1976/05/06 - 1976/05/06
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jijidarumaさん
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【ドイツの習わし(風習):「ポルターアーベント(Polterabend)」て何だ?】
ドイツの伝説に「Poltergeistポルターガイスト」という言葉が出て来る。
「Poltergeistポルターガイスト」とはドイツ語で、poltern(騒ぎたてる、音を立てる)にgeist(幽霊)が組み合わさった「騒がしい幽霊(家屋内で不思議な音をたてたり、物を壊したりするという幽霊)」という意味である。
また、「Schlossgeistシュロスガイスト=お城の幽霊」という言葉もあり、古城巡りが好きな私には馴染みのある単語なのだ。
そんなドイツの伝統的な結婚式で語られる「Polterabendポルターアーベント」はドイツ語辞書に・・・「婚礼の前の晩」を意味し、「酒宴で騒々しく過ごし悪魔祓いのため、壺などを割る」という習わし(風習)・・・の事だと書かれている。
*1976年5月6日、Frl.Heinzハインツ嬢のPolterabend結婚式前夜パーテイーが行われた。ドイツ駐在中、部下の女性が結婚する事になって、「Polterabendポルターアーベント」の光景を見る機会を得た。
写真は「Polterabendポルターアーベント」・・・
二人のようにハインツ嬢も美男子だった旦那さんと、皆に冷やかされながら一生懸命片付けていた。
- 旅行の満足度
- 5.0
- 同行者
- カップル・夫婦(シニア)
- 交通手段
- レンタカー
- 旅行の手配内容
- 個別手配
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この習わし(風習)の伝統は、19世紀にドイツで活躍したBrueder Grimmグリム兄弟の辞書に19世紀の「Polterabendポルターアーベント」について、「durch schmaus, tanz und allerlei scherz gefeierte[n] vorabend einer hochzeit“.ごちそう、ダンス、そしてあらゆる種類の冗談を言って結婚式の前夜を祝った」と記しているとか。
この習わし(風習)はドイツ以外でも、ポーランド、オーストリア、スイス、デンマークやフィンランドなどの北欧諸国で行われているそうだ。
写真は1976年5月6日、会社の部下であった赤毛のFrl.Heinzハインツ嬢のPolterabend結婚式前夜パーテイー。
左上の二人のようにハインツ嬢も旦那さんと、皆に冷やかされながら一生懸命片付けていた。この日はレストランを借り切って、出席者は騒がしく楽しんでいた。シャドー通り 散歩・街歩き
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婚礼前日、親しい友人や近所の人を招待し、家の玄関前で陶器類を派手に割り砕いて、大きな音で悪魔を祓い、新郎新婦の幸せを願う風習が現在も行われている。
もちろん割れて散乱した陶器類を片付けるのは、当事者の新郎新婦がこれから一緒に生活をしていく二人の最初の共同作業として行うのだ。
ドイツには「陶器の割れる大きな音」が邪気や悪魔を遠ざけ結婚が幸せなものになる(Scherben bringen Glueck破片は幸運をもたらす)という言い伝えがあり、当日には家族や友人、近所の人々がいらなくなった陶器のお皿やマグカップを持って集まり、参集した皆で皿を投げ、落として割るのだが、地域によっては大掛かりにトラックの荷台上から洗面台を落とすとか、耕運機を使ってトイレの便器を轢き壊す事もあると云うから面白い。
写真はPolterabend_WeddingPolterabend結婚式前夜パーテイーの様子。 -
もうこうなると、新郎新婦の結婚をキッカケにした地域のお祭りである。
大量の粉々になってしまった破片を新郎新婦が周りに冷やかされながら、嬉しそうに片付けていく。
但し、割る対象物は選ぶ必要がある。もちろん高価なマイセン磁器などを割るわけにはいかない。
割る陶器は古いものを持ち寄り、量的に物足らない場合はポルターアーベント用の陶器をお店で購入してくることもできるそうだ。
Niemals Glas oder Spiegel zerwerfen!(ガラスや鏡を投げないでください!)幸せのシンボルとなっている「ガラス製品」を割ってはいけない。
