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 源頼朝(久安3年(1147年)~正治元年(1199年))墓(https://4travel.jp/travelogue/10522640)の東隣のやや低い平地に北条義時(長寛元年(1163年)~元仁元年(1224年))法華堂跡があり、この平地から上った山の山頂付近の源頼朝墓よりも相当に高い場所に島津忠久(治承3年(1179年)~嘉禄3年(1227年))墓(安永8年(1779年)に造営)、大江広元(久安4年(1148年)~嘉禄元年(1225年))墓(文政6年(1823年)に造営)、毛利季光(建仁2年(1202年)~宝治元年(1247年))墓(大正10年(1921年)に移設・造営)の三公墓(https://4travel.jp/travelogue/10481128)がある。三公墓前から山道が参道として整備され、法華堂山の中腹を通り、何mか下ると源頼朝墓がある。三公墓が源頼朝墓よりも高い位置(主君を見下ろす場所)にあるのは、古代に造られた横穴墓を江戸時代から大正時代になって再利用したからであると考えられている。鎌倉時代まで遡ると北条義時法華堂が源頼朝法華堂よりも低い位置にあるのは当然のことと考えられている。<br /> また、この三公墓は東側、すなわち源頼朝墓(源頼朝法華堂跡)から遠い位置から順次造営されていることである。幕末における薩摩藩・島津家と長州藩・毛利家の関係、親密な関係、が伺い知れる。それでも18世紀に源頼朝墓と家祖・島津忠久墓を造営した薩摩藩・島津家は源氏の血を引き、法華堂山全体の統括者としての認識があったために19世紀に入ってから(源氏ではない)中原姓であった家祖の父親・大江広元や家祖・毛利季光の墓の造営・改修を始めた長州藩・毛利家とは多少のいざこざがあったようだ。<br /> あるいは、島津忠久墓参道入口に長州藩家老村田清風の句碑(明治23年(1890年)銘)が建っている。<br /> なお、薩摩藩主・島津重豪(しげひで)は源頼朝墓を建てさせてもらったお礼にと自分の娘(広大院)を次の11代将軍・徳川家斉の御台所として差し出した。さらに建てた頼朝墓の祭祀権を得るためにまた娘を差し出そうとしたが本家には良い娘がおらず、藩主・島津斉彬は分家の一(かつ)を本家の養女とし五摂家筆頭近衛家の娘として将軍家に輿入れさせ、まんまと頼朝墓の祭祀権を得ることに成功した。この時の分家の一が13代将軍・徳川家定の御台所となったあの有名な天璋院(てんしょういん)篤姫である。以来、島津家当主が頼朝公墓前祭に参列するのが習わしとなっており、それが鎌倉まつりのメインイベントともなっている。<br />(表紙写真は奥から毛利季光墓、大江広元墓、島津忠久墓)

