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かつての東海道53次の宿で、城下町は8箇所です。江戸から順に、小田原宿(小田原城)、府内宿(駿府城)、掛川宿(掛川城)、浜松宿(浜松城)、吉田宿(吉田城)、岡崎宿(岡崎城)、桑名宿(桑名城)と亀山宿(亀山城)です。今回の2箇所で、8箇所の城下町を巡り終えました。

2019秋、亀山城と桑名城(3/8):亀山城(3):本丸、櫓台、亀山神社、狛犬、亀山演武場

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2019/10/30 - 2019/10/30

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旅人のくまさん

旅人のくまさんさん

かつての東海道53次の宿で、城下町は8箇所です。江戸から順に、小田原宿(小田原城)、府内宿(駿府城)、掛川宿(掛川城)、浜松宿(浜松城)、吉田宿(吉田城)、岡崎宿(岡崎城)、桑名宿(桑名城)と亀山宿(亀山城)です。今回の2箇所で、8箇所の城下町を巡り終えました。

交通手段
JRローカル 徒歩

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  • かつて、亀山城で唯一とされた『三重櫓』が置かれた櫓台の上部の光景です。誤って天守が取り壊されたため、寛永18年(1641年)、本多俊次(1595~1668年)により、天守代用の三重櫓として建てました。廃却されたのは、明治4年(1871年)です。

    かつて、亀山城で唯一とされた『三重櫓』が置かれた櫓台の上部の光景です。誤って天守が取り壊されたため、寛永18年(1641年)、本多俊次(1595~1668年)により、天守代用の三重櫓として建てました。廃却されたのは、明治4年(1871年)です。

  • 同じく、かつて『本丸三重櫓』が置かれた櫓台の光景です。廃却されたのは、明治4年(1871年)ですから、廃却前の写真も残されています。江戸時代初期、誤って天守が壊された跡は天守の代わりに使われていました。小大名の天守にしては立派過ぎるので、幕府が意図的に壊させたとの説も根強いようです。

    同じく、かつて『本丸三重櫓』が置かれた櫓台の光景です。廃却されたのは、明治4年(1871年)ですから、廃却前の写真も残されています。江戸時代初期、誤って天守が壊された跡は天守の代わりに使われていました。小大名の天守にしては立派過ぎるので、幕府が意図的に壊させたとの説も根強いようです。

  • かつて『本丸三重櫓』が置かれた櫓台の光景です。歌川広重の東海道53次の亀山宿の『亀山雪晴(かめやまゆきばれ)』には、雪景色の『亀山城京口門』が描かれています。その下を大名行列が通過する構図です。亀山宿の西端、西町と野村の境を流れる竜川左岸の崖上に築かれた門でした。亀山城総構の城門でした。

    かつて『本丸三重櫓』が置かれた櫓台の光景です。歌川広重の東海道53次の亀山宿の『亀山雪晴(かめやまゆきばれ)』には、雪景色の『亀山城京口門』が描かれています。その下を大名行列が通過する構図です。亀山宿の西端、西町と野村の境を流れる竜川左岸の崖上に築かれた門でした。亀山城総構の城門でした。

  • 櫓台を下りて、南側から眺めた、『本丸三重櫓台』の光景です。明治4年(1871年)の廃却前の写真は、北側から撮影した写真でした。急斜面の土手の上に、低い石垣積み、その上に建てられた三重櫓でした。

    イチオシ

    櫓台を下りて、南側から眺めた、『本丸三重櫓台』の光景です。明治4年(1871年)の廃却前の写真は、北側から撮影した写真でした。急斜面の土手の上に、低い石垣積み、その上に建てられた三重櫓でした。

  • 少し離れた場所から眺めた、『本丸三重櫓』が置かれていた櫓台の光景です。高石垣が積まれた本格的な櫓台ではなく、数メートルの高さの基壇でした。写真の右手になる東側から櫓台に登りましたが、左手になる西側にもスロープが付いていました。

    少し離れた場所から眺めた、『本丸三重櫓』が置かれていた櫓台の光景です。高石垣が積まれた本格的な櫓台ではなく、数メートルの高さの基壇でした。写真の右手になる東側から櫓台に登りましたが、左手になる西側にもスロープが付いていました。

