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江戸相撲のスーパースター「雷電為右衛門」の足跡を、佐倉市臼井に訪ねます。雷電の妻八重(おはん)は、この臼井宿の街道沿い上宿の甘酒茶屋「天狗」を営んでいた飯田忠八の看板娘でした。雷電は相撲巡業で何度か臼井宿を訪ねており、この甘酒茶屋「天狗」にも立ち寄り、おはんを見初めて妻に迎えたといわれています。また、雷電は引退後の余生を臼井宿で過ごしたと伝わっています。雷電の墓や雷電顕彰碑、雷電が寄進した稲荷社・石段などが、大切に保存されています。<br /><br />1、明和4年(1767); 信濃国小県郡大石村(長野県東御市)で、関家の長男として誕生、名は関太郎吉といいました。<br /><br />2、天明8年(1788); 松江藩のお抱え力士となり、四股名を「雷電」と名乗りました。<br /><br />3、寛政2年(1790); 江戸11月場所で初土俵、8勝2預で優勝相当の好成績を収めました。<br /><br />4、寛政4年(1792); 臼井の甘酒茶屋「天狗」の娘おはん(八重)と結婚し、江戸麹町の長屋に新居をかまえています。<br /><br />5、寛政10年(1798); 長女を幼くして亡くしています。3才くらいか。<br /><br />6、享和元年(1801); 八重の故郷臼井で興行を行っています。<br /><br />7、文化8年(1811); 江戸相撲引退。江戸の本場所は、34場所出場して、254勝10敗で勝率9割6分2厘、驚異的な成績を残しました。江戸最強力士でした。<br /><br />8、文化12年(1815); 八重の故郷臼井で5日間の興行を行っています。<br /><br />9、文政6年(1823); 八重の故郷臼井に逗留しています。<br /><br />10、文政8年(1825); 雷電為右衛門は59歳で亡くなっています。墓所は全国に4ケ所あり、遺骨は江戸赤坂の報土寺(松江藩ゆかりのお寺)に葬られ、遺髪は大石村の関家の墓地と松江市の西光寺に分葬されています。佐倉市臼井の雷電の墓には、妻八重(おはん)と長女も葬られており、家族3人が一緒に供養されているのは、ここだけです。<br /><br />11、文政10年(1827); 妻八重(おはん)が61歳で亡くなっています。<br /><br /><br /><br />雷電為右衛門の命日2月11日に、毎年「佐倉雷電祭」が行われます。<br /><br />1、場所と時間; 佐倉市臼井の妙覚寺で10:00~です。<br /><br />2、法要; 雷電顕彰碑前(妙覚寺山門前)で行われ、地元佐倉市の方だけでなく、雷電の出身地である長野県東御市からもたくさんの方が参列されます。<br /><br />3、奉納太鼓; 妙覚寺境内で地元「佐倉太鼓衆」により「天下無双」が演じられます。<br /><br />4、相撲甚句; 妙覚寺境内で雷電を詠った相撲甚句が披露されます。<br /><br />5、甘酒; 妻八重(おはん)と出会った甘酒茶屋「天狗」にちなんで、甘酒も振舞われます。<br /><br /><br />

佐倉市散策(49)・・雷電為右衛門の足跡を臼井宿に訪ねます。

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2019/01/22 - 2019/01/22

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YAMAJI

YAMAJIさん

江戸相撲のスーパースター「雷電為右衛門」の足跡を、佐倉市臼井に訪ねます。雷電の妻八重(おはん)は、この臼井宿の街道沿い上宿の甘酒茶屋「天狗」を営んでいた飯田忠八の看板娘でした。雷電は相撲巡業で何度か臼井宿を訪ねており、この甘酒茶屋「天狗」にも立ち寄り、おはんを見初めて妻に迎えたといわれています。また、雷電は引退後の余生を臼井宿で過ごしたと伝わっています。雷電の墓や雷電顕彰碑、雷電が寄進した稲荷社・石段などが、大切に保存されています。

