2022/11/18 - 2022/11/18
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montsaintmichelさん
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今回は西エリアを中心としたレポートです。
比叡神社本殿は比叡山から迎え入れられた談山神社の中興の祖 増賀上人にまつわる社です。増賀上人はストイックなほどに「まことの人」を通した僧だったようで多くのエピソードを残しています。この社は、天台宗 比叡山延暦寺との関係の深さだけでなく、同じ藤原氏の氏寺である法相宗 大本山興福寺に度々攻められた原因を今に伝えています。日本にはキリスト教とイスラム教のような宗教戦争はなかったと言われますが、異なる仏教宗派の間で凄惨な焼き打ちが繰り返されていたのは事実です。
閼伽井屋は定恵和尚が法華経を講じた時に龍王の出現があったと伝わるスピリチュアルな雰囲気を湛えた井戸です。
神廟拝所では鎌足公御神像の左脇侍を務める「勝軍地蔵」が気になりましたので深堀してみました。足利尊氏が「軍神」として篤く信仰したようですが、どうやら談山神社が所蔵する『日輪御影』は勝軍地蔵の誕生秘話を描いた作品のようです。この絵画から勝軍地蔵が発する戦う神仏のイデオロギーが読み解けるそうです。
- 旅行の満足度
- 5.0
- 観光
- 5.0
- 同行者
- カップル・夫婦
- 交通手段
- 高速・路線バス 私鉄
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ご参考用に境内マップを載せておきます。
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末社 比叡神社本殿(重文)
権殿の西隣に鎮座しています。因みに、比叡(ひえい)ではなく、比叡(ひえ)と読みます。1627(寛永4)年造営の一間社流造、千鳥破風、軒唐破風付、桧皮葺の小社ながら豪華な様式の本殿です。元々は飛鳥大原にあった大原宮を移築したものであり、明治維新までは神仏習合の神 山王権現を祀っていたことから山王宮と呼ばれました。山王権現は天台宗の鎮守でもあり、比叡山延暦寺との関係の深さが垣間見られる社です。天台宗の妙楽寺が、藤原氏の氏寺で法相宗 大本山興福寺に度々攻められた原因がこの山王宮です。
しかし、神仏分離令で山王権現は廃棄され、ご祭神は大山咋神に変えられ、名称も現在の社名に改められました。 -
末社 比叡神社本殿
この本殿は平安時代中期の僧 増賀(そうが)上人が隠棲した地に祀られているそうです。増賀は談山神社 中興の祖と称され、師である良源(元三大師)の世俗的な側面を批判して比叡山から多武峰に移り住みました。以後40年間、入滅までこの地に隠棲しました。そうであれば、比叡神社の名は増賀との関係を示唆すべく命名されたのかもしれません。
因みに、増賀は吉田兼好著『徒然草』に隠遁者の絶対的境地に達した「まことの人」として、「増賀聖の言いけんやうに、名聞ぐるしく、仏の御教にたがふらんとぞ覚ゆる。」と紹介されています。現代語訳すると「増賀上人が言ったように、名声欲は仏教の教義に背いているのだ。」となります。 -
末社 比叡神社本殿
唐破風には簡素ながら兎毛通を設え、笈形には繊細な藤をモチーフにした彫刻、蟇股には龍を彫っています。 -
このように比叡神社と同じエリアに末社「神明神社」「杉山神社」「山神神社」「稲荷神社」が鎮座しています。
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神明神社・杉山神社
右が神明神社、左が杉山神社です。
由緒については不詳です。 -
杉山神社・山明神社
右が杉山神社、左が山明神社です。
