2024/09/09 - 2024/09/09
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kojikojiさん
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2024/09/09
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「出町柳」からバスに乗って40分ほどで「大原」のバス停に着きました。乗った時点で満席だったのでずっと立ったままでの移動になりましたが、妻だけでも途中から座れたので良かったです。到着したバス停でもすでに帰り道の人でバス停は満員でした。まずは「三千院」を目指して炎天下の坂道を登り始めます。呂川(ろがわ)に沿っての参道は途中から杉木立で陽射しは遮られ、多少暑さは和らぎます。「三千院」の奥には音無の滝があり、そこから続く川は「律川(りっかわ)」と呼ばれます。大原の「魚山」は仏教音楽である天台声明の発祥の地で、「魚山」を源とする「呂川」と「律川」の名前は和楽の律法に因んで名づけられました。調子はずれのことを「呂律がまわらない」というのもこのことが語源になっています。「呂川」の脇道を1人で登って、ちょっとした展望台と赤紫蘇畑を見て戻ると、妻は「志ば久」で漬物の買い物をしていました。これから「三千院」に行くのにと思いましたが、試食しながらたくさん買ってしまいました。帰りにも同じ道を通るのでお店で預かってもらい先を急ぎます。「芹生」という宿の先を上がって、左に折れると「三千院」の石垣が見えてきて、40年前の記憶が蘇ります。初めて来たのはその頃でそれ以来の大原になります。その時は11月の紅葉の時期でしたが、前日の雨で履いていたLL.Beenのオイルレザーのローファーが濡れてしまい、白い靴下が茶色く染まって裸足になって寒かったことを思い出します。今回は9月のまだ暑さの残る晴天の日で良かったです。まずは「中書院」から「客殿」へと周ります。おみくじを引いてみるといきなりの「凶」です。妻に「吉が出るまで引き直しなさい。」と言われてまた100円玉を握っておみくじを引きます。「寝殿」を参拝した後は表に出て、「往生極楽院」の参拝です。恋に破れた女が一人祈る場所です。阿弥陀三尊はご利益は苦難除去、現世利益、病気平癒、厄除け、極楽浄土と幅広いです。続いて境内を散策しますが、かなり広いうえに登り下りがあるので妻は一苦労です。参拝を終えて参道の「芹生茶屋」に立ち寄り、お昼をいただきます。美味しい蕎麦をいただいて他のお客さんが食べていたおいしそうな団子も追加します。お腹が一杯になったところで参道を戻り、漬物を受け取って「寂光院」を目指します。「寂光院」に行くのは今回が初めてでしたが、こんなに遠いとは思いませんでした。最後にまた石段を見て妻がため息をつきます。大原はインバウンドのお客も含め「三千院」は人気がありますが、「寂光院」は他に訪れる人の姿もありませんでした。ここでも「翠月」という佃煮屋さんで試食をして買い物します。バス停まで戻るとすでに込み合っていましたが座ることが出来て良かったです。三条京阪まで戻ったところでバスを降りてタクシーでホテルに戻ります。服を着替えた後は再びホテルを出て、麸屋町にある「ほん田」という店に向かいます。この日は母の従弟である叔父や叔母との会食がありました。これで長い一日が終わると思ったのですが、その後叔母たちに連れられて先斗町の「我瑠慕」と叔母姉妹を見送り、午前様にはなりませんでしたが我々もホテルに戻れました。
- 旅行の満足度
- 4.5
- 観光
- 4.5
- ホテル
- 4.0
- グルメ
- 4.5
- ショッピング
- 4.5
- 交通
- 4.0
- 同行者
- カップル・夫婦(シニア)
- 一人あたり費用
- 5万円 - 10万円
- 交通手段
- 高速・路線バス タクシー スカイマーク JRローカル 私鉄 徒歩
- 旅行の手配内容
- ツアー(添乗員同行なし)
- 利用旅行会社
- 阪急交通社
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出町柳のバス停に京都駅方面からやって来たバスはほぼ満席で、妻は何とか座れましたがずっと立ちっぱなしでした。「八瀬遊園」の辺りで多少降りる人がいましたが終点まで混んだままでした。
出町柳駅 駅
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昼前でしたがすでに京都駅方面へ帰る人でバス乗り場も混雑しています。大原で行く予定は2カ所ですが、まずは「三千院」に向かうことにします。
大原 (京都市) 名所・史跡
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バス乗り場からはまずカンカン照りの炎天下の坂を上ります。景色はいいのですがこの日は天気が良すぎました。この辺りでは柴漬けに使う赤紫蘇が栽培されていますが、800年に渡り自家採種しています。赤紫蘇が他の青紫蘇やエゴマと交雑してしまわないように禁止事項があるそうです。
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かつて「大原郷土資料館」だった建物を改装した地元の野菜を使ったお昼ごはんが食べられる「松門」という店がありました。紋と一体化した松が見事でした。
