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西尾城と城下町の紹介です。西尾城の歴史は古く、承久の乱(1221年)の戦功により三河国守護に任じられた『足利義氏(よしうじ:1185~1255年)』が築城した西条城が始まりと伝わります。足利氏は、吉良氏と名を改め、吉良荘(きらしょう)を統治しました。

2019秋、西尾城と城下町(1/7):三の丸新門、西尾市歴史公園、二の丸鍮石門、本丸丑寅櫓

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2019/10/23 - 2019/10/23

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旅人のくまさん

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西尾城と城下町の紹介です。西尾城の歴史は古く、承久の乱(1221年)の戦功により三河国守護に任じられた『足利義氏(よしうじ:1185~1255年)』が築城した西条城が始まりと伝わります。足利氏は、吉良氏と名を改め、吉良荘(きらしょう)を統治しました。

  • 金山駅までは名古屋市地下鉄、金山駅から西尾までは、名鉄線を乗り継いで西尾駅に向かいました。名鉄西尾駅から西尾城跡までは、歩いて15分ほどでした。その途中の光景です。西尾駅前から、少しだけ南下し、この信号から、まっすぐに西に向かいました。

    金山駅までは名古屋市地下鉄、金山駅から西尾までは、名鉄線を乗り継いで西尾駅に向かいました。名鉄西尾駅から西尾城跡までは、歩いて15分ほどでした。その途中の光景です。西尾駅前から、少しだけ南下し、この信号から、まっすぐに西に向かいました。

  • 『北浜川』の表示があった、立派な擬宝珠の光景です。この辺りは、かつての西尾城の縄張りになるのかも知れません。城下町か、それに隣接する場所の名残らしい、『四条橋』になるようです。

    『北浜川』の表示があった、立派な擬宝珠の光景です。この辺りは、かつての西尾城の縄張りになるのかも知れません。城下町か、それに隣接する場所の名残らしい、『四条橋』になるようです。

  • 『四条橋』の道路標識の光景です。『六万石くるりんバス』の標識でした。標識には、お城のイラストと、『歴史と文化のまち・にしお』のキャッチフレーズが記されていました。三河国幡豆(はず)郡にあった荘園の『吉良荘(きらのしょう)は、現在の愛知県幡豆郡吉良町を中心に、西尾市にかけての地域と比定されています。

    『四条橋』の道路標識の光景です。『六万石くるりんバス』の標識でした。標識には、お城のイラストと、『歴史と文化のまち・にしお』のキャッチフレーズが記されていました。三河国幡豆(はず)郡にあった荘園の『吉良荘(きらのしょう)は、現在の愛知県幡豆郡吉良町を中心に、西尾市にかけての地域と比定されています。

  • 前書きで、西尾城の始まりを紹介しましたが、群雄割拠の戦国時代には、城主が牧野成定、酒井正親、田中吉政と入れ代わり、これに従って城域も拡大しました。天正13年(1585年)、家康の命により『三河の人夫を挙げて』城が築かれたことが、『三川物語』『家忠日記』に記され、これが近世の西尾城の基礎となりました。さらに田中氏の時に三の丸が造営され、城郭が確定されました。

    前書きで、西尾城の始まりを紹介しましたが、群雄割拠の戦国時代には、城主が牧野成定、酒井正親、田中吉政と入れ代わり、これに従って城域も拡大しました。天正13年(1585年)、家康の命により『三河の人夫を挙げて』城が築かれたことが、『三川物語』『家忠日記』に記され、これが近世の西尾城の基礎となりました。さらに田中氏の時に三の丸が造営され、城郭が確定されました。

  • 『西尾城三の丸新門跡』のタイトルがあった説明パネルの光景です。田中吉政(1548~1609年)は、小田原征伐で秀次軍として活躍し、三河国岡崎城5万石余の所領が与えられ、更に加増が続き10万石の大名となりました。関ヶ原での功績では、筑後一国柳川城32万石を与えられ、国持ち大名となりました。

    『西尾城三の丸新門跡』のタイトルがあった説明パネルの光景です。田中吉政(1548~1609年)は、小田原征伐で秀次軍として活躍し、三河国岡崎城5万石余の所領が与えられ、更に加増が続き10万石の大名となりました。関ヶ原での功績では、筑後一国柳川城32万石を与えられ、国持ち大名となりました。

