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奈良県高市郡にある明日香村は、日本を代表する観光地と言っても過言ではありません。かつて都が置かれた地でもあり、聖徳太子など歴史上の人物が「日本の形」を築き上げた飛鳥時代の建造物が残存しています。飛鳥時代は僅か120年ほどで終焉しましたが、その短期間に様々な政権を巡る人間模様や抗争などがこの小さな地で繰り広げられ、様々なドラマを生みました。<br />明日香村の魅力を一言で表せば「自然豊かな里山の田園風景と古代歴史ロマンとの融合」に尽きます。ここでは飛鳥時代の史跡やまほろばの原風景を肌で感じることができます。長閑な原風景の地中にはかつての都の遺構が眠っており、ここが日本の歴史を揺るがした大事件の舞台だったという不思議な感覚。それが明日香の魅力ではないでしょうか?<br />今回は藤原鎌足が蘇我入鹿の怨霊から逃れようとしたと伝承される「茂古森」に建てられた気都倭既(きつわき)神社と鎌足の関係について深堀します。また、石舞台にまつわる様々な謎、酒船石遺跡の用途の謎にも挑みます。更には、小京都を彷彿とさせる情緒ある虫籠窓を連ねた古民家が立ち並ぶエリアも紹介いたします。

あをによし 多武峰~明日香逍遥⑦明日香村(気都倭既神社・石舞台・酒船石/亀形石造物遺跡)

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2022/11/18 - 2022/11/18

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montsaintmichel

montsaintmichelさん

奈良県高市郡にある明日香村は、日本を代表する観光地と言っても過言ではありません。かつて都が置かれた地でもあり、聖徳太子など歴史上の人物が「日本の形」を築き上げた飛鳥時代の建造物が残存しています。飛鳥時代は僅か120年ほどで終焉しましたが、その短期間に様々な政権を巡る人間模様や抗争などがこの小さな地で繰り広げられ、様々なドラマを生みました。
明日香村の魅力を一言で表せば「自然豊かな里山の田園風景と古代歴史ロマンとの融合」に尽きます。ここでは飛鳥時代の史跡やまほろばの原風景を肌で感じることができます。長閑な原風景の地中にはかつての都の遺構が眠っており、ここが日本の歴史を揺るがした大事件の舞台だったという不思議な感覚。それが明日香の魅力ではないでしょうか?
今回は藤原鎌足が蘇我入鹿の怨霊から逃れようとしたと伝承される「茂古森」に建てられた気都倭既(きつわき)神社と鎌足の関係について深堀します。また、石舞台にまつわる様々な謎、酒船石遺跡の用途の謎にも挑みます。更には、小京都を彷彿とさせる情緒ある虫籠窓を連ねた古民家が立ち並ぶエリアも紹介いたします。

旅行の満足度
5.0
観光
5.0
同行者
カップル・夫婦
交通手段
高速・路線バス
  • 明日香・石舞台ハイキングコース<br />マップに西口と書かれた所が談山神社の西大門跡です。<br />そこから黄色にハイライトした県道155号線に沿って赤色のハイキングコースを石舞台方面へ進みます。

    明日香・石舞台ハイキングコース
    マップに西口と書かれた所が談山神社の西大門跡です。
    そこから黄色にハイライトした県道155号線に沿って赤色のハイキングコースを石舞台方面へ進みます。

  • 金剛山と葛城山<br />念誦崛から明日香・石舞台ハイキングコースの分岐点まで戻り、そこから明日香へ向けて再スタートです。<br />道を下ってくといきなり県道155号線と合流し戸惑いますが、ハイキングコースは県道を横断した反対側に続いています。青い小さな看板が目印です。<br />ハイキングコースは九十九折りの県道を真っ直ぐに降りてショートカットしている感じです。ですから3度も横断歩道のない県道を横断することになります。<br />尚、この画像はハイキングコースを外れ、県道から眺めたものです。左のなだらかな山が金剛山、中央が葛城山です。

    金剛山と葛城山
    念誦崛から明日香・石舞台ハイキングコースの分岐点まで戻り、そこから明日香へ向けて再スタートです。
    道を下ってくといきなり県道155号線と合流し戸惑いますが、ハイキングコースは県道を横断した反対側に続いています。青い小さな看板が目印です。
    ハイキングコースは九十九折りの県道を真っ直ぐに降りてショートカットしている感じです。ですから3度も横断歩道のない県道を横断することになります。
    尚、この画像はハイキングコースを外れ、県道から眺めたものです。左のなだらかな山が金剛山、中央が葛城山です。

  • 二上山<br />奥の稜線の右端の2つのピークが特徴の二上山です。ハイキングコースではこのような展望は望めません。<br />「飛鳥」と「明日香」の2つの漢字がありますが、実は『記紀』や『万葉集』でも両者が用いられています。一説には、「飛鳥(とぶとり)の明日香」としてこの地の枕詞であった「飛鳥」が、後に「あすか」と読まれるようになったとも伝えます。村名では長らく「飛鳥」が用いられてきましたが、1956年に高市村・阪合村・飛鳥村が合併した際、歴史に立ち返って「明日香村」が誕生しました。

    二上山
    奥の稜線の右端の2つのピークが特徴の二上山です。ハイキングコースではこのような展望は望めません。
    「飛鳥」と「明日香」の2つの漢字がありますが、実は『記紀』や『万葉集』でも両者が用いられています。一説には、「飛鳥(とぶとり)の明日香」としてこの地の枕詞であった「飛鳥」が、後に「あすか」と読まれるようになったとも伝えます。村名では長らく「飛鳥」が用いられてきましたが、1956年に高市村・阪合村・飛鳥村が合併した際、歴史に立ち返って「明日香村」が誕生しました。

  • 明日香・石舞台ハイキングコース<br />県道からハイキングコースへ分け入り、このように結構な勾配で下って行きます。<br />足や膝が心配な方は途中まで県道を下る方がらくちんかもしれません。<br />ただし、3回目に県道を横断する箇所を見逃すと、二度とハイキングコースへは戻れませんので要注意です!

    明日香・石舞台ハイキングコース
    県道からハイキングコースへ分け入り、このように結構な勾配で下って行きます。
    足や膝が心配な方は途中まで県道を下る方がらくちんかもしれません。
    ただし、3回目に県道を横断する箇所を見逃すと、二度とハイキングコースへは戻れませんので要注意です!

