に入れるようでした。その手前には祭壇が設けられています。

    小さな牌坊の先は「宝頂」の地下陵墓に入れるようでした。その手前には祭壇が設けられています。

  • 昨日の東陵と同じ造りです。<br />こちらの円墳は樹木に覆われていません。1本育った木は<br />墓の土を盛った時に偶然種が入ったそうで特に意味は無いそうです。

    昨日の東陵と同じ造りです。
    こちらの円墳は樹木に覆われていません。1本育った木は
    墓の土を盛った時に偶然種が入ったそうで特に意味は無いそうです。

  • 瑠璃瓦の間から草木が伸びている姿を見ると「源氏物語」の一説が頭に浮かんできます。「諸行無常の響きあり。 娑羅双樹の花の色、盛者必衰の理をあらは(わ)す。おごれる人も久しからず、唯春の夜の夢のごとし。たけき者も遂にはほろびぬ、偏に風の前の塵に同じ…。」

    瑠璃瓦の間から草木が伸びている姿を見ると「源氏物語」の一説が頭に浮かんできます。「諸行無常の響きあり。 娑羅双樹の花の色、盛者必衰の理をあらは(わ)す。おごれる人も久しからず、唯春の夜の夢のごとし。たけき者も遂にはほろびぬ、偏に風の前の塵に同じ…。」

  • 雨に濡れた瑠璃瓦の美しさが印象に残る陵墓でした。

    雨に濡れた瑠璃瓦の美しさが印象に残る陵墓でした。

  • 見学はこれで終わりですが、同じ道を戻らなければなりません。この間最初にお会いしたご夫婦とガイドさん以外の人に会うことはありませんでした。

    見学はこれで終わりですが、同じ道を戻らなければなりません。この間最初にお会いしたご夫婦とガイドさん以外の人に会うことはありませんでした。

  • 本当は龍壁の前でツーショット写真を撮りたかったのですが、誰もいないので一人寂しく撮りました。

    本当は龍壁の前でツーショット写真を撮りたかったのですが、誰もいないので一人寂しく撮りました。

  • これまで歩いてきた「昭陵」の全体図です。現在地は一番下のところになります。

    これまで歩いてきた「昭陵」の全体図です。現在地は一番下のところになります。

  • ここから公園の出口までは1.5キロの距離があります。「代歩車」なんて良い名前ですね。帰りも日本旅行の方と一緒でした。往復で10元のお代は帰りにまとめて払いました。帰りは最後尾に座って後ろ向きに座りました。

    ここから公園の出口までは1.5キロの距離があります。「代歩車」なんて良い名前ですね。帰りも日本旅行の方と一緒でした。往復で10元のお代は帰りにまとめて払いました。帰りは最後尾に座って後ろ向きに座りました。

  • そうしないと愛新覚羅皇太極(ホンタイジ)の像が見えないからです。愛新覚羅の意味は「金」だそうです。出口で待つこと数分でやってきたタクシーに乗ることが出来ました。タクシーの運転手さんは女性で、とても感じの良い親切な方でした。

    そうしないと愛新覚羅皇太極(ホンタイジ)の像が見えないからです。愛新覚羅の意味は「金」だそうです。出口で待つこと数分でやってきたタクシーに乗ることが出来ました。タクシーの運転手さんは女性で、とても感じの良い親切な方でした。

  • タクシーの車窓から見えた人民政府のある大きな広場は地下鉄工事中でしたが、この日は地下鉄の試乗会の日だったので年末には予定通り開通するようです。脇に建つ「遼寧省博物館」はとても立派な建物でした。その外形は収蔵品の「紅山文化玉猪竜」のユニークな造形にもとづいて建てられたそうです。

    タクシーの車窓から見えた人民政府のある大きな広場は地下鉄工事中でしたが、この日は地下鉄の試乗会の日だったので年末には予定通り開通するようです。脇に建つ「遼寧省博物館」はとても立派な建物でした。その外形は収蔵品の「紅山文化玉猪竜」のユニークな造形にもとづいて建てられたそうです。