北条義時法華堂跡と三公墓-2020年冬

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2020/02/01 - 2020/02/01

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ドクターキムル

ドクターキムルさん

 源頼朝(久安3年(1147年)~正治元年(1199年))墓(https://4travel.jp/travelogue/10522640)の東隣のやや低い平地に北条義時(長寛元年(1163年)~元仁元年(1224年))法華堂跡があり、この平地から上った山の山頂付近の源頼朝墓よりも相当に高い場所に島津忠久(治承3年(1179年)~嘉禄3年(1227年))墓(安永8年(1779年)に造営)、大江広元(久安4年(1148年)~嘉禄元年(1225年))墓(文政6年(1823年)に造営)、毛利季光(建仁2年(1202年)~宝治元年(1247年))墓(大正10年(1921年)に移設・造営)の三公墓(https://4travel.jp/travelogue/10481128)がある。三公墓前から山道が参道として整備され、法華堂山の中腹を通り、何mか下ると源頼朝墓がある。三公墓が源頼朝墓よりも高い位置(主君を見下ろす場所)にあるのは、古代に造られた横穴墓を江戸時代から大正時代になって再利用したからであると考えられている。鎌倉時代まで遡ると北条義時法華堂が源頼朝法華堂よりも低い位置にあるのは当然のことと考えられている。
 また、この三公墓は東側、すなわち源頼朝墓(源頼朝法華堂跡)から遠い位置から順次造営されていることである。幕末における薩摩藩・島津家と長州藩・毛利家の関係、親密な関係、が伺い知れる。それでも18世紀に源頼朝墓と家祖・島津忠久墓を造営した薩摩藩・島津家は源氏の血を引き、法華堂山全体の統括者としての認識があったために19世紀に入ってから(源氏ではない)中原姓であった家祖の父親・大江広元や家祖・毛利季光の墓の造営・改修を始めた長州藩・毛利家とは多少のいざこざがあったようだ。
 あるいは、島津忠久墓参道入口に長州藩家老村田清風の句碑(明治23年(1890年)銘)が建っている。
 なお、薩摩藩主・島津重豪(しげひで)は源頼朝墓を建てさせてもらったお礼にと自分の娘(広大院)を次の11代将軍・徳川家斉の御台所として差し出した。さらに建てた頼朝墓の祭祀権を得るためにまた娘を差し出そうとしたが本家には良い娘がおらず、藩主・島津斉彬は分家の一(かつ)を本家の養女とし五摂家筆頭近衛家の娘として将軍家に輿入れさせ、まんまと頼朝墓の祭祀権を得ることに成功した。この時の分家の一が13代将軍・徳川家定の御台所となったあの有名な天璋院(てんしょういん)篤姫である。以来、島津家当主が頼朝公墓前祭に参列するのが習わしとなっており、それが鎌倉まつりのメインイベントともなっている。
(表紙写真は奥から毛利季光墓、大江広元墓、島津忠久墓)

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  • 大江広元墓参道から平地には道路がある。これは大蔵幕府裏までであり、頼朝法華堂参道のように金沢街道までは続いてはいない。義時法華堂参道として鎌倉時代・13世紀の第一四半世紀に整備されたのであろう。

    大江広元墓参道から平地には道路がある。これは大蔵幕府裏までであり、頼朝法華堂参道のように金沢街道までは続いてはいない。義時法華堂参道として鎌倉時代・13世紀の第一四半世紀に整備されたのであろう。

