2014/07/19 - 2024/04/09
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砂布巾さん
1941年4月10日 民族憎悪の原型(旧ユーゴスラビア)
「7つの国と接し、6つの共和国からなり、5つの民族が住み、4つの言葉を話し、3つの宗教を信じ、2つの文字を持つけど、国は1つ」という数え言葉があった旧ユーゴスラビア連邦共和国。この多様な国は、大戦中の英雄で、戦後はカリスマ的指導者として国を率いたチトーが1980年に亡くなるまで一体性を保っていた。南北の経済格差や後述する歴史的背景などから次第に民族主義が台頭。各共和国は独立志向を強め、内戦を経て、現在は元セルビア共和国コソボ自治州(2章に登場するPavleの祖国 但しロシアは未承認)を含めた7つの国に分裂した。
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心からの感謝を込めて 砂布巾
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内戦は1991年6月に北部の豊かなクロアチア共和国などが連邦から独立宣言したのを機に始まった。より民族構成が複雑なボスニア・ヘルツェゴビナ共和国が1992年3月に独立宣言すると、全人口の4割を占めたムスリム人(イスラム教徒)、3割を占めたセルビア人、2割を占めたクロアチア人が3年に及ぶ内戦で「民族浄化」(支配地域から他民族を追い出す、もしくは殺害して浄化する)を展開。ようやく1995年にクリントン大統領らを中心とした国際社会の仲介でデイトン合意(次項目で触れる)が結ばれた。
*旧ユーゴが如何に民族構成が複雑(特にボスニア・ヘルツェゴビナ)なモザイク国家だったかがわかります。クロアチア独立国の領域が太線で入っているのが分かりますか? ボイボディナの中央を通り、コソヴォに向かって突き出している部分もあります。(サンジャク地方と呼ばれると思われる) -
イチオシ
どうして人間はあそこまで残虐になれるのか、理解出来なかった。しかし山崎佳代子著「解体ユーゴスラビア」(朝日選書)を読んで、ヒトラーの負の遺産であることがわかった。以下本から引用する。
1941年、第二次大戦が勃発(注:バルカン半島への拡大の意味)すると、ユーゴスラビア王国は、ドイツ、イタリア、ハンガリー、ブルガリアなどのファシスト枢軸国軍によって分割占領され、国王は亡命した。セルビアはドイツ、モンテネグロはイタリアの支配下におかれた。スロベニアはドイツ、イタリアによって南北に分割された。(中略) -
ドイツはイタリアに亡命していたウスタシャの指導者パベリッチをクロアチアに呼び戻し、傀儡政権「クロアチア独立国」をつくった。ボスニア・ヘルツェゴビナもこれに編入され 、モスレムの有力者の多くがこの政権に従った。クロアチアの政権を握ったパベリッチ総統は、正規の親衛隊となったウスタシャを投入し、領内のユダヤ人、ジプシー、セルビア人を「劣等国民」として大量に殺戮した。とりわけセルビア人正教徒にたいしては、「三分の一を改宗、三分の一を追放、三分の一を殺戮」の政策がとられ、ヤセノバッツ強制収容所、シーサック児童強制収容所など、ナチスの悪名高いアウシュビッツより野蛮な死の工場がつくられている。ヤセノバッツでの犠牲者は五十万人とも七十万人ともいわれる。なかにはファシズムに反対して「赤」のレッテルを貼られたクロアチア人やスロベニア人も居た。ウスタシャによる殺戮は、喉をかき切る、目をえぐるなど残虐を極めたという記録がある。
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*ここからの5枚はクロアチアの首都ザグレブで撮影した写真 駅前広場
ユーゴスラビア国内には、ファシスト占領軍にたいする二つの抵抗運動が起こった。それまで非合法とされていた共産党の指導者チトー率いる「人民解放戦線」と、王国軍の将校ミハイロビッチの率いるセルビア王党派「チェトニック」である。しかし、偏狭なセルビア民族主義を標榜するチェトニックは、主にボスニア・ヘルツェゴビナでウスタシャの蛮行にたいする報復としてクロアチア人やモスレム人を虐殺したばかりでなく、積極抗戦を主張した共産主義者をも殺戮したため、抵抗運動としては広い国民的支持を得られなかった。一方、「友愛と団結」の旗を掲げ民族の平等を唱えたチトーの人民解放戦線は、ユーゴスラビア全土に勢力を伸ばし、国民を勝利に導くことになる。
この苛酷な解放戦争の結果、当時の人口千七百万人のうち一割にあたる百七十万人が死んだ。 -
当時のクロアチア人神父の証言を「映像の世紀⑩」から紹介する。
「この国にはクロアチア人しか住むことはできない。私は老人から子ども、そしてセルビア人が育てた家畜に至るまで、きれいに片づけるつもりだ。私が神父の格好をしているからと言って、機関銃を乱射しないと思ったら大間違い。私はクロアチアに反するものは何でも殺してやる。それが例え7歳の少年であっても、汚れたセルビアの血が流れている者は浄化しなければならない」。 -
