2020/11/13 - 2020/11/13
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たびたびさん
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今回の旅は、長野・軽井沢・草津、富士五湖と続く妹との二人旅、第3弾。体よく私を案内人にしているだけなんですが、まあそれでも、こんなことがないとなかなか行く気にはならなかったところ。それに、やっぱり久しぶりに行く場所なので、それぞれにまた新たな思いが湧いてくる。そういうことも含めて、あれこれ少し丁寧に書き連ねてみたいなと思います。
さて、会津と言えば幕末の会津藩のこと。戊辰戦争最大の戦い会津戦争の鶴ヶ城や白虎隊の飯盛山といった観光スポットが真っ先に浮かぶところですが、初日はJR会津若松駅から南下して、賑やかな市街の中心部、七日市通りの辺りを中心に散策します。
ちなみに、この七日町通りは、西の端がJR七日町駅なんですが、ただ、このJR七日町駅は磐越西線ではなく只見線の駅なので、郡山方面から会津若松に入る場合は玄関口にはなりにくい。やっぱり会津若松駅が玄関になるんですよね。
まあ、それはそれとして。鈴善、鈴木屋、福西、白木屋などなど、会津塗の漆器屋さんがいくつもあって、それが1番の見どころ。これに蔵座敷の豪邸を拝見すれば極上の会津というキャッチフレーズは面目躍如といったところかな。ほか野口英世関連にちょこちょこスイーツ、満田屋の味噌田楽も味わって、これなら1日十分に楽しめるコースであることを実感しました。
ところで、少し遡っての会津の歴史。源頼朝の仕掛けた奥州合戦により平泉の藤原氏が滅ぶと、鎌倉幕府の東北の支配体制は幕府の重鎮だった葛西氏を奥州惣奉行に置き、各所には地頭を配置するというもの。つまり、南部氏や伊達氏などもそうですが、これが奥州の新たな地生え勢力となっていくのですね。室町幕府はその流れを引き続き奥州探題には大崎氏を任じますが、伊達氏が陸奥国守護となると着々と力をつけ始める。伊達氏は大崎氏を圧迫するだけでなく、伊達政宗が摺上原の戦いで会津の蘆名義広を破るととうとう南奥州の覇権を握るまでになる。しかし、それは新たな天下人となった秀吉の奥州仕置きの方針に反する戦いであり、会津領は没収、会津には秀吉の命を受けた蒲生氏郷が入封することになります。それは言ってみれば新たなフェーズ。以降、以下の通り、中央政権からすると会津は一貫して奥州への楔の役割を果たす地になったような気がします。他面そのことで、例えば、蒲生氏郷が故郷近江、日野から木地師や塗師を呼び寄せて技術の伝承をさせたことが会津塗のルーツとなったりして、東北にあって特色ある会津の文化の一端となったわけですから、歴史はいろんな偶然があって面白いことだと思います。
天正17(1589)年 摺上原の戦い
天正18(1590)年 伊達政宗から会津領没収。蒲生氏郷が会津領を賜る。
慶長3(1598)年 蒲生秀行は宇都宮に移封。上杉景勝が会津に入封。
慶長6(1601)年 上杉景勝は米沢に移封。蒲生秀行が会津に入封。
寛永4(1627)年 蒲生忠郷死去。加藤嘉明が松山から会津に入封。
寛永20(1643)年 お家騒動で加藤家改易。保科正之が会津に入封。
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東京から会津若松へは、郡山で磐越西線に乗り換えとなります。
郡山でそれなりに待ち時間があるので何かないかなと調べたら、大友パン店という気になるパン屋を発見。さくら通りにあって、40年の歴史があるという老舗のパン屋さんなんですね。 -
そこの名物であり郡山のご当地パン、クリームボックスをいただきました。食パンにミルククリームをのせて、軽く焼いたもの。ほんのりした甘さが心地よいですね。そこまでのインパクトはないのですが、なるほどこれもありかなという味わいです。
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JR磐越西線は、郡山駅から会津若松駅を経由して新潟市の新津駅までを結ぶ線。
郡山から会津若松は1時間15分もかかるので、新幹線がないのはやっぱり不便だなという感じは否めませんね。ただ、車窓からは天気がいいとこんなふうに会津磐梯山がくっきりきれいに見えるので、ちょっと気は紛れると思います。 -
会津若松駅に到着。駅前にある白虎隊士の像です。大きなあかべこの像とどっちが目立っていますかね。
会津若松駅の周辺は、まだまだ観光地の雰囲気がない場所なので、せめてものこういう像があると観光地に来たという感じもしてきます。それにしても二人の見ている方向はどこなんでしょうね。お城の方なのかなとは思いますが。。 -
会津若松駅から、歩いて七日町通りに向かいます。ちょっと距離はあるんですけどね。
実成寺は、その途中。乾元2年(1303年)に創建されたという日蓮正宗の古刹です。 -
山門から入った境内は、本堂前にケヤキの古木が立って落ち着いた雰囲気。戊辰戦争の際に戦火にあったようですが、今でもその跡が残っているとかいないとか。特には気が付きませんでしたけどね。
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だんだん中心部に近づいてきまして、これは會ベーグル。こんなところに?という感じのベーグルの専門店です。
