2019/10/23 - 2019/10/23
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旅人のくまさんさん
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西尾城の特徴の一つが、城下町を堀と土塁で囲む惣構えになっていたことです。その規模は南北で1キロに及びました。惣構えには五つの門がありましたが、三之丸は大手門と新門の二つ、東之丸には太鼓門が一つと、本丸に近くなるに連れ門の数が減り、防備が厚くなる縄張でした。
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- 私鉄
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『西尾の略年表』のタイトルがあった展示の冒頭部分の光景です。飛鳥時代の700年頃が年表の始まりでした。出土した古瓦から、『志貴野廃寺』が存在したのではないかと記されていました。続いて、702年には藤原宮から出土した木簡に矢田里からの贈り物が記載されていたことが記されていました。その後の年表は、奈良時代から室町時代へと続きます。
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『西尾の略年表』の中間から尾張の部分です。締め括りん出来事は、1953年(昭和28年)の台風被害と、県下14番目の西尾市の誕生でした。昭和28年9月25日に紀伊半島を襲い、近畿地方を中心に大きな被害を出した台風で、国際的には、テス台風とも呼ばれます。
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西尾市が再建を目指しているらしい、『二の丸』に建つ『本丸』の模型のようです。石垣の形が、発掘調査や古絵図を基にした本丸石垣に似ていました。その本丸の石垣は、既に再建されています。かつての二ノ丸には、南東隅に複合式望楼型3重の天守が建っていましたが、明治に廃城とされました。
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『三河国西尾城図』
嘉永3年(1850年)、西尾藩第4代藩主の松平和泉守乗全(のりやす:1795~1870年)が、西尾城門の修理を幕府に願い出た時の絵図です。大給松平家宗家14代だった人です。三色に塗り分けられた濃い水色が掘り、薄い水色が土居、茶色が塀や建物のようでした。 -
『三河国西尾城図』のタイトルがあった説明文の紹介です。『三河国西尾城門修補之覚』で、松平和泉守乗全が幕府へ提出した控絵図であることが前書きで紹介されていました。本文の内容は次の通りです。
一 大手枡形冠木門壱箇所
右及大破綻ニ付得絵図朱引之通以連々 如元修補仕度相伺申候 以上
嘉永3年庚戎年月
松平和泉守 印居
先ほど紹介した絵図の右上近くに記されていました。 -
イチオシ
『三河国西尾城図』
図の右下付近に被害箇所が2.6メートル(8尺7寸)ほど、冠木門が大破したことが記されていました。また、東北に位置する櫓にも被害が記されていました。この絵図での色分けは、茶色が道、紺色が水堀、緑色が土居と注釈されていました。(追記:説明文が写真不明瞭で、『三河国西尾城図』の文字以外は読み取れませんでした) -
薄い紺色の『裃(かみしも)』の展示光景です。裃は、和服における男子の歴史的正装の一種です。裃は『肩衣(かたぎぬ)』と呼ばれる上半身に着る袖の無い上衣と、『袴(はかま)』の組合せで、それらを小袖の上から着ます。その多くは肩衣と袴を同色同質の生地で仕立て、肩衣の背と両胸、袴の腰板の四か所に紋を入れています。上(肩衣)と下(袴)を一揃いの物として作る衣服であることが、命名の起源です。慶応3年(1867年)の大政奉還以後、公人が裃を着用することは廃されましたが、伝統芸能や祭礼などの民間の諸行事においては現在でも用いられています。
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『西尾藩の御貸具足』の表示があった具足の展示光景です。かつて関東の下保谷村で百姓頭を務めていた高橋市朗左衛門家に代々伝わる土蔵から鎧が発見されました。それは『桶川胴(おけがわどう)』と呼ばれる鎧で、尾張徳川家の丸八マークがありました。保谷地域は江戸時代に尾張徳川家の鷹狩りの場でした。この鎧は尾張藩が合戦の際に貸し出した『御貸具足』と考えられています。2019年6月から『尾張徳川家の御貸具足』として展示されています。