  • この博物館には11万2000余点のもの考古学資料、書面、彫刻、陶磁器、刺しゅう、銅器、貨幣、古生物、少数民族の文物、甲骨、碑亥が収蔵されているそうです。齊白石の書画作品を400余点収蔵しているのでも有名です。

    この博物館には11万2000余点のもの考古学資料、書面、彫刻、陶磁器、刺しゅう、銅器、貨幣、古生物、少数民族の文物、甲骨、碑亥が収蔵されているそうです。齊白石の書画作品を400余点収蔵しているのでも有名です。

  • 建物はいくつかの博物館に分かれ、現代作家の陶磁器展が開催されていました。とってもかわいい茶壺(チャフー)です。中国の宜興の茶壺はいくつも持っていますが、これは欲しかったです。

    建物はいくつかの博物館に分かれ、現代作家の陶磁器展が開催されていました。とってもかわいい茶壺(チャフー)です。中国の宜興の茶壺はいくつも持っていますが、これは欲しかったです。

  • 遼朝(りょうちょう)は内モンゴルを中心に中国の北辺を支配した契丹人(キタイ人)や耶律氏(ヤリュート氏)の征服王朝で、916年から1125年まで続きました。北京を含む中原に迫る大規模な版図を持ち、かつ長期間続いた最初の異民族王朝でもあり、いわゆる征服王朝と呼ばれる金や元や清の先駆けとされます。

    遼朝(りょうちょう)は内モンゴルを中心に中国の北辺を支配した契丹人(キタイ人)や耶律氏(ヤリュート氏)の征服王朝で、916年から1125年まで続きました。北京を含む中原に迫る大規模な版図を持ち、かつ長期間続いた最初の異民族王朝でもあり、いわゆる征服王朝と呼ばれる金や元や清の先駆けとされます。

  • 1階と2階は観光客にはあまり重要な陳列品はありませんが、(個人的な趣味もありますが)3階は5室に分かれ「文明曙光館」「商周北土館」「華夏一統館」「契丹王朝館」「満族崛起館」に分かれています。

    1階と2階は観光客にはあまり重要な陳列品はありませんが、(個人的な趣味もありますが)3階は5室に分かれ「文明曙光館」「商周北土館」「華夏一統館」「契丹王朝館」「満族崛起館」に分かれています。

  • 係員さんに聞くと写真撮影はOKで、以前は20元の入場料があったそうですが現在は無料になっていました。

    係員さんに聞くと写真撮影はOKで、以前は20元の入場料があったそうですが現在は無料になっていました。

  • 地球の歩き方などのガイドブックではあまり重要な博物館という位置づけではありませんでしたが、西安の「陜西省歴史博物館」に準じるようなグレードの高さを感じました。

    地球の歩き方などのガイドブックではあまり重要な博物館という位置づけではありませんでしたが、西安の「陜西省歴史博物館」に準じるようなグレードの高さを感じました。

  • 「三彩駱駝俑」<br />遼の時代に西域の商人が中国の東北地方まで来たのかは分かりませんが、たくさんの俑が収蔵されています。

    「三彩駱駝俑」
    遼の時代に西域の商人が中国の東北地方まで来たのかは分かりませんが、たくさんの俑が収蔵されています。

  • 背には敷物を敷いて2つのこぶの両側には野営用テントの部材を掛け、その上に大きな袋を垂れ掛けています。さらに水瓶や食糧品を吊り下げているのも見えます。

    背には敷物を敷いて2つのこぶの両側には野営用テントの部材を掛け、その上に大きな袋を垂れ掛けています。さらに水瓶や食糧品を吊り下げているのも見えます。

  • こういう土偶好きにはたまらない物があります。<br />どういう発想でこんなデザインが生まれるのでしょう。

    こういう土偶好きにはたまらない物があります。
    どういう発想でこんなデザインが生まれるのでしょう。

  • 十二支を象った俑は西安の「陜西省歴史博物館」でもほとんど同じようなものを見ました。

    十二支を象った俑は西安の「陜西省歴史博物館」でもほとんど同じようなものを見ました。

  • この辺りで造られた遼三彩の他に輸入された宋三彩も混在しているそうです。

    この辺りで造られた遼三彩の他に輸入された宋三彩も混在しているそうです。

  • 面白い俑がたくさん並んでいますが、大きく分類すると「鎮墓獣」の類だと思われます。鎮墓獣とは邪悪なものを退け、墓への侵入者を威嚇する事を目的に作られた獣形の陶製明器です。

