2022/11/18 - 2022/11/18
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montsaintmichelさん
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今回は談山神社のランドマークともいえる現存世界唯一の木造十三重塔をはじめ、東エリアにある恋結びに霊験あらたかな東殿(恋神社)、それとは真逆の縁切り祈願にご利益のある如意輪観音堂を巡ります。また、十三重塔を造立した鎌足の長男 定恵には謎が満載ですので、一つずつ紐解いていきます。更に、一つのエリアに縁切りと縁結びの神社が同居する摩訶不思議な異次元空間についてもレポします。
一方、藤原鎌足をご祭神とするこの談山神社に、藤原氏の政敵かつ怨霊と化して藤原氏を恐怖のどん底に叩き落した菅原道真を祀る社が人知れず佇みます。しかも、定恵が鎌足の遺骨を埋めたと伝わる十三重塔から最も離れた辺鄙な地に隔絶されたように祀られていますので、その真意を探求してみました。
更には、西エリアにある権殿を特別拝観した内容をレポいたします。権殿の後戸に護法神として祀られている「摩陀羅神面」が特別展示されており、この思いがけないご対面には身が震える思いでした。
- 旅行の満足度
- 5.0
- 観光
- 5.0
- 同行者
- カップル・夫婦
- 交通手段
- 高速・路線バス 私鉄
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この境内マップが談山神社のHPにあれば便利なのですが、「鋭意準備中」と記されて久しいです。
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木造十三重塔(重文)
拝殿を出るとその正面に荘厳な姿で聳えるのが十三重塔です。
塔と言うと東寺や法隆寺などの五重塔をイメージされると思いますが、それを遥かに超える異次元スケールの十三層を持ち、高さ約17mを誇ります。
うっとりするほど流麗な檜皮葺屋根が重畳するその艶やかな姿は圧巻です。
因みに、紅葉シーズン中はライトアップも催されています。 -
木造十三重塔
鎌倉時代成立の社伝によると、中臣鎌足の長男 定恵和尚が父の供養のため、大阪の茨木市にある阿武山古墳から遺骨の一部を移し、その上に飛鳥時代の678(白鳳7)年に唐の清凉山宝池院の塔を模して造立したとされる塔婆です。その後1173(承安3)年に興福寺衆徒勢の焼き討ちで消失し、1185(文治元)年に再興されました。現存のものは1532(享禄5)年の再建ですが、1641(寛永18)年に大修理が行われました。木造十三重塔としては現存世界唯一の貴重なものであり、談山神社のランドマーク的存在です。 -
木造十三重塔
談山神社の縁起書によると、「678(天武天皇6)年に定恵が鎌足を祀るために十三重塔造立」と記しています。しかし、史実に従えばその年は定恵が没して13年後であり、年代に乖離があります。
『藤氏家伝』によると、遣唐使に随行し唐に留学していた定恵は鎌足がまだ存命中の665(天智天皇4)年に23歳の若さで死去しています。因みに、鎌足が没したのはその4年後。社伝はゾンビが塔婆を建てたとでも言たげです。また、年代は記録の誤りだとしても、23歳の僧侶が帰国してから殺害されるまでの僅か3ヶ月の間に山を開いて塔婆を造立する大事業を成し遂げるのは物理的に不可能と思われます。
因みに、梅原猛著『隠された十字架 法隆寺編』では、十三重塔は弟 不比等が非業の死を遂げた定恵の菩提を弔うために建てたものと比定しています。定恵が天武天皇の命令で毒殺されたとすれば、あり得る話です。何故なら、不比等の父は天武天皇とも言われていますから、その贖罪と言えます。
