2024/02/15 - 2024/02/15
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kojikojiさん
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この旅行記のスケジュール
2024/02/15
この旅行記スケジュールを元に
次に訪れたのは「山吉肥料店」です。ここは現在もこの家の方々が住まわれている住宅ですが、時間が合えばご主人が主屋と内蔵を案内してくださいます。案内が始まる前に店先に並んでいる古い農機具の中に「ケラ」があったので57年前に横手のかまくらと梵天を観に来た旅のことと、父に買ってもらった「ケラ」の話を奥さんとしていると懐かしがって写真を持ってこられました。この本はすでに持っているのでその少女の写真も見たことがありました。そして「この写真で着ているケラがこれなんですよ。」と説明して下さいました。何とも奇遇でしたが、こんな出会いがあるものなのかと亡くなった父に感謝しました。興奮冷めやらぬ中にご主人に建築について教えてもらいました。続いて「日の丸醸造株式会社」の建物の見学に移ります。見学の前に店で日本酒の試飲をさせていただき、何本か買い求めました。いい気分で見学した内蔵の周りには秋田の古い藁細工が並び、まるで大阪の万博公園にある「国立民俗学博物館」の日本コーナーのようでした。さらに「旧守徳堂村田薬局」では古い薬局の看板や残っていた膨大な薬品に驚き、「佐藤又六家」では内蔵が通り近くにあることにも驚かされました。まだまだ見学したいところですが、最後に「まちの駅福蔵(旧佐藤與五兵衛家)」に立ち寄り、餅屋のぜんざいをいただき空腹を満たしました。ここは名前の通り餅屋さんで干し餅という伝統的な保存食を販売しています。店先には藁で結ばれた餅がたくさん吊られています。お土産はこれに決まりました。帰りのバスの時間になってしまい、増田町の観光はこれで終わり、バス停に行くと、横手駅前から一緒だったおじさんたちと再会しました。
- 旅行の満足度
- 5.0
- 観光
- 5.0
- ホテル
- 4.5
- グルメ
- 4.5
- ショッピング
- 4.5
- 交通
- 4.5
- 同行者
- カップル・夫婦(シニア)
- 一人あたり費用
- 5万円 - 10万円
- 交通手段
- 高速・路線バス タクシー ANAグループ JRローカル 徒歩
- 旅行の手配内容
- 個別手配
- 利用旅行会社
- 楽天トラベル
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続いては「山吉肥料店」の見学に移ります。主屋の建築はその外観の様式や建築後に行われた工事と思える漆喰の小壁に穴を開けた電線引き込みなどから、この地区に電気が通った明治43年以前の建築であることが推定されるようです。
増田くらしっくロード 名所・史跡
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表の店舗は昭和初期に改造されて事務所と資材置き場となっているようです。古い時代の肥料会社の看板がそのまま残っています。
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山吉肥料店は間口10.4メートルで奥行きは41.40メートルあり、庭をこえて裏口までの「通り」は100メートルあるそうです。
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屋号、家号(やごう)とは一家の特徴を基に家に付けられる称号のことで、日本の場合は家紋のように屋号を記号化や紋章化した屋号紋を指します。江戸時代では原則として身分制度により武士や苗字帯刀を許された家以外の者が苗字を名乗ることが認められていなかったため、人口が増加するにつれ同地域内で同じ名を持つ者が増え、個人を特定しにくくなります。
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古くからの地域や特定の集まりに根付いた家は、集落内における家の特徴を含んで屋号がつけられています。この家は山の形の下に吉の文字があります。その基地の文字も「士」ではなく「土」が使われ、末広がりを意味しているようです。料亭の吉兆も同じ考えです。山吉肥料店の店舗横にある暖簾をくぐると家の中とは思えないほど長い「通り」が見通せます。
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店舗の奥の座敷には立派な神棚とその下にお仏壇が置かれてあります。通常は神様の下に仏様を置くと優劣をつける形になるので忌むこともありますが、どちらも立派な設えです。増田町ではこのスタイルの置き方で、北向きに置かれている家が他にもありました。
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棟方志功の「梨牟醐華妃神の柵」の下には八幡(やばせ)人形の雛人形と燈籠が飾られています。八橋人形は18世紀後半の江戸時代に京都の伏見から来た人形師が鍋子山(なべこやま)で作った土人形が基になったといわれています。その後ハ秋田市八橋地区で盛んに人形作りが行われたので、八橋(やばせ)人形と呼ばれるようになりました。
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ここにも「ケラ」が展示してあったので、この家の奥さんに子供の頃の話をして、4トラベルにアップしている自分の写真をお見せしました。
