桜井・三輪・山の辺の道旅行記(ブログ) 一覧に戻る
談山神社の背後には2つの山が聳えており、右側が談山(かたらいやま)、左側が御破裂山(ごはれつやま)と言います。談山は、中臣鎌足と中大兄皇子が蘇我入鹿に対するクーデタを企てたという名高い場所で、談山神社の社名の由来ともなりました。しかし何故、飛鳥板蓋宮からは山道で6Kmもあり、標高も566mある場所でしか密談できなかったのでしょうか?さぞ、阿漕な極悪非道の策略だったのでしょう。<br />一方、御破裂山には藤原鎌足の墓所が鎮座しています。この墓所は、鎌足の聖霊が神として談峰に降臨して以来、国家や藤原氏に凶事がある時は陵山が鳴動し、異光が顕現したと伝わります。また、本殿に祀られている鎌足神像は鳴動に呼応して亀裂を生じ、鳴動が静まると自然治癒したと伝えます。そんなスピリチュアルなスポットをレポいたします。<br />また、境外から十三重塔を撮影できる、隠れたスポットについても紹介いたします。

あをによし 多武峰~明日香逍遥⑤談山神社(龍神社・談山・御破裂山・祓戸社・神幸橋)

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2022/11/18 - 2022/11/18

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montsaintmichel

montsaintmichelさん

談山神社の背後には2つの山が聳えており、右側が談山(かたらいやま)、左側が御破裂山(ごはれつやま)と言います。談山は、中臣鎌足と中大兄皇子が蘇我入鹿に対するクーデタを企てたという名高い場所で、談山神社の社名の由来ともなりました。しかし何故、飛鳥板蓋宮からは山道で6Kmもあり、標高も566mある場所でしか密談できなかったのでしょうか?さぞ、阿漕な極悪非道の策略だったのでしょう。
一方、御破裂山には藤原鎌足の墓所が鎮座しています。この墓所は、鎌足の聖霊が神として談峰に降臨して以来、国家や藤原氏に凶事がある時は陵山が鳴動し、異光が顕現したと伝わります。また、本殿に祀られている鎌足神像は鳴動に呼応して亀裂を生じ、鳴動が静まると自然治癒したと伝えます。そんなスピリチュアルなスポットをレポいたします。
また、境外から十三重塔を撮影できる、隠れたスポットについても紹介いたします。

旅行の満足度
5.0
観光
5.0
同行者
カップル・夫婦
交通手段
高速・路線バス 私鉄

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  • ご参考用に境内マップを載せておきます。

    ご参考用に境内マップを載せておきます。

  • 比叡神社エリアの神明神社の右横の石段を登って談山(かたらいやま)と御破裂山(ごはつれやま)へ行くことができます。<br />標識もあり、「談山 これより290m 徒歩約10分」、「御破裂山 これより510m 徒歩約20分」と表示されています。道は整備されていますので、スニーカーであれば支障ありません。

    比叡神社エリアの神明神社の右横の石段を登って談山(かたらいやま)と御破裂山(ごはつれやま)へ行くことができます。
    標識もあり、「談山 これより290m 徒歩約10分」、「御破裂山 これより510m 徒歩約20分」と表示されています。道は整備されていますので、スニーカーであれば支障ありません。

  • 末社 龍(龗)神社(おがみじんじゃ)<br />石段を登り始めた右手下に佇みます。<br />大和川の源流となる小さな滝の横に「龍ケ谷」と呼ばれる磐座があり、そこに小祠があり龍神が祀られています。古神道の信仰の姿を今に 残した霊地です。飛鳥時代に大陸から龍神信仰が流入し、日本の龍神「高龗神(たかおがみのかみ)」と習合し、龍神社と呼ばれるようになりました。<br />かつては談峯(だんぽう)龍神像が祀られていたそうです。水を司る龗神は、縁結びや縁切りなどのご利益があります。

    末社 龍(龗)神社(おがみじんじゃ)
    石段を登り始めた右手下に佇みます。
    大和川の源流となる小さな滝の横に「龍ケ谷」と呼ばれる磐座があり、そこに小祠があり龍神が祀られています。古神道の信仰の姿を今に 残した霊地です。飛鳥時代に大陸から龍神信仰が流入し、日本の龍神「高龗神(たかおがみのかみ)」と習合し、龍神社と呼ばれるようになりました。
    かつては談峯(だんぽう)龍神像が祀られていたそうです。水を司る龗神は、縁結びや縁切りなどのご利益があります。

  • 末社 龍(龗)神社<br />高龗神と闇龗神(くらおかみのかみ)は、共に「龗神」と総称され、罔象女神(みつはのめのかみ)と並ぶ、日本神話に登場する「水の神」の代表格です。因みに、『日本書紀』には、イザナギが斬った火の神 迦具土神(かぐつちのかみ)が3つに分かれ、雷神と大山祇神、高龗神が生まれたとあります。また、『古事記』には、迦具土神の首を斬った折、その剣の柄に集まった血が手の指の股から洩れ出て成った2神の名を闇淤加美神(くらおかみのかみ=闇龗神)と闇御津羽神(くらみつはのかみ)としたとあります。<br />さて、この神社のお役目についてですが、「龗」の文字は雨と龍の間に口が3つ並べられており、口3つは器を3つ並べた様子を示し、龍神に雨乞いの祈りを表す文字とされます。また、高龗神の神格は「山に降る雨を司る龍神」、闇龗神の神格は「谷間に流れる川を司る龍神」とされます。従って、山に降った雨は山に貯えられ、それが染み出して谷川となり里へ流れ来る。つまり、河川の水量のコントロールを「龗神」である高龗神と闇龗神の2柱で担っていることになります。<br />因みに、高龗神は京都 貴船神社のご祭神でもあります。

