佐倉・四街道旅行記(ブログ) 一覧に戻る
佐倉市臼井地区は、平安時代末期から鎌倉時代初期に、千葉氏一族の臼井氏の居城として臼井城が築かれ、江戸時代初期までの500年間、臼井氏と原氏の下総統治の拠点でした。臼井城の発展とともに、名だたる神社、仏閣が創建されています。江戸時代に入り、佐倉城が築かれ、政治・経済の中心が、佐倉地区へ移りましたが、成田山まいりが盛んになると、成田街道の宿場町として栄えました。<br /><br />臼井の最大のスターは、何と言っても巨人軍長嶋茂雄元監督です。監督が生まれ、育ったのは、この臼井です。臼井小学校を卒業し、佐倉中学校、佐倉高校、立教大学を経て、巨人軍に入団しました。今回の散策で、臼井小学校校門と臼井八幡社参道、京成臼井駅南口にその名を、見つけました。<br /><br />今回は、京成臼井駅南口を出発して、上杉謙信の一夜城の碑、臼井の道標、光勝寺、阿辰の墓、円応寺、臼井城跡、太田図書の墓、星神社、川口宗重の墓、臼井八幡社、実蔵院、臼井台の道標、妙覚寺、雷電顕彰碑、雷電の墓、臼井町道路元標、明治天皇臼井行在所の碑、長源寺、道誉上人の墓、臼井稲荷神社などに立ち寄り、京成臼井駅北口まで歩きました。<br /><br />2007/07/13 第1版<br />2011/10/07 第2版<br />2012/09/09 第3版<br />2013/12/28 第4版

佐倉市散策(9)・・中世の面影を残す臼井を訪ねます。

17いいね!

2013/12/28 - 2013/12/28

275位(同エリア747件中)

旅行記グループ 佐倉の歴史散策

0

57

YAMAJI

YAMAJIさん

佐倉市臼井地区は、平安時代末期から鎌倉時代初期に、千葉氏一族の臼井氏の居城として臼井城が築かれ、江戸時代初期までの500年間、臼井氏と原氏の下総統治の拠点でした。臼井城の発展とともに、名だたる神社、仏閣が創建されています。江戸時代に入り、佐倉城が築かれ、政治・経済の中心が、佐倉地区へ移りましたが、成田山まいりが盛んになると、成田街道の宿場町として栄えました。

臼井の最大のスターは、何と言っても巨人軍長嶋茂雄元監督です。監督が生まれ、育ったのは、この臼井です。臼井小学校を卒業し、佐倉中学校、佐倉高校、立教大学を経て、巨人軍に入団しました。今回の散策で、臼井小学校校門と臼井八幡社参道、京成臼井駅南口にその名を、見つけました。

今回は、京成臼井駅南口を出発して、上杉謙信の一夜城の碑、臼井の道標、光勝寺、阿辰の墓、円応寺、臼井城跡、太田図書の墓、星神社、川口宗重の墓、臼井八幡社、実蔵院、臼井台の道標、妙覚寺、雷電顕彰碑、雷電の墓、臼井町道路元標、明治天皇臼井行在所の碑、長源寺、道誉上人の墓、臼井稲荷神社などに立ち寄り、京成臼井駅北口まで歩きました。

2007/07/13 第1版
2011/10/07 第2版
2012/09/09 第3版
2013/12/28 第4版

PR

  • 臼井の散策地図です。

    臼井の散策地図です。

  • 京成臼井駅南口に建つ、「ようこそ、印旛沼河畔のまち、長嶋茂雄さんのふるさと、佐倉市臼井へ」の看板です。まったく同じ看板が北口にも設置されています。

    京成臼井駅南口に建つ、「ようこそ、印旛沼河畔のまち、長嶋茂雄さんのふるさと、佐倉市臼井へ」の看板です。まったく同じ看板が北口にも設置されています。

  • 京成臼井駅南口から散策の開始です。<br />

    京成臼井駅南口から散策の開始です。

  • 一夜城の碑です。<br />越後の上杉謙信は、1566年北条方の千葉胤冨・原胤貞が守る臼井城を包囲。王子台砦を攻略するも、臼井城は落とせず長期戦になる。足利義昭の上洛要請を受け、謙信は越後へ撤退する。一夜城とは、王子台砦をさす。王子台3丁目の一夜城公園の片隅にあります。