味工房 志野 大原街道店 専門店
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この辺りから参道沿いに漬物屋さんが増えてきます。前日お昼を食べに行った「三嶋亭」の漬物が美味しかったのでどこかで買おうとは思っていました。
呂川茶屋 グルメ・レストラン
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「三千院」への参道の脇を流れる「呂川」を渡って坂を上ると展望台があり、平家物語にも出てくる「翠黛山(すいたいさん)」が見えました。「翠黛」は本来みどりのまゆずみですが、転じてみどりに霞む山の端のカーブを意味します。「平家物語」の大原御幸のくだりには、寂光院の周辺を描いて「緑羅の垣、翠黛の山、絵にかくとも筆も及び難し」とあります。
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ここは田んぼが広がっていますが、前の晩に宇宙人がやってきてストーンサークルを作ったのではないかというほど不思議な形をしています。
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ここには大原で保護されている赤紫蘇が栽培されていました。これが薄く切られたナスと塩でもみ込まれて赤い柴漬けになるわけです。
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参道に戻ってくると待っているはずの妻は「志は久」という漬物店に入って試食していました。これから「三千院」を参拝してお昼も食べるのにと思いましたが、試食してみるとおいしいので買い求めることにします。このまま持っては歩けないので、戻ってくるまで預かってもらうことにします。
志ば久 グルメ・レストラン
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登り坂の上にいちいちお店に引っかかるのでなかなか先に進みません。
大原女の小径 名所・史跡
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大畑には大原温泉があるようでその湯元の宿「芹生」が有名なようでした。ここでのお昼も考えていましたが決めかねていました。
大原温泉湯元 旬味草菜 お宿 芹生 宿・ホテル
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この奥には「音無の滝」があり、そこから続く川は「律川(りっかわ)」と呼ばれます。大原の「魚山」は仏教音楽である天台声明の発祥の地で、「魚山」を源とする「呂川」と「律川」の名前は和楽の律法に因んで名づけられました。調子はずれのことを「呂律がまわらない」というのもこのことが語源になっています。
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「芹生」の少し上を左に曲がるとようやぅ本来の参道のような趣になってきます。
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この石垣を見て40年前の記憶が蘇ってきました。その時は11月の紅葉の時期でしたが、前日の雨で履いていたLL.Beenのオイルレザーのローファーが濡れてしまい、白い靴下が茶色く染まって裸足になって寒かったなんてことまで思い出されます。
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「三千院」はかつては貴人や仏教修行者の隠棲の地として知られた大原の里にあり、粟田口にある「青蓮院」と京都国立博物館の近くにある「妙法院」とともに、天台宗山門派の三門跡寺院の1つに数えられています。
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妻は大原に来るのは初めてですが、その感慨よりも暑さと坂道で精いっぱいのようです。「御殿門」から境内に入ります。「御殿門(ごてんもん)」は三千院の玄関口で、高い石垣に囲まれ門跡寺院にふさわしい風格をそなえた城廓や城門を思わせる構えとなっています。
三千院 寺・神社・教会
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門の左右に広がる石組みは城廓の石積み技術などで名高い近江坂本の穴太衆(あのうしゅう)という石工が積んだもので、自然石を使った石組みは頑強でかつ美しく、時を経ても崩れないといわれています。穴太は現在でも地名として残っています。
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「客殿」に入って庭先に座り、ようやく落ち着くことが出来ました。暑い中庭の手入れを行っていて、庭木がきれいに刈り込まれていきます。
