2022/12/02 - 2022/12/02
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kojikojiさん
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怒涛の11月の旅行が3つ終わって、月が替わって12月になりました。最初の旅行はクラブツーリズム社の「現地ガイドがご案内!偉人の邸宅×庭園めぐり 紅葉に色づく大磯~御殿場編」という日帰りのツアーです。申し込んだのは8月の中頃で、何しろツアー自体が11月末とこの12月2日の2本しかありません。申し込み後にはあっという間に満席になりました。ありがたいことにこのツアーも全国旅行支援の対象で、ツアー代金の支援と神奈川県からクーポンも3000円分いただきました。久し振りに新宿都庁の駐車場に行きましたが、以前の様な大混雑は無く、数本のバスツアーの受付をしているくらいでした。バスはほぼ満席でしたので、人気があるのだと思います。バスは午前7時20分に出発し、東名の厚木インターから小田原厚木道路に入り、大磯インターチェンジで一般道に降りるとすぐに「大磯城山公園」に到着しました。今回の添乗員さんははっきり物事を言わないので、皆さん勝手に公園のトイレに行ってしまうしちょっとイライラします。「大磯城山公園」を抜けた駐車場で6つのグループに分けられ、「旧吉田茂邸」に向かいます。6人ほどのグループに1名のガイドさんなので、詳しい説明も聞くことが出来て、ここからはスムーズでした。バラ園から庭園に入り、邸宅の内部を1部屋ごとに見学していきます。以前からここへは来たいと思っていたので今回はよい機会でした。2階の窓からは大磯の海の向こうに伊豆大島がきれいに見えました。残念ながら富士山は雲に隠れて終日見ることは出来ませんでした。
- 旅行の満足度
- 4.5
- 観光
- 4.5
- グルメ
- 4.0
- ショッピング
- 4.0
- 交通
- 4.5
- 同行者
- カップル・夫婦(シニア)
- 一人あたり費用
- 1万円未満
- 交通手段
- 観光バス 徒歩
- 旅行の手配内容
- ツアー(添乗員同行あり)
- 利用旅行会社
- クラブツーリズム
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久し振りの新宿からの1日バスツアーです。午前6時台の大江戸線に乗って都庁前まで移動しましたが通勤ラッシュはすでに始まっていました。
東京都庁 名所・史跡
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新宿副都心街路は日本の道百選にも選ばれていますが、都庁のガード下はホームレスの方々の台車がずらりと並んでいます。
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コロナ禍前には人とバスでごった返していた駐車場も閑散とした感じです。同じ時間帯に出発するバスは4本か5本だったと思います。
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バスは東名高速に入り、厚木ICで小田原厚木道路に入り大磯ICで一般道に降ります。暑い雲が覆われているので、あまり天気は良くなさそうです。
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バスは「大磯城山公園」の駐車場で我々を降ろします。多分紅葉を見るのはこれが最後だと思います。今回のツアーを見つけたのはクラブツーリズム社のパンフレットで、8月の中旬に申し込みました。内容が面白かったのとツアーが2本しか開催されないのですぐに申し込まないとすぐに満席になると思いました。
県立大磯城山公園 公園・植物園
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案の定9月に入るとすぐに満員になったので正解でした。この時は何も考えていませんでしたが、全国旅行支援の対象になり、旅行費用の割引と当日のバスの中で神奈川県のクーポン券が3,000円づついただけました。
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大磯城山公園は旧三井財閥別荘跡地と旧吉田茂邸跡地を整備した神奈川県立都市公園です。旧三井別邸地区にはシイやカシ、ケヤキなどの木々が葉を広げる豊かな自然の中に、日本情緒あふれる茶室や大磯町郷土資料館などが点在しているそうです。今回はここが目的地ではないので通過するだけです。
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今年の春に筍だったと分かる若竹はまるで上質の岩絵の具で描かれた絵画のようです。
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今年は平泉で始まった紅葉の旅もこの日帰りツアーで見納めになるようです。
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不動池のまわりをモミジが彩る日本庭園の紅葉が見事でした。
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城山庵は旧三井財閥別邸の一部として置かれていた国宝の茶室「如庵」を模して建てられようです。
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昨年の6月に犬山に行った際は「如庵」はホテルの新築工事のために見学が出来なくなっていました。その旅で唯一心残りになったことでした。
