2022/11/18 - 2022/11/18
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montsaintmichelさん
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新型コロナ禍ということで日帰りの行楽さえ憚られるご時世です。しかし、そんな鬱々とした日常にはもう辟易しております。紅葉便りに誘われ、清水の舞台から飛び降りる決意で関西屈指の紅葉名所「談山神社」を訪ねてみました。奈良盆地南東の山間、大和まほろばの聖地となる桜井市多武峰(とうのみね)に鎮座する神社です。
談山神社は藤原氏の始祖 藤原鎌足の廟所であり、鎌足をご神体とする神社です。鎌倉時代に成立した寺伝によると、678(天武天皇7)年、鎌足の菩提を弔うために長男の僧 定恵が、摂津国 阿威山に葬られた遺骨の一部を当地に改葬し、その墓の上に十三重塔を造立したのが創祀とされます。つまり、元々は多武峰妙楽寺を号した寺院でした。
しかし、この神社には次のような謎がひしめいています。神社を訪ねて謎を解明していければと思います。
1.「多武峰(とうのみね)」はどうもがいても「とうのみね」とは読めません。その語源や如何に?
2.寺伝では鎌足の長男 定恵が遺骨を改装した墓の上に十三重塔を造立したとありますが、史実『藤氏家伝』では定恵は父 鎌足より4年も前に死亡しています。寺伝が史実に沿わず、定恵の創祀に拘った理由や如何に?
3.定恵も謎に満ちた人物です。実は、鎌足の子ではなく、孝徳天皇の皇胤との説があります。また、鎌足が長男 定恵に家督を継がせなかったのは何故か?最後に、その若すぎる死の真相です。
4.談山神社の社号の発祥は、中臣鎌足と中大兄皇子が蘇我入鹿の暗殺計画裏山で練ったことから、「談い山(かたらいやま)」と呼ばれたことに由来します。何故、飛鳥板蓋宮から山道で6Km、標高566mの地で密談したのか?
今回も難解な謎解きミッションにお付き合いください。
- 旅行の満足度
- 5.0
- 観光
- 5.0
- 同行者
- カップル・夫婦
- 交通手段
- 私鉄
-
公共交通機関でアクセスする場合の最寄り駅はJR桜井線桜井駅か近鉄大阪線桜井駅になります。2つの駅は南北に並行して配置されており、談山神社行きの奈良交通バスはJR桜井駅の南口から発車します。尚、バスの本数は1時間に1本ほどしかありません。行楽の季節には臨時バスになるのですが、通常の20人乗りコミュニティバスが一般的な市バスに代わるだけです。状況次第で臨時のバスも出るようですが不定期です。
当方は近鉄を利用しましたが、バス乗り継ぎの時間が5分しかなく、写真を撮る余裕がありませんでした。
この写真は、Wikipediaから引用させていただきました。
httpsja.wikipedia.orgwiki%E6%A1%9C%E4%BA%95%E9%A7%85_%28%E5%A5%88%E8%89%AF%E7%9C%8C%29 -
尾形橋
バスの終点「談山神社」のひとつ手前の「多武峰」で降車します。この橋を渡って入山するのが古来のしきたりのようですので、当方もそれに倣ってみます。この橋は神社の結界へ分け入るための入口であり、この橋を渡ることは禊を意味するようです。
神域東口を流れる寺川に架かる長さ10m程の橋です。擬宝珠に寛政3年(1791)の刻銘を持ち、1979(昭和54)年に鉄筋コンクリートで再建され、その後の2006年に現在地に移設されています。元々はもう少し下流に架けられていたそうです。