談山神社の縁起書にある創建由来には複雑な背景がありそうですが、とりあえずここでは百歩譲って定恵の生前の発願により、678年に造立されたとしておきましょう。
一方、寺院がここまでして定恵の創建に拘るのも奇妙な話です。不比等では箔が足りないとでも語っているように思えるのですが…。 -
木造十三重塔
非常に仏教色が濃い巨大な塔婆ですが、神仏分離令では「神廟」として扱われ、取り壊されることなく残されました。明治維新政権内には藤原氏の公卿出身者も多かったため、さすがに祖霊の墓を取り壊すのは憚られたのでしょう。
苔生した檜皮葺の屋根が綺麗で、逓減率が小さいため室生寺の五重塔のように大きく見えます。初層の組物は肘木持出し、軒は二軒繁垂木、二重石壇の上に亀腹を築き、その上の枠組を基盤にして建てられています。各層は3間四方からなり、軸部は非常に短く、斗栱を用いずに柱の頭に直接桁を受けています。また、相輪は通常9輪ですが、7輪構造となっています。
本尊 文殊菩薩の撤去後は銅円鏡と難陀龍王(なんだりゅうおう)立像を安置し、現在は神廟と呼ばれています。 -
木造十三重塔
十三重塔には造立に関する摩訶不思議な伝説があります。
十二層目までは順調に工事が進みましたが、部材が不足して工事が中止になりました。ところが翌朝、定恵和尚が塔を見に行くと、なんと十三層目が完成しているではありませんか!夜の間に雷神を筆頭に魑魅魍魎が塔の天辺を運んできたと伝わります。
この伝説に関し、談山神社所蔵『多武峯縁起絵巻』には次のように描かれています。「定恵は唐にいた時夢を見た。その中で談峯に至り、父鎌足に会う。鎌足は『今、天に上った』と言い、『この地に寺塔を建てるように』と告げた。定恵は鎌足の墳墓の上に塔を建てるため清涼山に登り、宝池院の十三重塔を移そうとする。定恵は塔の材木や瓦を船に積んで帰朝しようとしたが、船が狭いために一重分を棄てて帰ることになった。定恵は談峯に登り、遺骨を納め、その上に塔を建て始めた。しかし、材瓦が足りないので所願を遂げることができないと嘆いた。その夜、 雷雨があり、翌朝見ると塔が完成していた。十三重目が唐から飛び来たったのを知り、定恵はその奇跡に感じ入った。その後、塔の南に三間四面の堂を建て、妙楽寺と号した。定恵が建てたもので、今の講堂である。これをもって多武峯寺の草創とする。」。 -
木造十三重塔
何故、一般的な「五重」ではなく、「十三重」の塔なのでしょうか?
諸説ありますが、古代中国の5行思想に由来すると考えられています。万物は木火土金水の5元素から成るとの思想で、骨に通じ墓所に相応しい白色を意味する「金」は、数字で表すと4と9に当たります。これを足せば13です。ですから、十三重塔は5層の屋根で仏教の世界観を表す五重塔とはコンセプトが異なります。
因みに、このように、2重目から上が狭い間隔で積み重ねたものを層塔と区別して簷塔(えんとう)と呼び、斗栱を組まずに肘木を持出す構造です。
かつては興福寺、笠置寺に平面方形十三重塔、西大寺、法勝寺に八角十三重塔などがあり、その他にも大陸にも多くの十三重塔がありましたが、現存するのはここだけです。構造的に難があり、火災や地震に弱いながらも逞しく現存しているのは奇跡的です。 -
木造十三重塔
初層には木造 難陀龍王立像が祀られています。(通常は非公開)
「難陀」はインドの古語であるサンスクリット語の「nandah」の音を漢字で書いたもので、「幸せ」や「喜び」という意味です。つまり、幸福をもたらす龍王ということになりますが、本来は雨乞いの本尊だそうです。
