桜井・三輪・山の辺の道旅行記(ブログ) 一覧に戻る
奈良盆地南東の山間、大和まほろばの聖地となる桜井市多武峰(とうのみね)に鎮座しています。多武峯は桜井市南部にある峰々とその一帯にあった寺院を指し、古来霊山として神聖視され、『日本書紀』には「田身嶺」と記されています。談山神社は藤原氏の始祖である藤原鎌足の廟所であり、鎌足をご神体とする神社です。旧社格は別格官幣社でしたが、現在は神社本庁の別表神社に列されて「関西のえびす」とも呼ばれ、JR東海のCMで一躍有名になりました。深山幽谷を思わせる境内を包む神の杜は、3千本の楓や大銀杏、500本の桜木が境内を錦秋絵巻に染め抜き、歴史ある建造物と相俟って「大和随一の紅葉」「関西の日光」と称される美しさを湛えます。<br />

あをによし 多武峰~明日香逍遥②談山神社(楼門・拝殿・東西透廊・本殿)

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2022/11/18 - 2022/11/18

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montsaintmichel

montsaintmichelさん

奈良盆地南東の山間、大和まほろばの聖地となる桜井市多武峰(とうのみね)に鎮座しています。多武峯は桜井市南部にある峰々とその一帯にあった寺院を指し、古来霊山として神聖視され、『日本書紀』には「田身嶺」と記されています。談山神社は藤原氏の始祖である藤原鎌足の廟所であり、鎌足をご神体とする神社です。旧社格は別格官幣社でしたが、現在は神社本庁の別表神社に列されて「関西のえびす」とも呼ばれ、JR東海のCMで一躍有名になりました。深山幽谷を思わせる境内を包む神の杜は、3千本の楓や大銀杏、500本の桜木が境内を錦秋絵巻に染め抜き、歴史ある建造物と相俟って「大和随一の紅葉」「関西の日光」と称される美しさを湛えます。

旅行の満足度
5.0
観光
5.0
同行者
カップル・夫婦
交通手段
私鉄
  • 談山神社でいただいたリーフレットにある境内マップです。<br />前回登場した東大門はこのマップにはなく、参道を右側から歩いてきた感じになります。<br />

    談山神社でいただいたリーフレットにある境内マップです。
    前回登場した東大門はこのマップにはなく、参道を右側から歩いてきた感じになります。

  • 別格官幣社談山神社の碑 <br />「別格官幣社 談山神社」の社標号標のある入口です。<br />藤原氏の祖 藤原鎌足を祀る談山神社はかつては旧別格官幣社で、「大織冠社」や「多武峯社」とも呼ばれました。官幣社ですので新嘗祭には皇室から奉幣を受けました。<br />多武峯寺と一体で神仏混淆の霊場でしたが、1869(明治2)年に神仏分離令が発せられて談山神社として独立し、妙楽寺の名はその時点で消滅しました。<br />右端のご神木は樹齢500年だそうです。

    別格官幣社談山神社の碑 
    「別格官幣社 談山神社」の社標号標のある入口です。
    藤原氏の祖 藤原鎌足を祀る談山神社はかつては旧別格官幣社で、「大織冠社」や「多武峯社」とも呼ばれました。官幣社ですので新嘗祭には皇室から奉幣を受けました。
    多武峯寺と一体で神仏混淆の霊場でしたが、1869(明治2)年に神仏分離令が発せられて談山神社として独立し、妙楽寺の名はその時点で消滅しました。
    右端のご神木は樹齢500年だそうです。

  • 手水舎<br />一般的な龍の手水口です。<br />ご祭神には歴史的クーデタである乙巳の変(大化改新)の立役者のひとりの大織冠 藤原鎌足を祀ります。669(天智天皇8)年10月、鎌足の病が重いと知った天智天皇は病床を見舞い、後日、大織冠(たいしょくかん)を授けて内大臣に任じ、藤原の姓を与えました。鎌倉時代に成立した寺伝によると、678(天武天皇7)年、国政に一生を捧げた鎌足の菩提を弔うために長男の僧 定恵が、摂津国 阿威山(現 大阪府高槻市)に葬られた遺骨の一部を当地に改葬し、その墓の上に十三重塔を造立しました。その2年後に講堂を建立し、十三重塔を神廟として多武峰妙楽寺と号しました。また、大宝律令制定の701年には、定恵の弟 不比等が鎌足神像を安置する方三丈御殿(現 本殿の前身)を創建し、聖霊院と号しました。後に本尊として講堂に阿弥陀三尊像が安置されました。これが談山神社の創祀とされます。?<br />因みに、談山神社の社号の起こりは、中臣鎌足と中大兄皇子が、645年5月に多武峰の山中に登り「乙巳の変」の極秘の談合(蘇我入鹿の暗殺計画)を行ったことから、「談い山(かたらいやま)」や「談所ヶ森」と呼ばれたことに由来するとされます。<br />尚、現在は大和七福八宝巡りのひとつの福禄寿も祀っています。

    手水舎
    一般的な龍の手水口です。
    ご祭神には歴史的クーデタである乙巳の変(大化改新)の立役者のひとりの大織冠 藤原鎌足を祀ります。669(天智天皇8)年10月、鎌足の病が重いと知った天智天皇は病床を見舞い、後日、大織冠(たいしょくかん)を授けて内大臣に任じ、藤原の姓を与えました。鎌倉時代に成立した寺伝によると、678(天武天皇7)年、国政に一生を捧げた鎌足の菩提を弔うために長男の僧 定恵が、摂津国 阿威山(現 大阪府高槻市)に葬られた遺骨の一部を当地に改葬し、その墓の上に十三重塔を造立しました。その2年後に講堂を建立し、十三重塔を神廟として多武峰妙楽寺と号しました。また、大宝律令制定の701年には、定恵の弟 不比等が鎌足神像を安置する方三丈御殿(現 本殿の前身)を創建し、聖霊院と号しました。後に本尊として講堂に阿弥陀三尊像が安置されました。これが談山神社の創祀とされます。?
    因みに、談山神社の社号の起こりは、中臣鎌足と中大兄皇子が、645年5月に多武峰の山中に登り「乙巳の変」の極秘の談合(蘇我入鹿の暗殺計画)を行ったことから、「談い山(かたらいやま)」や「談所ヶ森」と呼ばれたことに由来するとされます。
    尚、現在は大和七福八宝巡りのひとつの福禄寿も祀っています。

  • 江戸時代までは多武峰妙楽寺と呼ばれた巨大な仏教寺院であり、寺領3000石、42坊の堂宇が存在しました。しかし、明治時代初頭の神仏分離令により、全山がそのままの姿で神社に転身しました。神仏分離で多くの神仏習合の寺院が伽藍を失う中、妙楽寺では全山神社となり、堂宇がそのまま神社の建物へ転用されたために江戸時代以前の大伽藍が維持され、神仏習合寺院の姿を今に残しています。因みに、妙楽寺時代から唯一祀られ続けている秘仏が如意輪観音像です。<br />臼井史朗著『神仏分離の動乱』には「鎌足を祀るために発生した仏寺でありながら、鎌足を尊信したあまり、これを権現にし大明神にまで、いわば神格化してしまったがゆえに、これを祀る僧侶は、天台の僧侶であるにもかかわらず、結果的には神人的な役職にあったがためである。権現と言い大明神と言い、鎌足を神格化したいがためにつけた称号である。」とあります。因みに、聖霊院には鎌足霊像が祀られ、926(延長4)年には総社が創建されて談山権現の勅号が下賜され、神社の性格を帯びていたことは否めません。ただし、神仏習合でありながら多武峰には神職は居なかったようです。