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店内にはたくさんの種類のベーグルが並んでいましたが、ここは基本のプレーンをいただきます。もっちりした生地は、歯ごたえも含めてさすが専門店といった感じ。けっこう価値あるお店です。
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伊勢屋は店構えからして、いかにも老舗のお菓子屋さんですよね。
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名物の椿餅というのをいただきました。
米粉のお餅にクルミと粟が入って、賑やかな柚餅子のような感じ。甘さもしっかりあっておいしいですが、なんとなく柚餅子に似ているかなとは思います。 -
七日町通りの東端辺りに到着。ここからは、会津塗のお店があちこちにあって。
鈴善漆器店は、天保3年(1832年)創業の老舗の漆器店。 -
通常の売り場のほかに、蔵を使ったギャラリーがあって、
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赤の漆のタンスや座卓などが展示されていました。ただ、聞いてみると赤の鮮やかなタンスは本漆ではなくて、ウレタンと言ってたような。意外な材料でちょっと驚きました。
まあ、プラスチックの素材も珍しくないようだし、技術の進歩によって漆器が身近なものになるわけで、一概にネガティブに考えるようなことではないでしょう。 -
イチオシ
ただ、木目が浮かぶこうした製品は伝統的な木製の素地。
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重厚な存在感で伝統を感じさせてくれます。
また、店内は広々しているので、自由に拝見。その悠々とした雰囲気がまたありがたいお店です。 -
続いての鈴木屋利兵衛も黒い漆喰の重厚な外観が印象的で、ちょっと寄りたくなる感じですよね。
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一階は、少しカジュアルなデザインの漆器が多いのですが、
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二階の方は伝統的な落ち着いたタイプの漆器。
高級品だと値段は張りますが、輪島塗と比べればやっぱりこんなものかな。楽しく目の保養ができました。 -
七日町通りをさらに西に進みます。
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福西惣兵衛商店は七日町通りのまだ少し東側寄り。会津塗の老舗ですが、外観は比較的カジュアルな印象です。
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商品もかわいい、かわいらしい的な商品が揃っているかな。
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お店の奥に蔵の座敷があるのですが、この日は非公開。ちょっと残念でした。
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イチオシ
そして、この堂々とした建物は白木屋。
七日町通りにはいくつもの会津塗のお店があるのですが、白木屋漆器店はちょっとダントツの存在かな。
この石造りのモダンな建物も目を引くし、 -
漆器の製作にかかる資料展示室なんかもかなり充実。
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漆を練りながら調合していく道具や
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塗りの行程なんかも丁寧に解説しています。
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美術品のような製品は名人の手によるものでしょうか。ちょっとした迫力も感じます。
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二階には
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また、これまでに作成された名品の展示室。結局、こうなってくると建物全体が博物館か美術館みたいな感じですよね。
ただ、少し目線が慣れるまで時間がかかるところもなくはないので、そこは落ち着いてゆっくり拝見すればいいかなと思います。 -
再び、七日町通りに出て
パンフィールシュンは、青い扉がおしゃれなパン屋さん。 -
店内も活気があって、私はクロワッサンをいただきました。ただ、このクロワッサンはもっさり。しっとり感がもう少しあるといいんですけどね。私の好みからするとちょっと違うように感じました。
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その並びにあるのは、清水屋旅館跡という案内板。幕末から昭和初年まで存在した旅館跡で、歴史的な人物が多く逗留したということ。説明版には22歳の吉田松陰、宇都宮戦争で傷ついて運び込まれた土方歳三、明治15年に1か月も宿泊していたという新島襄・八重の紹介がありました。