難陀龍王像の数はそれほど多くはないのですが、千手観音の眷属の28部衆に見られます。例えば京都 蓮華王院三十三間堂の28部衆の1体は、甲冑姿の武装像で、頭に龍の冠を頂きます。三十三間堂の解説では、「仏法を守護する八大竜王の第1番に数えられる龍王。密教の請雨経法の時に拝まれる。請雨経法は雨乞いや洪水時の止雨など、天変地異を防ぐための護国修法のこと。」とあります。
談山神社のものは、インドの八大龍王を模しているかのように顔立ちは異国情緒に溢れ彫りが深く、肌は黒色です。また、金色の龍を左肩に乗せ、閻魔大王のような黄金色の冠を被っています。因みに、奈良県の北・中部は比較的降水量の少ない地域であり、旱魃が起こり易い風土だそうです。
この画像は次のサイトから引用させていただきました。
https://blog.goo.ne.jp/chx15430/e/ede148906cdb866c9e071fb0c7d2e9f0 -
梅原猛著『塔』にある十三重塔に関する記述を紹介しておきます。
おそらく父 鎌足にとって、定慧の死はなんともねざめの悪い事件であったろう。この不幸な死をとげたわが子のことが、いつまでも彼の心を離れなかったにちがいない。定慧の霊はなぐさめられねばならない。おそらく、多武峰に定慧を葬ろうとしたのは、鎌足の意志であろう。「多武峰縁起」では、死の前の鎌足が唐にいる定慧の夢にあらわれて、多武峰に寺をたてることを命じることになっているが、実際に寺をたてたのは不比等であったはずである。彼は、この不幸な兄をとぶらったのである。<中略>
彼は伝承を偽造した。親が子を葬るのはよくない。子が親を葬った形にしなくてはならぬ。そしてできたのが、「多武峰縁起」および「略記」にかかれた伝承であろう。伝承はウソであるが、それはやはり作らねばならぬ伝承なのである。鎌足は定慧によって葬られ、ここに彼ら二人を記念する塔が建てられたことにしないと、とても定慧は救われない。そう不比等は思ったのではないか。「多武峰縁起」では、定慧の死の年は、和銅七年であるという。齢七十、定慧を三倍以上も長生きさせているのである。この伝承は興味深い。おそらくその頃、十三重の塔は藤原一族の守り寺のシンボルとしてつくられたのであろう。 -
摂社 東殿(恋神社)重文
拝殿下の鳥居を潜ると東殿へと誘う「恋の道」があります。古来縁結び信仰があり、縁結びの神として東殿に祀られている舒明天皇の皇女(一説には近江国野洲郡鏡里の豪族 鏡王の息女) 鏡女王(かがみのひめみこ)は、万葉歌人 額田王の姉であり、情熱的な恋歌を詠みました。鏡女王は、中臣鎌足の正室であり、『興福寺縁起』によると藤原不比等の生母と伝えます。因みに、『日本書紀』には「鏡姫王」と記されています。藤原氏一族繁栄の礎を築き上げ、女性として幸せな一生を送ったことから、恋神社と呼ばれるようになったそうです。
鏡女王が生きた飛鳥時代は、現代よりも自由に恋愛をしていたそうです。因みに、妹の額田王は天智天皇と天武天皇に愛されるなど魅力的であり、また、和歌の才能の他、巫女としての能力や言霊を聴くこともできたそうです。姉妹は共に天智天皇の寵愛を受けましたが、額田王の「君待つと わが恋ひをれば わが屋戸の 簾動かし 秋の風吹く」の満ち足りた心情に対し、鏡女王の「風をだに 恋ふるは羨(とも)し 風をだに 来むとし待たば 何か嘆かむ」は寵愛が過去形となったやるせない心情が込められています。
因みに、天武天皇の正室の持統天皇は天智天皇の皇女です。同じく寵愛を受けた額田王とはライバル同士。そして、額田王が中大兄皇子(後の天智天皇)の寵愛を受け、中臣鎌足が中大兄皇子の妃だった鏡女王を懐妊中にも拘わらず正室に迎えます。歴史物語『大鏡』などは「不比等は天智天皇の皇胤」と記しています。鎌足と鏡女王の夫婦仲は良かったようですが、一説によると鎌足の意中の人は額田王だったとも!?何とも自由奔放な恋愛関係ですが、名ばかりの妃で居るよりは、正室として迎えられ、自然体で暮らせる鎌足との生活の方が鏡女王には幸せだったとの見方もできます。 -