    江戸時代までは多武峰妙楽寺と呼ばれた巨大な仏教寺院であり、寺領3000石、42坊の堂宇が存在しました。しかし、明治時代初頭の神仏分離令により、全山がそのままの姿で神社に転身しました。神仏分離で多くの神仏習合の寺院が伽藍を失う中、妙楽寺では全山神社となり、堂宇がそのまま神社の建物へ転用されたために江戸時代以前の大伽藍が維持され、神仏習合寺院の姿を今に残しています。因みに、妙楽寺時代から唯一祀られ続けている秘仏が如意輪観音像です。
    臼井史朗著『神仏分離の動乱』には「鎌足を祀るために発生した仏寺でありながら、鎌足を尊信したあまり、これを権現にし大明神にまで、いわば神格化してしまったがゆえに、これを祀る僧侶は、天台の僧侶であるにもかかわらず、結果的には神人的な役職にあったがためである。権現と言い大明神と言い、鎌足を神格化したいがためにつけた称号である。」とあります。因みに、聖霊院には鎌足霊像が祀られ、926(延長4)年には総社が創建されて談山権現の勅号が下賜され、神社の性格を帯びていたことは否めません。ただし、神仏習合でありながら多武峰には神職は居なかったようです。

  • 多武峰の山内には楼門、本殿、権殿をはじめとする朱塗りの絢爛豪華な社殿が建ち並び、漆塗極彩色、三間社春日造の本殿は、日光東照宮の手本になったと伝わります。また、木造十三重塔は、室町時代に再建されており、塔高17m、鎌足の墓塔と伝わります。?一般的な五重塔が釈迦の仏舎利を納めたものに対し、鎌足の遺骨を納めたものがここの十三重塔という立ち位置かと思われます。

    多武峰の山内には楼門、本殿、権殿をはじめとする朱塗りの絢爛豪華な社殿が建ち並び、漆塗極彩色、三間社春日造の本殿は、日光東照宮の手本になったと伝わります。また、木造十三重塔は、室町時代に再建されており、塔高17m、鎌足の墓塔と伝わります。?一般的な五重塔が釈迦の仏舎利を納めたものに対し、鎌足の遺骨を納めたものがここの十三重塔という立ち位置かと思われます。

  • 二の鳥居<br />入山すると正面に明神鳥居の「二の鳥居」が見られます。<br />こちらの鳥居は妙楽寺の時代からこの場所にあるそうです。神仏習合の寺院を象徴する光景と言えます。<br />因みに、「一の鳥居」はここから約5kmも離れた桜井市浅古に建っています。

    二の鳥居
    入山すると正面に明神鳥居の「二の鳥居」が見られます。
    こちらの鳥居は妙楽寺の時代からこの場所にあるそうです。神仏習合の寺院を象徴する光景と言えます。
    因みに、「一の鳥居」はここから約5kmも離れた桜井市浅古に建っています。

  • 石段<br />鳥居から140段の石段を登った先に本殿が鎮座しています。<br />ただし、紅葉と桜の時期以外は正面口の石段は閉鎖されおり、階段の途中から西入山入口へと回り込みます。<br />石段がきついと思われる方は迂回路へ回ってください。

    石段
    鳥居から140段の石段を登った先に本殿が鎮座しています。
    ただし、紅葉と桜の時期以外は正面口の石段は閉鎖されおり、階段の途中から西入山入口へと回り込みます。
    石段がきついと思われる方は迂回路へ回ってください。

  • 夫婦杉<br />階段脇から天に向かって聳える夫婦杉を上から見下ろすようなアングルで撮影してみました。<br />古来「連理の杉」とも呼ばれ、2本の杉の木が根本で結ばれており、その形から夫婦和合や家庭円満、ひいては家運隆昌の神が鎮まるところとして、人々の信仰を集めてきました。<br />人の大きさと比べるとスケール感が判ると思います。

    夫婦杉
    階段脇から天に向かって聳える夫婦杉を上から見下ろすようなアングルで撮影してみました。
    古来「連理の杉」とも呼ばれ、2本の杉の木が根本で結ばれており、その形から夫婦和合や家庭円満、ひいては家運隆昌の神が鎮まるところとして、人々の信仰を集めてきました。
    人の大きさと比べるとスケール感が判ると思います。

  • 夫婦杉の先では、楓の古木が見事なグラデーションを魅せています。<br />飛鳥 法興寺で催された蹴鞠会で出会った中大兄皇子と中臣鎌足が、藤の花の盛りの頃、本殿裏山の多武峰にて極秘の談合をしました。<br />『多武峰縁起』には「中大兄皇子、中臣鎌足連に言って日く。鞍作(蘇我入鹿)の暴逆をいかにせん。願わくは奇策を陳のべよと。中臣連、皇子を将ひきいて城東の倉橋山の峰に登り、藤花の下に撥乱反正の謀を談ず。」と記されています。この談合により、645(皇極天皇4)年に飛鳥 板蓋宮で蘇我入鹿を討ち、クーデタを成し遂げました。

    夫婦杉の先では、楓の古木が見事なグラデーションを魅せています。
    飛鳥 法興寺で催された蹴鞠会で出会った中大兄皇子と中臣鎌足が、藤の花の盛りの頃、本殿裏山の多武峰にて極秘の談合をしました。
    『多武峰縁起』には「中大兄皇子、中臣鎌足連に言って日く。鞍作(蘇我入鹿)の暴逆をいかにせん。願わくは奇策を陳のべよと。中臣連、皇子を将ひきいて城東の倉橋山の峰に登り、藤花の下に撥乱反正の謀を談ず。」と記されています。この談合により、645(皇極天皇4)年に飛鳥 板蓋宮で蘇我入鹿を討ち、クーデタを成し遂げました。

  • 石垣<br />石段を登りきる途中で見上げると、傾斜の上に建つ舞台造の拝殿の姿が壮観です。<br />手間の石垣は、中世の時代に、多武峰の僧兵たちが興福寺から妙楽寺を守るために築いたものです。<br />平安時代末期~戦国時代にかけ、主に同じ藤原氏の氏寺である興福寺と争った戦乱の時代を偲ばせる石垣です。中世には、多武峰妙楽寺の宗派が天台宗に変わったことから、興福寺と宗派の違いから壮絶な争いが長らく繰り返され、その都度、妙楽寺は焼き討ちされるという不幸な歴史を辿りました。因みに、妙楽寺は15度の抗争で13度まで敗れています。こうして近くで見ると戦国時代の面影が生々しくもあり、山城にでも来ているようなトランス状態に陥ります。<br />平安時代中期には摂関政治が全盛期を迎えましたが、中央政府の貴族たちは穢れを忌み嫌って自ら軍事力を持つことを止めてしまいました。そのため社会秩序は乱れ、自分の身は自分で守らざるを得なくなりました。故に、寺院も僧兵を雇うことになったのです。つまり、この石垣は財力と武力を持つ者だけが生き残れるという壮絶なる時代の遺跡とも言えます。

    石垣
    石段を登りきる途中で見上げると、傾斜の上に建つ舞台造の拝殿の姿が壮観です。
    手間の石垣は、中世の時代に、多武峰の僧兵たちが興福寺から妙楽寺を守るために築いたものです。
    平安時代末期~戦国時代にかけ、主に同じ藤原氏の氏寺である興福寺と争った戦乱の時代を偲ばせる石垣です。中世には、多武峰妙楽寺の宗派が天台宗に変わったことから、興福寺と宗派の違いから壮絶な争いが長らく繰り返され、その都度、妙楽寺は焼き討ちされるという不幸な歴史を辿りました。因みに、妙楽寺は15度の抗争で13度まで敗れています。こうして近くで見ると戦国時代の面影が生々しくもあり、山城にでも来ているようなトランス状態に陥ります。
    平安時代中期には摂関政治が全盛期を迎えましたが、中央政府の貴族たちは穢れを忌み嫌って自ら軍事力を持つことを止めてしまいました。そのため社会秩序は乱れ、自分の身は自分で守らざるを得なくなりました。故に、寺院も僧兵を雇うことになったのです。つまり、この石垣は財力と武力を持つ者だけが生き残れるという壮絶なる時代の遺跡とも言えます。