因みに、屋形橋とは屋形船のように屋根のある橋を指しますが、当初の姿は朱塗りの木橋だったそうです。 -
尾形橋
吉野へ行く旅の途中だった43歳の国文学者 本居宣長は、1772(明和9)3月にこの橋を渡り、「うるはしき橋あるを渡り、すこしゆきて惣門にいる」と菅笠日記に記しています。
時系列で鑑みると、宣長が渡った橋は刻銘のある橋以前のもののようです。 -
尾形橋
1853(嘉永6)年の暁鐘成著『西国三十三名所図会』の「談山 東惣門」の絵には屋根は描かれていません。檜皮葺(現在は銅板葺)屋根は、その後に造られたようです。
因みに、屋根のない頃は「一の橋」と呼ばれていたそうです。
橋の下を流れる寺川は、大和盆地南部を流れる大和川中流部の支流で、多武峰の桜井市鹿路(ろくろ)トンネル付近に源流を発します。橋下には小さな段滝が懸かり、涼しげな景を演出しています。橿原市や田原本町、三宅町を経て、佐保川や飛鳥川、曽我川が相次いで流入し、やがて川西町吐田付近で大和川へ合流します。
6~7世紀の寺川流域を代表する人物には小姉君(おおあねのきみ:蘇我稲目の娘、欽明天皇の皇妃)がいます。小姉君は聖徳太子の母 穴穂部間人皇后(用明天皇の皇后)や崇峻天皇を生みますが、崇峻天皇は殺害され、聖徳太子の子 山背大兄王(やましろのおおえのおう)も自刃に追いこまれました。 -
尾形橋
松尾芭蕉は、1688(貞享5)年に『笈の小文』の旅の途中に三輪から多武峰を訪れ、この橋を渡ったと伝えます。
芭蕉が臍峠(ほそとうげ)で詠んだ句を紹介します。
「雲雀より 空にやすらふ 峠かな」『笈の小文』
多武峰から吉野の龍門へ向う折、龍門岳の麓に出る臍峠で詠んだ句です。峠から見れば雲雀が下に舞っている。峠の高さを誇張して「上に」と言わずに「空に」と詠み、峠の高さを誇張した一句です。 -
尾形橋
橋の内部には素朴ながら蟇股の意匠も見られます。 -
尾形橋
この擬宝珠には寛政3年(1791)の刻銘が打たれています。
因みに、「多武峰」バス停の近くにはヤマザキデイリーショップがあり、トイレが借りられます。
この先、談山神社境内までトイレはありません。 -
談山神社 東大門(県指定有形文化財)
尾形橋を渡り、太い杉が並んで聳える脇の参道を緩やかに5分ほど登っていきます。
ほどなくすると、愁いを帯びた黄葉に抱かれた東大門がものうげな表情で現われます。 -
東大門「女人堂道」の石碑
山門の左横の道脇には「女人堂道」と彫られた石碑が半分埋まった状態で建っています。これは中世~近世まで多武峰が女人禁制だった頃の名残です。女性はこの先の参道を通らずに険しい山道を登り、伽藍が見下ろせる山の中腹に建つ「女人堂」から礼拝したそうです。明治時代初頭の神仏分離令により妙楽寺から談山神社に転身したことで、はじめて多武峰に女性も参拝することが可能になりました。
多武峯町石
1654(承応3)年に法眼により造立されました。町石とは1町毎に道程を記した石のことで、「丁石」とも言います。元々は石製の摩尼輪塔と木製の卒塔婆という組み合わせとの説もあり、この卒塔婆を石製に置き換えたのが江戸時代だそうです。
多武峰街道沿いに、等彌神社から談山神社 一の鳥居(大鳥居)を経て、聖林寺、屋形橋、談山神社へと続く古道沿いの約5.6Kmの間に52基(現存32基)の町石が建てられています。町石の高さは約150cm、幅33cmで板碑の形をしています。