摂社 東殿(恋神社)
江戸時代までは「本願堂」と呼ばれ、三間社隅木入春日造のその建築様式は現本殿や総社本殿とも通じます。実は、1619(元和5)年に造替された本殿を、1668(寛文8)年の造替に伴いこの地に移築したもので、若宮とも称されます。かつては如意輪観音像を安置し、鎌足の長男 定恵を祀っていましたが、現在のご祭神は鏡女王、定恵和尚、藤原不比等の3柱です。
通常、正面に鏡女王の木像があるのですが、本日は何処かへお出かけのようです。不倫でなければいいのですが…。 -
摂社 東殿(恋神社)厄割り改新玉
御利益は厄落とし・開運・諸願成就。
粘土で作った丸い石(中は空洞)に息を3回吹きかけ、厄割り石の真上に落とし、それを割ることで厄を払うというものです。落とす石が非常に軽いので、当り処では、割れずに落ちてしまいます。でも、気を遣って「割れなくても厄は落とせます」とは書かれています。
1.まず1個目の瓦割り改新玉に厄を移す。
(玉に3回息を吹きかける、身体に関わる厄はその部位にあてる。)
2.厄割り改新玉を厄割り石の真上にそっと落とす。
割れずに落ちた玉は拾わない。
3.次に2個目の瓦割り改新玉にお願いを込める。
(玉に3回息を吹きかける。)
4.厄割り改新玉を厄割り石の真上にそっと落とす。
割れずに落ちた玉は拾わない。 -
摂社 東殿(恋神社)むすびの岩座
談山神社の前身である妙楽寺が1300年前に創建された時から存在する磐座で、古来、神が宿るとされる「むすびの岩座」です。2003年に注連縄が張られ、恋の願掛け岩座として東殿の脇に復元されました。岩座を撫でながら願掛けし、その後、東殿のご祭神である鏡女王にお願いします。ご利益は、恋愛や結婚成就ばかりでなく、より良い人間関係を結ぶこともできるそうです。
ただし、祈願には作法があります。まず本殿正面から参拝し、時計回りに回って本殿背後からも参拝します。これを3周すればご利益にあやかれるのだとか…。 -
東殿の裏手にあるご神木「連理の木」です。
縁結びにはうってつけのご神木です。
ここで定恵上人についてダイジェストで紹介しておきます。
木像十三重塔を造立した定恵は飛鳥の地に生まれました。653(白雉4)年5月に11歳で第2回遣唐使一行に加わって留学僧として渡唐、長安の慧日道場において玄奘三蔵の弟子 神泰法師に師事して11年間を過ごしました。665(天智4)年9月に唐の劉徳高の船に乗って帰国するも、その3ヶ月後の同年12月23日、大和国大原の鎌足邸で死去しました。享年23歳でした。
定恵については3つの謎があります。その1つは、出生にまつわるものです。梅原猛著『隠された十字架 法隆寺論』に代表される「実父は鎌足ではなく、軽皇子(後の孝徳天皇)」という皇胤説。
2つ目は、鎌足は何故、長男 真人(まひと:定恵)に藤原の氏を継がせず、11歳で出家させて渡唐させたのかという疑問。神祇官の家柄で、仏教を巡って物部氏と蘇我氏が戦になった際には神道派の物部氏についた中臣氏が長男を出家させ、その上、中国に留学させるのには違和感を覚えます。
3つ目は、23歳の時に百済人に毒殺されたと記されていますが、その早すぎる死の真相。
順を追って謎解きをしてきましょう。 -
如意輪観音堂
ご神木の先に比較的新しい小振りな堂宇がポツンと寂し気に佇みます。
