2023/04/29 - 2023/04/29
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たびたびさん
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今日のメインは平和公園と長崎原爆資料館。その他の被爆遺構も訪ねます。
なんと言っても日本は世界で唯一の被爆国。世界に向けて原爆がいかに恐ろしいものであるかを伝えることは我々の義務であると思います。しかし、一方、日本の安全保障はアメリカの核の傘に守られているというのも紛れもない事実。核のない平和について考える時はいろんな論点が必要で、なかなか一筋縄ではいきません。けっこう悩んだり、迷ったり。また、ウクライナの例を見るまでもなく、戦争は今もそこにある現実の問題ですからね。
ところで、視点が変わって少しローカルな話題ですが、広島市では、先般、平和記念公園とパールハーバー国立記念公園との間の姉妹公園協定の締結が行われたことに伴って、ちょっとした騒動がありました。市議会において、市の担当者がアメリカに対して、”原爆投下の責任論を棚上げして”云々という発言を行い、それが不適切であるとの意見が多く寄せられたのです。
私も耳にした瞬間違和感があったのですが、よく考えてみるとそう単純ではない。考えたことを少しまとめてみましたので、この機会にご披露したいと思います。
まず、不適切であるとの指摘は「原爆の投下は人類に対する挑戦であり、米国には当然その責任があって、それを棚上げするとはけしからん」という主張ですから、原爆の非人間性を考えればその主張はとても理解できるものです。しかし、同時に、ここで責任論を持ち出すことにもやはりそれなりの唐突感や違和感を感じざるを得ないのも正直なところ。
というのも。。第二次世界大戦が終わって、世界はそれを二度と繰り返さないために様々なチャレンジをしました。国連が出来たのもそうですが、日本は侵略戦争をしかけた国であるとして戦争裁判では多くの指導者たちが戦犯として裁かれ、占領軍である米国は天皇の人間宣言や象徴化も含めて軍国主義の原因を徹底的に排除しようとやっきになりました。そんなこともあって、日本に生まれた新たな平和主義は、平和憲法以下米国から押し付けられたものであるという指摘もありますが、もちろんそれだけではありませんよね。
日本の平和主義はとにかく戦争はダメ、平和が大事とひたすら唱える平和主義ですが、それは悲惨な戦争体験を経てもう戦争はこりごりだというほとんどの日本人の真実の声に基づくものです。嘘偽りのない純粋な声に基づく平和主義なのですが、ただ、これは見方を変えるといわゆる戦争の総括を避けた面がなくもない。日本の戦争は侵略戦争だったのか。戦争の責任は指導者だけにあったのか。靖国神社のこともそうですが、戦争を総括しようとすると必ずこうした意見が出てきて、国論は混乱し分断される危険があったはずです。日本の平和主義は意図してその危険を避けたものではないと思いますが、いずれにしてもこの平和主義の在り方は大正解だったのは間違いない。国論の統一に成功し、戦後の国際社会の中でも日本は一定の評価を得ることになりました。これは、むしろ米国の平和統治政策の上を行くものだったのではないかと思います。ちなみに、歴史問題を主張する韓国は進歩と保守の深刻な分断を招いていて、当たり前のように思える歴史を総括するということが現実にはなかなか容易ではないことをある意味証明していますし、また、戦争の怖さとは実はそういう総括できそうで総括できない、理性を超えた人間の業(ごう)のようなものが絡み合っているところにあるのではないかとも感じます。
こうした平和主義の日本に対し、米国は自由と民主主義を守るというのが旗印。大戦後もそのために多くの人命を犠牲にしてきましたが、パールハーバーはその原点。ベトナム戦争も民主主義を守るというのがその大義だったし、それは今も米国が現に直面している問題であって、けっして過去のものではありません。そして、いろんな主義主張を乗り越えて、戦後の平和を維持するためになんとかかんとか作り上げてきた世界秩序。それを壊してはならないというのが我々西側の考え方の基本です。力による現状変更の試みに反対する。それはとても重い意味を持っているのです。ソ連が崩壊し長い冷戦の時代が終焉した以降も新しい国際関係は多極化し、不安定となっていることは認めますが、ロシアや中国の力による現状変更の試みは第二次世界大戦後のこれまでの努力をすべて無に帰することにもつながりかねず、簡単に容認することはできません。
ただ、反面、日本の平和主義と米国の自由と平和を守るという旗印も、実は戦後の世界情勢の中でうまくタッグを組めたものであって、微妙に同床異夢の面がないとはいえない。パールハーバーは戦後の世界秩序を守っていく米国の使命に直結しているとは言っても大国主義と紙一重だし、一方の日本の平和主義は万国共通のようでいて、実はスタンダードとはなっていないのですが日本人はあんまりそれに気が付いていないようにも思います。太平洋戦争は侵略戦争であり、悪いのは日本の象徴がパールハーバー。だけど、原爆の悲惨さを見ればあんまりだよねというのが平和公園。互いに違う風景を見ていると言えなくもないし、そこに責任論なんか主張できる余地はあるのでしょうか。しかし、少なくとも平和を願う気持ちには共通のものがあるし、だからこそ、それぞれに多様な価値観とのせめぎあいの中での苦悩があることも理解する必要があるのではないでしょうか。そして、こうした関係性を認め同調することは日本の主張する平和主義と矛盾するものでもないのです。日本の平和主義は責任論や戦争の総括を避けることで上手に国論をまとめ、平和主義を広く浸透させることに成功したではないですか。それなのにパールハーバーについてそれを蒸し返すのは、そうした日本の平和主義の在り方にも棹を差す態度だと思います。戦争はダメ、原爆はダメ。繰り返してはならない。パールハーバー、平和公園それぞれで平和を考える。原爆の悲惨さについても立場の違いを乗り越えて理解を深めていく。私はそれこそが日本の平和主義なのではないかと思います。
