鎌倉旅行記(ブログ) 一覧に戻る
 昨年秋に北条義時やぐらを探したが見付けられなかった(https://4travel.jp/travelogue/11549539)。Webで検索するともっと東寄りにあるようだ。<br /> 今年(2020年)の冬は雨の日が多く、1月29日から晴れるようになった。1月の降水量としては非常に多く、少し乾燥し出した2月の初日に山を上って北条義時やぐらと呼ばれている横穴墓を見てみた。<br /> 北条義時(長寛元年(1163年)~元仁元年6月13日(1224年7月1日))は鎌倉幕府の第2代執権で北条時政の次男である。また、源頼朝の正室・北条政子の弟である。得宗家2代目当主となった。墓は源頼朝法華堂の東隣の一段低い平地に法華堂として営まれた(https://4travel.jp/travelogue/10599595)ことが平成17年(2005年)の発掘調査で明らかになっている。<br /> しかし、『吾妻鏡』には、「前奥州禅門の葬送。故右大将家法華堂の東の山上をもって墳墓となす」と記載されている。ただし、前奥州禅門は北条義時、故右大将家は源頼朝のことである。このように、「法華堂の東の山上」と記載されたのでは「法華堂の東隣の山中」であることは伝わらない。『吾妻鏡』の著者のレベルがそうさせている。そのためであろう、「法華堂の東の山上」に近い古墳時代終末期の横穴墓が北条義時やぐらとされたのであろう。2つ並んだ横穴墓の一方は翌年に亡くなった北条政子のやぐらと伝承されてきたことから、壽福寺に政子・実朝の母子墓(やぐら)が造られた江戸中期以前のことであり、17世紀に政子・義時の姉弟墓(やぐら)とされたのであろう。<br /> なお、義時法華堂は3間四方(https://www.city.kamakura.kanagawa.jp/treasury/documents/maibun9.pdf)とされるが、それが南に向いていたのか、頼朝法華堂側の西に向いていたのかは不明であるが、安永8年(1779年)に造られた島津忠久墓は参道が南側に真っすぐに延びているのに対し、安政6年(1823年)に造られた大江広元墓の参道は義時法華堂跡を避けるように西側を迂回している。おそらくは義時法華堂は頼朝法華堂に向き、義時法華堂の参道を再利用する形で大江広元墓の参道が設けられたのではないか?それにしても曲がっている大江広元墓の参道は不自然である。ただし、島津忠久墓の参道石段と大江広元墓の参道石段は共用されていたものが明治10年に分離されたとされるので、真っすぐな島津忠久墓の参道は明治以降に付け替えられたものかも知れない。<br /> 2022年のNHK大河ドラマが思いもよらず「鎌倉殿の13人」となり、その主人公が北条義時になった。鎌倉時代を陰謀が渦巻く陰湿な時代となる元をなした人物で、承久の乱(承久3年(1221年))では軍勢を率いて京の都に上って朝廷を攻めたその張本人が大河ドラマの主人公になったことは驚きではあるが、この墓(法華堂)のように『吾妻鏡』に記載された内容からは真実が伝わってはこないことも多くあるであろう。<br />(表紙写真は北条義時やぐら)

北条義時法華堂跡と北条義時やぐら-2020年冬

2いいね!

2020/02/01 - 2020/02/01

5303位(同エリア7080件中)