    面白い俑がたくさん並んでいますが、大きく分類すると「鎮墓獣」の類だと思われます。鎮墓獣とは邪悪なものを退け、墓への侵入者を威嚇する事を目的に作られた獣形の陶製明器です。

  • 最古の例としては戦国時代の楚(そ)の墓より出土する鹿の角をはやした舌出しの木胎漆器が有名です。これは体が人間とも動物とも捉えがたく、獣というよりは神的意義付けがなされることが多いことから、「鎮墓神」と呼ばれることもあります。確実に獣として捉えられる最古の「鎮墓獣」は漢代に出現した歩行型の鎮墓獣と思われます。ここの収蔵品はもっと素朴で土着性を感じます。

    最古の例としては戦国時代の楚(そ)の墓より出土する鹿の角をはやした舌出しの木胎漆器が有名です。これは体が人間とも動物とも捉えがたく、獣というよりは神的意義付けがなされることが多いことから、「鎮墓神」と呼ばれることもあります。確実に獣として捉えられる最古の「鎮墓獣」は漢代に出現した歩行型の鎮墓獣と思われます。ここの収蔵品はもっと素朴で土着性を感じます。

  • 「迦陵頻伽」のような塑像も展示してありました。迦陵頻伽(かりょうびんが)は上半身が人で、下半身が鳥の仏教における想像上の生物で、サンスクリットのカラヴィンカの音訳です。「阿弥陀経」では共命鳥(ぐみょうちょう)とともに極楽浄土に住むとされます。

    「迦陵頻伽」のような塑像も展示してありました。迦陵頻伽(かりょうびんが)は上半身が人で、下半身が鳥の仏教における想像上の生物で、サンスクリットのカラヴィンカの音訳です。「阿弥陀経」では共命鳥(ぐみょうちょう)とともに極楽浄土に住むとされます。

