2025/07/17 - 2025/07/17
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azuraさん
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この旅行記のスケジュール
2025/07/17
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アウシュビッツ・ガイドツアー
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この旅行記スケジュールを元に
7日目の午後は、私にとってはこの旅最大の目的の一つである『アウシュビッツ・ビルケナウ強制収容所』の見学です。
戦後80年の節目の年でもあり、現実今もポーランドの隣国ウクライナは戦地の状態。
子どもの頃に読んだ『アンネの日記』のその後であり、又映画『ライフ・イズ・ビューティフル』の真の世界を知りたい。。
日本も、忘れた頃に跳んでくる飛翔体の警告アラートが鳴ったり、隣国の偵察艦や艇との小競り合いも偶に聞こえてくる事態なのに。。
アウシュビッツが遠い世界のような気がしていた自分自身も『平和ボケ』していたのかな。。と思います。
色々と考えさせられる場所でした。
*旅行記を日程通りに公開するつもりでしたが、やはり戦後80年を迎える年に、意図せずにポーランド・アウシュビッツを訪ねたことは、何か意味があるような気がして。。
終戦の日を迎えるにあたって、この旅行記を先に公開する方が良いかなと思い。。順番を繰り上げることにしました。
- 旅行の満足度
- 5.0
- 観光
- 5.0
- ショッピング
- 4.0
- 交通
- 4.0
- 同行者
- 一人旅
- 一人あたり費用
- 50万円 - 100万円
- 交通手段
- 観光バス 徒歩
- 航空会社
- エミレーツ航空
- 旅行の手配内容
- ツアー(添乗員同行あり)
- 利用旅行会社
- 阪急交通社
-
午後は、オシフィエンチムへ向かっています。
-
オシフィエンチムはポーランド南部の都市名ですが、ドイツ語名の「アウシュビッツ」の方が有名でしょうか。。
-
目的地が見えてきたようです。
旅行会社のコース案内の但書には、チケット予約の方法が変わり、予約が取りにくくなったため、必ず取れるとは限らない事をご承知おきくださいとのことでしたが。。
私にとっては、ポーランド旅行の最大の目的地でもある為、最終行程表に載っているのを見てホッとしました。 -
アウシュビッツ国立博物館のエントランス付近には、沢山の観光バスや人々で溢れています。
チケット・コントロール前には、海外では珍しい自販機もありました。(故障中みたいですが…) -
イチオシ
エントランスから入ってすぐの空間。
無機質なこの空間が、これから語られる過去のおぞましい世界へ入って行く為の、心の準備をさせてくれた気がします。。 -
アウシュビッツ国立博物館は、アウシュヴィッツ へ戻ってきた元収容者たちの「人類史上最大の残虐行為を忘れてはならない」という声を受けて、1947年に国際的『受難の地』として設立されたそうです。
収容者たちは、もし誰かがこの地獄から生還できたのなら、「二度とこのような事が繰り返されないように活動しよう」と誓い合っていたそうです。
1947年というと、戦後まもなくですよね。。
このパネルは、この施設に対し財政援助をしている国名などが刻まれています。
オーストリア、ドイツ、ロシアとポーランドを三分していた三国も入っています。。 -
この地図の、「A」が「アウシュビッツ第一収容所」、鉄道(駅)を挟んで3キロほど離れた「B」がアウシュビッツ第二収容所こと「ビルケナウ」です。
-
ここは、アウシュヴィッツ に連れて来られた人々が、囚人服と、囚人番号をもらう為最初に入った建物。
-
イチオシ
”ARBEIT MACHT FREI"(労働は自由への道)
このゲートを作ったのは、初期の収容者であるポーランドの政治犯。
『B』を反対に付けたことが、その抵抗の表れだとか。。
門のすぐ横にはSS(ナチス・ドイツの組織でアウシュビッツの運営・管理をしていた)の詰め所があり、皮肉な言葉とは裏腹に、一日11時間、夏季はもっと長い時間を、死ぬまで労働させられていた。。 -
ゲートの向こうには、赤レンガの建物とポプラ並木が続いています。
今この景色だけを見ると、大学? みたいな平和な印象を受けますが、元からあったものに手を加えた(加え過ぎやけど)だけとはいえ、これもナチスの取り繕いの一つ。