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ちょっと時間は早いんですが、ここで角を曲がって満田屋へ。こちらは、会津若松を代表する名物店。味噌田楽が大人気のお店です。
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まずは、販売所のスペースがあって、
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その奥の蔵の中のような場所が飲食スペースですね。
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囲炉裏を前にしたカウンター席で6種類の田楽のコースをいただきます。
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こんにゃくから始まって、
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イチオシ
豆腐、お餅、
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身欠きにしん、さといも、
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そして、しんごろう(ご飯を半殺しにしたもの)。
少し甘めの味噌の味がそれぞれの食材を引き立てて、これは絶品。これもまさしく「極上の会津」の一つなのかなと思います。
前回来た時は、喜多方の豆○、東山温泉近くのお秀茶屋で田楽をいただきましたが、そちらも名店ですよね。会津の田楽って、外せないグルメのような気もします。 -
喜久屋は、七日町通りからこれも少しわき道に入ったところ。小さな老舗のパン屋さんです。
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おばちゃんが応対してくれて、ミルクパンをいただきました。いや、これがなかなかいい感じ。ふんわりだけど歯ごたえもあって、この加減がいい。やっぱりさすが老舗のパン屋さんです。
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イチオシ
七日町通りの中ほどからさらに少し南に下がった辺り。
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末廣酒造は、大きな杉玉が下がって、迫力ある外観。白い漆喰の蔵も並んでいます。
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入口から
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奥に入ると、
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内部は悠々とした広い空間。酒作りの現場は拝見できませんでしたが、この雰囲気を体験できるだけでも十分かな。
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そして、その奥にあるのがクラシックカメラ館。
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有料の資料館なんですが、世界のクラッシックカメラの名機・珍品を500台以上展示して意外に壮観。整然とショーケースに並んでいて、静かな雰囲気の中で拝見します。
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折り畳み式とかレトロなカメラに映画でも撮影するのかと思うような大型のカメラとかも。酒蔵は全国的に見ても文化の継承に貢献しているところは珍しくはない。酒蔵とカメラもそう無縁な取り合わせではないかもしれません。
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再び、七日町通りに戻りまして。
鶴乃江酒造は、七日町通りの中ほどにある地元の酒蔵ですが、規模は小さ目。 -
以前は、内部の見学もできたようですが、今はやっていないとのこと。そうなると通りに面した売り場を拝見するくらい。ちょっと寂しいかもしれません。
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会津新選組記念館まで来ると、七日町通りのもう西側寄りですね。
新選組は京都守護職に任ぜられた会津藩の下で働いていた組織ですから、会津とは縁が深いことは深いのですが、結果としてみると、過激な活動が薩長の恨みを高めたきらいもあってちょっと微妙な位置づけかな。駄菓子屋さんみたいな賑やかな店内の奥に有料の展示室もありましたが、あんまり気持ちが乗らないのでパスしました。 -
さらに進んで、これはお菓子の家 太郎庵。会津若松市内にはいくつかお店があって、地元では比較的メジャーなお店かな。
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いただいたのは豆大福。
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餡子の餡さに艶があって、やっぱりちゃんと個性がありますね。