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『白糸威胴丸具足(伝・松平家乗所用):複製』
日の丸模様が印象的な、松平家乗公所要と伝わる甲冑の展示です。オリジナルの品は、東京国立博物館所蔵のようです。松平家乗公(1575~1614年)は、安土桃山時代から江戸時代初期にかけての武将・大名。上野国那波藩、美濃国岩村藩初代藩主。大給松平家6代当主。官位は従五位下・和泉守。写真で判断すれば、こちらがオリジナルの甲冑で、東京国立博物館所蔵の品がレプリカのように見えました。 -
『胴具足』
年代:戦国時代~江戸時代(推定)
その他:名札が見当たりませんでした。年代を感じさせる、実践的な胴具足です。 -
『胴具足』
年代:戦国時代~江戸時代(推定)
その他:足元の表示札が読み取れませんでした。『色々縅』と呼ぶのでしょうか、少しお洒落な胴具足です。 -
『鉄黒塗切付桂絹毛引縅二枚胴具足』
年代:戦国時代~江戸時代(推定)
その他:実戦では使われたことがないような保存状態の良い胴具足です。 -
『黒塗鉄切付紺糸縅二枚胴具足(62間筋兜付)』
年代:戦国時代~江戸時代(推定)
その他:旧西尾藩士具足 -
ガラス張の棚に並んだ五組の甲冑の光景です。一番手前の『西尾藩の御貸具足』だけが、なんとなく少し離されて展示してありました。現代まで、身分差が残ってしまったようです。
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西尾市展示館の展示光景です。一番左には、出土したらしい鯱瓦が展示してありました。その右奥に見えるのが、先ほど紹介した甲冑などのようです。
(追記)令和2年(2020年)11月から令和3年(2021年)1月の期間で、西尾市資料館企画展として、『城の瓦・西尾城と西三河の城』が拓かれ、歴代の鯱が瓦が勢揃いしていたようです。 -
『秋山恬堂碑』の全文の拓本です。『秋山恬堂(てんどう:1826年:嘉永3年~1886年:明治19年)』は、西尾市出身の儒者で、教育家です。その教え子だった人達が、没後2年の明治21年に西尾城址に建てた顕彰碑です。この写真では、題字以外の判読は困難でしたが、漢文を読み下した要旨が、西尾市教育委員会名での説明パネルとして現地に設置してありました。
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教え子だった人達が建立した『秋山恬堂』の顕彰碑は既に紹介しましたが、その碑文に関する説明文の紹介です。全文を紹介します。『秋山恬堂(祐介)は文政九(1826)年に西尾で生まれ、16歳で江戸に昌平黌の儒官佐藤一斎や藤森弘庵に学んだ。嘉永三(1850)年からは江戸学問所の儒者見習いになったが、嘉永六年に西尾に帰って、修道館の主任教官に抜擢された。明治十九年五月十八日に没す』と記されていました。ネット検索では、秋山恬堂の名前や、生年月日の検索も不自由しましたので、重複しましたが、敢て紹介しました。『藩校周道館の秋山恬堂の碑文』のタイトルの説明文でした。
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本丸丑寅櫓の模型のようです。この櫓以外に二の丸に『天守』がありました。天守が本丸以外にあった城は、加納城(岐阜市)、徳島城、忍城(行田市)などがありますが、それらは厳密に言うと天守ではなく三階櫓と呼称されていました。譜代大名のお城ですから呼称できたのかもしれませんが、西尾城には間違いなく二の丸に天守があり、その再建も検討されています。
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イチオシ
左上が『本丸』、通路で繋がったその下が『姫の丸』、右手が『二の丸』になります。二の丸には、『二の丸御殿』と右上隅に『天守』がありました。他の城郭では目にすることがない、二の丸に建つ『天守』です。水濠で多重に守られた西尾城の光景です。本丸御殿はなく、二の丸御殿が平時の中心施設になったようです。
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『松平乗全之大黒天図』のタイトルの絵画の紹介です。『松平乗全(のりやす:1795~1870)』は、西尾藩4代藩主で、大給松平家宗家14代です。幕府では寺社奉行、大坂城代を経て老中を務めました。対外問題では開国・和親を、将軍継嗣問題では南紀派に与して紀州藩の徳川慶福(後の家茂)を推し、水戸藩主徳川斉昭と対立し、阿部正弘の命令で老中を免職されました。余技とは思えない達者な絵です。