    一夜城の碑です。
    越後の上杉謙信は、1566年北条方の千葉胤冨・原胤貞が守る臼井城を包囲。王子台砦を攻略するも、臼井城は落とせず長期戦になる。足利義昭の上洛要請を受け、謙信は越後へ撤退する。一夜城とは、王子台砦をさす。王子台3丁目の一夜城公園の片隅にあります。

  • 神明社の鳥居です。

    神明社の鳥居です。

  • 神明社の社殿です。<br />祭神は、天照皇大神で、創建年代や由緒などは不詳。王子台1丁目の御伊勢公園の片隅にあります。

    神明社の社殿です。
    祭神は、天照皇大神で、創建年代や由緒などは不詳。王子台1丁目の御伊勢公園の片隅にあります。

  • 佐倉市民音楽ホールです。<br />残響1.8秒、667席の中型ホールです。図書館、公民館、市役所出張所を併設した複合施設として、多くの市民が利用しています。王子台1丁目にあります。

    佐倉市民音楽ホールです。
    残響1.8秒、667席の中型ホールです。図書館、公民館、市役所出張所を併設した複合施設として、多くの市民が利用しています。王子台1丁目にあります。

  • 音楽ホール正面のエントランスにある、彫刻「ギリシャの春」です。<br />1985年淀井敏夫作です。

    音楽ホール正面のエントランスにある、彫刻「ギリシャの春」です。
    1985年淀井敏夫作です。

  • 臼井の道標です。<br />臼井の京成電鉄の踏み切り近くにあります。

    臼井の道標です。
    臼井の京成電鉄の踏み切り近くにあります。

  • 江戸の商人達によって1806年建立された道標です。<br />正面に「西江戸道」、左側面に「東成田道」、右側面に「南飯重生ヶ谷道」と刻まれています。

    江戸の商人達によって1806年建立された道標です。
    正面に「西江戸道」、左側面に「東成田道」、右側面に「南飯重生ヶ谷道」と刻まれています。

  • この道標には「さくら道」と刻まれています。<br />上記の道標よりさらに古い道標で、建立当時は「成田道」ではなく「佐倉道」と呼ばれていたことが判ります。。

    この道標には「さくら道」と刻まれています。
    上記の道標よりさらに古い道標で、建立当時は「成田道」ではなく「佐倉道」と呼ばれていたことが判ります。。

  • 光勝寺の本堂です。<br />1100年代臼井城を築城した、臼井常康の創建といわれています。本堂の閻魔大王は、印旛沼に漂着した頭部を用いて作られたものと伝えられています。臼井氏の初期の頃の菩提寺です。<br /><br />臼井八景「光勝晩鍾」の地です・・・「けふ(今日)もくれぬ あわれ幾夜のふる(古・降る)寺の 鐘やむかしの 音に響くらん」。

    光勝寺の本堂です。
    1100年代臼井城を築城した、臼井常康の創建といわれています。本堂の閻魔大王は、印旛沼に漂着した頭部を用いて作られたものと伝えられています。臼井氏の初期の頃の菩提寺です。

    臼井八景「光勝晩鍾」の地です・・・「けふ(今日)もくれぬ あわれ幾夜のふる(古・降る)寺の 鐘やむかしの 音に響くらん」。

  • 光勝寺は時宗で、境内に一遍上人の像があります。<br />お寺は、臼井の京成電鉄の踏み切りを成田方面に100m先の右の小高い丘の中腹にあります。

    光勝寺は時宗で、境内に一遍上人の像があります。
    お寺は、臼井の京成電鉄の踏み切りを成田方面に100m先の右の小高い丘の中腹にあります。

  • 安政2年(1855年)に発行された、「利根川図志」に臼井八景が紹介されています。<br />第一景「舟戸夜雨」、第二景「遠部落雁」、第三景「飯野暮雪」、第四景「師戸帰帆」、第五景「瀬戸秋月」、第六景「城嶺夕照」、第七景「光勝晩鐘」、第八景「洲崎青嵐」

    安政2年(1855年)に発行された、「利根川図志」に臼井八景が紹介されています。
    第一景「舟戸夜雨」、第二景「遠部落雁」、第三景「飯野暮雪」、第四景「師戸帰帆」、第五景「瀬戸秋月」、第六景「城嶺夕照」、第七景「光勝晩鐘」、第八景「洲崎青嵐」

  • 阿辰の碑です。<br />1314年臼井祐胤の子竹若丸(後の興胤)を弟の志津城主・志津次郎胤氏が暗殺を企てる。乳母の阿辰は密かに鎌倉建長寺に逃がし、自身は胤氏に追われ沼のほとりの芦原に潜んだが咳きをしたため捕らえられ殺されました。後に村人が哀れみ江戸時代の1747年に石祠を建て、咳きどめの神様としてお茶や麦こがしを供えてお願いすると、咳きがなおるといわれています。