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今回のツアーは紅葉のことを考えて申し込んでいなかったので得をした気分でした。
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国宝「如庵」は茶の湯の創成期に織田信長の弟の織田有楽斎が建てた茶室で、有楽斎没後に正伝院に寄進され江戸時代は正伝院の所有でした。明治4年の1871年に正伝院は永源寺と合併されました。
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明治41年の1908年に売却され建物は四散してしまい、そのうちの書院と茶室及び露地は麻布の三井家本邸へ移築され、昭和11年の1936年に国宝に指定されました。
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さらに昭和13年の1938年に大磯の別邸城山荘の敷地内に移築されましたが、昭和45年の1970年、名古屋鉄道株式会社の所有となり、昭和47年の1972年に犬山城下御門先の有楽苑に移築されました。
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オカメザサは酉の市でお多福面を下げた小さな竹です。毛の生えた葉が特徴で、生垣にも使われます。
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明治31年1898年になり、この土地に三井財閥当主が別荘を構え、庭園の整備がなされていき、全国の有名な古寺社の古材を用いて建てられた「城山荘」などが建てられています。もう少し時間を取って見学したいものでした。
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公園内をほぼ素通りで南門まで抜けてきました。
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公園の入り口で地元のガイドさんと合流して、6つのグループに分けられました。1グループが6名ほどなので、ゆっくり見学が出来そうです。
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我々のグループが6番目だったのでスタートも一番最後でした。
旧吉田茂邸 美術館・博物館
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以前からここへは来てみたいと思っていましたが、平成21年の2009年3月、本邸が火災で焼失してしまいそれから13年も経ってしまいました。
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スタートはバラ園の見学からでした。秋バラも盛りを過ぎていますが、わずかながら花が残っていました。現在は半分ほどが駐車場になっていますが、これは大平首相とカーター大統領の日米首脳会談の際に潰されてしまったそうです。
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このバラ園は吉田茂の自慢でもあったそうで、プリンセスミチコはここで栽培され、全国に広がっています。
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次に来る機会があればバラの盛りの頃に来てみたいものです。
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門の前のロータリーの円形の庭は尾形光琳の「紅白梅図屏風」に模して造られたそうです。左右に植えられた紅梅と白梅の間を川が流れるように小路が設けられています。近いうちに熱海に行きたいと考えていて、その際には久しぶりにMOA美術館でこの作品に再会したいと思います。
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「兜門」はサンフランシスコ講和条約締結を記念して建てられ、別名「講和条約門」とも言われています。
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軒先に曲線状の切り欠きがあり、兜の形に似ていることが「兜門」と呼ばれる由来です。
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京都の裏千家今日庵の「兜門」を写したもので京都から宮大工を呼び寄せて造られ、昭和29年の1954年に完成しました。屋根は「檜皮葺き」が用いられており、門の左手には「待合い」も設けられています。30年以上前に京都の叔母に連れて行ってもらい見学したことがありますが、行っておいて良かったと思います。
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元々は束石だけだった「兜門」には昭和41年の1966年に御影石の敷石が設けられています。これは当時の皇太子夫妻(現在の上皇夫妻)が来訪されたときに、美智子様がハイヒールで来られるだろうということを想定したそうです。
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その当時の写真をガイドさんが見せてくださいました。