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57年前の1967年の横手のかまくらと梵天(ぼんでん)の冬祭りを観に来たときの写真です。この衣装はお昼に入った料理屋さんでお借りしたものですが、「ケラ」は父が面白がって買ったものを着ていました。その時の「ケラ」は長年自宅の玄関脇に掛けられていたのですが、家を建て替える際に失われてしまいました。その話をすると奥さん「あら、もったいないわね。今ではもう手に入らないのよ。」と仰って1冊の本を持ってこられました。
昭和42年の横手の旅:https://4travel.jp/travelogue/10350435 -
「これ私なのよ。」と見せてくれた写真には見覚えがありました。
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奥さんはその当時は横手市に住んでいて、その結婚されて増田町へ嫁いでこられたそうです。70年前の少女にここで出会えるとは思いもしませんでした。こんな出会いが出来たのも幼いころから父が日本中を連れて回ってくれたお陰だと思います。
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「この写真を撮った時に着ていたのがこれなのよ。」と見せてくださった「みのぼっち」は昨日出来たかのように美しいものでした。
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横手市の旧増田町に含まれる戸波(となみ)地域では元禄年間に金沢から来た浪人の対馬監物(つしまけんもつ)が「ケラ」の作り方を教えたとされています。主材料は藁ではなく「ミゲ」と呼ばれる地元の山に自生している植物が使われます。黒い部分の飾りに使う材料は海草(うみくさ)」というもので、これを泥で黒く染めて使います。飾り用の「マンダ皮」という地元の山に自生しているマンダの木(シナ)の皮を裂いて使います。今回名前が分かったことで今までの謎が全て解けました。
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こちらのお宅は現在も生活されているので台所は土間だったところに新しく造られてありました。古い水屋は整備された姿で残されています。吹き抜けになった2階までの高さまでガラス戸が嵌められているのでとても明るい印象を受けます。緑の人研ぎの流し台が懐かしいです。昭和30年代の一般住宅の流しも同じようなものが使われていました。
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この家の内蔵は増田の土蔵文化の終盤期である昭和前期の建造だそうです。内蔵造りの盛んであった増田地域においても、昭和に入ると社会情勢や経済の変化や安価で施工期間の短いコンクリートの普及により、昔ながらの土蔵造りは激減しています。そんな時代の中で建造された内蔵は規模も大きく、土蔵の仕上げとなる漆喰には技の極といえる職人の卓越した技術を見ることができます。
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増田町の現存する内蔵の中では最も新しく昭和8年から数年かけて作られていますが、内蔵がメジャーになってから作られたため、蔵技術の集大成といってもいいほど見事な作りが見られます。1枚1トンもある扉の蝶番は内鞘と呼ばれる格子で覆われ、細工も細かく施されています。
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入口の右下には味噌壺が納められています。蛇腹になった扉でも煙や炎が入ってしまう可能性があるので、火事になった場合はこの味噌を扉の目地に詰め込んだそうです。
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残念ながら公開はされていませんが内蔵の1階は座敷蔵として、冠婚葬祭をするための場所として使われ、2階部分には家宝や冠婚葬祭を行なうための道具が保管されているとご主人の説明がありました。
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通りはきれいに整理されていて、大きな窓は奥まで続いているので内蔵がより美しく見えます。
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昔の番傘たてまできれいに残されていて驚きます。これと同じものは北海道を旅した際に各地の鰊御殿の玄関でも見掛けました。鰊御殿を建てたのは山形当たりの大工だと聞いたことがあるので、東北から伝わったのだろうかと思いました。
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1階の窓と扉の全てには「鞘飾り」が取り付けてあります。黒漆喰を保護するためのものですが、現在のダブルスキンにも通じるような美しさを感じます。
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麻の花をモチーフにした「組子細工」は今から約1,400年前に仏教が百済から伝来した際に寺院建築に必要な職人や道具、技術も伝わってきました。釘を使わずに木を幾何学的な文様に組み付ける木工技術のことで、細くひき割った木に溝・穴・ホゾ加工を施しカンナやノコギリ、ノミ等で調節しながら1本1本組付けする繊細な技術です。格子状に組みつけた桟の中に「葉っぱ」と呼ばれる小さな木の部品を様々な形にはめ込むことで幾何学模様を表現します。通常横の1本を通すことが多いですが、この家のものは斜めの1本が通っているという複雑な造りになっていました。