  • ギリシア神話に登場する女面鳥身の伝説の生物であるハルピュイアにも通じるものを感じます。

    ギリシア神話に登場する女面鳥身の伝説の生物であるハルピュイアにも通じるものを感じます。

  • 諸星大二郎の「私家版鳥類図譜」にもハルピュイアは紹介されていますが、いつか迦陵頻伽についても描いてもらいたいものです。

    諸星大二郎の「私家版鳥類図譜」にもハルピュイアは紹介されていますが、いつか迦陵頻伽についても描いてもらいたいものです。

  • 「陶儀魚」唐時代の陶器は人面魚にしか見えません。

    「陶儀魚」唐時代の陶器は人面魚にしか見えません。

  • 白釉の雄牛はリアルな描写に力強さを感じます。

    白釉の雄牛はリアルな描写に力強さを感じます。

  • 更に馬の俑に至ってはまるで生きているかのような迫力を感じます。

    更に馬の俑に至ってはまるで生きているかのような迫力を感じます。

  • 人物の俑もきれいに釉薬がかかって、まるで今出来たばかりのような姿です。

    人物の俑もきれいに釉薬がかかって、まるで今出来たばかりのような姿です。

  • 「彩釉塑貼雲龍紋三足罐」<br />唐三彩ではありません。この辺りの物は遼時代の物です。ですから遼三彩です。

    「彩釉塑貼雲龍紋三足罐」
    唐三彩ではありません。この辺りの物は遼時代の物です。ですから遼三彩です。

  • 「彩絵駱駝」は背中に胡人を乗せています。こぶの上の敷物の上には交易品を詰めたであろう袋が下げられています。

    「彩絵駱駝」は背中に胡人を乗せています。こぶの上の敷物の上には交易品を詰めたであろう袋が下げられています。

  • 駱駝の上でいきいきと踊っているかのような姿です。<br />

    駱駝の上でいきいきと踊っているかのような姿です。

  • 尾をくるりと巻き上げた獅子の三彩は小さいですが存在感がありました。釉薬の色もきれいに上がっています。

    尾をくるりと巻き上げた獅子の三彩は小さいですが存在感がありました。釉薬の色もきれいに上がっています。

  • ギリシャのどこかの博物館で見たことがあるような鴨の形をした角杯です。角杯は注ぎ口と飲み口が一緒ですが、古代のペルシアからギリシャを含むバルカン半島一帯にかけて用いられたリュトンは注ぎ口とは別に飲み口が細い方にあります。

    ギリシャのどこかの博物館で見たことがあるような鴨の形をした角杯です。角杯は注ぎ口と飲み口が一緒ですが、古代のペルシアからギリシャを含むバルカン半島一帯にかけて用いられたリュトンは注ぎ口とは別に飲み口が細い方にあります。

  • 石像の持つ鳥は鸚鵡のような姿ですが、こんな北方にまで伝わったのでしょうか?地域的に考えると鷹匠なのかなと思えます。

    石像の持つ鳥は鸚鵡のような姿ですが、こんな北方にまで伝わったのでしょうか?地域的に考えると鷹匠なのかなと思えます。

  • 銀製のプレートには丸頭の鋲が打たれ、鹿や花が立体に彫られてあります。鹿のモチーフを見ると狩猟の対象だったのだろうかと考えます。

    銀製のプレートには丸頭の鋲が打たれ、鹿や花が立体に彫られてあります。鹿のモチーフを見ると狩猟の対象だったのだろうかと考えます。

  • 近世の立派なプレートにも私家が彫られていました。これは何だろうと思っていると。

    近世の立派なプレートにも私家が彫られていました。これは何だろうと思っていると。

  • 矢を入れた矢筒の装飾だということが分かりました。やはり鹿は狩猟の対象のようです。

    矢を入れた矢筒の装飾だということが分かりました。やはり鹿は狩猟の対象のようです。

  • 綺麗な金製のアクセサリーの加工も見事です。

    綺麗な金製のアクセサリーの加工も見事です。

  • 結婚指輪でしょうか。同じデザインのペアなのが微笑ましいです。

    結婚指輪でしょうか。同じデザインのペアなのが微笑ましいです。

  • 金製の髪飾りでしょうか鳳凰の姿が見て取れます。鳳(ほう)はオスで凰(おう)はメスを指すとも言われますが、形に違いは無さそうです。

    金製の髪飾りでしょうか鳳凰の姿が見て取れます。鳳(ほう)はオスで凰(おう)はメスを指すとも言われますが、形に違いは無さそうです。

  • 見事な三彩の瓶(へい)で花口鳥首のこの形は契丹族独特です。<br />眼と嘴が鋭いこの鳥は契丹人の好む海東青という鷹を思わせます。口辺に六弁の花形の口が付いて、胴部には大輪の花がめぐらされていますが、モンゴル高原に咲く芍薬の花のようです。胎土の上に白釉を掛け削り、緑釉を飛ばすという技法は磁州窯の陶器にも似ています。

    見事な三彩の瓶(へい)で花口鳥首のこの形は契丹族独特です。
    眼と嘴が鋭いこの鳥は契丹人の好む海東青という鷹を思わせます。口辺に六弁の花形の口が付いて、胴部には大輪の花がめぐらされていますが、モンゴル高原に咲く芍薬の花のようです。胎土の上に白釉を掛け削り、緑釉を飛ばすという技法は磁州窯の陶器にも似ています。