一方、ここでもうひとつ、巷間、気がかりとされているのは米国の変化。自由と民主主義を守るという旗印が揺れて国内が不安定化し、国際社会においても求心力が弱まっていることです。日本の平和主義がこれにどう向き合っていくか。とても難しい時代に入ってきているような気もします。もちろん、情勢の変化への柔軟な対応は必要ではあるのですが、少なくとも日本の平和主義の在り方には普遍的なものがあると信じたい。被爆国として世界平和に貢献できる余地もまだまだ多いのではないかと思います。
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今日は一日中雨の予報。まあ、最後の日くらい雨になってもどうということはないでしょう。
今日のメインは原爆資料館ほか平和公園の辺りなんですが、まずはその前に、眼鏡橋のある中島川周辺から、大工町の方へ出てシーボルト通りからシーボルト記念館まで一気に歩きます。
めがね橋の電停から、さあ出発です。
中央公園は、めがね橋の電停から歩いてすぐの公園。市街の真ん中にあるなんでもない都市公園ですが、ランタンフェスティバルの期間中は主要な会場の一つ。児童公園によくある遊具の設置とかもなくて本当に殺風景。ランタンフェスティバルの期間中の賑やかさを思うとけっこうギャップを感じます。中央公園 公園・植物園
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では、中島川の方に出まして。
出たところが、袋橋。アーチ橋ですが、そこまで盛り上がってはいないですね。 -
昭和57年の長崎大水害により半壊したものの原型に復元。眼鏡橋に次ぐ古い橋との説もあるようです。
ここから、上流に向かって歩きます。 -
川沿いにはいろんな石碑もありまして。
これは、近藤長次郎の碑。高知城下の饅頭屋の息子として生まれながら、維新の志士として活躍した人物。龍馬の盟友であり、長崎では龍馬と亀山社中を設立。事実上の責任者だったと言われます。碑はまだ新しいもののようですが、長次郎が身重の妻お徳に送った最後の句が刻まれています。
うき雲の たちおほふなる うきよなり きへなハこれを 可たみともみよ -
それにしても、中島川には有名な眼鏡橋を始めとして数多くの石橋が架かっています。常盤橋、袋橋、眼鏡橋、魚市橋、東新橋、芊原橋等々。傍らに案内板がありましたが、図によるとすべて寺町の方に向かう道を通していることが分かります。
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眼鏡橋はもっとも有名ですが、
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東新橋もちょっと雄大な趣があって、なかなかの橋。
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ただ、石段を上がって渡るのでちょっと面倒くさいかな。
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今度は、一覧橋。
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もともとは明暦3年(1657年)、高一覧によって架けられたので一覧橋。現在は昭和57年の長崎大水害で流出した後に架けられた二代目でコンクリートアーチ橋となりました。
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中島川のほとりに建つ大きなお寺、光永寺です。創建は慶長19年(1614年)。長崎の開港により、長崎は一時キリシタン領のようになって神社仏閣は焼かれ、仏教徒は領外追放。それを憂い奮闘した唐津の慶西がそれを認められ、幕府からここに寺地を与えられたと説明されていました。
光永寺 寺・神社・教会
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山門から入ると大きな銀杏の木が目立っています。
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本堂もちらりと拝見です。
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中島川の東側に渡ってすぐの中通り商店街。中島川と寺町通に挟まれたような位置関係で、商店街の細い通りが伸びています。アーケード商店街でもないので、地元の小さな商店街といった感じ。街灯が長く続いているのと石畳の通りの感じが落ち着いた雰囲気です。
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さらに上流に向かって、
これは編笠橋 -