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1階は五段蛇腹で2階は四段蛇腹になっているようです。煙は上に上がるので上の階の方が壇数が多い方がよいと思いますが、全体的なバランスもあるのでしょう。
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通りの一番奥から水屋方向を見返すと、やはり南側の大きな窓からの採光が美しいです。冬場でもこれだけ明るいのですが、通常の冬の場合は1階の部分は雪で覆われてしまうそうです。
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地元の湯沢市雄勝町の院内で切り出された院内石の基礎部分には通気口の役目をする開口部があります。家紋の入った石は扉のようにスライドして塞ぐことも出来ますが、基礎を積むときに組み込むので後から外したり取り換えたりすることは出来ないそうです。
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L字になった「鞘飾り」の出隅みの美しさこの家が一番だと思いました。内蔵の正面は黒漆喰ですが、脇と裏側は白漆喰で仕上げられています。それだけ黒漆喰が高価だということですが、この縁周りには増田町の内蔵の技術の粋が詰め込まれていると感じます。
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全てが黒漆喰というわけではなく角は全て白漆喰になっています。どんな鏝を使うとこれだけ正確な角や曲線が表されるのだろうかと思います。
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とびらの「鞘飾り」は付けたままだと扉は閉められません。とはいえ火災の場合はすぐに閉めなければなりません。そのため簡単な脱着が出来るようになっています。
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扉の引手のリングの部分に内径と同じ太さの木材を差し込むと動かないようになります。
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扉の枠に設けられたこのデザインは白蛇をかたどったもので、邪悪なものが内蔵に入らないようにとの思いが込められているのだそうです。
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内蔵を通り過ぎて裏側の庭も見学させていただきました。隣家との間を流れるのは「下夕堰(下関)」と呼ばれる用水路で、2.4キロ離れた成瀬川の水を十文字町方面へ流しています。生活用水や防火用水に利用される増田には不可欠の堰で、もともとは増田城(土肥城)の堀の水として活用されていたことから、佐竹氏が秋田に入部する以前に開発されていたと考えられます。
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用水の脇には石段があり、昔はここで洗濯をしたり野菜などを洗っていたそうです。
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水屋の横には養蚕の道具や蚕の繭、完成品の真綿が展示されています。父の実家は庄屋のようなことをしていたので、家で養蚕も行っていました。同じような道具が蔵の中にあったのをよく覚えています。真綿(まわた)は絹の一種で蚕の繭を煮た物を引き伸ばして綿にした物で、日本では室町時代に木綿の生産が始まる以前は、綿という単語は即ち真綿の事を指していました。
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中山人形のお雛様が飾られています。元々は南部藩に招かれた鍋島藩の陶工野田宇吉が飢饉から九州の地を離れ、明治初期に平鹿町中山に開かれた中山焼きを受け継いだものです。養子の妻であった樋渡ヨシが宇吉から習った粘土細工で土人形を作り始めたのが起源とされます。各地の朝市を売りに歩いたと言われ、これだけの人形を集めるのは長い時間がかかったのではないかと思えます。
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昭和35年の横手市の「犬っこ祭り」で買われた米粉で作られた犬っこが飾ってありました。奥さんは「よく残ってるでしょう。」と少し自慢げでした。
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犬っこまつりは元和の昔より約400年もの長い間続いたといわれる湯沢地方の民俗行事です。そのころは白昼堂々と人家を襲う「白討(はくとう)」という大盗賊がいましたが湯沢の殿様がこれら一味を退治し、再びこのような悪党が現れないようにと米の粉で小さな犬っこや鶴亀を作らせました。旧小正月の晩にこれを家の入口や窓にお供えして祈念させたのが、犬っこ祭りの始まりとされています。夕暮れになると子どもたちが門口に雪で作ったお堂の中に犬っこを餅や甘酒などとともにお供えして、夜が更けるまで遊び明かす風習がありました。
