2020/01/11 - 2020/01/11
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たびたびさん
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今回は久々に旧品川宿(北品川~青物横丁)とそこから鮫洲、立会川、大森辺りと平和島までを歩いてみることにしました。
ところで、品川宿は、東海道五十三次の第一宿。中山道の板橋宿、甲州街道の内藤新宿、日光街道・奥州街道の千住宿と並んで江戸四宿と呼ばれた宿場町ですが、品川湊、岡場所としての賑わいを始めとして、基本的なところである旅籠屋数や参勤交代の大名通過数で比べても圧倒的な存在です。
ただ、やっぱり、気になるのは幕末の頃。尊王攘夷の活動拠点は京都が中心だったにせよ、黒船が来航したのは浦賀だし、その後の開港地、神奈川(横浜)や東禅寺のイギリス公使館ほか諸外国の公使館が置かれた高輪・三田にも近い場所ですから、賑わいの一方で開国の刺激を強く受けた場所だったことは想像に難くありません。
ちなみに、例えば付近で起きた有名な攘夷の事件としては、文久元年(1861年)の水戸藩脱藩の攘夷派浪士がイギリス公使オールコックらを襲撃した第一次東禅寺事件。文久2年(1862年)には、東禅寺警備の松本藩士がイギリス兵2人を斬殺した第二次東禅寺事件ほか、薩摩藩島津久光の行列に乱入したイギリス人たちを殺傷した生麦事件に、長州藩の久坂玄瑞、品川弥太郎らによる御殿山のイギリス公使館焼き討ち事件とたて続け。この辺りで攘夷の空気は最高潮に達します。ただ、この時期の尊王攘夷はあくまで幕府をして率先して攘夷を実行させんとするもの。大和五條の代官所を襲撃した天誅組の変も、まだ討幕の考え方ではないと思います。
しかし、その後は8.18の政変による公武合体派の巻き返しから大政奉還までの回り道をしながらも、時代の流れはいよいよ討幕へ。慶応3年12月(1868年1月)、江戸市中取締の庄内藩新徴組らによる三田の薩摩藩邸焼き討ち事件は、討幕の大義名分を得たい薩摩側の挑発から起きたものでしたが、血気にはやる幕府側はその勢いのまま京都への行軍を開始。鳥羽伏見の戦いから始まる戊辰戦争に突入することとなりました。
少し長くなりましたが、幕末から明治にかけての激動の時代。品川宿からその周辺は、たぶん江戸市中ではもっともホットなエリアだった場所。町歩きをすると江戸の防衛のために東海寺や品川寺など寺を集めた関係で寺町の風情が広がっていたり、山内容堂や岩倉具視、板垣退助の墓に、薩摩藩、土佐藩の下屋敷跡など。むしろ静かな趣きなのですが、かつての時代を思いながら歩くと、また違う意味でその味わいが深くなるような気がします。
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品川駅から歩き始めて、旧品川宿に入ります。
一心寺は、品川の旧東海道沿いにある小さなお寺。 -
イチオシ
境内の案内よれば、安政の大獄で知られる大老井伊直弼が、「東海道第一の宿である品川宿で鎮護日本・開国条約・宿場町民の安泰を願え」との霊験を得て開いたという寺。成田山分身の不動明王を本尊とし、東海七福神のひとつ、寿老人も祀られています。
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ここも東海七福神つながりで。
養願寺は、北品川にある天台宗の寺で、通称は「品川の虚空蔵さま」。境内は、十三詣りで知られる本尊の空海作と伝えられる虚空藏菩薩を拝するためのしつらえ。お参りのために、ろうそくなどが置かれた受付所の先に、そのまま内陣が開かれた状態。天台宗で空海とは違和感もなくはないですが、お寺としての活気はあるように思いました。 -
ちなみに、こちらの東海七福神は布袋さんです。
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常行寺は、嘉祥元年(848年)、第3代天台座主、慈覚大師、円仁によって開山された天台宗の寺。ただ、円仁が開山・再興した寺は関東に209寺、東北に331寺余あると言われていますから、珍しいものではないでしょう。
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品川は江戸幕府が江戸の東海道入口という要所を守る軍事目的もあって、多くの寺を集められましたから、こちらもそうした寺のうちの一つ。大井から移されたようです。
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ほか、広重コレクションを有するということですが、その気配は感じられず。門から本堂にかけての境内はただただ静かなだけと感じました。
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長徳寺は、室町時代中期の寛正4年(1463年)創建の時宗の寺。
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こちらも静かなだけかなあと思ったら、
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境内の閻魔堂には、木造閻魔王坐像が祀られていて、南品川のおえんまさまとして知られます。
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イチオシ
たまたま見かけたお寺の奥さんに「見ますか?」と言ってもらって、お堂に入ると恐ろしい形相の閻魔様。なかなかいい感じじゃないですか。
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イチオシ
正面の天蓋も悪くないし、
