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小石川後楽園

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小石川後楽園 クチコミ・アクセス・周辺情報

神楽坂・飯田橋 観光 満足度ランキング 1位

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水戸徳川家の江戸上屋敷内の庭園。 寛永6(1629)年初代藩主頼房が庭の造営に着手し、2代光圀に引き継がれた。 明の遺臣朱舜水を儒臣として登用し、中国趣味を取り入れた回遊式築山泉水庭園である。

ピックアップ クチコミ

  • 満足度の高いクチコミ

    海外からの観光客も多く訪れていました

    4.0

    春から秋にかけて梅や桜、藤、菖蒲、睡蓮、蓮、彼岸花、紅葉などが見られる花の庭園です。江戸時代に水戸徳川家の上屋敷だったとこ...  続きを読むろで、現在も大名庭園の面影が色濃く残っています。1年間利用できる都立9庭園共通パスポートを購入して、年に数回訪れています。12月初めに訪れた時は紅葉がとてもきれいに色づいていて、多くの人が紅葉狩りに訪れたり、アマチュアカメラマンが紅葉の写真を撮りに来たりしていました。中国系の団体をはじめ、海外からの観光客が多く訪れていたのも印象的でした。旧古河庭園や六義園など紅葉の名所を訪れましたが、色々なアングルから写真が撮れる紅葉の美しい庭園だと思います。  閉じる

クチコミ・評判 47ページ目

921~940件(全1177件中)

  • 名前からして京都風。

    • 3.5
    • 旅行時期:2016/04(約10年前)
    • 0

    小石川後楽園の入口左側にある幅の広い流れ。京都嵐山の大堰川も幅いっぱいの水の流れが気持ちいいですが、この小石川後楽園のそれ...  続きを読むも神田上水から引水して作って幅いっぱいの水。ただ、飛び石があるのが愛嬌、なのかなあ。ただ、現代ではあまり水はきれいではなく、訪問時は浚渫?の作業中でした。当時はさぞや清流がきれいだったことでしょう。  閉じる

    投稿日:2017/02/05

  • 片側は濁り水

    • 3.5
    • 旅行時期:2016/04(約10年前)
    • 0

    池のど真ん中を切り裂く堤防。それが西湖の堤。
    庭園において自然風でないこのような単なる堤防にすぎないと感じられる風景が当...  続きを読む時は斬新だったのでしょう。その後、各地の大名庭園に真似された、と案内板にあり、やはり当時も流行の最先端を取り入れる風潮があったのでしょう。それを考えながら見ると、ただの堤防も歴史を感じさせてくれて興味深いです。やはり人工の庭園は面白い見どころにあふれています。  閉じる

    投稿日:2017/02/05

  • 東京ドームとの取り合わせが楽しい

    • 4.0
    • 旅行時期:2016/04(約10年前)
    • 0

    東京には大名庭園がたくさんあり、この小石川後楽園もそのひとつ。
    場所は東京ドームのとなり、ととてもわかり安いです。
    ...  続きを読むだ入口は反対側なので、ドームの横から入場、というわけにはいきませんでした。
    入場してみるとドーム側に門はあるのですが、そちら側は開けてないようです。
    さて、入場して池まで来ると有名な枝垂れ桜の向こうに真っ白なお椀を伏せたような東京ドーム。
    やはりこの現代的な取り合わせがこの庭園の魅力でしょう。
    なお、池や川は都心だけあってちょっと濁り気味でよどんでいるので、残念。
    昔はもっときれいな水だったのでしょうね。
    1時間もあれば一周できます。
    都の運営なので安価なのもいいです。
    気楽な散歩にちょうどいいです。  閉じる

    投稿日:2017/02/05

  • 小石川後楽園の西湖の堤は、中国の杭州の蘇堤を参考して造られています。
    中国の杭州の蘇堤は南北に長く、広い堤とのことですが...  続きを読む、小石川後楽園の西湖の堤は、約100m前後で、とても短いです。
    しかしながら、南北に造られているところは同じだということです。
    小石川後楽園に造られた西湖の堤は、国内で評判となり、いろいろな大名庭園でも西湖の堤が造られるようになりました。
    その例としては、江戸の藩屋敷であった旧芝離宮庭園や、広島にある縮景園などにおいても、同様の西湖の堤を見ることができます。
    中国の杭州の西湖は、2011年6月に「世界文化景観遺産」に登録されたとのことです。
    中国の名勝を参考にして庭園を造ることは、朱子学の普及と合わせて、小石川後楽園ばかりでなく、いろいろな場所で具体化されています。
    江戸時代における支配的階層の傾向の具体例を小石川後楽園で見ることができ、認識を新たにすることができました。 
      閉じる