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「旧松浦千代松家」の創建者である松浦千代松は煙草商人として太成功を収めましたがたばこ産業が官営となったため、電気事業を発案して増田水力電気(株)を創立します。戦時中まで平鹿から雄勝、仙北地方に送電を行い増田の名声を大いに高めました。
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横手ではこの日の晩から雪まつりが開催されますが、増田町は閑散としていて観光客の姿もほとんどありません。横手の梵天は2月16日と17日の土日で、増田町は翌18日の日曜日に梵天が開催されるはずですがそんな様子も全く感じられません。
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「旧石直商店」は明治16年の1883年に生糸商を営んでいた実家より分家し、この地で呉服商を営んだことが始まりで、現在の店舗と主屋は分家時に新築されたもと思われます。店舗は昭和40年代に改装されましたが、それまでは店舗前の1間が土間で、その奥が板の間敷きの昔ながらの呉服商の店舗であったそうです。現在は骨董品やになっていましたが、この日は閉まっているようでした。
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「日の丸醸造所」は元禄2年の1689年に沓澤甚兵衛が創業し、大正2年の1913年の日英大博覧会で1等金牌を受賞しました。戦時中一時廃業したものの昭和23年の1948年復活し、現在に至っています。店舗は街道に西面して建つ平屋建ての建築です。
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妻面は化粧梁と化粧束、そしてその間の漆喰壁とが創り出す黒と白の対比が美しく、店舗に掛かる下屋庇と主屋の大きく緩やかな屋根と相まって、伝統的な町家の様式を伝えています。
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内部は増田の商家らしく、南側に吹き抜けの「通り」を配して、店舗から醸造蔵まで屋内を往来できるようにし、同時に家の中心部まで光が届くよう高窓を取り付ける工夫がなされています。北側には事務室や応接室などを配し、その奥に居住スペースを設けています。
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通りを挟んだ前には大きな杉玉が吊るされ、注連縄が掛けられています。蔵の名前の「日の丸」は秋田藩主佐竹公の紋処が「五本骨の扇に日の丸」だったことに由来しています。
日の丸醸造株式会社 名所・史跡
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この酒蔵の見学は有料なのですがその料金分のコインが貰えて、そのコインで試飲をすることができます。もちろん無料の試飲も出来ます。いい気分になったところでお酒を買い求め、蔵の見学に移ります。巨大な差醸造タンクが置かれた入り口も黒漆喰の扉がありますが、こちらは中には入れません。
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愛で染め抜かれた「日の丸」の文字が凛々しいです。
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酒の醸造蔵と葉別に横なら煮の位置に内蔵があります。ここには注連縄が掛けられ、紙垂(しで)も付けられています。紙垂は稲光や稲妻をイメージし、邪悪なものを追い払うとされています。古くは稲光が穂を実らせると信じられていたそうで、稲光や稲妻というように、いずれも「稲」の文字がみられます。「稲光を浴びた米はおいしくなる。」と言われます。
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藁細工はケラ、ワラジ、釜置、魚皿、猫つぐら等の衣食住に関する用具、種通し、橇(そり)タガ、ワラダ、雀取り、馬ワラジ、手綱等の生業に関する用具、背中あて、モッコ、荷縄等の運輸に関する用具、米俵、カマス等の交易に関する用具があります。
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さらに火消し纏などの社会生活に関する用具、エヅメ等人の一生に関する用具、輪投げ、わら相撲等の娯楽遊戯に関する用具、しめ縄、恵比寿俵、盆馬(ぼんま)などの年中行事に関する用具があり、生活の様々な場面で使われました。
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この円筒形の藁沓は森県津軽地方や秋田県横手盆地、山形市や福島県会津地方では「踏俵(ふみだら)」と呼ばれます。
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2個の俵にそれぞれ脚を入れ,取っ手や縄をつけて手に持って雪の上を歩き、踏み固めて道を作るための道具です。
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翌日から始まる横手市の「梵天(ぼんでん)」で担ぎ手が履く独特な形の「草鞋」です。今年は雪が無いのでどうなのだろうと思っていましたが、1人だけ履いている方がいらっしゃいました。昨年同じころに行った八戸の「えんぶり」ではこれとは違った雪靴を履いていてカッコよかったです。本来の藁で作ったものを加工して、スノーブーツの上から被せるようになっている物は子供たちにとっては寒く無くて良さそうでした。