*共和国広場
キリル文字とローマ字の違いはあるが、言葉も標準語と関西弁程度の違いしかなく、セルビア人とクロアチア人の違いは同じキリスト教の正教とカトリックの違いくらいでしかないのに、聖職者ですらこのように言うのだから背筋がゾッとする。
クロアチアでは旧ユーゴスラビア連邦からの独立やボスニア内戦などを通じて民族主義が台頭しており、パベリッチが「愛国者」として復活しているという。
旧ユーゴ内戦では、セルビア共和国主体の新ユーゴスラビア連邦に経済制裁や空爆(ベオグラードの中国大使館が誤爆されるという出来事もあった)が行われるなど、セルビア人悪玉論が幅を利かせていたが、山崎氏の本を読むと、クロアチア人も同じくらい責任を負っている。その意味で国際社会の対応は公平だったとは言えない。 -
中1の時、文化祭で映画「抵抗の詩」を観た。占領下ユーゴでの実話。ラストで子どもたちがドイツ兵の靴磨きを拒否し、処刑される大人たちの輪に入れられるシーンは記憶に残っている。こんな映画を探してくる先生も凄い。
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*今でも少年のヴァイオリンの音色が頭をかすめる
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*アドリア海に沈もうとする夕日
乗船中に目覚まし時計を盗られた -
1998年夏には旧ユーゴスラビア連邦のクロアチア、次項目で述べるように事実上民族別に3分割されたボスニア・ヘルツェゴビナ(以下ボスニア)を訪れた。リエカ(旧フィウメ)からアドリア海を南下する船で向かった世界遺産都市ドブロブニクの美しさにも感動したが、
ドブロブニク旧市街 旧市街・古い町並み
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*ここからは城壁に囲まれた旧市内の様子をどうぞ メインストリート
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*ドブロブニク旧市街にも内戦の傷跡が
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*トルコ風音楽(多分)を奏でていたおじさん
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*最初インドで出会ったという大先生カップル 風貌はまるでサドゥー 帰路冬が来る前にパキスタンから中国へ抜けると言っていた スケール違いすぎ
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*スルディ山 内戦で破壊されたが、現在は山に登るロープウェーも復旧した
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*ドブロブニクで一緒だったヨネスケさん(右)、韓国人タースン(中央)
「ドブロブニク発モスタル経由サラエボ行き」 http://4travel.jp/travelogue/10189859 -
衝撃を受けたのがサラエボまでの道のり。家がほとんど破壊されている。小さな村なのに、多くの新しい墓がある場所もあった。車窓から景色を眺めて、これ程辛かった経験はない。途中下車したモスタルでは町並みはもちろん、1993年11月9日にムスリムに敵対するクロアチア勢力が破壊した石橋スタリモストの光景(2005年修復工事が完了し、世界遺産になった)にも衝撃を受けた。食事したのはクロアチア人居住地区だったらしく、クロアチアクーナで支払い出来た。不謹慎ながら活気に満ちていたのが少々意外だったが、次項目で触れるサラエボの町並みにも衝撃を受けた。
*以下は当時のモスタルの街並み -
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*川から拾い上げた石を元の位置にはめ込み、できるだけ忠実に再構築された
モスタル旧市街の古橋地区 旧市街・古い町並み
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*破壊される前のスタリ橋(絵葉書より)
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*橋のたもとの土産物街
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*イスラム教徒地区にあったモスク 川向うがクロアチア人地区
*ボスニア・ヘルツェゴビナの詳しい訪問記
http://4travel.jp/travelogue/10189859
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旅行記グループ 砂布巾のLW「進化し続ける自叙伝的旅行記…」 第5章 電撃戦(ナチス・ドイツの欧州主要部制圧)
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