  • 大江広元墓参道入口。鎌倉市のホームページ(https://www.city.kamakura.kanagawa.jp/kankou/korearata-hokkedou80450.html)には「覚阿大江公御塔前」と刻まれた4基の石灯籠は薩摩藩(幕末)や島津家(明治)との折り合いが付かず、明治5年(1872年)に設置されたとある。ただし、これらの石灯籠は幕末に制作され、鶴岡八幡宮の十二坊(頼朝時代には25坊あったが、その後、衰退し、7坊まで減少していたが、徳川家康により5坊が新たに創建された)の浄国院に放置されていたものである。<br />なお、「西阿大江公御塔前」と刻まれた石灯籠は鶯ヶ谷に設置されていたはずで、大正10年(1921年)に毛利季光墓を移設する際に「覚阿大江公御塔前」と刻まれた石灯籠を1基だけ置き換えたものであろう。参考文献である岸本覚「鎌倉薩長藩祖廟と明治維新」(吉川弘文館 田中彰『幕末維新の社会と思想』所収1999年11月)にホームページにある内容が記載されているとしたらそれは間違いである。<br />執筆担当者の岸本覚氏は地方(北海道)の高校教師であり、ロジックはからきし駄目だ。文章は支離滅裂で、内容には間違いや思い込みが多く見られ、「鎌倉薩長藩祖廟と明治維新」の内容については信憑性を考慮すべきである。私もこれ程レベルの低い本は中々お目に掛からないほどだ。ホームページの担当者のせいではなかったのだと感じている。なお、本書は鎌倉市の図書館には1冊しか蔵書(鎌倉中央図書館)がなく、本書は8,000円(税別)と高価であるからであろう。しかし、この程度の内容では一般の人の目には触れない方がむしろ良いのかも知れない。<br /><br />[岸本覚「鎌倉薩長藩祖廟と明治維新」の書評]<br />★★★☆☆<br />「論理性が低く、多くの間違いと誤った思い込みが散見される」<br /><br />「この地」(P.268)は法華堂跡がある大蔵山(法華堂山)だけ(の単数)ではなく、複数の場所(他に鶯ヶ谷)を含むべきである。このことは、p.271にある図1-2の注2にあるべき「大正10年」の移転の時期を把握していないことに起因していよう。これは毛利季光の墓を訪れて石碑に追刻された「大正十年」銘から誰でも分かることだ。<br /><br />「石灯籠二基」(p.269)から広元墓入口石段の上下にそれぞれ対で二基づつの石灯籠が建っていたことを想像だにしていない。それだから、図1-2の③、④、⑤となっており、③と対になる石灯籠がない。ここの場所に「西阿大江公御塔前」の石灯籠が1基だけで建っている。それ故、「二基の石灯籠」(p.291)も「四基の石灯籠」の間違いであろう。<br /><br />「両藩先祖の顕彰」(p.288)とあるが、広元墓と季光墓には亀の上に乗せて文政6年(1823年)銘の石碑が建てられているが、忠久墓に関しては明治10年(1877年)に最後の藩主・島津忠義が建立している。したがって、図1-2の⑦と⑧は入れ違えで、村田清風句碑は「広元墓所前」(p.298)ではなく、忠久墓参道入口(「忠久墓所前」)にある。<br /><br />「島津家に対して参道の新設を要求」(p.293)、「旧参道」(p.293)の件があるにも拘わらず、「「正面之道」を作っていたはず」(p.294)と主張しているが、その根拠を示してはいない。また、「直路の参道を要請」(p.294)しているのであるから、この後に「正面之道」が整備されたと考えるのが妥当である。それがどういう訳か、「現在残っている、両墓所前の直路、石段等はこうして作られていったと思われる。」(p.295)とあり、忠久墓所前の直路、石段は明治10年(1877年)に整備されたことを想像している。こうした矛盾は執筆者がロジックが全くできないことに起因していると考える。現在残っている両墓所には曲がった広元墓所の参道(明治5年(1872年)に整備)もあることを正しく捉えてはいない。そのことは、「(明治4年(1871年)に)新な墓前直路を設けていた。」(p.294)と記載しており、どこの参道が新に設けられたのか、あるいは、直路とはどの部分なのかも伺い知れないのであるが、「両墓所前の直路」との認識があったことが推察される。<br /><br />[誤記]<br />「一八九二年(明治25年)」(p.298)(誤)→「一八九〇年(明治23年)」(正)。(p.271、⑧には(明治23年)と記載)。教育委員会が立てた看板には句碑の裏面に明治23年9月銘があると記載されている。<br /><br />鎌倉には来れない北海道の上磯高校の教諭が遠く離れた鎌倉のことを正しく書くこと自体が無理なことである。鎌倉の近くにおれば、疑問な点は訪れて確かめることができるのである。