この奥に、あのような残酷な世界が広がっているとは。。誰も想像できません。
因みに、このポプラ並木は当時のものではなく、植え替えられた二世だそうです。オシフィエンチム (アウシュヴィッツ第一強制収容所) / アウシュヴィッツ博物館 建造物
-
そして、ゲートの横には高圧電流が流されていたという二重に張れた有刺鉄線があります。
-
門を入ってすぐは、厨房棟。
収容者を一定期間生かして働かせる為に、スープなどを作っていた場所で、SSは最小のコストで最大の労働力を得る為に、カロリー計算までしていたそうです。
その前で演奏しているのが、4つあったという『囚人楽団』の一つ。
SSは、幹部の為のコンサートを催したり、毎朝整列して囚人たちに門を潜らせる為に、収容者の中の音楽家たちにマーチを演奏させていたそうです。
それを聞きながら門を潜る人々の気持ちはどうだったでしょうか。。
でも、楽団員にとっては、生き抜くための唯一の手段、最期の糧だったのでしょう。。
ナチス・ドイツは、こうやって見せかけの平和的な雰囲気を取り繕って、国際的な非難を避ける方法を、いくつも用意していたのですね。。 -
収容所内の建物の殆どは、収容者たちの労働により建てられたもの。
4号館に入ったすぐのところに -
イチオシ
"過去に学ばない者は、過ちを繰り返す ージョージ・サンタナヤー"
のパネルがあります。 -
欧州中から、ここへ人々が送られてきたことがわかる地図。
-
イチオシ
"1940-1945"
これは、強制収容所が稼働していた期間。
わずか5年の間に、どれだけの人々が犠牲になったのか。。
そして、この記念碑の中に納められている砂のようなものは、犠牲になった方々のご遺灰。。 -
私は、アウシュビッツはユダヤ人大虐殺が目的の施設だと思っていました。
が、最初はポーランド人の政治犯(反ナチス・ドイツの政治家、教師、聖職者など、社会的に影響力がある人々)を収容するために作られた施設だったそうです。
そこで強制的には働かされた人々は、その過酷さの為、数ヵ月ももたなかったとか。。
このパネルには、ユダヤ人が何人、ポーランド人が何人…合計で約1,100万人の方が犠牲になったと書いてありますが、本当の数字は誰にもわかならい。。
記録のある方々のみの集計がこれで、記録にない犠牲者も大勢いらっしゃると。。 -
連行される人々の写真がたくさん展示されています。
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最も多いのは、ユダヤ民たちの写真。
この施設で殺された90%以上がユダヤの人々。。
何故、ユダヤの民がこのような仕打ちを受けたのか。。
『生まれたこと』を罪に問われて殺された唯一の民族。。
キリスト教徒にとってイエスは救世主、それを認めないユダヤ民は中世以来、「イエスを十字架にかけて殺した罪人」のレッテルを張られていた。
ユダヤ民は、土地の所有やギルドに加入することを許されていなかった。それで、キリスト教徒が嫌う「金貸し」の仕事を担うようになり、一部の人の職業であったにもかかわらず、民族的に「金の亡者」という偏見が生まれた。
フランス革命後、ユダヤ民にも平等な市民権が与えられたが、彼らがヨーロッパ社会に同化すれば「優れた人種 」であるアーリア人(ナチス・ドイツはドイツ人をアーリア人種とみなしていた)の血が汚されるという歪んだ思想が横行し、今度は新たな差別「ユダヤ民は劣った人種」が生まれた。
第一次世界大戦で負けたドイツは、ヴェルサイユ条約によって巨大な賠償金の支払いを命じられた。その上、重要な産業地帯を取り上げられ、経済も社会も混乱、失業者も溢れていた。
ヒトラーはユダヤ民に対するこれらの偏見を利用し、
ドイツがこうなったのは、ユダヤ民のせい。
ユダヤ民に罰を与えるのは当然。
と、人々の憎しみを煽り支持を得た。 -
他には、ポーランド人やソ連軍捕虜やロマ・シンティの写真。
ヒトラーは、ソ連の人々を「ユダヤ人が糸で操る危険分子」と勝手にみなして排除した。
ロマ・シンティ(所謂『ジプシー』のこと。『ジプシー』という呼び名には蔑みの意が込められている為、現在は『ロマ・シンティ』と呼ばれている)
彼らの不幸は、彼ら自身の反社会的な行動に原因があるというのが一般的な見解。現在でも、彼らを泥棒やスリと決めつける偏見は続いている。 -
ナチス・ドイツは、ユダヤ民には「東の土地へ移住して新たな生活を始めるのだ」と告げ、貨物列車に押し込み、運んだ。
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そして下車と同時に