    阿辰の碑です。
    1314年臼井祐胤の子竹若丸(後の興胤)を弟の志津城主・志津次郎胤氏が暗殺を企てる。乳母の阿辰は密かに鎌倉建長寺に逃がし、自身は胤氏に追われ沼のほとりの芦原に潜んだが咳きをしたため捕らえられ殺されました。後に村人が哀れみ江戸時代の1747年に石祠を建て、咳きどめの神様としてお茶や麦こがしを供えてお願いすると、咳きがなおるといわれています。

  • 阿辰の墓です。<br />臼井田にあり、臼井小学校を通過して臼井幼稚園近くです。

    阿辰の墓です。
    臼井田にあり、臼井小学校を通過して臼井幼稚園近くです。

  • 円応寺の本堂です。<br />竹若丸(後の臼井興胤)を助けた鎌倉建長寺の僧・仏国禅師及び仏真禅師の高恩に報いるため、興胤が1388年創建した臨済宗のお寺です。臼井氏の菩提寺で、1593年臼井城とともに焼失後、再建されました。

    円応寺の本堂です。
    竹若丸(後の臼井興胤)を助けた鎌倉建長寺の僧・仏国禅師及び仏真禅師の高恩に報いるため、興胤が1388年創建した臨済宗のお寺です。臼井氏の菩提寺で、1593年臼井城とともに焼失後、再建されました。

  • 円応寺境内の六地像です。<br />お寺は、阿辰の墓から県道を渡り船戸方面の直ぐ左、臼井田の丘側にあります。

    円応寺境内の六地像です。
    お寺は、阿辰の墓から県道を渡り船戸方面の直ぐ左、臼井田の丘側にあります。

  • 臼井城跡の石碑です。<br />臼井城は、平安時代末期から鎌倉時代始め頃に(1100年代)、千葉氏の一族の臼井常康が居館を構えたのが始まりです。臼井氏中興の祖・興胤の代に(1300年代)、本格的な築城が行われました。原氏の時代(1500年代)には、東西約1km、南北約1.5kmの城郭を配し、王子台・稲荷台・田久里・宿内・仲台・洲崎の6砦を構え、外周に岩戸・師戸・先崎・小竹・志津の5支城を置き、鬼門に社寺を配し砦を兼ね、その間を舟運や間道をもって連絡するという、要塞堅固な平山城となりました。いくたの戦いの後、1604年約500年におよぶ下総統治の拠点であった臼井城は、廃城となりました。現在も空堀や土塁が良く残っています。<br />

    臼井城跡の石碑です。
    臼井城は、平安時代末期から鎌倉時代始め頃に(1100年代)、千葉氏の一族の臼井常康が居館を構えたのが始まりです。臼井氏中興の祖・興胤の代に(1300年代)、本格的な築城が行われました。原氏の時代(1500年代)には、東西約1km、南北約1.5kmの城郭を配し、王子台・稲荷台・田久里・宿内・仲台・洲崎の6砦を構え、外周に岩戸・師戸・先崎・小竹・志津の5支城を置き、鬼門に社寺を配し砦を兼ね、その間を舟運や間道をもって連絡するという、要塞堅固な平山城となりました。いくたの戦いの後、1604年約500年におよぶ下総統治の拠点であった臼井城は、廃城となりました。現在も空堀や土塁が良く残っています。

  • 臼井城の二の丸跡です。

    臼井城の二の丸跡です。

  • 二の丸と本丸の間の空堀です。

    二の丸と本丸の間の空堀です。

  • 二の丸と本丸を結ぶ土橋跡です。

    二の丸と本丸を結ぶ土橋跡です。

  • 臼井城の本丸跡です。<br /><br />臼井八景「城嶺夕照」の地です・・・「いく夕べ 入り日を峰におくるらん むかしの遠く なれる古城」。

    臼井城の本丸跡です。

    臼井八景「城嶺夕照」の地です・・・「いく夕べ 入り日を峰におくるらん むかしの遠く なれる古城」。

  • 本丸跡より西印旛沼を見たところです。<br />臼井城跡(本丸・一の丸・二の丸・三の丸跡)は、現在の臼井・臼井田・臼井台にわたっています。臼井城跡へは、円応寺横から昇り本丸跡に出るコースと臼井台から二の丸に出るコースがあります。