  • 気都倭既(きつわき)神社<br />3回目の県道横断から暫く進むと、県道の下に設けられたトンネルを潜ります。その先に佇むのが明日香村上(かむら)集落に佇む気都倭既神社です。<br />上集落は石舞台の南東に位置し、飛鳥川と合流する冬野川(古称 細川)の起点でもあります。その清流の傍に神寂びた気都倭既神社が鎮まります。社が静まる鬱蒼と茂る森は、「茂古森(もうこのもり)」と呼ばれ、乙巳の変にまつわる伝承を秘めています。<br />『延喜式神名帳』にある「氣都倭既神社(大和国・高市郡)」に比定される式内社(小社)で、近代社格では村社とされます。ご祭神には気津別命(本殿:つわけのみこと)と尾曽・細川両大字の神社に各々祀られてい た天津児屋根命(摂社 春日神社)2柱を明治時代末期に合祀した3柱を祀ります。<br />ご利益は、厄災除け、一族・子孫繁栄、諸願成就。

    気都倭既(きつわき)神社
    3回目の県道横断から暫く進むと、県道の下に設けられたトンネルを潜ります。その先に佇むのが明日香村上(かむら)集落に佇む気都倭既神社です。
    上集落は石舞台の南東に位置し、飛鳥川と合流する冬野川(古称 細川)の起点でもあります。その清流の傍に神寂びた気都倭既神社が鎮まります。社が静まる鬱蒼と茂る森は、「茂古森(もうこのもり)」と呼ばれ、乙巳の変にまつわる伝承を秘めています。
    『延喜式神名帳』にある「氣都倭既神社(大和国・高市郡)」に比定される式内社(小社)で、近代社格では村社とされます。ご祭神には気津別命(本殿:つわけのみこと)と尾曽・細川両大字の神社に各々祀られてい た天津児屋根命(摂社 春日神社)2柱を明治時代末期に合祀した3柱を祀ります。
    ご利益は、厄災除け、一族・子孫繁栄、諸願成就。

  • 気都倭既神社 手水舎・拝殿<br />手水舎に社号標が下げられているのはユニークです。<br />創建・由緒は不詳です。気津別命は、『新撰姓氏録』の左京神別の真神田曽祢連(まかみたのそねのむらじ)条に神饒速日命の6世孫、伊香我色乎命の子、気津別命の後裔であると記されています。<br />因みに真神田曽祢連は、『万葉集』に「明日香の真神原」とある真神原を本拠にした飛鳥の豪族とされます。これが正しければ、気都倭既神社は物部氏系の真神田宿禰の祖神を祀った社と言えます。神仏合戦で物部氏を叩いたのが政敵の蘇我氏であり、その末裔の蘇我入鹿に恨まれ、その怨念から逃れようと藤原鎌足が頼ったのが物部系の当社と言うことになります。物部氏は蘇我氏によって滅ぼされましたから、ストーリーとしての破綻は見られません。<br />また、摂社 春日神社があるのも、藤原氏の総氏神 春日大社に代表されるように、物部系の神とされる経津主命が密かに春日神社に組み込まれていると考えるのは早計でしょうか?

    気都倭既神社 手水舎・拝殿
    手水舎に社号標が下げられているのはユニークです。
    創建・由緒は不詳です。気津別命は、『新撰姓氏録』の左京神別の真神田曽祢連(まかみたのそねのむらじ)条に神饒速日命の6世孫、伊香我色乎命の子、気津別命の後裔であると記されています。
    因みに真神田曽祢連は、『万葉集』に「明日香の真神原」とある真神原を本拠にした飛鳥の豪族とされます。これが正しければ、気都倭既神社は物部氏系の真神田宿禰の祖神を祀った社と言えます。神仏合戦で物部氏を叩いたのが政敵の蘇我氏であり、その末裔の蘇我入鹿に恨まれ、その怨念から逃れようと藤原鎌足が頼ったのが物部系の当社と言うことになります。物部氏は蘇我氏によって滅ぼされましたから、ストーリーとしての破綻は見られません。
    また、摂社 春日神社があるのも、藤原氏の総氏神 春日大社に代表されるように、物部系の神とされる経津主命が密かに春日神社に組み込まれていると考えるのは早計でしょうか?

  • 気都倭既神社 本殿・春日神社<br />境内の西端に桟瓦葺・平入切妻造の廃墟のような拝殿が建ち、その拝殿と対峙して西向きに鳥居が建っています。その奥に2段構成の石垣が積まれ、上段の石垣上に玉垣に囲まれた銅板葺、一間社春日造の2宇の社が建っています。左側(北側)の本殿の方がやや大振りです。

    気都倭既神社 本殿・春日神社
    境内の西端に桟瓦葺・平入切妻造の廃墟のような拝殿が建ち、その拝殿と対峙して西向きに鳥居が建っています。その奥に2段構成の石垣が積まれ、上段の石垣上に玉垣に囲まれた銅板葺、一間社春日造の2宇の社が建っています。左側(北側)の本殿の方がやや大振りです。

  • 気都倭既神社 本殿<br />ご祭神:気津別命

    気都倭既神社 本殿
    ご祭神:気津別命

  • 気都倭既神社 本殿<br />蟇股には「松と竹」と思しき彫刻が配されています。<br />枠の部位が松の幹で構成されており、年輪も効果的な意匠となっています。

    気都倭既神社 本殿
    蟇股には「松と竹」と思しき彫刻が配されています。
    枠の部位が松の幹で構成されており、年輪も効果的な意匠となっています。

  • 気都倭既神社 春日神社<br />ご祭神:天児屋根命(あめのこやねのみこと:中臣連等の祖神)<br />尾曽、細川に各々鎮座していた天児屋根命2柱を明治時代末期に合祀。<br />

    気都倭既神社 春日神社
    ご祭神:天児屋根命(あめのこやねのみこと:中臣連等の祖神)
    尾曽、細川に各々鎮座していた天児屋根命2柱を明治時代末期に合祀。

  • 気都倭既神社 <br />石垣の右側(南側)に「金毘羅大権現」と刻まれた石碑が建ち、その手前には茸のような形をした原石で設えた石燈籠があります。勿論、火袋も設けられています。<br />右端は手水鉢のようでもあります。

    気都倭既神社
    石垣の右側(南側)に「金毘羅大権現」と刻まれた石碑が建ち、その手前には茸のような形をした原石で設えた石燈籠があります。勿論、火袋も設けられています。
    右端は手水鉢のようでもあります。

