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<2006年12月14日(木)><br /> この日のメモです。モーニングコール7時、出発8時30分でした。昨晩ホテルへ戻ったのは22時頃、それから麦酒を飲んで部屋へ戻りましたので、十分に睡眠が取れました。モーニングコールの前に仕度を済ませて、早めに食堂へ向かいました。プラハでも2連泊ですから、朝の荷物出しの慌しさがないのが、有難いことです。<br /> いつもの旅行ですと、リュック一つの軽装ですが、ヨーロッパ内での保安検査の厳しさを考えて、今回はスーツケース持参としました。外出の時だけ、小さなリュックに切り替えです。朝食の後も、時間がありましたので、ホテル界隈を散歩してきました。<br /><br /><プラハ城へ、朝のラッシュ><br /> 予定通り8時30分イホテルを出発しました。向かった先は、距離では1キロほどのプラハ城です。昨晩、プラハ城の夜景を見ようとも考えましたが、市街地の暗さに、歩くのを諦めました。<br /> 朝の時間は、プラハでも交通ラッシュがありました。しかし、クラクションが鳴り響くような、殺気立ったものではありません。こちらでは、昼間でもずっとヘッドランプを点けていました。<br /> 渋滞はあったものの、1キロほどの近距離です。程なくプラハ城へ到着しました。開門は9時からだったらしく、ほんの少しの時間でしたが、城門前で待つことになりました。壁には蔦が生い茂り、展示会の大きなポスターが貼ってありました。<br /> 空に目を遣りますと、白い飛行機雲が立ち上がっていました。昨日降り立ったプラハ空港を飛立った飛行機のもののようでした。正式名称は、ルズィニエ国際空港と呼ばれています。日本の秋の空を思わせる澄み方でした。気流が安定しているのか、その飛行機雲は、細いまま、中々消え去ることはありませんでした。<br /><br /><プラハ城><br /> 他にも開門を待つ団体客がいましたが、混み合うほどではありませんでした。石畳の広い通路を通って中庭へ出ました。通りの脇には石造りの家が両側に並び、一定間隔で街路灯が並んでいました。昔は、ランプだったでしょうが、今は電球に代わっていました。中庭で、簡単な説明をお聞きした後、暫く自由時間となりました。<br /> その自由時間を利用して、中庭に面した建物の写真を撮って回りました。プラハ城は王宮と寺院が複合した建物群です。中庭に面した一番高い塔が、聖イジー教会でした。お城の中の寺院だけあって、実に堂々とした造りです。百塔の街と呼ばれるプラハの代表的な尖塔でした。<br /> ここで、プラハ城のことについて、インターネット情報などを参照しながら簡単に説明しておきます。プラハの街の歴史は、6世紀後半にスラヴ民族によりヴルタヴァ(モルダウ)川河畔に集落が形成されたことに始まります。973年にキリスト教の司教座が置かれた後、ユダヤ人の入植が始まりました。しかし、その後の幾度かの戦火で、プラハの街は荒廃してしまいました。<br /> プラハの街が再び盛んになったのは、1346年にボヘミア王、カレル1世が神聖ローマ帝国の皇帝に選ばれ、カレル4世(ドイツ語名カール4世)となり、神聖ローマ帝国の首都が、プラハに移されたことによります。<br /> この時、プラハ城の拡張や、中欧初の大学、カレル大学の創立、カレル橋の建設とヴルタヴァ川東岸市街地の整備などの都市開発が行われ、ローマやコンスタンティノープルと並ぶ、ヨーロッパ最大の都市にまで急速に発展し、「黄金のプラハ」と形容される程に栄えました。<br /> プラハ城のことに戻ります。最初の建築物は、870年の聖母マリア教会でした。 聖イジーと聖ヴィートのバシリカ(長堂式建築)は、10世紀の前半に建設されました。ボヘミアで最初の修道院は、城の中、聖ジョージ教会の隣に建設されています。ロマネスク様式の宮殿がここに建てられたのは、12世紀のことです。<br /> 14世紀には、ボヘミアの黄金時代を築いた神聖ローマ皇帝カレル4世の時代に、王宮がゴシック様式で城砦として再建されました。聖ヴィートのロトンダ(円形建築)とバシリカの代わりに、広大なゴシック教会が建設されましたが、完成までには、ほぼ6世紀かかっています。ギネスブックによりますと、世界で一番古く、一番大きい城とされます。長さは約570m、平均の幅は約130mあります。現在は、チェコ共和国の大統領府として使用されています。中庭で衛兵の姿も見る事ができました。<br /> 大統領府以外には、城内の大部分は観光客に開放されています。現在、国立美術館ボヘミア・バロック部門、国立美術館ヨーロッパ絵画・中世部門、チェコの歴史について展示する国立歴史博物館、おもちゃ博物館、ルドルフ2世の収蔵品を基にしたプラハ城絵画美術館等があります。中庭での撮影の後、ゆっくりと時間をかけて、いくつかの建物内の見学ができました。<br /><br /><聖ヴィート教会><br /> 現在見られるゴチック様式の大聖堂が建てられるまでの経緯を、インターネット情報を参照しながら、簡単に記しておきます。大聖堂の正式名称は「聖ヴィート、聖ヴァーツラフ、聖ヴォイテフ大聖堂」です。プラハ城の中にあって、多くのボヘミア王の墓を守っています。この大聖堂は、プラハ大司教の主座であり、チェコで最も大きくて重要な教会とされます。<br /> 現在ある場所に大聖堂が最初に建てられたのは、925年のことです。ボヘミア公のヴァーツラフ1世によって初期ロマネスク様式のロトンダ(円形建築)が建設されました。 聖ヴィートが守護聖人として選ばれたのは、ヴァーツラフがヘンリー1世から聖遺物、すなわち「聖ヴィートの腕」を与えられたからです。<br /> 1060年にはプラハに司教区が置かれました。