    本丸跡より西印旛沼を見たところです。
    臼井城跡(本丸・一の丸・二の丸・三の丸跡)は、現在の臼井・臼井田・臼井台にわたっています。臼井城跡へは、円応寺横から昇り本丸跡に出るコースと臼井台から二の丸に出るコースがあります。

  • 太田図書の墓です。<br />1478年千葉孝胤は、上杉氏の重臣太田道灌に破れ、臼井俊胤の守る臼井城に撤退、翌年道灌の弟太田図書助資忠は千葉自胤(武蔵千葉氏)と臼井城を攻撃、図書助ほか53名が戦死しました。臼井城の一角三の丸跡に、墓が残っています。二の丸から臼井台方面すぐの所にあります。

    太田図書の墓です。
    1478年千葉孝胤は、上杉氏の重臣太田道灌に破れ、臼井俊胤の守る臼井城に撤退、翌年道灌の弟太田図書助資忠は千葉自胤(武蔵千葉氏)と臼井城を攻撃、図書助ほか53名が戦死しました。臼井城の一角三の丸跡に、墓が残っています。二の丸から臼井台方面すぐの所にあります。

  • 星神社の鳥居です。

    星神社の鳥居です。

  • 星神社(臼井妙見社)です。<br />妙見とは、北斗七星を神格化したもので、鎮護国家・除災壽福の菩薩で、千葉氏一族の家紋「月星」「日月」「九曜」は、妙見に由来した星神社の社紋です。太田図書の墓から臼井台方面すぐの所にあります。

    星神社(臼井妙見社)です。
    妙見とは、北斗七星を神格化したもので、鎮護国家・除災壽福の菩薩で、千葉氏一族の家紋「月星」「日月」「九曜」は、妙見に由来した星神社の社紋です。太田図書の墓から臼井台方面すぐの所にあります。

  • 星神社の保存樹、樹齢250年のムクノキです。

    星神社の保存樹、樹齢250年のムクノキです。

  • 臼井の御神木「カヤ」(佐倉市指定天然記念物)と臼井台稲荷神社です。<br />八幡台1号公園に隣接した窪地にあります。<br /><br />1号公園は、臼井八景「洲崎晴嵐」の地です・・・「ふきはらい 雲も嵐もなかりけり 洲崎によする波も静かに」。

    臼井の御神木「カヤ」(佐倉市指定天然記念物)と臼井台稲荷神社です。
    八幡台1号公園に隣接した窪地にあります。

    1号公園は、臼井八景「洲崎晴嵐」の地です・・・「ふきはらい 雲も嵐もなかりけり 洲崎によする波も静かに」。

  • 川口宗重の墓です。<br />父川口宗勝が徳川秀忠の御家人となり、1605年印旛・葛飾両郡内で2500石を知行。宗重は宗勝の三男で葛飾郡臼井500石を継ぎ、後に加増され2000石を知行されています。墓は八幡台1号公園の片隅にあります。

    川口宗重の墓です。
    父川口宗勝が徳川秀忠の御家人となり、1605年印旛・葛飾両郡内で2500石を知行。宗重は宗勝の三男で葛飾郡臼井500石を継ぎ、後に加増され2000石を知行されています。墓は八幡台1号公園の片隅にあります。

  • 臼井八幡社の鳥居です。

    臼井八幡社の鳥居です。

  • 臼井八幡社の参道の石柱に長嶋茂雄さんの名前があります。<br />拝殿に向かって右側9個目の石柱です。 <br />

    臼井八幡社の参道の石柱に長嶋茂雄さんの名前があります。
    拝殿に向かって右側9個目の石柱です。

  • 臼井八幡社の拝殿です。<br />臼井興胤が1338年に領内の総鎮守として、宇佐八幡を勘請し祀ったとされています。祭神は応神天皇で、八幡台2丁目にあります。

    臼井八幡社の拝殿です。
    臼井興胤が1338年に領内の総鎮守として、宇佐八幡を勘請し祀ったとされています。祭神は応神天皇で、八幡台2丁目にあります。

  • 臼井八幡社の本殿です。

    臼井八幡社の本殿です。

  • 臼井八幡社の御神木です。<br />成田街道の名所でもあった大楠で、明治初期に枯死し御神木として保存されています。臼井興胤が宇佐八幡より持ち帰り、植えたと伝わっています。

    臼井八幡社の御神木です。
    成田街道の名所でもあった大楠で、明治初期に枯死し御神木として保存されています。臼井興胤が宇佐八幡より持ち帰り、植えたと伝わっています。