52の数にも深い意味があり、因位(まよい)から仏界(さとり)に至る仏道修行を表しています。十信、十住、十行、十回向までは凡夫、十地は聖者の菩薩行、等覚(仏に等しいさとり)、妙覚(迷いを減尽した仏界)とに分けられています。悟りを開いた「妙覚」の町石が摩尼輪塔(1303年造立)の横にあります。 -
東大門 柿本人麻呂の万葉歌碑
柿本人麻呂が長皇子との遊猟の帰途、日が落ちて月が皇子の頭上に現れたのを見て詠んだ和歌の碑が建てられています。
「久方の 天ゆく月を網にさし わが大君は きぬがさにせり」
大空を渡る月を、鳥でも刺すように網でからめとり、大君はその月を大傘になさっている。因みに、長皇子は天武天皇の第7皇子です。
歌碑の揮毫は、『徳川家康』全26巻を執筆された山岡荘八です。 -
談山神社 東大門
1718(享保3)年に妙楽寺護国院の惣門として創建された、城門を彷彿とさせる武骨な本瓦葺、両袖付きの高麗門です。
城郭のような表門が寺院に用いられた数少ない貴重な遺構のひとつとされます。 -
談山神社 東大門
脇塀の垂木の墨書きから1803(享和3)年の再建と認められています。
近年では2015年に解体修理が竣工しました。 -
談山神社 東大門
軒丸瓦や鬼瓦には談山神社の社紋「上り藤」を刻みます。これは「日本史上屈指の名門家系として栄えた藤原氏の後裔」であることを示す家紋です。
藤の紋には「上り藤」と「下り藤」がありますが、春日大社は「下り藤」です。
また、飾り瓦には天に昇るかのような波頭があしらわれています。 -
談山神社 東大門 下乗石
山門を潜った正面突き当りに「下乗石」が置かれ、ここで馬や駕篭から降りることを伝えています。
尊円法親王(伏見天皇の第6皇子で御家流書道の始祖)の揮毫です。
書家としては青蓮院流の祖ともされ、4度天台座主にも就かれました。
書家の榊莫山著『野の書』では「その雄勁(ゆうけい)な文字の表情が、いまはかえってわびしい」と格式を誇った妙楽寺の栄華を偲ばれています。 -
談山神社 東大門
山門を潜った先に苔生した広いスペースが現れます。このように石垣が行く手を阻む構造は、近世城郭の枡形を彷彿とさせます。山門を潜った後、すぐに参道を屈曲させる寺院は珍しいと思います。何故このような参道になったかと言えば、かつて多武峰は宗派の違いで同じ藤原氏の氏寺 興福寺と熾烈な武力抗争に明け暮れ、また、室町時代には松永久秀をはじめ大和国外の勢力から何度も攻撃を受けたからです。外敵の襲来に備え、こうした構造にせざるを得なかったのでしょう。 -
参道
参道脇にはかつて妙楽寺の子院が立ち並んでいたそうですが、今は苔生した石垣がそれを偲ばせるだけです。 -
参道 宝篋印塔
参道からかなり距離のある斜面にポツンと佇みます。
宝篋印塔の名は鎌倉時代から使われており、塔の中に宝篋印陀羅尼経を納めることが由来とされます。尚、法華経や舎利を納めたものもあります。後に供養塔や墓碑塔として建てられるようになりました。
元々はインドのアショカ王の建てた八万四千の塔(銅・銀・鉄製の方形の小塔)の故事に倣った中国の呉越王銭弘俶が作った金銅製の塔から派生したものです。内部には、宝篋印陀羅尼と言う息災安穏長寿のため呪文を納め、諸国に配ったのが始まりとされます。 -
摩尼輪塔(まにりんとう)重文
花崗岩製八角塔身の上に勾配のゆるやかな方形の笠石を置き、その頂上に露盤・伏鉢・請花・宝珠(摩尼)が1石で彫成されています。八角大石柱笠塔婆の塔身には薬研彫で「妙覚究竟摩尼輪」と「乾元二年(1303)癸卯五月日立之」の刻銘があり、塔身上部の円盤には密教の胎蔵界「大日如来」の梵字『アーク』が刻まれています。