  • 「鶏冠壺」は本来は皮袋だったものを陶器で制作したことが想像されます。紐を通す穴は開いていますが、実際に駱駝の背に吊るしたとは思えません。

    「鶏冠壺」は本来は皮袋だったものを陶器で制作したことが想像されます。紐を通す穴は開いていますが、実際に駱駝の背に吊るしたとは思えません。

  • 発掘にあたっては内蒙古の気候が幸いして漆芸品や染織品、そして陶器の保存状態も良かったそうです。

    発掘にあたっては内蒙古の気候が幸いして漆芸品や染織品、そして陶器の保存状態も良かったそうです。

  • 短径では白磁の陶器が特に愛好されたそうです。

    短径では白磁の陶器が特に愛好されたそうです。

  • まるでその当時を写真で残したような臨場感のある壁画です。その当時の衣服や装身具が手に取るように分かります。

    まるでその当時を写真で残したような臨場感のある壁画です。その当時の衣服や装身具が手に取るように分かります。

  • 契丹の陵墓から発掘された仮面です。契丹人は祖先を崇拝し、体が無くならなければ魂は失われないと考え、死者をミイラにして着飾ったそうです。皇族は金の仮面に銀の葬衣を付け、60余りの仮面が出土しているそうです。

    契丹の陵墓から発掘された仮面です。契丹人は祖先を崇拝し、体が無くならなければ魂は失われないと考え、死者をミイラにして着飾ったそうです。皇族は金の仮面に銀の葬衣を付け、60余りの仮面が出土しているそうです。

  • 「銀製仮面」<br />契丹(きったん)は4世紀から14世紀にかけて満州から中央アジアの地域に存在した半農半牧の民族です。10世紀初頭に現在の中華人民共和国に相当する地域の北部に帝国を建国し、国号を「遼」と号します。12世紀に入り次第に勢力を強める「女真」が「宋」と結び南下し、挟撃された遼は1125年に滅ぼされます。

    「銀製仮面」
    契丹(きったん)は4世紀から14世紀にかけて満州から中央アジアの地域に存在した半農半牧の民族です。10世紀初頭に現在の中華人民共和国に相当する地域の北部に帝国を建国し、国号を「遼」と号します。12世紀に入り次第に勢力を強める「女真」が「宋」と結び南下し、挟撃された遼は1125年に滅ぼされます。

  • 「銀製仮面」<br />契丹は銀が潤沢に手に入ったようで、仮面以外にもたくさんの銀製品が出土しています。

    「銀製仮面」
    契丹は銀が潤沢に手に入ったようで、仮面以外にもたくさんの銀製品が出土しています。

  • このタイプの俑が何を意味するのか分かりませんでしたが、亡くなった故人を偲んで泣いているように見えました。

    このタイプの俑が何を意味するのか分かりませんでしたが、亡くなった故人を偲んで泣いているように見えました。

  • 一対に並んでいる姿が印象に残りました。

    一対に並んでいる姿が印象に残りました。

  • 「叉手女侍俑」<br />叉手(さしゅ)とは中国をはじめ東アジアに伝わる所作で、貴人をはじめ神仏などへの敬意の所作であり、立った姿勢で両手を胸のまえで重ねるようにして表します。

    「叉手女侍俑」
    叉手(さしゅ)とは中国をはじめ東アジアに伝わる所作で、貴人をはじめ神仏などへの敬意の所作であり、立った姿勢で両手を胸のまえで重ねるようにして表します。

  • 「叉手男侍俑」<br />かたちは時代や地域や民族宗派によってもわずかに異なり、かるく背を折ったりかるく膝を折るもの、片手を握ったり親指を挿し交わすもの、両肘を開いたり腕組みに似た手の重ねかたのものなど様々です。

    「叉手男侍俑」
    かたちは時代や地域や民族宗派によってもわずかに異なり、かるく背を折ったりかるく膝を折るもの、片手を握ったり親指を挿し交わすもの、両肘を開いたり腕組みに似た手の重ねかたのものなど様々です。