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西側の勅使玄関(ちょくしげんかん)から続く「客殿」の各室には、当時の京都画壇を代表する画家たちの襖絵が奉納され、当時若い世代であった竹内栖鳳、菊池芳文、重鎮であった望月玉泉、今尾景年、鈴木松年といった新旧の画家たちの競演となっていました。奉納された襖絵は現在は宝物館である「円融蔵」に所蔵されています。
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「客殿」の中の火灯窓が開けはなたれ、気持ちの良い風が流れてきます。元は中国から伝来したもので、禅宗様の窓として使われていましたが、安土桃山時代頃にそのデザイン性から禅宗以外の仏教寺院でも使われるようになります。
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普段は引かないおみくじを引いてみると「凶」でした。「よろこび事至ってすくなし。」「望み事かないがたし。」「病気長引けど本復す。」と凹みそうなことが書かれています。
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妻に「もう1回引いてきなさい。」と言われ100円玉を握りしめます。次は「大吉」になりましたが、書いてあることはあまり変わらないようです。ここで考えましたが婦2人だけだと健康以外に必要な項目がほとんどないということです。
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「聚碧園(しゅうへきえん)」は池泉観賞式庭園で、東部は山の斜面を利用した上下二段式で、南部は円形とひょうたん形の池泉をむすんでいます。江戸時代の茶人の金森宗和(かなもりそうわ)による修築と伝えられています。
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庭園隅にある老木「涙の桜」は室町時代の歌僧頓阿(とんあ)上人が詠んだ「見るたびに袖こそ濡るれ桜花涙の種を植えや置きけん」に由来します。
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縁側に座ってゆっくりしたいところですが、一見もみじの陰で涼しそうですが板は妬けるほど熱いので諦めます。
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続いて参拝した「寝殿」は写真撮影が禁止になっています。三千院の最も重要な法要である「御懴法講(おせんぼうこう)」を執り行うため、御所の「紫宸殿」を模して1926年の大正15年に建てられました。本尊は伝教大師作と伝わる薬師瑠璃光如来で秘仏となっています。
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「寝殿」からは自分の靴を履いて表に出なければなりません。これから紅葉が始まる前の青もみじがきれいです。
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「有清園」は「宸殿」より「往生極楽院」を眺める池泉回遊式庭園で、中国の六朝時代を代表する詩人の謝霊運(しゃれいうん)の「山水清音有(山水に清音有り」という言葉より命名されました。
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青苔に杉や檜などの立木が並び、山畔を利用して上部に三段式となった滝を配し、渓谷式に水を流して池泉に注ぐようになっています。
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「往生極楽院」は三千院の歴史の源とも言える簡素な御堂です。平安時代に天台浄土教の大成者である恵心僧都源信が父母の菩提のために姉の安養尼とともに建立したと伝えられます。
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「往生極楽院」に祀られている阿弥陀三尊像は堂の大きさに比べて大きく、堂内に納める工夫として、天井を舟底型に折り上げていることが特徴です。
その天井には現在は肉眼ではわかり難いですが、極楽浄土に舞う天女や諸菩薩の姿が極彩色で描かれており、まるで極楽浄土そのままを表しているようです。 -
堂内中心に鎮座する阿弥陀如来は来迎印を結び、向かって右側の観世音菩薩は往生者を蓮台に乗せる姿、左側の勢至菩薩は合掌して、両菩薩共に少し前かがみに跪く「大和坐り」をしています。
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北山杉からの木漏れ日が地面起こ毛の上に当たってとてもきれいです。
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わらべ地蔵は往生極楽院南側の弁天池の脇にたたずむ小さなお地蔵さまたちです。「有清園」と一体となってきれいに苔むしていて、もう何年も前からずっとたたずんでいるようです。わらべ地蔵と名づけられたこのお地蔵さまたちは、石彫刻家の杉村孝の手によるものです。
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一枚岩の橋の上から落ちないか心配です。