こちらは「絶縁祈願」のパワースポットで、特に女性に霊験あらたかだそうです。昔は女性から離縁するのは認められていなかったようですので、こうした縁切り祈願の需要が高かったのかもしれません。とは言え、「縁結び」と「縁切り」のご利益がある2つの堂宇が同居する珍しい神社です。
東殿で縁結びを祈願し、もしも相手が理想の人でなければここで縁切り祈願ができるということでしょうか?それであれば、心おきなく東殿で縁結びを祈願できるというものです。あるいは、まず、ここで悪縁を断ち切ってから東殿で良縁を祈願するということでしょうか?それぞれのシチュエーションに合わせて多彩な組み合わせができるようになっているんですね! -
末社 三天稲荷神社
その先には三天稲荷神社への入口となる鳥居が建てられています。ただし、如意輪観音堂から横へ張り出す朱塗りの衝立が鳥居を目隠し、マップを見ないと三天稲荷神社の存在すら認知できません。何か参拝を拒む意図があるのかもしれまいと勘ぐってしまいます。それであれば、なおさら行ってみたくなるのが心情です。
定恵の出生には諸説あります。そのひとつが皇胤説です。乙巳の変の2年前、軽皇子(後の孝徳天皇)の寵臣 中臣鎌足が皇子を天皇にしようと暗躍していた頃、鎌足に皇子の妃だった与志古娘が下されました。そして、その年に男児が生まれ、鎌足はその子を真人と名付け育てました。これが事実であれば有間皇子の実弟であり、藤原不比等とは腹違いの兄になります。
因みに、『多武峰略記』(1197年)は「6ヶ月の身重で軽皇子から与えられた車持君国子の娘の与志古娘から女子が生まれたら鎌足の子として育てることになっていたが、男子が生まれたから軽皇子の子とした」と記しています。一方、『多武峰縁起』は「定恵和尚は天万豊日天皇(孝徳天皇)の皇子」と記しています。孝徳天皇の寵臣から天智天皇の腹心に転身した鎌足を祀る談山神社に「定恵は孝徳天皇の子」という記録があれば、その伝承は逆説的な意味で信憑性があるように思われてなりません。 -
参道
こうした杉木立の山道を5分ほど進みます。最初は緩い登りになりますが、次第にほぼ平坦の道になります。しかし、木立以外は何もないので、正直なところ少しだけ心細くなります。
2つ目の疑問ですが、往時は一人息子だった真人を渡唐させたのは、先進の文化や知識、国際情勢を吸収させ、信頼できる後継者を育成するためという見方が一般的でした。しかし、往時の航海は命がけでリスクも高く、正室所生の長男を渡唐させるのは超異例なことです。また、定恵が渡唐したのは孝徳天皇と中大兄皇子との不和が決定的となった頃です。更には、中大兄皇子から真人は孝徳天皇の子ではないかという嫌疑をかけられていました。それらを鑑みると、古人大兄皇子や有間皇子の轍を踏まないよう、僧として国外へ逃がしたと読む方が腑に落ちます。中大兄皇子の異母兄 古人大兄皇子は僧形となって吉野山に隠棲したにもか拘わらず中大兄皇子により謀反の罪で殺され、孝徳天皇(軽皇子)の子 有間皇子も政争に巻き込まれて亡くなっています。皇位継承の有力候補であり、政敵となる真人が猜疑深く冷徹な策謀家の中大兄皇子から逃れる術は他にないとの思いです。
一方、出家と唐への派遣のタイミングが乙巳の変の2年前ですから、蘇我宗家の打倒が失敗した場合に難を逃れる目的で保険を担保したとも読めなくもありません。 -
参道
漸く道の先に建物らしきものが見えてきました。手前の木立は今にも倒れそうです。
3つ目の疑問は早すぎる死の真相です。定恵は入唐から11年後の665(天智4)年に帰国を許されました。しかし、その3ヶ月後に23歳の若さで死亡しました。『藤氏家伝』(貞惠伝)には「才能を妬んだ百済人によって毒殺された」と差しさわりなく表現されていますが、当然のことながら黒幕からの暗殺命令があったとするのは想像に難くありません。その黒幕とはいったい誰なのか?