由緒については不詳です。 -
稲荷神社
比叡神社の左隣が稲荷神社です。
由緒については不詳です。 -
ふと見上げると、古木の楓が今や盛りと天空を赤く染め抜いています。
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この辺りは紅葉が他より少し早いようです。
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少し高台になっていますので、このように総社拝殿などを見下ろすことができます。
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閼伽井屋(重文)
桁行一間・梁間一間、一重・入母屋造で柿葺、黒っぽい板で覆われています。
1619(元和5)年の造営であり、1978(昭和53)年の解体修理で元和年間の造営時の姿に復元されました。 -
閼伽井屋
格子戸の中にはスピリチュアルな雰囲気を湛えた石組みの井戸があり、回りは石敷になっています。
この井戸は、「摩尼法井」と呼ばれ 、定恵和尚が法華経を講じた時に龍王の出現があったと伝えられます。
一般的に井戸は北東の鬼門に設けるのはご法度とされ、ここは神社の北西方向に当たります。 -
閼伽井屋の斜め前方の石垣には小瀧のように絶えることなく水が落ちています。
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けまりの庭
神廟拝殿(右)と総社拝殿の間に広がるスペースを「けまりの庭」と呼びます。鎌足と中大兄皇子の出会いのきっかけとなったのが「けまり」であり、この出会いが大化改新に繋がったと言われています。
蹴鞠は、1400年前に中国から伝わったとされ、 645年に中大兄皇子と中臣鎌足が奈良県明日香村の法興寺(飛鳥寺)の蹴鞠会で蹴ったのが最初とされています。 -
けまりの庭
毎年4月29日と11月3日にはここで「けまり祭」が催され、往時の装束を纏って蹴鞠が行われ、優雅な宮廷貴族の生活を垣間見ることができます。6~8名がグループになってサッカーのリフティングの様に鹿革製の鞠を足で蹴り続けます。蹴鞠用の装束を身に纏い、伝統の技で作られた鞠をメンバーに蹴り易いように蹴り渡して楽しむ神事です。鞠を蹴る時の掛け声は「アリ」、「ヤ」、「オウ」の3声があり、これらは「鞠の神様」の名だそうです。
因みに、開催日の4月29日は昭和天皇、11月3日は明治天皇の誕生日です。 -
神廟拝所 (旧 講堂)重文
元々は定恵上人が飛鳥時代の679(白鳳8)年に父 鎌足の供養のために創建した妙楽寺の講堂です。現存の神廟拝所は棟札から1668(寛文8)年の再建とされています。かつては阿弥陀三尊像を本尊として祀っていましたが、廃仏毀釈の際にそれらは安部文殊院へ移され、何故か文殊院では釈迦三尊像として祀られているようです。現在は鎌足公御神像と談峯(だんぼう)如意輪観音菩薩坐像を祀っています。
桁行五間・梁間四間、一重・入母屋造、背面下屋付属で檜皮葺。十三重塔(神廟)の正面に仏堂を配する伽藍の特色を持ちます。 -
神廟拝所
通常なら秘仏 談峯如意輪観音菩薩坐像が安置されている場所には江戸時代初期作の鎌足公御神像が陣取っています。その両脇を固めるのは「不比等公像」と「勝軍地蔵」です。鎌足公御神像と勝軍地蔵は勝運祈願にご利益があるとされます。
また、来迎壁の全面には十六羅漢図や天女などが描かれ、天井の意匠は格式高い格天井になっています。
建物内や仏像、神像は撮影不可という場所が多いのですが、談山神社は三脚とフラッシュを用いなければ全て撮影OKです。当方のようなカメラフリークには何ともありがたい神社です。神社としてもネットにアップされることにより認知度が増し拝観者も増えることから、これはWin-Winの関係と思います。また、ネット閲覧者の情報収集という側面を加味すれば、三方よしの「Win^3」となります。 -