あとお店の入り口のステンドグラスなんかもおしゃれです。 -
その向かい側は、熊野屋。なんか雰囲気のあるお団子屋さん。
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みたらし団子とか何種類かの団子がありましたが、こちらでは餡子のだんごをいただきました。餡子は意外におとなしめ。甘さが抑えられているので、ちょっと地味な印象はありますが、飽きの来ない味わいかなと思います。
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もう一軒は長門屋です。店内もちょっと高級感が漂って、やっぱり会津若松を代表する和菓子屋さんですよね。
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一方で、ちょっと遊び心でしょうか。滋養パンというのがあって、うさぎぱんをいただいてみました。味わいは地味なんですが、体にいいのかな。半分お菓子に近いような優しい味わいが印象に残りました。
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もうそろそろ西の端といった感じなんですが、これは工房鈴蘭という小さな工房。
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こちらも基本は会津塗だと思うのですが、それと見間違えるようなプラスチック製品もあったりして、もっと素材は自由でカジュアルです。日常に使う分には、こうしたものの方が気軽なのかなあ。持った時その軽さで気が付きましたが、ちょっと不思議な感じもしてしまいました。
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イチオシ
阿弥陀寺までやってきて、とうとう七日町通りの西の端ですね。
境内には、戊辰戦争戦死者が埋葬された東軍墓地やこの斉藤一の墓もあって、会津の少し悲しい歴史を味わえる場所。境内は塀もないし、けっこうざっとした感じ。紅葉したもみじがきれいでした。
ちなみに、斎藤一は、新選組三番隊長で、新選組でも一番の剣豪だったとされる人物。戊辰戦争の激戦を生き抜き、その後、藤田五郎と改名。会津藩士の娘と結婚して、会津人としての後半生を送ることとなりました。近藤勇の墓はずっと郊外でしたが、会津のこんな街の真ん中で眠ることになってます。 -
その奥が鶴ヶ城本丸内から移築された御三階。鶴ヶ城天守閣近くに御三階跡というのがありますが、そこからここに移されました。
御三階は名前の通り外観上は三階ですが、実は内部が四層になっているという不思議な建物。かつては、密議の場所として使われていたようですが、ひょろっとした高さには風雅な印象も持ちました。 -
七日町通りを東の方に戻ってきて。今度は、野口英世青春通りを歩きます。
これは、野口英世青春館。明治17年に建てられた蔵造り洋館で、野口英世が左手の手術を受けた会陽医院跡です。 -
その黒い漆喰の重厚な建物の二階。
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「志を得ざれば再び此地を踏まず」の固い決意を生んだ英世の生い立ち。大やけどを負って左手が不自由になったとか。地元の名士に大きな支援を受けただとか。命を懸けて黄熱病の研究に尽くしたとか。
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誰もがそれなりに知っていることでしょうが、ここでビデオを見たり、資料を拝見するとまた新たな感動が湧いてくるように思いました。
ところで、この建物の一階には会津壹番館という喫茶店があります。店内は石造りの蔵の雰囲気が素晴らしくて、ちょっとうっとりするくらい。野口英世青春館で少し気持ちが高揚した分、その雰囲気がいい感じでほぐしてくれるような気がします。 -
イチオシ
野口英世青春館の隣りにあるのが福西本店母屋。会津で300年の歴史を持つ商家。明治に入り、味噌醤油、漆器などに商売を拡げ、100年ほど前の9代目伊兵衛の時代には、会津銀行の頭取に就任し、岩越鉄道(今の磐越西線)や猪苗代水力電気の設立に参加するなど、会津を代表する大商人となったのだとか。この建物はその9代目の伊兵衛が建築したもの。黒い漆喰の豪壮な外観はかなりの迫力ですよね。
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内部の拝見ができるのですが、入口はこの奥ですね。
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イチオシ
ほ~、廊下や柱、天井に至るまで漆塗りかな。磨きこまれてピカピカじゃないですか。これは外観から想像していた以上のすごさですよ。
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最初の蔵座敷ですが、
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こんなに広いのに隅から隅までさらにピカピカ。
なんか部屋ではなくて、全体が家具みたいですよね。 -
お屋敷の中は迷路みたいですけど、奥に進みましょう。
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離れ座敷みたいな部屋です。