1、明和4年(1767); 信濃国小県郡大石村(長野県東御市)で、関家の長男として誕生、名は関太郎吉といいました。

2、天明8年(1788); 松江藩のお抱え力士となり、四股名を「雷電」と名乗りました。

3、寛政2年(1790); 江戸11月場所で初土俵、8勝2預で優勝相当の好成績を収めました。

4、寛政4年(1792); 臼井の甘酒茶屋「天狗」の娘おはん(八重)と結婚し、江戸麹町の長屋に新居をかまえています。

5、寛政10年(1798); 長女を幼くして亡くしています。3才くらいか。

6、享和元年(1801); 八重の故郷臼井で興行を行っています。

7、文化8年(1811); 江戸相撲引退。江戸の本場所は、34場所出場して、254勝10敗で勝率9割6分2厘、驚異的な成績を残しました。江戸最強力士でした。

8、文化12年(1815); 八重の故郷臼井で5日間の興行を行っています。

9、文政6年(1823); 八重の故郷臼井に逗留しています。

10、文政8年(1825); 雷電為右衛門は59歳で亡くなっています。墓所は全国に4ケ所あり、遺骨は江戸赤坂の報土寺(松江藩ゆかりのお寺)に葬られ、遺髪は大石村の関家の墓地と松江市の西光寺に分葬されています。佐倉市臼井の雷電の墓には、妻八重(おはん)と長女も葬られており、家族3人が一緒に供養されているのは、ここだけです。

11、文政10年(1827); 妻八重(おはん)が61歳で亡くなっています。



雷電為右衛門の命日2月11日に、毎年「佐倉雷電祭」が行われます。

1、場所と時間; 佐倉市臼井の妙覚寺で10:00~です。

2、法要; 雷電顕彰碑前(妙覚寺山門前)で行われ、地元佐倉市の方だけでなく、雷電の出身地である長野県東御市からもたくさんの方が参列されます。

3、奉納太鼓; 妙覚寺境内で地元「佐倉太鼓衆」により「天下無双」が演じられます。

4、相撲甚句; 妙覚寺境内で雷電を詠った相撲甚句が披露されます。

5、甘酒; 妻八重(おはん)と出会った甘酒茶屋「天狗」にちなんで、甘酒も振舞われます。


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  • 佐倉市の臼井台・臼井地区の地図です。<br />雷電為右衛門の足跡を訪ねる、関連地図を作ってみました。

    佐倉市の臼井台・臼井地区の地図です。
    雷電為右衛門の足跡を訪ねる、関連地図を作ってみました。

  • 妙覚寺(すみれ保育園)です。<br />1488年に日泰上人により開山された、釈迦如来を本尊とする日蓮宗のお寺です。境内には、明治初期臼井村役場が開設されていました。

    妙覚寺(すみれ保育園)です。
    1488年に日泰上人により開山された、釈迦如来を本尊とする日蓮宗のお寺です。境内には、明治初期臼井村役場が開設されていました。

  • 雷電顕彰碑です。<br />臼井台の妙覚寺山門前にあります。佐久間象山の筆による「天下第一流力士雷電之碑」の文字が刻まれています。妙覚寺は雷電婦人八重(おはん)の生家の菩提寺、浄行寺を合併しており、雷電の供養・法要を毎年雷電の命日・2月11日に、「雷電祭」として執り行ています。

    雷電顕彰碑です。
    臼井台の妙覚寺山門前にあります。佐久間象山の筆による「天下第一流力士雷電之碑」の文字が刻まれています。妙覚寺は雷電婦人八重(おはん)の生家の菩提寺、浄行寺を合併しており、雷電の供養・法要を毎年雷電の命日・2月11日に、「雷電祭」として執り行ています。

  • 雷電為右衛門の経歴です。<br />明和4年(1767)信濃国大石村(長野県東御市)に生まれ、天明8年(1788)松江藩主松平不味公のお抱え力士となり、四股名は「雷電」と名乗ります。初土俵から引退まで254勝10敗、優勝回数25回の成績を残しています。臼井での相撲興行で、臼井上宿のおはん(雷電と結婚して八重)と出会う、晩年八重のふるさと臼井で余生を送ったと伝えられています。

    雷電為右衛門の経歴です。
    明和4年(1767)信濃国大石村(長野県東御市)に生まれ、天明8年(1788)松江藩主松平不味公のお抱え力士となり、四股名は「雷電」と名乗ります。初土俵から引退まで254勝10敗、優勝回数25回の成績を残しています。臼井での相撲興行で、臼井上宿のおはん(雷電と結婚して八重)と出会う、晩年八重のふるさと臼井で余生を送ったと伝えられています。

  • 雷電の手形です。<br />「雷電の実寸大の手形」と「天下無双の金文字」がデザインされています。

    雷電の手形です。
    「雷電の実寸大の手形」と「天下無双の金文字」がデザインされています。

  • 雷電の墓です。<br />雷電為右衛門と妻八重(おはん)、幼くして亡くなった子供も一緒に眠っています。新坂を下ってすぐ右に曲り、妙伝寺奥の墓地にあります。ここは妙覚寺に合併された旧浄行寺の墓地で、おはんの生家の菩提寺だったところです。

