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佐倉藩の城下町であった旧市街は、坂の多い街です。これは佐倉城の築城にあたり、台地と台地の間に入り込んだ谷津や河川を利用したことによります。佐倉城及びその城下町は、主に台地の上に整備され、武家屋敷は、城内に椎木曲輪(しいのきくるわ)・天神曲輪(てんじんくるわ)・下町(したまち)・広小路(ひろこうじ)などがあり、城外に鏑木小路(かぶらぎこうじ)・宮小路(みやこうじ)・海隣寺並木(かいりんじなみき)・中尾余(なかびょう)・最上町(もがみまち)・野狐台(やっこだい)などに配置されました。町屋は、田町(たまち)・海隣寺(かいりんじ)・横町(よこまち)・上町(かみちょう)・二番町(にばんちょう)・仲町(なかまち)・肴町(さかなまち)・間之町(あいのまち)・弥勒町(みろくちょう)・本町(もとまち)と広がっています。台地上の城下町と、平地の周辺農村の往来には、坂道を通る必要がありました。また、城下町の中央を成田街道(成田道)が、通っていたのも佐倉城下の特徴です。<br /><br />坂道を散策していると、「佐倉散策〜佐倉の坂〜」という案内図を見かけます。これは、「総州佐倉御城府内之図」より引用しています。この「総州佐倉御城府之図」というのは、元禄14年(1701)から享保8年(1723)まで佐倉藩主であった稲葉正往・正知二代に仕えた、百五十石取りの藩士・渡辺善右衛門守由が作成した城下の絵図です。この絵図は、測量図のような正確なものではなく、「古今佐倉真佐子(ここんさくらまさご)」という佐倉城下の思い出話を綴った冊子の理解を助けるための、付録のような存在だったそうです。この絵図で坂道は、道筋に横線を入れて梯子状に表わしています。その数は40ケ所以上あります。「総州佐倉御城府内之図」の複製画は、佐倉市役所市制資料室と武家屋敷で、300円で販売しています。<br /><br />「古今佐倉真佐子」は、渡辺善右衛門守由が佐倉在住の約15年間に見聞きした佐倉の様子を後年、山城国(京都府)淀に移住してから書き綴ったものです。そこには旧地佐倉についての思い出をまとめた私的なもので、城下町の構造・植生を始め城の怪異や伝説、市井の人々の暮らしが端々に伺えます。”真佐子”とは「真砂」をもじったもので、佐倉での数限りない思い出を意味します。しかし、その内容は在住時だけのものではなく、それ以前の出来事や伝説なども書き綴っているため、「古今」と付けたものと思われます。<br /><br />「古今佐倉真佐子」には、13ケ所の坂道が取り上げられています。この中で杉坂と七曲坂は、消滅しています。愛宕坂(あたござか)、城内町のへび坂、浅間坂(せんげんざか)、海隣寺坂(かいりんじざか)、みそべや坂、ひよどり坂、くらやみ坂、うるし坂、やかん坂、薬師坂(やくしざか)、猿が脇の坂(さるがわきのさか)の11ケ所の他、鍛冶作の坂(かじさくのさか)、玉家の坂(たまやのさか)、番神道(ばんじんどう)、八軒町の坂(はっけんちょうのさか)、野道の坂(のみちのさか)、下長屋の坂(したながやのさか)、八幡様の坂(はちまんさまのさか)、鏑木町のへび坂、緑の坂(みどりのさか)の9ケ所の坂道を、今回取り上げました。<br /><br />参考文献他;<br />「総州佐倉御城府内之図」、城下町・佐倉歴史生活資料館の「佐倉の坂めぐり〜佐倉真佐子〜」、佐倉市民ハイキングの「佐倉の坂道」、坂学会の「全国坂のプロフィール(千葉県・佐倉市)」。