神廟拝所 鎌足公御神像
かつての「講堂」時代の阿弥陀三尊像に代わり、談峯如意輪観音菩薩坐像と鎌足公御神像を祀っていますが、鎌足公御神像は元々は明日香村大原にあった藤原寺(とうげんじ:鎌足誕生堂)に祀られていたものを廃仏毀釈の際にこちらに移したものだそうです。
因みに、明日香村大原は中臣鎌足の出生地と伝承されています。江戸時代後期には、国学者 本居宣長も訪れています。 -
神廟拝所 藤原不比等像
奈良時代以降、明治維新に至るまで千年の繁栄を遂げた藤原氏の家祖は藤原鎌足ですが、その基盤を築いたのは不比等と言えます。
不比等の出生については曖昧で、母は車持君与志古娘(よしこのいらつめ)とされますが、『興福寺縁起』によると鏡王女(中大兄皇子に召され、後に鎌足の正妻)とも伝えます。このように出生の公開に憚られるところがあったことから、天智天皇皇胤説の根拠とされています。
鎌足の死後、不比等は大納言・右大臣を歴任し、藤原氏の地位を安定させ、特に律令体制の確立に力を入れ、大宝律令制定に参画しました。また、平城京遷都を推し進め、更に大宝律令の改訂を主宰して養老律令を完成させました。
701(大宝元)、不比等が大宝律令の撰述などで活躍していた頃、多武峰に方三丈の祠堂(現在の本殿)を建立して鎌足神像(本殿に祀られている方)を安置し、聖霊院と号しました。
その後、賀茂比売が産んだ長女 宮子を文武天皇の妃として天皇家の外戚となって確固たる地位を築き、また、後妻 橘三千代の力で皇室との関係を更に深めました。不比等の死後、娘 光明子は聖武天皇の皇后(光明皇后)となりました。
因みに、日本に伝存する最古の正史『日本書紀』を編纂した中心人物が不比等と見られています。『日本書紀』には権力者が真実を隠すために印象操作をしようとした痕跡が見て取れ、その黒幕とされるのが不比等であり、父 鎌足を英雄にするために蘇我氏を悪役にしたとの疑惑があります。一方、鎌足が神道派の物部氏と共に仏教導入に猛反対し、蘇我氏と対立したとの不名誉な記述も見られます。 -
神廟拝所 勝軍地蔵
勝軍地蔵は鎌足の化身とされ、束帯の上に甲冑を纏った奇妙な姿をしています。口髭と顎鬚をたくわえ、眉と目は吊り上がっています。神仏習合の談山神社らしく、額に第3の眼を持つ奇怪な風貌をしたこの像は、後醍醐天皇の信仰した愛染明王を彷彿とさせます。「三方にらみの像」とも称され、このギョロリとした目が不気味でもあります。
地蔵菩薩の変化形としては閻魔大王が著名ですが、勝軍地蔵は日本独特のものであり、承久の変を契機に京都 清水寺に初めて出現した「軍神(いくさがみ)」とされます。『承久三年四年日次記』(1221年)の8月条に、東大寺聖覚が後鳥羽院の命で勝敵毘沙門・勝軍地蔵を前に幕府調伏祈祷を行なったとされるのが初見です。その後、『清水寺縁起諌』に継承され、坂上田村麿の悪路王退治の伝承と共に語り伝えられました。
勝軍地蔵信仰が流行る上で重要な役割を担ったのが談山神社でした。良助法親王が多武峰で著した『與願金剛地蔵菩薩秘記』は、儀軌『蓮華三昧経』を知るための唯一のものであり、その後の勝軍地蔵信仰に対する中心的な位置を占めたテキストでした。勝軍地蔵像が安置されていた多楽院は戦国期には多武峰4院の一つとして勝軍地蔵信仰の喧伝の大きな拠点となりました。
因みに、足利尊氏は「勝軍地蔵」を篤く信仰したと伝えます。尊氏の父 貞氏の菩提寺 浄妙寺には鎌足の木像が祀られています。鎌足が大化改新後にお礼参りで常陸 鹿島神宮に向かう途中の浄妙寺で、この地に「鎌」を埋めるよう神のお告げを受け、鎌足誕生の時に白狐が運んできた「鎌」を埋めたとの伝承があります。 -
『日輪御影』
