2014/07/21 - 2023/10/22
106位(同エリア250件中)
砂布巾さん
1941年6月14日「リリー・マルレーンを聴いたことがありますか」(音楽、ドイツ)
‘Lili Marleen’は‘Muss i denn’(恋人に別れを告げる歌)、
*https://www.youtube.com/watch?v=loj7IynAQA0
*リリー・マルレーンのサイト(英・独語ほか) http://ingeb.org/Lieder/lilimarl.html
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心からの感謝を込めて 砂布巾
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‘So ein Tag so wunderschön wie heute’(今日ほど素敵な日はない)、
*https://www.youtube.com/watch?v=88PW9EuJu8o) -
‘Mein Vater war ein Wandersmann’(邦訳「愉快に歩けば」)などとともに最も愛する曲でもある。
*体の動きが全く統一されていないダサさが良い
https://www.youtube.com/watch?v=rZUdIbX52So -
出会いは中学生の頃、ドイツに住んでいた従姉から届いたレコードだ。ハイデルベルクの風景がジャケットに使われているそれには、「ビヤ樽ポルカ」など日本でも良く知られている曲も入っており、当然この曲も入っていた。
*最初に入っている Ich habe mein Herz in Heidelberg verloren. (ハイデルベルクに心奪われた)景色とともにどうぞ
https://www.youtube.com/watch?v=GqT1SAq32Mo -
ドイツが好きになる1つのきっかけでもあった。1992年の結婚式では、お色直しの入場曲に使い、列席していただいた方々には、この曲の小さなオルゴールをプレゼントした。
先日、広島市立中央図書館で恐るべき本を見付けた。前述の新旧「南京大虐殺のまぼろし」の著者でもある作家、鈴木明氏(2003年7月22日死去)が書かれた標記本(文藝春秋)だ。後述するマレーネ・ディートリッヒのコンサートでこの曲と出会った大阪万博から4年後の1974年4月から、ベルリン、ロンドン、ランゲオーグ島(後述)、ベオグラードなどゆかりの地を40日間取材され、明らかになったことや印象をまとめている。 -
本から一部を引用して、この曲が各国で愛されている逸話を紹介したい。
「放送局の友人はふしぎな話をきかせてくれた。彼が仕事を兼ねてフィジー島に行った時のことだが、島めぐりの小さな遊覧船の中で、たしかにその歌を聴いたというのである。その船は定員二十名ぐらいの小さな船で、彼以外は全部『外人』だったそうだが、皆がそろそろ退屈しかかっている頃、一人のカナダ人が何気なしに口笛を吹いたのが、このメロディだったのである。
この時奇妙なことが起きた。傍にいたオーストラリア人が、この口笛に合わせて英語でこの歌を歌いはじめたのである。すると、徐々に集まってきた各国の観光客たちはある者はドイツ語で、またある者は明らかにスペイン語で、この同じ歌を歌いはじめた。どういうわけか、これほど『有名らしい』と思われる曲の名を、音楽好きの彼は、知らなかった。 それは、美しいともふしぎとも思える、異様な光景であった」。 -
曲は1939年2月、当時25歳だった北ドイツ生まれの歌手ララ・アンデルセンによって録音された。マネージャーの懸命の努力によって録音されたが、60枚か600枚しか売れなかったという「伝説」があるそうだ。当然曲は忘れられていた。余ったレコードの内、2枚が前線慰問用200枚のレコードの中に忍び込まされ、1941年6月14日21時57分、ベオグラードからのドイツ語放送がこの曲を流した。曲はたちまちロンメル将軍率いるアフリカ戦線(当時トブルク包囲戦の最中)のドイツ兵の心を捉えた。
こうしてララの下に突然ファンレターが殺到する。最初は前線慰問なども行い、軍がベルリンに新しいアパートも用意してくれた。宣伝相ゲッペルスの「天才的な直感力」がこの曲の持つ不吉な前途を予感し、政府から歌うことを禁じられ、後にララは逮捕される。この時絶望して自殺も図っている。皮肉なことに彼女を救ったのは、イギリスBBC放送の「ララ・アンデルセンが逮捕された」というニュースだった。
*写真はランゲオーグ島にある彼女が晩年を過ごした家で経営されている、レストランに飾ってあったもの
https://www.youtube.com/watch?v=8btnYYDbkqQ -
曲の不思議な魅力は連合国側の兵士の心をも捉え、急速に広まっていった。マレーネ・ディートリッヒはドイツ出身でアメリカ映画「嘆きの天使」、「モロッコ」にも出演している大スターだったが、反ナチス主義者でヒトラーの帰国要請を突っぱね、大戦開始3ヶ月前にアメリカに帰化した。
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1943年に突如「戦場に行く」と宣言し、以後連合国側の前線を慰問する。当然「リリー・マルレーン」は重要なレパートリーとなった。
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大戦中のこの行動について書いている。「『英雄的』とか、或いは逆に『亡命者特有の逆憎悪の心理』とか推察することは、いとも容易である。然し、四十を越えた、いわば女優として最も危険な曲がり角に立っていたと推察できる立場の女性が、なりふりかまわず前線にとび込んでいった裏には、単なる愛国や憎悪をこえた何物かがなくてはなるまい」。
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著書「ディートリッヒのABC」(フィルムアート社)の「国籍」欄から一部を紹介する。「たとえ自分の国がとりいれている信条や行動を軽蔑していても、国籍を変えるのはそんなになまやさしくできることではない」。彼女はなぜドイツ国籍を捨てたのだろう?
