亀山旅行記(ブログ) 一覧に戻る
三重県の亀山城と桑名城の紹介です。最初は亀山宿に近い亀山城の紹介です。伊勢亀山城は、文永2年(1265年)に伊勢平氏の流れをくむ関実忠によって伊勢国鈴鹿郡若山に築城されたのが始まりです。永禄10年(1567年)の織田信長の伊勢進攻以降、たびたび戦場となりました。

2019秋、亀山城と桑名城(1/8):亀山城(1):JRで亀山駅へ、歩いて亀山城へ、本丸多聞櫓

28いいね!

2019/10/30 - 2019/10/30

15位(同エリア88件中)

旅人のくまさん

旅人のくまさんさん

三重県の亀山城と桑名城の紹介です。最初は亀山宿に近い亀山城の紹介です。伊勢亀山城は、文永2年(1265年)に伊勢平氏の流れをくむ関実忠によって伊勢国鈴鹿郡若山に築城されたのが始まりです。永禄10年(1567年)の織田信長の伊勢進攻以降、たびたび戦場となりました。

交通手段
JRローカル 徒歩

PR

  • 名古屋駅からJR関西本線でやってきた、亀山駅の光景です。関西本線は、名古屋駅から亀山駅、奈良駅を経て大阪府大阪市浪速区のJR難波駅に至る鉄道路線です。ローカル化して、不便な線路です。

    名古屋駅からJR関西本線でやってきた、亀山駅の光景です。関西本線は、名古屋駅から亀山駅、奈良駅を経て大阪府大阪市浪速区のJR難波駅に至る鉄道路線です。ローカル化して、不便な線路です。

  • 亀山駅にあった観光案内図の光景です。目的地は歩いて15分ほどの亀山城です。駅の下側方面の1キロほどの位置に『亀山城跡』が記されていました。

    亀山駅にあった観光案内図の光景です。目的地は歩いて15分ほどの亀山城です。駅の下側方面の1キロほどの位置に『亀山城跡』が記されていました。

  • 薄青色の花を咲かせた草花の光景です。矢層ではなく、花壇に植え込まれていました。グランドカバーに適しているような、匍匐性の姿でした。名前はまだ調べていません。

    薄青色の花を咲かせた草花の光景です。矢層ではなく、花壇に植え込まれていました。グランドカバーに適しているような、匍匐性の姿でした。名前はまだ調べていません。

  • 大雑把な芳香を東北方面と判断して歩き始めた通りの光景です。正面の高台は、既に亀山城の縄張り跡のようでした。

    大雑把な芳香を東北方面と判断して歩き始めた通りの光景です。正面の高台は、既に亀山城の縄張り跡のようでした。

  • 街道脇に沿って続く、左手の石垣は現代工法で積まれた石垣ですが、かつての亀山城の『西の丸』の東面の土手の位置になるようでした。

    街道脇に沿って続く、左手の石垣は現代工法で積まれた石垣ですが、かつての亀山城の『西の丸』の東面の土手の位置になるようでした。

  • 歩道脇にあった、路線バスの案内標識の光景です。現在地点は、亀山駅から一つ目の『御幸町』、その先に『東丸』のお城の縄張りに因む名前のバス停もありました。亀山城の最寄りのバス停は、かつての『二の丸』の『市役所』になるようです。大した距離ではありませんから、歩くことにしました。

    歩道脇にあった、路線バスの案内標識の光景です。現在地点は、亀山駅から一つ目の『御幸町』、その先に『東丸』のお城の縄張りに因む名前のバス停もありました。亀山城の最寄りのバス停は、かつての『二の丸』の『市役所』になるようです。大した距離ではありませんから、歩くことにしました。

  • 『亀山領内東海道分間絵図』のタイトルがあった地図の光景です。八十間道と五十間道が交わる中ほどの場所に、現在地が記されていました。この案内地図のベースは、江戸時代の原資料です。

    『亀山領内東海道分間絵図』のタイトルがあった地図の光景です。八十間道と五十間道が交わる中ほどの場所に、現在地が記されていました。この案内地図のベースは、江戸時代の原資料です。

  • 『伊勢之国亀山宿』の説明看板の光景です。冒頭に、江戸から百4里、四六番目の宿と紹介されていました。亀山市指定文化財の『亀山領内東海道分間絵図』は、享和3年(1803年)に、徳川幕府と亀山藩主の石川家と実地測量で作成した、600分の1の地図です。

    『伊勢之国亀山宿』の説明看板の光景です。冒頭に、江戸から百4里、四六番目の宿と紹介されていました。亀山市指定文化財の『亀山領内東海道分間絵図』は、享和3年(1803年)に、徳川幕府と亀山藩主の石川家と実地測量で作成した、600分の1の地図です。