はちのへえんぶり:https://4travel.jp/travelogue/11816585 -
雷がなると稲がよく育つことからも、古くから雷は神様の力のあらわれと考えられており、「紙垂」の形は稲妻を表すと言われ、一緒に垂れ下がっている「房」は雨を表すと言われています。
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内蔵には衝立が置かれてありました。何の説明も無いので見落としそうですが、秋田名産の「蕗摺り」というものです。これは魚拓のような形で蕗の葉をそのまま絹地などに摺り染めたものです。「秋田市立赤れんが郷土館」で見たものを覚えていて良かったです。
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他の内蔵に倣って、ここも板の間があり、その奥が畳敷きになっています。その間には仕切りのための巨大な梁の役目を兼ねた鴨井が渡され、欄間には縁起の良い亀甲の「組子細工」が嵌め込まれています。
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誰の作品かまでは分かりませんでしたが、文人画家が増田町に来て、日の丸の主人に請われて達磨大師が日の出の通い徳利を持っている姿を描いたようです。
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この「文庫蔵」は明治41年の1908年に完成し、今日まで修復したのは床板と畳と障子だけで、内部の漆は当時のままのようです。見どころはここでも一尺間隔で並んだ青森ヒバの通し柱で建て主と棟梁のセンスの良さを感じさせます。
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漆塗りの階段も手を咥えていないというのが驚きです。残念ながら2階は公開されていませんでした。試飲のお酒をいただいていい気分なので、この座敷で少し昼寝でもしたい気分です。
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「旧守徳堂村田薬局」も覗いてみることにします。店蔵の建築年代は口伝によると明治後期とされていますが、躯体の接合にボルトが使用されていることや類似の建物の建築年代からも明治後期から大正期と推定されるようです。
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江戸時代の中頃伊勢国から増田に移住し、平成15年まで薬舗を営んでいた増田最古の薬舗です。通り側に店蔵が建ち、その奥に主屋と内蔵が繋がっています。さらに中庭を隔てた奥には外蔵と離れが建っています。隣接していた建物が取り壊されて、駐車場になっているので建物の側面の様子がよく分かります。
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店蔵の1階は土間となっており、昭和30年頃には調剤室が設けられていました。2階は薬品などを保管する倉庫として使用されており、床は板張りで天井は竿縁天井で廻り縁は洋風の繰り方が彫られており、凝った意匠となっています。
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津村順天堂の中将湯の古い看板が残されています。中将湯は順天堂の初代津村重舎の母の実家である奈良県の藤村家に代々伝わる婦人病の妙薬でした。この薬の由来は、能や浄瑠璃に演じられてきた「中将姫伝説」に始まります。
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天平19年の747年に藤原鎌足の曾孫である藤原豊成とその妻、紫の前との間に待望の女の子が生まれ、中将姫と名付けられました。姫が5歳の時に母が亡くなり、父は後妻を迎えましたが継母は姫を憎み、ついには殺害を企てるようになります。家来はひばり山の青蓮寺に姫を隠し、最初に身を寄せたのが藤村家といわれ、婦人病に良く効く秘薬を藤村家に伝え、それが藤村家家伝の薬「中将湯」になりました。昨年青森の「あおもり北のまほろば歴史館」で古い看板についていろいろ調べたことが役に立ちました。
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「井上博士のロート目薬」の井上とは井上豊太郎という人物で、島根県医学校から獨逸学協会学校を経てドイツへ留学します。ミュンヘン大学の恩師であるアウグスト・フォン・ロートムントの処方箋を参考に目薬を処方し、現在のロート製薬の前身の信天堂山田安民薬房の山田安民が「ロート目薬」として調製・発売を始めます。広告には「井上博士のロート目薬」というキャッチコピーが付けられました。
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かまぼこ彫の見事な木彫看板が素晴らしい状態で残されています。まるで数日前に出来上がって届けられたばかりのようです。
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折りたたまれた薬包紙(やくほうし)や積み上げられた内服薬の袋がリアルな状態で残されています。
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1階の薬局の奥に地下室があるというので見せてもらいます。