佐倉市散策(32)・・佐倉城下に坂道を訪ねます。

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2012/07/05 - 2012/07/08

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旅行記グループ 佐倉の歴史散策

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YAMAJI

YAMAJIさん

佐倉藩の城下町であった旧市街は、坂の多い街です。これは佐倉城の築城にあたり、台地と台地の間に入り込んだ谷津や河川を利用したことによります。佐倉城及びその城下町は、主に台地の上に整備され、武家屋敷は、城内に椎木曲輪(しいのきくるわ)・天神曲輪(てんじんくるわ)・下町(したまち)・広小路(ひろこうじ)などがあり、城外に鏑木小路(かぶらぎこうじ)・宮小路(みやこうじ)・海隣寺並木(かいりんじなみき)・中尾余(なかびょう)・最上町(もがみまち)・野狐台(やっこだい)などに配置されました。町屋は、田町(たまち)・海隣寺(かいりんじ)・横町(よこまち)・上町(かみちょう)・二番町(にばんちょう)・仲町(なかまち)・肴町(さかなまち)・間之町(あいのまち)・弥勒町(みろくちょう)・本町(もとまち)と広がっています。台地上の城下町と、平地の周辺農村の往来には、坂道を通る必要がありました。また、城下町の中央を成田街道(成田道)が、通っていたのも佐倉城下の特徴です。

坂道を散策していると、「佐倉散策〜佐倉の坂〜」という案内図を見かけます。これは、「総州佐倉御城府内之図」より引用しています。この「総州佐倉御城府之図」というのは、元禄14年(1701)から享保8年(1723)まで佐倉藩主であった稲葉正往・正知二代に仕えた、百五十石取りの藩士・渡辺善右衛門守由が作成した城下の絵図です。この絵図は、測量図のような正確なものではなく、「古今佐倉真佐子(ここんさくらまさご)」という佐倉城下の思い出話を綴った冊子の理解を助けるための、付録のような存在だったそうです。この絵図で坂道は、道筋に横線を入れて梯子状に表わしています。その数は40ケ所以上あります。「総州佐倉御城府内之図」の複製画は、佐倉市役所市制資料室と武家屋敷で、300円で販売しています。

「古今佐倉真佐子」は、渡辺善右衛門守由が佐倉在住の約15年間に見聞きした佐倉の様子を後年、山城国(京都府)淀に移住してから書き綴ったものです。そこには旧地佐倉についての思い出をまとめた私的なもので、城下町の構造・植生を始め城の怪異や伝説、市井の人々の暮らしが端々に伺えます。”真佐子”とは「真砂」をもじったもので、佐倉での数限りない思い出を意味します。しかし、その内容は在住時だけのものではなく、それ以前の出来事や伝説なども書き綴っているため、「古今」と付けたものと思われます。

「古今佐倉真佐子」には、13ケ所の坂道が取り上げられています。この中で杉坂と七曲坂は、消滅しています。愛宕坂(あたござか)、城内町のへび坂、浅間坂(せんげんざか)、海隣寺坂(かいりんじざか)、みそべや坂、ひよどり坂、くらやみ坂、うるし坂、やかん坂、薬師坂(やくしざか)、猿が脇の坂(さるがわきのさか)の11ケ所の他、鍛冶作の坂(かじさくのさか)、玉家の坂(たまやのさか)、番神道(ばんじんどう)、八軒町の坂(はっけんちょうのさか)、野道の坂(のみちのさか)、下長屋の坂(したながやのさか)、八幡様の坂(はちまんさまのさか)、鏑木町のへび坂、緑の坂(みどりのさか)の9ケ所の坂道を、今回取り上げました。

参考文献他;
「総州佐倉御城府内之図」、城下町・佐倉歴史生活資料館の「佐倉の坂めぐり〜佐倉真佐子〜」、佐倉市民ハイキングの「佐倉の坂道」、坂学会の「全国坂のプロフィール(千葉県・佐倉市)」。

  • 江戸時代の佐倉城下町模式図です。<br />佐倉城とその城下町は、台地の上に整備されたことが、この図からも良く判ります。町屋の田町だけが、平地に広がっています。オレンジ色で表されている道が成田街道(佐倉道・成田道)で、城下町の中央を東西に通っています。

    江戸時代の佐倉城下町模式図です。
    佐倉城とその城下町は、台地の上に整備されたことが、この図からも良く判ります。町屋の田町だけが、平地に広がっています。オレンジ色で表されている道が成田街道(佐倉道・成田道)で、城下町の中央を東西に通っています。

  • 佐倉城下の坂道です。<br />現在の地図上に、黒の実線で江戸時代の道筋を書き込んでいます。赤で表しているのが(坂道名を付記)、今回取り上げた坂道20ケ所です。オレンジ色で表している道が、現在の成田街道(国道296号線)です。

    佐倉城下の坂道です。
    現在の地図上に、黒の実線で江戸時代の道筋を書き込んでいます。赤で表しているのが(坂道名を付記)、今回取り上げた坂道20ケ所です。オレンジ色で表している道が、現在の成田街道(国道296号線)です。