    投稿日:2016/09/22

  • 小石川後楽園の大堰川の名前は、京都の嵐山の下を流れる大堰川から名づけられました。
    小石川後楽園の西側の区域を流れる大堰川...  続きを読むは、後楽園の中の庭園で、川の景色を代表する場所です。
    大堰川の名は、京都嵐山の下を流れる大堰川にちなんでおり、川の水は、造園当時は、神田上水から水車で水を汲みあげて流していました。
    現在は、災害等の影響で、神田上水からの取水は、中止されたままです。
    大堰川の源流は、通天橋の北側となっていますが、石と岩のみとなっています。
    大堰川の周囲には、音羽の滝、沢渡、屏風岩、渡月橋そして西湖の堤等の名跡があり、小石川後楽園の中心的な区域となってます。
    三代将軍徳川家光公もしばしば、この地を訪れ、意見を申し述べていたようです。
    大堰川を訪れ、小石川後楽園を巡る各種の逸話に触れるたびに、歴史の重さ、面白さに気が付く新鮮さが大事だと感じています。
      閉じる

    投稿日:2016/09/22

  • 小石川後楽園の屏風岩は、渡月橋の傍にある屏風のような大きな岩です。
    小石川後楽園の西側の区域にある屏風岩は、大堰川の河原...  続きを読むの傍にあります。
    屏風岩の横に立てられている解説板には、屏風のようにまっすぐ屹立していることから屏風岩と呼ばれていると記されています。
    また、三代の将軍徳川家光公が、しばしば後楽園を訪れた際、この近くの松の枝に手拭いをかけ、河原の岩に腰を下ろしたとも書かれています。
    3枚の屏風のような大きな岩を中心にして、やや小さい岩がそれらを守るように置かれています。
    屏風岩の前には、大堰川の河原にかけて、大小いろいろな岩が河原を埋めています。
    屏風岩の南隣には、渡月橋があり、大堰川に架かる橋としてシダレザクラの方向への小路となっています。
    屏風岩を見ると、大きな頼り甲斐のある基盤としての幕府体制が思い起こされます。
    その象徴が、将軍の存在かもしれません。  閉じる

    投稿日:2016/09/22

  • 小石川後楽園の渡月橋は、京都嵐山の名前をとって名付けたそうです。
    しかしながら、形の上から見ると、京都嵐山の渡月橋とは、...  続きを読むあまり似ていません。
    多分、小石川後楽園が、全般として京都を参考にして造られているので、名前のみを活かしているのかもしれません。
    京都嵐山の渡月橋は、木造の橋で、かなり長い橋なのですが、小石川後楽園の渡月橋は、土橋で、長くはありません。
    同じ渡月橋という名前からすれば、六義園の渡月橋の方が似ています。六義園の渡月橋は、石の橋ですが。
    いずれにしましても、小石川後楽園の渡月橋は、大堰川に架かっている橋で、西湖の堤や屏風岩の近くにあり、独特の趣のある橋です。
    徳川の将軍がこよなく愛した小石川後楽園の名跡です。
    永い歴史と史記の故事とともに、訪れた人々に感動を与えているのは事実です。
    歴史の勉強の動機づけになっています。  閉じる

    投稿日:2016/09/22

  • 小石川後楽園の円月橋は、我が国で造られた初の石造アーチ橋です。
    徳川光圀が、あつくもてなした明の儒学者朱舜水が設計したと...  続きを読むいわれる石橋です。
    水面に映る円月橋の様子と合わせると、あたかも満月のように見えるので、この名がつけられました。
    現在は、渡ることができません。
    神田上水からの水を水車を使い、小石川後楽園内に取り込み、その流れの途中に、円月橋が架けられています。
    後楽園内を巡っていると、外国人観光客がとても美しいと高い評価の声が聞こえてきました。
    小石川後楽園自体は、外国人観光客の割合が多いのですが、その中でも、この円月橋に足を延ばす人たちが多いようです。
    外国人にとってしても、花鳥風月の趣を多少でも理解しているのかと感じ入ってしまいました。
    とてもすがすがしい感覚を持たせてくれた円月橋の姿でした。  閉じる