  • 気都倭既神社 腰掛け石<br />手水舎の先には苔生した花崗岩の「腰掛け石」があります。 蘇我入鹿を殺害した中臣鎌足は、飛鳥板蓋宮で刎ねた入鹿の首に追われてここまで逃げてきました。その際に鎌足が「もう来ぬだろう」と呟きながら腰掛けた石と伝えます。社の鎮座する「茂古森」はこの逸話から名付けられました。 茂古森には藤蔦が不気味に這い伝い、あたかも入鹿の怨念が今も彷徨っているかのようです。<br />また、この話のバリエーションとして次のような逸話もあります。<br />蘇我入鹿と中臣鎌足が喧嘩をした折、入鹿はここまで逃げてきた。そして大きな石に腰掛け、「ここまできたら鎌足も、もう追いかけては来ないだろう」と言って休んだ。こちらは入鹿と鎌足の立場が逆転した逸話です。<br />別の伝承もあります。『飛鳥古跡考』には「もうこの森といふ。守屋、太子を此森迄追たりしに、此所にてやみぬ。されはしかいふと申伝ふ。然らは古き書物に最不来とみゆ。」とあります。こちらは、入鹿と鎌足が、物部守屋と聖徳太子に置き換わっています。しかし、ご祭神の気津別命は物部氏の祖神ですから、聖徳太子は「もう来ぬだろう」などと悠長なことを言っている場合ではありません。敵の本拠地に飛び込んで来てしまったようなものですから…。

    気都倭既神社 腰掛け石
    手水舎の先には苔生した花崗岩の「腰掛け石」があります。 蘇我入鹿を殺害した中臣鎌足は、飛鳥板蓋宮で刎ねた入鹿の首に追われてここまで逃げてきました。その際に鎌足が「もう来ぬだろう」と呟きながら腰掛けた石と伝えます。社の鎮座する「茂古森」はこの逸話から名付けられました。 茂古森には藤蔦が不気味に這い伝い、あたかも入鹿の怨念が今も彷徨っているかのようです。
    また、この話のバリエーションとして次のような逸話もあります。
    蘇我入鹿と中臣鎌足が喧嘩をした折、入鹿はここまで逃げてきた。そして大きな石に腰掛け、「ここまできたら鎌足も、もう追いかけては来ないだろう」と言って休んだ。こちらは入鹿と鎌足の立場が逆転した逸話です。
    別の伝承もあります。『飛鳥古跡考』には「もうこの森といふ。守屋、太子を此森迄追たりしに、此所にてやみぬ。されはしかいふと申伝ふ。然らは古き書物に最不来とみゆ。」とあります。こちらは、入鹿と鎌足が、物部守屋と聖徳太子に置き換わっています。しかし、ご祭神の気津別命は物部氏の祖神ですから、聖徳太子は「もう来ぬだろう」などと悠長なことを言っている場合ではありません。敵の本拠地に飛び込んで来てしまったようなものですから…。

  • 気都倭既神社 石仏<br />樹木の陰に身を隠すかのように佇む石仏です。<br />気津別命は冬野川の守護神であり、かつ地域の豊作の守護神です。<br />「気都(けつ)」は、豊受の「うけ」やケツミコの「ケツ」と同義で、食物を意味し、天照大神や天皇の食事を司る御饌津神(みけつ)に通じます。<br />豊作のためには水が不可欠であり、それ故に冬野川の守り神となっています。

    気都倭既神社 石仏
    樹木の陰に身を隠すかのように佇む石仏です。
    気津別命は冬野川の守護神であり、かつ地域の豊作の守護神です。
    「気都(けつ)」は、豊受の「うけ」やケツミコの「ケツ」と同義で、食物を意味し、天照大神や天皇の食事を司る御饌津神(みけつ)に通じます。
    豊作のためには水が不可欠であり、それ故に冬野川の守り神となっています。

  • 気都倭既神社 磨崖石仏<br />神社の石段脇には、石龕のように小祠に納められた磨崖石仏があります。<br />石組下の大きな岩に小さな屋根付きの石龕を組み、身の丈30~40cm程の小さな地蔵菩薩立像を大岩に刻んでいます。手前には苔生した手水鉢もあります。<br />左端に見えるのは梵字碑です。

    気都倭既神社 磨崖石仏
    神社の石段脇には、石龕のように小祠に納められた磨崖石仏があります。
    石組下の大きな岩に小さな屋根付きの石龕を組み、身の丈30~40cm程の小さな地蔵菩薩立像を大岩に刻んでいます。手前には苔生した手水鉢もあります。
    左端に見えるのは梵字碑です。

  • 気都倭既神社 拝殿<br />こちらが拝殿に通じる石段です。<br />ただし、拝殿の格子戸から本殿が透けて見られるだけで、通り抜けはできません。<br />手前の左端に建てられているのが「西多武峰街道改修碑」です。明治31年と刻まれています。

    気都倭既神社 拝殿
    こちらが拝殿に通じる石段です。
    ただし、拝殿の格子戸から本殿が透けて見られるだけで、通り抜けはできません。
    手前の左端に建てられているのが「西多武峰街道改修碑」です。明治31年と刻まれています。

  • 気都倭既神社 <br />まさしく「茂古森」に相応しくおどろおどろしい情景です。<br />中臣鎌足が蘇我入鹿の怨霊に悩まされ続けたのは、犯した罪に対する後ろめたさが計り知れないものだったことを示唆するものと思われます。鎌足の次男 不比等が編纂したとされる『日本書紀』では「極悪 蘇我一族」などとこき下ろしていますが、往時は中大兄皇子・中臣鎌足派は保守反動派とされ、逆に蘇我氏の方が改革派であり、保守反動派が改革派が推し進めてきた律令制度などを道半ばで横取りしたというのが近年の通説であり、入鹿の怨念はその証左と言えます。

    気都倭既神社
    まさしく「茂古森」に相応しくおどろおどろしい情景です。
    中臣鎌足が蘇我入鹿の怨霊に悩まされ続けたのは、犯した罪に対する後ろめたさが計り知れないものだったことを示唆するものと思われます。鎌足の次男 不比等が編纂したとされる『日本書紀』では「極悪 蘇我一族」などとこき下ろしていますが、往時は中大兄皇子・中臣鎌足派は保守反動派とされ、逆に蘇我氏の方が改革派であり、保守反動派が改革派が推し進めてきた律令制度などを道半ばで横取りしたというのが近年の通説であり、入鹿の怨念はその証左と言えます。

  • 気都倭既神社 <br />この細川の谷奥には権力闘争に敗れた者の妄執が吹き溜まるのかもしれません。<br />乙巳の変の一部始終を見届けたかのような藤の古木がとぐろを巻いています。支えとなる木さえも締め付けて枯渇させたのでしょう。茂古森の藤蔦は、入鹿の怨念を象徴するかの如く、不気味にのた打ち回っているかのようです。