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ドイツ人医師により、ふるいに掛けられ。。
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労働力になる者と、そうでない者に分けられた。。
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労働力にならない子どもたちの殆どはその母親と共に(騒がれないようにするために)、到着後すぐにガス室へ。
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クレマトリウムのみでは間に合わなくなった頃には、屋外で野焼きにされた方々も。。
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野外で裸にされ、ガス室に追い立てられるユダヤ民女性たち。。
前の写真とこの2枚は、密かに撮った為、焦点が定まらず、構図も斜めに。
自分では止められなかった。。でも、こんなひどい事が行われていた。。と
命がけで記録を残し、外の世界へ知らせようとした。。
(使い終わった歯みがき粉の、チューブの中からネガが発見されたそう) -
これはクレマトリウムと呼ばれた、ガス室と焼却施設が一緒になった建物の模型。
地下にガス室、殺虫剤(チクロンB)で大量虐殺した後、上の階の焼却炉でご遺体を焼いていた。。
それを担っていたのは、特命労働隊と呼ばれた、同じ収容者の中から選ばれた人たち。。
やらなければ、自分がやられる。。
そして、ナチス・ドイツは収容所を解放する前に、クレマトリウムを破壊した。。 -
チクロンBの大量の空き缶。
殺傷能力の高い殺虫剤だそうで、人々は消毒という名目でガス室に送られた為、予め着衣は脱がされた(囚人服でさえも使い回す為脱がされた)状態でガス室に入室。 -
そしてこれが、チクロンB。
上から降って来たのは消毒液では無く、チクロンBのガス。
15分もあれば、絶命するには充分だったのだそうです。。 -
ユダヤ教徒が、礼拝の為に着用するもの
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大量のメガネ
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持ち込まれた衣類も資金源の一つ
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労働力にならない身体障害者たちも(精神障害者も)、排除の対象
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持ち込まれた食器(新天地へ移住と聞かされて来たんだものね。。)
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大量の靴
中にはハイヒールも沢山有りました。
ここがどういう施設なのか分かって来る人も中にはいて、きちんとした身なりで最後の時まで、自分らしく自らの尊厳を誇示しようという考えの人も多かったとか。。 -
子どもたちの服もたくさん。。
流石にここでは、自然と涙が滲んできます。。 -
自分の名前や住所が書き込まれた鞄。
ユダヤ民の多くは、『東方で暮らす為』という名目でここに連れて来られた人々。。
一時預かりのつもりだよね。。 -
11号館
ゲシュタポ(ナチス・ドイツの秘密国家警察)の活動場所でもあった、アウシュビッツ。
占領下のポーランド人(抵抗組織のリーダー等)をここで拘束・処刑していたそうです。
地下には、コルベ神父(大浦天主堂の神父だった)が殺害された独房もあります。 -
ヒトラーの額があるのは、ゲシュタポ士官の部屋。
-
拘束者たちが、裁判までの間使われた部屋。
11号館で犠牲になったポーランド人は、一万人を超えると言われているそうです。 -
アウシュビッツ解放後、収容所最後の数日間に殺害されたソ連軍捕虜が大勢発見された部屋。
(壁にその時の写真が。。) -
女性の囚人は、ここで服を脱がされ、体を洗われたあと、女性のゲシュタポ隊員により『死の壁』に連れていかれた。
-
『死の壁』と呼ばれている、10号館と11号館の間にある壁。
一方的な裁判で下された銃殺刑がここで執行された。
ゲシュタポ隊員の中には、銃殺に快感を感じるサディスティックな姿もあったと、死体処理係だった収容者の証言も残っているそうです。。(狂ってる。。) -