    投稿日:2016/09/22

  • 小石川後楽園の西側区域の小高い山の上に清水観音堂の跡があります。
    小石川後楽園の築造に当たっての構想は、史記の言い伝えや...  続きを読む京都の名跡、特に清水寺や東福寺を参考にすることのようでした。
    このため、小石川後楽園の最も高い場所に、清水観音堂が建てられ、庭園内の小路は、平地の入口を出発点として、清水観音堂を目指すよう設計されました。
    清水観音堂は、高さ20mほどの小高い山の上に建てられ、下を望むと高い崖のようになり、あたかも清水の舞台から飛び降りるような気持になるように仕組んであります。
    清水観音堂は、関東大震災で倒壊し現存せず、跡地のみとなっています。
    東福寺の反り橋を模した通天橋が、すぐ傍に架けられています。
    また京都の嵐山にある渡月橋も、近傍に造られています。
    今回、清水観音堂を訪れ、京都の名跡を参考にした造園の考え方を見ることができ、大変勉強になりました。   閉じる

    投稿日:2016/09/22

  • 小石川後楽園の通天橋は、京都の東山・東福寺の通天橋をイメージして造られたそうです。
    京都・東山東福寺の通天橋を手本として...  続きを読む、小石川後楽園の西側を流れる大堰川の渓流に、朱塗りの反り橋形式の虹橋を架ける設計としています。
    この反り橋の名前を、京都と同様に通天橋と名づけたようです。
    この通天橋を渡り、小石川後楽園の中で最も高い場所に建てられた清水観音堂に行きつくようになっています。 
    この通天橋付近の楓の紅葉は、色が濃く、趣が深いところとなっていて、11月頃中旬の紅葉時期が見どころです。
    今回、小石川後楽園を訪れることができ、史記の由緒と京都の庭園のイメージが合体していることを知り、大いなる歴史の再認識と各種の文化の融合を学ぶ機会となりました。
    勉強になりました。


      閉じる

    投稿日:2016/09/21

  • 小石川後楽園の一つ松の北側に、丸屋という茶屋があります。「マロヤ」と読みます。
    白糸の滝の西側で、得仁堂に続く小路の傍に...  続きを読むあります。
    茅葺屋根の小さな四阿で、中央に小さな赤い毛氈の座席が置かれています。
    丸屋の解説の標識板が建てられていますが、その表題には、「丸屋(マロヤ)」と仮名がふられています。
    (インターネットで調べましたが、やはり「マロヤ」と読むようです。)

    女性の菅笠のような形をした茅葺の屋根が特徴的です。
    解説文には、「昔の田舎のわびた茶屋のたたずまいを現している。戦災で焼失したが、昭和41年に復元した。」と記されています。
    解説のとおり、田舎のわびた茶屋のようです。
    因みに、後楽園内の建物で江戸時代から保存されいる建物は、得仁堂のみで、九八屋、丸屋等は、復元された建物です。
    保存と焼失・復元の現状について知ることでき、マロヤの読み方とともに新しい驚きです。勉強になりました。  閉じる

    投稿日:2016/09/15

  • 小石川後楽園の東側に、九八屋という江戸時代の酒亭を復元した建物があります。
    もともとの建物は、江戸時代のもののようでした...  続きを読むが、戦災により焼失しましたが、昭和34年に復元され、現在に至っています。
    後楽園自体が、特別史跡とともに特別名勝の指定文化財になっていますが、九八屋が、茅葺の木造の建物であるため、火災に対する注意が徹底され、注意書きの標識が立てられています。
    九八屋の解説文には、「江戸時代の風流な酒亭の様子を具した。この名の由来は、『酒を飲むには、昼は九分、夜は八分にすべし。』と酒飲みならず、万事控えるを良しとする。との教訓による。」と書かれています。
    このため、昼は九分、夜は八分の教訓から、九八屋とされているそうです。
    なかなか、気の利いた名前だと思います。
    九八屋の由縁を聞いて、なるほどと思われた人が多いのではないかと推察しています。
    後楽園に来て良かったと思う次第です。また来たいと思う九八屋訪問でした。  閉じる