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院内石で組まれた地下室が出てきました。ご主人によるとこの家を建てる前に石組が作られたとのことです。
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地下は薬品などの保管庫として使われたようです。用水路が脇を流れているのに水が漏れないものだと感心します。3面を院内銀山の切り石を積み上げ、1面は玉石になっています。玉石を用いることで湿気を取り除くことができたそうです。
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今度は薬局の2階の見学に移ります。造りは今までの内蔵と同じようですが、かなり傷んでいるようです。階段の折口には板戸があり、2階を使わないときは閉められるようになっています。
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2階にはたくさんのガラス棚が並び、古い薬や調剤道具などが並んでいます。
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注射器や聞いたことも無い薬品が手つかずのまま並べてあります。「強力納豆菌」は文字通り納豆を作るためのものでした。横手は納豆発祥と呼ばれる町です。
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昔の漢方薬を入れた「百味箪笥」まで置かれてありました。
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表祖折に向かって設けられた窓だけが明り取りになっています。
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百毒下し(ひゃくどくくだし)は三重県四日市市赤堀に本社を置く翠松堂製薬㈱が製造販売する一般用医薬品で、現在も販売されています。処方は近代医学の開祖である松本良順が、明治25年の1892年に四日市の宿場町で製薬所を営んでいた同社に伝えたものです。
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竿縁天井で廻り縁は洋風の繰り方が彫られており、凝った意匠となっています。時代がかったロッキングチェアーがいい味を出しています。
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驚いたのが明治時代からであろう碍子(がいし)がそのまま使われているということです。よく見ると電線もかなり昔のもののようです。漏電などしないのか心配になってしまいます。
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通りを通って奥の建物も見学させていただきます。右側の壁が白漆喰の内蔵で、人の背丈ほどの「鞘飾り」で囲われています。
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きれいに整備された内蔵も素晴らしいですが、生活感の感じられるこの家も1つくらい見学して良かったと思います。
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この家の内蔵は今まで見てきたものと違うタイプで、重厚な蛇腹の扉はありません。
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防音効果が良いのでとても静かなのだそうですが、窓がないということと湿気があるというのが欠点だということです。
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その奥には白塗りの内蔵がもう1棟あります。こちらは三段蛇腹の扉があります。
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内部は院内石を敷いたままで、現在も味噌や醤油を造っているということでした。
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先ほどの「下夕堰(下関)」の下流に当たり、裏庭の辺りで十字に水路は交差していました。
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碍子好きにはたまらない天井配線です。碍子とは電線とその支持物とのあいだを絶縁するために用いる陶器製の器具です。食器と異なり外観品質を問われない碍子は生産が容易であり、陶磁器業界各社の重要な収益源となり、日本陶器合名会社、後のノリタケカンパニーリミテドでも造られました。
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次は「佐藤又六家」は江戸時代から続く旧家で、明治28年の1895年に増田町で創業された増田銀行(現北都銀行)の設立発起人の1人として創業時の取締役を務めた地域の名士の家柄です。
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外見上は他家と同様に木造の屋根の妻を張り出した大きな切り妻屋根の商家造りですが、表に面したこの大戸を潜ると内部は土蔵造りで、いつ蔵に入ったか分からない不思議な感覚に陥ってしまいます。