因みに、しれ~っと「百済人」と記していますが、百済からの要請で大軍を派兵し、無謀な白村江の戦いを指揮して敗北した中大兄皇子は百済人との説もあります。 -
末社 三天稲荷神社
拝殿の痛み具合から察し、久しく捨て置かれ、荒廃した社という感は拭えません。
今まで見てきた朱塗りの典雅な堂宇とは雲泥の差です。
正直なところ、「ここはトイレです」と言われても何ら違和感はありません。 -
末社 三天稲荷神社
拝殿の先に3宇の小さな社が佇みます。
ご祭神
・宇賀魂命
・菅原道真
・市杵島姫命
古来、商売繁昌・学業成就の霊験あらたかな社として知られているようです。
因みに、中央に菅原道真が祀られていますから受験生にもお勧めのスポットです!
絵馬とかはないのですが…。
しかし何故、藤原氏の政敵である道真が境内に祀られているのでしょうか? -
末社 三天稲荷神社
『大和国多武峯談山神社之図』(明治10年出版)によると、明治時代初頭には三天稲荷社は十三重塔のすぐ背後に佇んでおり、ある程度崇敬された社だったと窺えます。その三天社が境内の最も奥深い所に追いやられたのは、何か深い訳がありそうです。
調べてみると、現地に移築されたのは廃仏毀釈の折のようです。つまり、妙楽寺が談山神社に転身したタイミングです。その理由は定かではなく、宮司の推測では「三天社には菅原道真が祀られているから」と口を濁されていますが、お寺の事情により藤原氏を祟る道真を祀る三天社を境内の一番遠くへ厄介払いしたと窺えます。創建年代が不明ですが、元々は道真の怨霊封じのために創建されたものかもしれません。しかし、怨霊だった道真が何時の間にか「学問の神」に変身したことから、お役御免となったのかもしれません。
因みに当方の推測は、道真が住持ちの夢枕に立ち、「今の場所は周りが政敵だらけで居心地が悪い。境内の隅にでも移してもらえないか」と懇願したというものです。移築の場合によくある逸話パターンです。しかし、現在の拝殿の荒廃ぶりから鑑みると、宮司の推測が正解なのかもしれません。
この画像は次のサイトから引用させていただきました。
https://www.pref.nara.jp/miryoku/ikasu-nara/bunkashigen/main10116.html -
権殿(重文)
平安時代の970(天禄元)年に摂政右大臣 藤原伊尹の立願により創建され、実弟の如覚(多武峰少将 藤原高光)が阿弥陀像を安置した堂宇です。往時は「常行三昧堂」と呼ばれました。桁行五間・梁間五間、一重・入母屋造・正面向拝付の檜皮葺。現存のものは、1506(永正3)年の焼失後、室町時代後期の永正年間(1505~21年)に再建されたものです。
かつては十三重塔を挟んで反対側に「法華三昧堂」も対であったそうです。『多武峰略記』によると、妙楽寺は平安時代初期の4代座主 實性の時には天台宗寺院となり、延暦寺無動寺別院でした。ですから、延暦寺西塔と同様に常行三昧堂と法華三昧堂がセットであるのは何ら不思議ではありません。往時の延暦寺との深い関係を今に伝える語り部と言えます。 -
権殿
蟇股には極彩色の「唐獅子牡丹」を彫っており、とても愛嬌のある獅子です。
世阿弥著『申楽談儀』には、多武峰参勤が大和猿楽4座の義務であったことが記されています。室町時代にはここで催される維摩八講会に付随して神事「八講猿楽」が演じられており、興福寺の薪能や春日大社の若宮祭と同様の重要な行事でした。『多武峰様(とうのみねよう)』では、本物の馬や甲冑を使う派手な演出もあったそうです。因みに、大和猿楽4座は坂戸座、円満井 (えまい)座、外山(とび)座、結崎(ゆうざき)座であり、後に金剛、金春、宝生、観世となっています。