これもいい感じなんですが、長崎大水害の後に架けられたコンクリートアーチ橋です。
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桃渓橋は、少し小ぶりですが、車も通行する橋。長崎大水害後に復元された橋ですが、往時の雰囲気がそのままのような気がします。
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中島川周辺からさらに足を延ばして、シーボルト通りにやってきました。新大工町の辺りからシーボルト記念館の方へ向かう通りは、賑やかで活気のある商店街になっていて、生活の場所。この辺りは名所という感じではないですね。
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一方で、新大工町の電停から商店街のシーボルト通りに入ったところに「長崎街道ここに始まる」と刻まれた石の道しるべが立っていました。これは長崎街道の石碑。長崎街道は長崎から小倉に至る脇街道で参勤交代の道としても使われましたが、長崎から入ってくる交易品や人、情報がここを行き来した重要な街道。例えば、砂糖もここで運ばれて砂糖街道とも呼ばれたのはよく知られるところです。
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ここからシーボルト記念館を目指しますが、
その途中、春徳寺にも立ち寄ります。 -
ここは、永禄12年(1569年)、長崎で最初に建てられた教会堂、トードス・オス・サントス教会があったところ。山門横には詳しい説明板と石碑が建っています。
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なお、その後、禁教令が出たことで跡地に春徳寺が建ったという関係です。
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そして、春徳寺のもう一つの見どころが東海さんの墓。
春徳寺の裏手を上がっていった共同墓地でも一番奥の方。唐通事であった東海家の本家と分家の墓地で、中国式墳墓の形式。石垣と石の柵で囲われた段々がいくつか重なった丘陵には代々の墓が並んでいて、その完成には数年を要したのだとか。かなりしっかりした基礎造りから始まっているんでしょうね。県の指定文化財にもなっています。 -
またシーボルト通りに戻って、しばらく進みます。
シーボルト記念館に近づくとシーボルト通りは最後に石畳の細い道になっていて、シーボルトはここを鳴滝塾に通っていたんだなあという実感が湧いてきます。シーボルト通り 名所・史跡
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シーボルト記念館の手前にあるシーボルト宅跡。
シーボルトは出島にいて特別に鳴滝塾に通っていただけなのに、宅跡って何?と思ったら、こちらは明治時代になって再び日本にやってきた際に暮らした場所なのだとか。鳴滝塾もここにあったので、ネーミングとしては鳴滝塾跡としてもよかったかもしれませんけどね。シーボルト宅跡 名所・史跡
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シーボルトの銅像が奥に建っています。
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久しぶりのシーボルト記念館。
この赤い煉瓦の建物が美しいですよね。シーボルト記念館 美術館・博物館
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展示室入ってすぐには鎖国の歴史や当時の世界情勢を概観したパネル。
寛永16年(1639)オランダ・中国以外との貿易を禁止する鎖国の完成
寛永18年(1641)平戸のオランダ商館が出島に移る
元禄3年(1690)ケンペル、安永4年(1775)ツュンべリー出島医師として来日
文化5年(1808)フェートン号事件
文政6年(1823)~文政11年(1828)シーボルト来日
シーボルトはドイツの医家の名門に生まれ、医学や博物学を学びますが、東インド会社の軍医、出島のオランダ商館医となったことで日本との縁が始まります。医師としての活動に止まらず、鳴滝塾で多くの塾生を教える傍ら日本のあらゆる分野の標本や資料を収集し、帰国すると日本学の祖として欧州に日本を広く紹介したパイオニア。日本人の妻を娶り、最後まで日本を愛し続けた姿勢まで含めて、”シーボルト”という名前を聞いただけでちょっと胸が熱くなるような気になるのは私だけではないと思います。 -
少し視点を変えて、江戸時代の蘭学。それなりの地位はあったと思いますが、その基本は書物からの知識。解体新書の刊行もやっと安永3年(1774)のことですからね。その書物からの知識が基本だったところに現れたシーボルトですから、その博学な知識や日本への思いの深さとも相まって、深い刻印を残したというのは当然かな。
ただ、日本の開港はシーボルトが帰国した26年後の嘉永7年(1854)。西洋からの情報は溢れるほど入ってきて、明治維新(1868)以降にもつながっていくわけで、江戸期の蘭学なんて比ではない。そういう意味だとシーボルトは牧歌的な心象風景の最後の時代の人ということなのかも。日本の近代化に貢献したバリバリのお抱え外国人たちとはちょっとジャンルは違うと思います。 -