  • 石段<br />石段から喘ぎながら見上げる拝殿です。<br />吊燈籠が幽玄な世界を演出してます。

    石段
    石段から喘ぎながら見上げる拝殿です。
    吊燈籠が幽玄な世界を演出してます。

  • 鶴の手水舎<br />花崗岩製の「鶴」の手水鉢です。明治13年に時の五摂家 九條道孝から奉納されたものです。嘴が銅製で非常に珍しいものです。<br />鉢の上には談山神社の社紋である「上り藤」のレリーフもあります。

    鶴の手水舎
    花崗岩製の「鶴」の手水鉢です。明治13年に時の五摂家 九條道孝から奉納されたものです。嘴が銅製で非常に珍しいものです。
    鉢の上には談山神社の社紋である「上り藤」のレリーフもあります。

  • 鶴の手水舎<br />背後に回ってみると、一枚一枚の羽根が細やかに彫り込まれており、石工の技量が窺えます。<br />石造文化財として充分鑑賞に耐え得る作品と思います。

    鶴の手水舎
    背後に回ってみると、一枚一枚の羽根が細やかに彫り込まれており、石工の技量が窺えます。
    石造文化財として充分鑑賞に耐え得る作品と思います。

  • 楼門(重文)<br />楼門は、1619(元和5)年に建造された、入母屋造、檜皮葺、鮮やかな朱塗りの三間一戸の楼門です。本殿への入口に相応しく、重厚かつ威風堂々とした構えです。<br />楼門は舞台造の拝殿と繋がって建てられおり、楼門の左脇は授与所、右脇から拝殿へ入ります。

    楼門(重文)
    楼門は、1619(元和5)年に建造された、入母屋造、檜皮葺、鮮やかな朱塗りの三間一戸の楼門です。本殿への入口に相応しく、重厚かつ威風堂々とした構えです。
    楼門は舞台造の拝殿と繋がって建てられおり、楼門の左脇は授与所、右脇から拝殿へ入ります。

  • 透廊(重文)<br />折れ曲る東西透廊の本殿を囲む特異な形態は壮麗であり、檜皮葺の屋根が華麗です。<br />懸造においては、廻廊状の姿を残す唯一の現存建物です。廻廊には高欄が巡らされています。<br />背の高い古木の楓が色付く景観と相まって、何ともフォトジェニックな透廊です。

    透廊(重文)
    折れ曲る東西透廊の本殿を囲む特異な形態は壮麗であり、檜皮葺の屋根が華麗です。
    懸造においては、廻廊状の姿を残す唯一の現存建物です。廻廊には高欄が巡らされています。
    背の高い古木の楓が色付く景観と相まって、何ともフォトジェニックな透廊です。

  • 透廊<br />長い透廊に沿って下げられた吊燈籠が、いい雰囲気を醸し出しています。<br />藤原氏ないし国家の危機に際しては、本殿背後の鎌足の墓山である御破裂山が鳴動し、聖霊院に祀られた鎌足神像に亀裂が走り、凶事や異変が去ると亀裂は元に戻る信じられ、天下の崇敬を集めたことはつとに知られるところです。因みに、昌泰元年(898年)~慶長12年(1607年)までに35回の亀裂が記録されています。<br />平安時代中期には、増賀上人が入山して法華信仰を広め、中世南都の学問的中心として栄えました。また、近年では『太子伝』などの注釈で知られる学僧 永済が多武峯の僧侶であったことが判明し、改めて注目を集めています。また、『多武峯談山神社縁起絵巻』の縁起草案文を作成したのも永済であることが判っています。<br />更には、国宝や重要文化財を数多く有し、室町時代に成立した最古の演劇台本『延年(えんねん)諸本』(県文化財)など、延年の史料が多数残されているのは他の寺社に見られない特色です。延年を一言で言えば、中世の寺院で、法会後の法楽として演芸大会風のものが催され、その余興に演じられた芸能です。1つの芸能ではなく、舞楽・散楽・風流・風俗歌舞・猿楽・白拍子・小歌など、演じられた芸能の総称であり、雅楽風の演出・演目の中に庶民的な芸能をチャンプルした、いわゆる貴族芸能と庶民芸能の混合体を言います。

    透廊
    長い透廊に沿って下げられた吊燈籠が、いい雰囲気を醸し出しています。
    藤原氏ないし国家の危機に際しては、本殿背後の鎌足の墓山である御破裂山が鳴動し、聖霊院に祀られた鎌足神像に亀裂が走り、凶事や異変が去ると亀裂は元に戻る信じられ、天下の崇敬を集めたことはつとに知られるところです。因みに、昌泰元年(898年)~慶長12年(1607年)までに35回の亀裂が記録されています。
    平安時代中期には、増賀上人が入山して法華信仰を広め、中世南都の学問的中心として栄えました。また、近年では『太子伝』などの注釈で知られる学僧 永済が多武峯の僧侶であったことが判明し、改めて注目を集めています。また、『多武峯談山神社縁起絵巻』の縁起草案文を作成したのも永済であることが判っています。
    更には、国宝や重要文化財を数多く有し、室町時代に成立した最古の演劇台本『延年(えんねん)諸本』(県文化財)など、延年の史料が多数残されているのは他の寺社に見られない特色です。延年を一言で言えば、中世の寺院で、法会後の法楽として演芸大会風のものが催され、その余興に演じられた芸能です。1つの芸能ではなく、舞楽・散楽・風流・風俗歌舞・猿楽・白拍子・小歌など、演じられた芸能の総称であり、雅楽風の演出・演目の中に庶民的な芸能をチャンプルした、いわゆる貴族芸能と庶民芸能の混合体を言います。

  • 透廊<br />多彩な意匠を織り込んだ銅製吊燈籠には、社紋の「上り藤」をはじめ「鎌」をモチーフにしたデザインもあります。『多武峯縁起絵巻』には、鎌足が生まれた時にどこからか鎌をくわえた白い狐が現れ、生まれた子の足元に置いたことから、その子を「鎌子(鎌足の幼名)」と名付けたという故事が描かれています。この逸話に因むデザインと思われます。尚、談山神社では鎌をくわえた白狐のお守りが売られています。

    透廊
    多彩な意匠を織り込んだ銅製吊燈籠には、社紋の「上り藤」をはじめ「鎌」をモチーフにしたデザインもあります。『多武峯縁起絵巻』には、鎌足が生まれた時にどこからか鎌をくわえた白い狐が現れ、生まれた子の足元に置いたことから、その子を「鎌子(鎌足の幼名)」と名付けたという故事が描かれています。この逸話に因むデザインと思われます。尚、談山神社では鎌をくわえた白狐のお守りが売られています。

  • 拝殿(重文)<br />朱塗舞台造(懸造)の拝殿は室町時代の1520(永正17) 年に再建されました。妙楽寺の時代は「護国院」と呼ばれ、内部は漆喰と朱塗り柱・梁が美しい空間を演出しています。桁行1間、梁間3間の妻入入母屋造で、前後の軒は唐破風付の檜皮葺です。<br />畳敷きであり、「千畳敷の伽羅の間」と呼ばれ、現在は宝物殿を兼ねています。

    拝殿(重文)
    朱塗舞台造(懸造)の拝殿は室町時代の1520(永正17) 年に再建されました。妙楽寺の時代は「護国院」と呼ばれ、内部は漆喰と朱塗り柱・梁が美しい空間を演出しています。桁行1間、梁間3間の妻入入母屋造で、前後の軒は唐破風付の檜皮葺です。
    畳敷きであり、「千畳敷の伽羅の間」と呼ばれ、現在は宝物殿を兼ねています。

