2019/10/30 - 2019/10/30
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旅人のくまさんさん
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戦国時代の桑名の地には、北勢四十八家と呼ばれる土豪が蟠踞して、伊藤武左衛門の東城、樋口内蔵の西城、矢部右馬允の三崎城の桑名三城と呼ばれる城がありました。現在の桑名城は、伊藤氏の東城があった辺りであり、永正10年(1513年)に伊藤武左衛門が城館を築いたのが桑名城の起源と考えられています。
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イチオシ
石段の登り口があった、『辰巳櫓跡』の光景です。関ヶ原の戦い後、覇者となった徳川家康は慶長6年(1601年)、徳川四天王の一人、本多忠勝を桑名10万石に封じました。忠勝は入封直後、揖斐川沿いに城郭の建造を開始しました。4重6階の天守をはじめ51基の櫓、46基の多聞が立ち並びました。築城開始当初、四天王の一人である井伊直政も家臣を動員して普請の応援を行ったという逸話があります。
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『辰巳櫓跡』のタイトルがあった設パネルの光景です。寛文年間(1661~1673年)の平磁路の本丸には、4層の天守、3層の隅櫓3箇所と、二層の櫓3箇所が描かれていました。天守は元禄14年(1701年)の大火で焼失し、その後再建されていません。幕末まで、『辰巳櫓』が天守の代替わりだったようです。
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『辰巳櫓跡』に置かれた大砲の光景です。先ほど紹介した、『辰巳櫓跡』の説明パネルには、『現在大砲が置かれているが、由来等は不詳』と紹介されていました。ネット情報によれば、『鋼鉄製でライフリングがない前装式の滑降砲。このことや砲身の長さから考えると明治以降の山砲や榴弾砲ではなく、幕末期のカノン砲』と考察されていました。
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イチオシ
『辰巳櫓跡』から眺めた赤い橋と、東屋の光景です。先ほど紹介した大砲は、『京都所司代だった桑名藩が鋼鉄製の大砲を所有していたとしてもおかしくはない。佐賀藩か幕府から買ったのかもしれない』、また『桑名藩主戦派である梶川弥左衛門率いる大砲隊が使っていたものではないだろうか』とも推察されていました。
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『キンクロハジロ(金黒羽白)』
カモ目カモ科ハジロ属
分布:シベリア、ヨーロッパ北部などのユーラシア大陸北部で繁殖。
特徴:食性は雑食。
その他:羽が白い二羽の雄と、三羽の雌のようです。 -
ダイナミックなデザインの石灯篭の光景です。桑名城の歴史の紹介です。元和2年(1616年)に忠勝の孫である『本多忠刻(ただとき:1596~1626年)』は、徳川家康の孫娘である千姫と結婚し、千姫は桑名城内に住みました。忠刻は、後の姫路藩主・本多忠政の長男として生まれ、祖父の本多忠勝が慶長6年(1601年)に桑名藩に入部すると、父の忠政と共に桑名に移っていました。大坂落城後の7月、千姫が江戸に戻る途中、桑名の七里渡しの船中でたまたま忠刻を見初めたのがきっかけになったという逸話が残ります。
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ダイナミックなデザインの石灯篭と、その周りの光景です。本多忠刻について、もう少し紹介しておきます。剣術を好み、兵法者・宮本武蔵を迎えて師事し、家士にその流儀を学ばせました。また、武蔵の養子・三木之助を小姓として出仕させ、側近としました。長じるに従い、忠刻は眉目秀麗で、優雅さを持ち、誰もが振り返るほどの美丈夫だったと伝わります。
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イチオシ
写真は、『鎮国・守国神社』の拝殿光景です。忠刻は、寛永3年5月(1626年6月)に結核のために死去しました。享年31でした。小姓だった、武蔵の養子の宮本三木之助(23歳)は、忠刻の供をして殉死し、岩原牛之助(21歳)も殉死しました。忠刻は忠政の世子でしたが、早世したため弟の政朝が世子となって、姫路藩第2代藩主となりました。
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『県社・鎮国・守国神社』の文字が刻まれた石標の光景です。鎮国公は松平定綱、守国公は松平定信のおくり名です。桑名城の歴史紹介の続きです。元和3年(1617年)に本多家は姫路城に移封となり、『松平(久松)定勝(1560~1624年)』が11万石の桑名城主となりました。この時代に、吉之丸、外朝日丸などが拡張されました。その後、寛永12年(1635年)に松平(久松)定綱が11万3千石の城主となり、宝永7年(1710年)には松平(奥平)忠雅が10万石の城主となりました。