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1953年になって、歌手としての活動を再開し、7年後には「祖国」ドイツで演奏旅行を行った。多くの伝記では、この時の様子を故意に控えめにしか表現していない。(「マレーネ、ゴーホーム」のプラカードも見えた)
*https://www.youtube.com/watch?v=H0iuLv7zKLc -
1992年にパリで亡くなり、故郷ベルリンのシェーネベルク墓地に埋葬された。
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イチオシ
ベルリン中心部ポツダム広場近くにはマレーネ・ディートリッヒ広場も出来たが、このような経緯もあって、ドイツ人の中には複雑な感情を持つ人も少なくない。個人的には連合国側の前線慰問より、国民向けの宣伝放送で打倒ヒトラーを訴えた方が効果的だったと思う。
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鈴木氏がベルリンで最後に訪れたのが「ララ・アンデルセンが初恋の人」と語った作曲者のノルベルト・シュルツェ氏(2002年10月14日死去)。「歌は上手いと思わなかったが、素晴らしく魅力的だった。彼女に私の“リリー・マルレーン”を歌いたいと言われたとき、私はこれで、『この歌の運命も終りだ』と観念した」。シュルツェ氏の演奏がどの演奏よりも明るい、マーチ風のものだった。
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最後の目的地は、ベオグラード放送局。「本当ですか?信じられない」で終わった。本人の執念との対照の妙が滑稽でもあり面白かった。1つの曲にもドラマがある、という当たり前の事実を再認識すると同時に、行動力と執念に心からの敬意を表したい。
日本語訳も出ているララ・アンデルセンの自伝をもとに、1981年には「リリー・マルレーン」として西ドイツで映画化された。 -
ディートリッヒのCDは日本でも買えたが、
*次のオリジナル、ララ・アンデルセンによるものは素朴で、悪い言葉で言えば何か北ドイツの田舎臭さが何となく漂っている(砂布巾にはそれが良いのだけど)が、ディートリッヒは大スターだけあって、貫録十分 4曲目のIch Hab'noch Einen Koffer In Berlin.は「ベルリン、ベルリン♪」と故郷を懐かしんでいるかのような哀愁漂う歌い方、また9曲目のWenn Die Soldaten.は如何にも戦時中の軍歌っぽいが、カッコいい?と思わず唸ってしまう -
2000年夏にミュンヘンに1日だけ行ったのは、ホーフブロイ・ハウスでビールを飲むのは勿論、ララ・アンデルセンのCDを買うのが目的。町の中心にあるworld of musicに行って店員に聞いたら、すぐに探してきてくれた。アムステルダムからの飛行機は、ララ・アンデルセンが晩年を過ごしたランゲオーグ島上空と思われるあたりを通過した。「必ず会いに行くからね」と呼び掛けた。
*前半10曲が古いモノラル録音、後半10曲がステレオ録音 11曲目の‘Ein Schiff wird kommen.’(A ship will come)は昔「キリン一番搾り」のCMに使われたが、オリジナルはギリシャ映画「日曜はだめよ」。
https://www.youtube.com/watch?v=4OJzTdkCm7k -
2001年夏にはその島、ディートリッヒゆかりのベルリンを相次いで訪れた。
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アンデルセンの墓地(1972年8月29日にウィーンで亡くなった)の隣に晩年を過ごした家があり、現在そこはレストランになっていた。ただ経営は他人が行っているそうだ。
*こちらは亡くなる数年前の演奏。聴衆が彼女の歌よりカメラの方を気にしているのが地味な彼女らしい。https://www.youtube.com/watch?v=O9MtiI15zx4 -
島のYHは町中から4.5km。途中勘違いし、振り出しに戻ってしまった。アンデルセン・ハウスの従業員に聞いて再度チャレンジしたが、雨が降り、21時前で暗くなっていく中、街灯が無く左右全てが草原という道を歩くのは不安で、凍死すら頭をよぎった。それらしい形跡が見えない中、引き返そうか迷っていたら、住所らしき通りを見掛けた。しかしそこも家などなさそうな雰囲気で、悩んでいたら1台の自転車が通り掛かり、彼女が連れて行ってくれた。「地獄に仏」だった。案内の看板も全くなく、不親切だと思った。
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イチオシ
ペアレント、特に「ヤマモトカツノリ」(青森県の剣道関係者らしい)が口癖だったVaterは面白い人だったし、朝も昼もろくに食べていなかったので、「腹ペコだ」と言ったら、食事の用意もしてくれた。料金的にはYHとしてはこの時の旅で一番高い\2,400 だった(食事の追加料金は取られず)が、これまでで一番印象的なYHだ。
(本との出会い2000年1月6日 CD購入 2000年1月7日,8月2日 2001年8月5,7日、2003年8月12日訪問)
*肩にかけているタオルが何ともダサい -
*途中立ち寄ったニュルンベルク
*前に紹介したレコードに入っている Schwalzwaldfahrt
ラジオで朝方放送していた「農協アワー」の印象が強い
https://www.youtube.com/watch?v=l3tyEv0GG4A&fbclid=IwAR0X3Mw4KBSeQnCCcGlJmd3pu3lQ8pbh3C1tOGvALY40noImdwcJBHoQJDo -
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*ニュルンベルク裁判が行われた場所
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*ヒロシマ プラッツ(広場)
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*ホテルは改装工事中 だから安かった
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*こちらはブレーメンの音楽隊像
ブレーメンの音楽隊像 モニュメント・記念碑
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*ローラント像
ブレーメンのマルクト広場の市庁舎とローラント像 モニュメント・記念碑
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