シーボルト通りを諏訪神社の方まで戻ってきて、松森天満宮へ。
松森天満宮 寺・神社・教会
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名前の通り、菅原道真を祀る神社で、諏訪神社、伊勢宮と並ぶ長崎三社のひとつ。
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創建は寛永2年(1625年)。その後、諏訪神社の跡地である現在の地へ移されたということ。今も諏訪神社とはそんなに離れていませんね。
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裏手に”松森の大楠”というクスノキの大木もありまして、意外に迫力がありました。
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松森天満宮から諏訪神社の参道の方に抜ける通りを歩いていたら、その通り沿いにラナルド マクドナルド 顕彰碑。森山栄之助顕彰碑と二つ並んでいて、二人は長崎で対外交渉に大きな貢献をした人物。マクドナルドは、もとは捕鯨船員でしたが、その人物を長崎奉行所に認められ、オランダ通詞14名に英語を教えることになる。森山栄之助もその中にいたという関係です。
では、ここからが後半。諏訪神社の電停から原爆資料館の電停まで路面電車で移動します。 -
原爆資料館の電停で降りて
長崎西洋館の方へ。 -
ここの三階に長崎路面電車資料館という小さな資料館があるんです。
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電車の機材の展示もありますが、メインはかつての長崎市街の写真でしょう。
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けっこうな数の写真が丁寧に整理されていて、街並みの記憶をしっかりととどめているよう。なるほど路面電車に因んだ視点かなと思います。
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では、ここで昼飯タイム。
長崎の地元の人に一番の老舗の中華料理店を尋ねると、中華街のお店ではなくて、けっこうこの寶來軒という答えが返ってきます。そういう意味でも、今回のやっとの訪問はとても楽しみにしていたんです。
ほ~。坂の上に建つちょっと途方もない大きさの店構え。老舗というだけではなくて、この堂々とした店構えの方もすごいですね。 -
イチオシ
いただいたのは、皿うどん。素直な味わいでスルスルっと腹に収まる感じなんですが、なんか量が多いですね~。そっちの方もちょっと印象に残りました。
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落ち着いたところで、ここからはもう一度気合を入れて回りますよ~
国立長崎原爆死没者追悼平和祈念館は、水をたたえた池の途中が入り口。 -
ここから地下に入って行くということですね。
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すると
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そこは大きな空間。
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イチオシ
空に向かって伸びる白い光の柱が二列に並ぶ整然とした光景は宗教的なものではないですが、雰囲気的には明らかに祈りの姿。
私は回る順番が逆になっていますが、原爆記念館で高揚した気持ちをここでクールダウンする。たぶん、そういう施設ではないかと思います。 -
長崎市歴史民俗資料館、長崎市野口彌太郎記念美術館は原爆死没者追悼平和祈念館の隣り。
これも大きな建物です。 -
原爆殉難教え子と教師の像は、建物に向かう途中に建つ像。作者は富永直樹。長崎県出身の彫刻家で、東京芸術大学の彫刻科塑像部首席卒業。北村西望に師事していたという経歴。悲惨さを訴えるというより、前向きな希望を感じる作品かなと思います。
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長崎市歴史民俗資料館は、悠々とした展示室。
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オランダ資料展示コーナー、
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東インド会社からの特注を受けて日本からヨーロッパに大量の焼き物が輸出されました。
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ポルトガル資料展示コーナー、
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島原の乱を機に
ポルトガルやスペインは国外追放となりましたが、 -
南蛮貿易の草分けはポルトガルですからね。
出島ももともとはポルトガルとの貿易のために造られたものです。 -
中国資料展示コーナーも
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あれこれ
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賑やかな展示です。