摩尼とは宝珠のことで、他に類を見ない談山神社の独自の石塔です。高さ315cm、径76cm。
菩薩が無事に52級の修行を終え、悟りを得て如来になった姿を表しています。確かに、塔身に「妙覚」の文字が彫られていることからも、妙覚究竟、如来の域に達したことが窺えます。左隣に佇む町石と同じくゴールを示しています。 -
摩尼輪塔
源順(みなもと したごう)の建立と伝えられています。
源順は、平安時代中期の貴族です。三十六歌仙のひとりに数えられ、梨壺の和歌所寄人5人のひとりとなり、『万葉集』の訓点作業と『後撰集』の撰集に携わりました。源順の博学と才智を物語るのが、我が国最古の分類体辞典『和名類聚抄』の編纂です。また、『竹取物語』や『宇津保物語』の作者説の一人にも挙げられています。
「水の面に 照る月なみを 数ふれば 今宵ぞ秋の も中なりける」
(『拾遺集』より)
水面に映った美しい月景色をみて、「すでに秋であったな」と気が付くという名句です。
また、『石山寺縁起絵巻』には、源順による『万葉集』の訓点作業の説話があります。広幡御息所(源計子)が村上天皇に勧めて『万葉集』の訓読事業を行うことになり、それを命じられたのが源順でした。源順が訓読に悩んだ歌が何なのか具体的には表現されていませんが、『万葉集』巻12の「国遠直不相夢谷吾尓所見社相日左右二」という歌のようです。訓読は「国遠み 直(ただ)には逢はず 夢にだに 我に見えこそ 逢はむ日…」ですが、最後の「左右二」がどうしても読めません。悩んだ源順は仏の助けを借りようと石山寺への参籠を思い立ちます。
その帰路、琵琶湖湖畔にて馬で米俵を運ぶ一行とすれ違います。その時、リーダーらしき翁が、馬の背の俵を左右の手で押し直しながら、「おのがどち、まてよりつけよ」(皆の者、両手で荷をおさえるんだ)と言いました。それを聞いた源順は、「左右=まて」という訓を思い付きました。例の歌の訓読は「左右」を「まて」と訓ずると、「国遠み 直には逢はず 夢にだに 我に見えこそ 逢はむ日までに」となり意味が通るようになった、というお話です。 -
摩尼輪塔
文字の底をV字型にさらえた秀逸な薬研彫りです。梵字の下にある「乾元二年」の銘は青蓮院流です。
書家の榊莫山著『『続 書のこころ』には「太陽の塔の先祖」「この円盤のモダンアートは、まさしく鎌倉の女王(クイーン)の風姿をただよわせて暖かい」と高く評価されています。 -
峯の塔(石造十三重塔)
参道を左に折れ、ホテル駐車場を抜けて左手にある小高い丘を登りきると、木々に覆われた仄暗い中に石塔が聳えています。「峯の塔」とも呼ばれるこの十三重塔は、時の権勢を誇った藤原不比等を弔う供養塔です。不比等の墓とする伝承もありますが、石塔そのものは鎌倉時代後期の特徴を持っており、供養塔と考えられています。 -
峯の塔
説明看板には、「淡海公十三重塔。藤原鎌足公、二男 不比等(淡海)を祀る十三重の石塔で、基壇より九輪の頂まで、約4m、台石の高さ約90cm、台石に永仁6年(1298年)大工、井行光の刻銘があります。」と記されています。
基礎2面に「永仁六年(1298)戊戌三、勧進六八願衆」「大工 井行元」の刻銘があり、弥陀の四十八願に因む六八願衆という阿弥陀信仰の結衆が造立したことが判ります。井行元は、伊派石大工のひとりです。
伊派石大工は中国 寧波から東大寺大仏殿再興のために来朝した「伊行末」の子孫や末裔です。「井」「伊」「猪」の姓を名乗り、大和を中心に多くの優れた石造物を残しています。 -
峯の塔
こうして背面から見ると、かなり傷んでいることが判ります。