また、維摩八講会とは、藤原鎌足が崇拝し、毎日のように読術していたと伝わる『維摩経』を読む仏事です。尚、八講猿楽は全国最大規模を誇る盛大な(現在の紅白歌合戦)演芸大会であったとされ、権殿や神廟拝所で催されました。参勤を義務付けられた大和猿楽4座はこの多武峰で新作を上演し、切磋琢磨し合ってその芸術性を高めて行きました。これによって「猿楽」から「能楽」へと進化し、この多武峰が「能楽発祥の地」と言われる所以となりました。
因みに、世阿弥は少年の頃、ここで暮らしており、後に二条良基に仕えたのも藤原氏の力添えがあったからのようです。 -
権殿
室町時代以降、「伝統と革新」を競い合った芸能「延年舞」や「能」が催され、神仏習合の神である摩多羅神を祀り、芸能・芸術の神として信仰を集めました。現在も古典芸能・現代舞踊・音楽・絵画・写真・彫刻・陶芸・映画・ 演劇・歌謡・落語・漫才・文学・詩などに携わる人たちの守護神として、また芸能上達を祈願する「祈りの場」として崇敬されています。 -
権殿
特別拝観中でしたので内部に入ってみました。普段は未公開です。
室町時代末期の様式ですが、江戸時代に完成したため、「能舞台」の擬宝珠には1619(元和5)年の銘が打たれています。
前身が「常行三昧堂」だったこともあり、阿弥陀仏を祀る「須弥壇」かと思っていましたが、雰囲気が異なるため係員さんに確認したところ、「能舞台」だそうです。因みに、現在も芸能の発表の場として利用されているそうです。
ここにも「三つ葉葵」紋が多数見られます。係員さんに確認したところ、本殿が日光東照宮の手本となったことに関連すると考えられるそうです。 -
権殿
権殿の背面にある後戸には安土桃山時代作の能面『護法神「摩陀羅神」』が祀られています。画像の右側中央にある黒い格子戸の先です。その手前には衝立で結界が張られています。
現在、摩陀羅神はおでかけ中なのですが…。 -
権殿『摩多羅神面』桃山時代作
摩多羅神面が特別展示されていました。(写真撮影もOK)
白い翁の面(白色尉の面:摩多羅神面)は通常の能面よりも大振りで、頬の肉付きはふくよかに盛り上がり、寿福を言祝ぐ表情に満ちています。談山神社には9つの面が伝わり、そのうち3面が翁だそうです。翁3面の内、この面のみ特別に面箱を誂え、箱書には「摩陀羅神面箱」と墨書されています。この摩多羅神面が能の「翁面」の源流と推察されています。
因みに、この翁面には、能が演じられた後に衆徒が酒に酔うと、その酔いに連れて自然と赤く染まるという怪異譚が伝わります。 -
権殿『摩多羅神面』桃山時代作
「摩陀羅神」と言えば、京都太秦 広隆寺で催される牛祭に登場する神様が有名です。赤鬼と青鬼に先導された摩多羅神が牛に乗って登場し、境内を練り歩きます。その後、祭壇に上り、鬼と共に長々と祭文を読み上げると、見物人がここぞとばかりに野次を飛ばします。見物人のマナーが悪い訳ではなく、これはお祭の筋書です。野次られた摩多羅神が祭壇から薬師堂の中へ駆け込むとお祭は終了です。意味不明のお祭りですが、同様に摩陀羅神もどのような神様なのか不明だそうです。 -
権殿『摩多羅神面』桃山時代作
談山神社も広隆寺も共に「摩陀羅神面」は「翁面」です。それは何故でしょうか?