  • 拝殿<br />朱塗りの間から垣間見る紅葉はまさに自然が描く一幅の屏風絵です。<br />何とも言えない美しさの中にも雅な情緒を湛えています。<br />

    拝殿
    朱塗りの間から垣間見る紅葉はまさに自然が描く一幅の屏風絵です。
    何とも言えない美しさの中にも雅な情緒を湛えています。

  • 拝殿<br />拝殿中央の天井は格式の高い折り上げ格天井となっており、唐から輸入した香木「伽羅(きゃら)」を用いた豪華なものであり、藤原氏の往時の栄華ぶりをここに反映しているかのようです。

    拝殿
    拝殿中央の天井は格式の高い折り上げ格天井となっており、唐から輸入した香木「伽羅(きゃら)」を用いた豪華なものであり、藤原氏の往時の栄華ぶりをここに反映しているかのようです。

  • 拝殿<br />一般的に香木の代表が沈水香木と呼ばれ、その沈香の中でも最上品のものを伽羅と?います。ベトナムの一部地域でのみ産出され、香りの?成に?い年?を要すために多様で複層的な香りを湛えます。ジンチョウゲ科アキラリア属・ゴリスチラス属の常緑高木です。<br />因みに、正倉院の御物である蘭奢待(らんじゃたい)は、1.54mもある大きな伽羅香木ですが、これから香を切り取ったのは足利義政と織田信長、そして明治天皇が著名です。

    拝殿
    一般的に香木の代表が沈水香木と呼ばれ、その沈香の中でも最上品のものを伽羅と?います。ベトナムの一部地域でのみ産出され、香りの?成に?い年?を要すために多様で複層的な香りを湛えます。ジンチョウゲ科アキラリア属・ゴリスチラス属の常緑高木です。
    因みに、正倉院の御物である蘭奢待(らんじゃたい)は、1.54mもある大きな伽羅香木ですが、これから香を切り取ったのは足利義政と織田信長、そして明治天皇が著名です。

  • 拝殿<br />談山神社は、三脚やフラッシュを使用しなければ、写真撮影はオールフリーです。<br />装飾金具の中央には社紋「上り藤」、その周囲にも「藤」を思わせる唐草文様を配しています。

    拝殿
    談山神社は、三脚やフラッシュを使用しなければ、写真撮影はオールフリーです。
    装飾金具の中央には社紋「上り藤」、その周囲にも「藤」を思わせる唐草文様を配しています。

  • 拝殿<br />六葉釘隠しも金ピカです。<br />中央の丸い棒「樽の口」には社紋「上り藤」をあしらい、「六葉座」にも6つの「上り藤」を散らしています。

    拝殿
    六葉釘隠しも金ピカです。
    中央の丸い棒「樽の口」には社紋「上り藤」をあしらい、「六葉座」にも6つの「上り藤」を散らしています。

  • 絹本 多武峯縁起絵巻<br />『多武峰縁起絵巻』は、43枚の色紙型の部分に詞が書かれ、当初は上下2巻でしたが、1700(元禄13)年の修理の際に4巻に分割され、後の関白 近衛家煕が外題を付しました。内容は、談山神社のご祭神、藤原鎌足の伝記を主体に、その長男 定恵の妙楽寺聖霊院の創建など寺の歴史を語り、多武峰中興の僧である実性と増賀上人の説話を加え、神像破裂の霊異譚で締め括っています。<br /><br />中大兄皇子(中央右)と中臣鎌足(中央左)は、南淵請安のもとに通いながら蘇我氏打倒の策を練りました。皇子は「入鹿は暴虐である。これを如何にすれば良いか奇策を述べて欲しい」と頼み、鎌足は「私も同じ考えです。それなら神山(現在の談山神社本殿の裏山)に入って謀り事を談り合いましょうと」答え、2人きりで入鹿暗殺計画を練りました。後に談所の地は「談の峰(たむのみね)」と呼ばれた。<br />こうした中、蘇我蝦夷や入鹿に反感を持つ蘇我倉石川麻呂を同志に加えるなど着実に仲間を増やしていきました。<br />この画像は次のサイトから引用させていただきました。<br />https://www.nara-wu.ac.jp/aic/gdb/mahoroba/y06/tounomine/

    絹本 多武峯縁起絵巻
    『多武峰縁起絵巻』は、43枚の色紙型の部分に詞が書かれ、当初は上下2巻でしたが、1700(元禄13)年の修理の際に4巻に分割され、後の関白 近衛家煕が外題を付しました。内容は、談山神社のご祭神、藤原鎌足の伝記を主体に、その長男 定恵の妙楽寺聖霊院の創建など寺の歴史を語り、多武峰中興の僧である実性と増賀上人の説話を加え、神像破裂の霊異譚で締め括っています。

    中大兄皇子(中央右)と中臣鎌足(中央左)は、南淵請安のもとに通いながら蘇我氏打倒の策を練りました。皇子は「入鹿は暴虐である。これを如何にすれば良いか奇策を述べて欲しい」と頼み、鎌足は「私も同じ考えです。それなら神山(現在の談山神社本殿の裏山)に入って謀り事を談り合いましょうと」答え、2人きりで入鹿暗殺計画を練りました。後に談所の地は「談の峰(たむのみね)」と呼ばれた。
    こうした中、蘇我蝦夷や入鹿に反感を持つ蘇我倉石川麻呂を同志に加えるなど着実に仲間を増やしていきました。
    この画像は次のサイトから引用させていただきました。
    https://www.nara-wu.ac.jp/aic/gdb/mahoroba/y06/tounomine/

  • 絹本 多武峯縁起絵巻<br />従来の通説では、奈良国立博物館に寄託中の『多武峰縁起絵巻』は一条兼良(1402~81年)の作で色紙型も自筆とされてきました。しかし、鎌倉時代の多武峯の学僧 永済が縁起草案文を作った縁起絵が1239(暦仁2)年に成立していることが判明し、この説は覆りました。更に、近世の多武峯縁起の注釈書『談峯縁起便蒙』や『紅葉拾遺』、『考古画譜』では永済が作った縁起文を兼良が用いて絹本を作成したとありますが、色紙型の文字を兼良自筆の文字と比べると同筆とは認め難いそうです。絵に関しても、画風から考察して16世紀頃の作との指摘があります。つまり、つまり13~16世紀の間に成立したと思われます。<br /><br />大化改新は645(大化元)年の蘇我氏打倒に始まる一連の内政改革を言います。そのクライマックスとも言える飛鳥板蓋宮における蘇我入鹿の暗殺シーンです。皇子が刎ねた入鹿の生首が宙に舞い、皇極天皇と彼らを隔てる御簾に飛びつく様がリアルに描かれています。<br />左の弓矢を持つのが中臣鎌足、右の太刀を持つのが皇子です。皇子の背後には、いざとなって足がすくんで身動きが取れなった暗殺者2名( 佐伯連子麻呂と葛城稚犬養網田)が描かれています。<br />一方、『日本書紀』には縁起絵巻に描かれたような記述はなく、まして入鹿にとどめを刺した人物は皇子ではありません。絵巻は13~16世紀の成立とされますが、この頃にはすでに「宙を飛ぶ入鹿の首」は世に認知されていたということです。また、皇子と鎌足が入鹿討伐を企む密談をした談山にも入鹿の首が飛んできたと伝えます。2人を恨む入鹿の執念の深さを暗示するかのように、首が落ちた夜は天地が大いに荒れたと言います。更には、?伝飛鳥板蓋宮跡の北に、蘇我馬子が建立した日本最古の寺院 飛鳥寺(安居院)がありますが、その西方の田圃にぽつんと佇む五輪塔が「蘇我入鹿首塚」です。ここに飛んできた入鹿の首が執拗に鎌足を追い回そうとしたため、供養のために建てたといういわくつきの塚です。<br />平安時代までは「怨霊」という言葉は存在しなかったそうですが、恨みを呑んで死んだ者が霊となって現れ、憎む相手に禍いをなすという考え方はあったそうです。悪しき霊となるには条件があり、故なき罪に陥れられること、すなわち冤罪による死者にのみその資格が与えられました。汚れた手で上り詰めた権力者の心に、禍いをもたらす悪霊が立ち現れるということでしょう。<br />やがて、鎌足は首から逃れるため多武峰方面へ逃げました。細川の上流へ登り、氣都倭既(きつわき)神社へ至り、「茂古(もうこ)の森」へ隠れました。「ここまでくれば『もう来ぬ』だろう」との語呂合わせだとか…。鎌足の呟きが不思議な名の由来となっています。力尽きたのか、ホッと胸をなで下ろしたのか、鎌足が腰掛けたという石が境内の手水舎横に残されています。<br />この画像は次のサイトから引用させていただきました。<br />https://www.nara-wu.ac.jp/aic/gdb/mahoroba/y06/tounomine/