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杉戸に描かれた真っ白な鶴の絵です。『西尾城二の丸御殿で使用されたと伝わる杉戸』の表示があった二組の杉戸の内の一組です。頭に赤いものがありますから、『タンチョウ(丹頂)』でした。二枚組の奥の杉戸には、空間を広くとって、竹の葉が描かれていました。
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同じく、杉戸絵の紹介です。こちらも『西尾城二の丸御殿で使用されたと伝わる杉戸』の表示があった絵になるようです。1頭だけが精密に描かれた、龍の全身図でした。撮影条件が悪く、はっきりしない絵になってしまいました。
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『西尾城二の丸御殿で使用されたと伝わる杉戸』の表示のズームアップ光景です。正直な感想では、名古屋城の本丸御殿の障壁画などと比較しますと、少し技量に差があるようにも見えました。狩野派が描いた障壁画は、国の重要文化財に指定され、再建された本丸御殿には、複製画が飾られました。
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西尾市資料館の建物脇に展示してあった瓦の光景です。どちらの建物の遺物なのかは、確認できていません。軒丸瓦風の先端部分には『菊の紋』が、下部の鬼瓦風の部分には『三つ葉葵紋』がありました。三つ葉葵はデザイン化されたもので、賀茂氏の象徴です。葵紋は賀茂神社の神紋とされ、その賀茂氏との繋がりが深い三河国の武士団は、葵紋を家紋としてきました。
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『西尾城姫丸門址』の文字が刻まれた石標の光景です。姫丸は、本丸への馬出があった場所とされます。『姫丸は本丸の前に位置し、馬出の役割も担った。現在は中央に道路が貫通していて、遺構はかなり失われ、西尾市資料館が建てられている。辰巳櫓の跡は現在も櫓台と土塁が残っている。姫丸と東之丸の間の堀は西尾小学校との間に残っている』(教育委員会・石川氏)と紹介されていました。
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二之丸にある『天守台』をまだ見学していませんでしたから、もう一度潜ることにした『鍮石門(ちゅうじゃくもん)』の正面光景です。二の丸の正門に当たるようです。かつて、真鍮製の飾り金具が使用されていた時の、名残の名前のようです。1996年(平成8年)に丑寅三重櫓とともに、木造で復興されました。
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前方に見えているのは、江戸時代に『二之丸』に置かれていた天守台です。発掘調査や文献調査に基づき、二の丸のほぼ北角に再建されました。この後、天守の再建計画もあるようでした。積み立ててきた基金で、この天守台も再建されたようです。
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『旧近衛邸』のタイトルがあった説明看板の光景です。冒頭に、藤原摂関家筆頭として左大臣を務めた近衛家に、嫁いだ夫人の縁で島津家により江戸時代末期に建てられた建物であることが解説されていました。その説明文の左下に建物の間取り図も表示されていました。
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一度紹介しましたが、見学の最後近くに、もう一度紹介する『旧近衛邸』の表札が懸かった門の光景です。開け放たれた扉の先にその建物が見えていました。はるばる京都からやって来た近衛家の旧家です。
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『旧近衛邸』の建物正面光景です。廃却されそうになった歴史的建造物が、この地に残ったのは幸いでした。江戸時代後期に島津斉彬の姫が近衛忠房に嫁いだことが縁で島津家によって建てられた建物で、取り壊し寸前になっていた書院と茶室が運ばれてきました。
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