2022/05/27 - 2022/05/28
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まつじゅんさん
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この旅行記のスケジュール
2022/05/27
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今日も、まずまずのお天気です。
竹野海岸で癒され、ゆっくりと周辺を巡って帰る事といたしました。
何度か訪れた地域だけに、初めての場所を探して寄り道です。
こちらに来る道中で、何度も見かけた看板が気になっていましたが、偶然お店を発見し、最初の寄り道。
次に豊岡に向かい、カバンと赤穂浪士ゆかりの地を廻り、初めての生野銅山の坑道見学をしてきました。
豊岡は大石内蔵助の奥様の出生地で、かねてから気になっていた遺髪塚を訪問してきました。
カバン好きな私達夫婦ですので、豊岡カバンを見にカバンストリートを歩いたのですが、来る度に寂れてきているような気がしました。
初めての生野銅山でしたが、なかなか見ごたえがあり、石見銀山とは異なった時代の背景や技術等を知る事が出来ました。
兵庫県民割って、ホント良いものですね。
- 旅行の満足度
- 4.5
- 観光
- 4.5
- グルメ
- 4.0
- 同行者
- カップル・夫婦(シニア)
- 一人あたり費用
- 1万円未満
- 交通手段
- 自家用車 徒歩
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竹野に向かう道中、何度も見かけた「柳ごうり最中」の看板。
最中が好きな私、凄く気になっていて、車中で奥様と「どんなんだろうね。」と話していましたが、豊岡に向かう途中、再び看板発見と思いきや、お店でした。
これはどのような物か見て来いというお告げに違いないと、駐車場に吸い込まれて行きました。
1個 162円で3個購入。
早速、車中で頂きましたが、豊岡の伝統工芸品である柳行李のイメージで作られているようで、上品な甘さの餡子がぎっしり詰まっていて、結構どっしりタイプの最中でした。ちから餅本舗 福田店 グルメ・レストラン
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豊岡市内に入りました。
赤穂事件の主役、大石内蔵助良雄の奥様 理玖は、豊岡市出身で豊岡京極家の家老 石束宇右衛門と佐々成政の子孫、快楽院の長女として生まれました。
理玖が大石家へ嫁ぎいで約15年後、赤穂浅野家の内匠頭長矩が、江戸城で吉良に切りつけ、即日切腹に処断されるという赤穂事件が起こりました。
内蔵助は、赤穂城を明け渡すための残務処理のため、理玖や子供達と共に家老屋敷を出ましたが、理玖の父は不自由を強いられる仮宿に、但馬から珍味を送るなどして励ましていたようです。
大石一家は50日あまりの仮住まいの後に、京都山科へ移り討ち入りの準備を整えていきますが、1702年の4月頃、理玖は身重の身体で長女 くうと共に豊岡に帰り、内蔵助は討ち入りの罪が妻子に及ばぬよう、10月初旬に離縁という形をとりました。大石りく生誕地 名所・史跡
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吉良邸への討ち入りは成功し、夫と長男 主税が切腹した後、理玖は香林院と名乗り正福寺で冥福を祈る生活を続けました。
豊岡 正福寺にあるのは「理玖の遺髪」を納めた「遺髪塚」です。
赤穂浪士の行為は人々に感銘を与え、息子 大三郎に赤穂浅野家の本家である広島浅野家から仕官の話が舞い込みました。
大三郎は父と同じ1,500石という破格の条件で召抱えられ、母 理玖と共に広島へ移り、理玖は1736年に広島で68歳の生涯を閉じます。
墓は広島市の国泰寺の大石家墓地にあり、大三郎と理玖の母子が並んでいます。大石りく遺髪塚 名所・史跡
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正福寺の脇に脇道と記念碑があります。
お墓は広島にあるので、この地にあるのは理玖の遺髪塚です。
長女 くうが15歳で、討ち入りの2年後に逝去したのですが、その傍らに埋めて欲しいという理玖の遺言によるものだとされています。
右側が19歳で討ち入りの7年後に逝去した大石吉之進の供養塔、中央が遺髪塚、左側にくうの墓碑が並んでいます。 -