  • 『西尾城新門址』の石標の光景です。背後の説明看板には、『西尾城三の丸新門跡』の表示がありました。田中吉政の柳川への転出に伴い、慶長6年(1601年)に本多康俊(1570~1622年)が西尾2万石の藩主として入りました。これが西尾藩の立藩となります。その後、西尾藩主は松平氏、本多氏、太田氏、井伊氏、増山氏、土井氏、三浦氏と頻繁に代わりますが、いずれも譜代大名でした。第2代藩主の土井利長(1631~1696年)は、下野国内から2万3,000石で入りました。

    『西尾城新門址』の石標の光景です。背後の説明看板には、『西尾城三の丸新門跡』の表示がありました。田中吉政の柳川への転出に伴い、慶長6年(1601年)に本多康俊(1570~1622年)が西尾2万石の藩主として入りました。これが西尾藩の立藩となります。その後、西尾藩主は松平氏、本多氏、太田氏、井伊氏、増山氏、土井氏、三浦氏と頻繁に代わりますが、いずれも譜代大名でした。第2代藩主の土井利長(1631~1696年)は、下野国内から2万3,000石で入りました。

  • 絵図で紹介されていた、かつての『西尾城新門』の周りの光景になるようです。第2代藩主の利長は、江戸幕府の老中・大老として前期幕政を主導した土井利勝の三男です。その土井家第二代の利意(としおき)は、稲葉家からの養子ですが、税制改革・農政に尽力し、善政を行なった名君といわれます。

    絵図で紹介されていた、かつての『西尾城新門』の周りの光景になるようです。第2代藩主の利長は、江戸幕府の老中・大老として前期幕政を主導した土井利勝の三男です。その土井家第二代の利意(としおき)は、稲葉家からの養子ですが、税制改革・農政に尽力し、善政を行なった名君といわれます。

  • 『西尾市歴史公園』の一角にある、『尚古荘』の入口門の光景です。昭和初期に米穀商・岩崎明三郎によって造られた、この地方では珍しい京風庭園です。西尾城の『東の丸』の遺構を生かして作庭されています。後ほどその庭園は紹介します。1585年(天正13年)、酒井重忠(1549~1617年)によって、東の丸と帯曲輪の拡張と堀や石塁の造成、櫓門、櫓類、天守などが増築されました。

    イチオシ

    『西尾市歴史公園』の一角にある、『尚古荘』の入口門の光景です。昭和初期に米穀商・岩崎明三郎によって造られた、この地方では珍しい京風庭園です。西尾城の『東の丸』の遺構を生かして作庭されています。後ほどその庭園は紹介します。1585年(天正13年)、酒井重忠(1549~1617年)によって、東の丸と帯曲輪の拡張と堀や石塁の造成、櫓門、櫓類、天守などが増築されました。

  • 『尚古荘』の入口門付近の光景です。帰りに立ち寄り、ゆっくりと見学することにしました。1590年(天正18年)に田中吉政によって、三の丸の拡張や大手黒門、新門の楼門2棟、櫓門2棟が建てられています。このとき『東の丸』にあった大手門は、太鼓門と改称されました。岡崎城主の田中吉政の時代には、岡崎城の支城でした。

    『尚古荘』の入口門付近の光景です。帰りに立ち寄り、ゆっくりと見学することにしました。1590年(天正18年)に田中吉政によって、三の丸の拡張や大手黒門、新門の楼門2棟、櫓門2棟が建てられています。このとき『東の丸』にあった大手門は、太鼓門と改称されました。岡崎城主の田中吉政の時代には、岡崎城の支城でした。

  • 同じく、『尚古荘』の入口門付近の光景です。時代は下って、第5代藩主・松平乗秩時代の慶応4年(1868年)の戊辰戦争では、佐幕派と尊王派による大論争が行なわれて藩が分裂の危機に陥りました。その結果は、下級武士層による尊王派が大局を占め、尾張藩に従って新政府に与(くみ)し、明治期を迎えました。

    同じく、『尚古荘』の入口門付近の光景です。時代は下って、第5代藩主・松平乗秩時代の慶応4年(1868年)の戊辰戦争では、佐幕派と尊王派による大論争が行なわれて藩が分裂の危機に陥りました。その結果は、下級武士層による尊王派が大局を占め、尾張藩に従って新政府に与(くみ)し、明治期を迎えました。

  • 石造の右側の門柱には『錦城山』、左側の門柱には『向春寺』の文字が刻まれていました。西尾市錦城町に位置する曹洞宗の寺院でした。西尾城は『錦丘城』の別名を持ち、その名を留めるお寺のようでした。この付近は、明治9年に錦城町と名付けられ、繁華街だったようです。二之丸跡地には『錦城』の名に因む、『錦城体育館』が建てられています。