    気都倭既神社
    この細川の谷奥には権力闘争に敗れた者の妄執が吹き溜まるのかもしれません。
    乙巳の変の一部始終を見届けたかのような藤の古木がとぐろを巻いています。支えとなる木さえも締め付けて枯渇させたのでしょう。茂古森の藤蔦は、入鹿の怨念を象徴するかの如く、不気味にのた打ち回っているかのようです。

  • 上集落<br />気都倭既神社を過ぎるとなだらかな旧道となり、田園風景が広がります。<br />明日香の原風景にはススキがよく似合います。<br />ここからは冬野川に沿って、上・細川集落を通って下って行きます。<br />次の目的地の「石舞台古墳」までは2.3km、徒歩25分程です。

    上集落
    気都倭既神社を過ぎるとなだらかな旧道となり、田園風景が広がります。
    明日香の原風景にはススキがよく似合います。
    ここからは冬野川に沿って、上・細川集落を通って下って行きます。
    次の目的地の「石舞台古墳」までは2.3km、徒歩25分程です。

  • 上集落<br />棚田は飛鳥の原風景を象徴するもののひとつです。<br />少しでも棚田の雰囲気が出せるようにと道を外れて小高い所まで登ってきましたが、いまひとつです。<br />遥か先には金剛山、葛城山、二上山が霞んでいます。

    上集落
    棚田は飛鳥の原風景を象徴するもののひとつです。
    少しでも棚田の雰囲気が出せるようにと道を外れて小高い所まで登ってきましたが、いまひとつです。
    遥か先には金剛山、葛城山、二上山が霞んでいます。

  • 細川集落 冬野川<br />背後は多武峰です。<br />冬野川は古くは細川と呼ばれ、多武峰に雨が降るとたちまち荒れ狂う暴れ川だったそうです。<br />『万葉集』が引く「柿本朝臣人麿之歌集」には次の一首があります。<br />「ふさ手折り 多武の山霧 しげみかも 細川の瀬に 波の騒ける」<br />多武峰の山霧が深くなり、雨が降りはじめたのだろうか。細川の瀬音が高くなり、波が立っている。

    細川集落 冬野川
    背後は多武峰です。
    冬野川は古くは細川と呼ばれ、多武峰に雨が降るとたちまち荒れ狂う暴れ川だったそうです。
    『万葉集』が引く「柿本朝臣人麿之歌集」には次の一首があります。
    「ふさ手折り 多武の山霧 しげみかも 細川の瀬に 波の騒ける」
    多武峰の山霧が深くなり、雨が降りはじめたのだろうか。細川の瀬音が高くなり、波が立っている。

  • 細川集落 <br />「古代ロマンの里」という枕詞と共に語られる飛鳥は、かつては日本の都だったとは思えないほどのどかな棚田風景が一面に広がっています。<br />三方を山や丘に囲まれたこの日本の原風景は、明日香村が人々を魅了する理由のひとつとなっています。

    細川集落
    「古代ロマンの里」という枕詞と共に語られる飛鳥は、かつては日本の都だったとは思えないほどのどかな棚田風景が一面に広がっています。
    三方を山や丘に囲まれたこの日本の原風景は、明日香村が人々を魅了する理由のひとつとなっています。

  • 石舞台<br />7世紀初頭の古墳時代後期の築造で、方形古墳は東西約55m、南北約52mあり、その規模は日本最大級を誇ります。また、墳丘の盛土が全く残っておらず、巨大な両袖式の横穴式石室が露呈する独特のフォルムです。巨石30個を積み上げた石室の総重量は2300tと推定され、古墳最大の巨岩とされる天井石は南側が約77t、北側が約64tもあります。これらの巨石は古墳の傍らを流れる冬野川の上流約3kmにある多武峰の麓から運ばれてきたそうです。<br />石舞台は入場して石室などを見学できますが、時間がない場合は東面や高台から眺めることができます。

    石舞台
    7世紀初頭の古墳時代後期の築造で、方形古墳は東西約55m、南北約52mあり、その規模は日本最大級を誇ります。また、墳丘の盛土が全く残っておらず、巨大な両袖式の横穴式石室が露呈する独特のフォルムです。巨石30個を積み上げた石室の総重量は2300tと推定され、古墳最大の巨岩とされる天井石は南側が約77t、北側が約64tもあります。これらの巨石は古墳の傍らを流れる冬野川の上流約3kmにある多武峰の麓から運ばれてきたそうです。
    石舞台は入場して石室などを見学できますが、時間がない場合は東面や高台から眺めることができます。

  • 石舞台<br />被葬者は、盗掘されているため明らかではありませんが、7世紀初頭の権力者で、蘇我入鹿の祖父 蘇我馬子との説が有力です。その理由は、この一帯は島ノ庄と呼ばれる蘇我氏の所有地であり、蘇我馬子の庭園があったからとされます。<br />また、『日本書紀』によると、推古天皇34年5月の条に「大臣薨せぬ。仍りて桃原墓に葬る」とあり、この「大臣」が蘇我馬子を指し、「桃原墓」が石舞台と考えられるからです。<br />ただし、異説もあり、石の種類や築造年代などから蘇我稲目との説などがあり、文献にも散見されます。例えば、1772(明和9)年の本居宣長著『管笠日記』には、石舞台古墳は、その南に位置する都塚古墳と対として認識され、夫々推古・用明天皇の墓との伝承を記しています。<br />次に、1829(文政12)年の津川長道著『卯花日記』には蘇我馬子の墓ではないかとの考察が加えられています。<br />また、1848(嘉永元)年の暁鐘成作『西国三十三所名所図会』では天武天皇を仮に葬り奉った場所と伝えています。

    石舞台
    被葬者は、盗掘されているため明らかではありませんが、7世紀初頭の権力者で、蘇我入鹿の祖父 蘇我馬子との説が有力です。その理由は、この一帯は島ノ庄と呼ばれる蘇我氏の所有地であり、蘇我馬子の庭園があったからとされます。
    また、『日本書紀』によると、推古天皇34年5月の条に「大臣薨せぬ。仍りて桃原墓に葬る」とあり、この「大臣」が蘇我馬子を指し、「桃原墓」が石舞台と考えられるからです。
    ただし、異説もあり、石の種類や築造年代などから蘇我稲目との説などがあり、文献にも散見されます。例えば、1772(明和9)年の本居宣長著『管笠日記』には、石舞台古墳は、その南に位置する都塚古墳と対として認識され、夫々推古・用明天皇の墓との伝承を記しています。
    次に、1829(文政12)年の津川長道著『卯花日記』には蘇我馬子の墓ではないかとの考察が加えられています。
    また、1848(嘉永元)年の暁鐘成作『西国三十三所名所図会』では天武天皇を仮に葬り奉った場所と伝えています。