小さなロトンダでは多くの信者に対応しきれなくなり、スピチフニェフ2世は、大規模な教会の建築に乗り出しました。典型的ロマネスク様式の大きなバシリカが、同じ場所に建設されました。<br /> そして、現在のゴシック様式の大聖堂は、1344年に完成しました。これよりプラハ司教区は大司教区に上げられました。その後援者には、大聖堂の首席司祭をリーダーとする参事会、パルドゥビツェのアルノスト大司教、とりわけボヘミア王で神聖ローマ帝国皇帝にもなったカレル1世が挙げられます。彼は新しい大聖堂を、即位式を行う教会、一族の地下納骨堂、王国で最も貴重な遺物の保管庫、そして守護聖人ヴァーツラフの最後の休息地であり巡礼地となるよう取り計らいました。<br /> 15世紀後半のフス戦争で、建設は中断され、大聖堂の内装はフス派の聖像破壊運動によって、かなり被害を受けました。さらに、1541年の大火が大聖堂にひどい損壊を与えました。<br /> 修復と建築の再開は、1844年プラハで開かれたドイツ人建築家の集会に始まります。同年に、「プラハの聖ヴィート大聖堂を完成させる連合」が結成され、著名な建築家達により、着実に工事が進められました。<br /> 現在見ることができる内装やステンドグラスには、目を奪われました。20世紀に入りますと、チェコの有名画家アルフォンス・ミュシャが、北部の窓を新しく装飾しました。 バラ窓は1925年から1927年にかけて、フランティセク・キセラによってデザインされました。この入り口上部のバラ窓(写真右)は、聖書の創世記のシーンを表しています。<br /> 幾多の困難を乗り越えて、聖ヴァーツラフの没後1000年に当たる1929年に聖ヴィート大聖堂は遂に完成しました。完成までには、既に紹介しましたように、約600年が費やされました。<br /><br /><黄金小路><br /> 黄金小路は有料です。しかし、ここを通らなければカレル橋方面へは、行けないようですから、仕方ありません。ただし、小銭の範囲でしょう。今回は、ツアー代金に含まれていました。<br /> その黄金小路は、16世紀の小さな家の集合体です。もとは衛兵の住宅として建てられ、その後は最下層の人々の住居として使われたようです。「黄金小路」の名称は、錬金術師の仕事場であったとする伝承があります。しかし、錬金術師の実際の仕事場は別の場所だったようですから、余り確かな話ではありません。<br /> ところで、この黄金小路では、「変身」の小説で有名なカフカも、ここの一軒を借りて小説を書いたそうです。これは確かなことで、それに関する展示もあります。<br /> 『ある朝、グレゴール・ザムザが不安な夢からふと覚めてみると、ベッドの中で自分の姿が一匹の、とてつもなく大きな毒虫に変わってしまっているのに気がついた』とは、『変身』の重要な一場面です。カフカの創造力を持ってすれば、確かにこの狭い家なら、朝起きて巨大な毒虫になっていても不思議はない感じがします。<br /> ところで、1階には、お洒落な土産品店が軒先を並べ、小物の買い物にはお勧めのスポットです。2階には中世の甲冑、刀剣類の展示品が、ぎっしりと並んでいます。<br /><br /><カレル橋><br /> プラハの旧市街全体が、世界文化遺産に指定されていますが、その中でも重要な建築物の一つがカレル橋です。1357年、カレル1世が、若干27歳の天才建築家ペトル・パルレ−シュに命じて、60年の歳月をかけて完成させました。<br /> カレル橋は、プラハ城の見学の後、黄金小路を通って南側に下り、歩いてやって来ました。大した距離ではありませんでした。カレル橋の上からは、フラッチャニの岡の上のプラハ城を見渡す事ができました。<br /> カレル橋は、ヨーロッパに現存する最古の石橋です。橋が完成したのは、1400年のことです。その後、1841年までプラハ旧市街と、その周囲をつなぐ唯一の橋でした。また、西欧と東欧の交易ルートとして、プラハが重要な地位を占めるようになりました。 最初は単に石橋、プラハ橋と呼ばれていましたが、現在のようにカレル橋と呼ばれるようになったのは、1870年のことです。<br />橋の長さは516メートルで幅は10メートルあります。また、16連のアーチから構成されています。また橋を守るため、3つの塔が建てられています。旧市街側の塔は、ゴシック様式の名建築として有名です。その橋の袂の傍らにカレル1世のブロンズ像がありました。<br /> 橋の欄干には15体ずつ、合計30体の彫刻が並んでいます。その多くはバロック様式です。全てが聖人像です。カトリックの聖人ヤン・ネポムツキー像の基部にあるネポムツキーのレリーフに触れると幸運が訪れると言われ、多くの人に触られたため、つるつるになっています。国の東西を問わず、同じような発想、風習が存在するようです。<br /> ところで、インターネット情報で目にしたことですが、1620年11月8日、ビラ・ホラ(白山)で神聖ローマ帝国皇帝フェルディナント2世軍と戦った新教徒のボヘミア軍は大敗北を喫し、首都プラハはハプスブルク帝国軍に占領されてしまいました。26人のプロテスタント指導者が、旧市街広場で処刑され、その内の12名の首が、10年間に亘ってカレル橋の旧市街塔に晒されたと言われます。<br /> 中でも、医学者でカレル大学の総長イェセンスキーは、生きたまま切り落とされた「舌」が、処刑後の首の横に置かれたとされます。1631年11月20日、プロテスタントの軍隊がプラハを奪還した後に、27人の葬儀が行われ、ティーン教会に埋葬されました。宗教戦争の恐ろしさは、私には中々理解できない部分もあります。<br /><br /><昼食、プラハ市内見学><br /> カレル橋の見学の後、昼食の時間となりました。メニューは、チキンのローズマリー・ソースです。水代わりに、白のグラスワインを注文しました。そのお店は、旧市街の市庁舎前を通って、さらに東方面に歩いた場所でした。