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その時には庭先まで車が入れるように轍の部分にも御影石を敷いたそうです。実際にここまで車が入ったのは1度だけで、それは吉田茂が亡くなったときだけだったそうです。
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扉は建仁寺垣のように四つ割された竹が立子(たてご)になっていますが、それぞれの節の部分を削るという手の込んだ細工がなされています。
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庭園の一番奥にある「七賢堂」は元々、明治36年の1903年に伊藤博文が、明治維新の元勲のうちの岩倉具視、大久保利通、三条実美、木戸孝允の4人を祀った四賢堂を自身の邸宅「滄浪閣」に建てたものでした。伊藤博文の死後、婦人により伊藤博文を加えた5人が祀られ、「五賢堂」となりました。
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昭和35年の1960年に吉田茂邸に移築され、翌々年に吉田茂が西園寺公望を合祀し、吉田茂の死後の昭和43年の1968年に佐藤栄作によって吉田茂が合祀されて「七賢堂」となりました。ガイドさんの案内はここまでで、近くまで行くことは出来ませんでした。正面の扁額「七賢堂」の文字は、佐藤栄作元首相が書いたものだそうです。
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昭和36年の1961年頃に完成した日本庭園は、中心となる心字池を邸宅の正面に配置した池泉回遊式の庭園です。花を愛した吉田茂の嗜好をふまえ、さまざまな草花やツツジ類、ウメなどを多く取り入れ、色彩豊かな庭造りをおこなったそうです。
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旧吉田茂邸は明治17年の1884年に吉田茂の養父の健三が購入し、別荘を建てたのがはじまりです。吉田茂が昭和20年の1945年頃から、その生涯を閉じる昭和42年の1967年まで過ごした邸宅です。
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政界引退後も多くの政治家が邸宅を訪れ「大磯詣」と言われました。また、元西独首相アデナウアーや、当時の皇太子殿下と美智子様などの国内外の要人が招かれています。
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吉田茂の没後には大平首相とカーター大統領の日米首脳会談が実施されるなど戦後政治の表舞台としても利用されました。
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近代数奇屋建築風の総檜造りの本邸は建築家の吉田五十八の設計のもと、京都の宮大工により建設されました。日本庭園は世界的作庭家中島健が設計したもので、本邸周辺部分は日本庭園研究家の久恒秀治によって造られました。
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兜門から本邸の入り口までは緩やかな石敷きの段が続いています。
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本邸から張り出すようにサンルームが設けられています。ポリカーボネート性の曲面を持った屋根が特徴的です。この建物は火災から逃れましたが、耐震上の問題から内部に入ることは出来ないそうです。
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ようやく本邸の建物が見えてきました。
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吉田茂が暮らしていた当時の邸宅は平成21年の2009年3月に焼失しています。昭和20年代に建てられた応接間棟、および昭和30年代に近代数寄屋建築で有名な吉田五十八が設計した新館をメインに再建しています。
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庭園にも数々の由緒ありそうな燈籠が数多くありましたが、ガイドさんに尋ねても的を得た回答はありませんでした。
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土壁の一部に本塗りを施さず、竹や葭(よし)による小舞下地を露出させた窓を「下地窓と呼びますが、この建物では下地にアルミパイプを使っています。それも1本から4本を不規則に、隙間は等間隔に設けています。これは吉田五十八のお家芸とも呼べるものです。
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火災で焼け残ったサンルームと同じレベルの高さまで登ってきました。ここからであれば大磯の海など眺望もよかったのではないだろうかと想像できます。中に入れないのが残念です。
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玄関ホールに入りました。ここからは靴を持っての見学になります。朝の早い時間なので、同じツアーの方くらいしか訪れていませんが、重ならないように時間をずらしているので写真も撮りやすかったです。大きなガラスで仕切られた坪庭が京都の祖父の生まれた家に植えられた四方竹の雰囲気によく似ていると思いました。