向かって左が10号館、右が11号館。
11号館は処刑を待つ囚人の、10号館は生体実験(断種・不妊化)をする為の施設。
11号館からは丸見えなのに対し、10号館の窓には板が張り付けられ、刑の執行が見えないようになっています。
11号館の囚人には、明日は我が身だと見せしめる為開放し、10号館には、自分たちのリーダー的存在の死を目の当たりにすることでに、囚人たちの気持ちに怒りや反抗の火種を起こさない為に防護壁を付けた。
(でも、銃声や受刑者たちの苦しみの声は聞こえてたでしょ。。) -
イチオシ
SS隊員の報告書によると、有刺鉄線での『自殺』がとても多かったと。
その原因には大きく二つあり、一つは絶望による、そして最も多い理由は栄養失調等によるふらつきとの事。。
(ふらつきって・・・それも自殺なん? 。。) -
案内の中で恐ろしかったのが、所謂『チクリ』が多かったということ。
収容者同士でお互いを監視させていた事実。
今日を生き残る事に精一杯だと、人ってそうなってしまうのかな。。
SSの「真実はどうでもいいような処罰の仕方」から逃れるためには、こうなってしまうのか。。 -
この奥に、収容所長であるルドルフ・ヘスの家があり、彼は家族と共に住んでいたそうです。
彼も又、家族を愛する優しい父親なのに、収容者の子どもたちは平然とガス室に送れる。。
間違った情報、間違ったリーダーシップ・・・
自分の目で判断できない事は、自分の信頼する人の情報や考えを信じてしまいがちですが、これもある種の洗脳?!
これが極まると、アウシュビッツのような世界が出来上がってしまうのか…?! と、本当に怖くなりました。 -
彼は最期まで自分の罪を認めることなく、「上からの命令で行った正しい行為」と信じたまま、この絞首刑台で処刑されたそうです。
彼だけでなく、ここで働いでいたドイツ人たちの殆どが、自分たちの行いに罪悪感はなく、当然の報いだと考えていたそう。。
(中には耐えられなくて、自殺するSS隊員もいたそうですが。。)
ヘスの話は『関心領域』という本や映画で知ることができると知り、早速図書館で借りてきました。 -
そして、その絞首刑台の前に、アウシュビッツで唯一残されているクレマトリウムの入口があります。
-
天井に数ヶ所、この様な穴が開いていて
-
ここから降って来る、チクロンBのガス。
クレマトリウムは、収容者たちの棟からは少し離れた場所にありますが、それでも人々の苦しむ呻き声などが漏れて来ます。
この空間いっぱいに、人々が詰め込まれたのですから、数百人の苦しむ声…当然でしょう。。それをかき消す為の、演奏会もあったという。。
(言葉にならない。。) -
ご遺体からアクセサリーは当然に、歯も(金歯や銀歯の為)剥ぎ取り、女性の頭髪は刈り取られ生地の原料にと、全てナチス・ドイツの資金源として使わられたとか。。
そうして、彼らにとって不要となったご遺体は、この焼却炉で焼かれた。
遺灰は近くの池に捨てられたのだそうです。 -
そして、この作業をさせられたのが特命労働隊、同じ収容者の中から選ばれた人。
生き残る為に、仕方なく行った人もいるだろうし…
優遇される、弱い者虐めを楽しむ人も中にはいたそうです…
しかし、ナチスの片棒を担がされた(知り過ぎた)以上、何かの際には必ず真っ先に排除される立場にいることは、理解していたのかな。。 -
ここで、アウシュヴィッツの見学は終わりです。
この後は3キロ先の、アウシュヴィッツ 第二収容所ビルケナウへ向かう為、一旦ツアーバスに戻ります。 -
ビルケナウの駐車場から、徒歩でビルケナウへ向かう際、MARIAN KOLODZIEJ(マリアン・コロジェイ)という方が描かれた作品がいくつか展示してあります。
彼は18歳の時、反ナチスのポーランド地下組織を支えるボーイスカウト活動中にゲシュタポによって逮捕、アウシュビッツへ送られ、5年間収容所で過ごし、終戦で解放された、アウシュビッツから生還した人。
舞台美術家として活躍されていたそうですが、晩年能卒中に倒れ、そのリハビリとして医師にすすめられ鉛筆画を描き始めたそうです。 -
以後亡くなるまでの16年間、アウシュビッツの体験を描き続けたそうです。
彼がどれほど恐ろしく、辛い経験をされたのか。。この絵たちが物語ってくれます。。 -
Witold Pilecki(ヴィトルト・ピレツキ)
第二次世界大戦中のポーランドの抵抗運動家。
彼は、自らアウシュビッツに潜入し、その実態を外部に報告した人。
「ピレツキ報告書」はアウシュビッツの残虐行為を初めて詳細に記録したものの一つだそうです。
戦後、ポーランドの共産主義政権によって逮捕・処刑された。(何で?)