    末社 龍(龗)神社
    高龗神と闇龗神(くらおかみのかみ)は、共に「龗神」と総称され、罔象女神(みつはのめのかみ)と並ぶ、日本神話に登場する「水の神」の代表格です。因みに、『日本書紀』には、イザナギが斬った火の神 迦具土神(かぐつちのかみ)が3つに分かれ、雷神と大山祇神、高龗神が生まれたとあります。また、『古事記』には、迦具土神の首を斬った折、その剣の柄に集まった血が手の指の股から洩れ出て成った2神の名を闇淤加美神(くらおかみのかみ=闇龗神)と闇御津羽神(くらみつはのかみ)としたとあります。
    さて、この神社のお役目についてですが、「龗」の文字は雨と龍の間に口が3つ並べられており、口3つは器を3つ並べた様子を示し、龍神に雨乞いの祈りを表す文字とされます。また、高龗神の神格は「山に降る雨を司る龍神」、闇龗神の神格は「谷間に流れる川を司る龍神」とされます。従って、山に降った雨は山に貯えられ、それが染み出して谷川となり里へ流れ来る。つまり、河川の水量のコントロールを「龗神」である高龗神と闇龗神の2柱で担っていることになります。
    因みに、高龗神は京都 貴船神社のご祭神でもあります。

  • 末社 龍(龗)神社<br />この湧水は寺川の水源のひとつです。寺川は川西町の北西端で大和川に合流し、また、多武峰のすぐ西を水源とする冬野川は西の飛鳥へ流れて飛鳥川に合流することから、多武峰の西隣、西口地区が分水嶺となります。<br /><br />山深い多武峰(とうのみね)の地は桜井市内にあって「避暑地」のような位置付けのエリアです。しかし、どうもがいても「多武峰」を「とうのみね」とは読めません。そこで「多武峰」の地名の由来を調べてみましたが、想定通り諸説紛々です。<br />因みに、山口県下関市菊川町にも「多武の峰(とうのみね)公園」なるものがあり、その由来は「その昔、多武氏の居城があった」からとされています。<br />1つ目の説は『角川日本地名大辞典』に載せられているもの。「田身、大務、談峰、多牟、談武など多様に表記される。多武は中大兄皇子の多くの武勲を讃えたものである。」とありますが、説得力に欠けます。<br />2つ目は地形に絡んだ由来説です。多武峰の地名は「撓(たわ)む」に由来するとしています。多武峰の山々の峰が小枝がしなって撓むように見えることに因むようですが、菊川町と同様に「たむ」の由来にはなったとしても、読み方「とうのみね」の由来にはなっていません。

    末社 龍(龗)神社
    この湧水は寺川の水源のひとつです。寺川は川西町の北西端で大和川に合流し、また、多武峰のすぐ西を水源とする冬野川は西の飛鳥へ流れて飛鳥川に合流することから、多武峰の西隣、西口地区が分水嶺となります。

    山深い多武峰(とうのみね)の地は桜井市内にあって「避暑地」のような位置付けのエリアです。しかし、どうもがいても「多武峰」を「とうのみね」とは読めません。そこで「多武峰」の地名の由来を調べてみましたが、想定通り諸説紛々です。
    因みに、山口県下関市菊川町にも「多武の峰(とうのみね)公園」なるものがあり、その由来は「その昔、多武氏の居城があった」からとされています。
    1つ目の説は『角川日本地名大辞典』に載せられているもの。「田身、大務、談峰、多牟、談武など多様に表記される。多武は中大兄皇子の多くの武勲を讃えたものである。」とありますが、説得力に欠けます。
    2つ目は地形に絡んだ由来説です。多武峰の地名は「撓(たわ)む」に由来するとしています。多武峰の山々の峰が小枝がしなって撓むように見えることに因むようですが、菊川町と同様に「たむ」の由来にはなったとしても、読み方「とうのみね」の由来にはなっていません。

