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善光寺七福神のお参りを済ませた後にやって来た、善光寺と大本願の紹介です。明日は早朝のお参りと、戒壇巡りがありますので、今日の見学は早々に切り上げました。夜は宿坊で、精進料理と般若湯での懇親会です。(ウィキペディア、善光寺公式サイト)

2016秋、善光寺と信濃(8/13):10月24日(8):大本願:本堂、六地蔵、善光寺:仁王門

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2016/10/24 - 2016/10/25

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旅人のくまさん

旅人のくまさんさん

善光寺七福神のお参りを済ませた後にやって来た、善光寺と大本願の紹介です。明日は早朝のお参りと、戒壇巡りがありますので、今日の見学は早々に切り上げました。夜は宿坊で、精進料理と般若湯での懇親会です。(ウィキペディア、善光寺公式サイト)

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  • 『善光寺・大本願の『表門』の光景です。善光寺の創建(西暦642年)当初から、その歴史を共にしてきた尼僧寺院です。代々の大本願住職、皇族の尼公上人が善光寺上人として、その伝統を継承されてきました。

    『善光寺・大本願の『表門』の光景です。善光寺の創建(西暦642年)当初から、その歴史を共にしてきた尼僧寺院です。代々の大本願住職、皇族の尼公上人が善光寺上人として、その伝統を継承されてきました。

  • 中央、やや右手に見える石標には、『善光寺上人・本坊・大本願」の文字が刻まれていました。明治9年(1876年)、長野県より大本願は浄土宗、大勧進は天台宗として寺務を分掌されました。

    中央、やや右手に見える石標には、『善光寺上人・本坊・大本願」の文字が刻まれていました。明治9年(1876年)、長野県より大本願は浄土宗、大勧進は天台宗として寺務を分掌されました。

  • 『大本願』の本堂光景です。昭和29年(1954年)、『大本願』は、浄土宗の大本山となりました。浄土宗(じょうどしゅう)は、日本の仏教宗旨の一つで、法然(1133~1212年)を宗祖とします。山内には、浄土宗の宗祖・法然上人留錫の伝説があります。

    『大本願』の本堂光景です。昭和29年(1954年)、『大本願』は、浄土宗の大本山となりました。浄土宗(じょうどしゅう)は、日本の仏教宗旨の一つで、法然(1133~1212年)を宗祖とします。山内には、浄土宗の宗祖・法然上人留錫の伝説があります。

  • 正面から眺めた、『本書院』の光景です。尼公上人が本堂へお上りなど公式行事に使われる玄関となっています。内部は古い型式の広間になっていて、お授けの間とも呼ばれています。

    イチオシ

    正面から眺めた、『本書院』の光景です。尼公上人が本堂へお上りなど公式行事に使われる玄関となっています。内部は古い型式の広間になっていて、お授けの間とも呼ばれています。

  • 『大本山善光寺大本願配置図』の題字があった、まだ新しい境内案内図の光景です。表書院の北隣に位置する『本誓殿』が本堂と添書きしてありました。

    『大本山善光寺大本願配置図』の題字があった、まだ新しい境内案内図の光景です。表書院の北隣に位置する『本誓殿』が本堂と添書きしてありました。

  • 芭蕉句碑です。『月影や四門四宗も只1つ』の句です。貞亨5年(1688年)8月16日、善光寺で詠まれた句です。『更級紀行』に収録されています。貞亨5年(1688年)8月11日、芭蕉は姥捨の月を見ようと、越智越人を伴い美濃の国を発ちました。芭蕉45歳の時です。<br /><br />

    芭蕉句碑です。『月影や四門四宗も只1つ』の句です。貞亨5年(1688年)8月16日、善光寺で詠まれた句です。『更級紀行』に収録されています。貞亨5年(1688年)8月11日、芭蕉は姥捨の月を見ようと、越智越人を伴い美濃の国を発ちました。芭蕉45歳の時です。

  • 丸い池の中央に祀られた大きな地蔵尊の光景です。境内配置図には、『水子地蔵』と記されていました。足元に、大勢の子供の像がありました。『水子』の呼び名は、生まれて間もなく海に流された日本神話の神・『水蛭子』より転じたとされます。