    大江広元墓参道入口。鎌倉市のホームページ(https://www.city.kamakura.kanagawa.jp/kankou/korearata-hokkedou80450.html)には「覚阿大江公御塔前」と刻まれた4基の石灯籠は薩摩藩(幕末)や島津家(明治)との折り合いが付かず、明治5年(1872年)に設置されたとある。ただし、これらの石灯籠は幕末に制作され、鶴岡八幡宮の十二坊(頼朝時代には25坊あったが、その後、衰退し、7坊まで減少していたが、徳川家康により5坊が新たに創建された)の浄国院に放置されていたものである。
    なお、「西阿大江公御塔前」と刻まれた石灯籠は鶯ヶ谷に設置されていたはずで、大正10年(1921年)に毛利季光墓を移設する際に「覚阿大江公御塔前」と刻まれた石灯籠を1基だけ置き換えたものであろう。参考文献である岸本覚「鎌倉薩長藩祖廟と明治維新」(吉川弘文館 田中彰『幕末維新の社会と思想』所収1999年11月)にホームページにある内容が記載されているとしたらそれは間違いである。
    執筆担当者の岸本覚氏は地方(北海道)の高校教師であり、ロジックはからきし駄目だ。文章は支離滅裂で、内容には間違いや思い込みが多く見られ、「鎌倉薩長藩祖廟と明治維新」の内容については信憑性を考慮すべきである。私もこれ程レベルの低い本は中々お目に掛からないほどだ。ホームページの担当者のせいではなかったのだと感じている。なお、本書は鎌倉市の図書館には1冊しか蔵書(鎌倉中央図書館)がなく、本書は8,000円(税別)と高価であるからであろう。しかし、この程度の内容では一般の人の目には触れない方がむしろ良いのかも知れない。

    [岸本覚「鎌倉薩長藩祖廟と明治維新」の書評]
    ★★★☆☆
    「論理性が低く、多くの間違いと誤った思い込みが散見される」

    「この地」(P.268)は法華堂跡がある大蔵山(法華堂山)だけ(の単数)ではなく、複数の場所(他に鶯ヶ谷)を含むべきである。このことは、p.271にある図1-2の注2にあるべき「大正10年」の移転の時期を把握していないことに起因していよう。これは毛利季光の墓を訪れて石碑に追刻された「大正十年」銘から誰でも分かることだ。

    「石灯籠二基」(p.269)から広元墓入口石段の上下にそれぞれ対で二基づつの石灯籠が建っていたことを想像だにしていない。それだから、図1-2の③、④、⑤となっており、③と対になる石灯籠がない。ここの場所に「西阿大江公御塔前」の石灯籠が1基だけで建っている。それ故、「二基の石灯籠」(p.291)も「四基の石灯籠」の間違いであろう。

    「両藩先祖の顕彰」(p.288)とあるが、広元墓と季光墓には亀の上に乗せて文政6年(1823年)銘の石碑が建てられているが、忠久墓に関しては明治10年(1877年)に最後の藩主・島津忠義が建立している。したがって、図1-2の⑦と⑧は入れ違えで、村田清風句碑は「広元墓所前」(p.298)ではなく、忠久墓参道入口(「忠久墓所前」)にある。

    「島津家に対して参道の新設を要求」(p.293)、「旧参道」(p.293)の件があるにも拘わらず、「「正面之道」を作っていたはず」(p.294)と主張しているが、その根拠を示してはいない。また、「直路の参道を要請」(p.294)しているのであるから、この後に「正面之道」が整備されたと考えるのが妥当である。それがどういう訳か、「現在残っている、両墓所前の直路、石段等はこうして作られていったと思われる。」(p.295)とあり、忠久墓所前の直路、石段は明治10年(1877年)に整備されたことを想像している。こうした矛盾は執筆者がロジックが全くできないことに起因していると考える。現在残っている両墓所には曲がった広元墓所の参道(明治5年(1872年)に整備)もあることを正しく捉えてはいない。そのことは、「(明治4年(1871年)に)新な墓前直路を設けていた。」(p.294)と記載しており、どこの参道が新に設けられたのか、あるいは、直路とはどの部分なのかも伺い知れないのであるが、「両墓所前の直路」との認識があったことが推察される。

    [誤記]
    「一八九二年(明治25年)」(p.298)(誤)→「一八九〇年(明治23年)」(正)。(p.271、⑧には(明治23年)と記載)。教育委員会が立てた看板には句碑の裏面に明治23年9月銘があると記載されている。