  • 道はこのように整備されており、比較的上り下りし易いです。先ほどまでの境内での喧噪とは打って変わって静けさが身に沁み入るほどです。ほとんどの参拝者はここまでは登ってこないようで、下山時にすれ違ったグループは重装備をしていることから、明日香まで多武峰を縦走するものと思われます。<br /><br />3つ目は司馬遼太郎著『街道をゆく(24)』からの引用です。「その名さえ奇妙だが、この山の名はすでに、『日本書紀』の斉明紀2年(656)の記述にあらわれている。文字のないむかし、土地の者が、この山を『たむ』という音(おん)でよんでいたのであろう。『日本書紀』には、その昔に、田身嶺(たむのみね)という漢字をあてた。『万葉集』ではちがう。巻九には多武(たむ)と当てている。のち、談武(たむ)などとも当てられた。」とあります。因みに、『日本書紀』には次のように記されています。「田身嶺に、冠らしむるに周れる垣を以てす。田身は山の名なり。此には大務(たむ)と云ふ。復、嶺の上の両(ふた)つの槻の樹の辺に、観(たかどの)を起つ。号けて両槻宮(ふたつきのみや)とす。亦天宮と曰ふ。」。『日本書紀』には何度も「多武峰」と出てきますが、初見は斉明天皇2年の条にある「田身嶺(たむのみね)」です。そこから「多武峰」へと転化したのかもしれません。<br />最後が「私説」の十三重塔に絡む由来説です。定恵が鎌足の遺骨の一部を改葬し、その上に十三重塔を建てたことから「塔の峰」と呼ばれたが、奈良時代には地名を2字で表記する制度があったことから、古来土地の者が発していた「たむ」の音に「多武」の2字を宛て、多武峰(とうのみね)と読ませたという説です。<br />因みに、鳥取県日野町には「塔の峰公園」があり、古くは「多武の峰」と表記されていたそうです。平安~鎌倉時代の武士 長谷部信連が日野の地に配流された際、<br />京の都や大和を偲んで名付けたそうです。恐らく、大和 多武峰の風景とオーバーラップさせたのでしょう。

    道はこのように整備されており、比較的上り下りし易いです。先ほどまでの境内での喧噪とは打って変わって静けさが身に沁み入るほどです。ほとんどの参拝者はここまでは登ってこないようで、下山時にすれ違ったグループは重装備をしていることから、明日香まで多武峰を縦走するものと思われます。

    3つ目は司馬遼太郎著『街道をゆく(24)』からの引用です。「その名さえ奇妙だが、この山の名はすでに、『日本書紀』の斉明紀2年(656)の記述にあらわれている。文字のないむかし、土地の者が、この山を『たむ』という音(おん)でよんでいたのであろう。『日本書紀』には、その昔に、田身嶺(たむのみね)という漢字をあてた。『万葉集』ではちがう。巻九には多武(たむ)と当てている。のち、談武(たむ)などとも当てられた。」とあります。因みに、『日本書紀』には次のように記されています。「田身嶺に、冠らしむるに周れる垣を以てす。田身は山の名なり。此には大務(たむ)と云ふ。復、嶺の上の両(ふた)つの槻の樹の辺に、観(たかどの)を起つ。号けて両槻宮(ふたつきのみや)とす。亦天宮と曰ふ。」。『日本書紀』には何度も「多武峰」と出てきますが、初見は斉明天皇2年の条にある「田身嶺(たむのみね)」です。そこから「多武峰」へと転化したのかもしれません。
    最後が「私説」の十三重塔に絡む由来説です。定恵が鎌足の遺骨の一部を改葬し、その上に十三重塔を建てたことから「塔の峰」と呼ばれたが、奈良時代には地名を2字で表記する制度があったことから、古来土地の者が発していた「たむ」の音に「多武」の2字を宛て、多武峰(とうのみね)と読ませたという説です。
    因みに、鳥取県日野町には「塔の峰公園」があり、古くは「多武の峰」と表記されていたそうです。平安~鎌倉時代の武士 長谷部信連が日野の地に配流された際、
    京の都や大和を偲んで名付けたそうです。恐らく、大和 多武峰の風景とオーバーラップさせたのでしょう。

  • 登り始めて10分弱で談山と御破裂山の分岐点に到着です。<br />談山へは右へ30m、御破裂山へは左へ250mです。<br />談山は談山神社の裏山に当たり、中大兄皇子と中臣鎌足が権力を振るっていた蘇我入鹿を暗殺する(乙巳の変)秘策を練った地とされます。大化改新の足がかりとなった乙巳の変では、中大兄皇子が母 皇極天皇の目の前で、蘇我入鹿を斬りつけて殺害しました。それを知った入鹿の父 蝦夷は自害し、かくして蘇我氏は滅びました。やがて中大兄皇子は皇太子に立てられ、大化改新を進めていきました。<br />『多武峰縁起絵巻』の殺害シーンを思い浮かべると、このような人里離れた場所でしか話せない、まさに極悪非道の密談だったのでしょう。

    登り始めて10分弱で談山と御破裂山の分岐点に到着です。
    談山へは右へ30m、御破裂山へは左へ250mです。
    談山は談山神社の裏山に当たり、中大兄皇子と中臣鎌足が権力を振るっていた蘇我入鹿を暗殺する(乙巳の変)秘策を練った地とされます。大化改新の足がかりとなった乙巳の変では、中大兄皇子が母 皇極天皇の目の前で、蘇我入鹿を斬りつけて殺害しました。それを知った入鹿の父 蝦夷は自害し、かくして蘇我氏は滅びました。やがて中大兄皇子は皇太子に立てられ、大化改新を進めていきました。
    『多武峰縁起絵巻』の殺害シーンを思い浮かべると、このような人里離れた場所でしか話せない、まさに極悪非道の密談だったのでしょう。