    丸い池の中央に祀られた大きな地蔵尊の光景です。境内配置図には、『水子地蔵』と記されていました。足元に、大勢の子供の像がありました。『水子』の呼び名は、生まれて間もなく海に流された日本神話の神・『水蛭子』より転じたとされます。

  • 塀際に並んだ『六地蔵』の光景です。『大本願』の境内の北東に位置する場所です。『六地蔵』は、全ての生命は6種の世界に生まれ変わりを繰り返すとする仏教の六道輪廻の思想に基づき、六道のそれぞれを6種の地蔵が救うとする説から生まれた信仰を具体化したものです。

    塀際に並んだ『六地蔵』の光景です。『大本願』の境内の北東に位置する場所です。『六地蔵』は、全ての生命は6種の世界に生まれ変わりを繰り返すとする仏教の六道輪廻の思想に基づき、六道のそれぞれを6種の地蔵が救うとする説から生まれた信仰を具体化したものです。

  • 本殿に相当する『本誓殿』と、その正面に置かれた線香立の光景です。白い幕に記された寺紋は、皇室で使われている菊のご紋と同じようでした。『十六八重表菊』が皇室の紋です。観賞用の菊は、奈良時代に中国大陸より伝えられました。高潔な美しさが君子に似ているとされ、梅、竹、蘭と共に四君子とされます。

    本殿に相当する『本誓殿』と、その正面に置かれた線香立の光景です。白い幕に記された寺紋は、皇室で使われている菊のご紋と同じようでした。『十六八重表菊』が皇室の紋です。観賞用の菊は、奈良時代に中国大陸より伝えられました。高潔な美しさが君子に似ているとされ、梅、竹、蘭と共に四君子とされます。

  • 大本願の本堂の『本誓殿』と、その周りの境内光景です。『本誓殿』の簾だけでなく、提灯や雨水受けの容器にも『十六八重表菊』の紋がありました。

    大本願の本堂の『本誓殿』と、その周りの境内光景です。『本誓殿』の簾だけでなく、提灯や雨水受けの容器にも『十六八重表菊』の紋がありました。

  • 『賓頭盧様(びんずるさま)』の座像です。賓頭盧尊は、釈迦の弟子の一人で、『獅子吼(ししく)第一』と称されます。『 ピンドーラ・バーラドヴァージ』の音写で、複数の漢字表記があります。名前の意味は、不動、利根です。十六羅漢の第一です。

    『賓頭盧様(びんずるさま)』の座像です。賓頭盧尊は、釈迦の弟子の一人で、『獅子吼(ししく)第一』と称されます。『 ピンドーラ・バーラドヴァージ』の音写で、複数の漢字表記があります。名前の意味は、不動、利根です。十六羅漢の第一です。

  • 中ほどに、回転車が取り付けられた石柱の光景です。チベット仏教の『マニグルマ(摩尼車)』に起源を持つ造りのように思えます。マニ車は、『転経器(てんきょうき)』とも訳されています。中国旅行の時、チベット仏教が伝わる雲南省でよく見かけました。ボン教でもマニ車は使われ、チベット仏教の場合はマニ車を右回り(時計回り)に、ボン教の場合はマシモ車を左回りに回転させると、回転させた数だけ経を唱えるのと同じ功徳があるとされています。ボン教は、チベットの民族宗教です。

    中ほどに、回転車が取り付けられた石柱の光景です。チベット仏教の『マニグルマ(摩尼車)』に起源を持つ造りのように思えます。マニ車は、『転経器(てんきょうき)』とも訳されています。中国旅行の時、チベット仏教が伝わる雲南省でよく見かけました。ボン教でもマニ車は使われ、チベット仏教の場合はマニ車を右回り(時計回り)に、ボン教の場合はマシモ車を左回りに回転させると、回転させた数だけ経を唱えるのと同じ功徳があるとされています。ボン教は、チベットの民族宗教です。

  • ブロンズ製の二頭の獅子像です。緑青を吹いたのではなく、緑青を吹いたように彩色されているようでしたから、別の材質かも知れません。親子獅子でしょうか、それぞれに玉を持っていました。『儀宝珠』とも呼ばれるようです。儀宝珠と擬宝珠は同義のようです。

