2008/09/16 - 2008/09/16
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ドクターキムルさん
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鎌倉鶴岡八幡宮例大祭は毎年9月14日から16日に3日間行われる。15日に神幸祭があり、社殿の向かって左側宝物館入り口手前に収納されている3基の神輿(みこし)が若宮大路の鎌倉駅近くのお旅所まで繰り出す。当日は土日祝日でもない限り神輿見物の観光客で溢れるようなことはない。翌16日には流鏑馬が行われる。鎌倉例大祭の呼び物は最終日に行われるこの流鏑馬神事で、平日でも境内は人で溢れかえる。
流鏑馬(やぶさめ)とは、疾走する馬上から的に鏑矢(かぶらや)を射る、日本の伝統的な騎射の技術・稽古・儀式のことを言いい、馬を馳せながら矢を射ることから、「矢馳せ馬(やばせうま)」と呼ばれ、時代が下るにつれて「やぶさめ」と呼ばれるようになった。流鏑馬神事自体は選りすぐられた3人の小笠原流の射手により10分程で終了するが、その後は流派生による流鏑馬のお披露目といった感じで続くが、杉板の的に矢が的中して板が割れる音と同時に観客から自然に発せられる「おーう」という感歎の声がなかなか聞かれなくなり、ため息が漏れることの方が多くなる。
第59代宇多天皇(在位:仁和3年11月17日(887年12月5日) - 寛平9年7月3日(897年8月4日))の勅命により源能有(みなもとよしあり)公が弓馬の礼を制定され、以来源家(げんけ)を経て、武田・小笠原に分かれ相伝された。宇多天皇は一度臣籍降下し、源氏の姓を賜って源定省を称したが、孫のほとんどは臣籍降下し、源氏を名乗っている。
鎌倉鶴岡八幡宮でも源頼朝が建久2年(1191年)に石清水八幡宮を再勧請し上下両宮の社殿を創建して以来800年以上続く流鏑馬神事である。なお、春にも武田流鎌倉派による流鏑馬が行われ、秋よりは的中率が高いと取材に来ていた新聞記者から聞いた。今年(2010年)の春に流鏑馬を見たらその通りであった。
当時の武士の背丈は160cm程度であり、現代人よりもかなり小さかったが、馬はそれ以上に小さかった。馬上も今のサラブレッドの3分の2程度の低さであり、馬の走る速度も当然サラブレッドよりは数段遅く、歩幅ももっと狭い。したがって、サラブレッドに跨って行う流鏑馬では的を射抜くことが戦前以前よりは数段難しくなっており、事実、的を外す場合は、鏑矢を背中の靫(ゆき)から取り出して弓の弦に番(つが)えるまでにもう次の的まで来ており、時には後向きに矢を放ったりしても、最後の3番的ではもう間に合わなくなっているのである。時代が変わって苦労している例で知られざるのがこの流鏑馬神事であろうか。
余談になるが、このように流鏑馬神事などが現在まで継承され、弓道も残っているが、弓矢の神社への奉納は鎌倉鶴岡八幡宮に頼朝の時代に奉納されたのが最後のようだ。中世以降は鎧兜、甲冑や刀剣、長刀のみの奉納となり、弓矢の奉納は途絶える。現在でも正月初詣に破魔矢(はまや)を買い求めて家の神棚にお供えして一年の無行息災を願っているし、地鎮祭では弓と柱の矢を祭るし、相撲では弓取り式があり、千秋楽では勝者に矢が与えられる。あるいは、宮中では警護の兵が交代する際に弓の弦を鳴らして合図する。このように、今だ民衆に根付いた信仰が残る弓矢ではあるが、神に奉納されなくなった理由は今だ分からない。
(表紙写真は馬上で的を狙う射手)
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