  • この俑が造られたころは平穏な世の中だったのではないのだろうかと想像してしまいます。

    この俑が造られたころは平穏な世の中だったのではないのだろうかと想像してしまいます。

  • 「遼石彫力士托棺」はキャプションそのままで、力士が棺を担いでいます。

    「遼石彫力士托棺」はキャプションそのままで、力士が棺を担いでいます。

  • 泉谷しげるにあまりにも似ているので写真に残しました。

    泉谷しげるにあまりにも似ているので写真に残しました。

  • 遥かローマから伝わったガラスでしょうか?「銀釦緑玻璃方盤」は出土品でありながらガラスの緑色や透明感がきれいに残されています。土に埋まったガラスは化学変化して色が濁ったり銀化しますが、造られた当時の輝きがありました。奈良の正倉院には瑠璃杯(るりのつき)や白瑠璃碗「はくるりのわん」は同じようなものは各地で出土されますが、日本に伝わったものは一度も土に埋まっていないので出来たままの姿を留めています。

    遥かローマから伝わったガラスでしょうか?「銀釦緑玻璃方盤」は出土品でありながらガラスの緑色や透明感がきれいに残されています。土に埋まったガラスは化学変化して色が濁ったり銀化しますが、造られた当時の輝きがありました。奈良の正倉院には瑠璃杯(るりのつき)や白瑠璃碗「はくるりのわん」は同じようなものは各地で出土されますが、日本に伝わったものは一度も土に埋まっていないので出来たままの姿を留めています。

  • これには笑ってしまいました。1000年以上前の骰子博打の道具を見るとは思いませんでした。日本でいうチンチロリンですね。大連から旅順の往復の列車の中でトランプ賭博をやっていたおじさんたちのDNAのルーツを感じました。

    これには笑ってしまいました。1000年以上前の骰子博打の道具を見るとは思いませんでした。日本でいうチンチロリンですね。大連から旅順の往復の列車の中でトランプ賭博をやっていたおじさんたちのDNAのルーツを感じました。

  • 当時の墓の中の壁を覆っていたパネルも印象に残りました。その当時の宮中や市井の人々の生活が切り取られているように感じました。

    当時の墓の中の壁を覆っていたパネルも印象に残りました。その当時の宮中や市井の人々の生活が切り取られているように感じました。

  • 食事をしながら酒を酌み交わしているのでしょうか。

    食事をしながら酒を酌み交わしているのでしょうか。

  • 宮中の女侍は髪を束ねて天目台に茶碗を乗せて運んでいるようです。

    宮中の女侍は髪を束ねて天目台に茶碗を乗せて運んでいるようです。

  • 満州文字の部分は読めませんが題字の「梵本般若波羅蜜多心経」から意味が分かります。

    満州文字の部分は読めませんが題字の「梵本般若波羅蜜多心経」から意味が分かります。

  • 梵字で表された般若心経です。とても落ち着いた館内の上に、雨で人が少ないのでゆったり見学が出来ます。

    梵字で表された般若心経です。とても落ち着いた館内の上に、雨で人が少ないのでゆったり見学が出来ます。

  • 「畳勝琥珀箱」<br />これがどのような使い方をされたのかは特に説明がありませんでした。

    「畳勝琥珀箱」
    これがどのような使い方をされたのかは特に説明がありませんでした。

  • 見事な金細工の「舎利塔」です。ここからは満族の時代の品々が並んでいます。

    見事な金細工の「舎利塔」です。ここからは満族の時代の品々が並んでいます。

  • 「渡金銅大日如来像」<br />遼時代のブロンズ製の像です。 大日如来の「智」の面を表したのが金剛界の大日如来であり、「理」の面を表したのが胎蔵界の大日如来であるとされ、この金剛界の智法身と、胎蔵界の理法身は一体不可分であるとされます。 この像の大日如来は金剛界の智拳印を結んでいます。

    「渡金銅大日如来像」
    遼時代のブロンズ製の像です。 大日如来の「智」の面を表したのが金剛界の大日如来であり、「理」の面を表したのが胎蔵界の大日如来であるとされ、この金剛界の智法身と、胎蔵界の理法身は一体不可分であるとされます。 この像の大日如来は金剛界の智拳印を結んでいます。

  • このように黄河文明や長江文明とは異なる文明でありながら、後の古代中国文明に大きな影響を与えたと考えられることから、現代でも大きく注目され盛んに研究されている。