    イチオシ

    ブロンズ製の二頭の獅子像です。緑青を吹いたのではなく、緑青を吹いたように彩色されているようでしたから、別の材質かも知れません。親子獅子でしょうか、それぞれに玉を持っていました。『儀宝珠』とも呼ばれるようです。儀宝珠と擬宝珠は同義のようです。

  • 床は地肌のままですが、一体だけ建物の中に納まった、『本理院殿地蔵』の光景です。『本理院殿』は、徳川家第三代将軍の家光公の御台所・孝子のようです。ネット情報には、『かつて、善光寺にあった霊屋には、徳川三代将軍家光の御台所・孝子(本理院殿)の遺骨の一部が納められていたが焼失したため、1832年(天保3年)、大奥18名によってこの地蔵尊が奉建された』と紹介されていました。

    床は地肌のままですが、一体だけ建物の中に納まった、『本理院殿地蔵』の光景です。『本理院殿』は、徳川家第三代将軍の家光公の御台所・孝子のようです。ネット情報には、『かつて、善光寺にあった霊屋には、徳川三代将軍家光の御台所・孝子(本理院殿)の遺骨の一部が納められていたが焼失したため、1832年(天保3年)、大奥18名によってこの地蔵尊が奉建された』と紹介されていました。

  • 先に紹介した『大本山善光寺大本願配置図』には、四箇所の出入口門が記されていました。この門は、その中に記された表門だったようです。更に北側には唐門が城されていました。参道を善光寺に向かう人と、その背後の紅葉の樹の光景です。

    先に紹介した『大本山善光寺大本願配置図』には、四箇所の出入口門が記されていました。この門は、その中に記された表門だったようです。更に北側には唐門が城されていました。参道を善光寺に向かう人と、その背後の紅葉の樹の光景です。

  • 参道から眺めた西側方面の光景です。塀の上から頭を出した『アカマツ(赤松)』の光景です。大本山・大本願の境内だったようです。アカマツは、マツ科マツ属の常緑針葉樹です。『メマツ(雌松)』の別名を持ちます。

    参道から眺めた西側方面の光景です。塀の上から頭を出した『アカマツ(赤松)』の光景です。大本山・大本願の境内だったようです。アカマツは、マツ科マツ属の常緑針葉樹です。『メマツ(雌松)』の別名を持ちます。

  • 同じく、参道から眺めた周りの光景です。こちらは東西側方面の光景になります。色付いた柿の実が。雲一つない青空に映えていました。

    同じく、参道から眺めた周りの光景です。こちらは東西側方面の光景になります。色付いた柿の実が。雲一つない青空に映えていました。

  • 南東側から見上げた、仁王門の光景です。仁王門は、宝暦2年(1752年)に建立されましたが、弘化4年(1847年)の善光寺大地震で焼失しました。その後、元治元年(1864年)年に再建されましたが、明治24年(1891年)の火災でまたも焼失しました。現在のものは、大正7年(1918年)に再建されたものです。

    南東側から見上げた、仁王門の光景です。仁王門は、宝暦2年(1752年)に建立されましたが、弘化4年(1847年)の善光寺大地震で焼失しました。その後、元治元年(1864年)年に再建されましたが、明治24年(1891年)の火災でまたも焼失しました。現在のものは、大正7年(1918年)に再建されたものです。

  • 『定額山』の扁額が懸かった、仁王門の光景です。『定額山(じょうがくさん)』は、善光寺の山号です。伏見宮貞愛親王の筆です。高さは13.6メートル、間口13メートル、奥行き7メートルの欅造りの建物です。

    『定額山』の扁額が懸かった、仁王門の光景です。『定額山(じょうがくさん)』は、善光寺の山号です。伏見宮貞愛親王の筆です。高さは13.6メートル、間口13メートル、奥行き7メートルの欅造りの建物です。