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天井の照明はホリゾントの部分が金色で仕上げられ、3段の筒状の乳半のアクリルのようなものが吊られています。細かいディティールを見ていくとアールデコぽさも感じます。
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玄関ホールの右手の「応接間(楓の間)」に入ります。1本の見事な磨き丸太の通った船底天井です。純和風の意匠の中にアールデコのデザインの照明器具が配置されています。吉田茂はアールデコが好きだったとガイドさんが説明されました。
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昭和58年の1978年に松本弘一の描いた「吉田茂肖像画」です。松本弘一は自由民主党の初代総裁から第13代総裁までの歴代の総裁の肖像画を描いています。この肖像画は吉田茂生誕100年年記念の際に描かれています。
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応接間から続く表の庭には特徴のある円筒形の蹲が据えられています。「楓の間」の通り、モミジがきれいに色づいていました。
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「応接間」の中にある階段で2階に上がります。「浴室」の脇の「北西縁」を手前の8畳間から眺めてみます。吉田茂は風呂上がりにここを通ったそうです。
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「北西縁」の窓からは本来ならば富士山が望めるのだと思いますが、ガイドさんの指さす方角には雲しか見えません。
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期待していたのですが、この日は一度も富士山は姿を表しませんでした。
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浴室の湯舟は舟の形をしていました。この形はあまり縁起が良くなさそうですが、吉田茂が好んだのでしょうか?舟形木棺という言葉が残っているように、古代には棺として用いられた形状です。この風呂の作成には大磯の船大工が関わったそうです。
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「唯奉命使万里外 邦家盛衰聚一身」と書かれた吉田茂の書です。(複製)時の首相として昭和26年1951年のサンフランシスコ講和条約に調印しています。これはその講和条約調印式に臨んだ際の心境について書かれたものです。
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櫛形窓は和風建築の窓の形状の名称の1つで、櫛のように下部が水平で上部にゆるやかな丸みをもった山形をした窓のことです。櫛形窓が付書院に設けられたものは、桂離宮の新御殿の一の間上段の付書院に障子の桟の割付までよく似たものがあります。
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そんなことを思い出しているとガイドさんから「この部屋の襖は見る角度によってキラキラ光り、雪の光景と月を表しています。」と説明がありましたが、この引手も「月」の字の行草書を象った有名な襖引手と同じデザインであることからこの部屋を桂離宮の御殿に見立てたのは間違いないと思います。残念ながらそんな説明は無かったのであくまで推測です。
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桂離宮の御殿の中の意匠は実際に中に入らせてもらってじっくり見学させていただいたので非常に細かく記憶に残っています。まだ20代の、現在よりは感性の鋭かった頃に見ることが出来てよかったと思います。祖母や母は月見台で月見をしたと言っていましたが、その時代には生まれていなかったのが残念です。
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掘り炬燵のある和室には書棚が設けられて「書斎」となっています。吉田茂以外許可なく入れない私的な空間であったようです。一番下の段にあるダイヤルの無い黒電話は首相官邸に直結されていたものだそうです。
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1階の「応接間」の真上には10畳の和室があります。大磯の海側に大きなガラス窓が設けられ、天気が良ければかなり明るいのだと思います。この日は曇っていたおかげで邸内の写真は撮りやすかったので良しとします。
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同じ階段を1階に降りて、「展示・休憩室」に向かいます。廊下に置かれたオブジェはよく見るとカタカナで「バカヤロー」と切り抜かれています。昭和28年の1953年の衆議院予算委員会の質疑答弁中に吉田茂が議員の質問に対して「バカヤロー」と言ったことがきっかけになって衆議院が解散しました。大声で「バカヤロー」といった印象が強いですが、実際は答弁席から戻る途中に小声で呟いたのが偶然マイクに拾われたことが原因だったようです。