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そうした長崎らしい国際色豊かな展示だけでなく、
こちらは -
素朴だけどカラフルな
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凧や
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紙粘土の人形の
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郷土玩具に
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節句人形の
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コレクションも
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いいですね。
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地元の古賀人形というのは知りませんでしたが、
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それなりに歴史があるようで
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長崎の国際色を反映しているのがいい味になっています。
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ほか、懐かしの昭和の展示もあったりして、
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見ていて微笑ましくなるような展示には心が癒されるよう。ゆったりとした展示にも好感を持ちました。
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長崎市野口彌太郎記念美術館
野口彌太郎は、父が長崎出身であることから少年期を長崎で過ごす。長崎とゆかりの深い画家。作品群は長崎の風景画も含めてそれなりの数があって、程よいコレクション。ただ、フォービズムの絵は個性が強くて、少し難解な感じがなくもない。目線が合わないとゆったりした気持ちにはならないかもしれません。 -
では、長崎原爆資料館の前に被爆遺構の方を少し。
まずは、旧長崎医科大学門柱。正門から入って行くと長崎大学医学部のキャンパスの裏手の方。 -
イチオシ
階段を下りて行った先に二つの門柱が並んでいます。で、その一つの方は大きく傾いているのですが、この門柱はとても太くてちょっとやそっとでは傾いたりしない代物。原爆の威力がいかに凄かったかが実感できると思います。
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一本柱鳥居を過ぎて、
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山王神社二の鳥居。
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イチオシ
けっこうな大きさの石の鳥居なんですが、あちこちが割れたり砕けたりして、これは単に倒れて壊れたものではないですね。原爆の大きな力があちこちにかかって壊れたもの。通りの横に残骸が並べてありますが、壊れ方をよく見るとやっぱり怖くなるものがあると思います。
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山王神社の大クスは、二本並んで樹齢400年以上という大クス。爆心地から約800mにあった被爆樹木です。被爆直後は黒焦げの太い幹だけが残っていた状態だったのが、また新芽が出て回復し始めたのだとか。
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今は元気な姿でその名残りは感じませんでしたが、少し高いところに向けて階段があるので上がってみると
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小さな穴に瓦礫が積もっているではありませんか。これは被爆の時の跡なのかなと思います。
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では、原爆資料館へ。
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入り口から入ると
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イチオシ
すぐの正面には
1945年8月9日午前11時2分を示して針が止まっている時計。
もう時を戻すことはできませんが、そこにあるのは、すべてを破壊し焼き尽くす原爆の恐ろしさ。広島に続き、人類は開けてはならない地獄の門を開けてしまいました。そして、その後も核開発は続き、今や人類は滅亡と隣り合わせの時代。核戦争には勝者も敗者もありません。 -
被爆の前の長崎の街と
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被爆後の惨状。