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写真は、ブロンズ製の『九華天神・神牛像』の光景です。桑名城の歴史紹介の続きです。文政6年(1823年)に松平(久松)定永が11万3千石の城主となって、幕末を迎えました。 慶応4年=明治元年(1868年)の戊辰の役で、桑名藩は新政府軍に敗北しました。桑名藩が新政府軍に降伏した際、その証として新政府軍に焼き払われたのが、三重櫓の辰巳櫓でした。
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『九華天神・神牛像』のタイトルがあった説明立札の光景です。『昭和六十丁丑年4月29日建立』の表示がありました。昭和の丁丑年は、昭和12年(1937年)、次の丁丑年は昭和72年(1997年)となり、長寿が祈念されたようです。1989年に平成元年となり、昭和72年は実現せずに、平成9年(1997年)となりました。
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『手水舎(ちょうずや・ちょうずしゃ・てみずや・てみずしゃ)』の光景です。四方転びの柱で、水盤の側面には『奉献』の文字がありましたが、あとの1文字(備?)は判読できませんでした。
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正面から眺めた『鎮国・守国神社』の拝殿光景です。『鎮国・守国神社』は、明治維新後しばらくは本丸の外に移っていましたが、明治40年(1907年)本丸跡の現在地に移りました。大正8年(1919年)に現在の拝殿が完成、昭和9年(1934年)に楽翁公百年祭記念宝物館が完成しました。
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『楽翁殿』の文字が揮毫された扁額の光景です。『楽翁』は松平定信公のことになります。真偽は不確かですが、加賀藩の第11代藩主(加賀前田家12代)の『前田斉広(なりなが:1782~1824年)』は、竹沢御殿とその庭園をいたく気に入り、遠く水戸藩の元藩主、白河楽翁に庭園の命名を依頼しました。白河楽翁から送られてきた名前が『兼六園』というものです。
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『九華明神・鎮国・守国神社』のタイトルがあった説明立札の光景です。御祭神、相殿神と例祭日が紹介されていました。既に紹介したように、鎮国公の松平定綱、守国公の松平定信が御祭神です。例祭日には、5月の金魚祭のほか、5月13日の当日祭(献茶式)と12月25日の御由緒祭が紹介されていました。
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写真は、阿形の雄獅子の光景です。『鎮国・守国神社』は、天明4年(1784年)に白河(現福島県白河市)城内に、松平定綱(鎮国公)を祀ったのが始まりです。文政6年(1823年)、白河から桑名へ移封にともない、神社も桑名城本丸に移りました。のち、松平定信(守国公=楽翁)も祀られました。
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吽形の雌獅子の光景です。松平定信が行った『寛政の改革(1787~1793年)』の紹介です。その施策は、祖父・吉宗の『享保の改革』を模範とした復古的な対策でした。定信は、財政再建には倹約と備蓄によって、秩序回復には不穏分子の囲い込みと綱紀粛正によって、改革にあたりました。改革は一時的に幕政を引き締めたものの、次第に失速していきました。特に綱紀粛正は、『世の中に蚊ほどうるさきものはなし 文武といいて寝てもいられず』、と嫌われました。この落首が出る頃には将軍家斉との関係も崩れ始め、定信の改革は6年で終わりました。その厳粛な厳しい政治は、後に大田南畝により『白河の清きに魚のすみかねて もとの濁りの田沼こひしき』などと揶揄されました。
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『楽翁公御歌碑』の光景です。『朝落花』の題で『朝附日さすもしずけき梢より のどけさそえて散る桜かな』の1首が刻まれていました。松平定信が、老中を辞めた時に詠んだといわれる和歌です。見学はしていませんが、東方堀江町の照源寺内には、『さくらやま春ことに夢の小蝶となりてたにさくらのやまのはなやとはまし』の歌碑もあるようです。幼少期から聡明で知られていた松平忠信公です。
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『楽翁公御歌碑』のタイトルがあった説明立札の光景です。『散りゆく桜の花を見て、朝の明るい光線のなごみを受けた、長閑な美の発見が詠まれている』、と解説されていました。定信引退後も幕府には、三河吉田藩主・松平信明、越後長岡藩主・牧野忠精をはじめとする定信派の老中がそのまま留任し、その政策を引き継ぎました。彼らは『寛政の遺老』と呼ばれました。
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参道と、その先の石の鳥居の光景です。『寛政の遺老』らにより、寛政の改革の路線は維持されることとなりました。定信の寛政の改革における政治理念は、幕末期までの幕政の基本として堅持されました。振り返って、『寛政の改革』の財政面での成果の紹介です。幕府財政の再建のために、大胆な財政緊縮政策を行いました。その前後の財政状況などを紹介しておきます。