  • 愛宕坂です。<br />国立歴史民俗博物館への進入路が、かって「愛宕坂」といわれた坂道です。名前の由来は、佐倉連隊が造営された明治十二年まで、坂の上に愛宕神社が祀られていたので、この名が付けられたといわれています。当時、この坂上からの見晴らしが良く、眼下に田町の町並みが望まれ、木の葉隠れに岩名や飯野、印旛沼から対岸の瀬戸・師戸や遠く印西まで一望出来たといわれています。

    愛宕坂です。
    国立歴史民俗博物館への進入路が、かって「愛宕坂」といわれた坂道です。名前の由来は、佐倉連隊が造営された明治十二年まで、坂の上に愛宕神社が祀られていたので、この名が付けられたといわれています。当時、この坂上からの見晴らしが良く、眼下に田町の町並みが望まれ、木の葉隠れに岩名や飯野、印旛沼から対岸の瀬戸・師戸や遠く印西まで一望出来たといわれています。

  • 坂上の国立歴史民俗博物館です。<br /> 「歴博」の愛称で親しまれており、昭和58年(1983)に建築されています。原始・古代から近代に至るまでの歴史や日本人の民俗世界をテーマに、実物資料に加えて精密な複製品や学問的に裏付けられた復元模型などを積極的に取り入れ、日本の歴史や文化について容易に理解を深められるように展示されています。

    坂上の国立歴史民俗博物館です。
    「歴博」の愛称で親しまれており、昭和58年(1983)に建築されています。原始・古代から近代に至るまでの歴史や日本人の民俗世界をテーマに、実物資料に加えて精密な複製品や学問的に裏付けられた復元模型などを積極的に取り入れ、日本の歴史や文化について容易に理解を深められるように展示されています。

  • 坂下の田町門跡・愛宕坂の案内板です。<br />田町門は、成田街道(佐倉道・成田道)に沿った城下町の一部「田町」から城内への門で、門の裏手に番所がありました。田町門から城内の椎木曲輪へ上がる坂を「愛宕坂」といいました。

    坂下の田町門跡・愛宕坂の案内板です。
    田町門は、成田街道(佐倉道・成田道)に沿った城下町の一部「田町」から城内への門で、門の裏手に番所がありました。田町門から城内の椎木曲輪へ上がる坂を「愛宕坂」といいました。

  • へび坂(城内町)です。<br />佐倉城址の角馬出しと椎木御門跡から、根曲輪・鹿島橋方面へ下りてゆく坂が「へび坂」です。昔は両側が大杉並木で、周囲に伸びた枝葉が重なり合い、昼間でも暗く、じめじめした狭い崖道にへびがいたのでしょうか。佐倉連隊から出る便を運びだす経路にあたり、「こやし坂」とも呼ばれていました。

    へび坂(城内町)です。
    佐倉城址の角馬出しと椎木御門跡から、根曲輪・鹿島橋方面へ下りてゆく坂が「へび坂」です。昔は両側が大杉並木で、周囲に伸びた枝葉が重なり合い、昼間でも暗く、じめじめした狭い崖道にへびがいたのでしょうか。佐倉連隊から出る便を運びだす経路にあたり、「こやし坂」とも呼ばれていました。

  • 坂上の兵営の便所跡です。<br />佐倉連隊の兵営の便所跡で、土台のみが残っています。江原新田では、連隊と契約し、下肥・馬糞の払い下げを受け、汚物掃除を担当していました。

    坂上の兵営の便所跡です。
    佐倉連隊の兵営の便所跡で、土台のみが残っています。江原新田では、連隊と契約し、下肥・馬糞の払い下げを受け、汚物掃除を担当していました。

  • 坂下の出丸跡です。<br />北側の出丸跡で、崖以外の三方が堀で囲まれており、さらに内側を土塁が囲んでいます。

    坂下の出丸跡です。
    北側の出丸跡で、崖以外の三方が堀で囲まれており、さらに内側を土塁が囲んでいます。

  • 浅間坂です。<br />「古今佐倉真佐子」の文中には坂の名はありませんが、「総州佐倉御城府内之図」に「センケン坂」と記されています。ここにあった浅間神社は、廃城後に鏑木町の浅間神社に合祀されたということです。佐倉城時代の三の丸(現在のお花見広場)から鷹匠町への急な坂道です。坂の降り口、左側に小高い丘がありますが、この丘が浅間神社跡地です。