  • 大化改新相談所石碑<br />645年5月、藤の花が咲き乱れるこの山で、中臣鎌足と中大兄皇子が蘇我氏に対するクーデタを企てたという名高い場所です。談山(かたらいやま)と伝わる場所で、談山神社の社名の由来ともなりました。<br />平地の中央に大きな石碑が立ち、その表には「御相談所」と刻んであります。山頂広場の周囲はシラカシやアカカシの木々に囲まれ、密談の場だけに殺風景な場所です。<br />飛鳥板蓋宮からは山道で6Kmもあり、標高も566mあります。こんな人里離れた所まで足を運んで密談しなければならないほど、都(飛鳥)では蘇我氏のスパイが暗躍していたのでしょうか?密談の場となった理由は、この地がまさに人を寄せ付けない聖地だからです。談山は、お椀を伏せた形をした神奈備(神体山)です。例え蘇我氏と言えども、聖山の神には畏怖の念を感じざるを得ません。対照的に中臣鎌足は、この麓の飛鳥大原に住み、代々この山を祀った神官 中臣氏の系譜であり、実家の裏山のような感覚だったのかもしれません。一方、密談に誘われた皇子は人目に触れずにどのようにここまで足を運んだのか興味のあるところです。

    大化改新相談所石碑
    645年5月、藤の花が咲き乱れるこの山で、中臣鎌足と中大兄皇子が蘇我氏に対するクーデタを企てたという名高い場所です。談山(かたらいやま)と伝わる場所で、談山神社の社名の由来ともなりました。
    平地の中央に大きな石碑が立ち、その表には「御相談所」と刻んであります。山頂広場の周囲はシラカシやアカカシの木々に囲まれ、密談の場だけに殺風景な場所です。
    飛鳥板蓋宮からは山道で6Kmもあり、標高も566mあります。こんな人里離れた所まで足を運んで密談しなければならないほど、都(飛鳥)では蘇我氏のスパイが暗躍していたのでしょうか?密談の場となった理由は、この地がまさに人を寄せ付けない聖地だからです。談山は、お椀を伏せた形をした神奈備(神体山)です。例え蘇我氏と言えども、聖山の神には畏怖の念を感じざるを得ません。対照的に中臣鎌足は、この麓の飛鳥大原に住み、代々この山を祀った神官 中臣氏の系譜であり、実家の裏山のような感覚だったのかもしれません。一方、密談に誘われた皇子は人目に触れずにどのようにここまで足を運んだのか興味のあるところです。

  • 藤原鎌足の墓所<br />分岐点まで戻り、そこから5分強で正面に藤原鎌足の墓所が現れます。ここが標高607mの御破裂山ですが、山頂は墓所の中にあります。左側へ回り込むと展望台ですが、眺望はいまいちです。眼下に大和平野に浮かぶ畝傍山やその奥の二上山、耳成山などが見渡せるかと思いましたが、木立がそれを阻んでいます。<br />藤原鎌足は669(天智8)年に薨去。狩りの際に落馬して骨折し、それが祟ったのか、あっけなく56歳の生涯を閉じています。死因は源頼朝に似ています。<br />社伝では、墓所は初め摂津国 阿威山に造られましたが、その後、唐から帰国した長男 定恵が一部の遺骨を多武峰に改葬したと記します。一方、『延喜式諸陵寮』では「多武峰墓は不比等の墓所」と匂わせる記述があります。また、定恵が父の遺骨を多武峰に改葬したという記述は『日本書紀』などの文献にはなく、更には、藤原家家伝とも言うべき『定恵伝』や『鎌足伝』にも記載がないことから、ここを鎌足の墓と比定するのは無理があるとされます。<br />往時の「鎌足公多武峰墓所」からは広く大和盆地が見渡せたそうです。古代の大和では、悪霊は海(大阪湾)からやって来ると信じられており、強い力を持つ鎌足をこの地に鎮めたのは、大和に侵入しようとする悪霊に睨みを利かせる意味合いがあったのかもしれません。

    藤原鎌足の墓所
    分岐点まで戻り、そこから5分強で正面に藤原鎌足の墓所が現れます。ここが標高607mの御破裂山ですが、山頂は墓所の中にあります。左側へ回り込むと展望台ですが、眺望はいまいちです。眼下に大和平野に浮かぶ畝傍山やその奥の二上山、耳成山などが見渡せるかと思いましたが、木立がそれを阻んでいます。
    藤原鎌足は669(天智8)年に薨去。狩りの際に落馬して骨折し、それが祟ったのか、あっけなく56歳の生涯を閉じています。死因は源頼朝に似ています。
    社伝では、墓所は初め摂津国 阿威山に造られましたが、その後、唐から帰国した長男 定恵が一部の遺骨を多武峰に改葬したと記します。一方、『延喜式諸陵寮』では「多武峰墓は不比等の墓所」と匂わせる記述があります。また、定恵が父の遺骨を多武峰に改葬したという記述は『日本書紀』などの文献にはなく、更には、藤原家家伝とも言うべき『定恵伝』や『鎌足伝』にも記載がないことから、ここを鎌足の墓と比定するのは無理があるとされます。
    往時の「鎌足公多武峰墓所」からは広く大和盆地が見渡せたそうです。古代の大和では、悪霊は海(大阪湾)からやって来ると信じられており、強い力を持つ鎌足をこの地に鎮めたのは、大和に侵入しようとする悪霊に睨みを利かせる意味合いがあったのかもしれません。