談山神社が所蔵する『日輪御影』は勝軍地蔵誕生の記念碑的絵画との説があります。この絵は、応長~正和年間に興福寺との合戦に際して戦場となった多武峰冬野での日輪出現とその周辺の観音勝地で起こった三神影向伝説を描いたものとされます。
画面下方に描かれた束帯に甲冑を纏った3眼の異人は、勝軍地蔵信仰の喧伝者 良助法親王と推測され、その姿は勝軍地蔵を彷彿とさせます。画面上方の大きな円光中に描かれた藤原鎌足は、3眼の異人と対をなして勝軍地蔵の化身として配置されています。また、画面上部に描かれた3つの円光は太陽・月・星を示し、天台文化・山王三聖信仰を背景とする三光地蔵の表象とされます。
『日輪御影』に表された勝軍地蔵信仰の世界観は、三光の多様な言説を背景とし、鎌倉時代中期~南北朝時代にかけて浮上する太陽・日輪の文化の急速な波及と密接に関わっています。具体的には、鎌足を太陽の化身、日本は日光地蔵の本国であり勝軍地蔵の本国でもあるとしました。やがて太陽・日輪のイメージが勝軍地蔵信仰と結び付くことで、戦う神仏のイデオロギー・武威のシンボルへと収斂していきました。
この画像は次のサイトから引用させていただきました。
https://rekihaku.repo.nii.ac.jp/index.php?action=pages_view_main&active_action=repository_action_common_download&item_id=1194&item_no=1&attribute_id=22&file_no=1&page_id=13&block_id=41 -
神廟拝所 狛犬
文化財としての指定は受けていませんが「伝 運慶作」とされる狛犬です。
クリクリとした丸い目には思わず頬が緩みます。 -
神廟拝所 狛犬
阿型は口の中まで精巧に彫られており、特に舌が超リアルです。
細身ですがそれなりのすごみが自然と滲み出しています。
それ故、「伝 運慶作」とされているのでしょう! -
神廟拝所 「談峰大権現」の神号
926(延長4)年に八百万の神を祀る日本最古の総社が建てられ、その時に醍醐天皇から賜った「談峰大権現」の神号と思しきものを祀られています。
手前の小さな狛犬は、獅子ではなく、犬もしくは狐のようにも見えます。
鎌足誕生時の伝説からすれば、狐であっても不思議ではありませんが…。 -
神廟拝所 襖絵『秋冬花鳥図』
CANON「綴プロジェクト」で高精細に複製されたレプリカの襖絵です。
桃山~江戸時代初期に活躍した狩野永徳の次男 孝信の筆とされ、金箔や顔料を多用し、紅葉した楓や芙蓉の下に遊ぶ雁や水辺に憩う鴨、白椿、千両などの花鳥が描かれ、季節が秋から冬へと移ろう様が見て取れます。
この襖絵は、談山神社にかつて存在した学頭屋敷に伝来したものと伝わり、往時の繁栄ぶりを偲ばせます。学頭屋敷は寺院を管理するために幕府から派遣された役人が住んだ場所です。
因みに、現在、この襖絵の本物は「大英博物館」が所蔵しています。明治時代初頭の廃仏毀釈によって失われた襖絵のひとつです。 -
神廟拝所 『三十六歌仙図扁額』
三十六歌仙の扁額は、江戸時代初期の作で、狩野宗眼重信筆・青蓮院尊純法親王書とされます。
尚、狩野宗眼重信は狩野永徳の弟 宗秀の門人とされます。
また、尊純法親王は、天台座主173世となり、日光山法務を兼帯し、日光東照宮の営繕を務めた人物でもあるので、談山神社との所縁がありそうです。
因みに、神廟拝所の柱には佐野周雲筆とありましたが、Wikipediaで調べたところ、狩野宗眼重信筆が正しいようです。
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%8B%A9%E9%87%8E%E9%87%8D%E4%BF%A1 -
神廟拝所 壁画
大小13の内部壁面には江戸時代の狩野永納筆と伝えられる山水や十六羅漢図、楽器を奏でる天女などが描かれていたそうですが、神仏分離令の際にそれらは胡粉で塗り潰されたそうです。