    浅間坂です。
    「古今佐倉真佐子」の文中には坂の名はありませんが、「総州佐倉御城府内之図」に「センケン坂」と記されています。ここにあった浅間神社は、廃城後に鏑木町の浅間神社に合祀されたということです。佐倉城時代の三の丸(現在のお花見広場)から鷹匠町への急な坂道です。坂の降り口、左側に小高い丘がありますが、この丘が浅間神社跡地です。

  • 坂上の三經亭です。<br />日曜・祝日に一服400円で、抹茶を楽しむ事ができます。

    坂上の三經亭です。
    日曜・祝日に一服400円で、抹茶を楽しむ事ができます。

  • 坂下の出丸跡です。<br />南側の出丸跡で、崖以外の三方が堀で囲まれており、さらに内側を土塁が囲んでいます。

    坂下の出丸跡です。
    南側の出丸跡で、崖以外の三方が堀で囲まれており、さらに内側を土塁が囲んでいます。

  • 海隣寺坂です。<br />佐倉市役所の前を左折して田町方面に向かうと、落ち込むような急坂があります。こらが昔の「海隣寺坂」です。坂の上に千葉山深広院海隣寺があったところから、この名が付いたといわれています。江戸時代には、鹿島橋から田町の町並みを抜けて、並木町方面に通じる成田街道(佐倉道・成田道)は、成田参詣が盛んな頃は大勢の旅人で賑わいを呈したといわれています。急な坂道のため荷車が上がれないので、後押しする(おっぺす)人夫がいたことから、「おつぺし坂」ともいわれていました。

    海隣寺坂です。
    佐倉市役所の前を左折して田町方面に向かうと、落ち込むような急坂があります。こらが昔の「海隣寺坂」です。坂の上に千葉山深広院海隣寺があったところから、この名が付いたといわれています。江戸時代には、鹿島橋から田町の町並みを抜けて、並木町方面に通じる成田街道(佐倉道・成田道)は、成田参詣が盛んな頃は大勢の旅人で賑わいを呈したといわれています。急な坂道のため荷車が上がれないので、後押しする(おっぺす)人夫がいたことから、「おつぺし坂」ともいわれていました。

  • 佐倉市役所です。<br />黒川記章の設計で、昭和46年(1971)に建築された、白いカプセルの集合体のような、デザインが印象的な建物です。遠くから見ると、印旛沼に出航する船のように見えます。 <br />

    佐倉市役所です。
    黒川記章の設計で、昭和46年(1971)に建築された、白いカプセルの集合体のような、デザインが印象的な建物です。遠くから見ると、印旛沼に出航する船のように見えます。

  • 鍛冶作の坂です。<br />麻賀多神社の東脇を北へ行くと小さな十字路があります。十字路を北西へ下る狭い坂道が「鍛冶作の坂」です。坂下の小字、鍛冶作という地名に因んだ坂名で、鍛冶作では、江戸時代から良質な水が湧き出ていたことから、刀剣鍛冶・鉄砲鍛冶など鍛冶屋が集まっていたといいます。

    鍛冶作の坂です。
    麻賀多神社の東脇を北へ行くと小さな十字路があります。十字路を北西へ下る狭い坂道が「鍛冶作の坂」です。坂下の小字、鍛冶作という地名に因んだ坂名で、鍛冶作では、江戸時代から良質な水が湧き出ていたことから、刀剣鍛冶・鉄砲鍛冶など鍛冶屋が集まっていたといいます。

  • 坂上の麻賀多神社です。<br />約1000年以上の歴史がある佐倉の総鎮守で、稚産霊命(わかむすびのみこと)を祭っています。本殿脇には樹齢800年の大銀杏を見ることができます。<br />

    坂上の麻賀多神社です。
    約1000年以上の歴史がある佐倉の総鎮守で、稚産霊命(わかむすびのみこと)を祭っています。本殿脇には樹齢800年の大銀杏を見ることができます。

  • 坂下の「佐倉藩刀剣細工所の地」の道標です。

    坂下の「佐倉藩刀剣細工所の地」の道標です。

  • みそべやの坂です。<br />坂下に、味噌等を貯えておく藩の備蓄小屋があったようで、今でも地元の人たちは、坂の下を「みそべや」と呼んでいます。佐倉市民体育館と麻賀多神社の中間にある坂で、坂上に野鳥の道標、「宮小路のふくろう」の道標があります。