  • 石舞台<br />古墳でありながら「石舞台」と呼ばれる理由も諸説紛々です。<br />1.天井石の上面が広く平らで、舞台のように見える石の形状からそう呼ばれた。<br />2.月夜の晩に天井石を舞台にして狐が女性に化けて舞を見せたという伝説から。<br />3.旅芸人が舞台がなかったので仕方なくこのこの石の上で舞を披露したという云われから。<br />4.元々は大きな石で造った屋を意味する「石太屋(いしふとや)」と呼ばれていたものが、転訛して「石舞台」となった。

    石舞台
    古墳でありながら「石舞台」と呼ばれる理由も諸説紛々です。
    1.天井石の上面が広く平らで、舞台のように見える石の形状からそう呼ばれた。
    2.月夜の晩に天井石を舞台にして狐が女性に化けて舞を見せたという伝説から。
    3.旅芸人が舞台がなかったので仕方なくこのこの石の上で舞を披露したという云われから。
    4.元々は大きな石で造った屋を意味する「石太屋(いしふとや)」と呼ばれていたものが、転訛して「石舞台」となった。

  • 石舞台<br />このように石室が露出しているのは何故でしょうか?<br />江戸時代初期の文献などに石室の露出が記されていることから、古くからこうなっていたようです。その理由は、蘇我馬子の横暴さに反発した後世の人が、蘇我一族の懲罰として封土を取り除いて墓を暴いたためとも伝わります。<br />大化改新で中大兄皇子、中臣鎌足らによって滅ぼされた蘇我氏は、栄華を思うままにした極悪非道な権力者というイメージがあります。しかし、蘇我馬子が進めていた律令制は、天皇中心の国家を築くには不可欠であり、また、神道派の物部氏を打ち破って仏教を広めた功績は多大です。蘇我氏を極悪人と決めつけてしまうのは如何なものでしょうか?近年は蘇我氏を改革派として評価するのが主流になりつつあるようですが…。洋の東西を問わず、墓荒らしは感情的なものではなく、単なるお金目当てですから!<br />因みに、藤原不比等が編纂したとされる『日本書紀』には馬子や蝦夷、入鹿という奇妙な名で記されていますが、本来の名とは異なる名前で記されたという見解もあります。歴史を作るのは何時の時代も勝者ですから…。

    石舞台
    このように石室が露出しているのは何故でしょうか?
    江戸時代初期の文献などに石室の露出が記されていることから、古くからこうなっていたようです。その理由は、蘇我馬子の横暴さに反発した後世の人が、蘇我一族の懲罰として封土を取り除いて墓を暴いたためとも伝わります。
    大化改新で中大兄皇子、中臣鎌足らによって滅ぼされた蘇我氏は、栄華を思うままにした極悪非道な権力者というイメージがあります。しかし、蘇我馬子が進めていた律令制は、天皇中心の国家を築くには不可欠であり、また、神道派の物部氏を打ち破って仏教を広めた功績は多大です。蘇我氏を極悪人と決めつけてしまうのは如何なものでしょうか?近年は蘇我氏を改革派として評価するのが主流になりつつあるようですが…。洋の東西を問わず、墓荒らしは感情的なものではなく、単なるお金目当てですから!
    因みに、藤原不比等が編纂したとされる『日本書紀』には馬子や蝦夷、入鹿という奇妙な名で記されていますが、本来の名とは異なる名前で記されたという見解もあります。歴史を作るのは何時の時代も勝者ですから…。

  • 石舞台<br />蘇我馬子は、6世紀後期に敏達天皇の即位時に大臣となった豪族で、用明天皇や崇峻天皇期を経て、馬子の姪に当たる推古天皇期に権力を掌握しました。蘇我氏には、娘を天皇に嫁がせ、天皇の外戚となって政治の実権を得ようとする魂胆が見て取れます。平氏に始まり、後の藤原氏も同様ですが…。<br />馬子は、更に権力を握ろうと崇峻天皇を即位させますが、反りが合わず仏教に後ろ向きの天皇を殺害しました。そして、馬子の思惑通りに推古天皇を即位させ、権力を確固たるものにしました。<br />一方、推古天皇期には聖徳太子が摂政を務め、馬子と2人で政治運営することになりました。この時期には本格的な伽藍を持つ寺院 飛鳥寺の建立もなされました。しかし、621年に聖徳太子が没すると、馬子の独壇場と化しました。やがて、626年に馬子もこの世を去りました。

    石舞台
    蘇我馬子は、6世紀後期に敏達天皇の即位時に大臣となった豪族で、用明天皇や崇峻天皇期を経て、馬子の姪に当たる推古天皇期に権力を掌握しました。蘇我氏には、娘を天皇に嫁がせ、天皇の外戚となって政治の実権を得ようとする魂胆が見て取れます。平氏に始まり、後の藤原氏も同様ですが…。
    馬子は、更に権力を握ろうと崇峻天皇を即位させますが、反りが合わず仏教に後ろ向きの天皇を殺害しました。そして、馬子の思惑通りに推古天皇を即位させ、権力を確固たるものにしました。
    一方、推古天皇期には聖徳太子が摂政を務め、馬子と2人で政治運営することになりました。この時期には本格的な伽藍を持つ寺院 飛鳥寺の建立もなされました。しかし、621年に聖徳太子が没すると、馬子の独壇場と化しました。やがて、626年に馬子もこの世を去りました。

  • 石舞台<br />周囲のなだらかな棚田地形を活かした芝生広場や、行催事にも利用できる「あすか風舞台(多目的休憩所)」、売店、多目的トイレなどが設けられています。<br />この画像は次のサイトから引用させていただきました。<br />https://www.asuka-park.jp/cms/wp-content/themes/asuka/pdf/ishibutai.pdf

    石舞台
    周囲のなだらかな棚田地形を活かした芝生広場や、行催事にも利用できる「あすか風舞台(多目的休憩所)」、売店、多目的トイレなどが設けられています。
    この画像は次のサイトから引用させていただきました。
    https://www.asuka-park.jp/cms/wp-content/themes/asuka/pdf/ishibutai.pdf