不比等は720(養老4)年に62歳で死去しましたが、墓所の正確な所在地は不明です。諸説紛々であり、滋賀県愛荘町愛知川の八幡神社境内にある不比等の墓碑「淡海公御墓」との説があります。諡の「淡海(たんかい)」は「あわうみ」→「おうみ」で琵琶湖を指すとも考えられ、この地と何らかの関係があったとも考えられます。また、中大兄皇子(天智天皇)が近江滋賀郡に大津宮を遷していることにも繋がりがあるのかもしれません。
また、奈良市内北部の平城山周辺には聖武天皇や光明皇后陵をはじめ元明天皇、元正天皇陵に並んで「藤原不比等顕彰碑」があります。
その他、木津川市と奈良市の境の標高112mの丘陵緩傾斜面に築造された上円下方墳(石のカラト古墳)をそれと比定する説もあります。 -
燈籠ヶ辻
苔生して整然と並ぶ石燈籠群と紅葉のコラボは圧巻です。
小高い川岸には紀州徳川家が奉納した石燈龍が14基立ち並びます。徳川家康が眠る日光東照宮は談山神社の本殿を手本にして建てており、何かと徳川家とは縁が深いようです。
妙楽寺の沿革をご紹介します。
678年、藤原鎌足の長男の僧 定恵が唐から帰国後、摂津に埋葬されていた父の遺骨の一部を大和に改葬し、十三重塔を造立したのが発祥とされます。
680年には講堂が建立され多武峰妙楽寺と号しました。
701(大宝元)年には、鎌足神像を安置する祠堂(聖霊院)が建立され、これが本尊となります。
本尊は談山権現、談山明神とも呼ばれ、まさに神仏習合の寺院でした。
興福寺同様に藤原氏ゆかりの寺院であり、藤原氏の興隆と共に当寺も繁栄した一方、平安時代には天台宗 延暦寺の末寺になり、宗派の違いから藤原氏の氏寺である法相宗 興福寺と平安時代後期~室町時代にかけて寺領を巡る争論を繰り広げました。 -
燈籠ヶ辻
献燈祭がお盆(8月14日、夕刻)に行われるそうです。拝殿の吊燈籠や境内の石燈籠に一斉に火が灯され、祖霊を慰霊するそうです。この燈籠ヶ辻も幽玄な空間に変身することでしょう。
往時は妙楽寺、興福寺ともに衆徒と呼ばれる僧兵を擁しており、話し合いだけでは解決しないことも多々ありました。それ故、幾度も興福寺の襲撃を含め、焼き討ちに遭い、その都度復興を遂げてきました。妙楽寺に関わる大きな騒乱を挙げると、1108(天仁2)年と1173(承安3)年に大きな焼き討ちに遭い、十三重塔をはじめとする多くの堂宇が焼失しました。その後、十三重塔は1185(文治元)年に再興されてます。因みに、現在の十三重塔は室町時代の1532(享禄5)年に再興されたもので、世界で唯一現存する木造十三重塔です。 -
燈籠ヶ辻 後醍醐天皇寄進の石燈籠(重文)
本殿に至る参道の脇に木製の保護柵に囲まれた花崗岩製六角型石燈籠があります。高さ267.5cm、各部に鎌倉時代後期の特色が見られ、円柱形の竿の中節には南北朝動乱の始まった年である「元徳三年(1331年)辛未」造立、その下に「二月日願主敬白/大工利弘」の陰刻銘があります。竿は円柱で各節は穏やかな突帯をなし、上下の節は2条、中節は3条とし、中節の四方には梵鐘の撞座のような蓮華文を飾ります。火袋の中区の1面は火口、その対向面には外周縁を複弁蓮花文で装飾を施した円窓を設けます。残る4面には弁数の多い豪奢な蓮華座レリーフ上に月輪を陰刻し、月輪内いっぱいに端正な刷毛書体で四天王(北:多聞天、東:持国天、南:増長天、西:広目天)の種子を薬研彫しています。
尚、笠の一端の蕨手が欠けていますが、火袋の下、格狭間にも装飾が施され、この時代の石燈籠の見本とされる作品です。 -
燈籠ヶ辻 後醍醐天皇寄進の石燈籠