    絹本 多武峯縁起絵巻
    従来の通説では、奈良国立博物館に寄託中の『多武峰縁起絵巻』は一条兼良(1402~81年)の作で色紙型も自筆とされてきました。しかし、鎌倉時代の多武峯の学僧 永済が縁起草案文を作った縁起絵が1239(暦仁2)年に成立していることが判明し、この説は覆りました。更に、近世の多武峯縁起の注釈書『談峯縁起便蒙』や『紅葉拾遺』、『考古画譜』では永済が作った縁起文を兼良が用いて絹本を作成したとありますが、色紙型の文字を兼良自筆の文字と比べると同筆とは認め難いそうです。絵に関しても、画風から考察して16世紀頃の作との指摘があります。つまり、つまり13~16世紀の間に成立したと思われます。

    大化改新は645(大化元)年の蘇我氏打倒に始まる一連の内政改革を言います。そのクライマックスとも言える飛鳥板蓋宮における蘇我入鹿の暗殺シーンです。皇子が刎ねた入鹿の生首が宙に舞い、皇極天皇と彼らを隔てる御簾に飛びつく様がリアルに描かれています。
    左の弓矢を持つのが中臣鎌足、右の太刀を持つのが皇子です。皇子の背後には、いざとなって足がすくんで身動きが取れなった暗殺者2名( 佐伯連子麻呂と葛城稚犬養網田)が描かれています。
    一方、『日本書紀』には縁起絵巻に描かれたような記述はなく、まして入鹿にとどめを刺した人物は皇子ではありません。絵巻は13~16世紀の成立とされますが、この頃にはすでに「宙を飛ぶ入鹿の首」は世に認知されていたということです。また、皇子と鎌足が入鹿討伐を企む密談をした談山にも入鹿の首が飛んできたと伝えます。2人を恨む入鹿の執念の深さを暗示するかのように、首が落ちた夜は天地が大いに荒れたと言います。更には、?伝飛鳥板蓋宮跡の北に、蘇我馬子が建立した日本最古の寺院 飛鳥寺(安居院)がありますが、その西方の田圃にぽつんと佇む五輪塔が「蘇我入鹿首塚」です。ここに飛んできた入鹿の首が執拗に鎌足を追い回そうとしたため、供養のために建てたといういわくつきの塚です。
    平安時代までは「怨霊」という言葉は存在しなかったそうですが、恨みを呑んで死んだ者が霊となって現れ、憎む相手に禍いをなすという考え方はあったそうです。悪しき霊となるには条件があり、故なき罪に陥れられること、すなわち冤罪による死者にのみその資格が与えられました。汚れた手で上り詰めた権力者の心に、禍いをもたらす悪霊が立ち現れるということでしょう。
    やがて、鎌足は首から逃れるため多武峰方面へ逃げました。細川の上流へ登り、氣都倭既(きつわき)神社へ至り、「茂古(もうこ)の森」へ隠れました。「ここまでくれば『もう来ぬ』だろう」との語呂合わせだとか…。鎌足の呟きが不思議な名の由来となっています。力尽きたのか、ホッと胸をなで下ろしたのか、鎌足が腰掛けたという石が境内の手水舎横に残されています。
    この画像は次のサイトから引用させていただきました。
    https://www.nara-wu.ac.jp/aic/gdb/mahoroba/y06/tounomine/

  • 絹本 多武峯縁起絵巻<br />ここに展示されている縁起絵巻は、江戸時代初期に根本縁起を御用絵師 住吉派の租 如慶とその息子 具慶が共同で模写した作品です。詞書きは、後水尾院の勅願により、43名の藤氏公卿が色紙型1枚ずつを文筆した寄合書となっています。模写ながらも、住吉派の個性が随所に滲み出ており、その躍動感に満ちた筆致は一見の価値があります。<br /><br />蘇我入鹿が、父 蝦夷のもとに無言の帰宅をしている姿が描かれています。大臣として権勢をふるっていた蝦夷ですが、入鹿の屍を見て、もはやこれまでと住居に火を放って自殺して果てました。こうして蘇我一族は滅亡しました。<br />この画像は次のサイトから引用させていただきました。<br />https://www.nara-wu.ac.jp/aic/gdb/mahoroba/y06/tounomine/

    絹本 多武峯縁起絵巻
    ここに展示されている縁起絵巻は、江戸時代初期に根本縁起を御用絵師 住吉派の租 如慶とその息子 具慶が共同で模写した作品です。詞書きは、後水尾院の勅願により、43名の藤氏公卿が色紙型1枚ずつを文筆した寄合書となっています。模写ながらも、住吉派の個性が随所に滲み出ており、その躍動感に満ちた筆致は一見の価値があります。

    蘇我入鹿が、父 蝦夷のもとに無言の帰宅をしている姿が描かれています。大臣として権勢をふるっていた蝦夷ですが、入鹿の屍を見て、もはやこれまでと住居に火を放って自殺して果てました。こうして蘇我一族は滅亡しました。
    この画像は次のサイトから引用させていただきました。
    https://www.nara-wu.ac.jp/aic/gdb/mahoroba/y06/tounomine/

  • 藤原鎌足像(通称:多武峰曼荼羅)桃山時代(16世紀)<br />藤原鎌足が朝服を着け半跏して坐る姿を中央にひときわ大きく配し、向かって右下に僧形の定恵、左下に朝服を着ける原不比等という2人の子息が侍座しています。背後を3面の神鏡、巻き上げられた御簾、藤の円文をあしらう赤い帳、藤が絡みつく松を描いた衝立などで荘厳化することで、神格化された藤原氏の祖としての鎌足の存在を強調しています。上部には藤原氏と所縁の深い春日大社の本地仏を表す5つの円相を配すと共に、談山神社十三重塔の建立説話が描かれています。また、鎌足誕生の逸話に従い、右下の白い狐は鎌をくわえています。尚、左の狐は矢をくわえています。

    藤原鎌足像(通称:多武峰曼荼羅)桃山時代(16世紀)
    藤原鎌足が朝服を着け半跏して坐る姿を中央にひときわ大きく配し、向かって右下に僧形の定恵、左下に朝服を着ける原不比等という2人の子息が侍座しています。背後を3面の神鏡、巻き上げられた御簾、藤の円文をあしらう赤い帳、藤が絡みつく松を描いた衝立などで荘厳化することで、神格化された藤原氏の祖としての鎌足の存在を強調しています。上部には藤原氏と所縁の深い春日大社の本地仏を表す5つの円相を配すと共に、談山神社十三重塔の建立説話が描かれています。また、鎌足誕生の逸話に従い、右下の白い狐は鎌をくわえています。尚、左の狐は矢をくわえています。

  • 『枝鞠図』土佐光貞 筆(江戸時代中期)<br />楓の枝に挟まれた鞠を描いた掛け軸です。これは毎年11月3日に催される「蹴鞠祭り」のしきたりを示すものです。仏前や神前で蹴鞠を行うに当たっては、「枝鞠」と言って、この絵ように鞠を枝に付けて祈念してから始めるのが慣わしだったようです。<br />下にある鹿革製の鞠も江戸時代中期の作品です。