  • ブランコや滑り台を始めとする遊具が置かれた『ますみ児童公園』の光景です。『亀山公園』の一部になるようです。この時間帯では、お子さん達の姿はありませんでした。かつての本丸跡です。

    ブランコや滑り台を始めとする遊具が置かれた『ますみ児童公園』の光景です。『亀山公園』の一部になるようです。この時間帯では、お子さん達の姿はありませんでした。かつての本丸跡です。

  • 本丸跡に整備された、『亀山公園』の一部の光景です。庭石の陽の大きな石が散在していましたが、亀山城の遺物の石材のようにも見えました。その一角にあった二重円のコンクリート台は、確認はしていませんが、戦時中の高射砲台跡にも見えました。

    本丸跡に整備された、『亀山公園』の一部の光景です。庭石の陽の大きな石が散在していましたが、亀山城の遺物の石材のようにも見えました。その一角にあった二重円のコンクリート台は、確認はしていませんが、戦時中の高射砲台跡にも見えました。

  • 本丸跡を通過する舗装道路の光景です。駐車場方面への通路になるようでした。その通路の先に赤い柱や建物が見えていました。この後紹介しますが、『出世稲荷』の赤い鳥居列と『亀山神社』の社殿です。

    本丸跡を通過する舗装道路の光景です。駐車場方面への通路になるようでした。その通路の先に赤い柱や建物が見えていました。この後紹介しますが、『出世稲荷』の赤い鳥居列と『亀山神社』の社殿です。

  • 自動車道を横断して、『亀山神社』の境内の入口にやって来ました。こちらには、鳥居はありませんでしたから、鳥居がある方面まで車道脇を移動しました。

    自動車道を横断して、『亀山神社』の境内の入口にやって来ました。こちらには、鳥居はありませんでしたから、鳥居がある方面まで車道脇を移動しました。

  • 『亀山神社』の『二の鳥居』の光景です。鳥居の手前に、立派な石灯篭が置かれていました。最下段が切込み接ぎの石垣で、台座の部分だけで2メートル程はあるようです。周りは、古社を偲ばせる鎮守の杜の光景でした。石灯篭と二の鳥居の間の左右に、狛犬の姿がありました。

    『亀山神社』の『二の鳥居』の光景です。鳥居の手前に、立派な石灯篭が置かれていました。最下段が切込み接ぎの石垣で、台座の部分だけで2メートル程はあるようです。周りは、古社を偲ばせる鎮守の杜の光景でした。石灯篭と二の鳥居の間の左右に、狛犬の姿がありました。

  • 『二の鳥居』越しに眺めた、亀山神社の拝殿光景です。現在の亀山市西丸町に位置する神社です。亀山藩石川家歴代を祀る神社で、領主奉斎神社とも呼ばれます。注連縄を張った石の鳥居から、石畳の参道がまっすぐ伸びていました。現在の地名は『西丸町』ですが、かつての本丸の一角になるようです。

    『二の鳥居』越しに眺めた、亀山神社の拝殿光景です。現在の亀山市西丸町に位置する神社です。亀山藩石川家歴代を祀る神社で、領主奉斎神社とも呼ばれます。注連縄を張った石の鳥居から、石畳の参道がまっすぐ伸びていました。現在の地名は『西丸町』ですが、かつての本丸の一角になるようです。

  • 亀山神社拝殿のズームアップ光景です。三重県神社庁のHPでは、主な祭神を源義家公、源義時公、石川義純公と紹介していました。石川義純公の検索では、元弘元年(1331年)、後醍醐天皇の綸旨を奉じた石川義純・同義忠兄弟がヒットしましたが、亀山神社との関係は調べが付きませんでした。大阪府南河内郡河南町に石川城を築いた兄弟です。

    イチオシ

    亀山神社拝殿のズームアップ光景です。三重県神社庁のHPでは、主な祭神を源義家公、源義時公、石川義純公と紹介していました。石川義純公の検索では、元弘元年(1331年)、後醍醐天皇の綸旨を奉じた石川義純・同義忠兄弟がヒットしましたが、亀山神社との関係は調べが付きませんでした。大阪府南河内郡河南町に石川城を築いた兄弟です。