残念ながら、写真は撮り忘れました。<br /> 昼食のお店に向かう途中にあった旧市街広場は、歴史的建築物に囲まれた、世界遺産に指定された中心部と言うべき、一角でした。とりわけ、からくり時計の旧市庁舎、2、3階がプラハ国立博物館になっているキンスキー宮殿、その横にある石の鐘の家、80mの尖塔を持つティーン教会など目白押しです。<br /> 広場の中央には、ローマ教会の堕落を批判して、火あぶりの刑にあったヤン・フスのブロンズ像がありました。おりしもクリスマスを控えていましたので、市が立っていました。夜になれば、灯りが点り、賑やかになりそうな雰囲気でした。市は既に開いていましたから、昼間でも、結構人出がありました。<br /><br /><プラハ郊外、メルニック城へ><br /> 午後の見学地はプラハの北方、モルダウ川の上流にあるメルニック城でした。カレル4世がこの街を庇護したことから、皇帝の町と知られるようになりました。<br /> カレル4世の最後の后は、このお城に住まい、ゴチック様式の礼拝堂を所有していました。このお城には、14世紀から続いていると言うワインセラーがあるそうです。有料ですが、テスティングが出来るようです。残念ながら、今回はテスティング出来ませんでした。ワインと言えば、フランス、イタリア、スペインの方が先に浮かびますが、オーストリアワインも中々のようです。<br /> メルニック城は、現在は個人所有になっているようです。現地ガイドさんの説明ですと、ホールの貸し出し等も行っているようです。外観からは、少し地味なお城ですが、室内は手入れが行き届き、什器類も充実していました。<br /> 紙数の都合で、多くの写真を掲載することは出来ませんでしたが、ロココ風のテーブルセット等は見応えがありました。また、直ぐにでも大きなパーティが開けるような、食器類の配置等の演出も見事です。壁には歴代当主の肖像画が飾られ、荘厳な雰囲気もありました。全体としては、当時の貴族生活が垣間見られる古城見学でした。<br /> このメルニック城のもう一つの見所が、お城の一角から眺めるモルダウ川とエルベ川の合流点の景色です。お城の直ぐ下に、その光景を眺めることが出来ます。案内標識にもエルベ川とヴルタヴァ(モルダウ)川が記してありました。<br /> この日は風もない穏やかな日でしたから、鏡のようなモルダウ川に辺りの景色が逆さに映り込んでいました。<br /><br /><旧市街広場のクリスマス市><br /> メルニック城の見学を終えて、プラハ市内に戻った頃には、灯りが点る時間となっていました。昼間、見学をした旧市庁舎付近のガラス工芸品店の前に戻ってきました。ここで解散となり、6時半に再集合となりました。その後で、黒麦酒の夕食の予定となっていました。<br /> 解散の後、直ぐに旧市街広場へ向かいました。既にクリスマスの市の灯りで溢れていました。昼間は余り気に留めなかったクリスマスツリーは、青い発光ダイオードで、一際目立つ存在になっていました。<br /> ところで、こちらでのクリスマスは、日本とは違うようです。12月24日がイブではなく、年が明けた1月7日が、クリスマスイブ、復活祭とお聞きしました。お祭には、今も旧暦を使っていますから、年によってイブの日が変わっているようです。<br /> 広場を取り囲む歴史的な建造物もライトアップされ、昼間とは違う光景となっていました。最初に見学したのは、旧市庁舎のからくり時計です。定時近くなっていましたから、大変な人だかりでした。鐘が鳴る中で、12使徒の行進が始まりました。<br /> 80mの尖塔を持つティーン教会は、白色系統のライトアップでした。クリスマス市の露店の赤色系統のライトアップとの対比も見応えがありました。昼間は白い外観だった聖ミクラーシュ教会は、オレンジ系統のライトアップとなっていました。<br /> この後、市街散策をしながら、この広場以外でのクリスマス市などもカメラに収めました。約束の集合の時間の30分前には、旧市街広場まで戻ってきましたが、そこからのガラス工芸店までの道が分からなくなってしまいました。広場から放射状に道が伸びていて、記憶していた道が違っていたためでした。<br /><br /><ホテルから電話、生ビールの夕食><br /> いくつかの道を行きつ、戻りつしていましたら、あっという間に30分が経ってしまいました。その間何度も、お聞きしていた番号に、携帯で電話をかけました。しかし、途中で切れてしまいました。うっかりしていたのが、持参した携帯が使えなかったことです。広場の公衆電話も使いましたが、これも繋がりませんでした。国際電話の番号だったためです。<br /> それで、合流するのは諦めて、泊まったホテルから電話を掛けることにしました。タクシーは直ぐに見つかり、ドルが使えるかどうか確認しました。タクシーは、少し遠回りをしたようです。20ドルを請求されました。<br />ホテルの1階には国際電話がありませんでしたから、部屋に戻って、やっとガイドさんへの連絡が付きました。合流できなかった事をお詫びして、ホテルのバーで生ビールを飲みました。冷汗でもビールは美味でした。<br /><br /><br />  プラハ城で<br /> 衛兵の列は無言で通過ぎ後姿の銃剣光る<br /><br />  聖ビート教会で<br /> 王宮の中に聳る教会に光を透す基督縁起<br /><br />  黄金小路で<br /> 中世の武器庫に似たり二階家の石の畳の黄金小路<br /><br />  カレル橋で<br /> 聖人はカレルの橋に整然とモルダウ川を船下り行く<br /><br />  メルニック城で<br /> 肖像画見下ろすロココの大広間晩餐仕度されし卓上<br /><br />  プラハのクリスマス市で<br /> 暖冬のプラハの街に雪は無く降誕祭の屋台居並ぶ