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イチオシ
浦上天主堂も崩れ落ちています。
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単なる殺人兵器ではない
途方もない破壊力を感じると、言葉も出ない。 -
黙って展示資料を見つめるしかないですね。
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長崎に投下されたのは、このファットマン。
広島に投下されたリトルボーイはウランを用いたものでしたが、ファットマンはプルトニウムの原爆。核出力は3割くらい大きかったようです。 -
一方で、戦争に至る日本の歩みも。中国、朝鮮に対する日本の植民地支配と明確に書いていて、率直な姿勢はさすがです。
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久しぶりの長崎原爆資料館でしたが、やっぱりその時々で印象は違ってきますね。
最初に見た時は怖いという気持ち。被爆した遺物も悲惨で単純にショックを受けましたが、今回はもう少し冷静。記憶が風化しないように、正しい情報をたくさん知りたいという気持ちもありましたからね。そして、反戦や平和への歩みを確かなものにするためにも、恐れずにまずは知ることが大事なんだなとも強く感じました。 -
続いては爆心地公園の方へ。
原子爆弾落下中心地碑があって、1945年8月9日11時02分。B29から投下された原子爆弾がこの上空500mで炸裂し、多くの人の命を奪いました。 -
公園はそれなりの広さですが、原子爆弾落下中心地碑以外、像や構築物はほとんどなくてとてもシンプルな印象です。
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では、平和公園の方へ。
エスカレーターを上がって -
まっすぐ進みます。
噴水のところに石碑があって -
イチオシ
のどが乾いてたまりませんでした
水にはあぶらのようなものが
一面に浮いていました
どうしても水が欲しくて
とうとうあぶらの浮いたまま飲みました
―あの日のある少女の手記から -
イチオシ
平和祈念像が見えてきて
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その左右には、長崎刑務所浦上刑務支所跡。けっこう広い範囲で遺構は保存されています。
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長崎の平和公園には広島のように直接的な原爆遺構はないと思っていましたが、これはまさに原爆遺構ですね。よく見ると石の基礎から鉄筋がいくつも出ていて、壁が爆風で吹き飛ばされたことが想像できます。
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北村西望の像ですね。
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平和公園からは、如己堂へ。
永井隆は明治41年、松江市で誕生。父の仕事の関係で、幼少期は島根県の三刀屋町で過ごします。放射線医学を専攻していた長崎医科大で被爆し妻を原爆で失うも、医師として救護活動にあたり、その後は、長崎の鐘などの著作で平和を訴えたという人物。病床の中でも活動を続けたという自宅がこの如己堂です。 -
その隣りに永井隆記念館があって、氏の平和へのメッセージを伝えています。
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歌謡曲の「長崎の鐘」は氏の心境を歌ったものというのは初めて知りましたが、
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それに限らず、何か新鮮な思いになれる場所だと思います。
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浦上キリシタン資料館は、浦上天主堂と平和公園の間の住宅地の一角。
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キリシタンの方ではなくて、日本三大人形古賀人形の看板が目に入ったので寄ってみました。長崎市歴史民俗資料館でも拝見して、印象に残りましたからね。
ルーツは京都の伏見人形のようですが、京都の伏見人形、仙台の堤人形と並び、400年の伝統を持つ土人形だとか。長崎らしい唐人やおらんだ人といった異国情緒を感じるモチーフもあって、瑞々しくて鮮やかな色彩感覚もいいですね。あまり一般には知られてはいないと思いますが、長崎の文化は幅広い。伝統もよく守られていると思います。 -
平和公園と原爆資料館の方はこれで終了。少し早く終わったので、大浦天主堂の方に移動して。ちょっと気になるところがいくつかありまして。。
ちゃんぽんミュージアムは、四海楼の二階にある一室。 -
名前からすると緩い内容かなと思っていましたが、ちゃんぽんのルーツは福建料理の「湯肉絲麺」のようだが、四海楼の初代、陳平順が日本風にアレンジしてちゃんぽんができたとか。ちゃんぽんの名前の由来や皿うどんのルーツ「炒肉絲麺」なども知って、けっこう楽しめました。
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ボーリング発祥の地碑は、四海楼の敷地内。植え込みのところに建っています。