中でも鏡を割ってしまうと、「この先7年は運(ツキ)が無い」という言い伝えもあるそうだ。
写真はPolterabend結婚式前夜・・・見事に破壊されたお皿など。 -
陶器を割り、二人で破片を掃除する共同作業が一般的だが、他にも(日本の披露宴では見たことが無いが)二人で協力して丸太を切り落とす「のこぎりゲーム」や、新郎と新婦がそれぞれ大きな布に描かれたハートの絵を逆の方向をカットしていき、早く切れた方が結婚後に権力を握れる「ハートくり抜きゲーム」といったものが人気だそうだ。
写真はPolterabend結婚式前夜・・・これはひどい破壊だが。 -
<結婚式と手続き>
二人が結婚することを決めたら、まず新郎か新婦のどちらか一方が居住する役所に必要な書類を提出する。役所は彼等の希望する挙式日を6ヶ月前から受けつける。
この手続きが済むと、役所から連絡があり、結婚=婚姻届に署名する日取りを決める。ドイツでは、結婚の際、一日の特別有給が取れるので、一般的に金曜日に行われる。
結婚式当日、二人は正装して役所に行き、特別に用意された役所の一室(「結婚の間・・・役所の戸籍係に婚姻届けをする場所」、或いは村や町の特別な場所、例えば古城の一室を利用)で20分程度の儀式に出席する。(この式には必須ではないが)新郎新婦双方から一名ずつ証人が立ち会う。
それで証人に親族や友人をお願いする事が多いようである。
役所の係官の前で「この二人が婚姻関係を結ぶ」という内容の書面「婚姻証明書」に署名する。その後指輪の交換や新郎新婦のキスなどを行うと云う。
*1988年12月30日、Bremenブレーメンの友人夫妻である、SさんとMさんが結婚式を挙げた。Mさんは現在76歳、Sさんは81歳だから、当時は43歳と48歳の熟年結婚だった。御二人とも、ご両親は既に亡くなっていた。
写真は(左上)1988年12月30日、SさんとMさんの熟年結婚式と市庁舎内の「結婚の間(役所の戸籍係に婚姻届けをする場所)」で結婚の届け出をした後の記念撮影・・・この時は私共は1985年に帰国していたから、出席できなかった。
(右上)(左下)1989年5月、ブレーメンのご自宅前で新婚のSさんご夫妻。(右下)新婚旅行で来日し、御二人が狭い拙宅に1泊された時に、「房総風土記の丘」と「房総の村」にご案内した。
大きくなった娘たちがドイツの国歌を歌い、高校でチェロを習いたての次女が覚えたての曲をつっかえつつ弾いて歓迎した。今でもこの時の事をお二人も覚えていて、昔話になると、必ずこの話が出てきます。 -
現代のドイツ人は結婚・入籍する前にしばらく同棲する期間をもち、互いを見極める人が多い。これに両親、親族が異を唱える事はない。
そして、いよいよ結婚式となると、合理的、質素を旨とする彼らの披露パーティーは日本の贅沢にも見える披露宴と比べると、簡単な形が多いように思われる。
写真は1989年5月、ブレーメンのご自宅前で新婚のSさんご夫妻 -
レストランを借り切って行う食事会が多く、少人数でゆっくり食事をする場合も、或いは招待客が多い場合は皆で飲んで歌ってダンスをして、明け方まで新郎新婦をわざと解放しないケースも見られる。
祝宴の客も仲の良い友人や家族だけに限られ、会社の上司などを招く事は少ないようである。
参考:https://www.hochzeitsplaza.de/polterabend/polterabend-braeuche
写真は1989年4月14日~5月6日、ブレーメンのSさんご夫妻は新婚旅行で来日した。4月29日~30日に御二人が狭い拙宅に1泊された時に、「房総風土記の丘」と「房総の村」にご案内した。武家屋敷 でポーズをとるSさん。 -
Sさんとは三十数年以上の昔、デュッセルドルフで独身時代のMさんに紹介されて以来のお付合いとなる。
Mさんは旧都銀本店の為替部を退職し、かつての上司がデュッセルドルフ支店次長で勤務していたツテもあって渡独し、次長の紹介で我が社に現地採用されていた。
つまり、当時の私の部下でした。3つ下の彼女はとても優秀な部下で、よく助けられました。私が新米駐在員で来た当初からの付き合いですから、長い付き合いです。慣れないドイツ生活も家族たちも良く支えてもらっていました。
1982年4月9日(金)~12日(月)に、イースター休みで北ドイツに家族旅行をした。最終日の12日にブレーメンの市庁舎前で、歩いているSさんとMさんのお二人にばったりお会いした事を思い出す。
1983年7月16日(土)、この日、SさんとMさんにバーベキューに家族4人が御招待された。