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古い切株には誰が始めたのか小石が積まれています。賽の河原の石積みを思い出させます。賽の河原のありさまは鎌倉時代の法相宗の僧侶の貞慶(じょうけい)が作ったといわれ、その中には「一つ積んでは父の為、二つ積んでは母の為」とあります。
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空を見上げると真っ青な空に大きな入道雲が見えました。
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「金色不動堂」まで上がって散策を続けるといくつものお地蔵様を見つけることが出来ます。同じ作者のものなのかまでは分かりません。
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頭の上に小鳥を乗せたお地蔵さまが一番可愛らしかったです。そんな地蔵菩薩ですが、釈迦の入滅後の5億7600万年後か56億7000万年後に弥勒菩薩が出現するまでの間は現世に仏が不在となってしまうため、その間の「六道(地獄道・餓鬼道・畜生道・修羅道・人道・天道)」すべての世界に現れて衆生を救う菩薩とされます。お地蔵さまが6体並んでいる「六地蔵」はそんな意味があります。
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「金色不動堂」の北の「律川」に架かる橋を渡ったところに、鎌倉時代の大きな阿弥陀石仏が安置されています。この阿弥陀石仏(売炭翁石仏)は高さ2.25メートルの単弁の蓮華座の上に結跏跌座(けっかふざ)している定印阿弥陀如来で、おそらく「欣求浄土(ごんぐじょうど)」を願ったこの地の念仏行者たちによって作られた往時の浄土信仰を物語る貴重な遺物だそうです。
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再び「律川」を渡って散策経路に戻ります。そろそろお腹が空いてきました。
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最後に「往生極楽院」に向かって手を合わせて境内を出ます。
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1回目に来た40年前は当時お付き合いのあった高校の時の一つ上のガルフレンドで、今回は妻の手を引いてやってきました。残りの人生で「三千院」をもう一度参拝することは無いなと感じました。
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暑い盛りの時間帯なのでさっぱりしたものが食べたく、「芹生茶屋」で冷たい蕎麦を食べることにします。
芹生茶屋 グルメ・レストラン
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冷房の効いた店内で冷たく冷えたビールをいただくと「三千院」の外にも極楽があったのだと実感します。「オン アミリタ テイセイ カラウン」と真言を唱えておきます。
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こちらはキノコ入りぶっかけ蕎麦です。大根おろしとわさびでさっぱりといただけます。
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妻は名物のとろろそばです。さすがに朝ご飯をたっぷり食べた後なので単品で我慢しました。
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他のテーブルに届けられるみたらし団子がおいしそうだったので、やっぱり追加してしまいました。
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「今宮神社」の東門前にある「あぶり餅本家根元かざりや」に話しになると、妻が食べたことがないことが分かりました。近いうちに連れて行かなければならないなと思いました。
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京都通の自分としてはあの味を味わってもらいたいものです。
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食事している間ずっと感じた視線はあんぱんまんと羊のショーンのものでした。
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「呂川」に沿った参道を戻りながら「志ば久」に立ち寄り、預けたお漬物を忘れずに受け取ります。
志ば久 グルメ・レストラン
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「赤しば」や「壬生菜」など4種類ほど買い求めました。家に帰って京番茶でお茶漬けを食べましたが、子供の頃に祖父母と食べた懐かしい味がしました。