  • 『本丸多聞櫓』の光景です。亀山城跡に遺された、唯一の遺構の建物とされます。現在は三重県の史跡に指定されています。一時期は下見板張りの黒い壁面でしたが、現在は漆喰塗の白壁です。平成23~24年に掛けて修復工事が行われました。三重県に唯一残る城郭の建築物遺構です。

    イチオシ

    『本丸多聞櫓』の光景です。亀山城跡に遺された、唯一の遺構の建物とされます。現在は三重県の史跡に指定されています。一時期は下見板張りの黒い壁面でしたが、現在は漆喰塗の白壁です。平成23~24年に掛けて修復工事が行われました。三重県に唯一残る城郭の建築物遺構です。

  • 『キバナコスモス(黄花秋桜)』<br />キク科コスモス属の多年草または一年草<br />原産:メキシコ<br />特徴:園芸品種でしたが、一部は逸出して野生化しています。<br />その他:コスモスの代表種のオオハルシャギクとは同属別種です。

    『キバナコスモス(黄花秋桜)』
    キク科コスモス属の多年草または一年草
    原産:メキシコ
    特徴:園芸品種でしたが、一部は逸出して野生化しています。
    その他:コスモスの代表種のオオハルシャギクとは同属別種です。

  • 『キバナコスモス(黄花秋桜)』<br />キク科コスモス属の多年草または一年草<br />原産:メキシコ<br />特徴:園芸品種でしたが、一部は逸出して野生化しています。<br />その他:キバナコスモスの花のズームアップ光景です。

    『キバナコスモス(黄花秋桜)』
    キク科コスモス属の多年草または一年草
    原産:メキシコ
    特徴:園芸品種でしたが、一部は逸出して野生化しています。
    その他:キバナコスモスの花のズームアップ光景です。

  • 『マリーゴールド』<br />キク科コウオウソウ属(マンジュギク属)<br />分布:アメリカ大陸の熱帯と温帯にかけて約50種が分布。<br />特徴:線虫防除効果を持つ植物です。<br />その他:『マリア様の黄金の花』とも呼ばれます。

    『マリーゴールド』
    キク科コウオウソウ属(マンジュギク属)
    分布:アメリカ大陸の熱帯と温帯にかけて約50種が分布。
    特徴:線虫防除効果を持つ植物です。
    その他:『マリア様の黄金の花』とも呼ばれます。

  • 『サルビア』<br />シソ科アキギリ属<br />原産:ブラジル<br />特徴:スカーレットセージとも呼ばれます。<br />その他:ヒゴロモソウ(緋衣草)の和名を持ちます。

    『サルビア』
    シソ科アキギリ属
    原産:ブラジル
    特徴:スカーレットセージとも呼ばれます。
    その他:ヒゴロモソウ(緋衣草)の和名を持ちます。

  • 亀山城址に向かう途中、右手に見えていたお寺の光景です。亀山城の歴史の紹介です。平資盛の子孫と称する平実忠が史上に躍り出たのが元久元年(1204年)に起きた三日平氏の乱です。この時の戦功で実忠は鈴鹿郡関谷二十四郷の地頭職に補せられ、関氏を名乗りました。宝治元年(1247年)、鎌倉から戻った実忠は文永元年(1264年)に丘陵地に城館を移し、その翌年に亡くなりました。

    亀山城址に向かう途中、右手に見えていたお寺の光景です。亀山城の歴史の紹介です。平資盛の子孫と称する平実忠が史上に躍り出たのが元久元年(1204年)に起きた三日平氏の乱です。この時の戦功で実忠は鈴鹿郡関谷二十四郷の地頭職に補せられ、関氏を名乗りました。宝治元年(1247年)、鎌倉から戻った実忠は文永元年(1264年)に丘陵地に城館を移し、その翌年に亡くなりました。

  • 冬木立になった、桜の樹越しに眺めた、本丸多聞櫓の光景です。亀山城の歴史の紹介を続けます。亀山城主の関盛信は、本能寺の変後は蒲生氏と共に羽柴秀吉に属しました。その後、賤ヶ岳の戦いに至る過程で長島城の滝川一益によって亀山城が接収され、滝川家臣・佐治新介が守将として入りましたが、秀吉の大軍に攻められて降伏開城となり、盛信の子一政に戻されました。

    冬木立になった、桜の樹越しに眺めた、本丸多聞櫓の光景です。亀山城の歴史の紹介を続けます。亀山城主の関盛信は、本能寺の変後は蒲生氏と共に羽柴秀吉に属しました。その後、賤ヶ岳の戦いに至る過程で長島城の滝川一益によって亀山城が接収され、滝川家臣・佐治新介が守将として入りましたが、秀吉の大軍に攻められて降伏開城となり、盛信の子一政に戻されました。