Mさんは当時、Sさんの叔母さんのSchneiderシュナイダー夫人の家に下宿していたが、時々ブレーメンからデュッセルドルフに叔母さんお御機嫌伺いにやってきていた。それが縁で二人の付き合いが始まったようだ。
一緒にバーベキューなどを楽しんだ場所はシュナイダー夫人の庭でした。
暑い日で、汗をかきながら炭火を起こし、ついに恥ずかしながら、私はランニングシャツ姿になってしまった。
当時すでにブレーメン州の裁判官であったSさんは、裁判官とは思えぬ、たいへん気さくで、親切な方でした。
この時は御二人が結婚するとは思いませんでした。
写真は1983年7月16日(土)、この日、SさんとMさんにバーベキューに家族4人が御招待された。 -
写真は(左上)1983年7月16日、SさんとMさんにバーベキューに御招待された時の写真。
(右上・右下)1983年7月9日~10日、副社長が外債発行の為来独されたが、そのアテンドの予行演習(副社長は厳しい方と聞き及んでいた事もあり、社有車を運転し、道を間違えないように事前に予行演習をした。予定していた行程はフランクフルト駅でスイスから来られた副社長一行を出迎え、ドイツの銀行(債券投資を主とした)を訪問、フランクフルトにあった都銀3行の支店長との昼食会、それにメインバンクとの夕食会が予定されていた2日間だった)で1週間前にフランクフルトに行った。
その帰途にラインガウにあるヨハニスベルク城(ワインの使者の伝説で知られた)で昼食・・・この時テラスレストランで珍しくも「血のソーセージ」を食べた、(左下)ライン川の川中にあるプファルツ城をバックに娘達と。Schloss Johannisberg 城・宮殿
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Sさんは早くに亡くなられたお父さんが弁護士であった所為か、ドイツ北部の軍港(シュレスヴィッヒ・ホルシュタイン州の州都でもある)で知られる、キール大学の法学部を卒業し、司法試験に合格したと言う。その後、3年の研修期間を終えて、1968年に裁判官に任官したそうです。
丁度、私が入社した年です。北ドイツ各地の裁判所の刑事・民事裁判を担当し、ブレーメン州最高裁の判事などを歴任して退職し、以来、悠々自適の年金生活を過ごされているようです。
弁護士のお父さんが亡くなられた後、一人息子のSさんをかかえて、お母さんは頑張られたようです。経営者(不動産?)として、才覚もあったと聞いている。
写真は(左上・右上)1985年5月14日、日本に帰国(5月31日)するにあたり、愛車メルセデス230を日本人倶楽部に売却提示した写真を撮った・・・直ぐ売れててしまった。
(左下・右下)1986年3月9日~29日、休暇でMさん一時帰国、3月21日~22日に拙宅に来訪し、1泊された。 -
①2005年4月21日 (木)~23日(土)2泊させてもらった。
期間:2005年4月21日(木)~5月5日(木)15日間
1982年から数えて 23年ぶりの北ドイツであり、1989年の来日以来、16年ぶりにSさんご夫妻と旧交を温めるべく、今回ブレーメンを訪れた。
写真は2011年5月13日~15日、BremenブレーメンのSさん宅に2泊した。 -
②かつての東ドイツ:ルター諸都市・Berlin・Dresdenなどを巡る旅で久しぶりにブレーメンのSさん宅を訪問した。
期間:2011年5月13日(金)~5月27日(金)15日間
この時も5月13日(金)~15日(日)と2泊、お世話になった。
写真は2011年5月13日~15日、ブレーメンの市庁舎したにあるケラーにて。ブレーマー ラーツケラー その他の料理
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Sさん宅はブレーメンの旧市街から、市電で10分程の住宅地にあります。
この住宅地は緑豊かな中庭をもち、近くには森のような、広大な市民公園もあって、恵まれた環境にある。
室内には亡くなられたお母さんが残した、大きな絵画(イタリア人画家ティツィアーノ・ヴェチェッリオの習作?)が架かり、大きな古い家具、ジュータン、アンチーク、食器などがいっぱいなのも変わりがありません。
1989年から住んでいると言う住いは敷地266㎡、庭はその半分ぐらいの広さで、半地下1階、地上3階の薄緑色の建物は延べ面積凡そ500㎡とか。半地下にも人が住めるような部屋があるが、間借り人は面倒らしく、置かないといっていた。