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吉田茂の白足袋のオブジェも置かれてありました。連合国軍総司令部(GHQ)のマッカーサー元帥の要求を聞きながらも日本の意思を貫き、独立と復興への道しるべを作り上げた総理であった吉田茂の威厳のシンボルが葉巻と白足袋だったそうです。常に白足袋で正装し、占領下であっても自信や誇りをもって堂々と振舞いました。マッカーサーから葉巻を勧められた際に「私はハバナ産しか吸いません。」と断った話しは有名です。
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平成21年の2009年に焼失した邸宅の中には大正から昭和20年代まで母屋として使用されていた「旧館棟」と呼ばれた建物があったそうです。
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これらの建物は復元されておらず、家屋の土台部分の礎石を置いて、当時の面影を残したそうです。
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「富士秋雲」安田靫彦(複製)
この日見えた唯一の富士山です。安田靫彦は大磯に永住しており、この吉田邸を時折訪ねたそうです。吉田茂は以前より五賢堂を入れた富士の絵を所望していたそうです。安田靫彦は大磯ロングビーチで写生をし、翌日に吉田邸を訪ねますが面会できず、帰宅後に訃報を知ったそうです。それから5年後にこの絵が完成したそうです。オリジナルはメナード美術館に収蔵されており、この吉田邸が修復された際に安田靫彦の親族より寄贈されたそうです。 -
吉田茂は明治11年の1878年9月22日に、高知県宿毛出身の自由民権運動の闘士で板垣退助の腹心だった竹内綱の五男として東京神田駿河台に生まれています。父親が反政府陰謀に加わった科で長崎で逮捕され、竹内の投獄後に実母は東京へ出て竹内の親友だった吉田健三の庇護のもとで茂を生んでいます。
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明治14年の1881年8月に旧福井藩士で横浜の貿易商(元ジャーディン・マセソン商会・横浜支店長)だった吉田健三の養子となります。養父の健三が40歳の若さで死去し、11歳の茂は莫大な遺産を相続します。吉田はのちにふざけて「吉田財閥」などと言っていたそうです。
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少年期は大磯町西小磯で養母に厳しく育てられ、戸太町立太田学校を卒業後の明治22年の1889年に耕余義塾に入学し、同校を卒業すると10年余りに渡って様々な学校を渡り歩いたようです。
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当時華族の子弟などを外交官に養成するために設けられていた学習院大学科に入学し、このころにようやく外交官志望が固まったようですが、大学科閉鎖に伴い無試験で東京帝国大学法科大学に移り、政治科を卒業、明治39年の1906年に外交官および領事官試験に合格して外務省に入省します。
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太平洋戦争開戦前には開戦阻止を目指しますが実現せず、開戦後は和平工作に従事し、ミッドウェー海戦敗北を和平の好機とみて近衛とともにスイスに赴いて和平へ導く計画を立てますが、その後日本軍が一部勝利を重ねたたため成功しませんでした。
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1945年に入り日本の敗色が濃くなると、近衛文麿に殖田俊吉を引き合わせ、後の近衛上奏文につながる終戦策を検討します。しかし近衛上奏に協力したことが露見し憲兵隊に拘束されます。この戦時中の投獄が逆に戦後は幸いし「反軍部」の勲章としてGHQの信用を得ることになったといわれます。
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吉田茂は実父の出身地である高知県を選挙区とした縁で、昭和35年の遊説時に司牡丹酒造を訪れました。外交官出身の吉田は主に洋酒を好んでいたようですが、知人から高知県にはうまい酒があると紹介され、以来は司牡丹の純米酒を愛飲したそうです。
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一目でこの邸宅とそこから見える風景が描かれていると分かりました。これらの食器は佐賀県の有田の崋山萬右衛門窯で特注されたとありました。これらの展示がされていた食堂として使用されていた部屋は別名「ローズルーム」と呼ばれたそうです。天井の菱形の照明器具とレザーの布団張りの壁面がアールデコの凝ったデザインになっています。
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昭和30年代になると吉田茂は海外からの賓客を迎える新館を増築することを決め、建築家の吉田五十八に設計を依頼しました。建物は近代数寄屋建築と呼ばれる建築様式をもちい、和と洋が融合された近代的な造りとなっています。
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床の間には伊藤博文文書の巨大な軸が掛けられています。オリジナルは外務省外交資料館所蔵で、こちらは複製です。日露戦争時に満州軍総司令官であった大山巌に対して伊藤博文が激励のために送った自作の漢詩だそうです。こういった明治から昭和初期の政治家の書を見るとその知識や達筆な文字からも現代の政治家との差を感じてしまいます。