    鎌倉には来れない北海道の上磯高校の教諭が遠く離れた鎌倉のことを正しく書くこと自体が無理なことである。鎌倉の近くにおれば、疑問な点は訪れて確かめることができるのである。

  • 左右が異なる石灯籠。向かって左側が、鶴岡八幡宮の西にある鶯ヶ谷に文政6年(1823年)に整備された毛利季光墓に安政5年(1858年)に建立された石灯籠から1基を大正10年(1921年)に移設したもの。大江広元墓前に文政7年(1824年)制作の石灯籠が立っているが、下の参道の石段の上下に対で立っていた安政5年(1858年)制作の石灯籠がもう1基あったはずであるが、それはどこにいったのであろうか?<br />なお、横穴墓の中の五輪塔(広元墓)前には対で石灯籠が2基立っているが、横穴墓の外には石灯籠が1基だけ立っている。石灯籠は本来は社寺への献灯のために用いられ,正面中央に1基だけ立てた。その名残であろうか。しかし、参道の両側には石灯籠は対で2基づつ立っている。<br />こうして4基の石灯籠が立てられたのは明治5年(1872年)のことである。したがって、大江広元墓参道が整備されたのは安政5、6年(1858、59年)ではなく、明治5年(1872年)のことである。

    左右が異なる石灯籠。向かって左側が、鶴岡八幡宮の西にある鶯ヶ谷に文政6年(1823年)に整備された毛利季光墓に安政5年(1858年)に建立された石灯籠から1基を大正10年(1921年)に移設したもの。大江広元墓前に文政7年(1824年)制作の石灯籠が立っているが、下の参道の石段の上下に対で立っていた安政5年(1858年)制作の石灯籠がもう1基あったはずであるが、それはどこにいったのであろうか?
    なお、横穴墓の中の五輪塔(広元墓)前には対で石灯籠が2基立っているが、横穴墓の外には石灯籠が1基だけ立っている。石灯籠は本来は社寺への献灯のために用いられ,正面中央に1基だけ立てた。その名残であろうか。しかし、参道の両側には石灯籠は対で2基づつ立っている。
    こうして4基の石灯籠が立てられたのは明治5年(1872年)のことである。したがって、大江広元墓参道が整備されたのは安政5、6年(1858、59年)ではなく、明治5年(1872年)のことである。

  • 「一文字に三つ星」の毛利家の家紋の下に「西阿大江公御塔前」。毛利季光の石灯籠。

    「一文字に三つ星」の毛利家の家紋の下に「西阿大江公御塔前」。毛利季光の石灯籠。

  • 毛利季光の石灯籠には「安政五年…」。鶯ヶ谷に整備された毛利季光墓は前年の安政5年(1858年)には石灯籠が制作された。

    毛利季光の石灯籠には「安政五年…」。鶯ヶ谷に整備された毛利季光墓は前年の安政5年(1858年)には石灯籠が制作された。

  • 石灯籠の奥に横穴(https://4travel.jp/travelogue/11595595)。古代の横穴墓か?

    石灯籠の奥に横穴(https://4travel.jp/travelogue/11595595)。古代の横穴墓か?