1階には、庭側から大きな絵画が架かる朝食の間、もう一枚の大きな絵画が架かる客間(夕食はこちらで頂いた)、居間というような3室が、間仕切りなく並んでいる。
2階はご夫婦の寝室などがあり、我々がお世話になった客室は3階の道路に面した側にあり、バスルームや自炊も出来るようになっていた。
反対側の庭に面して、Sさんの書斎・仕事部屋があり、難しい法律本や書類のファイルが並び、収集した記念切手のファイルも見かけた。
3階の上には屋根裏部屋もあって、古い家具などがいっぱいだ。
写真は2011年5月13日~15日、BremenブレーメンのSさん宅の裏手は美しい庭園位なっている。 -
③2014年ドイツ:北方二州:シュレースヴィヒ・ホルシュタイン州 &メクレンブルク・フォアポンメルン州を中心に巡る旅
期間:2014年5月9日~23日 15日間
3年ぶりにブレーメンのSさんご夫妻を訪ね、5月9日~11日まる2日間、行動を共にする。今回はお互い歳とった事もあり、Sさん宅には泊らず、ブレーメンの旧市街近くにホテルをとった。
ブレーメンの旧市街、Schnoor-viertelシュノーア地区には15~6世紀に建てられた小さな間口の狭い木組みの家などが、細く、曲がりくねった石畳の路地に立ちならんでいる。
金銀細工、手作りの工芸品やおもちゃ、骨董品等のお店があり、しゃれたカフェ・レストランもあって、散策するには大変楽しい地域だ。
その中に名物店「Katzen-Cafe 猫のカフェ」がある。夕食に訪れた店には赤いテント下にもテラスレストランがあるが、私共は2階の予約席に上がった。
写真は2014年5月10日、ブレーメンのSさんご夫妻と夕食を楽しんだ「猫のカフェ」Katzen Cafe カフェ
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④2019年ドイツの初秋:メルヘン街道と木組み建築街道の旅
期間:2019年9月18日(水)~10月3日 (木)
今回は5年ぶりになる。9月18日~9月20日、ブレーメンで2泊した。
前回同様に、Sさん宅には泊らず、ブレーメンの旧市街近くにホテルをとった。
Mさんも一層貫禄が出てきた様子、髪も私同様に一段と白くなった。
Sさんを年長に全員が70代以上だから、皆年をとった。
毎年のクリスマスカードで、何時ブレーメンに来るのか?と何度も誘われていたが、漸く5年ぶりに懐かしい御二人に会う事が出来た。
この後、コロナ禍でブレーメン訪問はできていない。
2021年のクリスマスカードには、Sさんも足腰、膝が衰えて、
日常の行動に難儀しているという。
・・・・・・・・・・
写真は2019年9月19日、ブレーメンのSさんご夫妻と、また夕食を楽しんだ「猫のカフェ」の看板。 -
*「Polterabendポルターアーベント」に因んで、ドイツの旅で見かけた新郎新婦、結婚式、「結婚の間(役所の戸籍係に婚姻届けをする場所)」といった写真も思い出しつつ、アルバムから見つけ出した。
以下に参考に添えた。
①2010年10月28日(木)71km 、曇り、時に小雨、8.5℃
<Das Forsthaus Schloss Foehren 古城ホテル シュロスフェーレン>
D-54343 Foehren (Trier) 、Hofstrasse 27
全4室及びDie Ferienwohnung(休暇用自炊付き)2室がある。
私共のHirschzimmer(鹿の間)は2階)にあり、朝食のみで、夕食は別途、紹介されたレストランを予約してもらった。
このホテルは小規模だけに現金払いか、事前送金が原則だった。
メールでの交渉の結果、現地現金払いでOKとなった。
2泊3日の料金Euro119X2=238でした。
写真はSchloss Foehren シュロスフェーレン・本城・・・中央の扉を開けると、「結婚の間(役所の戸籍係に婚姻届けをする場所)」がある。 -
Meulenwaldミューレンの森の中心にある古城ホテル(かつての狩猟の館)はTrierトリアーの町から21km東、車で15分の所にある。
その森に2400エーカーの狩猟場を持ち、秋の季節には野生のイノシシ、鹿を獲るのだ。
フェーレンは1445年以来600年近く、神聖ローマ帝国Kesselstattケッセルシュタット伯爵家の所有であった。その広大な領地はトリアー一帯を占め、他に例のないものであったと云う。
15~17世紀の間は水城であったが、現伯爵夫人の話では、彼女の祖母の時代に濠の澱みで蚊などが発生し、また臭いを生じたことから、濠を埋めたててしまったという。