  • 『宝篋印塔基礎部』らしい遺構の光景です。台座に記された文字から、正慶元年(1332年)が読み取られています。南北朝期(1336~1392年)直前の北朝の年号で、亀山市最古の石像品であることも紹介されていました南北朝期は、鎌倉時代と、狭義の室町時代に挟まれる時代で、広義の室町時代に含まれます。

    『宝篋印塔基礎部』らしい遺構の光景です。台座に記された文字から、正慶元年(1332年)が読み取られています。南北朝期(1336~1392年)直前の北朝の年号で、亀山市最古の石像品であることも紹介されていました南北朝期は、鎌倉時代と、狭義の室町時代に挟まれる時代で、広義の室町時代に含まれます。

  • 亀山市指定文化財の『宝篋印塔基礎部』の説明看板の光景です。この宝篋印塔基礎部は、この地にあった善道導寺が、西町に移転する際に残されたものと想定されています。昭和26年(1951年)、取り壊された本丸石垣の中から五輪塔とともに発見されたことが紹介されていました。転用石として石垣に使われていたのかも知れません。

    亀山市指定文化財の『宝篋印塔基礎部』の説明看板の光景です。この宝篋印塔基礎部は、この地にあった善道導寺が、西町に移転する際に残されたものと想定されています。昭和26年(1951年)、取り壊された本丸石垣の中から五輪塔とともに発見されたことが紹介されていました。転用石として石垣に使われていたのかも知れません。

  • 『出世稲荷』の赤鳥居の光景です。赤鳥居の扁額や左脇の標識にも『出世稲荷』の文字が記されていました。稲荷神社(いなりじんじゃ)は、稲荷神を祀る神社です。京都市伏見区深草にある伏見稲荷大社が神道上の稲荷神社の総本宮です。伏見稲荷大社を創建したのは、大陸の優れた文化を日本にもたらした渡来系一族の秦氏です。

    『出世稲荷』の赤鳥居の光景です。赤鳥居の扁額や左脇の標識にも『出世稲荷』の文字が記されていました。稲荷神社(いなりじんじゃ)は、稲荷神を祀る神社です。京都市伏見区深草にある伏見稲荷大社が神道上の稲荷神社の総本宮です。伏見稲荷大社を創建したのは、大陸の優れた文化を日本にもたらした渡来系一族の秦氏です。

  • 石灯篭が置かれた、右斜め前から眺めた亀山神社の拝殿光景です。拝殿御建築様式は、棟が横に通っている『平入拝殿』と、縦に通っている『妻入拝殿』に大別できるようですが、この建物は『平入拝殿』の範疇に入るようです。

    石灯篭が置かれた、右斜め前から眺めた亀山神社の拝殿光景です。拝殿御建築様式は、棟が横に通っている『平入拝殿』と、縦に通っている『妻入拝殿』に大別できるようですが、この建物は『平入拝殿』の範疇に入るようです。

  • 正面からズームアップした、亀山神社の拝殿光景です。注連縄に垂らされた、縄で造られたものは『〆の子(しめのこ)』、紙で造られた方は『紙垂(しで)』と呼ばれています。しめ縄は『雲』、紙垂は『雷』、〆の子は『雨』を表し、五穀豊穣を祈る意味合いがあるとの説もあります。元々は結界を意味する注連縄ですが、意味合いが変化したのかも知れません。

    正面からズームアップした、亀山神社の拝殿光景です。注連縄に垂らされた、縄で造られたものは『〆の子(しめのこ)』、紙で造られた方は『紙垂(しで)』と呼ばれています。しめ縄は『雲』、紙垂は『雷』、〆の子は『雨』を表し、五穀豊穣を祈る意味合いがあるとの説もあります。元々は結界を意味する注連縄ですが、意味合いが変化したのかも知れません。

  • 拝殿に向かって左側に置かれた狛犬の光景です。吽形の雌獅子です。花崗岩らしい台座の部分に、右から読んで『千年祭』らしい文字がありましたが、その前の部分は削除されているようでした。

    拝殿に向かって左側に置かれた狛犬の光景です。吽形の雌獅子です。花崗岩らしい台座の部分に、右から読んで『千年祭』らしい文字がありましたが、その前の部分は削除されているようでした。