    みそべやの坂です。
    坂下に、味噌等を貯えておく藩の備蓄小屋があったようで、今でも地元の人たちは、坂の下を「みそべや」と呼んでいます。佐倉市民体育館と麻賀多神社の中間にある坂で、坂上に野鳥の道標、「宮小路のふくろう」の道標があります。

  • 坂上の野鳥の道標、宮小路町の「ふくろう」です。<br />野鳥のある道標は、佐倉市制30周年記念事業として昭和59年3月、佐倉市の旧城下町に11点設置されました。佐倉市内に住む石刻画家の山田光造(やまだみつぞう)作のブロンズ像です。縦・横21cm、高さ160cmの黒御影石の上に、佐倉市内で生息する野鳥のブロンズ像が乗っています

    坂上の野鳥の道標、宮小路町の「ふくろう」です。
    野鳥のある道標は、佐倉市制30周年記念事業として昭和59年3月、佐倉市の旧城下町に11点設置されました。佐倉市内に住む石刻画家の山田光造(やまだみつぞう)作のブロンズ像です。縦・横21cm、高さ160cmの黒御影石の上に、佐倉市内で生息する野鳥のブロンズ像が乗っています

  • 坂上の佐倉市立体育館です。<br />建物の総延床面積が、6,473平方メートルあります。設備としては、アリーナ、剣道場、柔道場、卓球室、弓道場、ランニングコート、トレーニング室などがあります。

    坂上の佐倉市立体育館です。
    建物の総延床面積が、6,473平方メートルあります。設備としては、アリーナ、剣道場、柔道場、卓球室、弓道場、ランニングコート、トレーニング室などがあります。

  • ひよどり坂です。<br />宮小路町の通称武家屋敷通りの西はずれ、両側を孟宗竹の林で覆われた切通しの坂が「ひよどり坂」です。坂の降り口には、市指定有形文化財大日如来像を本尊とする真言宗豊山派の古刹、大和田山大聖院明王寺があります。竹林の緑が美しい落ち着いた雰囲気のこの坂道は、武家屋敷から城址公園・歴博見学への散策路として欠かすことの出来ない名所の一つです。

    ひよどり坂です。
    宮小路町の通称武家屋敷通りの西はずれ、両側を孟宗竹の林で覆われた切通しの坂が「ひよどり坂」です。坂の降り口には、市指定有形文化財大日如来像を本尊とする真言宗豊山派の古刹、大和田山大聖院明王寺があります。竹林の緑が美しい落ち着いた雰囲気のこの坂道は、武家屋敷から城址公園・歴博見学への散策路として欠かすことの出来ない名所の一つです。

  • 坂上のひよどり坂の案内図です。<br />「総州佐倉御城府内之図」上の位置の確認と坂道の説明をしています。

    坂上のひよどり坂の案内図です。
    「総州佐倉御城府内之図」上の位置の確認と坂道の説明をしています。

  • 坂上の大聖院です。<br />鎌倉時代初期創建の真言宗のお寺で、本尊は大日如来です。佐倉藩刀工細川忠義(ほそかわただよし)の墓があり、本尊は佐倉市指定文化財です。

    坂上の大聖院です。
    鎌倉時代初期創建の真言宗のお寺で、本尊は大日如来です。佐倉藩刀工細川忠義(ほそかわただよし)の墓があり、本尊は佐倉市指定文化財です。

  • くらやみ坂です。<br />宮小路町の武家屋敷通りの、旧河原家と旧但馬家の間を袋小路へ下りてゆく坂が「くらやみ坂」です。今でも左右の木立が生い茂り、語源の「くらやみ」の名を実感して味わえる坂道です。「古今佐倉真佐子」には「袋路の趣」として、坂下の有様が書き記されてあり、その木深い緑の中に侍屋敷や厩・中間長屋などがあったそうです。

    くらやみ坂です。
    宮小路町の武家屋敷通りの、旧河原家と旧但馬家の間を袋小路へ下りてゆく坂が「くらやみ坂」です。今でも左右の木立が生い茂り、語源の「くらやみ」の名を実感して味わえる坂道です。「古今佐倉真佐子」には「袋路の趣」として、坂下の有様が書き記されてあり、その木深い緑の中に侍屋敷や厩・中間長屋などがあったそうです。