現在の城は14世紀に築城され、1663年にバロック様式の宮殿に改装された姿をそのまま残したものである。そして、城の裏手に濠の名残である幾つかの池・沼が残っている。そこは城の周辺を散策する道があった。
見るべきものは周辺のフェーレン渓谷や森に囲まれた古城の外構えである。
写真は シュロスフェーレン・本城 -
連綿とした歴史を感じさせる宮殿は今も伯爵一家が住み暮らしている。
当代にあたる50代のGrafグラーフ(伯爵)とGraefinグレーフィン(伯爵夫人)のAlexandraアレクサンドラと、その両親、子供2人(長男は25歳とか言っていた)が一緒に本城の2階以上に住み、1階には事務所などがある。傍の建物には義妹が住み、妹夫婦はトリアーに住んでいるとのことだった。
写真はフェーレン城前で、姉妹の中で一番小さいと云う伯爵夫人Alexandraアレクサンドラと。
彼女の後の入口は「結婚の間(役所の戸籍係に婚姻届けをする場所)」に至る。 -
城内には結婚の届け出を行う場所もあって、その時は役所の方が出張ってくるらしい。
小さなホテル業と、祝宴・パーティー、研修、会議、コンサート、展示会も、この城の様々な建物を利用して行われているようであるが、それとは別に、城の周囲を囲む、ミューレンの森の恵み、広大な敷地から産するリンゴジュース、ジャム、ママレード、蜂蜜、イノシシ、シカ、ノロシカのソーセージなどを作り、販売もしている。12月にはクリスマスの市も立つのだと云う。
写真は立派な「結婚の間(役所の戸籍係に婚姻届けをする場所)」 -
宿泊した二日目の夜は結婚パーティーが私共の部屋の真向かいにある別棟で大勢の出席者が参集し、ダンスも行われ、盛大に祝われていた。
写真は結婚パーティーの準備が整いつつある別棟。 -
古城ホテルに最初に着いた時に、歓迎の意味でお茶をサービスされたが、そこでは立派な銀器がでてきた。しかも、センスのある居間や寝室のありようは小粋な、明るい伯爵夫人自身の手によるものと思われた。
写真は古城ホテル フェーレン:1階の朝食の間で、歓迎の意味でお茶をサービスされた。 -
日本でも旧皇族、宮家、華族などの係累であることが、世上の話題に出ることもあるが、今のドイツでもこの家のように古い家系を誇る一族も多くみられるのだ。
Graefin伯爵夫人であるAlexandraアレクサンドラはReichsgraefin von Kesselstatt 即ち、神聖ローマ帝国Kesselstattケッセルシュタット伯爵夫人の肩書とか、Graefin von Kesselstattケッセルシュタット伯爵夫人の肩書を名刺にしっかりと表記している。
写真は古城ホテル フェーレン:私共の広く、綺麗なHirschzimmer(鹿の間)は2階にありました。
<FoehrenフェーレンとSchloss Foehrenフェーレン宮殿の歴史>
ミューレンの森近くにフェーレンという人口2,700人の小村がある。
1445年以来現在に至るまで、神聖ローマ帝国Kesselstattケッセルシュタット伯爵家がこの小村に居を構えている。
現在はトリアー・ザールブルク行政区に属し、ローマワイン街道に沿ったSchweichシュバイヒの町と行政共同体を作っている。
元々、ケルト人・ローマ人の遺物が発掘されて、彼らの居住地であった事が知られている。
763年、フランク王ピピン(カロリング王朝)によって、この地域と建物はKloster Pruemプリューム大修道院に寄進されている。
最初の歴史書(1203年トリアー大司教Johannヨハンの書)に"Furna"という呼称で登場する。この呼称はローマ時代のoven ("furnace")かまど・溶鉱炉からきていると云う。
1340年、Kuno von Kuntzichクンチッヒ家のクノの命により、防御能力を持った城に改築され、その後、1406年には城や地域の半分が Friedrich von Schleidenシュライデン家のフリードリヒ (Pruem大修道院長)からAlf von Bassenheimバッセンハイム家のアルフに帰属した。
半分はKatharina von Kuntzichクンチッヒ家のカタリーナがArnold von Bassenheimバッセンハイム家のアーノルトとの婚姻の持参品になった。
1445年にAlf and Cone von Bassenheimバッセンハイム家のアルフとコーン 兄弟により、Friedrich von Kesselstattケッセルシュタット家のフリードリヒに譲渡された。以来、その所有は継続されている。
