2014/07/15 - 2023/08/01
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砂布巾さん
1940年7月10日 「カサブランカ」の時代(映画、フランス)
大戦中のフランス領モロッコを舞台とする1943年のアメリカ映画「カサブランカ」のラストシーンに、警察署長ルノーが‘Vichy Water’の瓶をゴミ箱に投げ捨てる場面がある。フランス人ルノーが拒否した「ヴィシー」とは何だったのだろうか?
https://www.youtube.com/watch?v=CstnPRtWfTQ
休戦条約締結後のフランスは、ドイツに併合されたアルザス・ロレーヌを除く北部は、前項目で述べたようにドイツの直接占領下に置かれた。
そしてこの日、ヴィシーのオペラ座(写真を撮らなかった)で開かれた両院合同の国民議会で、569対80の大差で84歳だったペタン元帥に全権が付与され、大西洋沿岸を除く南部には、自由地域と称してヴィシーを首都にドイツの傀儡(かいらい=「操り人形」)政権が成立した。ペタンは第一次大戦におけるヴェルダン要塞攻防戦の英雄で、国民の崇拝の的だった。両地域間の自由な手紙のやりとりは禁止され、往来も厳しく制限された。
ヴィシー政府は占領費を1日あたり4億フラン払わされるなど、条件は厳しかったが、植民地にも支配権が及ぶなど実質的な傀儡性はともかく、形式的にはフランス正統政府として主権を持ち、イギリスを除く国際的承認も得た。ヴィシー政府とイギリスは、フランス艦隊の引渡しをめぐって対立し、イギリスがフランス艦隊を撃沈して千人以上の死者を出したメル・エル・ケビル事件以後、緊張関係にあった。
これ以後、1944年8月のフランス解放までは、ヴィシー時代と呼ばれる。この時代は「引き裂かれたフランス」、「抹殺されるべき4年間」などと呼ばれた。
フランス人同士がレジスタンスとコラボラシオン(対独協力 ある資料によると全人口の0.4%)に別れて隠然と対立し、密告と相互監視が日常茶飯事だったヴィシー時代のキーワードは、「沈黙」だった。本項目の主要参考文献である渡辺和行著「ナチ占領下のフランス」(講談社選書メチエ)から、ヴィシー時代の「沈黙」を紹介する。
「ユダヤ人であるために発表する場を奪われた『強いられた沈黙』、地下鉄の車内で同胞がドイツ兵にぶたれるのを見て見ぬふりをせざるを得ない市民の『無力の沈黙』、ユダヤ人の迫害をどうすることも出来ない『メランコリックな沈黙』、連合国軍の空爆による犠牲者(注:6万8千人が殺された)には哀悼の意を表するが、ドイツ軍によって処刑された無辜の民には一言も発しないペタン元帥の『偽りの沈黙』、ドイツとの協力を拒否したレジスタンスの『緊張した沈黙』、一瞬のやすらぎの『平和の沈黙』、肉親を虐殺された人びとの『怒りの沈黙』」。
渡辺氏は本の中で、「フランス国民は抹殺されるべきヴィシー時代をレジスタンス神話で覆い隠して戦後を生きてきた」として、「救世主」ペタンの崇拝、ドイツの占領と略奪、爆弾騒ぎ、日常的な銃殺と強制収容所送り、廃墟と化した国土、経済のマヒ、レジスタンスの高まりと解放、暴力的復讐と要約したヴィシー時代を描いている。
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心からの感謝を込めて 砂布巾
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話は戻って、大戦中のモロッコ「カサブランカ」はヴィシー、フランスの植民地であった。渡辺氏が反ナチ・プロパガンダ映画と呼ぶ冒頭の説明から、背景を説明する。
「第二次大戦の勃発でドイツの侵略を恐れたヨーロッパの人々は、アメリカ大陸を目指した。だが中継地リスボンまで行くのが難しかった。亡命者たちがたどったのは、苦しい回り道だ。パリからマルセイユ、地中海を渡ってオラン、そこから汽車か自動車か徒歩で仏領モロッコのカサブランカへ。そこで運のいい者は金かコネによってリスボンへの出国ビザを手に入れた。だが多くはカサブランカで待って待って待ち暮らすだけだった」。フランコのスペインを迂回する形で、中継地のポルトガルへ向かったことになる。
映画はカサブランカでカフェを経営しながら、脱出のチャンスをうかがうリック(ハンフリー・ボガート)、彼の前に現れたレジスタンスの闘士ラズロ、パリ陥落の日にリックと逃げる筈だったラズロの妻イルザ(イングリッド・バーグマン)をめぐる三角関係を中心に展開する。最後はドンでん返しの末に…。