  • 坂上の旧河原家住宅です。<br />江戸時代の武家屋敷のうち、現在は旧河原家、旧但馬家、旧武居家の3棟の屋敷が公開されており、華美を戒めた質素倹約な造りの中に、それぞれの石高に応じた違いが見られます。庭の様相や屋敷の裏に作られた畑からも、当時の武士の生活が隙間見られます。

    坂上の旧河原家住宅です。
    江戸時代の武家屋敷のうち、現在は旧河原家、旧但馬家、旧武居家の3棟の屋敷が公開されており、華美を戒めた質素倹約な造りの中に、それぞれの石高に応じた違いが見られます。庭の様相や屋敷の裏に作られた畑からも、当時の武士の生活が隙間見られます。

  • うるし坂です。<br />麻賀多神社前の大通りを南方向に進み、左折してガードをくぐる緩やかな坂道が「うるし坂」です。かってこの坂の周辺で漆が栽培されていたので、この名が付いたようです。ガード下をくぐつて直ぐ直角に曲がる道路の左隅に、当時の道路の標識と思われるコンクリート製の台石の跡が残されています。

    うるし坂です。
    麻賀多神社前の大通りを南方向に進み、左折してガードをくぐる緩やかな坂道が「うるし坂」です。かってこの坂の周辺で漆が栽培されていたので、この名が付いたようです。ガード下をくぐつて直ぐ直角に曲がる道路の左隅に、当時の道路の標識と思われるコンクリート製の台石の跡が残されています。

  • 権現坂との交差点です。<br />上の権現坂には、現在の成田街道である国道296号線が通っています。

    権現坂との交差点です。
    上の権現坂には、現在の成田街道である国道296号線が通っています。

  • やかん坂です。<br />薬師坂を上り切って右折すると、生垣の間を細い道が続きその突き当りに、竹林の中へ滑り落ちるような坂らしい跡が見られます。日中でも夜間のように暗い坂だったとか、お百姓が誤って薬瓶を落としたら、さかをころころ転がっていったから・・・など名前の由来は色々ですが、定かではなさそうです。坂下からは、桜井ホンダと民家の間を入っていくとすぐ「やかん坂」です。現在は階段が整備されています。

    やかん坂です。
    薬師坂を上り切って右折すると、生垣の間を細い道が続きその突き当りに、竹林の中へ滑り落ちるような坂らしい跡が見られます。日中でも夜間のように暗い坂だったとか、お百姓が誤って薬瓶を落としたら、さかをころころ転がっていったから・・・など名前の由来は色々ですが、定かではなさそうです。坂下からは、桜井ホンダと民家の間を入っていくとすぐ「やかん坂」です。現在は階段が整備されています。

  • 桜井ホンダと民家の間を入り進むとやかん坂です。

    桜井ホンダと民家の間を入り進むとやかん坂です。

  • 薬師坂です。<br />JR佐倉駅北口を出て、花水木と裸婦像の彫刻通りを真っ直ぐ進むと、宮小路町に通じる急な坂道に行き当たります。この坂が「薬師坂」です。坂の上に薬師堂があったのでこの名が付いたのでしょうか、この坂も、現在のように舗装される以前は、道幅も狭く、赤土で雨が降ったり冬凍ったりすると滑って危ない坂道で、「佐倉名物すべる坂」といわれたそうです。坂下に地蔵堂があります。

    薬師坂です。
    JR佐倉駅北口を出て、花水木と裸婦像の彫刻通りを真っ直ぐ進むと、宮小路町に通じる急な坂道に行き当たります。この坂が「薬師坂」です。坂の上に薬師堂があったのでこの名が付いたのでしょうか、この坂も、現在のように舗装される以前は、道幅も狭く、赤土で雨が降ったり冬凍ったりすると滑って危ない坂道で、「佐倉名物すべる坂」といわれたそうです。坂下に地蔵堂があります。

  • 坂下の薬師坂の案内図です。

    坂下の薬師坂の案内図です。

  • 坂下の地蔵堂(子育地蔵尊)です。<br />

    坂下の地蔵堂(子育地蔵尊)です。

  • 猿が脇の坂です。<br />昔から地元では「猿が坂」と言って親しまれ、根郷・鏑木方面の人たちは「上ン街行って来るわ」(新町商店街のこと)と言っては、この坂を行き来して多いに賑わった坂道でした。現在でもJR佐倉駅から新町あるいは京成佐倉駅まで、徒歩で行く場合の人気コースです。坂名は、付近に猿家というものが住んでいたことに由来します。