  • 「一文字に三つ星」の毛利家の家紋の下に「覚阿大江公御塔前」。大江広元の石灯籠。

    「一文字に三つ星」の毛利家の家紋の下に「覚阿大江公御塔前」。大江広元の石灯籠。

  • 大江広元の石灯籠には「長藩州営相模國鎮成諸臣献之」。

    大江広元の石灯籠には「長藩州営相模國鎮成諸臣献之」。

  • 北条義時法華堂跡に建つ標石と史跡看板。<br /><br />「国指定史跡 法華堂跡(源頼朝墓・北条義時墓)<br /> この平場は、鎌倉幕府2代執権の北条義時の法華堂(墳墓堂)が建っていた跡です。<br /> 北条義時は、父の時政や政子らとともに源頼朝による幕府の開創を助けました。<br />承久3年(1221)の承久の乱においては後鳥羽上皇方を破り、これ以降、鎌倉幕府は全国的な政権として より強固なものとなりました。(未改行はママ)<br /> 義時は、貞応3年(1224))に62歳で没しました。『吾妻鏡』には、源頼朝の法華堂の東の山上を墳墓の地とし、そこに新法華堂(義時の法華堂)を建てたことが記されています。<br /> 義時の法華堂は鎌倉時代の終わりには途絶えたようですが、平成17年(2005)に行われた発掘調査により、8.4m四方の平面正方形の建物跡が確認され、『吾妻鏡』の記述が裏付けられました。<br /><br />  注意<br />  …。<br />             平成24年3月<br />              鎌倉市教育委員会」

    北条義時法華堂跡に建つ標石と史跡看板。

    「国指定史跡 法華堂跡(源頼朝墓・北条義時墓)
     この平場は、鎌倉幕府2代執権の北条義時の法華堂(墳墓堂)が建っていた跡です。
     北条義時は、父の時政や政子らとともに源頼朝による幕府の開創を助けました。
    承久3年(1221)の承久の乱においては後鳥羽上皇方を破り、これ以降、鎌倉幕府は全国的な政権として より強固なものとなりました。(未改行はママ)
     義時は、貞応3年(1224))に62歳で没しました。『吾妻鏡』には、源頼朝の法華堂の東の山上を墳墓の地とし、そこに新法華堂(義時の法華堂)を建てたことが記されています。
     義時の法華堂は鎌倉時代の終わりには途絶えたようですが、平成17年(2005)に行われた発掘調査により、8.4m四方の平面正方形の建物跡が確認され、『吾妻鏡』の記述が裏付けられました。

      注意
      …。
                 平成24年3月
                  鎌倉市教育委員会」

  • 北条義時法華堂跡。

    北条義時法華堂跡。

  • 大江広元墓参道。

    大江広元墓参道。

  • 三浦一族の墓。古代の横穴墓を再利用したものか。

    三浦一族の墓。古代の横穴墓を再利用したものか。

  • 三浦一族の墓。入口はアーチ型であるように見える。

    三浦一族の墓。入口はアーチ型であるように見える。

  • 三浦一族の墓。天井を削って石塔の墓石を建てている。

    三浦一族の墓。天井を削って石塔の墓石を建てている。

  • 大江広元墓参道石段に建つ石鳥居。建立年は風化が進んでおり読めず。しかし、明治5年(1872年)まで参道に石灯籠を立てることができなかったことより、それ以降、具体的には忠久墓参道石段と広元墓参道石段が分離・整備された明治10年(1877年)と考えるのが妥当であろう。そうだとすれば、明治初期に神仏分離・廃仏毀釈が収まる頃に墓に鳥居を建てたことになる。薩長を中心とした明治政府であったから可能だったのではないか?<br />なお、頼朝墓参道石段の石鳥居は戦後の昭和39年(1964年)に建立されている。<br />「知られざる鎌倉」発掘プロジェクト第1弾「鎌倉これあらた(維新)」によりこの史跡看板にある「法華堂境内図」(https://4travel.jp/travelogue/11543525)には頼朝墓参道、広元墓か忠久墓のいずれかの参道のどちらにも鳥居はない(。平地には右に道が描かれているが、山中にはこの道に続く参道はないようだ。ただし、広元墓と忠久墓を逆に描いており、この古絵図の信頼性には疑問が残るが…)。この看板には広元墓参道と頼朝法華堂が描かれており、看板にある「相模国風土記」とは「新編相模国風土記稿」(天保12年(1841年)成立)のことであろう。いやそれ以降の幕末に発行された別の書籍か。