現在は復元修理され、煌びやかな仏画は仏教寺院の内装そのものです。 -
神廟拝所 壁画
上部欄間の壁画には、『天女奏楽図』として、笙や鼓・太鼓などで天女が雅楽を演奏し、舞う姿が描かれています。
因みに、壁画は1979(昭和54)年に修復されています。 -
神廟拝所 談峯(だんぼう)如意輪観音菩薩坐像
神廟拝所内の厨子に祀られている、妙楽寺時代から唯一祀られ続けている秘仏です。像高約48cmと意外と小振りな像です。悩ましい姿態は輪王坐(りんのうざ)と言う両足の裏を合わせる坐り方で、人を救済するために色々と思案を巡らしている思惟(しゆい)の姿勢です。左手には法輪を守り、幸福と人徳を与えます。
伝承によると、この観音像は、妙楽寺を開山した鎌足の長男 定恵が唐から持ち帰った像を、鎌倉時代前期に模して作られたレプリカだそうです。尚、光背と台座は室町時代の補作と伝わります。如意輪観音は6臂の異形像で、その内の1本の右手を頬に寄せています。更に、左の1手を体の後ろに付け、全体のバランスを取っています。伏し目がちに右膝を立て、柔らかい姿態で蓮華座の上に坐しています。
この画像は次のサイトから引用させていただきました。
https://www.asahi.com/articles/ASL5Y5DVSL5YPOMB011.html -
神廟拝所 談峯如意輪観音菩薩坐像
『譚峰如意輪観世音菩薩記』という江戸時代の書物には、この仏像にまつわる3つの霊験譚が記されています。
1.九條兼実が夢の中でこの仏像を見て、出世を祈ったところ、後に太政大臣にまでのぼりつめた。
2.仏像を安置していた堂宇が火災に遭った際、自ら歩いて避難した。
3.病のために足の甲に膿がたまって歩けなくなった子どもがこの仏像に祈ると、たちどころに快癒した。しかし、この観音像が身代わりとなったため、子どもの患部と同じ右足の甲がえぐれている。何かと足腰にご縁のある観音像です。(よく観ると仏像の右足の甲にえぐれたような窪みがあります。)
文化財指定からは外されていますが、ふくよかで実在感溢れる名品では!? -
神廟拝所 談峯如意輪観音菩薩坐像
神仏分離令で神社に転身した時、初代宮司が前住持だったことから神社に転身してもこの観音像が残されたと伝わります。明治時代には、神社としての性格上、一切公開されることはなく、存在すらも忘れられた時期があったようです。
足腰の病の治癒の他、徳を積めば財運にも恵まれ、出世のご利益も授かれるそうです。藤原家には、南家と北家がありますが、平安時代、北家の九條兼実が夢の中に現れたこの仏様に出世を祈願したところ、太政大臣にまで登り詰める事ができたそうです。談山神社では毎年6月第4日曜日午前1時より、「談峯如意輪観音像」を祀り、信奉者の心願成就を祈念する観音講祭を斎行しています。また、この時期に特別公開もされます。写真撮影もOKです! -
藤原鎌足の万葉歌碑
歌碑は神廟拝所の南庭にあり、揮毫は遠藤周作氏です。
「吾はもや 安見児得たり 皆人の 得かてにすといふ 安見児得たり」
(私は安見児(やすみこ)を手に入れたよ。全ての人が得難いという安見児を得たんだ。)
この歌は、鏡王女との結婚後のことで、鎌足は采女(うねめの)安見児を娶って有頂天になっていることを詠んでいます。采女とは天皇の御膳その他について奉仕する後宮下級女官です。諸国の郡少領(次官)以上の娘で容姿端正な者が選ばれました。采女は、天皇に所属する「物体的人間」であり、恋愛は固く禁じられていました。この采女を天智天皇から下賜された鎌足の喜びようは、大変なものであったことがこの歌からも窺えます。 -
良縁の笹
神廟拝所の南庭に「良縁の笹」が2ヶ所生えています。 この笹の葉を左手の指に巻くと良縁が早いと伝わります。
葉を千切るのは殺生に当たりますので、葉を千切らずにその場で指に巻くのでしょうか?