  • 拝殿に向かって右側に置かれた狛犬の光景です。阿形の雄獅子のようですが、顔の部分が欠落していました。こちらの台座にも『千年祭』だけの文字が読み取れました。

    拝殿に向かって右側に置かれた狛犬の光景です。阿形の雄獅子のようですが、顔の部分が欠落していました。こちらの台座にも『千年祭』だけの文字が読み取れました。

  • 境内の脇から眺めた、社務所らしい建物の光景です。中央に伸びているのは、石畳の参道です。神道と呼ばれているのかも知れません。拝殿は、写真の右奥方面になります。

    境内の脇から眺めた、社務所らしい建物の光景です。中央に伸びているのは、石畳の参道です。神道と呼ばれているのかも知れません。拝殿は、写真の右奥方面になります。

  • 再度紹介する、『二の鳥居』越しに眺めた『亀山神社』の拝殿光景です。鳥居の左右手前に狛犬が置かれ、左側には、『百度石』もありました。注連縄の飾りは、同じ材質が使われたら史、三つ並んだ鈴のような外観の作り物でした。

    再度紹介する、『二の鳥居』越しに眺めた『亀山神社』の拝殿光景です。鳥居の左右手前に狛犬が置かれ、左側には、『百度石』もありました。注連縄の飾りは、同じ材質が使われたら史、三つ並んだ鈴のような外観の作り物でした。

  • 高い基壇の上に設けられた石灯篭の光景です。かなりの大きさと高さでした。『二の鳥居』に向かって左手前に位置していました。四角形をベースにした、直線的なデザインの石灯篭です。

    高い基壇の上に設けられた石灯篭の光景です。かなりの大きさと高さでした。『二の鳥居』に向かって左手前に位置していました。四角形をベースにした、直線的なデザインの石灯篭です。

  • 同じく、高い基壇の上に設けられた石灯篭の光景です。こちらは、『二の鳥居』に向かって右手前に位置していました。火袋は四方に向かって開口していました。装飾の少ない石灯篭ですが、最上段の傘の裏側に装飾が施されていました。

    同じく、高い基壇の上に設けられた石灯篭の光景です。こちらは、『二の鳥居』に向かって右手前に位置していました。火袋は四方に向かって開口していました。装飾の少ない石灯篭ですが、最上段の傘の裏側に装飾が施されていました。

  • 『大久保神官家宗門』の光景です。平成24年に『旧亀山城多聞櫓保存整備事業』の一環として整備された棟門になるようです。小学校の裏門として一時期使われていましたが、1955年(昭和30年)に現在地に再移築されました。

    『大久保神官家宗門』の光景です。平成24年に『旧亀山城多聞櫓保存整備事業』の一環として整備された棟門になるようです。小学校の裏門として一時期使われていましたが、1955年(昭和30年)に現在地に再移築されました。

  • 『亀山演武場』の看板が懸かった建物の光景です。玄関口らしい扉は閉まっていました。平成27年(2015年)、日本で唯一、心形刀流を途切れることなく伝承し続けた亀山演武場は、開場150周年を迎えました。江戸から戻った山崎雪柳軒が初代師範役になった元治2年(1865年)から150年、亀山では心形刀流の伝統が護られてきました。

    『亀山演武場』の看板が懸かった建物の光景です。玄関口らしい扉は閉まっていました。平成27年(2015年)、日本で唯一、心形刀流を途切れることなく伝承し続けた亀山演武場は、開場150周年を迎えました。江戸から戻った山崎雪柳軒が初代師範役になった元治2年(1865年)から150年、亀山では心形刀流の伝統が護られてきました。

  • 『亀山演武場』の文字が刻まれた、丸い石標の光景です。元治2年(1865年)、15代亀山藩主・石川総脩により武道場の設立が許されました。南野村喬松館御殿の東(現在の南野町)に、江戸の伊庭道場の長所を取り入れた約50坪の道場が建設されました。廃藩置県や廃刀令を経て、明治15年(1882年)に演武場は現在の場所、旧本丸の館跡地(現在の本丸町)に移設しました。 昭和60年(1985年)1月16日未明の火災によって焼失しましたが、昭和63年(1988年)に旧演武場の外観・内容を採用した亀山演武場が再建され、現在に至りました。

