2010/11/20 - 2010/11/20
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鎌倉市西御門にある源頼朝の墓は後世に作られたものである。文治5年(1189年)、聖観音を本尊とした源頼朝の持仏堂として建てられ、頼朝の死後、その墓になり法華堂と称されるようになった。江戸時代になると下の平地に移され、神仏分離により明治5年(1872年)に壊された。現在では、江戸時代に建っていた法華堂跡には白旗神社が建っている。
石段を登った山腹に建つ多層塔(供養塔)は、安永8年(1779年)に薩摩藩主の島津重豪(しまづ しげひで)が建てたものである。いつも源頼朝会の旗が立っている。一般には、源頼朝の墓と思われているが、実際に頼朝が埋葬されたのは法華堂で、今、白旗神社が建っている山の下の平地である。石段の途中には鳥居が建つが、これは昭和39年(1964年)に建立された新しいものである。明治維新後から関東大震災まで、頼朝墓前に鳥居があったかは不明である。
秋に訪れると、白旗神社の境内に立つ銀杏の木の紅葉と頼朝の墓のある山の木々の紅葉が鮮やかだ。
(表紙写真は源頼朝の墓)
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白旗神社の銀杏の木。
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白旗神社の銀杏の木。
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頼朝の墓の山の木々。
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白旗神社の銀杏の木。
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白旗神社の銀杏の木。
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頼朝の墓からの眺め。
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頼朝の墓。
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「国指定史跡 源頼朝墓」看板。
「国指定史跡
源頼朝の墓
昭和2年6月14日
文部省指定
源頼朝は義朝の嫡子で、平治の乱の後伊豆韮山に流されていた、治承4年(1180)北条時政の応援を得て、平氏追討の兵を挙げたが、石橋山の合戦に敗れ海路安房にのがれた。
しかし関東各地の家人の支持を得て鎌倉に入り、寿永3年(1185)平氏一門を滅亡し、ついで奥州の藤原氏を滅ぼして、全国を平定するにいたった。
頼朝は源氏の御家人武士を統制するため侍所、ついで公文所などをおき、幕府の組織をととのえ、右近衛大将となり、さらに征夷大将軍に任ぜられて、幕府を開いた。
墓の下方の平地は当時の幕府跡である。
昭和62年3月25日
神奈川県教育委員会」 -
頼朝の墓の鳥居。
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頼朝の墓の横にある石碑。
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頼朝の墓の山の木々。
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