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バスターミナルまで戻って、今度は「寂光院」に向かって歩き出します。すぐに「来隣(きりん)」という店で「里の恵み おにぎりランチ」を予約しようと思っていました。大原野菜のおばんざいとサラダバイキングもついていて魅力的だったのですが。店の前を通って中が混雑していたのでそばで良かったかなと思いました。
来隣 グルメ・レストラン
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ほんの数分歩くと辺りの風景は日本の原風景のような感じに変わってきます。
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田んぼの畔には刈り取られた稲が天日干しされています。束ねた稲を棒などに架けて約2週間ほど天日と自然風によって乾燥させます。この自然乾燥を「稲架掛け(はさがけ)」と言います。地方によっては稲掛(いねかけ)とか稲架(とうか)とも呼ばれます。最近なかなか見掛けない風景です。
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こちらはまだ黄金色の田んぼが広がっています。昨年みずほ銀行の「みずほ日本オールキャップ株式ファンド」という投資信託を勧められました。そのパンフレットには稲穂が首を垂れるイラストが描かれていました。そのイラストが左から右にかけて斜めに稲穂が伸びて、一番右では稲穂が首を垂れています。
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そのイラストが株価チャートのグラフに見えてしまい、担当者に「これって一度は上がって、最後は右肩下がりで縁起が悪い。」と一度は断りましたが、その後の基準単価を見るとその通りになっています。我が家の稲穂は塩漬けになりました。
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立札に「朧(おぼろ)の清水」とあり、建礼門院(平徳子)が寂光院に入る道すがらに日が暮れて、月の明かりでこの泉に姿を映されたという伝説が残っているようです。
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キバナコスモスがきれいに咲いていました。
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田舎道を過ぎると突然立派なお宅の並ぶ通りに差し掛かりました。
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しば漬けの歴史は古く、はるか平安時代末期まで遡ります。平家が壇之浦で滅亡した後に建礼門院は剃髪し尼となり、都から人里離れた大原にある聖徳太子が建てた尼寺である寂光院に身を寄せました。大原の人達はかつて皇后だった建礼門院に少しでも御所での高貴な日々を思い出してもらおうと色々考え、この地に古くから保存食として作られてきた紫の紫蘇の葉の漬け物を献上しました。建礼門院はこの紫色をたいそう喜び、紫葉(むらさきは)漬けと名付けたそうです。それ以降は紫葉(しば)漬けの名が定着したといいます。
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「大原女(おおはらめ)」は頭に「柴(しば)」を乗せて、京の町へ行商に出かけた大原の働く女性のことで、その服装は時代を遡ると平安時代に「寂光院」に穏棲された建礼門院に仕えた阿波内侍(あわのないし)が山仕事をする際に着ていた衣装がその原型と言われています。
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案内には「寂光院」まで徒歩15分とか20分と書いてありますが、実際はもっとかかります。
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ようやく「寂光院」に着きましたが、受付の後にさらに石段が待っています。
寂光院 寺・神社・教会
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「寂光院」は天台宗の尼寺で山号を玉泉寺といい、594年の推古2年に聖徳太子が父である用明天皇の菩提を弔うために建立されたと伝えられます。初代の住持は聖徳太子の御乳人であった玉照(たまてるひめ)で、日本仏教最初の三比丘尼の1人で慧善比丘尼と呼ばれました。その後は代々高貴な家門の姫君らが住持となり法燈を守り続けてきたと伝えられます。
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史料がなく詳細が分からないため藤原信西の息女の阿波内侍(あわのないし)を第2代と位置づけています。崇徳天皇の寵愛をうけた女官でしたが、出家のあと1165年の永万元年に入寺して証道比丘尼と称しました。出家以前は宮中にあった建礼門院に仕え、大原の里では柴売りで有名な「大原女」のモデルとされています。