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金地の屏風も傷んだところがなくて、現役バリバリ感がすごいですよね。
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別の一角にも
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ちょっと小ぶりな蔵座敷。
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二階にも上がってみますと
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細い廊下の先には
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明るい和室。勿体のありそうな床の間です。
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最初の場所に降りてきて、
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また、こちらにも蔵座敷。
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あらら。畳敷きの大広間。蔵座敷なのにこんなに広いです。
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奥の方にちゃんと床の間もあって、やっぱり広いだけじゃないですよね。
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地袋の絵もさっきの屏風と同じで傷みがない。蔵座敷だと傷みが少なくなるんでしょうか。
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ここからは、離れの座敷の方も見えています。
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またまた蔵座敷。
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ここは小さいですけどね。
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ここは、なんとなく上間かな。
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蔵座敷と違って、続きの間も光が左右から入ったり、
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イチオシ
書院の方から光が入るとやっぱりほっとすることはほっとしますからね。
だいたいこれで回ったと思いますけど、蔵座敷が大きいのから小さいのからいったいいくつあったんでしょうね。それだけでも、豪邸という表現では表現しきれないお屋敷です。
ただ、お屋敷は共通スペースというか。外部の人が比較的自由に出入りするスペースが全くない。すべてが家族のためのプラーベートな空間というか、少なくとも近しいお客さんが入るスペースのような感じ。これだけ大きな建物を維持するためには住み込みの奉公人が必要だったでしょうし、そもそも大きな建物は商家として多くの人を招き入れる目的があったりもするものなのですが、そういう匂いも全くしない。つまり、成功のための建物ではなく、成功の証としての建物だったような気がします。ただ、それが故に会津人としての自負心や矜持を意識せざるを得ない。豪壮一辺倒ではなく繊細さや控えめな上品さも併せ持った雰囲気は、もしかしたらそういうこともあるのかもしれないなと思います。 -
再び、野口英世青春通りに出て少し南に下がると野口英世青春広場。入口は少し狭い感じですが、奥が深くて、
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一番奥の少し高い場所に野口英世の銅像が立っています。
ほか敷地内にモンゴル物産館というのがありますが、ちょっと意味は分かりません。 -
今度は神明通りに出てきました。この通りは、七日町通りの東端から右折して、南の鶴ヶ城方面に向かう通り。屋根付きの歩道で、「神明商店街」と書いてあるのでそれと気が付きました。
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その中ほどにあるのが神明神社。入ると意外に奥の深い境内ですね。応安2年(1369年)神道流槍刀術の祖飯篠山城守家直が勧請し、六代後の孫七郎太夫盛枝が御神体を奉じ会津に来たところ、葦名氏の深く信仰するところとなったということ。まあ、それなりの歴史かなという感じです。
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ここから神明通りの東側のエリアに入ります。
すぐにあるのが興徳寺。鎌倉時代に創建された臨済宗妙心寺派のお寺。境内の目立つところに蒲生氏郷の墓があって、それが見どころ。 -