2013年に落成した新豊岡市役所の前面に、豊岡町役場として1927年に建築された旧庁舎が保存されています。
設計は原科準平氏で、鉄筋コンクリート3階建。
1925年5月に発生した、北但大震災の復興建築のシンボルとして震災直後に建設されました。
当初は2階建でしたが、戦後に塔屋の両側を増築し3階建てに変更されているようです。
中央車寄せの上部バルコニー、上階のアーチ窓や壁面のレリーフ飾りや張り出したコーニス等の昭和初期の庁舎建築の特徴が随所に残されています。
新庁舎の建設に際し、当初は取り壊しも検討されましたが、旧本庁舎をシンボルとして保存・活用する事となり、曳家で移動の上、基礎免震構造により耐震性を確保した上で、議場、市民交流スペースとして活用されています。旧豊岡町役場 名所・史跡
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豊岡といえば、豊岡カバンです。
柳細工をルーツに神話まで遡るほど古い歴史のあるカバン。
カバンの街豊岡の象徴として2004年に誕生した「カバンストリート」。
ただ、少し元気が無いように感じるのは私だけでしょうか。カバンストリート (宵田商店街) ショッピングモール
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飲み物の自動販売機もカバンデザインとなっています。
横には、カバンの自販機も設置されています。
サラーっと歩いて、何か元気が無い事だけが目についた街を後に、生野銀山に向かいます。 -
生野銀山に登っていく途中で、カフェのようですが店前のランチの幟に惹かれて、ランチタイムです。
「カフェ スパロー」という、こじんまりとした小さなお店です。
窓から隣の公園の大木が、綺麗に見えました。カフェ スパロー グルメ・レストラン
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メニューはごく普通の喫茶店という感じで、ランチも焼きそばや生姜薬など一般的なメニューですが種類は多く、ボリュウムも結構あります。
味付けはしっかり目ですが美味しく頂けました。
特筆すべきは、アイスコーヒーの氷が珈琲を凍らせたもので、溶けても薄くならならず、珈琲にこだわりを持っているのかな、と思わせるお店でした。 -
生野銀山に到着です。
ここは、戦国時代から近代にかけて採掘されていた日本有数の銀山で、明治政府が日本の鉱業の近代化の確立を目指した、最初の直轄鉱山です。
入口は、1716年設置の「生野代官所」の造りが模されています。
1527年に発見された石見銀山が、「灰吹法」という製錬技術で生産量を飛躍的に増やし、石見銀山の山師の力添えで、生野銀山は1542年から本格的な採掘が始まったと言われています。生野鉱物館 名所・史跡
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生野銀山は、807年には銀が出たと伝えられています。
ただし開坑の起源は、1542年に但馬守護職 山名祐豊が銀石を掘り出した時期とされ、1567年に自然銀を多く含む日本最大の鉱脈が見つかり、織田信長、豊臣秀吉の直轄時代を経て、1600年に徳川家康が但馬金銀山奉行を配置し、佐渡金山、石見銀山と並び天領として徳川幕府の財政を支えてきた鉱山です。
その後、吉宗の頃に最盛期を迎え、月産150貫(約562kg)もの銀を産出していたようです。
入口脇にあるこの胸像は、1868年に日本初の政府直轄の官営鉱山となり、明治政府が招聘した「お雇い外国人第1号」のフランス人技師ジャン・フランソワ・コアニエ氏です。
彼は、鉱山師兼鉱学教師で帰国するまでの10年間に、精錬所を建設する等生野に日本の近代化鉱業の模範鉱山、製鉱所の土台を築いた人のようです。 -
観光坑道として開放されているのは「金香瀬坑」で、全長は約1km、年間を通し約13℃という坑道内には、地底に繰り広げられた採掘の歴史を魅力的な演出と手法で再現しています。
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江戸時代から近世まで、多くの坑内作業者が命を託し、地中深く掘り進めていた坑道や、近世のエレベーターの巨大な捲揚ドラム等を身近に見る事が出来ます。
閉山後の1974年に、史跡 生野銀山という名称で、テーマパークとして開業し、ノミ跡も生々しい坑道巡りや、資料館には多数の貴重な鉱物が展示されていて、2007年に近代化産業遺産、日本の地質百選に選定されています。 -