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イチオシ
そして、ひと際目に留まったのは紙本着色六道絵という鮮やかな色彩の地獄絵。
真っ赤な火に焼かれる阿鼻叫喚の地獄。
地獄の業火で罪人が焼かれている場面ですよね。鍋で煮られている人もいるし、いかにも恐ろしい世界。 -
イチオシ
これは、地獄に仏。地蔵菩薩ですね。
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閻魔様が裁きをするんですが、
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イチオシ
生きている間に何をしたのか。残らず調べ上げられています。
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これは修羅の地獄かな。
阿修羅の手下となって日々争いに明け暮れる。 -
どこまで行っても、助かることはありません。
地獄とか極楽とか。仏教は悟りを得るのが究極の目的なんですが、そこに導くためには、こんなものも含めていろんな小道具が必要ということでしょう。
期せずに惜しげもなく見せていただいて、本当にありがとうございました。 -
さて、長徳寺の門前にあるのが遠州家。こちらには閻魔いなりという名物があって、テレビ東京の「出没!アド街ック天国」で紹介されたこともあるんですよね。
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このいなりは、何とピリ辛。
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食べ始めた時はそうでもなかったのですが、だんだんに効いてきて、うまいけど辛い。面白いいなりだと思います。
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続いての真了寺は、徳川家ゆかりの寺でもある日蓮宗 天妙国寺の塔頭として延宝元年(1673年)に創建された寺。
ペット霊園があったり、水ごり修行でも知られるようですが、まず驚くのは青銅で作った山門の奇抜さ。 -
修行をするブッダの姿や象のデザインはほかではちょっとお目にかかれないものだと思います。
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南品川の諏訪神社は、これも天妙国寺の関係。
弘安年間(1278年~1288年)、天妙国寺を創建した天目が寺の鎮守として創建。 -
もともとは海岸部にあったようですが、後に移転してこの地へ。ピンクの提灯がいくつもぶら下がって、これはなんでしょうね。境内は少し荒れた感じです。
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妙国寺の向かい側にある松林堂。一見見目立たない小さな食堂なんですが朝定食をやっているのに気が付いて入ってみました。
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なんか6時前からやっているんだそうですよ~
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ちょっと面白いから、いただいてみますか。
鮭の焼いたのと生卵に海苔とかの簡単な朝飯でしたが、やっぱり朝はご飯ですね!にっこりみたいないい気分になりました。 -
ラヴィアン クレールは、南品川。これも妙国寺そばのパン屋さん。朝からお客さんが次々やってきて地元では人気のようですね。
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三日月塩パンというのがあって、それにしてみましたが、しっくり歯ごたえがある生地で、なんだか新鮮なおいしさ。こういうヘビーなタイプでもしっかりおいしい。そのセンスに共感しました。
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レ サンク エピスも旧東海道沿い。間口の広い構えのしゃれた洋菓子屋さんです。
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使っている卵がこだわりのようなので、ここは定番のシュークリームをいただきました。見た感じからして、カスタードクリームの黄色の色が濃いような。まあ、味も悪くないですね。ただ、シューが固いタイプなので、食べるとクリームがはみ出しやすい。その食べにくさがちょっと面倒でした。
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青物横丁駅近くの大通りの方に移動して。木村屋は、ちょっと古びたパン屋さん。外観からするとちょっと大丈夫かなあという感じでしたが、店内は落ち着いた雰囲気もあって、どうということはありません。
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いただいたのは、揚げパン。まあ、可もなく不可もなくかな。地元密着のパン屋さんかなと思います。
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さて、ちょっとお腹が膨らんできたところで。。
品川寺は、南品川の真言宗醍醐派の寺。空海を開山として、大同年間(806?810年)に創建。江戸城を築いた太田道灌が伽藍を建立したり、少し関係していて、この辺りではそれなりにメジャーなお寺です。 -
山門手前にある銅造地蔵菩薩坐像は宝永5年(1708年)作。江戸六地蔵の第一番。
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山門を入って、