会津若松の若松は氏郷の故郷ゆかりの名前だし、会津塗を持ち込んだのも氏郷の功績。信長の娘婿という立場で天下も望めたかもしれないという氏郷は会津行きを快く思わなかったともいわれていますが、会津にとっては大きな存在。立ち寄る価値は大いにあると思います。会津塗や会津本郷焼など今の会津の文化の基礎を築いた会津の大恩人です。
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その裏手に回ると見えてくるのが昭和12年に完成した戦前の建物、会津若松市役所本庁舎。
昭和天皇の即位記念事業として建設が議決されたのですが、財政難のために完成までにはしばらくかかったようです。石造りで今でも頑丈そうですが、今後、耐震工事とかが行われる予定だということです。 -
近くにあるこの甲賀町口門跡は、蒲生氏郷の行った若松の町割りに由来するもの。
氏郷は、城下町を武士の住む郭内と町人の住む郭外とに分け、郭内と郭外の間は深い外堀りと土塁で区切り、16の郭門を設けます。その一つで唯一残るのがこの門跡だとか。規模はさほどでもないですが、石垣は切り立っていてそれなりの迫力は感じます。 -
このエリアでも少しグルメチェック。日本一 本店は、繁華街風の一角にある小さな餅や赤飯と手造り和菓子のお店。
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お菓子の種類はかなり豊富なんですが、黄色い色が鮮やかなあわまんじゅうがあって、それにしてみました。甘さがしっかりあって、これはおいしいですね。飯森山のあわまんじゅうより、こっちの方がおいしいように感じました。
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そして、もう一つは桐屋 権現亭。小腹が空いたところで、
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軽くざるそばをいただきました。
心持ちしゃきっとした系のそば。ただ、それはそこまでの特徴ではなくて、むしろ安定感のある正統派のそばといった感じ。店内の雰囲気もいかにも老舗風です。 -
元気が出たところで。。
曾州一蔵品館って、それらしい名前だし、気になって訪ねてみました。中心部からは少し遠いですね。 -
建物の説明版があって、それによると。曾州一蔵というのは江戸時代から続いた酒屋。会州一の酒銘柄で、この建物も会津若松市の歴史的景観指定建造物に指定。保存の声が高いことから、コープあいづが補助金を受けて協力したのだそうです。
外観は白い漆喰が美しい蔵造り。なお、店内は衣料品を扱ったりするショップです。
ちょっとこれは余計だったかもしれませんね。 -
再び、中心部に戻ってきて。
白虎堂は、古風な構えの老舗お菓子屋さん。 -
名物はなんですかと尋ねると「あいづじょっこ」ということで、それをいただきました。意外にも、これはサブレですね。アーモンドのスライスが含まれていて、それが景色になっていてきれいです。
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続いては、吉田菓子舗。
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で、こちらの看板商品は、巴最中。小さな最中なんですが、この餡子はなんでしょう。艶とかコクがあって、何とも言えないおいしさがありますね。インパクトありの最中です。
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ほか、店内にはパンも置いていましたが、これも焼き色がとってもきれい。そっちもけっこう気になりました。
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竹藤は、外観からしていかにも会津若松の名物店。現在の建物は、寛永元年(1624年)の築で、会津でも最古の商業建築。竹製品のお店ですが、店内は昔の生活雑貨と一緒に融合したような感じで、その感じがとっても面白い。奥の方にたけとう茶屋という甘味処もありました。時間があれば、寄ったんですけどね。
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ここから鶴ヶ城を目指しつつ。。
日本基督教団若松栄町教会は、野口英世ゆかりの教会。福島県立葵高等学校の裏手にあります。
現在の建物は明治44年に建てられたもの。野口英世は、ここで洗礼を受けたということです。会陽医院で勉強していた頃、初恋の人、山内ヨネとの恋の悩みや人生相談に乗ってもらったことがきっかけとなったようです。まあ、観光スポットとしてはちょっと微妙ですけどね。 -
直江兼続屋敷跡 山鹿素行生誕地は、神明通りを南下して、もうすぐ鶴ヶ城という辺りの交差点角。小さな公園のような場所です。奥には山鹿素行生誕地の碑が建っていて、それがまずは目に入りますが、手前に直江兼続屋敷跡の説明版があります。
上杉景勝が120万石の城主として会津入りを果たしますが、直江兼続は筆頭の家臣。ここは鶴ヶ城にも近いし、さぞや大きな屋敷を構えたものと推測されます。
また、山鹿素行は、山鹿流兵法及び古学派の祖。会津で生まれた人ではあるのですが、朱子学を批判し赤穂藩へお預けの身となっていた際、赤穂浪士に教育を行っていたことが、事件以降、「実戦的な軍学」という評判となったり、最期は平戸藩のお抱えとなって、平戸藩の家老にもなっていて、会津というイメージは薄いような気がします。 -