    猿が脇の坂です。
    昔から地元では「猿が坂」と言って親しまれ、根郷・鏑木方面の人たちは「上ン街行って来るわ」(新町商店街のこと)と言っては、この坂を行き来して多いに賑わった坂道でした。現在でもJR佐倉駅から新町あるいは京成佐倉駅まで、徒歩で行く場合の人気コースです。坂名は、付近に猿家というものが住んでいたことに由来します。

  • 坂上の猿が脇の坂の案内図です。

    坂上の猿が脇の坂の案内図です。

  • 玉家の坂です。<br />佐倉市立図書館の南側に料亭「玉家」があり、その脇の坂道です。料亭「玉家」の脇の坂道であるので、この名が付けられたといわれています。

    玉家の坂です。
    佐倉市立図書館の南側に料亭「玉家」があり、その脇の坂道です。料亭「玉家」の脇の坂道であるので、この名が付けられたといわれています。

  • 坂上の料亭「玉家」です。<br />創業130年の割烹、料亭です。懐石料理やうなぎ料理、天ぷら、揚げ物、海鮮料理などが頂けます。

    坂上の料亭「玉家」です。
    創業130年の割烹、料亭です。懐石料理やうなぎ料理、天ぷら、揚げ物、海鮮料理などが頂けます。

  • 番神道です。<br />妙隆寺の南側を東西に走る、緩やかな坂道です。妙隆寺南側から鏑木町に至る坂道で、昔、妙隆寺に番神堂があったので、この名が付けられたといわれています。

    番神道です。
    妙隆寺の南側を東西に走る、緩やかな坂道です。妙隆寺南側から鏑木町に至る坂道で、昔、妙隆寺に番神堂があったので、この名が付けられたといわれています。

  • 坂上の妙隆寺です。<br />1471年創建の日蓮宗のお寺で、本尊は釈迦如来です。佐倉藩鉄砲刀剣鍛治工の国友忠恕(くにともちゅうじょ)の墓があります。

    坂上の妙隆寺です。
    1471年創建の日蓮宗のお寺で、本尊は釈迦如来です。佐倉藩鉄砲刀剣鍛治工の国友忠恕(くにともちゅうじょ)の墓があります。

  • 八軒町の坂です。<br />裏新町の「玉家の坂」の坂下から東に向かい、坂上で、クランク状に曲がった成田街道(成田道)に出ます。肴町から袋町へ至る坂道で、袋町を昔は八軒町といったことから、この名が付けられたといわれています。

    八軒町の坂です。
    裏新町の「玉家の坂」の坂下から東に向かい、坂上で、クランク状に曲がった成田街道(成田道)に出ます。肴町から袋町へ至る坂道で、袋町を昔は八軒町といったことから、この名が付けられたといわれています。

  • 坂上の成田街道(成田道)です。<br />新町通りが終わり、蘭学通りが始まる地点に出ます。

    坂上の成田街道(成田道)です。
    新町通りが終わり、蘭学通りが始まる地点に出ます。

  • 野道の坂です。<br />野狐台町から佐倉市中央公民館に至る坂道です。淡路様の脇から中央公民館へ下る急坂は、50cmほどの幅で舗装が無く、野草が顔に触れる危ない小道でした、中央公民館ができてから、高齢者や短大生の熱意で、現在の坂道に改良されました。

    野道の坂です。
    野狐台町から佐倉市中央公民館に至る坂道です。淡路様の脇から中央公民館へ下る急坂は、50cmほどの幅で舗装が無く、野草が顔に触れる危ない小道でした、中央公民館ができてから、高齢者や短大生の熱意で、現在の坂道に改良されました。

  • 坂下の佐倉市中央公民館です。<br />400名収容の大ホールや研修室(3室)、調理室、30畳の和室、会議室、アトリエ、工芸室、プレイルーム、学習室(3室)があります。

    坂下の佐倉市中央公民館です。
    400名収容の大ホールや研修室(3室)、調理室、30畳の和室、会議室、アトリエ、工芸室、プレイルーム、学習室(3室)があります。