1663年、結婚したJohann Eberhard von Kesselstattケッセルシュタット家のヨハン・エベルハルトとトリアー選帝侯の長女によって、城は現在に残るバロック様式の宮殿に改築された。
ケッセルシュタット伯の城はかつて15~17世紀の間は水城であったと云う。
フェーレン宮殿はモーゼル川から遠く離れたFoehrenbachtalフェーレンバッハ渓谷沿いのミューレンの森の中にある -
蜂蜜やジャムが朝食の場に並び、その美味しい味に驚かされた。驚いたと言えば、森の泉から汲んだと言われた水のまろやかな美味にも吃驚した。
ドイツの水は硬水が多いのでなおさら驚いたのだ。
・・・
写真は古城ホテル フェーレン:美味しかった朝食・・・是非また泊まってみたい古城ホテルだ。 -
②2012年05月19日(土); 晴、22℃、98km(この日まで5日間で505kmとなった。)
<Feuchtwangenフォイヒトヴァンゲン観光>
13:25~14:00
フォイヒトヴァンゲンの町はローテンブルクからは東南方向30kmに位置する。
この町の小冊子にはIm Herzen der Romantischen Strasse(ロマンチック街道の中心・心臓)と表現されている。確かに街道を人の体に見立てれば、丁度、心臓の位置にあたる。ただ、街道の上下に中世を具現したようなローテンブルクとディンケルスビュールの有名な町があり、残念ながら、世評はそちらが高い。
この町はSulzachズルザッハ 川(ヴェルニッツ川の支流)沿いに、8世紀に設立されたベネディクト修道院を中心に発展し、かつてはフランケン地方の帝国自由都市として、中心都市の一つとして栄えたと云う。
現在では人口12千人のひっそりとした、忘れられたような町となっている。私の以前の旅でも通過してしまう町であった。
写真はフォイヒトヴァンゲン:マルクト広場の建物と噴水 -
<ベネディクト修道院教会前で記念撮影の結婚式の人たち>
Stiftkircheベネディクト修道院教会は町の中心にあって、デューラーの師であったMichael・Wohlgemutsミヒャエル・ヴォルゲムートが1483年に作ったマリア聖壇、木彫りの聖歌隊席が知られている。いずれも個性的で、見事な作りだ。
1949年以来、この町は夏の観光シーズンに修道院教会のロマネスク様式の回廊、庭園を利用して、オペラや演劇などの青空劇場になる。その季節は町が人であふれると云う。
教会の前では、結婚式をあげたばかりの新婚さんと、親族・友人たちがにこやかな顔をして写真を撮っていた。
・・・
写真はフォイヒトヴァンゲン:ベネディクト修道院教会前で記念撮影の結婚式の人たち -
③2012年5月23日(水); 晴、26℃、99km
<2012年・麗しの5月:カッツェンシュタイン城見学では城の幽霊バルドリアンにチップをねだられた!>
高さ18m・厚さ3mの天守閣は“Katzenturm猫の塔”の異名もある。
天守に登る所に、カッツェンシュタイン城のGeist Baldrian幽霊バルドリアンが自転車を漕ぎながら、チップをねだっていた。
猫の塔(天守閣)内に宝物が残されていて、宝物を守っているのはGeist Baldrian幽霊バルドリアンだそうだ。
写真は「Schlossgeistシュロスガイスト=お城の幽霊」:Geist Baldrian幽霊バルドリアン -
<Burg Katzenstein 古城ホテル カッツェンシュタイン城>
D-89561 Dischingen - Katzenstein 、Burg Katzenstein 1-3
全9室・12号室(2階)1泊2日Euro86(9,205円)。
騎士の古城群の中でも“真珠”と謳われているBurg Katzensteinカッツェンシュタイン城はロマンチック街道のネルトリンゲンから南西27kmにある。
海抜538mの高台にある、Hohenstaufenホーエンシュタウフェン朝の城郭内には1000年頃に建てられたロマネスク様式のBergfried天守閣、17世紀のPalasパレスが残る。
高さ18m・厚さ3mの天守閣は“Katzenturm猫の塔”の異名もある。
かつての緊急時の避難塔としての役割を示す、高さ約8mの所に出入口がみてとれる。
言い伝えによるとNeresheimネレスハイム僧院の建設者であったHerzog Tassilo III von Bayernバイエルン家のタシロ3世(カール大帝の従兄弟)が777年に建てたと云う。
その他、見所は後期ロマネスク様式の①Burgkapelle Hl. Laurentius礼拝堂には13~5世紀のフレスコ画の壁画が残っている。