  • 穴太衆(あのうしゅう)が積んだとされる、野面積(のづらつみ)の高石垣の光景です。その上に建つのが、『本丸多聞櫓』です。かつては、この石垣の上に天守が建っていたようです。

    イチオシ

    穴太衆(あのうしゅう)が積んだとされる、野面積(のづらつみ)の高石垣の光景です。その上に建つのが、『本丸多聞櫓』です。かつては、この石垣の上に天守が建っていたようです。

  • 斜め前から眺めた、本丸多聞櫓の光景です。慶長5年(1600年)、関ヶ原合戦で岡本宗憲は西軍に付いて桑名城を守っていましたが、西軍敗北後に自刃しました。戦後再び関一政が三万石で亀山城に復帰し、亀山藩が立藩されました。慶長15年(1610年)、松平忠明が五万石で入部、一時、天領を経て元和5年(1619年)に三宅康信が一万石で入部、二代康盛と続きました。

    斜め前から眺めた、本丸多聞櫓の光景です。慶長5年(1600年)、関ヶ原合戦で岡本宗憲は西軍に付いて桑名城を守っていましたが、西軍敗北後に自刃しました。戦後再び関一政が三万石で亀山城に復帰し、亀山藩が立藩されました。慶長15年(1610年)、松平忠明が五万石で入部、一時、天領を経て元和5年(1619年)に三宅康信が一万石で入部、二代康盛と続きました。

  • 三宅康盛の時代のことです。丹波亀山城と勘違いした堀尾忠晴が、幕命として天守を取り壊しました。幕府は、これ幸いとばかりに天守の再建を許さなかったと言われています。三宅氏の後、本多、石川、大給松平、板倉と譜代の城主が入れ替わり、延享元年(1744年)に石川総慶が六万石で入部し、後十一代続いて明治に至りました。

    三宅康盛の時代のことです。丹波亀山城と勘違いした堀尾忠晴が、幕命として天守を取り壊しました。幕府は、これ幸いとばかりに天守の再建を許さなかったと言われています。三宅氏の後、本多、石川、大給松平、板倉と譜代の城主が入れ替わり、延享元年(1744年)に石川総慶が六万石で入部し、後十一代続いて明治に至りました。

  • 最上部に『鐸山近藤君之碑』のタイトルがあった、長文の漢文碑の光景です。亀山藩家老近藤鐸山の顕彰碑です。末尾に明治39年3月に建立されたことが記されていました。近藤鐸山は、亀山藩の勤皇派家老として執政を行いますが、三条実美らと親交があったため、禁門の変への関与を疑われて幽閉されました。大政奉還後に復帰して軍事奉行となっています。維新後は亀山藩大参事となり、明治23年に死去しました。

    最上部に『鐸山近藤君之碑』のタイトルがあった、長文の漢文碑の光景です。亀山藩家老近藤鐸山の顕彰碑です。末尾に明治39年3月に建立されたことが記されていました。近藤鐸山は、亀山藩の勤皇派家老として執政を行いますが、三条実美らと親交があったため、禁門の変への関与を疑われて幽閉されました。大政奉還後に復帰して軍事奉行となっています。維新後は亀山藩大参事となり、明治23年に死去しました。

  • 『史跡・亀山城趾』の文字が刻まれた石標の光景です。『史跡』は、文化財保護法第109条第1項に規定されています。本丸南東の天守台と多聞櫓本体を併せて、『旧亀山城多門楼』の名称で三重県の史跡に指定されています。

    イチオシ

    『史跡・亀山城趾』の文字が刻まれた石標の光景です。『史跡』は、文化財保護法第109条第1項に規定されています。本丸南東の天守台と多聞櫓本体を併せて、『旧亀山城多門楼』の名称で三重県の史跡に指定されています。

  • 斜め前から眺めた、『史跡・亀山城趾』の文字が刻まれた石標の光景です。昭和38年(1963年)3月に建立されたことが記されていました。昭和25年5月に施行された文化財保護法での建立のようです。国や県、市の名前は記されていないようでしたが、県指定になります。

    斜め前から眺めた、『史跡・亀山城趾』の文字が刻まれた石標の光景です。昭和38年(1963年)3月に建立されたことが記されていました。昭和25年5月に施行された文化財保護法での建立のようです。国や県、市の名前は記されていないようでしたが、県指定になります。

  • 二段の石垣が積まれた、低い基壇の光景です。その基壇に登るためらしい長い石段も置かれていました。表示はなかったようですが、小さな櫓か塔当たりがが建っていたのかも知れません。

    二段の石垣が積まれた、低い基壇の光景です。その基壇に登るためらしい長い石段も置かれていました。表示はなかったようですが、小さな櫓か塔当たりがが建っていたのかも知れません。