    大江広元墓参道石段に建つ石鳥居。建立年は風化が進んでおり読めず。しかし、明治5年(1872年)まで参道に石灯籠を立てることができなかったことより、それ以降、具体的には忠久墓参道石段と広元墓参道石段が分離・整備された明治10年(1877年)と考えるのが妥当であろう。そうだとすれば、明治初期に神仏分離・廃仏毀釈が収まる頃に墓に鳥居を建てたことになる。薩長を中心とした明治政府であったから可能だったのではないか?
    なお、頼朝墓参道石段の石鳥居は戦後の昭和39年(1964年)に建立されている。
    「知られざる鎌倉」発掘プロジェクト第1弾「鎌倉これあらた(維新)」によりこの史跡看板にある「法華堂境内図」(https://4travel.jp/travelogue/11543525)には頼朝墓参道、広元墓か忠久墓のいずれかの参道のどちらにも鳥居はない(。平地には右に道が描かれているが、山中にはこの道に続く参道はないようだ。ただし、広元墓と忠久墓を逆に描いており、この古絵図の信頼性には疑問が残るが…)。この看板には広元墓参道と頼朝法華堂が描かれており、看板にある「相模国風土記」とは「新編相模国風土記稿」(天保12年(1841年)成立)のことであろう。いやそれ以降の幕末に発行された別の書籍か。

  • 石鳥居の前にも石段。

    石鳥居の前にも石段。

  • 石鳥居と三浦一族の墓。毛利季光は三浦氏の娘を娶っており、宝治合戦(宝治元年(1247年))で三浦氏側として北条氏(5代執権の北条時頼)と戦い、敗れて頼朝法華堂の前で自害した。この時、毛利季光は出家して西阿と称していた。

    石鳥居と三浦一族の墓。毛利季光は三浦氏の娘を娶っており、宝治合戦(宝治元年(1247年))で三浦氏側として北条氏(5代執権の北条時頼)と戦い、敗れて頼朝法華堂の前で自害した。この時、毛利季光は出家して西阿と称していた。

  • 石鳥居が建つ大江広元墓参道石段と島津忠久墓参道石段。

    石鳥居が建つ大江広元墓参道石段と島津忠久墓参道石段。

  • 島津忠久墓参道。

    島津忠久墓参道。

  • 島津忠久墓参道横に北条義時法華堂跡。

    島津忠久墓参道横に北条義時法華堂跡。

  • 島津忠久墓参道。

    島津忠久墓参道。

  • 島津忠久墓参道石段。<br />明治7年(1874年)に島津久光(生麦事件の大名行列の中心人物)が忠久墓を参拝した際には、明治5年(1872年)に整備されている大江広元墓参道を通らずに、安永8年(1779年)に島津重豪(しげひで)が整備した頼朝墓からの山の中腹にある参道を通った。そして家令以下を広元墓前の参道で待たせた。そのために、本陣の大石から「神慮え不敬」と諭され、島津家に参道の新設を要求している。「正面之道」が天保期に既に造っていたとしたら、そこを通ったはずである。現在のような真っ直ぐな参道石段が整備されたのは入口に石碑が建立された明治10年(1877年)のことではないだろうか?

    島津忠久墓参道石段。
    明治7年(1874年)に島津久光(生麦事件の大名行列の中心人物)が忠久墓を参拝した際には、明治5年(1872年)に整備されている大江広元墓参道を通らずに、安永8年(1779年)に島津重豪(しげひで)が整備した頼朝墓からの山の中腹にある参道を通った。そして家令以下を広元墓前の参道で待たせた。そのために、本陣の大石から「神慮え不敬」と諭され、島津家に参道の新設を要求している。「正面之道」が天保期に既に造っていたとしたら、そこを通ったはずである。現在のような真っ直ぐな参道石段が整備されたのは入口に石碑が建立された明治10年(1877年)のことではないだろうか?