    『枝鞠図』土佐光貞 筆(江戸時代中期)
    楓の枝に挟まれた鞠を描いた掛け軸です。これは毎年11月3日に催される「蹴鞠祭り」のしきたりを示すものです。仏前や神前で蹴鞠を行うに当たっては、「枝鞠」と言って、この絵ように鞠を枝に付けて祈念してから始めるのが慣わしだったようです。
    下にある鹿革製の鞠も江戸時代中期の作品です。

  • 増賀(そうが)上人坐像<br />像高45cm、江戸時代の作です。元々は念踊崛(増賀上人の墓所)の念仏堂に祀られていたそうですが、桜井 来迎寺に移り、その後転々とし、一時期は行方不明だったこともあったそうです。<br />『多武峰縁起絵巻』によると、増賀上人は多武峰妙楽寺の中興の祖とされます。増賀は参議・正四位下 橘恒平の男子で、10歳の時に比叡山に登り慈恵太師(良源)の弟子となりました。<br />948(天暦2)年8月2日、時に32歳の増賀は夢を見ました。維摩居士が現れ、「浄土を志すならこの地に住め」と景色が示されました。963(応和3)年に如覚(多武峰少将 藤原高光)の勧めで多武峰を訪れた増賀は、この地が15年前の夢の景色と同じと悟り、三間一面の草庵を結び、その4年後の1003(長保5)年6月9日に入寂しました。

    増賀(そうが)上人坐像
    像高45cm、江戸時代の作です。元々は念踊崛(増賀上人の墓所)の念仏堂に祀られていたそうですが、桜井 来迎寺に移り、その後転々とし、一時期は行方不明だったこともあったそうです。
    『多武峰縁起絵巻』によると、増賀上人は多武峰妙楽寺の中興の祖とされます。増賀は参議・正四位下 橘恒平の男子で、10歳の時に比叡山に登り慈恵太師(良源)の弟子となりました。
    948(天暦2)年8月2日、時に32歳の増賀は夢を見ました。維摩居士が現れ、「浄土を志すならこの地に住め」と景色が示されました。963(応和3)年に如覚(多武峰少将 藤原高光)の勧めで多武峰を訪れた増賀は、この地が15年前の夢の景色と同じと悟り、三間一面の草庵を結び、その4年後の1003(長保5)年6月9日に入寂しました。

  • 談山神社 本殿(重文)<br />談山神社の本殿は藤原鎌足を祀る旧別格官幣社です。701(大宝元)年の創建で、妙楽寺の時代は「聖霊院」とよばれ、大織冠社、多武峯社とも号しました。「大織冠」とは鎌足にだけ授けられた、最も高い位のことです。兵火にかかるなどで11度の造替が繰り返されています。<br />標高500m程の地に鎮座し、中央に鎌足、左に定恵(兄)、左に不比等(弟)を祀っています。<br />また、手前にある亀甲の石畳の前庭は「勅使の間」と呼ばれています。

    談山神社 本殿(重文)
    談山神社の本殿は藤原鎌足を祀る旧別格官幣社です。701(大宝元)年の創建で、妙楽寺の時代は「聖霊院」とよばれ、大織冠社、多武峯社とも号しました。「大織冠」とは鎌足にだけ授けられた、最も高い位のことです。兵火にかかるなどで11度の造替が繰り返されています。
    標高500m程の地に鎮座し、中央に鎌足、左に定恵(兄)、左に不比等(弟)を祀っています。
    また、手前にある亀甲の石畳の前庭は「勅使の間」と呼ばれています。

  • 談山神社 本殿<br />現在の本殿は幕末の1850(嘉永3)に大改修されましたが、三間社隅木入春日造は珍しい様式であり、外部は朱塗の上に飾金具を付け、極彩色の文様や趣向を凝らした細やかな龍花鳥などの彫刻が映える豪華絢爛な設えです。それとは対照的に、内部は素木造と質素な設えです。因みに、東西透廊で本殿を囲った形式は日光東照宮造営の手本とされたと言われています。これが徳川家との縁となり、目立たたないですが柱の正面には「三つ葉葵」紋があります。(上の画像の柱に陽が当たりハレーションを起こしている箇所の最上部)<br />本殿に向かい合って拝殿、東西を高欄のある透廊が囲みます。

    談山神社 本殿
    現在の本殿は幕末の1850(嘉永3)に大改修されましたが、三間社隅木入春日造は珍しい様式であり、外部は朱塗の上に飾金具を付け、極彩色の文様や趣向を凝らした細やかな龍花鳥などの彫刻が映える豪華絢爛な設えです。それとは対照的に、内部は素木造と質素な設えです。因みに、東西透廊で本殿を囲った形式は日光東照宮造営の手本とされたと言われています。これが徳川家との縁となり、目立たたないですが柱の正面には「三つ葉葵」紋があります。(上の画像の柱に陽が当たりハレーションを起こしている箇所の最上部)
    本殿に向かい合って拝殿、東西を高欄のある透廊が囲みます。

  • 談山神社 本殿<br />ここに祀られている鎌足像は室町時代にことある毎に「神体破裂」するとの怪異で知られていました。古来、鎌足を葬った廟山(御破裂山)は国家に大事がある毎に鳴動し、その振動で鎌足像の顔や体部に亀裂を生じたと伝えます。平安時代中期以降、藤原氏一門を震駭させ、寺から朝廷に報告があると、朝廷では早速告文使を遣わし、本殿前の亀甲紋の石壇上で裂傷の平癒祈願の儀式が行われたそうです。摩訶不思議な怪異譚ですが、勅使派遣は実に13回もあったと伝えます。<br />因みに、この神像は現在も宮司・禰宜しか拝見することができないという厳しい決まりがあるそうです。

    談山神社 本殿
    ここに祀られている鎌足像は室町時代にことある毎に「神体破裂」するとの怪異で知られていました。古来、鎌足を葬った廟山(御破裂山)は国家に大事がある毎に鳴動し、その振動で鎌足像の顔や体部に亀裂を生じたと伝えます。平安時代中期以降、藤原氏一門を震駭させ、寺から朝廷に報告があると、朝廷では早速告文使を遣わし、本殿前の亀甲紋の石壇上で裂傷の平癒祈願の儀式が行われたそうです。摩訶不思議な怪異譚ですが、勅使派遣は実に13回もあったと伝えます。
    因みに、この神像は現在も宮司・禰宜しか拝見することができないという厳しい決まりがあるそうです。

  • 談山神社 本殿<br />江戸時代の本殿造替は、法隆寺番匠棟梁 中井正清の子孫によりなされました。正清は初代 日光東照宮社殿(現 世良田東照宮社殿)を建てた大工棟梁で、談山神社の本殿を手本にしたと伝わります。時代が下り、その子孫により談山神社 本殿が造替され、「三つ葉葵」紋まで付与されたというのも何かの因果を感じさせます。<br />正清は、徳川家康に仕えて多くの大規模建築の棟梁を務め、大工棟梁でありながら1千石を知行した上、従五位下大和守に叙任され、後に初代京都大工頭となって畿内一円の大工たちを従えました。江戸城天守や名古屋城天守の大工棟梁にも抜擢され、共に大坂城天守を超える巨大建築を短期間で完成させました。因みに、大坂城の建築に携わって口封じのため危うく殺されかけた棟梁が、正清の父 正吉でした。<br />一方、正清は法隆寺の大修理などで豊臣家にも使えておりましたが、その豊臣家滅亡の片棒を担いだのも正清でした。焼失した方広寺の大仏殿の再建に当たり、豊臣秀頼は正清に大工棟梁を命じました。大仏殿が完成し、開眼供養を待つばかりとなった時、「待った」をかけたのが開眼供養に向け奔走していた正清でした。大仏殿の棟札に自分の名が無いことに不満を訴え、棟札と鐘銘の写しを家康に送ったのです。これがきっかけとなって勃発したのが、「方広寺鐘銘事件」です。家康が問題視したのは「国家安康、君臣豊楽」の鐘銘でしたが、正清が訴えた棟札の件を合わせ、政治問題化させて豊臣方に難詰したのです。