  • 安政2年(1855年)に発行された、「利根川図志」にその威容が描かれています。その大楠は、樹齢500年以上、周囲五丈余(15m)あったといいます。<br />

    安政2年(1855年)に発行された、「利根川図志」にその威容が描かれています。その大楠は、樹齢500年以上、周囲五丈余(15m)あったといいます。

  • 臼井八幡社の保存樹、樹齢120年のアカガシです。

    臼井八幡社の保存樹、樹齢120年のアカガシです。

  • 実蔵院の本堂です。<br />1372年創建で、不動明王を本尊とする真言宗のお寺です。江戸時代には、佐倉藩臼井領の祈願寺でもありました。また、1903年から1942年まで、寺内に私立明倫中学校があり、地域の青少年の教育に大きな貢献をしました。

    実蔵院の本堂です。
    1372年創建で、不動明王を本尊とする真言宗のお寺です。江戸時代には、佐倉藩臼井領の祈願寺でもありました。また、1903年から1942年まで、寺内に私立明倫中学校があり、地域の青少年の教育に大きな貢献をしました。

  • 実蔵院境内の観世音菩薩像です。<br />お寺は、国道296号線から臼井台に入り、メイン道路の一番奥です。

    実蔵院境内の観世音菩薩像です。
    お寺は、国道296号線から臼井台に入り、メイン道路の一番奥です。

  • 実蔵院の保存樹、樹齢150年のコウヤマキです。

    実蔵院の保存樹、樹齢150年のコウヤマキです。

  • 実蔵院境内の明倫中学校跡の碑です。

    実蔵院境内の明倫中学校跡の碑です。

  • 臼井台の1806年建立の道標です。<br />正面に「右成田ミち」、右側面に「左江戸みち」、左側面に「西さくば道」と刻まれています。さくば道とは、作場道=農道のことです。

    臼井台の1806年建立の道標です。
    正面に「右成田ミち」、右側面に「左江戸みち」、左側面に「西さくば道」と刻まれています。さくば道とは、作場道=農道のことです。

  • 妙覚寺の本堂です。<br />1488年に日泰上人により開山された、釈迦如来を本尊とする日蓮宗のお寺です。境内には、明治初期臼井村役場が開設されていました。

    妙覚寺の本堂です。
    1488年に日泰上人により開山された、釈迦如来を本尊とする日蓮宗のお寺です。境内には、明治初期臼井村役場が開設されていました。

  • 雷電顕彰碑です。<br />1767年信濃国に生まれ、1788年松江藩主松平不味公のお抱え力士となり、四股名を「雷電」。初土俵から引退まで254勝10敗、優勝回数25回。1801年臼井で興行があり、臼井上宿の八重と出会う、晩年八重のふるさと臼井で余生を送ったと伝えられています。臼井台の妙覚寺山門前にあります。

    雷電顕彰碑です。
    1767年信濃国に生まれ、1788年松江藩主松平不味公のお抱え力士となり、四股名を「雷電」。初土俵から引退まで254勝10敗、優勝回数25回。1801年臼井で興行があり、臼井上宿の八重と出会う、晩年八重のふるさと臼井で余生を送ったと伝えられています。臼井台の妙覚寺山門前にあります。

  • 雷電の手形です。

    雷電の手形です。

  • 雷電の墓です。<br />雷電と妻八重、幼くして亡くなった子供も一緒に眠っています。臼井台の妙伝寺の奥の墓地にあります。

    雷電の墓です。
    雷電と妻八重、幼くして亡くなった子供も一緒に眠っています。臼井台の妙伝寺の奥の墓地にあります。

  • 中宿の石碑です。<br />「明治天皇臼井行在所」の石碑と臼井町の道路元標が集められています。中宿は臼井宿の中心であったところです。

    中宿の石碑です。
    「明治天皇臼井行在所」の石碑と臼井町の道路元標が集められています。中宿は臼井宿の中心であったところです。

  • 「明治天皇臼井行在所」の石碑です。<br />明治十四年と明治十五年に、明治天皇が三里塚種畜場に行幸の際、往復とも御昼餐を御召されたところです。

    「明治天皇臼井行在所」の石碑です。
    明治十四年と明治十五年に、明治天皇が三里塚種畜場に行幸の際、往復とも御昼餐を御召されたところです。

  • 臼井町の道路元標です。<br />旧道路法(大正9年施行)により、各市町村に1個づつ設置されました。この元標があることで、旧臼井町の中心だった所だったことが判ります。