  • 島津忠久墓。

    島津忠久墓。

  • 大江広元墓(手前)と毛利季光墓(奥)。

    大江広元墓(手前)と毛利季光墓(奥)。

  • 大江広元墓。

    大江広元墓。

  • 毛利季光墓。

    毛利季光墓。

  • 毛利季光墓の石碑。大正10年と彫られている。これは中を空洞にして運んだという。

    毛利季光墓の石碑。大正10年と彫られている。これは中を空洞にして運んだという。

  • 島津忠久墓の上の山頂から根こそぎ倒木した大木。

    島津忠久墓の上の山頂から根こそぎ倒木した大木。

  • 参道石段。両側の大木は檜だ。

    参道石段。両側の大木は檜だ。

  • 山頂付近にある横穴のように見える場所。

    山頂付近にある横穴のように見える場所。

  • 源頼朝墓に通じる参道。

    源頼朝墓に通じる参道。

  • 踊り場にある手水鉢。島津忠久墓の参道も少し下った場所に踊り場があり、多少曲げられている。

    踊り場にある手水鉢。島津忠久墓の参道も少し下った場所に踊り場があり、多少曲げられている。

  • 島津忠久墓参道の石橋。<br />鎌倉市のホームページ(https://www.city.kamakura.kanagawa.jp/kankou/korearata-hokkedou80450.html)には天保年間(1830年~1844年)に薩摩藩が着けたとある。そうだとしたら現在2つの石段があるが、幕末から明治に掛けては1つの石段であったとされるので、石灯籠(安政5年(1858年)銘)を建立したのが大江広元墓参道の整備に当たった証であるとするのには疑問がある。大江広元墓参道を整備しようとして石灯籠を制作したが、薩摩藩からのクレームを受けて設置できなかったということならば、大江広元墓参道整備は行われなかったのではないか?

    島津忠久墓参道の石橋。
    鎌倉市のホームページ(https://www.city.kamakura.kanagawa.jp/kankou/korearata-hokkedou80450.html)には天保年間(1830年~1844年)に薩摩藩が着けたとある。そうだとしたら現在2つの石段があるが、幕末から明治に掛けては1つの石段であったとされるので、石灯籠(安政5年(1858年)銘)を建立したのが大江広元墓参道の整備に当たった証であるとするのには疑問がある。大江広元墓参道を整備しようとして石灯籠を制作したが、薩摩藩からのクレームを受けて設置できなかったということならば、大江広元墓参道整備は行われなかったのではないか?

  • 島津忠久墓参道石段。

    島津忠久墓参道石段。

  • 島津忠久墓参道石段の西側には浄智寺由来の四方竹。

    島津忠久墓参道石段の西側には浄智寺由来の四方竹。

  • 島津忠久墓参道石段の東側には女竹。

    島津忠久墓参道石段の東側には女竹。

  • 墓石の基壇か?

    墓石の基壇か?

  • 島津忠久墓参道石段。

    島津忠久墓参道石段。

  • 長州藩家老村田清風句碑「鎌倉の御事蹟を探り探りて、むかし語りきくきくむしる尾花哉 清風」(明治23年(1890年)銘)と島津忠義が建立した記念碑(忠久顕彰碑)(明治10年(1877年)銘)が並ぶ。清風句碑は安政2年(1855年)に没した清風の33回忌の追悼俳句大会の際に除幕された。<br /><br />島津忠久墓参道から先の平地には家が建っているが、昔は道路があったのであろうか?おそらくは明治10年(1877年)には空き地ではなかったのかも知れない。

    長州藩家老村田清風句碑「鎌倉の御事蹟を探り探りて、むかし語りきくきくむしる尾花哉 清風」(明治23年(1890年)銘)と島津忠義が建立した記念碑(忠久顕彰碑)(明治10年(1877年)銘)が並ぶ。清風句碑は安政2年(1855年)に没した清風の33回忌の追悼俳句大会の際に除幕された。

    島津忠久墓参道から先の平地には家が建っているが、昔は道路があったのであろうか?おそらくは明治10年(1877年)には空き地ではなかったのかも知れない。

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