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大戸を潜った建物の延長に通りがあり、北側に座敷があります。壁の白漆喰と通し柱を見るとここがすでに蔵の中なのだと分かります。そんな蔵の中でありながら囲炉裏が切ってあります。通常は畳と囲炉裏の縁の間に板間がありますが、ここでは茶道の炉のように直に繋がっています。
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隣の部屋は北側に窓が設けられ、明り取りになっています。現在もこの家では普通に生活されているそうです。
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ストーブから延びる煙突が部屋の中を横切って北側の窓に続いています。以前北海道の農業試験場に勤めている弟の家に遊びに行ったことがありました。北見からさらに電車を乗り換えた留辺蘂にあった農業試験場の公宅は明治時代に建てられたレンガ造りで、家の中を縦横無尽に煙突が走り回っていました。この煙突を見て網走刑務所のような家のことが思い出されました。
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座敷の掛け時計はこの家が建てられた明治4年に購入されたアメリカのニューポートというメーカーのものだそうです。現在も何日かに一回ゼンマイを巻くと時を刻んでいるそうです。
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ここにも番傘を収納する棚がありました。冠婚葬祭時には襖と障子を取り外すと大広間として使えるそうです。
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通りは座敷の角で曲がって、さらに奥に続いています。また大戸の手前には2階へ上がる階段が見えます。
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この家でも北側に面して高い位置に神棚が組み込まれています。下から見上げると垂木や斗供(ときょう)も本格的です。御神鏡も置かれてありますが、この高さでは参拝する自身の姿を映し、穢れのない心で神の前に立つという訳にはいかなそうです。下にある仏壇は真下にならないように芯をずらしてあります。
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靴を脱いで2階へ上がらせていただきます。今回は豪雪地帯に来るということでスノーブーツを履いてきましたが、増田の町では内蔵の見学に靴を脱がなければならないので脱ぎ履きが大変でした。妻は途中であきらめてしまったほどです。
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階段を上がり切った所には渡り僧かがあり、先ほどは見上げた神棚を見下ろすようになります。
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この吹き抜け食うかhhアヒ上にデザイン的に優れていると思いました。
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2階には小さな部屋が二間続いています。驚いたのはこの梁で、手斧(ちょうな)の痕が残っていました。つまりこの角材はのこぎりで製材されたものではなくて、手斧という小野のような道具で削って成形しているということです。また5段に組むことで重たい屋根を支えていることも分かります。
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七面あった天井で圧迫感はありますが、非常にすっきりとして居心地の良い部屋です。北側から差し込む障子越しの明かりも風情があります。
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表通りに面した座敷には床の間があります。古い襖の絵のセンスの良さを感じます。この町の家はどこも文人趣味が感じられて、見学していても気持ちよいです。
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座敷からは段違いで表に出ることができ、縁側のような空間があります。ここで座敷側の壁を見るとここまでが内蔵であったことが分かります。
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この縁側からは小安街道を見渡すことができます。方向が逆なので増田の花火は見えませんが、増田盆踊りや梵天(ぼんでん)を見るには特等席だと思います。
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部屋の祖手でありながらここにも床の間のような設えがあります。ここは新しいようなので明治時代のオリジナルかは分かりません。
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黒漆喰に白い模様は白蛇を表しているのでしょうか。
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1階に戻り座敷の奥の見学に移ります。白漆喰の壁に黒い柱の組み方がとても美しいです。臨済宗の庫裡の建物を見ているようです。
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右側の壁が南側になるので採光は考えられていますが、窓はそれほど大きく葉ありません。