  • 石舞台からはこのマップに従って歩を進めます。<br />石舞台は右下方にあります。<br />この画像は次のサイトから引用させていただきました。<br />https://www.kintetsu.co.jp/zigyou/teku2/pdf/nara22.pdf

    石舞台からはこのマップに従って歩を進めます。
    石舞台は右下方にあります。
    この画像は次のサイトから引用させていただきました。
    https://www.kintetsu.co.jp/zigyou/teku2/pdf/nara22.pdf

  • 岡地区<br />明日香村の中心部 岡寺前バス停の付近には明日香の歴史を感じさせる厨子二階塗籠造に虫籠窓といった伝統的な古民家が立ち並びます。この周辺は岡という集落に当たり、ここから東方へ山を登った所にある岡寺の門前町でした。岡寺があるから岡という村になったのではなく、岡と言う村にあるから岡寺なのだそうで、龍蓋寺と言うのが岡寺の正式名称です。<br />古い町並みの散策を主目的に明日香を訪れる人は稀かもしれませんが、明日香にもこうした江戸時代に形作られた隠れた小京都があります。

    岡地区
    明日香村の中心部 岡寺前バス停の付近には明日香の歴史を感じさせる厨子二階塗籠造に虫籠窓といった伝統的な古民家が立ち並びます。この周辺は岡という集落に当たり、ここから東方へ山を登った所にある岡寺の門前町でした。岡寺があるから岡という村になったのではなく、岡と言う村にあるから岡寺なのだそうで、龍蓋寺と言うのが岡寺の正式名称です。
    古い町並みの散策を主目的に明日香を訪れる人は稀かもしれませんが、明日香にもこうした江戸時代に形作られた隠れた小京都があります。

  • 飛鳥宮跡(伝飛鳥板蓋宮跡)<br />かつては飛鳥板蓋宮跡とされていました。飛鳥板蓋宮は、7世紀半ばの女帝 皇極天皇の宮で、中大兄皇子らによって蘇我入鹿が暗殺された乙巳の変の舞台となりました。皇極天皇・斉明天皇(皇極天皇重祚)の皇居であり、女帝は皇極2年に小墾田宮から新しく造営されたこの宮へ移りました。往時の宮が茅葺、桧皮葺であったのに対し、高級材の板蓋であったため、この名が付いたとされます。<br />『日本書紀』によると、推古天皇が592年に豊浦宮で即位後、694年の藤原京遷都まで約100年間、歴代天皇は主要な宮を飛鳥周辺に造営しました。舒明天皇は飛鳥岡本宮、皇極天皇は飛鳥板蓋宮、斉明・天智天皇は後飛鳥岡本宮、天武・持統天皇は飛鳥浄御原宮を営んだと伝わり、これらの宮は代替わりの度に別の場所に建てられたと考えられていました。<br />しかしその後の継続的な調査で、飛鳥板蓋宮だけでなく、飛鳥岡本宮や後飛鳥岡本宮、飛鳥浄御原宮など、複数の宮が継続的に同じ場所に置かれた宮殿遺構であることが判明し、「板蓋宮跡」のままでは混乱を招くため、史跡指定から45年目の2016年に名称を「飛鳥宮跡」に改めています。尚、建物は全て掘立柱建物で、瓦葺建造物ではないそうです。現在復元されている石敷の広場や大井戸跡は上層の飛鳥浄御原宮のものです。

    飛鳥宮跡(伝飛鳥板蓋宮跡)
    かつては飛鳥板蓋宮跡とされていました。飛鳥板蓋宮は、7世紀半ばの女帝 皇極天皇の宮で、中大兄皇子らによって蘇我入鹿が暗殺された乙巳の変の舞台となりました。皇極天皇・斉明天皇(皇極天皇重祚)の皇居であり、女帝は皇極2年に小墾田宮から新しく造営されたこの宮へ移りました。往時の宮が茅葺、桧皮葺であったのに対し、高級材の板蓋であったため、この名が付いたとされます。
    『日本書紀』によると、推古天皇が592年に豊浦宮で即位後、694年の藤原京遷都まで約100年間、歴代天皇は主要な宮を飛鳥周辺に造営しました。舒明天皇は飛鳥岡本宮、皇極天皇は飛鳥板蓋宮、斉明・天智天皇は後飛鳥岡本宮、天武・持統天皇は飛鳥浄御原宮を営んだと伝わり、これらの宮は代替わりの度に別の場所に建てられたと考えられていました。
    しかしその後の継続的な調査で、飛鳥板蓋宮だけでなく、飛鳥岡本宮や後飛鳥岡本宮、飛鳥浄御原宮など、複数の宮が継続的に同じ場所に置かれた宮殿遺構であることが判明し、「板蓋宮跡」のままでは混乱を招くため、史跡指定から45年目の2016年に名称を「飛鳥宮跡」に改めています。尚、建物は全て掘立柱建物で、瓦葺建造物ではないそうです。現在復元されている石敷の広場や大井戸跡は上層の飛鳥浄御原宮のものです。

  • 飛鳥宮跡(伝飛鳥板蓋宮跡)<br />2022年11月4日に7世紀後半の建物跡が新たに発見されたことがニュースになっていました。<br />皇居「内郭(ないかく)」区域の北側を調査したところ、7世紀後半のものとみられる建物の柱跡が南北6m、東西10m範囲で8つ発見されています。この建物の北側では、南北15m、東西30m余りある往時最大級の建物の跡(「御窟殿(みむろのとの)」と比定)が発見されており、柱の間隔や西端の位置がほぼ揃うなど計画的に配置されていたと考えられ、今回発見された建物はこの御窟殿に付属する施設との見方が有力です。<br />因みに御窟殿は、『日本書紀』に仏教行事に用いられた施設と記され、天武10年(681)5月11日に「皇祖の御魂を祭る」とあります。天神の子孫たる皇族が大和国を統治するという「天照大神神話」がすでに形成されていたことを踏まえると、「皇祖の御魂を祭る」とは天照大神を祀ることであり、その場所が「御窟殿」と思われます。『続日本紀』には皇祖神 天照大神を奉祭する伊勢神宮内宮は698年に造営されたとあります。一方、その間の694年に藤原宮遷宮がなされていますが、そこには御窟殿は存在しません。では、天照大神は藤原宮遷宮から伊勢神宮内宮造営までの4年間、どのように祀られていたのか興味深いところです。