2006暮、オーストリア等・中欧旅行記(2/15):12月14日(1):プラハ城、聖イジー教会

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旅人のくまさん

旅人のくまさんさん

<2006年12月14日(木)>
 この日のメモです。モーニングコール7時、出発8時30分でした。昨晩ホテルへ戻ったのは22時頃、それから麦酒を飲んで部屋へ戻りましたので、十分に睡眠が取れました。モーニングコールの前に仕度を済ませて、早めに食堂へ向かいました。プラハでも2連泊ですから、朝の荷物出しの慌しさがないのが、有難いことです。
 いつもの旅行ですと、リュック一つの軽装ですが、ヨーロッパ内での保安検査の厳しさを考えて、今回はスーツケース持参としました。外出の時だけ、小さなリュックに切り替えです。朝食の後も、時間がありましたので、ホテル界隈を散歩してきました。

<プラハ城へ、朝のラッシュ>
 予定通り8時30分イホテルを出発しました。向かった先は、距離では1キロほどのプラハ城です。昨晩、プラハ城の夜景を見ようとも考えましたが、市街地の暗さに、歩くのを諦めました。
 朝の時間は、プラハでも交通ラッシュがありました。しかし、クラクションが鳴り響くような、殺気立ったものではありません。こちらでは、昼間でもずっとヘッドランプを点けていました。
 渋滞はあったものの、1キロほどの近距離です。程なくプラハ城へ到着しました。開門は9時からだったらしく、ほんの少しの時間でしたが、城門前で待つことになりました。壁には蔦が生い茂り、展示会の大きなポスターが貼ってありました。
 空に目を遣りますと、白い飛行機雲が立ち上がっていました。昨日降り立ったプラハ空港を飛立った飛行機のもののようでした。正式名称は、ルズィニエ国際空港と呼ばれています。日本の秋の空を思わせる澄み方でした。気流が安定しているのか、その飛行機雲は、細いまま、中々消え去ることはありませんでした。

<プラハ城>
 他にも開門を待つ団体客がいましたが、混み合うほどではありませんでした。石畳の広い通路を通って中庭へ出ました。通りの脇には石造りの家が両側に並び、一定間隔で街路灯が並んでいました。昔は、ランプだったでしょうが、今は電球に代わっていました。中庭で、簡単な説明をお聞きした後、暫く自由時間となりました。
 その自由時間を利用して、中庭に面した建物の写真を撮って回りました。プラハ城は王宮と寺院が複合した建物群です。中庭に面した一番高い塔が、聖イジー教会でした。お城の中の寺院だけあって、実に堂々とした造りです。百塔の街と呼ばれるプラハの代表的な尖塔でした。
 ここで、プラハ城のことについて、インターネット情報などを参照しながら簡単に説明しておきます。プラハの街の歴史は、6世紀後半にスラヴ民族によりヴルタヴァ(モルダウ)川河畔に集落が形成されたことに始まります。973年にキリスト教の司教座が置かれた後、ユダヤ人の入植が始まりました。しかし、その後の幾度かの戦火で、プラハの街は荒廃してしまいました。
 プラハの街が再び盛んになったのは、1346年にボヘミア王、カレル1世が神聖ローマ帝国の皇帝に選ばれ、カレル4世(ドイツ語名カール4世)となり、神聖ローマ帝国の首都が、プラハに移されたことによります。
 この時、プラハ城の拡張や、中欧初の大学、カレル大学の創立、カレル橋の建設とヴルタヴァ川東岸市街地の整備などの都市開発が行われ、ローマやコンスタンティノープルと並ぶ、ヨーロッパ最大の都市にまで急速に発展し、「黄金のプラハ」と形容される程に栄えました。
 プラハ城のことに戻ります。最初の建築物は、870年の聖母マリア教会でした。 聖イジーと聖ヴィートのバシリカ(長堂式建築)は、10世紀の前半に建設されました。ボヘミアで最初の修道院は、城の中、聖ジョージ教会の隣に建設されています。ロマネスク様式の宮殿がここに建てられたのは、12世紀のことです。
 14世紀には、ボヘミアの黄金時代を築いた神聖ローマ皇帝カレル4世の時代に、王宮がゴシック様式で城砦として再建されました。聖ヴィートのロトンダ(円形建築)とバシリカの代わりに、広大なゴシック教会が建設されましたが、完成までには、ほぼ6世紀かかっています。ギネスブックによりますと、世界で一番古く、一番大きい城とされます。長さは約570m、平均の幅は約130mあります。現在は、チェコ共和国の大統領府として使用されています。中庭で衛兵の姿も見る事ができました。
 大統領府以外には、城内の大部分は観光客に開放されています。現在、国立美術館ボヘミア・バロック部門、国立美術館ヨーロッパ絵画・中世部門、チェコの歴史について展示する国立歴史博物館、おもちゃ博物館、ルドルフ2世の収蔵品を基にしたプラハ城絵画美術館等があります。中庭での撮影の後、ゆっくりと時間をかけて、いくつかの建物内の見学ができました。