  • 藤原鎌足の墓所<br />鎌足の聖霊が神として談峰に降臨して以来、国家や藤原氏に凶事がある時は陵山が鳴動し、異光が顕現したと伝わります。ある時は光を発してその光が遠く三笠山に至り、また、ある時は三笠山も同様に発光したと言います。山の東から鳴動する時は朝廷に異変が起こり、南から鳴動する時は幕府に、北から発すれば藤原氏一門に、西から発すれば万民に、山の中央が鳴動すれば多武峰妙楽寺に異変が起こるとされました。醍醐天皇の治世の898(昌泰元)年~1614(慶長19)年の716年間で53回も鳴動したと伝わり、鳴動の度に鎌足神像は神体破裂(亀裂が入る)したそうです。それ故、御「破裂」山と呼ばれたのでしょう。<br />因みに、鳴動を見張る場所を定め、それらを「立聞きの芝」と称したそうです。桜井市粟殿・北山・針道と明日香村の阪田の4ヶ所ですが、鳴動を聞く場所と言いながら、攻めてくる敵を見張る場所でもあったそうです。

    藤原鎌足の墓所
    鎌足の聖霊が神として談峰に降臨して以来、国家や藤原氏に凶事がある時は陵山が鳴動し、異光が顕現したと伝わります。ある時は光を発してその光が遠く三笠山に至り、また、ある時は三笠山も同様に発光したと言います。山の東から鳴動する時は朝廷に異変が起こり、南から鳴動する時は幕府に、北から発すれば藤原氏一門に、西から発すれば万民に、山の中央が鳴動すれば多武峰妙楽寺に異変が起こるとされました。醍醐天皇の治世の898(昌泰元)年~1614(慶長19)年の716年間で53回も鳴動したと伝わり、鳴動の度に鎌足神像は神体破裂(亀裂が入る)したそうです。それ故、御「破裂」山と呼ばれたのでしょう。
    因みに、鳴動を見張る場所を定め、それらを「立聞きの芝」と称したそうです。桜井市粟殿・北山・針道と明日香村の阪田の4ヶ所ですが、鳴動を聞く場所と言いながら、攻めてくる敵を見張る場所でもあったそうです。

  • 談山との分岐点まではこうしたなだらかな尾根道を戻ります。<br /><br />1607(慶長12)年に発生した最後の御破裂を記録した『御破裂之覚』によると、「御破裂山が鳴動し、神光は四海に輝き、国々に光が飛んだ異変があった。冬野八幡(明日香村)で御湯の占いをしたところ御破裂との神託があり、更に大原宮(明日香村)でも同様な神託が出た。旧伝に従って三輪市(三輪恵比須神社周辺)で辻占いをするとご破裂ではないという。そこで、ご神像を拝すると破裂している事がわかり、京に伝えられた。」と記されています。鳴動、御破裂を前にし、人心は恐々たる有様だったとその模様がリアルに描写されています。<br />因みに、後陽成天皇の命により、古代から慶長12年までの神体破裂の記録をまとめたのが、談山神社社宝『多武峯大織冠尊像御破裂目録』です。この目録は、願いを込めて「天下泰平になったため以後破裂は起こらなくなった」と結んでいます。この手前味噌な結びが奏功したのか、中世の終焉と共に多武峰の神体破裂という怪異は封印されたそうです。<br />多武峰のような霊威は、世界の宗教史にも他に類を見ない稀代な現象と言えます。

    談山との分岐点まではこうしたなだらかな尾根道を戻ります。

    1607(慶長12)年に発生した最後の御破裂を記録した『御破裂之覚』によると、「御破裂山が鳴動し、神光は四海に輝き、国々に光が飛んだ異変があった。冬野八幡(明日香村)で御湯の占いをしたところ御破裂との神託があり、更に大原宮(明日香村)でも同様な神託が出た。旧伝に従って三輪市(三輪恵比須神社周辺)で辻占いをするとご破裂ではないという。そこで、ご神像を拝すると破裂している事がわかり、京に伝えられた。」と記されています。鳴動、御破裂を前にし、人心は恐々たる有様だったとその模様がリアルに描写されています。
    因みに、後陽成天皇の命により、古代から慶長12年までの神体破裂の記録をまとめたのが、談山神社社宝『多武峯大織冠尊像御破裂目録』です。この目録は、願いを込めて「天下泰平になったため以後破裂は起こらなくなった」と結んでいます。この手前味噌な結びが奏功したのか、中世の終焉と共に多武峰の神体破裂という怪異は封印されたそうです。
    多武峰のような霊威は、世界の宗教史にも他に類を見ない稀代な現象と言えます。