江戸時代には生野奉行が置かれ、3代将軍 家光から8代将軍 吉宗の頃に最盛期を迎え、1705年には、「御所務山」という最上級の鉱山に指定される等、江戸幕府の財政を指せてきたようです。
ただ、1648年~の慶安年間に入ると銀産出が衰退し、1716年には生野奉行は生野代官と改称し、銀に換わって銅や錫の産出が激増していたようです。 -
電気の無い時代です。
夏は暑く冬は寒く、暗闇な空間での作業環境は劣悪だったと思われます。
坑夫のことを総称して「下財」と呼ばれるようですが、ノミ1本で鉱脈をさぐり当てながら、人が屈んでやっと通れる位穴を這いながら、槌とたがねを使って堀り進んでいたようです。
採掘した道は迷路のように複雑で、狸の棲み処に似ていることから、江戸時代の採掘方法は「狸堀」と呼ばれています。 -
鉱山の測量は、江戸時代初期から行われていた記録があるようです。
振矩師と呼ばれる、坑道の掘削計画や測量を担当する技術者がの手により、結構正確な測量が行われていたようです。 -
こんな僅かな変化を元に、鉱脈を見つけ掘り進めていたのですね。
電気等の無い時代、闇の中を薄っすらとした油の光を頼りに、コツコツと掘り進めていくのは、気の遠くなる作業だったと思います。 -
密閉空間である坑内作業は、塵埃を吸い込み肺を病んで亡くなるケースが多かったようです。
江戸時代の坑夫の平均寿命は短く、坑内労働者は18、19歳で仕事を始め、30歳位で死ぬと記された資料もあり、40歳まで生きる者は少なかったようです。 -
江戸時代には手掘りしていた鉱脈も、昭和に入ると削岩機や削孔機が使用されるようになったようです。
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近代になると鉱脈を発破し、一気に鉱石を砕き採掘する区報が主流となったようです。
その一つがサンドスライム充填法で、1953年から採り入れられた採掘法のようです。
掘跡に砂や泥土(サンドスライム)を充填することで、安全性を高め、能率の良い採掘が行えるようになったようです。 -
発破が主流となると、坑道の岩盤が軟弱な箇所は、人為的な補強がなされ、工法の一つである五枚合掌支柱組は、檜の丸太を組み合わせた支柱組はどっしりとしていて、坑夫にも安心感を与えたでしょうね。
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昭和時代に入ると、作業員は竪坑を上下するエレベーターで出入りしたようです。
保存されているエレベーターは、作業員や資機材だけでなく、2tまでの鉱石を積載できたようです。
エレベーターを動かしていた太いワイヤーや、巻き揚げ機がそのまま残されています。 -
出口には、生野代官所時代の幕府による管理を示すコーナーがありました。
金香瀬山は御所無山に認定されていたので、代官所から派遣された役人が昼夜詰切りで監督し、坑内から出る鉱石を取締り、厳しい管理がなされていたようです。 -
坑道は、一年を通じ一定の温・湿度である事から、お酒の熟成貯蔵に活用されているようです。
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地上に出て振り返ると、江戸時代の「三ツ留」という檜柱で造られた坑口を再現したものが見えます。
坑口の上の2本の化粧木は、鳥居を表したものらしいです。
これは、生野銀山の初期に、地表に露出した鉱脈を手掘りして出来た滝間歩旧坑の作業をマネキンが再現しているようです。 -
鉱山の採掘は、鉱脈を探し当てることから始まりますが、明治以前は、山師が地表に顔を出している鉱石を見つけ出し、そこから下へ下へ掘っていく採掘方法だったようです。
坑道の裏山には、露頭群があり散策できます。
露頭とは、地表に露出した鉱脈のことで、江戸時代までは、こうした露頭を探す事から始まっていたのですね。
暫く進むと「慶寿の堀切」と呼ばれる、発見された1567年頃から幕末まで、約300年間採掘され続け、純度の高い銀を生み出した鉱脈を露天掘りした跡があります。
朝来市指定文化財となっているようです。 -
生野銀山1,200年の歴史の中で、観音様の横顔に似た岩肌が発見されました。
この岩は、観音岩と呼ばれ調査の結果、自然の力で造られたもので、落石防止の金網が幸いして浮き出てきたものと推測されています。
ちょっと無理なネーミングかなとは思いますが…。 -
駐車場近くに、鉱山資料館というショップのある建物があります。