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奥の本堂で東海七福神の毘沙門天を拝見します。
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厨子の前に御前立みたいに立っています。
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イチオシ
周囲の壁には、何かなあ。密教の仏は多いですからねえ。
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明王とか。多すぎてよく分かりませんが、まあ、こういうものは雰囲気です。
ところで、境内はそれなりに広くて歴史も感じますが、ただ、少し荒れた感じもなくはない。ちょっとそこは気になりました。 -
続いての海雲寺は、江戸時代より火と水、かまどの神様、台所の守護神として多くの人々から信仰される千躰荒神を祀る寺として知られます。
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イチオシ
これが本堂かな。
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堂内に上がると
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いくつかの扁額が掛かっていて、その信仰の歴史が偲べる感じ。
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この絵天井は
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よく見ると火消しの纏のデザインかな。
なるほどね。これも千躰荒神に因んだもの。なかなか面白いです。 -
ここから、さらに南に下ります。
鮫洲運動公園は、京浜急行鮫洲駅のほど近く。野球のできる芝生のグランドもあるようですが、子供達が考えた「あったらいいな」と思うアイデアをもとに企画設計された遊具が自慢かな。こちらの児童公園の方がけっこう賑わっていました。 -
またしばらくは、寺社が続きます。
泊船寺は、永徳2年(1382年)、龍光和尚によって開山された臨済宗大徳寺派の寺。
江戸時代初期の住職だった千巌宗億(北条氏直の孫)は松尾芭蕉と親交があったよう。 -
境内は割と地味な感じですが、そのこともあって句碑が多い。
これは、松古庵無楽句碑です。 -
海晏寺は、ぐんと大きなお寺ですよ~
鎌倉時代、5代執権北条時頼が開基で、宋から招いた蘭渓道隆が開山という立派な由緒。 -
境内はアスファルト敷でけっこう殺風景なんですが、その広さはやっぱり並みの寺ではないことを感じます。
また、本尊の観音像は品川沖でかかった鮫の腹から出た物と伝えられていて、それが鮫洲の地名のもとだとか。岩倉具視の墓もあるはずでしたが、それはよく分かりませんでした。 -
ここから山の方へ。
大井公園は、丘陵部にある都市公園なんですが、この辺りには旧仙台藩伊達家の下屋敷や越前鯖江藩間部家の下屋敷があったという場所のよう。下屋敷は藩主やその家族は住まないので江戸城からは少し離れていてもOKなんですよね。
そんなこともあってか、旧仙台藩伊達家の下屋敷には高尾太夫の器を埋めたという塚もあったようですが、たぶん、陸奥仙台藩主、伊達綱宗の意に沿わず殺された高尾太夫のことかと思います。 -
そして、大井公園の奥の石段を上った先にあるのが山内容堂の墓。
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福井の松平慶永、薩摩の島津久光、宇和島の伊達宗城と並び幕末四賢侯といわれた容堂ですが、公武合体派であり、基本は佐幕。その考えは徐々に薩長と距離ができるのは致し方ない。討幕派の機先を制する形で大政奉還を建白した辺りが華だったような気がします。鳥羽伏見の戦いが始まると、板垣退助に率いられた土佐藩は官軍に付いて、もうその流れは変えようがない。一気に過去の人になってしまうのですが、それは島津氏や毛利氏も同じ。大名は要らない時代になりましたからね。
ちなみに、亡くなったのは、46歳。明治5年。晩年は土佐勤王党を潰し武市半平太を殺したことを悔いたとも言われますが、放蕩三昧の中での最期というのはどこか細やかな抵抗だったのかもしれません。
墓は円墳に墓石を配した珍しい形。この地は容堂の遺言によるもののようです。 -
さて、再び旧東海道の方に戻って。
鮫洲八幡神社は、鮫洲駅からすぐ。 -
古くは御林町という漁師町だった場所で、御林八幡宮と言っていたそうですが、昭和4年には白山神社を合祀。鳥居からまっすぐ奥の社殿は新しくて正面の唐破風が立派。昭和47年に造営されたものだそうです。
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この道が旧東海道ですが、品川からこんな風にずっと続いています。
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鈴乃家は、旧東海道沿いの蕎麦屋さん。
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名物のあなご天丼をいただきました。
丼からはみだしたあなごの天ぷらが豪快ですが、柔らかい仕上げなので、さくさくっと食べやすい。ただ、全体としてはおとなしい味わいなので、あんまり特別な感じはないかな。むしろ、リピーターを意識した薄めの味付けなのだと思います。 -
ここから、海側に出て。