    飛鳥宮跡(伝飛鳥板蓋宮跡)
    2022年11月4日に7世紀後半の建物跡が新たに発見されたことがニュースになっていました。
    皇居「内郭(ないかく)」区域の北側を調査したところ、7世紀後半のものとみられる建物の柱跡が南北6m、東西10m範囲で8つ発見されています。この建物の北側では、南北15m、東西30m余りある往時最大級の建物の跡(「御窟殿(みむろのとの)」と比定)が発見されており、柱の間隔や西端の位置がほぼ揃うなど計画的に配置されていたと考えられ、今回発見された建物はこの御窟殿に付属する施設との見方が有力です。
    因みに御窟殿は、『日本書紀』に仏教行事に用いられた施設と記され、天武10年(681)5月11日に「皇祖の御魂を祭る」とあります。天神の子孫たる皇族が大和国を統治するという「天照大神神話」がすでに形成されていたことを踏まえると、「皇祖の御魂を祭る」とは天照大神を祀ることであり、その場所が「御窟殿」と思われます。『続日本紀』には皇祖神 天照大神を奉祭する伊勢神宮内宮は698年に造営されたとあります。一方、その間の694年に藤原宮遷宮がなされていますが、そこには御窟殿は存在しません。では、天照大神は藤原宮遷宮から伊勢神宮内宮造営までの4年間、どのように祀られていたのか興味深いところです。

  • 酒船石遺跡<br />次の目的地は「酒船石遺跡」です。<br />ショートカットルートは天理教施設の南側の角を右折し、竹藪に覆われた小高い丘まで石段を登ります。(マップ参照)<br />この丘陵一帯が「酒船石遺跡」と呼ばれています。

    酒船石遺跡
    次の目的地は「酒船石遺跡」です。
    ショートカットルートは天理教施設の南側の角を右折し、竹藪に覆われた小高い丘まで石段を登ります。(マップ参照)
    この丘陵一帯が「酒船石遺跡」と呼ばれています。

  • 酒船石遺跡<br />松本清張著『火の路』は酒船石の前で若き古代史の研究者 高須通子とカメラマン 坂根要助、福原副編集長が出会うシーンから始まります。亀石と同じく明日香を代表する石造物のひとつであり、共に無料見学できる遺跡であり、仄暗い竹藪に佇む威容は不思議な世界観を醸します。<br />長さ5.3m、幅2.3m、厚さ1mの平坦な花崗岩の上面に奇妙な円、隅丸方形、楕円の窪みなどが彫られ、それらを直線の溝で繋いでいます。また、酒船石の両側には石を割るために入れたと思しき工具跡が残り、全体像は不明ですが何らかの目的でこの場所に意図的に置かれています。因みに、欠損部分は、安土桃山時代にここから数Km南方にある高取城の築城に当たり石垣に使われたとの説もあります。

    酒船石遺跡
    松本清張著『火の路』は酒船石の前で若き古代史の研究者 高須通子とカメラマン 坂根要助、福原副編集長が出会うシーンから始まります。亀石と同じく明日香を代表する石造物のひとつであり、共に無料見学できる遺跡であり、仄暗い竹藪に佇む威容は不思議な世界観を醸します。
    長さ5.3m、幅2.3m、厚さ1mの平坦な花崗岩の上面に奇妙な円、隅丸方形、楕円の窪みなどが彫られ、それらを直線の溝で繋いでいます。また、酒船石の両側には石を割るために入れたと思しき工具跡が残り、全体像は不明ですが何らかの目的でこの場所に意図的に置かれています。因みに、欠損部分は、安土桃山時代にここから数Km南方にある高取城の築城に当たり石垣に使われたとの説もあります。

  • 酒船石遺跡<br />用途については諸説紛々です。<br />本居宣長は「むかしの長老の酒ぶね」と現地の伝承を書き留めています。このように酒の醸造に使用されたと伝わることから「酒船石」と言われています。<br />また、製薬用に使用したとの説もあります。古代中国の製薬法は、薬の材料を配合するのに各々を臼で搗いて粉末にし、それらを各分量に混ぜ、丸薬の場合は蜂蜜で練ります。つまり、円形凹部を石臼と考えてのことです。<br />更には、生贄台との説もあります。これは、最上部の半月形の皿と主軸の溝の交わる所に後頭部を当てるようにして仰向けに寝ると、 腰から下が真ん中の小判形の窪みにすっぽりと嵌まり込み、そして両手を左右に大の字に伸ばすと 枝溝に腕がすっぽりと納まったまま手の平は左右の円形皿の中にきっちり入るからです。<br />近年、酒船石のすぐ北側で斉明天皇の「両槻宮」の遺構と考えられる「亀形石造物」が発見され、この石造物との関連が指摘されて雨乞い儀式の祭祀や観賞用の導水施設などと考えられています。発掘が進むにつれ、 飛鳥京は「水の都」だったことが判ってきたようで、水占いや曲水の宴、天体観測施設との説もあります。<br />その他、ゾロアスター教の薬酒「ハオマ」や「ブドウ酒」の製造装置や油絞り、砂金や水銀などの精選装置との説もあります。松本清張は小説『火の路』の中で、両槻宮をゾロアスター教の神殿と結び付けるユニークな発想を展開しています。『日本書紀』には斉明朝にゾロアスター教徒のペルシア人と考えられる異国人が来日していたことを示す記事もあり、この説も荒唐無稽と論破できません。<br />そもそも酒船石は2基存在しており、こちらは「岡の酒船石」と呼び、飛鳥京跡苑池の中で発見された「出水の酒船石」と区別しています。「出水の酒船石」のレプリカは飛鳥資料館前庭で見学でき、その用途を「庭園の水遊び装置」 とする説もあるようです。<br />古代に何かの目的のために造られたものであることには間違いありませんが、なんとも謎多き岩石だこと!