    臼井町の道路元標です。
    旧道路法(大正9年施行)により、各市町村に1個づつ設置されました。この元標があることで、旧臼井町の中心だった所だったことが判ります。

  • 臼井小学校です。<br />長嶋茂雄さんは昭和17年(1942年)に、臼井国民学校(現在の臼井小学校)に入学しています。小学校時代は、1年生から6年生まで一番チビで1番前に並ばされていました。しかし、運動神経は抜群で、運動会ではいつも一等賞だったといいます。 <br />

    臼井小学校です。
    長嶋茂雄さんは昭和17年(1942年)に、臼井国民学校(現在の臼井小学校)に入学しています。小学校時代は、1年生から6年生まで一番チビで1番前に並ばされていました。しかし、運動神経は抜群で、運動会ではいつも一等賞だったといいます。

  • 臼井小学校の校門には、長嶋茂雄さんのプレートがあります。 <br />

    臼井小学校の校門には、長嶋茂雄さんのプレートがあります。

  • 長源寺の本堂です。<br />1570年に道誉上人により開山された、阿弥陀如来を本尊とする浄土宗のお寺です。ここは明治6年開設の臼井小学校の発祥の地でもあります。

    長源寺の本堂です。
    1570年に道誉上人により開山された、阿弥陀如来を本尊とする浄土宗のお寺です。ここは明治6年開設の臼井小学校の発祥の地でもあります。

  • 長源寺境内の百万遍念仏供養塔と双体石仏です。

    長源寺境内の百万遍念仏供養塔と双体石仏です。

  • 道誉上人の墓です。<br />1515年に和泉国日根群鳥取庄(大阪府)に生まれ、1551年に千葉大厳寺を開山し、1555年に東京芝の増上寺の第9世貫主になり、1570年には臼井の新大厳寺(長源寺)を開山するなど、関東地方で活躍されて、1574年60歳で死亡しています。上人のお墓は長源寺の墓所にあります。

    道誉上人の墓です。
    1515年に和泉国日根群鳥取庄(大阪府)に生まれ、1551年に千葉大厳寺を開山し、1555年に東京芝の増上寺の第9世貫主になり、1570年には臼井の新大厳寺(長源寺)を開山するなど、関東地方で活躍されて、1574年60歳で死亡しています。上人のお墓は長源寺の墓所にあります。

  • 長嶋家のお墓です。<br />道誉上人と同じ、長源寺の墓所にあります。 長嶋茂雄さんの父;利、母;ちよ、兄;武彦が眠っています。 <br /><br />

    長嶋家のお墓です。
    道誉上人と同じ、長源寺の墓所にあります。 長嶋茂雄さんの父;利、母;ちよ、兄;武彦が眠っています。

  • 臼井稲荷神社です。<br />社殿が三つあり、左から三峰・古峰神社、稲荷神社、子安神社です。境内は雷電公園になっており、かっては運動会や相撲大会が催されていたという。臼井台から京成臼井駅北口方面へ、国道296号線を渡り直進、50m先の左側にある急な階段を登ります。

    臼井稲荷神社です。
    社殿が三つあり、左から三峰・古峰神社、稲荷神社、子安神社です。境内は雷電公園になっており、かっては運動会や相撲大会が催されていたという。臼井台から京成臼井駅北口方面へ、国道296号線を渡り直進、50m先の左側にある急な階段を登ります。

  • 臼井稲荷神社の保存樹、樹齢300年のケヤキです。

    臼井稲荷神社の保存樹、樹齢300年のケヤキです。

この旅行記のタグ

17いいね!

利用規約に違反している投稿は、報告する事ができます。 問題のある投稿を連絡する

旅行記グループ

佐倉の歴史散策

コメントを投稿する前に

十分に確認の上、ご投稿ください。 コメントの内容は攻撃的ではなく、相手の気持ちに寄り添ったものになっていますか?

サイト共通ガイドライン(利用上のお願い)

報道機関・マスメディアの方へ 画像提供などに関するお問い合わせは、専用のお問い合わせフォームからお願いいたします。

旅の計画・記録

マイルに交換できるフォートラベルポイントが貯まる
フォートラベルポイントって?

フォートラベル公式LINE@

おすすめの旅行記や旬な旅行情報、お得なキャンペーン情報をお届けします!
QRコードが読み取れない場合はID「@4travel」で検索してください。

\その他の公式SNSはこちら/

PAGE TOP