    談山神社 本殿
    江戸時代の本殿造替は、法隆寺番匠棟梁 中井正清の子孫によりなされました。正清は初代 日光東照宮社殿(現 世良田東照宮社殿)を建てた大工棟梁で、談山神社の本殿を手本にしたと伝わります。時代が下り、その子孫により談山神社 本殿が造替され、「三つ葉葵」紋まで付与されたというのも何かの因果を感じさせます。
    正清は、徳川家康に仕えて多くの大規模建築の棟梁を務め、大工棟梁でありながら1千石を知行した上、従五位下大和守に叙任され、後に初代京都大工頭となって畿内一円の大工たちを従えました。江戸城天守や名古屋城天守の大工棟梁にも抜擢され、共に大坂城天守を超える巨大建築を短期間で完成させました。因みに、大坂城の建築に携わって口封じのため危うく殺されかけた棟梁が、正清の父 正吉でした。
    一方、正清は法隆寺の大修理などで豊臣家にも使えておりましたが、その豊臣家滅亡の片棒を担いだのも正清でした。焼失した方広寺の大仏殿の再建に当たり、豊臣秀頼は正清に大工棟梁を命じました。大仏殿が完成し、開眼供養を待つばかりとなった時、「待った」をかけたのが開眼供養に向け奔走していた正清でした。大仏殿の棟札に自分の名が無いことに不満を訴え、棟札と鐘銘の写しを家康に送ったのです。これがきっかけとなって勃発したのが、「方広寺鐘銘事件」です。家康が問題視したのは「国家安康、君臣豊楽」の鐘銘でしたが、正清が訴えた棟札の件を合わせ、政治問題化させて豊臣方に難詰したのです。

  • 談山神社 本殿<br />室町時代中期の1435年、多武峰一帯で堂宇や塔が焼失する戦が起こり、その戦乱を避けるため、ご神体である鎌足神像などを明日香村にある聖徳太子誕生の寺と伝わる橘寺に一時避難させたそうです。その後、1441(嘉吉元)年の秋に難を逃れたご神像が無事帰還できたのを記念し、24年後の1465(寛正6)年より、嘉吉元年の神霊奉還の日に秋の収穫物をお供えする祭礼が営まれるようになりました。これが嘉吉祭のはじまりです。<br />因みに、嘉吉祭にて本殿に供えられる神饌を「百味の御食(ひゃくみのおんじき)」と呼び、百種類が供えられます。

    談山神社 本殿
    室町時代中期の1435年、多武峰一帯で堂宇や塔が焼失する戦が起こり、その戦乱を避けるため、ご神体である鎌足神像などを明日香村にある聖徳太子誕生の寺と伝わる橘寺に一時避難させたそうです。その後、1441(嘉吉元)年の秋に難を逃れたご神像が無事帰還できたのを記念し、24年後の1465(寛正6)年より、嘉吉元年の神霊奉還の日に秋の収穫物をお供えする祭礼が営まれるようになりました。これが嘉吉祭のはじまりです。
    因みに、嘉吉祭にて本殿に供えられる神饌を「百味の御食(ひゃくみのおんじき)」と呼び、百種類が供えられます。

  • 談山神社 本殿<br />徳川家康の側近だった天台宗 天海僧正の考案した東照大権現の祭文には「全因襲大織冠談山大権現之体」とあります。また、『東照大権現縁起』には「作法可准多武峯」と記され、徳川家康を山王一実神道にて権現として祀ることのルーツは多武峰妙楽寺における藤原鎌足の談山大権現にあることが判ります。

    談山神社 本殿
    徳川家康の側近だった天台宗 天海僧正の考案した東照大権現の祭文には「全因襲大織冠談山大権現之体」とあります。また、『東照大権現縁起』には「作法可准多武峯」と記され、徳川家康を山王一実神道にて権現として祀ることのルーツは多武峰妙楽寺における藤原鎌足の談山大権現にあることが判ります。

  • 談山神社 本殿<br />源平合戦時代には兄 源頼朝に追われて吉野山を越え、ここ多武峰に逃げ込んだ源義経を一時匿ったというエピソードが『吾妻鏡』に記されています。<br />頼朝と対立して都落ちした後、義経は吉野山へ逃げ込みました。ここで同道していた静御前と別れた義経は、大峰へ入ったとみせかけて実際は北の多武峰へ向かい、多武峰の寺院のひとつであった南院藤室の僧 十字坊に匿われます。現在の多武峰観光ホテルが南院藤室跡と伝わります。<br />因みに、創業140年の老舗 多武峰観光ホテルの名物は「義経鍋」です。苦難の逃避行を続ける義経一行のために腕を振るった鍋料理に由来します。義経が使用していた刀の鍔の形を象った特製の鉄鍋で、鴨、ボタン(猪)、うずら、牛、豚、鶏の6種の肉は鉄板焼きで香ばしく、白菜、ワラビ、大根などの野菜や豆腐などは中央の窪みで水炊きにし、秘伝の甘ダレとさっぱりポン酢でいただきます。<br />一度、ご賞味あれ!<br />因みに、多武峰観光ホテル5Fにあるレストランは談山神社を俯瞰できるビューポイントでもあります。お食事を兼ねて景色を堪能してみては如何でしょうか?今回はレストランが休暇中とのことで断念いたしました。

    談山神社 本殿
    源平合戦時代には兄 源頼朝に追われて吉野山を越え、ここ多武峰に逃げ込んだ源義経を一時匿ったというエピソードが『吾妻鏡』に記されています。
    頼朝と対立して都落ちした後、義経は吉野山へ逃げ込みました。ここで同道していた静御前と別れた義経は、大峰へ入ったとみせかけて実際は北の多武峰へ向かい、多武峰の寺院のひとつであった南院藤室の僧 十字坊に匿われます。現在の多武峰観光ホテルが南院藤室跡と伝わります。
    因みに、創業140年の老舗 多武峰観光ホテルの名物は「義経鍋」です。苦難の逃避行を続ける義経一行のために腕を振るった鍋料理に由来します。義経が使用していた刀の鍔の形を象った特製の鉄鍋で、鴨、ボタン(猪)、うずら、牛、豚、鶏の6種の肉は鉄板焼きで香ばしく、白菜、ワラビ、大根などの野菜や豆腐などは中央の窪みで水炊きにし、秘伝の甘ダレとさっぱりポン酢でいただきます。
    一度、ご賞味あれ!
    因みに、多武峰観光ホテル5Fにあるレストランは談山神社を俯瞰できるビューポイントでもあります。お食事を兼ねて景色を堪能してみては如何でしょうか?今回はレストランが休暇中とのことで断念いたしました。

  • 菴羅樹(アンラジュ:カリンの原種)<br />拝殿を東側に出た所に植えられています。(画像中央にある木)<br />藤原鎌足の長男 定恵が唐から持ち帰った霊木と伝えます。ウルシ科で熱帯果実の王女と称されます。花は無数に咲くが、結実の少ないことから、宗教上の悟りの困難さを示唆する木とも言われます。確かに実はひとつもありませんが、釈迦が説法をされた僧院(菴羅樹園精舎)の名前になっているほどですから、さぞありがたい霊木なのでしょう。<br />日蓮上人は結実しない様子を次のように表しています。「魚の子は多けれども魚となるは少なく、菴羅樹の花は咲けども実となるは少なし。人も又此の如し」。つまり、「小魚は多く生まれるけれども成魚になるものは少なく、菴羅樹に咲く花は多くても実を結ぶものは少ない。人もそれと同じであり、信仰心を持つ者は多くとも成仏できる者は少ない」という例えです。<br />何の変哲もない植物に見えますが、こうしたところに植えられているのは何らかの意味があることを知りました。<br />因みに、談山神社では「アンラジュのお守り」も授与していただけます。