    このように黄河文明や長江文明とは異なる文明でありながら、後の古代中国文明に大きな影響を与えたと考えられることから、現代でも大きく注目され盛んに研究されている。

  • 「石彫菩薩像」<br />遼時代の菩薩像は翼の生えた天使のような姿に見えます。胸元の瓔珞紋がきれいです。

    「石彫菩薩像」
    遼時代の菩薩像は翼の生えた天使のような姿に見えます。胸元の瓔珞紋がきれいです。

  • 「世宗雍正満漢文?宝」 <br />諡(し、おくりな)、あるいは諡号(しごう)は、主に帝王・相国などの貴人の死後に奉る生前の事績への評価に基づく名のことである。「諡」の訓読み「おくりな」は「贈り名」を意味します。

    「世宗雍正満漢文?宝」
    諡(し、おくりな)、あるいは諡号(しごう)は、主に帝王・相国などの貴人の死後に奉る生前の事績への評価に基づく名のことである。「諡」の訓読み「おくりな」は「贈り名」を意味します。

  • 「満蒙漢文流頭寛温仁?君皇帝信牌」<br />文字通り満州語と蒙古語と漢字で表された皇帝の親書を送る際の通信牌です。水戸黄門の印籠のようなものなのでしょうか。

    「満蒙漢文流頭寛温仁?君皇帝信牌」
    文字通り満州語と蒙古語と漢字で表された皇帝の親書を送る際の通信牌です。水戸黄門の印籠のようなものなのでしょうか。

  • 「哲里木盟長印」<br />蒙古文字が彫られた清時代の印鑑です。

    「哲里木盟長印」
    蒙古文字が彫られた清時代の印鑑です。

  • 「銅渡金宗喀巴佛」<br />清時代のブロンズ製のチベット仏教の仏像です。

    「銅渡金宗喀巴佛」
    清時代のブロンズ製のチベット仏教の仏像です。

  • 次の部屋は大好きな商と周の時代の陳列室です。レプリカですが良く出来た饕餮模様の入口がお出迎えです。諸星大二郎好きにはたまらない造形で、「孔子暗黒伝」に出てくる皇帝の台みたいです。

    次の部屋は大好きな商と周の時代の陳列室です。レプリカですが良く出来た饕餮模様の入口がお出迎えです。諸星大二郎好きにはたまらない造形で、「孔子暗黒伝」に出てくる皇帝の台みたいです。

  • 時代や発掘地ごとに陳列が分けられているので非常に分かりやすいです。

    時代や発掘地ごとに陳列が分けられているので非常に分かりやすいです。

  • 「琵琶形銅剣」は、青銅器の一種で遼寧式銅剣とも呼ばれます。 <br />満州から朝鮮半島の遼寧地方にかけて出土している銅剣で、最も古いものは遼河文明の遺跡から発見されています。遼西地域の小黒石溝の石郭墓で西周後期の青銅器と共伴したものは、紀元前9世紀頃に比定されます。

    「琵琶形銅剣」は、青銅器の一種で遼寧式銅剣とも呼ばれます。
    満州から朝鮮半島の遼寧地方にかけて出土している銅剣で、最も古いものは遼河文明の遺跡から発見されています。遼西地域の小黒石溝の石郭墓で西周後期の青銅器と共伴したものは、紀元前9世紀頃に比定されます。

  • 饕餮文の饕餮とは「饕餮、獣名、身如牛、人面、目在腋下、食人」体は牛の如く、人の顔を持ち、目は腋の下にあり、人を食べる…。とあり、食べ物や飲み物を入れる祭器に施されることが多い模様です。

    饕餮文の饕餮とは「饕餮、獣名、身如牛、人面、目在腋下、食人」体は牛の如く、人の顔を持ち、目は腋の下にあり、人を食べる…。とあり、食べ物や飲み物を入れる祭器に施されることが多い模様です。