    石造の右側の門柱には『錦城山』、左側の門柱には『向春寺』の文字が刻まれていました。西尾市錦城町に位置する曹洞宗の寺院でした。西尾城は『錦丘城』の別名を持ち、その名を留めるお寺のようでした。この付近は、明治9年に錦城町と名付けられ、繁華街だったようです。二之丸跡地には『錦城』の名に因む、『錦城体育館』が建てられています。

  • 『錦城山・向春寺』が位置するこの辺りは、三の丸跡付近になるのです。色々調べてみましたが、『錦城山・向春寺』は実態を失い、法人としての代表者名なども不明になっていました。その跡地に建った、民家らしい建物です。2014~5年以前のネット写真には、本堂の姿が映されていました。

    『錦城山・向春寺』が位置するこの辺りは、三の丸跡付近になるのです。色々調べてみましたが、『錦城山・向春寺』は実態を失い、法人としての代表者名なども不明になっていました。その跡地に建った、民家らしい建物です。2014~5年以前のネット写真には、本堂の姿が映されていました。

  • 途中、少し寄り道をしましたが、前方に見えてきたのが、『西尾市歴史公園』の一角になるようです。西尾城跡では、二の丸跡地の一角に、本丸建設予定の本丸石垣が、早々と完成しています。その前に、『二之丸丑寅櫓』の建設が始まっていました。

    途中、少し寄り道をしましたが、前方に見えてきたのが、『西尾市歴史公園』の一角になるようです。西尾城跡では、二の丸跡地の一角に、本丸建設予定の本丸石垣が、早々と完成しています。その前に、『二之丸丑寅櫓』の建設が始まっていました。

  • イラストと写真で表示された、『施設案内版』の光景です。現在地の近くには、旧近衛邸、資料館、歴史公園と西尾公園などが記されていました。仮定の話しですが、もし『続々日本百名城』の選定があるようでしたら、これまでの都道府県に最低1箇所の条件を外して、全国枠で100名城を選定してもらいたいものです。『山川MOOK・日本の城』にも西尾城はリストアップされています。

    イラストと写真で表示された、『施設案内版』の光景です。現在地の近くには、旧近衛邸、資料館、歴史公園と西尾公園などが記されていました。仮定の話しですが、もし『続々日本百名城』の選定があるようでしたら、これまでの都道府県に最低1箇所の条件を外して、全国枠で100名城を選定してもらいたいものです。『山川MOOK・日本の城』にも西尾城はリストアップされています。

  • 『西尾市歴史公園』の文字が記された看板の光景です。『城下町歴史小径散策路』と『三河の小京都・愛知西尾」の文字も記されていました。下側半分は、植木に隠れて読み取れませんでした。西尾市の公式HPには、公園内の施設として、本丸丑寅櫓、二之丸丑寅櫓、鍮石門、旧近衛邸と尚古荘が紹介されていました。(追記)二之丸丑寅櫓は、2020年7月から公開されました。

    『西尾市歴史公園』の文字が記された看板の光景です。『城下町歴史小径散策路』と『三河の小京都・愛知西尾」の文字も記されていました。下側半分は、植木に隠れて読み取れませんでした。西尾市の公式HPには、公園内の施設として、本丸丑寅櫓、二之丸丑寅櫓、鍮石門、旧近衛邸と尚古荘が紹介されていました。(追記)二之丸丑寅櫓は、2020年7月から公開されました。

  • 観光用の道案内標識の光景です。手前向きの矢印が『尚古荘』、左向きの矢印が『本丸』と『東の丸』等でした。その下に『西尾城郭配置図』の平面図がありましたので、引き続いて紹介します。

    観光用の道案内標識の光景です。手前向きの矢印が『尚古荘』、左向きの矢印が『本丸』と『東の丸』等でした。その下に『西尾城郭配置図』の平面図がありましたので、引き続いて紹介します。

  • 『西尾城郭配置図』のタイトルがあった案内平面図の光景です。平成20年(2008年)3月、菅氏原画作成の西尾市教育委員会名の案内板でした。手元の『山川MOOK・日本の城』の西尾市教育委員会提供の縄張り図には、本丸、二の丸、姫丸と北の丸の四つの曲輪の名か記されていませんでしたが、この図には6箇所が記されていました。あとの2つは東の丸と三の丸です。

    『西尾城郭配置図』のタイトルがあった案内平面図の光景です。平成20年(2008年)3月、菅氏原画作成の西尾市教育委員会名の案内板でした。手元の『山川MOOK・日本の城』の西尾市教育委員会提供の縄張り図には、本丸、二の丸、姫丸と北の丸の四つの曲輪の名か記されていませんでしたが、この図には6箇所が記されていました。あとの2つは東の丸と三の丸です。