作法がよく判りません。 -
末社 総社拝殿(重文)
1668(寛文8)年の造替です。拝殿も本殿と同時期に旧談山神社拝殿を移築したものです。往時の談山神社拝殿を縮少し簡略化した様式で、正面・背面ともに唐破風を持つ美麗な建造物です。桁行一間・梁間三間、一重・入母屋造・妻入、前後軒唐破風付で銅板葺。左右の突出部は各桁行二間、梁間二間、一重・両端入母屋造で銅板葺。
内外部小壁には狩野永納筆の松・竹・梅・蘭などの極彩色の壁画が残されており、「山静」の落款も見られます。永納は、山雪の長男として京都に生まれ、しばしば当山を訪れて絵の制作を行ったそうです。『増賀上人行業記絵巻』や我国最初の絵画史『本朝画史』も永納の作です。 -
末社 総社拝殿 福禄寿大神
七福神の福禄寿は本来は背の低い神様なのですが、ここに祀られている福禄寿大神は巨神です。『日本書紀』の斉明天皇2年(656)の記録を基に、大阪芸術大学教授 彫刻家 斎部哲夫氏が談山神社の欅で1本彫りされた、開運出世の福玉を持つ像高3mある異形の「福禄寿大神」です。
右手に持つ杖の上部には経巻らしきものも確認できます。崩れそうで崩れない絶妙なバランス感覚を有した彫刻です。
談山神社の福禄寿の歴史を辿ると、斉明天皇の時代まで遡ります。かつて多武峰の嶺の上に、2本の巨木が立っていたそうです。そのご神木の欅の傍に斉明天皇が高殿を建てて福禄寿を祀ったのが始まりとされます。 -
末社 総社拝殿 厄除割符
傍らには「厄」の文字が書かれた木札が置かれています。
これは厄除割符と言い、真ん中に縦に割れ目が入れられており、木札を自分の手で割って厄を祓います。 -
末社 総社拝殿
こちらは拝殿の背面になり、総社本殿と対面しています。
福禄寿を祀ることから大和の七福神と三輪山を参る「大和七福八宝めぐり」に加わっています。 -
末社 総社本殿(重文)
平安時代の926(延長4)年の勧請で、天神地祇・八百万神を祀り、日本最古の総社と言われています。三間社隅木入春日造で銅板葺。現在の本殿は、1668(寛文8)年に造替の談山神社本殿を1742(寛保2)年に移築したものです。美しい彩色は「西の日光」の片鱗を残しています。 -
末社 総社本殿
かなり風化して鄙びていますが、蟇股には龍の雄姿が見て取れます。
また、かつての極彩色の装飾の面影も感じ取れます。 -
末社 総社本殿
明治時代に入るまで多武峰妙楽寺は神仏混交であり、移築される前の総社拝殿は「護国院」、総社本殿は「聖霊院」と呼ばれていました。
かつての談山神社本殿は日光東照宮本殿(初代 東照宮本殿)のモデルとも言われますが、時代が下ってから造立された現本殿よりは往時の姿に近いと思われますので、一見の価値があります。 -
末社 総社本殿
現在の本殿へは近付くことも、また、回り込んで左右側面や背面を見ることも叶いません。
しかし、この総社本殿や東殿は本殿と同じ建築様式ですので、本殿の代わりに心置きなく全方位からじっくり観られます。 -
ご参考用に、2代将軍 徳川秀忠が建立し、その後、群馬県太田市へ移築された初代 東照宮本殿「世良田東照宮本殿」の画像を貼っておきます。
この画像は次のサイトから引用させていただきました。
https://bunka.nii.ac.jp/heritages/detail/184576 -
末社 総社本殿
蝶の意匠を凝らした粋な錠前です。
古来、蝶は神聖な生物として崇められてきた歴史があります。
この続きは、あをによし 多武峰~明日香逍遥⑤談山神社(龍神社・談山・御破裂山・祓戸社・神幸橋)でお届けします。
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