しながわ花海道は、約2kmに及ぶ勝島運河の防潮堤に花畑を作ろうと立会川商店街と鮫洲商店街が中心となって始められた緑化プロジェクト。運河を臨んでもともと潤いのある景色。今の季節は冬枯れでしたが、桜の並木の下に、春は菜の花、夏はひまわり、秋はコスモスなどが咲くようです。
本当はこの先に浜川砲台もあったんですが、この日はちょっと見落としてしまいました。 -
さて、この辺りも寺社だらけです。
嶺雲寺は、慶長9年(1604年)、越前国出身の元武士、吉田半左衛門重房なる人物が商人に転身、ひと財産を築いて創建した天台宗の寺。外観は、どうかするとどこかの保養所みたいにきれいで瀟洒な構え。古臭い感じは全くありません。 -
梶原稲荷神社は、東大井の稲荷神社。
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鳥居から奥に伸びる古びた細い参道を行った先。
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狭い場所にひょっこり正面がサッシの社殿がありました。
ところで、この神社は、源頼朝の命により梶原景時が大井に萬福寺を創建した際、寺の守護神として勧請されたもの。梶原稲荷の梶原は梶原景時の梶原ですね。ちなみに、景時は、石橋山の戦いで源頼朝を救ったことから重用されますが、頼朝の死後、梶原景時の変で一族は滅びました。 -
山側の方に移動して。
来福寺は、正暦元年(990年)創建の真言宗のお寺。 -
かつては品川能美が望めたという高台の方に上って行った先。
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本尊は土中の読経を聞いて掘り起されたと伝えられる経読地蔵。
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境内もそれなりに広くて、
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これは阿波国藍商人の墓66基を明治になって合葬したという墓標群ですが、その他「世の中は三日見ぬ間に桜かな」の雪中庵蓼太の句碑。饅頭の祖、林浄因の碑もあって、なかなか多彩です。
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大福生寺は、これも山の上まで細い石段を上っていきます。
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明治15年、宇賀神実海によって開山された天台宗の寺。本尊の大聖歓喜天は、慈覚大師円仁が唐から持ち帰ったものと言われ、明治天皇が病気になった際、平癒の加持祈祷を修法したところ、無事治癒したことから生母の柳原愛子より奉納されました。
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境内にあれこれと由緒が詳しく説明されていて、かなりアピールしています。
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そこから、立会川沿いまで降りていくと、旧土佐高知藩山内家下屋敷跡。安政の大獄の中、安政6年(1859年)、山内容堂は隠居を願い出て、ここに移り住む。そして、2年半ほど、この下屋敷に謫居します。その後、文久2年(1862年)、謹慎を解除されると公武合体に尽くしますが、慶応3年(1867年)大政奉還を将軍に建白するという流れ。
ということで、容堂が一番苦しい時期を過ごしたのがこの下屋敷。感慨深いものがあると思います。 -
この辺りからは、立会川駅周辺です。
Cafe Lottyは、立会川駅そばの商店街の中。店頭で珈琲の販売をしたりして、ちょっと活気も感じるお店です。 -
店内は普通のパン屋さん。ちょっといい感じのクリームパンをいただきましたが、クリームはちょっと普通かなあ。二つのクリームを合わせたダブルの味になっているようないないような。クリームパンがウリのようでしたが、なんか微妙な特別感です。
さて、もう一度元気を出して。 -
イチオシ
龍馬像は、立会川駅を降りてすぐ。立会川龍馬通り商店街の中ほど、北浜川児童遊園の中にあります。この近くに土佐藩の鮫洲抱屋敷があり、土佐藩は黒船の再来航に備えて屋敷内に砲台を築くことを幕府に願い出る。たまたま江戸で剣術修行中だった19歳の坂本龍馬も動員され、その警備の任に着いたということ。
ちなみに、土佐勤王党の結成は文久元年(1861年)。龍馬が加盟するのは27歳の時です。
この銅像は、砲台の礎石の一部を高知に寄贈したお礼に高知から贈られたもののようです。大きさは違いますが、ゆったりした姿や雰囲気は桂浜の龍馬像に似ているように感じました。 -
龍馬像のある北浜川児童遊園の敷地の一角にあるのは仲町稲荷神社。龍馬像を背後から見下ろすような一段高い場所に、ぽつんとある小さな赤い鳥居と祠の稲荷神社です。
かつて、ここには北浜川の鎮守であった諏訪神社があったのですが、諏訪神社が天祖神社に合祀されたことから、境内摂社だったこの稲荷神社が取り残されたということのようです。 -
龍馬像を過ぎて旧東海道に出たところにある大黒屋 立会川店。外観はいかにも老舗の雰囲気があって、いい感じ。
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おかきやせんべいをあれこれ置いていて、おばあちゃんが応対してくれます。ここで焼いているのかどうかは分かりませんが、この雰囲気があれば寄ってみる価値は十分あるかと思います。
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少し歩いて、今度は涙橋。江戸から裸馬に乗せられて鈴ヶ森処刑場に向かう罪人が家族や身内の者とひそかに今生の別れをしたという場所。互いがこの橋の上で涙を流したことから、この名が付けられたようです。傍らに、駒札があって詳しい説明がありましたが、