  • 『西尾城跡』のタイトルがあった説明パネルの光景です。西尾城の始まりは、前書きでも紹介した、『承久の乱(1221)の戦功により三河国守護に任じられた『足利義氏(よしうじ:1185~1255年)』が築城した西条城が始まり』、と紹介されていました。

    『西尾城跡』のタイトルがあった説明パネルの光景です。西尾城の始まりは、前書きでも紹介した、『承久の乱(1221)の戦功により三河国守護に任じられた『足利義氏(よしうじ:1185~1255年)』が築城した西条城が始まり』、と紹介されていました。

  • 『西尾市歴史公園』のタイトルがあった説明パネルの光景です。イラストでカラフルに描かれていました。描かれている施設は、先に紹介した本丸丑寅櫓、二之丸丑寅櫓、鍮石門、旧近衛邸と尚古荘です。この後は、現地での紹介となります。

    『西尾市歴史公園』のタイトルがあった説明パネルの光景です。イラストでカラフルに描かれていました。描かれている施設は、先に紹介した本丸丑寅櫓、二之丸丑寅櫓、鍮石門、旧近衛邸と尚古荘です。この後は、現地での紹介となります。

  • 西尾城の城門の光景です。1996年(平成8年)に再建された、『鍮石門(ちゅうじゃくもん)』です。本丸丑寅櫓と同時期の再建でした。写真は、城外側からの眺めです。二の丸の表門とされます。

    西尾城の城門の光景です。1996年(平成8年)に再建された、『鍮石門(ちゅうじゃくもん)』です。本丸丑寅櫓と同時期の再建でした。写真は、城外側からの眺めです。二の丸の表門とされます。

  • 二の丸表門に向かって左手の屋根飾りのズームアップ光景です。逆立ちした鯱の、よく見かける屋根飾りのパターンです。瓦として焼かれたもののようでした。『鯱(しゃち)』は、姿は魚で頭は虎、尾ひれは常に空を向き、背中には幾重もの鋭いとげを持っているという、想像上の動物です。

    二の丸表門に向かって左手の屋根飾りのズームアップ光景です。逆立ちした鯱の、よく見かける屋根飾りのパターンです。瓦として焼かれたもののようでした。『鯱(しゃち)』は、姿は魚で頭は虎、尾ひれは常に空を向き、背中には幾重もの鋭いとげを持っているという、想像上の動物です。

  • 二の丸表門に向かって右手の屋根飾りのズームアップ光景です。対になった逆立ちした鯱飾です。本来は、寺院堂塔内にある厨子等を飾っていたものですが、織田信長(1534~1582年)が安土城天主の装飾に取り入れて使用したことで普及したといわれています。

    イチオシ

    二の丸表門に向かって右手の屋根飾りのズームアップ光景です。対になった逆立ちした鯱飾です。本来は、寺院堂塔内にある厨子等を飾っていたものですが、織田信長(1534~1582年)が安土城天主の装飾に取り入れて使用したことで普及したといわれています。

  • 二の丸表門の直近手前から眺めた、二の丸跡付近の光景です。二の丸の中央には、かつて藩主の御殿が建てられていましたが、現在は二の丸広場となっていて、その一角に旧近衛邸が移築されています。

    二の丸表門の直近手前から眺めた、二の丸跡付近の光景です。二の丸の中央には、かつて藩主の御殿が建てられていましたが、現在は二の丸広場となっていて、その一角に旧近衛邸が移築されています。

  • 1996年(平成8年)に再建され、まだ新しい『鍮石門』の天井光景です。分厚い木材が使われ、二階部分から攻撃できる屋根構造にはなっていないようでした。城門の内外に、石落しの細工も見当たりませんでした。

    1996年(平成8年)に再建され、まだ新しい『鍮石門』の天井光景です。分厚い木材が使われ、二階部分から攻撃できる屋根構造にはなっていないようでした。城門の内外に、石落しの細工も見当たりませんでした。

  • 城内側から眺めた、二の丸表門の『鍮石門(ちゅうじゃくもん)』の光景です。『鍮(ちゅう)』の文字は、『真鍮(しんちゅう)』などの用語で残っています。真鍮は、銅と亜鉛の合金で、『黄銅』とも呼ばれます。表門に銅合金の飾りがあった『鍮石門』のようです。『鍮石』は、現在の『真鍮』と同義のようです。全国の城には『銅門(あかがねもん)』呼び名の門が幾つもあります。