  • 祓戸社<br />談山神社に戻り、西入山口から次の目的地へ向かいます。<br />神社の入口に付き物の「祓戸社」がないなと思っていたら、西入山口にあるゴマンド池の上に浮かんでいました。<br />「万度祓(まんどばらい)」を略して「まんど」と言うそうですので、それが池の名の由来と思われます。

    祓戸社
    談山神社に戻り、西入山口から次の目的地へ向かいます。
    神社の入口に付き物の「祓戸社」がないなと思っていたら、西入山口にあるゴマンド池の上に浮かんでいました。
    「万度祓(まんどばらい)」を略して「まんど」と言うそうですので、それが池の名の由来と思われます。

  • 祓戸社<br />手前にあるドウダンツツジは盛りを過ぎている印象です。どこの神社でもそうですが、神社の入口付近に祓戸社があり、まずはこちらでお参りして身を清めます。<br />ご祭神は祓戸大神(はらえどのおおかみ)を祀り、6月30日と12月31日には古代より続けられている除災の行事「大祓式」が祓戸社前で行われます。<br />因みに、神仏分離令により妙楽寺が談山神社に転身したのが1869(明治2)年6月30日の大祓の日です。祓戸大神はお祓いの神様で、祝詞(のりと)にも大きく関わる大事な神様だそうです。しかも1柱の神ではなく、大祓詞では次の4柱の神を祓戸大神としています。<br />瀬織津比売(せおりつひめ)<br />速開都比売(はやあきつひめ)<br />気吹戸主(いぶきどぬし)<br />速佐須良比売(はやさすらひめ)

    祓戸社
    手前にあるドウダンツツジは盛りを過ぎている印象です。どこの神社でもそうですが、神社の入口付近に祓戸社があり、まずはこちらでお参りして身を清めます。
    ご祭神は祓戸大神(はらえどのおおかみ)を祀り、6月30日と12月31日には古代より続けられている除災の行事「大祓式」が祓戸社前で行われます。
    因みに、神仏分離令により妙楽寺が談山神社に転身したのが1869(明治2)年6月30日の大祓の日です。祓戸大神はお祓いの神様で、祝詞(のりと)にも大きく関わる大事な神様だそうです。しかも1柱の神ではなく、大祓詞では次の4柱の神を祓戸大神としています。
    瀬織津比売(せおりつひめ)
    速開都比売(はやあきつひめ)
    気吹戸主(いぶきどぬし)
    速佐須良比売(はやさすらひめ)

  • 神幸橋<br />西入山口に架かる神幸橋は隠れた十三重塔のビュースポットです。<br />神幸橋の「神幸」を冠した祭りが神幸祭です。談山神社の数多くの祭の中で唯一、神輿渡御(しんよとぎょ)のあるお祭りです。春の大祭とも呼ばれ、境内の桜が丁度見頃となる4月の第2日曜日に催されます。神輿渡御は1年おきに行われ、その他の年は本殿神事のみが行われます。生憎2022年度は新型コロナの関係で中止になりました。

    神幸橋
    西入山口に架かる神幸橋は隠れた十三重塔のビュースポットです。
    神幸橋の「神幸」を冠した祭りが神幸祭です。談山神社の数多くの祭の中で唯一、神輿渡御(しんよとぎょ)のあるお祭りです。春の大祭とも呼ばれ、境内の桜が丁度見頃となる4月の第2日曜日に催されます。神輿渡御は1年おきに行われ、その他の年は本殿神事のみが行われます。生憎2022年度は新型コロナの関係で中止になりました。

  • 神幸橋<br />ここからは、このように錦秋にやさしく抱かれて眠る十三重塔が撮影できます。<br /><br />松本清張・樋口清之著『奈良の旅』には次のような記述があります。<br />大和には「金の司は多武峰」というふしぎな諺がある。多武峰とは、談山の別名で、いまの談山神社は、むかしの妙楽寺のことである。どうしてここが金の司なのかというと、江戸時代、妙楽寺は所領三千石の寺であったが、寺中の坊はいずれも金持ちで、付近の町家や山林業者に高利の金貸し、南大和第一の大資本家であった。いっぱんに、民衆の支持や信仰のあった寺々では経営が楽であったが、多武峰のように、大織冠藤原鎌足を祭るといったいかめしい寺では、藤原氏の信仰をのぞいては、庶民の信仰に期待がもてなかった。そこで考え出したのが、一種の金融業であった。

    神幸橋
    ここからは、このように錦秋にやさしく抱かれて眠る十三重塔が撮影できます。

    松本清張・樋口清之著『奈良の旅』には次のような記述があります。
    大和には「金の司は多武峰」というふしぎな諺がある。多武峰とは、談山の別名で、いまの談山神社は、むかしの妙楽寺のことである。どうしてここが金の司なのかというと、江戸時代、妙楽寺は所領三千石の寺であったが、寺中の坊はいずれも金持ちで、付近の町家や山林業者に高利の金貸し、南大和第一の大資本家であった。いっぱんに、民衆の支持や信仰のあった寺々では経営が楽であったが、多武峰のように、大織冠藤原鎌足を祭るといったいかめしい寺では、藤原氏の信仰をのぞいては、庶民の信仰に期待がもてなかった。そこで考え出したのが、一種の金融業であった。