文久元年(1861年)、英字新聞にわが国最古のボーリング場の新装開店の広告が載ったあたりだとか。一時は大ブームを引き起こしましたが、日本の文化に大きな影響を与えたことは確かです。 -
これは、長崎市べっ甲工芸館。館内にはべっ甲の工芸作品がいくつも展示されていて力作揃い。
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写真撮影も可なんですね。
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ただ、話によると
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ワシントン条約で材料の輸入はできないので
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今は沖縄の方から調達しているのですが、
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いかんせん市場が小さくなっていて先細り。
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確かにそれぞれ力作ではあるのですが、
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これを部屋に飾っていても
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ちょっと違和感があって
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イチオシ
ぴったりくるというものではないですね。
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べっ甲の眼鏡がステイタスだった時代も過去のもののようです。
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長崎の教会群インフォメーションセンターは、出島ワーフの二階。
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名前ではなんの施設なんだか分かりませんでしたが、要は世界遺産に登録されて教会群の紹介や見学を希望する人には事前に了解を取ってくれるというのだそうです。
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役に立つような立たないような感じですが、
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これまで訪ねた教会をここでもう一度思い出す。そういう場としては悪くないような気がしました。
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で、最後は長崎県美術館ではコレクション展を拝見。
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”須磨彌吉郎の見たスペイン”は、いわゆるオールドマイスターの作品も含む重厚な内容。これに対して、鴨居玲のスペイン時代の作品も全く負けていない迫力があって素晴らしいですね。
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イチオシ
そして、もう一方で素晴らしいのはこの建物。
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近代的でアートも感じるデザインは、
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それ自体がもう一つの見どころになっていると思います。
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長崎の最後の晩飯は長崎駅の蘇州林。
本来は中華街のお店ですが、火事で焼けたみたいで、今は長崎駅のかもめ市場の方のお店でしか食べられません。 -
いただいたのは、チャーハン。さりげなくうまみがあって、この普通のおいしさがいいですよね。やっぱり老舗の味だと思います。
さて、以上で六日間の旅も終了。一気に広島まで帰ります。お疲れさまでした。
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この旅行記へのコメント (4)
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- かれんさん 2024/03/24 07:23:11
- たびたびさん おはようございます!
- 私のつたない旅行記に「いいね」をいただき ありがとうございます。
私も 何回か 広島、長崎の原爆資料館を見たことがあります。日本は 唯一の被爆国だと考えると、やはり「戦争」は 許してはいけないと思います。
たびたびさんの 写真は 美しくて わかりやすく とても 見やすいです。さすがですね。また きれいな写真 見せてくださいね。よろしくお願いします
- たびたびさん からの返信 2024/03/24 23:10:31
- RE: たびたびさん おはようございます!