    イチオシ

    城内側から眺めた、二の丸表門の『鍮石門(ちゅうじゃくもん)』の光景です。『鍮(ちゅう)』の文字は、『真鍮(しんちゅう)』などの用語で残っています。真鍮は、銅と亜鉛の合金で、『黄銅』とも呼ばれます。表門に銅合金の飾りがあった『鍮石門』のようです。『鍮石』は、現在の『真鍮』と同義のようです。全国の城には『銅門(あかがねもん)』呼び名の門が幾つもあります。

  • 『近衛邸跡』のタイトルがあった、年月を経たらしい看板の光景です。しかし西尾市歴史公園の年表によれば、近衛家の数奇屋棟と茶室棟が移築されたのは、1995年(平成7年)ですから、四半世紀の25年ほど前のことです。

    『近衛邸跡』のタイトルがあった、年月を経たらしい看板の光景です。しかし西尾市歴史公園の年表によれば、近衛家の数奇屋棟と茶室棟が移築されたのは、1995年(平成7年)ですから、四半世紀の25年ほど前のことです。

  • 緑が豊富な『二の丸跡』の光景です。その中を緩いカーブを持った散策路が通っていました。京都から移築された旧近衛邸は、摂家筆頭として左大臣を務めた近衛忠房公(1838~1873年)に嫁いだ夫人の縁で、島津家によって江戸後期に建てられた、書院と茶室です。茶室は、床框(とこがまち)がひときわ高く、点前座の奥に床の間を構えた『亭主床(ていしゅどこ)』と呼ばれる構成とされます。

    緑が豊富な『二の丸跡』の光景です。その中を緩いカーブを持った散策路が通っていました。京都から移築された旧近衛邸は、摂家筆頭として左大臣を務めた近衛忠房公(1838~1873年)に嫁いだ夫人の縁で、島津家によって江戸後期に建てられた、書院と茶室です。茶室は、床框(とこがまち)がひときわ高く、点前座の奥に床の間を構えた『亭主床(ていしゅどこ)』と呼ばれる構成とされます。

  • 旧近衛邸の茶室は、瀟洒な花釘や花明窓(はなあかりまど)が用いられた、公家の茶の湯に相応しい品格を感じさせるものとされます。近衛忠房公は、大納言・内大臣左大将を経て、右大臣に至り、従一位に叙せられましたが、37歳で亡くなりました。写真の石碑には『椿聴庵』の文字が刻まれていました。『椿苑』の呼び名のようでした。

    旧近衛邸の茶室は、瀟洒な花釘や花明窓(はなあかりまど)が用いられた、公家の茶の湯に相応しい品格を感じさせるものとされます。近衛忠房公は、大納言・内大臣左大将を経て、右大臣に至り、従一位に叙せられましたが、37歳で亡くなりました。写真の石碑には『椿聴庵』の文字が刻まれていました。『椿苑』の呼び名のようでした。

  • 振り返って眺めた、『鍮石門』の光景です。『鍮』の文字は、『とう、つ、ちゅう』の読み方があり、『鍮石(とうせき、ちゅうせき)』は、『真鍮(しんちゅう)』、あるいは『良質な自然銅』を意味するとされます。また、『真鍮』は『黄銅』と同義とされる、銅と亜鉛の合金です。 JISでは『黄銅』等と呼ばれ、『真鍮』は慣用名ともされます。

    振り返って眺めた、『鍮石門』の光景です。『鍮』の文字は、『とう、つ、ちゅう』の読み方があり、『鍮石(とうせき、ちゅうせき)』は、『真鍮(しんちゅう)』、あるいは『良質な自然銅』を意味するとされます。また、『真鍮』は『黄銅』と同義とされる、銅と亜鉛の合金です。 JISでは『黄銅』等と呼ばれ、『真鍮』は慣用名ともされます。

  • 『二の丸跡』付近から眺めた『本丸丑寅櫓』の光景です。丑寅は、丑と寅との中間の方角で、北東に当たります。陰陽道(おんようどう)では、鬼門とされます。『丑』が北北東、『寅』が東北東で、その中間の北東が『丑寅』になります。本丸丑寅櫓は、本丸の丑寅(北東)の隅に建てられていた櫓が、平成8年(1996年)に再建されたものです。

    『二の丸跡』付近から眺めた『本丸丑寅櫓』の光景です。丑寅は、丑と寅との中間の方角で、北東に当たります。陰陽道(おんようどう)では、鬼門とされます。『丑』が北北東、『寅』が東北東で、その中間の北東が『丑寅』になります。本丸丑寅櫓は、本丸の丑寅(北東)の隅に建てられていた櫓が、平成8年(1996年)に再建されたものです。

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