14世紀に書かれた『渓嵐拾葉集』には、摩陀羅神は平安時代に天台座主 円仁が唐より持ち帰ったと伝えます。天台宗寺院には常行三昧堂が建てられており、摩陀羅神は本尊仏である阿弥陀仏の裏側、堂の後戸に控える存在として奉られたことから「後戸の神」と称されました。談山神社が妙楽寺だった時代には天台宗でしたので常行三昧堂があり、その「後戸の神」として延暦寺に倣って摩陀羅神を祀っていたようです。
この画像は次のサイトから引用させていただきました。
https://www.miho.jp/booth/html/artcon/00010039.htm -
権殿『白色尉(はくじきじょう)』桃山時代作
能面の中でも切り顎になっているのが翁系の面の特徴だそうです。白色尉(白式尉)は天下の平和を祈り長寿を称える円満福徳の相を表します。
摩多羅神は「宿神」とも呼ばれました。金春禅竹著『明宿集』では、猿楽に登場する「翁」は「宿神」であり、またその翁の面を日本における猿楽の始祖 秦河勝の化身と見做しています。また、日本文化史家 服部幸雄氏は「摩多羅神が秦河勝及び秦河勝を神格化した大避明神と同一視されたことで猿楽法師たちの守護神として確立、さらに院政期の天台寺院を本所とする後戸猿楽に奉られ、上記の翁の成立に深くかかわる存在であった」としています。
これらから、「後戸の神(摩陀羅神)」=「宿神」=「翁」が成り立つのではないでしょうか? -
権殿『顰(しかみ)』江戸時代初期作
能面の中では最も激しい憤怒の表情をしています。『大江山』や『土蜘蛛』に用いられます。
「宿神」の「宿」は「夙」とも記され、これは寺社に隷属していた非人を指します。恐らく、宿神とは「非人の神」を指すのでしょう。翁舞が行われている奈良坂にはかつて非人が住んでいました。
『明宿集』には「摩多羅神は猿楽者の芸能神(宿神)」と記されています。現在では芸能は娯楽のひとつですが、古には神事や呪術でした。そして、その芸能は非人が行っていました。
因みに、非人という言葉の史料への初見は、842(承和9)年に起こった承和の変で橘逸勢(はやなり)が謀反の首謀者として姓・官位を剥奪され、仁明天皇より「非人」の姓を賜った事件です。逸勢は伊豆国への配流の途中、遠江国板築宿で病没しますが、その末裔の姓も非人ですから、非人とは、非道な者と解釈できます。
一方、事件後に逸勢は怨霊として恐れられるようになり、8年後に正五位下、更に従四位下を追贈され、神泉苑御霊会では早良親王らと共に慰霊の対象となりました。それであれば、逸勢の末裔の非人たちが行ってきた芸能とは、無実の罪で処罰された先祖の霊を慰霊する儀式だったのかもしれません。 -
権殿『黒色尉(くろじきじょう)』桃山時代作
黒色尉(黒式尉)は、日に焼け、土に馴染んだ健康的な好々爺を思わせる面です。
「後戸の神」とは一般的には須弥壇の背後に祀られた神を指し、東大寺法華堂の執金剛神、二月堂の小観音などがあります。「後戸の神」がどのような神なのかは明確になっておらず、円仁が唐から持ち帰った摩多羅神が宿神になったとする説、元々日本には宿神があり、平安時代に渡来した摩多羅神と習合したとする説などがあります。 -
権殿
権殿脇にある大銀杏は散り初めの状態です。
ハラハラと黄葉が舞う情景はどことなく寂しさを湛えます。 -
権殿
背面には下屋が附属しており、ここに護法神「摩陀羅神」が祀られています。
平成の大修理に当たり文献を調べたところ、権殿の彩色塗料については「漆」、「膠」、「チヤン」と記されていたそうです。内装部材では「漆」と「膠」、外装部材ではそれらに加えて「チヤン」の存在が確認されました。この塗料は元素分析の結果から鉛が特徴的に検出されており、古文書に塗装材料として唐土(鉛白)や密陀僧(一酸化鉛)の明記があることから、これらの使用が考えられました。しかし、鉛白や一酸化鉛は検出されず、鉛丹または硫酸鉛が検出されたそうです。この結果、「チヤン」は油系塗料であり、硫酸鉛は油系塗料のピッチ成分と鉛丹が化合してできたものと考えられています。
この続きは、あをによし 多武峰~明日香逍遥④談山神社(比叡神社本殿・閼伽井屋・神廟拝所・総社本殿)でお届けします。
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