807年の開坑以来、信長、秀吉、徳川幕府の時代から明治政府直轄となり、その後は皇室財産にまでなった生野銀山の歴史を、パネル展示等でり紹介されています。
徳川時代の雁木梯子、坑内の水を汲み上げたポンプである竹樋、精錬に使ったふいご等、徳川時代の銀山の様子を詳細に描いた絵巻物、坑内模型等により、当時の雰囲気を伝えています。
坑内模型を見ると、未公開坑道まで含めると新大阪駅から静岡駅近くまでの距離に匹敵する総延長350km、地下880mの深さという全容が解ります。 -
生野銀山内の様々な場所で、当時の様子を再現しているマネキン人形60体が「GINZAN BOYZ」と名付けられ、超スーパー地下アイドルとして2017年7月12日にPVデビューしているようです。
60体のプロフィールは、しっかりと紹介されていて、一番人気はNo44 左門らしいです。
左門は幕府の役人で、典型的なエリート公務員のようです。 -
銀鉱石と精製された純銀の塊が、並んで展示されています。
まず銀の価値をどの様に見極め、どのような手法で岩から銀を取り出したのか、その疑問を分かりやすく解説されている場所でした。
これだけ素晴しい遺産が引き継がれている生野銀山ですが、石見銀山のように世界遺産になっていないのでしょうか。
我が国には令和3年登録の北海道・北東北の縄文遺跡群まで、25件の世界遺産が存在します。
今年、物議を醸した佐渡金山を含め、世界遺産登録を目指す暫定リストには5件ありますが、生野鉱山はつい最近まで稼動していた近代化遺産が中心で、登録を目指す態勢づくりが後手を踏んだこともあって、残念ながら含まれていないようです。
2017年の石見銀山の忘備録↓
https://4travel.jp/travelogue/11243555 -
生野銀山を16時過ぎに出て、ゆっくりと一般道を通り帰路に着きます。
19時頃に能勢を走行中、以前から気になっていたこちら「くるす」で夕食を食べて帰る事といたしました。
店頭にある天狗の像や、大きな提灯、ジビエ料理の案内等、以前から目について気になっていたのですが、今回初訪問です。観光センター くるす グルメ・レストラン
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観光センターとありますが、うどんやジビエ料理を名物とする食堂のようです。
田舎の家という風情の店内は、熊等のはく製が置かれ、入口駐車場には天狗の像と言う、何か不思議な雰囲気のお店ですが、料理の種類は驚くほど多く、ボリュウムタップリで食べきれない位あります。
餡かけのうどんは凄く美味しかったですし、鶏焼き等次回食べてみたくなるような、興味深い料理も多くあり、不思議なお店でした。
お腹も満たされ、20分程で無事帰宅でき、楽しい旅でした。
今回、これまで。
利用規約に違反している投稿は、報告する事ができます。
この旅行記へのコメント (2)
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- masaさん 2022/09/11 09:45:23
- GINZAN BOYZ!
- こんにちは。
生野銀山、行きましたよ!もちろん、大人気地下アイドル(ホントに地下、ですね)GINZAN BOYZに会いに(^-^)
イケメンぞろいで、もう爆笑しながらの見学になりました!CD買おかと思ったくらい(≧◇≦)
たんなる銀山の案内だけなら、まず行きませんね。ここの市長さんスゴイ!
そういえば、PV にも出演されてたし(^^;)
なんか懐かしくなっちゃいました。
ありがとうございます。
masa
- まつじゅんさん からの返信 2022/09/12 09:09:46
- Re: GINZAN BOYZ!
- masa 様
ご訪問&コメントありがとうございます。
生野銀山ってある意味、歴史遺産で学習するような場所かなと思っていたのですが、遊び心満載の場所ですね。
第二弾の発売もあるそうですが、実際見ると若干怖い雰囲気があります。
VRで見るのは良いのですが、あの暗い坑道で見たら、ちょっと引きますよね。
世界遺産の石見銀山は、その位置付け上、お堅い雰囲気ですが、その石見に引けを取らない生野銀山ですが、何かしないと観光坑道でしかないという立ち位置が気の毒と思ってしまいました。
取り組みは面白いですね。
matujyunn
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