「カサブランカ」は中学生の頃初めて観た時には何の意味も分からず、途中でチャンネルを変えたが、歴史的背景を理解した上で観ると、バーグマンのきれいさやボガートの渋さ(「そんなに昔のこと覚えてないね」、「そんな先のことは分からない」は名言!)などと相まって、何回観ても飽きない映画だ。ラストの「ルイ、これが友情の始まりだな」と霧の飛行場でリックがルノー署長に語っているシーン、パリの駅のホームでイルザからリックに宛てた別れを告げる手紙のインクが雨に流されるシーン、「時の過ぎゆくままに」を歌っているシーンも印象的だが、
https://www.youtube.com/watch?v=1_a57ZNlU6o
圧巻はドイツ兵がリックの店で「ラインの守り」歌っている場面で、フランス国歌「ラ・マルセイエーズ」の伴奏が突然始まり、涙しながら歌っている場面だろう。ドイツによって祖国を奪われたフランス人の思いが伝わってくる。蛇足ながら、映画の撮影そのものは全てハリウッドのスタジオで行われた。
https://www.youtube.com/watch?v=2b8OCFURCyE
対独協力をテーマに描いた映画としては、ルイ・マル監督の「ルシアンの青春」がある。 -
現在のヴィシーは中部フランスの静かな温泉町。こんな小さな町が首都だったのが信じられないくらい。5種類の温泉を飲んでみたけど、正に「まずい」という感じだった。ヨーロッパでは温泉は入るものではなく、飲むものだ。
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フランス人が「抹殺したい」と思っている節が感じられた逸話を。パリからヴィシーへ向かう列車の時刻を聞こうとして駅のInf.へ行った時、中年女性に「ヴィスィー」と言っても通じず、「ヴィスィー・ガバーメント」、「ペタン」と言っても理解してもらえなかった。そこで紙に‘Vichy’と書くと、「アッ、ヴィシー」と言って教えてくれた。誇り高きフランス人のこと、英語で言ったのが気に入らなかったのかも知れないが、「抹殺すべき時代」を意識していると勝手に解釈した。オペラ座の前には政府庁舎が入っていたという。建物にあるInf.へ行って受付の女性に「ヴィシー政府の建物はどこですか?」と英語で尋ねたら、‘in this place’と教えてくれた。本当は建物もそうだったのかも知れない。
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フランスの降伏は、援蒋ルートの遮断を目的に日本がフランス領北部インドシナへ南進するきっかけを作り、太平洋戦争への道筋を準備した。(1999年8月17日訪問)
もくじへ http://4travel.jp/travelogue/10681693
FBカサブランカページ https://www.facebook.com/CasablancaTheMovie/
関連項目 「ダンケルク撤退」http://4travel.jp/travelogue/10918791
「解放」http://4travel.jp/travelogue/10921081 -
*以下は、1999年8月17日の日記の続きより
ヴィシー滞在は昼食(オムレツ、33FFの割に美味)を含めて3時間少々で、夕方にはクレルモン・フェランにやって来る。この地では時の教皇ウルバン2世が1095年に宗教会議を開き、第1回十字軍の派遣が決定された。当時、政治が優越するか、宗教が優越するかで国王と教皇が争っており、派遣の決定はこの争いを優位に進めることを目論むウルバン2世の一大パフォーマンスでもあった。記録によると、第1回十字軍は残虐を極めたそうだ。私財をなげうって身代金を払うなど、キリスト教徒に寛大であった後のサラディン(クルド人)に比べて何という違いだろう。異教に対するこの寛容と不寛容の違いは、ゾロアスター教、ユダヤ教、キリスト教など様々な宗教の影響を受けて成立し、異教徒と共存していたイスラム教世界と、周囲全てがキリスト教徒というある意味で閉ざされた精神世界のヨーロッパ、キリスト教世界の違いではないか。 -
夕食は黒いカテドラル広場にあるウルバン2世の黒い像(近郊は黒い石の産地らしく建物も黒いものが目立つ)の前にカーンと同じレストラン Maitre Kanterがあったので、入ってみる。今回はシンプルなシュークルートを頼む。値段は魚のシュークルートより安かったけど、量の多さは同じ。前回少し残したので、今回は頑張って全部食べる。
隣席はカナダ・ケベック州から来ているという楽しそうな家族3人組。ご主人は政治関係の仕事で、去年の10月には日本に来られたそうだ。
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旅行記グループ 砂布巾のLW「進化し続ける自叙伝的旅行記…」 第5章 電撃戦(ナチス・ドイツの欧州主要部制圧)
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