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内蔵の奥には文庫蔵がありました。とても落ち着いた空間で、代々の当主が子供の頃に遊んだという木馬が置いてあります。この家の当主は代々又六と言う名前を継ぐようで、これは戸籍まで変更するということでした。
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現在も味噌などを付けているそうです。
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ここまで増田の町で見てきた寄木細工が全部揃っているようです。上から長寿を願う亀甲紋、井桁に麻の葉が組み込まれています。
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朝バスで着いたときは閉まっていた「まちの駅福蔵(旧佐藤與五兵衛家)」に立ち寄ります。妻はソフトクリームの看板に惹かれたようです。佐藤與五兵衛家は代々の地主であり、戊辰戦争では御用金を献納した名家で、明治時代には増田銀行設立時に監査役の1人となりました。大正期に増田勧業社を設立し、セメントやトタンなど建設資材を扱う商いをしていました。
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座敷蔵は2階建て切妻造りで、納められた棟札より明治12年の上棟であることが確認されています。正面の妻壁や鳥居枠、土扉は黒漆喰仕上げとなっていますが、角を欠き込んでないところからも建築年代が古いことが窺われます。
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内蔵の周りはコブ栂たくさん並べられて不思議な空間になっています。特に売っているわけでもなさそうです。
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内部は太い柱が一尺間隔で配置されており、2階の小屋組は重ね梁となっています。欄間は麻の葉模様の組子で仕上げられ、また1階の木部は総漆塗りとなっています。
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大きな招き猫の周りには七福神の姿もあります。
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土間の辺りはごちゃごちゃしていましたが、内蔵の中は整頓されて漆塗りの床板が美しいです。
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一尺間隔で配置された柱も漆の色が違いリズム感が感じられます。床の間と柱の間は砂壁になっているのが目新しいです。
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蛇腹の扉の内側には網を張った木製の扉があります。この扉のデザインも斬新です。
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2階は解放されておらず、扉が閉まった状態を知ることができました。
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現在のこの家は餅屋で店の中には干し餅が吊るされていました。元来は農村部で保存食として伝えられてきました。ついたお餅を厳冬の吹雪にさらして作るものです。
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お昼も食べないで日の丸のお酒の試飲だけで夕方になってしまいました。ここでぜんざいをいただくことにします。
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お餅屋さんだけあって焼き立てのお餅が香ばしくて美味しかったです。少しお腹が落ち着いたところで、この店の前のバス停から横手駅まで戻ります。バス停には朝一緒だったおじさんたちもいました。
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ほぼ予定通りの時間に横手駅に戻ることができました。これからかまくらの祭りだというのに駅前は閑散としています。
横手駅 駅
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まずはホテルに戻って温泉に浸かってから晩御飯をいただき、夜のかまくらを観に出掛けます。雨が止んだのでホテルのかまくらも補修作業の最中でした。
横手駅前温泉 ホテルプラザ迎賓 宿・ホテル
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旅行記グループ
2024横手かまくら・梵天祭りの旅
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57年振りの横手のかまくらと梵天の旅(2)横手駅からバスで増田町を目指し、蔵の町を訪ね歩く。
2024/02/15~
横手
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旅行記グループ 2024横手かまくら・梵天祭りの旅
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