  • 饕餮も竜生九子の一つで、「昭陵」で見た碑文を担ぐ贔屓た水を流す樋の覇下も兄弟になります。

    饕餮も竜生九子の一つで、「昭陵」で見た碑文を担ぐ贔屓た水を流す樋の覇下も兄弟になります。

  • 諸星大二郎は「孔子暗黒殿」の中で饕餮(とうてつ)を蚩尤(しゆう)という中国神話に登場する神としています。「路史」では姓は姜で炎帝神農氏の子孫であるとされ、獣身で銅の頭に鉄の額を持つといわれます。また四目六臂で人の身体に牛の頭と鳥の蹄を持つとか、頭に角があるなどとされます。

    諸星大二郎は「孔子暗黒殿」の中で饕餮(とうてつ)を蚩尤(しゆう)という中国神話に登場する神としています。「路史」では姓は姜で炎帝神農氏の子孫であるとされ、獣身で銅の頭に鉄の額を持つといわれます。また四目六臂で人の身体に牛の頭と鳥の蹄を持つとか、頭に角があるなどとされます。

  • 古代中国の帝であった黄帝から王座を奪うという野望を持って、神農氏の世の末期に乱を起こして、兄弟の他に無数の魑魅魍魎を味方にし、風や雨や煙や霧などを巻き起こして黄帝と?敗鹿の野にで戦います(?敗鹿の戦い)。黄帝は指南車を使って方位を示して霧を突破し、妖怪たちのおそれる龍の鳴き声に似た音を角笛などを使って響かせてひるませ、軍を押し進めて遂にこれを捕え殺したといわれています。

    古代中国の帝であった黄帝から王座を奪うという野望を持って、神農氏の世の末期に乱を起こして、兄弟の他に無数の魑魅魍魎を味方にし、風や雨や煙や霧などを巻き起こして黄帝と?敗鹿の野にで戦います(?敗鹿の戦い)。黄帝は指南車を使って方位を示して霧を突破し、妖怪たちのおそれる龍の鳴き声に似た音を角笛などを使って響かせてひるませ、軍を押し進めて遂にこれを捕え殺したといわれています。

  • 奈良国立博物館の「青銅器館」には古美術商店「不言堂」の初代社長で古美術品の蒐集家として著名な、坂本五郎氏より寄贈された中国古代の青銅器380余点のコレクション「坂本コレクション」が素晴らしく、中国でもこれ以上の収蔵品を見たことがありません。

    奈良国立博物館の「青銅器館」には古美術商店「不言堂」の初代社長で古美術品の蒐集家として著名な、坂本五郎氏より寄贈された中国古代の青銅器380余点のコレクション「坂本コレクション」が素晴らしく、中国でもこれ以上の収蔵品を見たことがありません。

  • 「彩絵唇口雙腹罐」商(紀元前16世紀から11世紀)

    「彩絵唇口雙腹罐」商(紀元前16世紀から11世紀)

  • 「饕餮紋彩絵陶鬲 」商(紀元前16世紀から11世紀)<br />鬲(れき)とは古代中国において用いられた中空構造の三足を持った沸騰機で、3本の足の中の空間に水を入れ、その上に甑(こしき/そう)を載せて火にかけ、水を沸騰させることで粟や稲などを蒸しました。

    「饕餮紋彩絵陶鬲 」商(紀元前16世紀から11世紀)
    鬲(れき)とは古代中国において用いられた中空構造の三足を持った沸騰機で、3本の足の中の空間に水を入れ、その上に甑(こしき/そう)を載せて火にかけ、水を沸騰させることで粟や稲などを蒸しました。

  • 博物館の陳列室としての質も高かったですし、お客がほとんどいないのも良かったです。

    博物館の陳列室としての質も高かったですし、お客がほとんどいないのも良かったです。

  • 思っていた以上に素晴らしい博物館でした。大満足でしたがお昼をだいぶ廻ってしまったので近くの回民街で食事をすることにします。

    思っていた以上に素晴らしい博物館でした。大満足でしたがお昼をだいぶ廻ってしまったので近くの回民街で食事をすることにします。

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