    酒船石遺跡
    用途については諸説紛々です。
    本居宣長は「むかしの長老の酒ぶね」と現地の伝承を書き留めています。このように酒の醸造に使用されたと伝わることから「酒船石」と言われています。
    また、製薬用に使用したとの説もあります。古代中国の製薬法は、薬の材料を配合するのに各々を臼で搗いて粉末にし、それらを各分量に混ぜ、丸薬の場合は蜂蜜で練ります。つまり、円形凹部を石臼と考えてのことです。
    更には、生贄台との説もあります。これは、最上部の半月形の皿と主軸の溝の交わる所に後頭部を当てるようにして仰向けに寝ると、 腰から下が真ん中の小判形の窪みにすっぽりと嵌まり込み、そして両手を左右に大の字に伸ばすと 枝溝に腕がすっぽりと納まったまま手の平は左右の円形皿の中にきっちり入るからです。
    近年、酒船石のすぐ北側で斉明天皇の「両槻宮」の遺構と考えられる「亀形石造物」が発見され、この石造物との関連が指摘されて雨乞い儀式の祭祀や観賞用の導水施設などと考えられています。発掘が進むにつれ、 飛鳥京は「水の都」だったことが判ってきたようで、水占いや曲水の宴、天体観測施設との説もあります。
    その他、ゾロアスター教の薬酒「ハオマ」や「ブドウ酒」の製造装置や油絞り、砂金や水銀などの精選装置との説もあります。松本清張は小説『火の路』の中で、両槻宮をゾロアスター教の神殿と結び付けるユニークな発想を展開しています。『日本書紀』には斉明朝にゾロアスター教徒のペルシア人と考えられる異国人が来日していたことを示す記事もあり、この説も荒唐無稽と論破できません。
    そもそも酒船石は2基存在しており、こちらは「岡の酒船石」と呼び、飛鳥京跡苑池の中で発見された「出水の酒船石」と区別しています。「出水の酒船石」のレプリカは飛鳥資料館前庭で見学でき、その用途を「庭園の水遊び装置」 とする説もあるようです。
    古代に何かの目的のために造られたものであることには間違いありませんが、なんとも謎多き岩石だこと!

  • 酒船石遺跡<br />皇極朝には天地異変が続きました。旱魃が続き、まず村の祝部の教えで牛馬を生贄にして諸社の神を祀るも効果がなく、次に蘇我蝦夷が仏の力を借りて百済大寺に多数の僧侶を招いて大雲教を読ませると微雨が降りました。最後に、皇極天皇が飛鳥川の上流で跪き、四方を拝して天を仰いで雨を祈ると、忽ち大雷雨となり、5日連続で雨が降り続いたそうです。福永光司著『道教と古代日本』によると、四方拝とは「天皇が北斗七星などを拝んで息災長寿の呪文を唱える道教の儀式」とあります。シャーマンを彷彿とさせる記述ですが、それであれば酒船石は雨乞いの儀式に用いられたとも考えるのが妥当かもしれません。

    酒船石遺跡
    皇極朝には天地異変が続きました。旱魃が続き、まず村の祝部の教えで牛馬を生贄にして諸社の神を祀るも効果がなく、次に蘇我蝦夷が仏の力を借りて百済大寺に多数の僧侶を招いて大雲教を読ませると微雨が降りました。最後に、皇極天皇が飛鳥川の上流で跪き、四方を拝して天を仰いで雨を祈ると、忽ち大雷雨となり、5日連続で雨が降り続いたそうです。福永光司著『道教と古代日本』によると、四方拝とは「天皇が北斗七星などを拝んで息災長寿の呪文を唱える道教の儀式」とあります。シャーマンを彷彿とさせる記述ですが、それであれば酒船石は雨乞いの儀式に用いられたとも考えるのが妥当かもしれません。

  • 亀形石造物遺跡(有料施設)<br />飛鳥周辺の石造物のほどんどは皇極(斉明)天皇に関係するそうですが、酒船石遺跡はこれらの謎を解く最重要遺構と考えられています。調査の結果、 酒船石遺跡の丘の麓にある「亀形石造物遺跡」は、斉明朝の「狂心の渠(たぶれごころのみぞ)」関連の遺構と比定され、導水施設とされています。<br />『日本書紀』の「斉明紀」には、土木工事を好んだ斉明天皇が3万人を使って溝を掘って200隻の船に石を積んで浮かべ、 7万人を使って石の山を造るも造る傍から崩れ、民衆がこの無駄な大工事を「狂心の渠」と罵ったという故事が記されています。距離的に考えれば、酒船石遺跡も同様の導水施設と考えられます。<br />一方、斉明天皇は多武峰に両槻宮を造営しましたが、それは「天宮」とも呼ばれて道教の仙人の宮を意味します。『日本書紀』は道教の寺院を「観(たかどの)」と記していることから、両槻宮も道教思想により建てられたと考えられ、「亀形石造物」は 遺構の位置から察して両槻宮と密接な関係があるとされます。中国の文献にも「大亀が背に蓬莱山を負い、 手を打って蒼海の中で戯れる」との記述があり、研究者の中には多武峰を蓬莱山になぞらえ、 その麓にそれを支える大亀を配置したと推測しています。こうした観点から、酒船石は、この両槻宮に付属する苑池庭園、または祭祀場だと考えられています。<br />このように用途についてあれこれ思いを巡らすのもロマンがあります。

    亀形石造物遺跡(有料施設)
    飛鳥周辺の石造物のほどんどは皇極(斉明)天皇に関係するそうですが、酒船石遺跡はこれらの謎を解く最重要遺構と考えられています。調査の結果、 酒船石遺跡の丘の麓にある「亀形石造物遺跡」は、斉明朝の「狂心の渠(たぶれごころのみぞ)」関連の遺構と比定され、導水施設とされています。
    『日本書紀』の「斉明紀」には、土木工事を好んだ斉明天皇が3万人を使って溝を掘って200隻の船に石を積んで浮かべ、 7万人を使って石の山を造るも造る傍から崩れ、民衆がこの無駄な大工事を「狂心の渠」と罵ったという故事が記されています。距離的に考えれば、酒船石遺跡も同様の導水施設と考えられます。
    一方、斉明天皇は多武峰に両槻宮を造営しましたが、それは「天宮」とも呼ばれて道教の仙人の宮を意味します。『日本書紀』は道教の寺院を「観(たかどの)」と記していることから、両槻宮も道教思想により建てられたと考えられ、「亀形石造物」は 遺構の位置から察して両槻宮と密接な関係があるとされます。中国の文献にも「大亀が背に蓬莱山を負い、 手を打って蒼海の中で戯れる」との記述があり、研究者の中には多武峰を蓬莱山になぞらえ、 その麓にそれを支える大亀を配置したと推測しています。こうした観点から、酒船石は、この両槻宮に付属する苑池庭園、または祭祀場だと考えられています。
    このように用途についてあれこれ思いを巡らすのもロマンがあります。

  • 酒船石遺跡<br />竹林を抜けて次の目的地「飛鳥寺」を目指します。<br /><br />この続きは、あをによし 多武峰~明日香逍遥⑧明日香村(エピローグ:飛鳥寺・亀石・川原寺跡・古墳群)でお届けします。

    酒船石遺跡
    竹林を抜けて次の目的地「飛鳥寺」を目指します。

    この続きは、あをによし 多武峰~明日香逍遥⑧明日香村(エピローグ:飛鳥寺・亀石・川原寺跡・古墳群)でお届けします。

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