  • 神幸橋<br />少しだけズームアップしてみました。<br />錦秋にまどろむ十三重塔です。

    神幸橋
    少しだけズームアップしてみました。
    錦秋にまどろむ十三重塔です。

  • 釜めし屋「南山荘」<br />神幸橋で満足できない方には、参道を挟んだ丘の中腹にある釜めし屋「南山荘」の駐車場手前にある石垣の上からの撮影を推奨いたします。小つづみ桜(薄墨桜)の少し先を右に入ってUターンした所になります。<br />ただし、塔の真上と右側に電線や電柱があり、トリミングするとこれぐらいの領域にしかなりません。電線はズームアップかつ絞りを小さくすることで消せるかと思いましたが無理でした。画像の消しゴムソフトをお持ちであれば、他のブログにアップされているようなもう少し引いた写真が撮れると思います。

    釜めし屋「南山荘」
    神幸橋で満足できない方には、参道を挟んだ丘の中腹にある釜めし屋「南山荘」の駐車場手前にある石垣の上からの撮影を推奨いたします。小つづみ桜(薄墨桜)の少し先を右に入ってUターンした所になります。
    ただし、塔の真上と右側に電線や電柱があり、トリミングするとこれぐらいの領域にしかなりません。電線はズームアップかつ絞りを小さくすることで消せるかと思いましたが無理でした。画像の消しゴムソフトをお持ちであれば、他のブログにアップされているようなもう少し引いた写真が撮れると思います。

  • 釜めし屋「南山荘」<br />このアングルで撮れるのは、石垣の上のピンポイントだけです。そこから半歩ずれても十三重塔の屋根の一部が手前の樹木に隠れてしまいます。<br />WEB情報ではシーズン中は陣取り合戦が勃発するとありますので、紅葉の最盛期を外すのが賢明かと…。因みに、この日は誰も居ませんでした。

    釜めし屋「南山荘」
    このアングルで撮れるのは、石垣の上のピンポイントだけです。そこから半歩ずれても十三重塔の屋根の一部が手前の樹木に隠れてしまいます。
    WEB情報ではシーズン中は陣取り合戦が勃発するとありますので、紅葉の最盛期を外すのが賢明かと…。因みに、この日は誰も居ませんでした。

  • 釜めし屋「南山荘」<br />駐車場付近の紅葉も見逃せません!<br />「南山荘」は料理旅館ですので宿泊も可能です。<br />

    釜めし屋「南山荘」
    駐車場付近の紅葉も見逃せません!
    「南山荘」は料理旅館ですので宿泊も可能です。

  • 談山神社 西大門跡を目指し、左手に竹林を見ながら参道を登っていきます。<br />

    談山神社 西大門跡を目指し、左手に竹林を見ながら参道を登っていきます。

  • 談山神社 西大門跡<br />竹林を過ぎた所が広いスペースになっており、そこに「下乗」碑が建てられています。その背後は石積みです。ここから先は、馬上から降りて参拝することになります。「下馬評(下馬先の評定)」などと使われる、いわゆる下馬のポイントを言います。

    談山神社 西大門跡
    竹林を過ぎた所が広いスペースになっており、そこに「下乗」碑が建てられています。その背後は石積みです。ここから先は、馬上から降りて参拝することになります。「下馬評(下馬先の評定)」などと使われる、いわゆる下馬のポイントを言います。

  • 談山神社 西大門跡<br />東大門は存在していますが、残念ながら西大門は残されていません。<br />西大門跡では花崗岩製の鎌倉時代の弥勒菩薩石仏と、かつての歴史を偲ばせる「女人禁制」の石柱が見所です。<br />尚、左端には火袋が破損したのか、木造の火袋を挟んだ石燈籠が佇みます。また、斜面の奥を覗き込むと他にも石仏が見られます。

    談山神社 西大門跡
    東大門は存在していますが、残念ながら西大門は残されていません。
    西大門跡では花崗岩製の鎌倉時代の弥勒菩薩石仏と、かつての歴史を偲ばせる「女人禁制」の石柱が見所です。
    尚、左端には火袋が破損したのか、木造の火袋を挟んだ石燈籠が佇みます。また、斜面の奥を覗き込むと他にも石仏が見られます。

  • 談山神社 西大門跡 石仏「弥勒菩薩像」<br />花崗岩製で像高0.88m、複弁反花座の上に複弁蓮座と船形光背を配して半肉彫りし、左手は甲を表にした弥勒触地印を結んでいます。尚、船形光背部に「文永3年8月8日奉造立」の銘、また、藤井延清作と刻みます。<br />文永3年は西暦1266年(鎌倉時代中期)に当たり、市内の在銘石仏としては最古のものだそうです。全体的に穏やかな表情とお姿をなされ、細身の石仏系統に分類されます。 <br />余談ですが、この弥勒石仏には怪奇譚があります。妙楽寺は創建から暫くして廃れました。その姿に心を打たれ、再興したのが平安時代初期の僧 賢基(後の延安)でした。初代の検校・座主となった人物です。その賢基の墓がこの弥勒石仏と向き合った位置にあったとされ、その墓を弥勒石仏は夜な夜な光を放って照らし、逆に賢基の墓も光を放って弥勒石仏を照らしたと伝わります。