  • 仁王門の南側から眺めた、本堂がある北側方面の光景です。前方に見える建物は、本堂ではなく、その手前にある山門です。

    仁王門の南側から眺めた、本堂がある北側方面の光景です。前方に見える建物は、本堂ではなく、その手前にある山門です。

  • 仁王門の仁王像の光景です。善光寺の仁王像は通常とは逆で、左側に阿形が置かれています。こちらは右側の吽形像のようです。

    仁王門の仁王像の光景です。善光寺の仁王像は通常とは逆で、左側に阿形が置かれています。こちらは右側の吽形像のようです。

  • 仁王門の仁王像の光景です。こちらの像は外交の関係で、曇ってしまいました。仁王像は、巨匠である高村光雲と米原雲海の合作による彫刻です。<br />

    仁王門の仁王像の光景です。こちらの像は外交の関係で、曇ってしまいました。仁王像は、巨匠である高村光雲と米原雲海の合作による彫刻です。

  • 仁王門の次は山門です。三門とも呼ばれる、国の重要文化財の建物です。寛延3年(1750年)に完成した建物で、平成19年(2007年)に修復工事がなされ、大正から昭和にかけての修理で檜皮葺きになっていた屋根が、創建当初の栩葺きに改められました。『栩葺き(とちぶき)』とは、サワラの板材で屋根を葺く方式です。『サワラ(椹)』は、ヒノキ科ヒノキ属の針葉樹です。

    仁王門の次は山門です。三門とも呼ばれる、国の重要文化財の建物です。寛延3年(1750年)に完成した建物で、平成19年(2007年)に修復工事がなされ、大正から昭和にかけての修理で檜皮葺きになっていた屋根が、創建当初の栩葺きに改められました。『栩葺き(とちぶき)』とは、サワラの板材で屋根を葺く方式です。『サワラ(椹)』は、ヒノキ科ヒノキ属の針葉樹です。

  • 金網で少しぼやけてしまいましたが、『善光寺』の文字が記された山門に掲げられた扁額の光景です。この文字の中に、鳩が五羽隠れています。善と光の文字の二羽ずつは直ぐに分かりますが、五羽目には少し手間取ります。

    金網で少しぼやけてしまいましたが、『善光寺』の文字が記された山門に掲げられた扁額の光景です。この文字の中に、鳩が五羽隠れています。善と光の文字の二羽ずつは直ぐに分かりますが、五羽目には少し手間取ります。

  • 電光寺本堂の正面光景です。日本最古と伝わる一光三尊阿弥陀如来を本尊とし、善光寺聖の勧進や出開帳などにより、江戸時代末には、『一生に一度は善光寺詣り』と言われるようになりました。本堂は、高さ約27メートル、間口約24メートル、奥行約53メートルの国宝の建造物です。

    イチオシ

    電光寺本堂の正面光景です。日本最古と伝わる一光三尊阿弥陀如来を本尊とし、善光寺聖の勧進や出開帳などにより、江戸時代末には、『一生に一度は善光寺詣り』と言われるようになりました。本堂は、高さ約27メートル、間口約24メートル、奥行約53メートルの国宝の建造物です。

  • 本堂前の庭木などの光景です。

    本堂前の庭木などの光景です。

  • 本堂の中の撮影はできませんが、本堂入口付近の光景です。東側を向いての撮影です。

    本堂の中の撮影はできませんが、本堂入口付近の光景です。東側を向いての撮影です。

  • 本堂から振り返って眺めた、山門の光景です。

    本堂から振り返って眺めた、山門の光景です。

  • 参道脇に並んだ、六地蔵の光景です。立派な石造の基壇の上に祀られた、ブロンズ製の六地蔵でした。夫々に黄金色の光背がありました。普段見慣れた、路傍の『地蔵さん』ではなく、『地蔵尊』、あるいは『地蔵菩薩』と呼ばなくてはいけないような立派な造りの像でした。

    参道脇に並んだ、六地蔵の光景です。立派な石造の基壇の上に祀られた、ブロンズ製の六地蔵でした。夫々に黄金色の光背がありました。普段見慣れた、路傍の『地蔵さん』ではなく、『地蔵尊』、あるいは『地蔵菩薩』と呼ばなくてはいけないような立派な造りの像でした。

  • 六地蔵の内の三時増のズームアップ光景です。大本願と善光寺のお参りが済んだところで、宿坊に戻ることにしました。夜の懇親会の前に、軽く予行演習をするのが習わしの定例会です。

    六地蔵の内の三時増のズームアップ光景です。大本願と善光寺のお参りが済んだところで、宿坊に戻ることにしました。夜の懇親会の前に、軽く予行演習をするのが習わしの定例会です。

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