<聖ヴィート教会>
 現在見られるゴチック様式の大聖堂が建てられるまでの経緯を、インターネット情報を参照しながら、簡単に記しておきます。大聖堂の正式名称は「聖ヴィート、聖ヴァーツラフ、聖ヴォイテフ大聖堂」です。プラハ城の中にあって、多くのボヘミア王の墓を守っています。この大聖堂は、プラハ大司教の主座であり、チェコで最も大きくて重要な教会とされます。
 現在ある場所に大聖堂が最初に建てられたのは、925年のことです。ボヘミア公のヴァーツラフ1世によって初期ロマネスク様式のロトンダ(円形建築)が建設されました。 聖ヴィートが守護聖人として選ばれたのは、ヴァーツラフがヘンリー1世から聖遺物、すなわち「聖ヴィートの腕」を与えられたからです。
 1060年にはプラハに司教区が置かれました。小さなロトンダでは多くの信者に対応しきれなくなり、スピチフニェフ2世は、大規模な教会の建築に乗り出しました。典型的ロマネスク様式の大きなバシリカが、同じ場所に建設されました。
 そして、現在のゴシック様式の大聖堂は、1344年に完成しました。これよりプラハ司教区は大司教区に上げられました。その後援者には、大聖堂の首席司祭をリーダーとする参事会、パルドゥビツェのアルノスト大司教、とりわけボヘミア王で神聖ローマ帝国皇帝にもなったカレル1世が挙げられます。彼は新しい大聖堂を、即位式を行う教会、一族の地下納骨堂、王国で最も貴重な遺物の保管庫、そして守護聖人ヴァーツラフの最後の休息地であり巡礼地となるよう取り計らいました。
 15世紀後半のフス戦争で、建設は中断され、大聖堂の内装はフス派の聖像破壊運動によって、かなり被害を受けました。さらに、1541年の大火が大聖堂にひどい損壊を与えました。
 修復と建築の再開は、1844年プラハで開かれたドイツ人建築家の集会に始まります。同年に、「プラハの聖ヴィート大聖堂を完成させる連合」が結成され、著名な建築家達により、着実に工事が進められました。
 現在見ることができる内装やステンドグラスには、目を奪われました。20世紀に入りますと、チェコの有名画家アルフォンス・ミュシャが、北部の窓を新しく装飾しました。 バラ窓は1925年から1927年にかけて、フランティセク・キセラによってデザインされました。この入り口上部のバラ窓(写真右)は、聖書の創世記のシーンを表しています。
 幾多の困難を乗り越えて、聖ヴァーツラフの没後1000年に当たる1929年に聖ヴィート大聖堂は遂に完成しました。完成までには、既に紹介しましたように、約600年が費やされました。

<黄金小路>
 黄金小路は有料です。しかし、ここを通らなければカレル橋方面へは、行けないようですから、仕方ありません。ただし、小銭の範囲でしょう。今回は、ツアー代金に含まれていました。
 その黄金小路は、16世紀の小さな家の集合体です。もとは衛兵の住宅として建てられ、その後は最下層の人々の住居として使われたようです。「黄金小路」の名称は、錬金術師の仕事場であったとする伝承があります。しかし、錬金術師の実際の仕事場は別の場所だったようですから、余り確かな話ではありません。
 ところで、この黄金小路では、「変身」の小説で有名なカフカも、ここの一軒を借りて小説を書いたそうです。これは確かなことで、それに関する展示もあります。
 『ある朝、グレゴール・ザムザが不安な夢からふと覚めてみると、ベッドの中で自分の姿が一匹の、とてつもなく大きな毒虫に変わってしまっているのに気がついた』とは、『変身』の重要な一場面です。カフカの創造力を持ってすれば、確かにこの狭い家なら、朝起きて巨大な毒虫になっていても不思議はない感じがします。
 ところで、1階には、お洒落な土産品店が軒先を並べ、小物の買い物にはお勧めのスポットです。2階には中世の甲冑、刀剣類の展示品が、ぎっしりと並んでいます。