現在は、ポーランドの国民的英雄。 -
MAKSYMILLIAN MARIA KOLBE
(マクシミリアン・マリア・コルベ)
コルベ神父は、日本の長崎にも布教に訪れ、大浦神学校で哲学を教えたり、長崎市内に修道院の建立もされた方。
アジアでの布教を終え、故郷ポーランドのニエポカラノフ修道院の院長に選ばれた為帰国。
ユダヤ人にもカトリック教徒にも分け隔てなく看護する姿がゲシュタポを刺激し、逮捕。アウシュビッツへ送られた。
脱走者が出たことで、無作為に選ばれた10人が餓死刑に処せられることになり、その中の一人が「私には妻子がいる」と泣き叫び出したのを聞いて、「私が彼の身代わりになります、私はカトリック司祭で妻も子もいませんから」と申し出た。
コルベ神父を含めた10名の受刑者は、11号館の地下牢の餓死室に押し込められた。
通常、餓死刑に処せられると、受刑者たちは飢えと渇きにより錯乱状態で亡くなるのが普通だったそうだが、コルベ神父は一貫して毅然とした態度で、他の人々を励ましていた。
その様子を知る人は、餓死室から聞こえる祈りと歌声で、まるでそこは聖堂のようだったと証言しているそうです。
2週間後、コルベ神父を含む4人にまだ息があったが、当局はフェノールを注射して殺害した。
コルベ神父は『アウシュビッツの聖人』と呼ばれるカトリック教会の聖人とされています。 -
イチオシ
『死の門』に向かって伸びる引き込み線
このまま施設内のランぺ(降車場)まで鉄道で運び込まれます。ビルケナウ (アウシュヴィッツ第二強制収容所) 史跡・遺跡
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『死の門』と言われた、ビルケナウの監視塔。
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監視塔へ上がっても、雨や霧の日にはすべては見渡せないほど、ビルケナウの敷地は広大です。
奥の森の奥に、4機のクレマトリウムが建っていたそうですが、ナチス・ドイツにより破壊されてしまったそうです。 -
ここには、殆どの建物がありません。
アウシュビッツ解放直前に、証拠隠滅の為、SSにより殆ど破壊されたそうです。
(でもこれって、自分たちの行為は間違っていないと思っていたSS隊員たちでも、国際的に批判されるってわかってたって事でしょう。。やっぱり狂ってる。。) -
残っている木製のバラックの中には
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トイレ棟
劣悪な環境で、チフスなどの伝染病も蔓延する中、この穴一つ一つが便器として、プライバシーも何もない中、収容者たちは朝夕の一日二回のみ、決まった時間に、ここに連れてこられて並んで座り排泄したそうです。 -
当初は51頭の馬を収容する厩舎として設計されたこの兵舎に、400人以上の収容者が入れられたそうです。
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男性と女性で棟が分けられていたそうですが、この三段ベッドの一段に5人ほどの人が寝かされたそうです。
伝染病が広まるのも、早くて当然ですね。。 -
アンネ・フランクも、ビルケナウでこの様な兵舎に収容されていたそうです。
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冬季はマイナス20度になる日もある地域、冬場にはこのストーブが焚かれたそうですが。。
どれほどの効果があったのか。。
というか、そもそも本当に稼働させていたのかも疑わしい。。 -
線路がクレマトリウムの近くまで伸びています。
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収容者たちを運んできた貨物(復元)、窓もなく皆立ったまま詰め込まれてきた。。
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イチオシ
もっと大勢の人だっただろうけど、一瞬80年前の景色にダブって見えた。。