    談山神社 西大門跡 石仏「弥勒菩薩像」
    花崗岩製で像高0.88m、複弁反花座の上に複弁蓮座と船形光背を配して半肉彫りし、左手は甲を表にした弥勒触地印を結んでいます。尚、船形光背部に「文永3年8月8日奉造立」の銘、また、藤井延清作と刻みます。
    文永3年は西暦1266年(鎌倉時代中期)に当たり、市内の在銘石仏としては最古のものだそうです。全体的に穏やかな表情とお姿をなされ、細身の石仏系統に分類されます。 
    余談ですが、この弥勒石仏には怪奇譚があります。妙楽寺は創建から暫くして廃れました。その姿に心を打たれ、再興したのが平安時代初期の僧 賢基(後の延安)でした。初代の検校・座主となった人物です。その賢基の墓がこの弥勒石仏と向き合った位置にあったとされ、その墓を弥勒石仏は夜な夜な光を放って照らし、逆に賢基の墓も光を放って弥勒石仏を照らしたと伝わります。

  • 談山神社 西大門跡<br />門跡の先(左端)に架かる橋は、川を渡る橋ではなく、跨道橋です。<br />橋の下には県道155号線(多武峯見瀬線)が通っています。<br /><br />

    談山神社 西大門跡
    門跡の先(左端)に架かる橋は、川を渡る橋ではなく、跨道橋です。
    橋の下には県道155号線(多武峯見瀬線)が通っています。

  • 談山神社 西大門跡 女人禁制石柱<br />石柱の解説文碑には次のように記されています。<br />この地は旧多武峰妙楽寺の西門の跡地で女性の立ち入りを禁じた結界地であった。旧多武峰妙楽寺では中世から近世まで仏教や修験道の影響を受けこの石柱からの女性の立ち入りを禁じた。<br />明治元年の廃仏毀釈により妙楽寺は談山神社となり、同時に「女人禁制」も解かれた。この石柱は、女性の人権にかかわる歴史的遺物として後世に遺し人権文化創造の教材とする。<br />平成13年3月 桜井市談山神社<br />因みに、右端の石柱は「亀山天皇皇子良助親王墓道標」です。<br />後で知ったのですが、跨道橋を渡って3分ほどの距離の所に良助親王 冬野墓があるそうです。良助親王(1268~1318年)は鎌倉時代の第90代亀山天皇の皇子ですが、仏門に入って法親王となり、31歳で比叡山延暦寺100世天台座主に就き、青蓮院門跡を経て妙楽寺に移りこの地に葬られました。東大門の「下乗」碑の揮毫をなされた方です。

    談山神社 西大門跡 女人禁制石柱
    石柱の解説文碑には次のように記されています。
    この地は旧多武峰妙楽寺の西門の跡地で女性の立ち入りを禁じた結界地であった。旧多武峰妙楽寺では中世から近世まで仏教や修験道の影響を受けこの石柱からの女性の立ち入りを禁じた。
    明治元年の廃仏毀釈により妙楽寺は談山神社となり、同時に「女人禁制」も解かれた。この石柱は、女性の人権にかかわる歴史的遺物として後世に遺し人権文化創造の教材とする。
    平成13年3月 桜井市談山神社
    因みに、右端の石柱は「亀山天皇皇子良助親王墓道標」です。
    後で知ったのですが、跨道橋を渡って3分ほどの距離の所に良助親王 冬野墓があるそうです。良助親王(1268~1318年)は鎌倉時代の第90代亀山天皇の皇子ですが、仏門に入って法親王となり、31歳で比叡山延暦寺100世天台座主に就き、青蓮院門跡を経て妙楽寺に移りこの地に葬られました。東大門の「下乗」碑の揮毫をなされた方です。

  • 談山神社 西大門跡<br />門跡の先では、陽光を浴びて鮮やかに光輝く楓が明日香までの旅路を温かく見送ってくれます。<br />

    談山神社 西大門跡
    門跡の先では、陽光を浴びて鮮やかに光輝く楓が明日香までの旅路を温かく見送ってくれます。

  • 談山神社 西大門跡<br />門跡を出て振り返った時の景色です。<br />こうして引いて見ると、東大門同様に城郭寺院を偲ばせる枡形虎口になっているのが判ります。<br />ここから明日香へはハイキングコースを黙々と下って行くのですが、その前に1箇所だけ寄り道をします。「念誦崛(ねずき)」と呼ばれる増賀上人の墓所です。<br /><br />この続きは、あをによし 多武峰~明日香逍遥⑥多武峰 念誦崛(ねずき)でお届けします。

    談山神社 西大門跡
    門跡を出て振り返った時の景色です。
    こうして引いて見ると、東大門同様に城郭寺院を偲ばせる枡形虎口になっているのが判ります。
    ここから明日香へはハイキングコースを黙々と下って行くのですが、その前に1箇所だけ寄り道をします。「念誦崛(ねずき)」と呼ばれる増賀上人の墓所です。

    この続きは、あをによし 多武峰~明日香逍遥⑥多武峰 念誦崛(ねずき)でお届けします。

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