<カレル橋>
 プラハの旧市街全体が、世界文化遺産に指定されていますが、その中でも重要な建築物の一つがカレル橋です。1357年、カレル1世が、若干27歳の天才建築家ペトル・パルレ−シュに命じて、60年の歳月をかけて完成させました。
 カレル橋は、プラハ城の見学の後、黄金小路を通って南側に下り、歩いてやって来ました。大した距離ではありませんでした。カレル橋の上からは、フラッチャニの岡の上のプラハ城を見渡す事ができました。
 カレル橋は、ヨーロッパに現存する最古の石橋です。橋が完成したのは、1400年のことです。その後、1841年までプラハ旧市街と、その周囲をつなぐ唯一の橋でした。また、西欧と東欧の交易ルートとして、プラハが重要な地位を占めるようになりました。 最初は単に石橋、プラハ橋と呼ばれていましたが、現在のようにカレル橋と呼ばれるようになったのは、1870年のことです。
橋の長さは516メートルで幅は10メートルあります。また、16連のアーチから構成されています。また橋を守るため、3つの塔が建てられています。旧市街側の塔は、ゴシック様式の名建築として有名です。その橋の袂の傍らにカレル1世のブロンズ像がありました。
 橋の欄干には15体ずつ、合計30体の彫刻が並んでいます。その多くはバロック様式です。全てが聖人像です。カトリックの聖人ヤン・ネポムツキー像の基部にあるネポムツキーのレリーフに触れると幸運が訪れると言われ、多くの人に触られたため、つるつるになっています。国の東西を問わず、同じような発想、風習が存在するようです。
 ところで、インターネット情報で目にしたことですが、1620年11月8日、ビラ・ホラ(白山)で神聖ローマ帝国皇帝フェルディナント2世軍と戦った新教徒のボヘミア軍は大敗北を喫し、首都プラハはハプスブルク帝国軍に占領されてしまいました。26人のプロテスタント指導者が、旧市街広場で処刑され、その内の12名の首が、10年間に亘ってカレル橋の旧市街塔に晒されたと言われます。
 中でも、医学者でカレル大学の総長イェセンスキーは、生きたまま切り落とされた「舌」が、処刑後の首の横に置かれたとされます。1631年11月20日、プロテスタントの軍隊がプラハを奪還した後に、27人の葬儀が行われ、ティーン教会に埋葬されました。宗教戦争の恐ろしさは、私には中々理解できない部分もあります。

<昼食、プラハ市内見学>
 カレル橋の見学の後、昼食の時間となりました。メニューは、チキンのローズマリー・ソースです。水代わりに、白のグラスワインを注文しました。そのお店は、旧市街の市庁舎前を通って、さらに東方面に歩いた場所でした。残念ながら、写真は撮り忘れました。
 昼食のお店に向かう途中にあった旧市街広場は、歴史的建築物に囲まれた、世界遺産に指定された中心部と言うべき、一角でした。とりわけ、からくり時計の旧市庁舎、2、3階がプラハ国立博物館になっているキンスキー宮殿、その横にある石の鐘の家、80mの尖塔を持つティーン教会など目白押しです。
 広場の中央には、ローマ教会の堕落を批判して、火あぶりの刑にあったヤン・フスのブロンズ像がありました。おりしもクリスマスを控えていましたので、市が立っていました。夜になれば、灯りが点り、賑やかになりそうな雰囲気でした。市は既に開いていましたから、昼間でも、結構人出がありました。

<プラハ郊外、メルニック城へ>
 午後の見学地はプラハの北方、モルダウ川の上流にあるメルニック城でした。カレル4世がこの街を庇護したことから、皇帝の町と知られるようになりました。
 カレル4世の最後の后は、このお城に住まい、ゴチック様式の礼拝堂を所有していました。このお城には、14世紀から続いていると言うワインセラーがあるそうです。有料ですが、テスティングが出来るようです。残念ながら、今回はテスティング出来ませんでした。ワインと言えば、フランス、イタリア、スペインの方が先に浮かびますが、オーストリアワインも中々のようです。
 メルニック城は、現在は個人所有になっているようです。現地ガイドさんの説明ですと、ホールの貸し出し等も行っているようです。外観からは、少し地味なお城ですが、室内は手入れが行き届き、什器類も充実していました。
 紙数の都合で、多くの写真を掲載することは出来ませんでしたが、ロココ風のテーブルセット等は見応えがありました。また、直ぐにでも大きなパーティが開けるような、食器類の配置等の演出も見事です。壁には歴代当主の肖像画が飾られ、荘厳な雰囲気もありました。全体としては、当時の貴族生活が垣間見られる古城見学でした。
 このメルニック城のもう一つの見所が、お城の一角から眺めるモルダウ川とエルベ川の合流点の景色です。お城の直ぐ下に、その光景を眺めることが出来ます。案内標識にもエルベ川とヴルタヴァ(モルダウ)川が記してありました。
 この日は風もない穏やかな日でしたから、鏡のようなモルダウ川に辺りの景色が逆さに映り込んでいました。

<旧市街広場のクリスマス市>
 メルニック城の見学を終えて、プラハ市内に戻った頃には、灯りが点る時間となっていました。昼間、見学をした旧市庁舎付近のガラス工芸品店の前に戻ってきました。ここで解散となり、6時半に再集合となりました。その後で、黒麦酒の夕食の予定となっていました。
 解散の後、直ぐに旧市街広場へ向かいました。既にクリスマスの市の灯りで溢れていました。昼間は余り気に留めなかったクリスマスツリーは、青い発光ダイオードで、一際目立つ存在になっていました。
 ところで、こちらでのクリスマスは、日本とは違うようです。12月24日がイブではなく、年が明けた1月7日が、クリスマスイブ、復活祭とお聞きしました。お祭には、今も旧暦を使っていますから、年によってイブの日が変わっているようです。
 広場を取り囲む歴史的な建造物もライトアップされ、昼間とは違う光景となっていました。最初に見学したのは、旧市庁舎のからくり時計です。定時近くなっていましたから、大変な人だかりでした。鐘が鳴る中で、12使徒の行進が始まりました。
 80mの尖塔を持つティーン教会は、白色系統のライトアップでした。クリスマス市の露店の赤色系統のライトアップとの対比も見応えがありました。昼間は白い外観だった聖ミクラーシュ教会は、オレンジ系統のライトアップとなっていました。
 この後、市街散策をしながら、この広場以外でのクリスマス市などもカメラに収めました。約束の集合の時間の30分前には、旧市街広場まで戻ってきましたが、そこからのガラス工芸店までの道が分からなくなってしまいました。広場から放射状に道が伸びていて、記憶していた道が違っていたためでした。