    投稿日:2016/09/14

  • 小石川後楽園の唐門は、藩邸である書院地区の内庭と背後の庭園地区の後園を隔てる門でした。
    戦災により焼失し、唐門の跡のみが...  続きを読む残っています。
    内庭と後園とを区分していた唐門は、中国風の壮大な建造物だったようです。
    地表面の唐門跡と、唐門周辺の延段紋様の敷切石と玉石の小路の跡が、その当時の様子をとどめています。
    唐門跡の解説文には、「内庭から後園に入る門で、唐様の極彩色の彫刻をもった華麗な建築物で、朱舜水の書いた後楽園の扁額が架けられていたが、戦災で焼失した。」と記載されています。
    同じ解説の標識には、荘厳な唐様の彫刻が施されていた写真が掲げられています。
    白黒の写真で、極彩色の様子がわかりませんが、鮮やかなものだったと想像されます。
    唐門跡の様子を実際に見ることにより、後楽園の歴史の一端を知ることができました。
    歴史に対して新鮮な気持ちになることができた唐門跡でした。  閉じる

    投稿日:2016/09/14

  • 小石川後楽園の大泉水の東北の岸辺に、松原という平地部があります。
    後楽園の解説板には、「往時は、松鬱蒼として空も見えざり...  続きを読むしと伝えられる。光圀最も珍重せる所にして、将軍来園の際にも『これ天下の威光をもっても能わざる』と感賞せられたる由なり。」とあります。
    現在は、松が少なくなっていますが、当時は、松が鬱蒼と生えていて、空が見えなかったと言われいてます。
    この後楽園を造った水戸光圀が、最も愛した場所らしく、大泉水を望むことができ、周囲には、白糸の滝や九八屋等の名所が配されているため、趣のある場所です。
    現在も、松の木が多く生えています。
    小路が、白糸の滝や八卦堂、愛宕坂等へ通じている後楽園の中心的な場所となっています。
    このため、道案内の標示が多く見られます。
    水戸光圀の思いの一部に触れたような宏大な気持ちになれる松原の地でした。
      閉じる

    投稿日:2016/09/14

  • 水戸徳川家の小石川後楽園の東側に、日本式の代表的な庭園である内庭があります。
    水戸藩の藩邸は、藩邸としての本来の機能を果...  続きを読むたす書院の庭園であった内庭と、その背後に広がる広大な敷地の後園に分けられていました。
    それぞれの区画の境として唐門が置かれていました。
    つまり、内庭は水戸藩邸の藩主の住宅である書院の庭であって、江戸時代には、うちの御庭などと呼ばれていたそうです。
    なお、内庭は純日本式の庭園であり、江戸の大名屋敷がほとんど消滅した現在、書院の庭の旧態をよく残しているものとして貴重な庭園です。
    江戸藩邸における書院庭園の旧態を良く残す庭園として貴重な存在です。
    内庭には、日本式の庭園の典型として、池と築山、池に架かる石橋と周囲を巡る小路がそろっています。
    小石川後楽園を訪れることにより、日本の代表的な庭園の形態を残している内庭について詳しく理解することができました。感激です。  閉じる

    投稿日:2016/09/14

  • 小石川後楽園の延段は切石と玉石を巧みに組み合わせた中国風の石畳です。
    延段は小石川後楽園の大きな見どころのひとつとなって...  続きを読むいます。
    小石川後楽園の東の区画の中で、唐門跡から大泉水の間に延びている小路を木曽路と言うようですが、その延段は、大小の自然石と切石を巧みに組合せた中国風の美しく、そして素朴な石畳みの道となっています。
    延段は、切石と玉石を歩きよく形よく組み合わせた石畳みを言うようですが、必ずしも階段状でなくて、門からエントランスまでの平坦なアプローチでも、延段というそうです。
    延段という切り石と玉石の組み合わせによる紋様が、小石川後楽園の大きな注目点になっているとは、小石川後楽園を訪れるまで知りませんでした。
    新しい発見で、有意義な小石川後楽園の名所巡りでした。
      閉じる