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平清盛息女で高倉天皇の中宮で安徳天皇の母である第3代の建礼門院は、1185年の文治元年9月に入寺し、真如覚比丘尼と称しました。源平の合戦に敗れた後に「寂光院」に侍女たちとともに閑居し、壇ノ浦で滅亡した平家一門と我が子の安徳天皇の菩提を弔いながら終生を過ごしました。
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昨年に1月に横須賀からフェリーで新門司港へ入り、門司港に滞在しながら「壇ノ浦」屋「赤間神宮」を訪ね、少しばかり平家の滅亡の場所を見たこともあり、ここへ来たことは感慨深いことでした。
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桃山時代頃の建築の特色を残していると言われていた本堂は2000年の平成12年に放火による火災で焼失してしまいました。前住職の「すべて元の通りに」の言葉通りに、焼け残った木組みや部材を入念に調査し、5年の歳月を経て5年後に落慶しました。ヒノキ材で屋根は木柿葺(こけらぶき)で、正面3間に奥行3間で正面左右2間、側面1間は跳ね上げ式の蔀戸で内側は障子戸になっています。
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本堂には国宝修理所の故小野寺久幸仏師によって、形と大きさ共に元通りに復元された新たな地蔵菩薩立像が安置されています。「本堂」の中でお寺の方が寺の歴史などを教えてくださいました。左手からは五色の糸が延ばされているので、その先を握ってお祈りしました。「平家物語」にも「御庵室にいらせ給ひて、障子を引あけてご覧ずれば、一間には来迎の三尊おはします。中尊の御手には五色の糸をかけられたり…。」とあります。
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「本堂」に向かって右手前にある置き型の鉄製の雪見燈籠は豊臣秀吉が本堂を再建した際に伏見城から寄進されたものと伝えられています。火袋は側面を柱で5間に分け、各面に「五三の桐」の文を透し彫りにしています。
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「本堂」の前の西側の庭園は「平家物語」にも描かれるもので、「心字池」を中心に千年の姫小松や汀の桜、苔むした石のたたずまいが美しいです。姫小松は「平家物語灌頂巻」の大原御幸に「池のうきくさ 浪にただよい 錦をさらすかとあやまたる 中嶋の松にかかれる藤なみの うら紫にさける色」と伝わる松で、建礼門院が本堂正面に対座する翠黛山の花摘みから帰って来て、後白河法皇と対面するところにも登場します。
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「神明神社」への参道には結界の竹の棒が渡され、中に入れないようになっています。
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北山杉の木立が美しい場所ですが、「三千院」と比べてここへ訪れる人の姿はほとんどありません。特にインバウンドの観光客には人気が無いようです。昔のいい時代の京都を尋ねているような気分になれました。
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「建礼門院徳子 御庵室跡」には石碑が1本だけ建てられています。「本堂」の北奥に女院が隠棲していたと伝えられている庵跡で、現在はこのように石碑が立つのみですが、御庵室跡の右手奥に女院が使用したという井戸が残っています。
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江戸時代に建立された鐘楼には、「諸行無常の鐘」と称する梵鐘が懸かっています。学生の頃は「平家物語」の冒頭部分を覚えさせられたことを思い出します。「祇園精舍の鐘の声、諸行無常の響きあり。娑羅双樹の花の色、盛者必衰の理をあらはす。驕れる人も久しからず、ただ春の夜の夢のごとし。猛き者もつひにはほろびぬ、ひとへに風の前の塵に同じ。」
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タイやカンボジアを旅していると寺院の境内の中に「沙羅双樹」と呼ばれる木を目にすることがあります。これはタイのチェンマイ郊外のドイ・ステープのワット・プラ・タートの境内のものです。これは正確には「沙羅双樹」ではなく砲丸木(キャノンボール)だと後になって知りました。
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「仏教三大聖樹」というものがあり、釈迦が生まれた所にあった木は「無憂樹(マメ科)」で釈迦が悟りを開いた所にあった木は「印度菩提樹(クワ科」)、釈迦が亡くなった所にあった樹木が「娑羅樹(フタバガキ科)」だそうです。「平家物語」でいう沙羅双樹は「ナツツバキ」のことだそうです。
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参拝を終えて石段を下りながら感慨深く平家の栄枯盛衰に思いを馳せていましたが、妻にとっては表に出た正面にある京漬物と佃煮の店「翠月」が気になっていたようです。