<ホテルから電話、生ビールの夕食>
 いくつかの道を行きつ、戻りつしていましたら、あっという間に30分が経ってしまいました。その間何度も、お聞きしていた番号に、携帯で電話をかけました。しかし、途中で切れてしまいました。うっかりしていたのが、持参した携帯が使えなかったことです。広場の公衆電話も使いましたが、これも繋がりませんでした。国際電話の番号だったためです。
 それで、合流するのは諦めて、泊まったホテルから電話を掛けることにしました。タクシーは直ぐに見つかり、ドルが使えるかどうか確認しました。タクシーは、少し遠回りをしたようです。20ドルを請求されました。
ホテルの1階には国際電話がありませんでしたから、部屋に戻って、やっとガイドさんへの連絡が付きました。合流できなかった事をお詫びして、ホテルのバーで生ビールを飲みました。冷汗でもビールは美味でした。


  プラハ城で
 衛兵の列は無言で通過ぎ後姿の銃剣光る

  聖ビート教会で
 王宮の中に聳る教会に光を透す基督縁起

  黄金小路で
 中世の武器庫に似たり二階家の石の畳の黄金小路

  カレル橋で
 聖人はカレルの橋に整然とモルダウ川を船下り行く

  メルニック城で
 肖像画見下ろすロココの大広間晩餐仕度されし卓上

  プラハのクリスマス市で
 暖冬のプラハの街に雪は無く降誕祭の屋台居並ぶ

同行者
一人旅
交通手段
鉄道 観光バス
航空会社
ルフトハンザドイツ航空
旅行の手配内容
ツアー(添乗員同行あり)
  • 泊まった部屋からの撮影です。昨晩は10時過ぎに帰ってきましたので、十分に睡眠が取れました。こちらでの時差ぼけはありません。