  • 亀山城の野面積の高石垣と、本丸多聞櫓の光景です。かつては天守があったとされる天守台は、穴太衆により積まれた野面積の高石垣です。

    亀山城の野面積の高石垣と、本丸多聞櫓の光景です。かつては天守があったとされる天守台は、穴太衆により積まれた野面積の高石垣です。

  • 『伊勢亀山城』のタイトルがあった説明看板の光景です。初めに、文永2年(1265年)、関実忠(生年不詳~1265年)により築かれたことが紹介してありました。関実忠は、平盛国の子で、左近将監でした。元亀4年(1564年)、織田信長に追放されるまで、関氏16代の居城でした。左下に縄張図が記されていました。

    『伊勢亀山城』のタイトルがあった説明看板の光景です。初めに、文永2年(1265年)、関実忠(生年不詳~1265年)により築かれたことが紹介してありました。関実忠は、平盛国の子で、左近将監でした。元亀4年(1564年)、織田信長に追放されるまで、関氏16代の居城でした。左下に縄張図が記されていました。

  • 『山嵜雪柳翁遺剱之碑』の文字が刻まれた、比較的新しい石碑の光景です。亀山藩士・山崎雪柳軒(1828~1893年)は、武術に優れ藩士の剣術を指導しました。伊庭秀業に心形刀流を学んで免許皆伝を得て、槍術を音羽恭輔、馬術を早崎士太夫より学んでいます。現在も受け継がれている、心形刀流です。

    『山嵜雪柳翁遺剱之碑』の文字が刻まれた、比較的新しい石碑の光景です。亀山藩士・山崎雪柳軒(1828~1893年)は、武術に優れ藩士の剣術を指導しました。伊庭秀業に心形刀流を学んで免許皆伝を得て、槍術を音羽恭輔、馬術を早崎士太夫より学んでいます。現在も受け継がれている、心形刀流です。

  • 右側の白い標識には『亀山城楠門跡』の表示がありました。二の丸から本丸へ通じる枡形門でしたが、1854年(安政元年)の地震で櫓門は倒壊したとされます。左の石柱には穴が開いていますから、旗立て用の石柱のようです。

    右側の白い標識には『亀山城楠門跡』の表示がありました。二の丸から本丸へ通じる枡形門でしたが、1854年(安政元年)の地震で櫓門は倒壊したとされます。左の石柱には穴が開いていますから、旗立て用の石柱のようです。

  • 蒸気機関車C58359の展示光景です。1944年(昭和19年)に製造され、1970年(昭和45年)に廃車となるまで走り続けていた蒸気機関車とされます。余生を過ごす場所になったようです。

    蒸気機関車C58359の展示光景です。1944年(昭和19年)に製造され、1970年(昭和45年)に廃車となるまで走り続けていた蒸気機関車とされます。余生を過ごす場所になったようです。

  • 『亀山公園・ますみじどうえん』の文字が記された石標の光景です。昭和31年に亀山城跡を中心に開設された、亀山公園の一部が『ますみ児童園』になるようです。

    『亀山公園・ますみじどうえん』の文字が記された石標の光景です。昭和31年に亀山城跡を中心に開設された、亀山公園の一部が『ますみ児童園』になるようです。

  • 『亀山公園・案内図』のタイトルがあった案内パネルの光景です。亀山城址のエリアを主体としているようでした。この看板があった現在位置は、本丸跡か、二の丸との境付近になるようです。

    『亀山公園・案内図』のタイトルがあった案内パネルの光景です。亀山城址のエリアを主体としているようでした。この看板があった現在位置は、本丸跡か、二の丸との境付近になるようです。

  • 右向きの赤い矢印は、『三重櫓跡、二ノ丸帯曲輪、埋門跡』を表示していました。次は、二ノ丸帯曲輪方面の見学です。

    右向きの赤い矢印は、『三重櫓跡、二ノ丸帯曲輪、埋門跡』を表示していました。次は、二ノ丸帯曲輪方面の見学です。

28いいね!

利用規約に違反している投稿は、報告する事ができます。 問題のある投稿を連絡する

コメントを投稿する前に

十分に確認の上、ご投稿ください。 コメントの内容は攻撃的ではなく、相手の気持ちに寄り添ったものになっていますか?

サイト共通ガイドライン(利用上のお願い)

報道機関・マスメディアの方へ 画像提供などに関するお問い合わせは、専用のお問い合わせフォームからお願いいたします。

旅の計画・記録

マイルに交換できるフォートラベルポイントが貯まる
フォートラベルポイントって?

フォートラベル公式LINE@

おすすめの旅行記や旬な旅行情報、お得なキャンペーン情報をお届けします!
QRコードが読み取れない場合はID「@4travel」で検索してください。

\その他の公式SNSはこちら/

PAGE TOP