    『亀山演武場』の文字が刻まれた、丸い石標の光景です。元治2年(1865年)、15代亀山藩主・石川総脩により武道場の設立が許されました。南野村喬松館御殿の東(現在の南野町)に、江戸の伊庭道場の長所を取り入れた約50坪の道場が建設されました。廃藩置県や廃刀令を経て、明治15年(1882年)に演武場は現在の場所、旧本丸の館跡地(現在の本丸町)に移設しました。 昭和60年(1985年)1月16日未明の火災によって焼失しましたが、昭和63年(1988年)に旧演武場の外観・内容を採用した亀山演武場が再建され、現在に至りました。

  • 昭和30年(1955年)2月に文化財指定された、『市指定有形文化財建造物・大久保神官家棟門』の文字が記された標識の光景です。大久保家は、江戸時代に南埼権現社の神官だった家系で、江戸前期に西町権現、東町八幡宮、西町三社権現、1836年時点で13ケ村、42社の神官を務めていたことも側面に記されていました。

    昭和30年(1955年)2月に文化財指定された、『市指定有形文化財建造物・大久保神官家棟門』の文字が記された標識の光景です。大久保家は、江戸時代に南埼権現社の神官だった家系で、江戸前期に西町権現、東町八幡宮、西町三社権現、1836年時点で13ケ村、42社の神官を務めていたことも側面に記されていました。

  • 『亀山演武場』の石標と建物の光景です。左手が先ほど紹介した玄関、右手が道場になるようです。江戸の伊庭道場の良いところを取り入れて作られたという亀山演武場の間取りは、12.5坪の剣柔道場を囲むように、武者溜(南7.5坪、北と西5坪)があります。奥の一角に弓道場もありますが、現在は使われていません。

    イチオシ

    『亀山演武場』の石標と建物の光景です。左手が先ほど紹介した玄関、右手が道場になるようです。江戸の伊庭道場の良いところを取り入れて作られたという亀山演武場の間取りは、12.5坪の剣柔道場を囲むように、武者溜(南7.5坪、北と西5坪)があります。奥の一角に弓道場もありますが、現在は使われていません。

  • 『震災復旧としての土居復元』のタイトルがあった説明パネルの光景です。左上の写真が、平成19年(2008年)4月15日の震災被害状況です。下の写真は、昭和47年1972年)の大雨災害時の石垣復旧状況です。震災で壊れた部分は、土居の部分に新しく石垣を積んだ部分でした。江戸時代初め頃に穴太衆(あのうしゅう)によって築かれた古い部分には一切被害はなかったとされます。(ウィキペディア)

    『震災復旧としての土居復元』のタイトルがあった説明パネルの光景です。左上の写真が、平成19年(2008年)4月15日の震災被害状況です。下の写真は、昭和47年1972年)の大雨災害時の石垣復旧状況です。震災で壊れた部分は、土居の部分に新しく石垣を積んだ部分でした。江戸時代初め頃に穴太衆(あのうしゅう)によって築かれた古い部分には一切被害はなかったとされます。(ウィキペディア)

  • 左側の面に『三重県指定無形文化財・亀山藩御流儀・心形刀流武芸形(昭和50年3月指定)』の文字が記されていました。右側の面には、心形刀流は、伊庭是水軒秀秋により元治2年(1865年)に開創したことなど、その要点が記されていました。先に紹介した、初代師範の山崎利右衛門(雪柳軒)は、文政11年(1828年)に亀山藩江戸藩邸で生まれ、8代伊庭軍兵衛秀業から免許皆伝を受けました。伊庭道場の師範代をしていましたが、元治元年(1864年)3月に江戸詰めを解かれ、37歳の時に亀山藩に戻り、藩の剣士育成を始めました。

    左側の面に『三重県指定無形文化財・亀山藩御流儀・心形刀流武芸形(昭和50年3月指定)』の文字が記されていました。右側の面には、心形刀流は、伊庭是水軒秀秋により元治2年(1865年)に開創したことなど、その要点が記されていました。先に紹介した、初代師範の山崎利右衛門(雪柳軒)は、文政11年(1828年)に亀山藩江戸藩邸で生まれ、8代伊庭軍兵衛秀業から免許皆伝を受けました。伊庭道場の師範代をしていましたが、元治元年(1864年)3月に江戸詰めを解かれ、37歳の時に亀山藩に戻り、藩の剣士育成を始めました。

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