- コメントありがとうございます
長崎は1日雨だったので思うような写真は撮れていないんですが、まあ、そういう日もありますからね。ただ、おほめの言葉をいただいたので、いずれにしても、またがんばろうかなと励みになりました。
今は月に4本プラスアルファみたいなペースでアップしていますので、今後ともよろしくお願いいたします。
たびたび
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- くわさん 2024/03/21 14:19:11
- 米国は決して棚上げしているわけではないと思います
- たびたびさん、長崎の旅行記拝見しました。
私も長崎の原爆資料館を訪れたことがあります。
今でも印象に残っているのは被害者の数。焼夷弾をばらまく空襲と比較して、広島、長崎はケタが違うのですよね。たった一発で。それだけ原爆の恐ろしさを実感しました。
そして資料館の最後の方に展示してあった現在の核兵器の配備状況。地球上にこんなにたくさんあるのかと驚いた次第です。掛け算すると・・・
ところでたびたびさんの旅行記の冒頭に書かれていた、
「原爆の投下は人類に対する挑戦であり、米国には当然その責任があって、それを棚上げするとはけしからん」
の言葉、誰が発したのかわかりませんが、その方はパールハーバーの展示館を見ていないのだと思います。
パールハーバーの展示館には原爆にまつわるものも展示されています。広島で被爆したササキサダコさんとその折り鶴も。それだけで責任を取ったかどうかわかりませんが決して無視をしているわけではありません。
私はパールハーバーの展示をみて「リメンバー、パールハーバー」は日本人の卑怯さを忘れるな、ではなく「決して油断をするな、日本人のように創意工夫を忘れるな」、そういう意味だととらえました。あそこの展示を見ていると日本人憎し、ではなく客観的に事実を展示しているという印象でした。中には日本人の工夫をたたえているような印象を受けるものもありました。
↓パールハーバー
https://4travel.jp/travelogue/11563023
そしてパールハーバーに停泊している戦艦ミズーリ。この戦艦は沖縄でカミカゼの攻撃を受けたのですが、パイロットはもちろん即死。しかし当時のキャラウェイ艦長は彼を一軍人とたたえ水葬を執り行ったんだそうです。その遺体に巻かれていたものは・・・あとは現地でお話を聞いてください。ハンカチをもって。
↓戦艦ミズーリ
https://4travel.jp/travelogue/11564991
長々と失礼しました。
くわ
- たびたびさん からの返信 2024/03/21 23:33:36
- RE: 米国は決して棚上げしているわけではないと思います
- ササキサダコさんの折り鶴。くわさんに言われて、忘れかけていましたが、私も思い出しました。そうでしたね。
ただ、私が印象に残ったのは、真珠湾攻撃の惨禍の痛みが今もこんなに消えていないんだということ。アメリカは日本に勝利したのですから、初戦で被害を受けたにせよ、その報復は十分に果たせているはずなのに、なんで?という疑問でした。アメリカはミッドウェイ海戦で早くも大勝利を収め、反転攻勢。苦しい戦いが多かったにせよ日本を無条件降伏させたわけですからね。リメンバーパールハーバーは、世論を開戦に持っていくための合言葉であり、戦争に勝利したのなら、その役割は終わっていてもいいのではないかというくらいです。で、私は今もあんまり基本的な認識は変わっていないかな。たぶん、アメリカは太平洋戦争が終わりではない。その後も戦争の連続で、リメンバーパールハーバーの記憶からずっと逃れられていないのかなと想像しているくらいです。「警戒を緩めてはいけない。いつ何が起こるか分からない」というのは頭では分からないではないですが、そうした緊張感はやはり一般的な日本人には実感として理解しにくいものではないかとも思います。
一方で原爆のことですが、ジェノサイトという言葉がありますよね。一方的な虐殺のことで、それはお互いが殺し合う戦争とは異質なものです。ユダヤ人はジェノサイトにあった民族ということで、戦争で被害を受けた人たちとははっきりと違う認識をされています。しかし、原爆の非人間性はその上をいくものでしょう。戦争はお互いの立場はイーブンだけど、ジェノサイトや特に原爆は次元が違うよねということです。被爆者から出る責任論はその厳しい認識からくるものであって、基本的にはこれ以上なく正しいものだと思います。しかし、オバマ大統領もバイデン大統領もそれに同意することは簡単ではない。原爆投下の判断は間違っていなかったという立場は崩せないはずで、残念ながら原爆の非人間性を振りかざすだけではやっぱり限界があるというのが私の思いです。次元は違いますが、逆に、パールハーバーへのアメリカ人の思いも本当のところは理解できていないのとある意味一緒。やはり、違いに目を向けるのではなく、もっと共通理解を広げていく努力の方が大切だと思うのです。
そういう意味だとくわさんには勇気をもってコメントをいただき、ありがたく感謝いたします。平和が大事だなんて当たり前とか思っているだけではなくて、声に出して自分の考えを確認していく。そういう積み重ねこそが始まりなんだと思います。
たびたび
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