    投稿日:2016/09/13

  • 小石川後楽園の大泉水の中央に、蓬莱島があります。
    大名庭園の代表的な島です。
    中国に古くからあった神仙思想に基づく島で...  続きを読む、東方のはるか彼方の海上に、蓬莱島、方丈島そして瀛州島と言われる島があったそうです。
    そこには、神仙人が住んでおり、今も幸福な生活を送っている理想郷だとの説く思想です。
    それらの島は亀や鶴の形をしていると信じられているため、島には亀頭石、両足石、両脚石、尾崎石を立てるべきものとされています。
    これら、神仙思想をよって築造されたのが、小石川後楽園の大泉水の蓬莱島です。
    蓬莱島の先端の大きな石は鏡石は、築造した庭師・徳大寺佐兵衛にちなみ「徳大寺石」と名づけられ、島の中には、弁財天を祀った祠があります。
    後楽園に来て初めて、神仙思想という考えを知ることができ、大きな驚きでした。蓬莱の意味も初めて知りました。  閉じる

    投稿日:2016/09/13

  • 小石川後楽園の入口に近くに、小石川後楽園の中心となっている大泉水があります。
    小石川後楽園は、広大な敷地を有する後園と、...  続きを読む藩邸の書院庭園であった内庭に分かれています。
    後園は、蓬莱島と呼ばれる島を配した大泉水の大池を中心に据え、その周囲を歩いて周る事ができる池泉回遊式庭園となっています。
    このような庭園の形は、江戸時代の大名庭園において採られてきた形式です。
    後楽園の大泉水の用水は、家康の命によって整備されきた神田上水の分流を引き入れています。
    なお、後楽園の後園の造成を行った光圀は、懇意にしていた明の儒学者、朱舜水の意見を積極的に取り入れています。
    このため、後楽園は、儒学思想に基づいた設計となっています。
    後楽園の訪問により、後楽園と儒学の関係を知ることができ、歴史の面白さに触れることができました。  閉じる

    投稿日:2016/09/13

  • 小石川後楽園の小蘆山は、中国の名勝地の蘆山にちなんで、名づけられています。
    京都の清水寺一帯にも、小蘆山と呼ばれている場...  続きを読む所があります。
    後楽園の大堰川の上流の景色が京都の清水に似ていることから、藩祖徳川頼房の求めにより、寛永17年、林羅山が、小蘆山と名づけるよう進言しました。
    現在のオカメザサに覆われた丘を、小蘆山と呼んでいます。
    大泉水の左隣りの蓮池の前で小廬山がなだらかな姿を見せています。小廬山は中国の景勝地、廬山から儒学者林羅山が付けました。
    直接、登る道はなく、西側の大堰川に架かっている渡月橋を渡り、一旦、清水観音堂跡まで登り、沢渡りまで下り、小廬山中腹の展望台に出ます。
    小蘆山の展望台からは、シダレザクラや一の松、大泉水等を望むことができます。
    小石川後楽園に来て、徳川家等が中国の名勝地に思いを寄せていたことが解りました。有意義な訪問となりました。  閉じる

    投稿日:2016/09/13

  • 水戸徳川家水戸藩の初代藩主徳川頼房が、作庭家・徳大寺左兵衛に命じて築いた庭園を、嫡子の光圀が改修し、完成させた庭園です。
    ...  続きを読む
    明の遺臣朱舜水が提案した名称のうちから、後楽園と命名されました。
    命名の由縁として、「天下の憂いに先じて憂い、天下の楽しみに後れて楽しむ」との考え方により後楽園とされました。
    岡山市にある後楽園と全く同じ考え方です。
    広大な園内には、蓬莱島と徳大寺石を配した大泉水を中心に、各種の樹木が植えられ、四季を通じて情緒豊かな景色が広がっています。
    徳川光圀の意向により、儒教的な趣好が随所に入っています。
    小石川後楽園を訪れることにより、代表的な日本庭園の築造の考え方を知ることができ、名所一つ一つを全体的に理解することができました。有意義な訪問でした。  閉じる

    投稿日:2016/09/11

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基本情報(地図・住所・アクセス)

施設名
小石川後楽園
住所
  • 東京都文京区後楽1-6-6
電話番号
03-3811-3015
アクセス
JR飯田橋駅 徒歩 8分
地下鉄後楽園駅 徒歩 8分
予算
【料金】 大人: 300円 入園料 その他: 150円 65才以上
カテゴリ
  1. 観光・遊ぶ
  2. 公園・植物園
  1. 観光・遊ぶ
  2. 花見

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