騎士たちが酒宴を開いた②Jagtzimmer狩猟の間、
ロマネスクの丸天井の部屋は30mの深さの③Brunnenstube井戸がある部屋、
かつてカッツェンシュタインの騎士が居住した④Staufersaalシュタウフェン広間などだ。
写真はBurg Katzenstein カッツェンシュタイン城:“Katzenturm猫の塔”と城郭 -
城の歴史:
1099年、Herren von Cazzenstein カッツェンシュタインの騎士が、初めてこの地に築城した。後にGrafen von Dillingenディリンゲン伯の領地となり、1262年には新たな城主のEdlen von Huernheimヒュルンハイム家のエドレンが、この城の名に家の名を付けてHuernheim-Katzensteinヒュルンハイム・カッツェンシュタインと名付けた。
この城は文献によると、ハールブルク城とは異なり、1648年の30年戦争の終わり頃、仏軍とスウェーデン軍の攻撃で、再建の道が閉ざされてしまうほど、破壊されたという。
その後、1669年にGraf Friedrich Wilhelm Ernst zu Oettingen-Baldernエッティンゲン・バルデルン家のエルンスト伯により再建されてから、1939年までの270年の長い間、エッティンゲン・バルデルン家、エッティンゲン・ヴァラーシュタイン侯爵家の分家が、居城とした。
2008年、Familie Michael & Roswitha Walterヴァルター夫妻がカッツェンシュタイン城を所有し、古城ホテルや博物館をオープンした。
各地を訪れると、古城には伝説の一つ二つがある。
とりわけ隠された宝物伝説がつきもだが、このカッツェンシュタイン城にもあり、9年後の2021年6月、偶然にカッツェンシュタイン城の宝物が発見された。
(伝説が真実になるとき!)
・・・
写真はBurg Katzenstein カッツェンシュタイン城:近くの小学校の生徒さんが騎士の格好をして城内見学中でしたので、一緒に撮らせてもらった。
立っている中央の方がガイド役をしていた、この城の城主夫人です。 -
④2018年5月18日(金): 晴れ 、 19℃、 66km
<Berchingベルヒング>
10:15~11:20
http://www.berching.de/
Fraenkische Albフレンキッシェ・アルプの町、ベルヒングは人口8500人、マイン・ドナウ運河沿いにある。今まで知らなかった町だが、ベルヒングは「Kleinod des Mittelalters中世の宝石」と呼ばれるだけに、大変ドイツ的な美しい町だ。Beilngriesバイルングリースに近いだけあって、旧市街には色合いがよく似た美しい建物が軒を連ねている。
古くは10世紀にBischof von Eichstaettアイヒシュテットの司教が支配し、13世紀には要塞都市になった。15世紀、アイヒシュテットの司教侯爵のWilhelm von Reichenau(1426~96年)が建設した当時のまま、ほぼ完全に保存された旧市街を囲む1.2kmの城壁と連結した4 つの市城門、13 の塔によって知られています。中でもChinesenturm中国の塔、Pulverturm火薬塔、Neumarkter Torturm新マルクト門塔は見る価値がある。
写真は要塞都市Berchingベルヒングの旧市街:美しい市庁舎(左)やガストホフ、手前に結婚を届けた新郎新婦が乗る、華やかに化粧された車が用意されていた。 -
市城門、塔を確かめながら、城壁にも登って400mぐらい歩いてみた。やはり高く、小走りに行くには狭いから怖い。
所々にフランケンの要塞都市デッテルバッハにあった様な城壁に組み込まれたWiekhaus ヴィークハウスがあり、市城壁沿いに歩いてみるのも面白い。
写真はベルヒングの市庁舎に結婚の届け出に来たカップル・・・写真をお願いすると、嬉しそうな笑顔を見せた花嫁。 -
また、ベルヒングは「Gluckstadtグルックの町」と言い方もするが、公称ではない。
ハプスブルクの女帝マリア・テレジアの宮廷楽長でもあったChristoph Willibald von Gluckクリストフ・ヴィリバルト・グルック(1714~1787年)はベルヒングの一地区Erasbachエラスバッハに生まれた。
町にはベルヒングの博物館がある。時間が無くて見学をスルーしたが、彼はオーストリアとフランスで活躍したオペラの作曲家である。