    雷電の墓です。
    雷電為右衛門と妻八重(おはん)、幼くして亡くなった子供も一緒に眠っています。新坂を下ってすぐ右に曲り、妙伝寺奥の墓地にあります。ここは妙覚寺に合併された旧浄行寺の墓地で、おはんの生家の菩提寺だったところです。

  • 文政8年(1825)、雷電為右衛門(関太郎吉)・元大関、五十九才没。<br />文政10年(1827)、八重(おはん)・雷電婦人、六十一才没。<br />寛政10年(1798)、一女・雷電長女・名不詳、幼くして没。<br />全国四か所ある「雷電の墓」のうち、家族が眠るのはここだけです。

    文政8年(1825)、雷電為右衛門(関太郎吉)・元大関、五十九才没。
    文政10年(1827)、八重(おはん)・雷電婦人、六十一才没。
    寛政10年(1798)、一女・雷電長女・名不詳、幼くして没。
    全国四か所ある「雷電の墓」のうち、家族が眠るのはここだけです。

  • 武藤自動車整備工場です。<br />ここが雷電の妻八重(おはん)の生家、「甘酒茶屋・天狗」跡です。

    武藤自動車整備工場です。
    ここが雷電の妻八重(おはん)の生家、「甘酒茶屋・天狗」跡です。

  • 甘酒茶屋「天狗」跡の案内板です。<br />後の雷電婦人おはんは、臼井上宿「甘酒茶屋・天狗」の看板娘でした。

    甘酒茶屋「天狗」跡の案内板です。
    後の雷電婦人おはんは、臼井上宿「甘酒茶屋・天狗」の看板娘でした。

  • 中宿交差点にある石碑です。<br />「明治天皇臼井行在所の石碑」と「臼井町道路元標」が集められています。道路を挟んで向かい側に「高札所」がありました。中宿は臼井宿の中心であったところです。

    中宿交差点にある石碑です。
    「明治天皇臼井行在所の石碑」と「臼井町道路元標」が集められています。道路を挟んで向かい側に「高札所」がありました。中宿は臼井宿の中心であったところです。

  • 安政5年(1858年)に発行された、「成田名所図会」に江戸末期の臼井宿が紹介されています。江戸寄りから片町、上宿、中宿、下宿、新町と宿場町が形成されており、180軒余りの旅籠や茶店などが軒を連ねていました。

    安政5年(1858年)に発行された、「成田名所図会」に江戸末期の臼井宿が紹介されています。江戸寄りから片町、上宿、中宿、下宿、新町と宿場町が形成されており、180軒余りの旅籠や茶店などが軒を連ねていました。

  • 雷電公園・臼井稲荷神社への急な階段です。<br />昔は石段で雷電が寄進したと伝わっています。

    雷電公園・臼井稲荷神社への急な階段です。
    昔は石段で雷電が寄進したと伝わっています。

  • 臼井稲荷神社です。<br />社殿が三つあり、左から三峰・古峰神社、稲荷神社、子安神社です。境内は雷電公園になっており、かっては運動会や相撲大会が催されていたといいます。臼井台から京成臼井駅北口方面へ、国道296号線を渡り直進、50m先の左側にある急な階段を登ります。

    臼井稲荷神社です。
    社殿が三つあり、左から三峰・古峰神社、稲荷神社、子安神社です。境内は雷電公園になっており、かっては運動会や相撲大会が催されていたといいます。臼井台から京成臼井駅北口方面へ、国道296号線を渡り直進、50m先の左側にある急な階段を登ります。

  • 雷電寄進の石段を階段改修時に、保存の為に敷石として活用した旨、碑文に書かれています。

    雷電寄進の石段を階段改修時に、保存の為に敷石として活用した旨、碑文に書かれています。

  • 雷電が寄進した石段が、臼井稲荷神社の参道として、活用されています。

    雷電が寄進した石段が、臼井稲荷神社の参道として、活用されています。

  • 雷電祭のポスターです。<br />毎年2月11日の雷電為右衛門の命日に、「雷電祭」が臼井妙覚寺で催されます。雷電の法要と奉納太鼓「天下無双」・相撲甚句が披露され、甘酒が振舞われます。

    雷電祭のポスターです。
    毎年2月11日の雷電為右衛門の命日に、「雷電祭」が臼井妙覚寺で催されます。雷電の法要と奉納太鼓「天下無双」・相撲甚句が披露され、甘酒が振舞われます。

  • 雷電浮世絵・勝川春亭画、「化粧回し姿、雷電為右衛門」です。

    雷電浮世絵・勝川春亭画、「化粧回し姿、雷電為右衛門」です。

  • 雷電浮世絵・勝川春英画、「大名上覧相撲、取り組みの図」です。

    雷電浮世絵・勝川春英画、「大名上覧相撲、取り組みの図」です。

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