鎌倉幕府を滅ぼしたものの、足利尊氏に追い詰められて奈良の吉野に逃避し、そこで南朝を立ち上げた後醍醐天皇が寄進したと伝わります。元々は妙楽寺の何処か他所にあったものと考えられています。妙楽寺と後醍醐天皇との繋がりは、南北朝の動乱で南朝方の最前線として高市郡の国民であった越智氏と共に北朝 室町幕府方と激しい抗争を繰り広げたことが挙げられます。 -
燈籠ヶ辻
南北朝時代以降は3度に亘り多武峰合戦の舞台と化しました。最初の大きな合戦は1438(永享10)年に起こり、大和に戦国をもたらした大和永享の乱に巻き込まれました。この乱は元々興福寺大乗院衆徒の豊田氏と興福寺一乗院衆徒の井戸氏の対立が発端でした。その後、豊田氏に越智氏が、井戸氏に筒井氏が加勢し、大和全土を巻き込む大戦乱にエスカレートしました。幕府寄りの筒井氏が反幕府の越智氏に大敗したのを契機に将軍 足利義教が介入し、越智氏が当寺を拠点としたことから幕府の標的となり全山焼き討ちに遭いました。
その後も1506(永正3)年には管領細川氏被官の赤沢朝経による大和侵攻に際し、越智氏、十市氏、箸尾氏らの大和国人一揆の拠点となったことから、赤沢軍に焼き討ちされています。更に、1563(永禄6)年には松永久秀の侵攻に遭いますが、これは撃退して将軍 足利義輝の仲介で和睦してます。
何故、妙楽寺が繰り返し大和南部勢力の拠点となったかと言えば、外部からの入口が2つしかない要害の地だったからです。 -
燈籠ヶ辻
逞しく戦国を生き抜いてきた妙楽寺でしたが、1585(天正13)年、大和の支配者となった郡山城 豊臣秀長により武装解除された上、談山権現を郡山へ遷座するよう命じられました。これは、秀長が大職冠 藤原鎌足を郡山の鎮守としたためです。これにより、一旦は当地の堂宇は破却されましたが、多武峰衆徒から帰山運動が巻き起こり、1590(天正18)年に秀長が病に伏せると、この病が大職冠尊像の遷座による祟りと騒がれるに及び、豊臣秀吉の許しを請うて再び現在地に戻されました。
その後、徳川家康により堂宇が造替され、江戸時代は朱印領3000石の大寺として明治維新を迎えました。神仏分離令が出されると、神社になるか寺院として留まるかの選択を迫られましたが、神社としての実体は皆無でしたが最終的に「談山神社」に改称して今日に至ります。数多くの子院は廃絶の憂き目を見ましたが、主要な堂宇はそのままの姿で転用されることになりました。元々、藤原鎌足を本尊として祀る寺院であったことが幸いし、神仏分離では全山神社になるという思い切った変わり身が可能だったのでしょう。
・聖霊院→本殿
・護国院→拝殿
・十三重塔→神廟
・講堂→神廟拝所
・常行三昧堂→権殿
・護摩堂→祓殿 -
燈籠ヶ辻
神社の周辺には「多武峰城砦群」と総称される8つの中世城郭遺構が存在します。神社背後の談山山上を主郭とする「談山城」を中心に、東方には「飯盛塚城」、西方には「念誦崛城」と「岡道城」、南方には「冬野城」や「龍在城」、北方には「御破裂山城」や「下居城」が山陵に配置されています。平安~戦国時代における度重なる抗争を通じ、徐々に多武峰周辺の要衝は城郭化され、1506年頃には基本的な縄張りが造られていたそうです。現在では想像すら難しいのですが、長い間、ここ多武峰は抗争に巻き込まれ、伽藍の焼失と再建を随時繰り返す、まさに諸行無常を体現する非情な運命を背負っていたのです。
この続きは、あをによし 多武峰~明日香逍遥②談山神社(楼門・拝殿・本殿・東西透廊)でお届けします。
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