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「金の間」と呼ばれる部屋からは大磯の眺望がすばらしいです。西の眺めは本来であれば富士山が見えるのだと思います。眼下には邸宅の庭園が美しく見渡せます。「金の間」という名称は部屋の装飾に金を用いたことからきています。
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先ほど見た安田靫彦の絵で我慢するしかなさそうです。
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隣接する大磯プリンスホテル(大磯ロングビーチ)越しに小田原の町が見えます。吉田茂の没後にこの邸宅は西武鉄道へ売却され、大磯プリンスホテルの別館となっていたこともあるそうです。堤康二郎は没落した華族の邸宅を買い取り、都内のプリンスホテルの施設としていますが、ここもそのような施設だったと初めて知りました。
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南側の窓からは相模湾が一望できました。富士山川は雲で覆われていましたが、南側の空が明るかったのはありがたいです。
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キラキラ光る海面の向こうには伊豆大島が見えました。10月に行ったばかりなので懐かしくも見えます。
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床の無垢材を使ったパーケットは部屋に平行ではなく45度の角度を付けて貼られていました。これは午後に行く御殿場の東山旧岸邸にも同じものがありました。
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天井のシャンデリアも柔らかい葉の様なアールデコのデザインです。モチーフの雰囲気からアールヌーヴォーのようにも見えます。
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外務省外交史料館に収蔵されている竹内綱の「開物成務」の複製の額が掲げられています。竹内綱は吉田茂の実父で、維新後の明治3年の1870年に後藤象二郎の引き立てにより大阪府少参事や大蔵省六等出仕をつとめますが、時の上司と衝突したことから官界を退き、明治6年の1873年には実業界に入ります。五男の茂の誕生後、綱は盟友の実業家である吉田健三へ茂を養子に出しています。当時、反政府活動によって逮捕されることが分かっていた綱は、茂の誕生前に養子に出すことを約束していたようです。麻生太郎は外曾孫にあたります。「物(もの)を開(ひら)き務(つと)めを成(な)す」と読み、人間の知恵を開発し、事業をなしとげることを意味し、「開成」の語源となっています。
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吉田茂が寝室として寝起きをしていた部屋です。この部屋のベッドで吉田はその生涯を終えました。「銀の間」の装飾には銀が使用されており、「金の間」と対になる形で、その名称の由来なっています。
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吉田はこの部屋を書斎としても利用していました。部屋のガラス棚には蔵書が並べられ、ベッド横の窓際には執務用の机が置かれていました。
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吉田五十八らしいすっきりとした直線で構成されています。縦長の障子の桟もシンプルで美しいです。
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白いカバーを掛けられたベットが吉田茂の墓標のように見えました。
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この風呂には実際は檜の簀子が敷かれてあったようです。古い写真も残されていました。風呂桶の際が排水口になっているのが面白いです。
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庭を歩いている吉田茂はトレードマークのパナマ帽をかぶり、袴をはいて白足袋にステッキといういで立ちです。
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石塔にも由来があるのだろうと思いますが、調べても分かりませんでした。池の一部には八つ橋が掛けられ、燕子花が生けられていました。これも尾形光琳の八つ橋図を模したのだと思われます。
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ガイドさんの詳しい説明があってとても勉強になりました。その多くが建築材の細かい話だったので、興味がある人には面白いのですが、もっと違ったエピソードも聞きたかったです。
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元々バラ園だった駐車場にバスが回っていて、ここでガイドさんたちに見送られて小田原に向かいます。
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