こんな風に、貨車から降ろされた後、仕分けを待つ人々で溢れていたんだろうな。。と。。
先程のアウシュビッツ第一収容所でも感じたけど、欧州の学生らしき若者の見学者が多い気がします。 -
私の学生時代の歴史の時間も、神話・縄文時代から始まり、平安から戦国時代あたりはかなり詳しくやったものの、近代史は三学期に入ってから駆け足で終わった感じ。。
ちょっと前の歴史で、その間に世界大戦が2回、日本が他国とした戦争が少なくともあと二つはあったのに、サクッとし過ぎる授業というか…
日本が負けた事(原爆を落とされた事)で、被害者みたいな印象も無くはなく。。
綺麗事の歴史ではなく、日本がどうして孤立したのか、その後どの様な行動をとったのか、史実を淡々と伝えて、それを知った上での個人の意見や考えをもっと尊重する様な、それをディスカッションするような授業ってできないのかな。。
もっと近代史に力を入れた方がいいんじゃない? と思っていたのが、確信になった旅でした。 -
あんなに酷い事をされたドイツと、現在のポーランドは友好国になっている。。
日本は、韓国・北朝鮮、中国とそうなれてる?と思うと大いに疑問。。
(特に過去にいざこざがあった国に、)歴史を知らずに出掛けるのもある意味マナーに欠ける行為な気がする。。
知った上での失礼な行動は論外、知らず知らずの内にも人を傷付ける行動を取っているのかもしれないし。。
インバウンド疲れ気味の日本で、マナーが悪いとひとくくりにされてる中国人。
確かに、そういう人が多いし、実際にもそれを目撃もしたけれど、中国人全員がそうではない。。
でも、このひとくくりにする考え方が、ここでのユダヤ民だったんじゃないかな。。
私も知らず知らずの間に、当時のドイツ人と同じことしてる? って。。
(もちろん、虐殺はしてないけど…) -
我々をガイドしてくれたのは、アウシュヴィッツで唯一の日本人公式ガイドである、仲谷さんでした。
仲谷さんは、日本からの訪問者は、中高年が多い(正に我々のツアーのこと)、日本の若者にも是非来て欲しい。と仰っていました。
『二度とこの様な悲劇を起こさないために』は、やはりこれからを担う若者に見てもらいたい施設だと私も思います。 -
そして、淡々とここであったことを話してくれた仲谷さん「アウシュビッツもビルケナウも、ここは広大なお墓です。」と仰ったのがとても印象的でした。。
私も、原子爆弾の展示物とピースサインでにこやかに記念撮影をする人を見て、気分が悪くなった経験がありますが、そういう人たちがここにもいるんだなと残念に思いました。
人として本当に行動に気を付けなくては。。亡くなられた方々のご遺族の方が訪ねて来られることもあるでしょう。。そんな方がご覧になったら。。 -
今回、私がポーランドへ旅行すると知って、よく聞かれたのが「ポーランドって何があるん?」でした。
私自身もそれほど詳しいわけではなかったですが、「アウシュビッツって何?」と聞き返されることが多くて驚きました。
私に近い年齢の人でもそうなので、若い人たちならもっとなのかな。。
それが、日本の若者があまり来ないという仲谷さんの言葉に結びつきました。
ドイツでは、ナチス・ドイツのした事を学校で子どもたちに詳しく教えるとTVで見た事があります。
アウシュビッツの生還者の一人で、後にミュージアムの館長もされたスモレン氏は、施設を訪れたドイツの若者たち(特に”ドイツ人”を背負ってしまう若者)に「君たちに戦争責任はない。でもそれを繰り返さない責任はある」とガイドされていたそうです。
でも、これは彼らだけでなく、全人類に言えること。
アウシュビッツも、原爆ドームも、ひめゆりの塔も。。
そこで何があったのか?
なぜ、そうなったのか?
二度とそうならない為に、どうすべきなのか?
日々の暮らしの中で、自分の中の小さな差別や固定観念を排除するだけでも、少しは世界平和に貢献できるのかな。。
そして、いくら似た考えの持ち主とはいえ100%自分と同じはあり得ないのだから、人の意見を鵜呑みにせず、自分で考えて行動することが大切だと思いました。
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