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それがなければこんな風に普通のコンクリート橋です。
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さらに進んで。
天祖諏訪神社は、昭和40年、それまで立会川をはさんであった天祖神社と諏訪神社が天祖神社のあった現在地に合祀されたという神社。 -
境内は一段高い場所にあって、まだ新しい社殿も含めて清々しい雰囲気。
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東海七福神の福禄寿もお祀りしてありました。
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イチオシ
そして、いよいよといった感じの鈴ヶ森刑場跡は、第一京浜の傍ら。江戸期、江戸の北の入口、日光街道沿いには小塚原刑場。南の入口、東海道沿いにはこの刑場があったという関係です。
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周囲には柵も何もない場所ですが、磔用の木柱を立てた礎石などが残されていて、やっぱり一種異様な雰囲気。天一坊や八百屋お七もここで処刑されています。なお、江戸の入口に刑場を設けることで犯罪の抑止力にもなると考えていたというのは、なるほどそういうことかもしれません。
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さらにどんどん歩いて。
今度は磐井神社。こちらは、敏達天皇2年(573年)が起源とされる式内社。 -
平安時代は、武蔵国の八幡社の総社。
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江戸期には、鈴森八幡宮とも呼ばれ、将軍も参詣したことがあるのだとか。
第一京浜沿いにあって、悠々とした境内。 -
東海七福神の弁財天もここに祀られているんですが、
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なんかぬめっとした小さな木の像でした。
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もう少しがんばって、入新井萬霊地蔵尊は、大森駅と大森海岸駅のなかほど、入新井公園の片隅にある地蔵尊。
傍らに説明版があって。この辺りは、太平洋戦争下の昭和20年5月29日の東京大空襲で大量の焼夷弾が落とされ、大勢の犠牲者が出たところ。地蔵は昭和32年に建立されたものだそうです。地蔵は優しい面持です。 -
そして、最後の大森神社は、平和島駅から歩いてすぐの第一京浜沿い。社殿は整った意匠。しっかりした印象です。
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天正年間、黄金色に輝く像が流れ着き、村人たちが畏れて3度海へ返したものの、その度流れ着いたという言い伝えがあり、帰寄神社とも呼ばれたそうです。
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平和島からは品川まで電車で帰って。
晩飯は、もうあんまり食べる気力も残ってないので、ここは軽いところで品川駅のエキュートにある立ち食い蕎麦屋、吉利庵へ。 -
ネットの評判も良かったので訪ねてみましたが、口にするとそばはごわごわだし、出汁も濃い味。どうかなあ。しかし、食べ進めると、そばが柔らかくなってきて、コロッケが出汁に溶けるといい感じに。なんとかその辺で評判のよさの片りんも見えたような気がしました。
さて、以上で本日も無事終了。お疲れ様でした。
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この旅行記へのコメント (2)
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- くわさん 2021/06/22 12:00:59
- かつて住んでいた場所
- たびたびさん、こんにちは。
品川の旅行記拝見しました。
この付近、かつて住んでいたところで、みなれた風景の写真もあり懐かしく思い出しました。
あのあたり、空襲の被害が無かったのか、路地に手漕ぎの井戸ポンプが何カ所か残っているのですよね。
青物横丁のパン屋さん、かって通っていたトレーニングジムで知り合った方が経営されていました。今でも水泳を続けておられるのでしょうか。
あの閻魔様は初めて見ました。恐ろしいですね。閻魔帳。私の所業はなにが書かれているのか。今日もハエを一匹叩き殺してしまいました。いまから言い訳を考えておきたいと思います。
くわ
追伸
ちなみに4トラではありませんがブログに残していました。
http://kuwa72.cocolog-nifty.com/blog/2010/09/post-9835.html
- たびたびさん からの返信 2021/06/24 09:11:50
- RE: かつて住んでいた場所
- 私の住んでいた日暮里・谷根千辺りもたまに戦前の建物が残っていました。空襲でもここだけは被害を免れたんだとかの話は何度か聞いたことがありますね。
ただ、どっちにしても、それはスポットに限られていて、東京では面として江戸時代や明治時代を思いながら町歩きができるところはほとんどない。全体として現代の色が強すぎるんでしょうね。
もうちょっと東京の旅をアップしようと思っていますが、なかなか難しいところです。
たびたび
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