    泊まった部屋からの撮影です。昨晩は10時過ぎに帰ってきましたので、十分に睡眠が取れました。こちらでの時差ぼけはありません。

  • 茜色の空が次第に青みを増してきました。縦に伸びている筋雲は、飛行機雲です。下部の行き着くところは、昨晩降り立ったプラハ空港のようです。

    茜色の空が次第に青みを増してきました。縦に伸びている筋雲は、飛行機雲です。下部の行き着くところは、昨晩降り立ったプラハ空港のようです。

  • 泊まったホテルの外観です。ディプロマットホテルです。食事を終った後の散歩の時に撮影しました。昨晩を含めて2泊の予定です。

    泊まったホテルの外観です。ディプロマットホテルです。食事を終った後の散歩の時に撮影しました。昨晩を含めて2泊の予定です。

  • ホテル界隈の光景です。私達の車ではありませんが、既にバスが横付けされていました。ホテル名のディプロマットは、外交官の意味です。

    ホテル界隈の光景です。私達の車ではありませんが、既にバスが横付けされていました。ホテル名のディプロマットは、外交官の意味です。

  • 最初の見学地はプラハ城です。泊まったホテルから1キロくらいの近距離でしたが、朝の交通ラッシュに遭いました。

    最初の見学地はプラハ城です。泊まったホテルから1キロくらいの近距離でしたが、朝の交通ラッシュに遭いました。

  • 車窓からのプラハの街路です。自由に枝を伸ばした樹が冬木立となっていました。今日の天候は上々のようです。

    車窓からのプラハの街路です。自由に枝を伸ばした樹が冬木立となっていました。今日の天候は上々のようです。

  • プラハの公共交通機関として、路面電車が活躍していました。幹線道路では、あちらこちらで路面電車を見かけました。

    プラハの公共交通機関として、路面電車が活躍していました。幹線道路では、あちらこちらで路面電車を見かけました。

  • プラハ城への到着です。蔦が這った壁に大きなポスターが掲示してありました。10月20日から開催中のイベントの案内のようです。

    プラハ城への到着です。蔦が這った壁に大きなポスターが掲示してありました。10月20日から開催中のイベントの案内のようです。

  • プラハ城のシルエットです。プラハの街は、尖塔が多くあることから、「百塔の街」とも呼ばれます。これらの尖塔もその1つでしょう。

    プラハ城のシルエットです。プラハの街は、尖塔が多くあることから、「百塔の街」とも呼ばれます。これらの尖塔もその1つでしょう。

  • 入場は、全て予約制のようです。細かい時間指示があるようです。朝一番の予約の方が開門を待っているところです。

    入場は、全て予約制のようです。細かい時間指示があるようです。朝一番の予約の方が開門を待っているところです。

  • お城のシルエットを下に下げて、飛行機雲が伸びる空の撮影です。この飛行機雲は、ホテルの部屋からも見えた、プラハ空港を飛立った飛行機のものでしょう。

    お城のシルエットを下に下げて、飛行機雲が伸びる空の撮影です。この飛行機雲は、ホテルの部屋からも見えた、プラハ空港を飛立った飛行機のものでしょう。

  • プラハ城に入場して、中庭に抜ける途中の建物です。両側に、一定間隔でランプがありました。今は電気に代わったようです。

    プラハ城に入場して、中庭に抜ける途中の建物です。両側に、一定間隔でランプがありました。今は電気に代わったようです。

  • ここまで奥へ進むと、逆光だけではなくなりました。緑青を吹いたような青色の尖塔が、細部まで見えるようになりました。

    ここまで奥へ進むと、逆光だけではなくなりました。緑青を吹いたような青色の尖塔が、細部まで見えるようになりました。

  • 中庭です。正面は噴水のような造りですが、水は出ていませんでした。噴水の場合でも、この時期では凍ってしまうようです。

    中庭です。正面は噴水のような造りですが、水は出ていませんでした。噴水の場合でも、この時期では凍ってしまうようです。

  • 聖ヴィート教会です。外から色彩は分かりませんが、巨大なステンドグラスが壁に使われていることが分かります。

    聖ヴィート教会です。外から色彩は分かりませんが、巨大なステンドグラスが壁に使われていることが分かります。

  • 中庭にあった飾り物です。元々庭の飾り物なのか、尖塔に飾られていたものかは、分かりませんでした。プラハ城はゴシック様式、聖ヴィート教会はルネサンスとバロック様式の影響を受けているとされます。

    中庭にあった飾り物です。元々庭の飾り物なのか、尖塔に飾られていたものかは、分かりませんでした。プラハ城はゴシック様式、聖ヴィート教会はルネサンスとバロック様式の影響を受けているとされます。

  • 中庭で、衛兵の行進を見ました。衛兵交代ではなく、見回りのようでした。銃剣の先は、本物の剣のように見えました。

    中庭で、衛兵の行進を見ました。衛兵交代ではなく、見回りのようでした。銃剣の先は、本物の剣のように見えました。

  • 空が晴れ上がり、絶好の観光日和となってきました。尖塔がその青空に映えます。緑青を吹いた飾り屋根の上には、黄金の飾りも見えます。

    空が晴れ上がり、絶好の観光日和となってきました。尖塔がその青空に映えます。緑青を吹いた飾り屋根の上には、黄金の飾りも見えます。

  • 外から見て、巨大なステンドグラスと想像していましたが、やはりその通りでした。キリストの生涯のような物語が描かれていました。

    外から見て、巨大なステンドグラスと想像していましたが、やはりその通りでした。キリストの生涯のような物語が描かれていました。

  • こちらが中央にあったステンドグラスです。色彩は少し抑えてありますが、堂々とした造りです。同心円を真ん中にした、石の造りが見事です。

    こちらが中央にあったステンドグラスです。色彩は少し抑えてありますが、堂々とした造りです。同心円を真ん中にした、石の造りが見事です。

  • ステンドグラスのアップを紹介します。光背が在りますから、描かれているのは聖人達のようです。聖書の一場面でしょう。

    ステンドグラスのアップを紹介します。光背が在りますから、描かれているのは聖人達のようです。聖書の一場面でしょう。

  • こちらは細かいモザイク文様が見事なステンドグラスのアップです。やはり、聖書の中の物語が描かれているようです。

    こちらは細かいモザイク文様が見事なステンドグラスのアップです。やはり、聖書の中の物語が描かれているようです。

  • ステンドグラスの紹介が続きます。物語は、いくつかに分けられて描かれているようです。中央部分は、鮮やかな赤色が使われています。

    ステンドグラスの紹介が続きます。物語は、いくつかに分けられて描かれているようです。中央部分は、鮮やかな赤色が使われています。

  • 「百塔の街」を象徴するような造りの教会です。細い塔は、中央の塔と、横に伸びた構造物で繋がっています。強度を上げるためでしょう。

    「百塔の街」を象徴するような造りの教会です。細い塔は、中央の塔と、横に伸びた構造物で繋がっています。強度を上げるためでしょう。

  • 聖イジー教会です。ボヘミヤ地方で最も美しいとされるロマネスク様式の建物です。外壁の赤と黄色の配色が特徴です。

    聖イジー教会です。ボヘミヤ地方で最も美しいとされるロマネスク様式の建物です。外壁の赤と黄色の配色が特徴です。

  • 聖イジー教会の屋根の部分のアップです。この教会の修道院は、ボヘミヤ地方で最も古く、現在は国立美術館の分院として使われています。

    聖イジー教会の屋根の部分のアップです。この教会の修道院は、ボヘミヤ地方で最も古く、現在は国立美術館の分院として使われています。

  • 中庭を囲む王宮の建物外観です。プラハ城はフラッチャニの丘に立つ、王家の居城と、いくつかの宗教施設の複合体からなっています。

    中庭を囲む王宮の建物外観です。プラハ城はフラッチャニの丘に立つ、王家の居城と、いくつかの宗教施設の複合体からなっています。

  • プラハ城は9世紀から王宮として使われてきましたが、増改築の度に、最初のロマネスク様式に、ゴシック、ルネッサンス様式が加わっていきました。

    プラハ城は9世紀から王宮として使われてきましたが、増改築の度に、最初のロマネスク様式に、ゴシック、ルネッサンス様式が加わっていきました。

  • 「黄金小路」と呼ばれる通りへの入口です。有料となっていました。16世紀に建てられた、門番や警備兵の長屋が発端です。

    「黄金小路」と呼ばれる通りへの入口です。有料となっていました。16世紀に建てられた、門番や警備兵の長屋が発端です。

  • 黄金小路の由来は、いつしか錬金術師が住み着いたことにあります。22番の部屋はフランツ・カフカが仕事場にしていたことで有名です。

    黄金小路の由来は、いつしか錬金術師が住み着いたことにあります。22番の部屋はフランツ・カフカが仕事場にしていたことで有名です。

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2006暮、中欧旅行記

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