バレエ音楽や器楽曲も手懸けたが、現在では歌劇「Orfeo ed Euridiceオルフェオとエウリディーチェ」により知られている。
中でも間奏曲「Reigen Der Seligen Geister精霊たちの踊り」は有名である。
オペラの改革者として歴史に名を残したが、面白いことにドイツ語オペラは1作も書いていないと云う。
写真はベルヒングは「Kleinod des Mittelalters中世の宝石」と呼ばれる城塞都市だ。 -
⑤2019年9月27日(金) 240km、晴れ、13℃
<Einbeckアインベック>
13:30~14:30 駐車時間と料金は1時間Euro1。
アインベックはバート・ガンデルスハイムと同じく、ニーダーザクセン州南部のノルトハイム郡に属す30.8千人のかつてのハンザ都市だ。
南のゲッティンゲンに約 30 km、北のヒルデスハイムに約 35 kmと近い距離にある。東に約 20 km行くとハルツ山地となる。
Stadt der Brau-und Fachwerkkunstつまり、ビールと木組みの家建築芸術という言い方をしているように、旧市街の景観は150棟以上の中世後期の木組み建築によって特徴付けられる。
写真はEinbeckアインベックの独特な旧市庁舎 -
<Alte Rathaus旧市庁舎:傘のような3つの尖塔がある旧市庁舎>
1540年の壊滅的な大火の後、当時の建築様式によって新たに再興(1549年~1556年)された。町のシンボルである傘のような3つの尖塔があるのが珍しい。中央に庁舎の入口に上る階段もある。
この日は結婚式もあり、旧市庁舎内で手続きをしている新郎新婦を階段下で人々が迎えるため、左右に並んでいた。
まん中あたりに左右の子供が綱を引っ張り、その綱に洗濯ばさみで吊り下げた御祝用の赤ちゃんの衣服が見える。
盛装の姿もあるが、日本のようには着飾っていないし、ジーパン姿の方もいる。
車椅子の娘さんも遠慮がちに端で待っていたが、良き日を皆と楽しんでいる様子が分かり、実に良いものだ。
写真はアインベックの旧市庁舎:庁舎内で結婚の届け出をしている新郎新婦を階段下で人々が迎えるため、左右に並んでいた。 -
⑥2019年9月29日(日) 79km 、 晴れ時々曇り、14℃~18℃
<Schloss Garvensburg 古城ホテル ガルフェンスブルク城>
Hotel . Cafe . Restaurant
D-34560 Fritzlar/Zueschenフリッツラー・チュッシェン 、Obertor 13 .
全14室。3階Paradies mit Turmzimmer塔内の円型の小部屋を含むパラダイス(天国の意味)の部屋 Du/WC 1泊2日Euro110(朝食込み)=13,313円。浴用ガウン、水0.5Lのガス入りの水一本のサービスがあった。
このホテルとは直接、メール交信して予約した。
カッセルの南30kmに位置する。
この城はかつて19世紀の初めまで、Herren von Meysenbug マイゼンブクの騎士領主家が保有していた。城の東側に見られるマイゼンブク家の4つの紋章は1500~1600年代のものである。1810年にこの家系が途絶えると、産業資本家のWilhelm Garvensヴィルヘルム・ガルフェンスが手に入れ、1894~1898年にかけて新しく改造されたものである。
写真は古城ホテル ガルフェンスブルク城の外観・・・この日宿泊したのは私共だけという借り切り状態で、思えば豪勢なものだった。 -
城の名も彼の名を付けたものだ。
1908年、英国風庭園を備えた狩猟館風なヴィラにした。このガルフェンス家は1970年代まで、城主としてここに住んだ。
その後、広告代理業およびコンサルティング会社が、この城をホテル・レストランとして開業した。
従業員の小母さんが「古城ホテルは2019年の年末で営業を終ってしまう」と嘆いていたのが耳に残っている。
(尚、2020年、ガルフェンスブルク城は南ヘッセンの家族に売却され、現在この家族が私有している)
古城ホテルの中に、地域の住民のために「結婚の間(役所の戸籍係に婚姻届けをする場所)」が用意されていた。
写真は古城ホテル ガルフェンスブルク城:「結婚の間(役所の戸籍係に婚姻届けをする場所)」・・・私有となって、結婚の間も無くなったかもしれない。
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(2022年2月24日Wiki等参考・訳、編集・追記)
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