  • 下長屋の坂です。<br />勝寿寺と千葉地方検察庁の間を、西に下る坂道です。坂下に長屋があったことから、この名が付けられたといわれています。

    下長屋の坂です。
    勝寿寺と千葉地方検察庁の間を、西に下る坂道です。坂下に長屋があったことから、この名が付けられたといわれています。

  • 坂上の勝寿寺(しょうじゅじ)です。<br />曹洞宗のお寺で、本尊は弥勒菩薩です。日露戦争当時には、捕虜収容所が置かれていたといいます。

    坂上の勝寿寺(しょうじゅじ)です。
    曹洞宗のお寺で、本尊は弥勒菩薩です。日露戦争当時には、捕虜収容所が置かれていたといいます。

  • 八幡様の坂です。<br />蘭学通りから鏑木児童公園に至る、緩やかな坂道です。八幡神社の横を通る坂道であることから、この名が付けられたといわれてます。

    八幡様の坂です。
    蘭学通りから鏑木児童公園に至る、緩やかな坂道です。八幡神社の横を通る坂道であることから、この名が付けられたといわれてます。

  • 坂中腹の八幡神社です。<br />弥勒町の氏神様です。創建は、社殿前に現存する手洗は文政二年、常夜灯は文政八年に奉納されている点から、百六十年以前であると考えられます。社殿は、明治29年の火災のあと、再建されたものです。

    坂中腹の八幡神社です。
    弥勒町の氏神様です。創建は、社殿前に現存する手洗は文政二年、常夜灯は文政八年に奉納されている点から、百六十年以前であると考えられます。社殿は、明治29年の火災のあと、再建されたものです。

  • へび坂です。<br />坂上に「ゆうゆうの里」があり、そこから「旧堀田邸の庭園」の縁を廻り込むように下る坂道です。坂の両側に樹木が茂り、昼でも暗い、クネクネと曲がるスロープ状の坂道です。

    へび坂です。
    坂上に「ゆうゆうの里」があり、そこから「旧堀田邸の庭園」の縁を廻り込むように下る坂道です。坂の両側に樹木が茂り、昼でも暗い、クネクネと曲がるスロープ状の坂道です。

  • 坂上の旧堀田邸です。<br />旧堀田邸は、佐倉藩の最後の藩主である堀田正倫の邸宅で、明治23年(1890)に建築されています。明治44年(1911)には湯殿が増築され、現在は、主屋(玄関棟・座敷棟・居住棟・書斎棟・台所棟・湯殿)や門番所、土蔵などの建物と庭園が残されています。現存する明治時代の旧大名家の屋敷として貴重な建造物です。国の指定重要文化財です。

    坂上の旧堀田邸です。
    旧堀田邸は、佐倉藩の最後の藩主である堀田正倫の邸宅で、明治23年(1890)に建築されています。明治44年(1911)には湯殿が増築され、現在は、主屋(玄関棟・座敷棟・居住棟・書斎棟・台所棟・湯殿)や門番所、土蔵などの建物と庭園が残されています。現存する明治時代の旧大名家の屋敷として貴重な建造物です。国の指定重要文化財です。

  • 坂下の「鏑木特別緑地保全地区」の看板です。<br />当緑地は、明治から昭和初期にかけての旧佐倉藩主の居を取囲む傾斜林であり、すぐれた景観を有していることから、都市住民の良好な生活環境を確保することを目的に、佐倉市の特別緑地保全地区に指定されています。

    坂下の「鏑木特別緑地保全地区」の看板です。
    当緑地は、明治から昭和初期にかけての旧佐倉藩主の居を取囲む傾斜林であり、すぐれた景観を有していることから、都市住民の良好な生活環境を確保することを目的に、佐倉市の特別緑地保全地区に指定されています。

  • 緑の坂です。<br />坂上の最上町から栄町へ下る階段状の坂道で、「宮下歯医者の坂」と並行して走っています。坂上を新町通りに向かうと、左手に佐倉小学校があり、その先は寺町で甚大寺、宗園寺、嶺南寺などがあり、新町通りに出ます。

    緑の坂です。
    坂上の最上町から栄町へ下る階段状の坂道で、「宮下歯医者の坂」と並行して走っています。坂上を新町通りに向かうと、左手に佐倉小学校があり、その先は寺町で甚大寺、宗園寺、嶺南寺などがあり、新町通りに出ます。

  • 坂上の甚大寺です。<br />1615年創建の天台宗のお寺で、本尊は十一面観音菩薩です。佐倉藩主堀田家の菩提寺で、千葉県指定文化財です。

    坂上の甚大寺です。
    1615年創建の天台宗のお寺で、本尊は十一面観音菩薩です。佐倉藩主堀田家の菩提寺で、千葉県指定文化財です。

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