0

5

ドクターキムル

ドクターキムルさん

 昨年秋に北条義時やぐらを探したが見付けられなかった(https://4travel.jp/travelogue/11549539)。Webで検索するともっと東寄りにあるようだ。
 今年(2020年)の冬は雨の日が多く、1月29日から晴れるようになった。1月の降水量としては非常に多く、少し乾燥し出した2月の初日に山を上って北条義時やぐらと呼ばれている横穴墓を見てみた。
 北条義時(長寛元年(1163年)~元仁元年6月13日(1224年7月1日))は鎌倉幕府の第2代執権で北条時政の次男である。また、源頼朝の正室・北条政子の弟である。得宗家2代目当主となった。墓は源頼朝法華堂の東隣の一段低い平地に法華堂として営まれた(https://4travel.jp/travelogue/10599595)ことが平成17年(2005年)の発掘調査で明らかになっている。
 しかし、『吾妻鏡』には、「前奥州禅門の葬送。故右大将家法華堂の東の山上をもって墳墓となす」と記載されている。ただし、前奥州禅門は北条義時、故右大将家は源頼朝のことである。このように、「法華堂の東の山上」と記載されたのでは「法華堂の東隣の山中」であることは伝わらない。『吾妻鏡』の著者のレベルがそうさせている。そのためであろう、「法華堂の東の山上」に近い古墳時代終末期の横穴墓が北条義時やぐらとされたのであろう。2つ並んだ横穴墓の一方は翌年に亡くなった北条政子のやぐらと伝承されてきたことから、壽福寺に政子・実朝の母子墓(やぐら)が造られた江戸中期以前のことであり、17世紀に政子・義時の姉弟墓(やぐら)とされたのであろう。
 なお、義時法華堂は3間四方(https://www.city.kamakura.kanagawa.jp/treasury/documents/maibun9.pdf)とされるが、それが南に向いていたのか、頼朝法華堂側の西に向いていたのかは不明であるが、安永8年(1779年)に造られた島津忠久墓は参道が南側に真っすぐに延びているのに対し、安政6年(1823年)に造られた大江広元墓の参道は義時法華堂跡を避けるように西側を迂回している。おそらくは義時法華堂は頼朝法華堂に向き、義時法華堂の参道を再利用する形で大江広元墓の参道が設けられたのではないか?それにしても曲がっている大江広元墓の参道は不自然である。ただし、島津忠久墓の参道石段と大江広元墓の参道石段は共用されていたものが明治10年に分離されたとされるので、真っすぐな島津忠久墓の参道は明治以降に付け替えられたものかも知れない。
 2022年のNHK大河ドラマが思いもよらず「鎌倉殿の13人」となり、その主人公が北条義時になった。鎌倉時代を陰謀が渦巻く陰湿な時代となる元をなした人物で、承久の乱(承久3年(1221年))では軍勢を率いて京の都に上って朝廷を攻めたその張本人が大河ドラマの主人公になったことは驚きではあるが、この墓(法華堂)のように『吾妻鏡』に記載された内容からは真実が伝わってはこないことも多くあるであろう。
(表紙写真は北条義時やぐら)

PR

  • 北条義時法華堂跡。

    北条義時法華堂跡。

  • 北条義時法華堂跡。

    北条義時法華堂跡。

  • 北条義時法華堂跡。

    北条義時法華堂跡。

  • 北条義時やぐら。

    北条義時やぐら。

  • 戦前の地図(「鎌倉市及近傍明細地図(1941年)」(https://stroly.com/maps/2104/?lang=ja))には大江廣元墓・島津忠久墓の北東に北条義時墓が記載されている。なお、大正10年(1921年)に移設された毛利季光墓は記載されておらず、源頼朝墓の南(現在の白旗神社の場所)に法華堂址とある。

    戦前の地図(「鎌倉市及近傍明細地図(1941年)」(https://stroly.com/maps/2104/?lang=ja))には大江廣元墓・島津忠久墓の北東に北条義時墓が記載されている。なお、大正10年(1921年)に移設された毛利季光墓は記載されておらず、源頼朝墓の南(現在の白旗神社の場所)に法華堂址とある。

この旅行記のタグ

2いいね!

利用規約に違反している投稿は、報告する事ができます。 問題のある投稿を連絡する

コメントを投稿する前に

十分に確認の上、ご投稿ください。 コメントの内容は攻撃的ではなく、相手の気持ちに寄り添ったものになっていますか?

サイト共通ガイドライン(利用上のお願い)

報道機関・マスメディアの方へ 画像提供などに関するお問い合わせは、専用のお問い合わせフォームからお願いいたします。

旅の計画・記録

マイルに交換できるフォートラベルポイントが貯まる
フォートラベルポイントって?

フォートラベル公式LINE@

おすすめの旅行記や旬な旅行情報、お得なキャンペーン情報をお届けします!
QRコードが読み取れない場合はID「@4travel」で検索してください。

\その他の公式SNSはこちら/

PAGE TOP