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写真は、左斜め前から眺めた『鎮国・守国神社』の拝殿の甍光景です。戦災を免れましたので、拝殿や社務所などは、戦前の姿を残しています。『寛政の改革』前後の財政状況です。幕府の金蔵は吉宗時代の253万両から、明和7年(1770年)には備蓄金は300万両程貯まっていましたが、天明の大飢饉の支出拡大により金蔵は底をつきかけて、改革翌年の天明8年(1788年)には81万両でした。(ウィキペディア)
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写真は、『鎮国・守国神社』の鳥居の光景です。百万両の赤字が予想されるほど切迫していた幕府財政ですが、定信は繰り返し厳しい倹約令を発布し、財政再建に努めました。幕府の赤字財政は改革により黒字に代わり、定信失脚の頃には備蓄金も20万両程貯蓄することができました。
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吽形の雌獅子の光景です。定信の『寛政の改革』の福祉政策の紹介です。飢餓に備えて各藩で『社倉』、『義倉』に穀物を備蓄するよう命じました。また、インフラ整備などのために、町で積み立てる救済基金ともいえる『七分積金』を江戸の各町に対して命じました。この七分積金は幕末になると、単に備蓄するのみならず、都市整備や産業振興のための貸付の元手としても活用されるようになりました。
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写真は、阿形の雄獅子の光景です。定信の『寛政の改革』の福祉政策紹介の続きです。治安対策のために、地元を追放された無宿人や浮浪者を一か所に集め、石川島において大工や米つきの訓練をする『人足寄場』を設けました。また、天明の大飢饉からの回復を目指したのか、人口増加政策も行っています。間引きの禁止、児童手当の支給を実施し、1790年には二人目の子供の養育に金1両、1799年にはさらにそれを2両に増額しています。 (ウィキペディア)
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モニュメント風の石造物の光景です。台座だけが残されたような雰囲気もありました。台座に、右尾の方から、『日本海海戦記念』、『奉献』、『桑名郡海友会』の文字がありましたから、日露戦争の戦勝碑だった可能性が高いようです。多分、第二次大戦後に上部が撤去されたのでしょう。
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『九華招魂社』の拝殿光景です。吉の丸に位置する『九華招魂社』は、設置主体が『鎮国神社』、『護国英霊を祀る』と、三重県遺族会の公式HPに記されていました。『鎮国』とは、『松平定綱(鎮国公)』を指します。その『国』とは、『伊勢国桑名』を意味するようです。
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標識はありませんでしたが、桑名城の出入口跡らしい石垣があった場所の光景です。詳しいことは分かりませんでした。本丸跡の東北に近い位置になるようです。車が走る公道に面していました。
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『鎮国稲荷神社』のタイトルがあった説明立札の光景です。御祭神が『正一位稲荷大明神(倉稲魂神)』と記されていました。藩祖の『松平定綱(鎮国公)』による勧請の稲荷神社です。
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拝殿に向かって右手に置かれていたおキツネさんです。玉を咥えた姿でした。『稲荷神』は、穀物、農業の神様ですが、現在は商工業を含め、産業全体の神として信仰されています。『稲荷神』は神仏習合思想において、仏教の女神である『荼枳尼天(だきにてん)』とも習合したため、仏教寺院で祀られることもあります。『稲荷神』を祀る神社を『稲荷神社』と呼び、京都市伏見区深草にある『伏見稲荷大社』が日本各所にある神道上の稲荷神社の総本宮となっています。伏見稲荷大社では、狐は稲荷神の神使とされます。
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拝殿に向かって右手に置かれていたおキツネさんです。巻物を咥えた姿でした。稲荷神は、和銅4年(711年)に山城国稲荷山(伊奈利山)、つまり現在の伏見稲荷大社に鎮座したと伝えられています。元々は京都一帯の渡来系の豪族・秦氏(はたし)の氏神で、現存する旧社家は大西家です。稲荷神社では朱い鳥居と、神使の白い狐がシンボルとして広く知られます。狐さんが加えているのは、巻物、玉、稲穂や鍵などです。秦氏族は絹織物の技に秀でており、後の律令国家建設のために大いに役立ち、朝廷によって厚遇されていました、
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