    菴羅樹(アンラジュ:カリンの原種)
    拝殿を東側に出た所に植えられています。(画像中央にある木)
    藤原鎌足の長男 定恵が唐から持ち帰った霊木と伝えます。ウルシ科で熱帯果実の王女と称されます。花は無数に咲くが、結実の少ないことから、宗教上の悟りの困難さを示唆する木とも言われます。確かに実はひとつもありませんが、釈迦が説法をされた僧院(菴羅樹園精舎)の名前になっているほどですから、さぞありがたい霊木なのでしょう。
    日蓮上人は結実しない様子を次のように表しています。「魚の子は多けれども魚となるは少なく、菴羅樹の花は咲けども実となるは少なし。人も又此の如し」。つまり、「小魚は多く生まれるけれども成魚になるものは少なく、菴羅樹に咲く花は多くても実を結ぶものは少ない。人もそれと同じであり、信仰心を持つ者は多くとも成仏できる者は少ない」という例えです。
    何の変哲もない植物に見えますが、こうしたところに植えられているのは何らかの意味があることを知りました。
    因みに、談山神社では「アンラジュのお守り」も授与していただけます。

  • 東宝庫(重文)<br />本殿に向って左右に配置された同形式の2つの宝庫は、朱塗りが映える校倉造になっており、「井楼組」とも呼ばれる建築様式です。1619(元和5)年に造営され、文化財の宝庫として知られる談山神社古来の名宝を収蔵してきました。<br />現在、宝物は博物館などに寄託されています。<br /><br />寺宝については、1871(明治4)年の上知令により社領を失ったこともあり経済的に困窮し、多くが二束三文で売却されました。『神仏分離史料 第三巻(復刻版)』によると、「講堂の釋迦涅槃像は、士族即ち旧社僧中へ下賜されたのを旧慈門院が売りに出したところ25銭の値段であったので、遂に旧末寺聖林寺へ寄付してしまった。」や「子院の観音像は旧圓城院に渡ったが、その後フェノロサの手に渡り、更に東京帝室博物館の所有に移った。フェノロサへ売る時、値幾何と聞かれたので指を5本出した。5円のつもりがフェノロサは50円と勘違いしたとの逸話がある。」、「仏畫は25本宛一括にし、一括25銭でどんどん売り出した。」とあります。卵1個が1.2銭の時代ですので、仏画1枚が卵1個の安値で取引されたことになります。<br />神社には不要なものであり、多くの仏像や仏具などを安値で売り払ったようです。しかし、如意輪観音像や絹本著色大威徳明王像(国重文:東京国立博物館寄託)、紺紙金銀泥法華経宝塔曼荼羅図10幅(国重文:奈良国立博物館寄託)のように談山神社に残された仏像や仏画もあります。如意輪観音像については、開山にまつわる仏像であったことから、この像だけは流出させるに忍びないと密かに守られたようです。

    東宝庫(重文)
    本殿に向って左右に配置された同形式の2つの宝庫は、朱塗りが映える校倉造になっており、「井楼組」とも呼ばれる建築様式です。1619(元和5)年に造営され、文化財の宝庫として知られる談山神社古来の名宝を収蔵してきました。
    現在、宝物は博物館などに寄託されています。

    寺宝については、1871(明治4)年の上知令により社領を失ったこともあり経済的に困窮し、多くが二束三文で売却されました。『神仏分離史料 第三巻(復刻版)』によると、「講堂の釋迦涅槃像は、士族即ち旧社僧中へ下賜されたのを旧慈門院が売りに出したところ25銭の値段であったので、遂に旧末寺聖林寺へ寄付してしまった。」や「子院の観音像は旧圓城院に渡ったが、その後フェノロサの手に渡り、更に東京帝室博物館の所有に移った。フェノロサへ売る時、値幾何と聞かれたので指を5本出した。5円のつもりがフェノロサは50円と勘違いしたとの逸話がある。」、「仏畫は25本宛一括にし、一括25銭でどんどん売り出した。」とあります。卵1個が1.2銭の時代ですので、仏画1枚が卵1個の安値で取引されたことになります。
    神社には不要なものであり、多くの仏像や仏具などを安値で売り払ったようです。しかし、如意輪観音像や絹本著色大威徳明王像(国重文:東京国立博物館寄託)、紺紙金銀泥法華経宝塔曼荼羅図10幅(国重文:奈良国立博物館寄託)のように談山神社に残された仏像や仏画もあります。如意輪観音像については、開山にまつわる仏像であったことから、この像だけは流出させるに忍びないと密かに守られたようです。

  • 西宝庫(重文)<br />拝殿を西側から出た所にある手水舎の先に佇みます。<br />桁行3間、梁間2間、入母屋造、檜皮葺。<br /><br />このように多くの寺宝、什宝が失われながらも何とか寺院主要部の廃棄は免れ、神仏習合寺院の姿を今に留めています。因みに、厳島神社は造作が仏教的ということで、美しい社殿の丹塗りを全て剥がして白木にするなど(後に復旧)政府から難癖を付けられました。また、同じ藤原氏の氏寺でも藤原寺は廃寺となり、その際に鎌足公御神像は談山神社の総社本殿に移座されています。(現在は神廟拝所に鎮座)談山神社への対応が緩いのは、鎌足がご祭神ということもあり、政府筋からの忖度があったのかもしれません。と言うのも、藤原氏は明治維新まで朝廷の中枢を占めてきた貴族ですから、新政府の要職に鎌足の末裔が就いていたとするのは想像に難くありません。いずれにせよ、子院の廃絶や仏像、寺宝の流出は残念でしたが、興福寺や永久寺の有様を見るにつけ、ここまで維持されたのは奇跡的と思います。

    西宝庫(重文)
    拝殿を西側から出た所にある手水舎の先に佇みます。
    桁行3間、梁間2間、入母屋造、檜皮葺。

    このように多くの寺宝、什宝が失われながらも何とか寺院主要部の廃棄は免れ、神仏習合寺院の姿を今に留めています。因みに、厳島神社は造作が仏教的ということで、美しい社殿の丹塗りを全て剥がして白木にするなど(後に復旧)政府から難癖を付けられました。また、同じ藤原氏の氏寺でも藤原寺は廃寺となり、その際に鎌足公御神像は談山神社の総社本殿に移座されています。(現在は神廟拝所に鎮座)談山神社への対応が緩いのは、鎌足がご祭神ということもあり、政府筋からの忖度があったのかもしれません。と言うのも、藤原氏は明治維新まで朝廷の中枢を占めてきた貴族ですから、新政府の要職に鎌足の末裔が就いていたとするのは想像に難くありません。いずれにせよ、子院の廃絶や仏像、寺宝の流出は残念でしたが、興福寺や永久寺の有様を見るにつけ、ここまで維持されたのは奇跡的と思います。

  • 拝殿<br />懸造の拝殿の一部の柱は石垣に沿わせて斜めに立てられています。

    拝殿
    懸造の拝殿の一部の柱は石垣に沿わせて斜めに立てられています。

  • 透廊<br />禅寺の石庭でもないのに砂紋が引かれるのは珍しいと思われます。<br />枯山水では砂紋は水流を表現したものですが、こちらでは何を意味しているのでしょうか?<br />砂紋に気付かれる方は少ないと思われますが、こんな隠れたスペースにも清しさを希求されているのでしょう。頭が下がります。

    透廊
    禅寺の石庭でもないのに砂紋が引かれるのは珍しいと思われます。
    枯山水では砂紋は水流を表現したものですが、こちらでは何を意味しているのでしょうか?
    砂紋に気付かれる方は少ないと思われますが、こんな隠れたスペースにも清しさを希求されているのでしょう。頭が下がります。

  • この続きは、あをによし 多武峰~明日香逍遥③談山神社(十三重塔・東殿・観音堂・三天稲荷神社・権殿)でお届けします。

    この続きは、あをによし 多武峰~明日香逍遥③談山神社(十三重塔・東殿・観音堂・三天稲荷神社・権殿)でお届けします。

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