さらに南下して、これは日新館跡。会津若松城趾西側のお堀端道路脇に石碑が建っています。
日新館は、会津藩五代藩主、松平容頌の頃に整備された藩校。享和3年(1803年)に完成。会津藩士の子弟を対象に文武両道の教育を行い、白虎隊の志士もここで学んだということです。戊辰戦争で焼失して、今は当時の面影はありません。 -
で、ここからは、お堀越しに鶴ヶ城の紅葉が見事ですね。
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イチオシ
天守閣ともなかなかよく合いますね。
日が暮れてきましたが、何とかこれなら天守閣にも登れそうです。急ぎましょう。 -
鶴ヶ城はかなり久しぶり。でも、こんなだったかな。ちょっと印象が薄れてましたね。
ちなみに、蒲生氏郷が築いた天守閣は七層だったようですが、江戸時代に入って再建され、戊辰戦争を戦った際の天守閣は五層です。明治に取り壊されて再建されたのが昭和40年。さらに、平成23年には、45年ぶりに屋根が葺き替えられ、幕末当時の姿である赤瓦となりました。しかし、あまり目立つ赤ではないので、この時間だと分かりにくいですね。 -
太鼓門を入って、
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すぐにあるのがこの鶴ヶ城の稲荷神社。鶴ヶ城築城の縄張りに苦心した芦名直盛が城の守護神として祀ったと伝わる神社。600年の歴史があるようです。
天守閣を見上げる場所ですが、こちらも少し高台。参道の両側の狐は、菅笠を赤いほおかむりで頭に縛っていて、ちょっと面白い。見どころの一つになっています。 -
紅葉も、この辺りが濃いですね。
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天守閣前の広場です。
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そして、天守閣の入口手前に大きな石碑があって、これは萱野国老殉節碑。
萱野というのは、萱野権兵衛。会津藩の国家老。戊辰戦争の陣頭指揮を執り、敗戦処理では、城の明け渡しや藩主父子の助命も嘆願。藩主は死を免れますが、戦争責任は家老である萱野権兵衛が一身に背負い切腹したということ。すべては忠義のためとはいえ、潔いだけでは済まない無念の最期だったのではないかと思います。 -
あと、御三階跡もチェックして、
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ここから天守閣に入ります。
ところで、鶴ヶ城は、会津若松城と呼ばれることも多いようですが、地元では鶴ヶ城というのが一般的。 -
戊辰戦争の際に、この城は1か月の間持ちこたえ、板垣退助勢に、薩摩の援軍の助けをかりても遂に城は落ちなかった名城です。
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現在の天守は、鉄筋コンクリート造で、
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内部は若松城天守閣郷土博物館。
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資料は白虎隊等、
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戊辰戦争にまつわるものも多いのですが、
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戦国時代には、葦名、伊達、蒲生、上杉、その後、保科、松平と多くの英傑が治めた歴史。そっちの方もそれなりに興味深いところです。
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これは、最近復元された干飯櫓・南走長屋なんですが、
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長く延びる構造はちょっとした迫力もあって、鶴ヶ城のもう一つの見どころになった感がありますね。
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最後は鉄門の方から帰ります。
これで、今日の予定は無事終了。ギリギリ間にあったかなという感じです。 -
晩飯のお楽しみは、田季野の名物はわっぱ飯。わっぱ飯の元祖がここだということで、予約をしておいたんですよね。ただ、今の時期はお客さんはまばら。心配することはなかったようです。
お店は藁ぶき屋根の古民家風。 -
中に入ると大きな空間が出迎えてくれました。奥の座敷で注文して。。
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イチオシ
さて、わっぱ飯の方ですが、熱々に蒸されたのが出てきまして。炊き込みご飯と比べると柔らかくて水分も多い。出汁がよく効いていて、全体が一体になったおいしさがありますね。体にも優しいような気がします。
ごちそうさまでした。 -
今夜の宿は、会津若松駅そばのワシントンホテル。
明日から二日間はレンタカーの旅。ゆっくり休みましょう。
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