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ここでもいくつかお買い上げで、どんどん荷物が重たくなっていきます。
京漬物と佃煮の店 翠月 グルメ・レストラン
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「寂光院」の東の背後の高台に建礼門院の墓所と伝えられる大原西陵があります。「三千院」の北にある後鳥羽天皇と順德天皇の大原陵に対して西陵といい、五輪塔が祀られているそうです。
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さすがに妻にここを登ろうとは言えずにバス停に戻ることにします。
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大原のバス停は混んでいましたが、うまく座ることが出来たので京都市内に戻ることにします。こんな風景を見ていると子供の頃に行った貴船のずっと奥にある「灰屋川」の川遊びで鮎のつかみ取りをしたり、桂川の川宿で屋形船を仕立てての川遊びのことを思い出します。清水の窯元の親せきやそこの職人さんや親族での楽しい思い出です。
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両親も含めて昔の人がどんどん少なくなってしまって、自分たちの行く末も案じてしまう年頃になりました。元気なうちに思い出をたくさん残したいと思います。
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市内に入ったバスを川端通りの三条で降りて、タクシーに乗りかえてホテルに戻りました。この日は清水で陶器を造っている叔父や叔母との食事会がありました。
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汗もかいたのでシャワーを浴びてすっきりしてクールダウンします。部屋の窓からは東山に当たる夕日がきれいです。
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子供の頃はよほど京都が楽しかったようで、東京に帰ってきた夜はもう祖父母にも叔母たちにも従妹たちもいないと思うとこの世の終わりのような気分になって泣いていました。今は妻が一緒なので泣きませんが、やっぱり京都っていいなと思います。
ホテルギンモンド京都 宿・ホテル
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会食の場所はホテルから近い麩屋町の「ほん田」でした。ミシュラン京都にも紹介されている「恒屋伝助」の姉妹店として「麩屋町伝助」をされていた板前の本田さんが2019年に独立したお店です。叔父たちによるとなかなか予約が取れないからと6月に東京であった際に日時を決められていました。
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灰屋川や桂川の川遊びでは高校生だった「東哉」の叔父も喜寿近く、小学生だった叔母たちも古希を越えています。久し振りの再会に話しも弾み、あまり料理の写真が撮れていませんでした。
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今回は神楽坂に住む叔父の娘であるハトコも来ていたのですが、二十歳過ぎの頃に可愛がっていたその子が48歳になりましたと言われたときはショックでした。その頃は予約もすぐに取れて、気軽に行けた「小室」という店も敷居が高くなってしまいました。「陶哉」の器を使ってくれるので好きだったのですが。
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名残りの鱧の湯引きです。今年はこれが最後になりました。
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モチモチの鰹のタタキも美味しかったです。ダイヤモンド・プリンセスで行った「よさこい祭り」を思い出します。また「ひろめ市場」と「得月楼(陽気楼)」には行きたいと思います。
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最後はすっきいりと素麵をいただきました。関西の人は本当に素麺好きだと思います。子供の頃はあまり好きではなかったので、毎年のように京都から素麺が届くのが嫌でした。
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デザートをいただいて、歩いてホテルに帰ろうとしたのですが、叔母たちに拉致されて「先斗町」に向かうことになりました。
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行ったのは叔母たちの行きつけの「我瑠慕」です。ここでまた昔話に花が咲いて楽しい時間を過ごしました。午前様になる前に何とかホテルには帰れました。
先斗町 名所・史跡
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