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表紙フォトは、浮世絵著作権フリー作品「東海道五十三次」<br />【東海道五十三次 亀山 広重画】<br />東海道53次、No32 庄野宿を抜けて亀山宿へ。<br />広重は、雪景色の亀山城の京口門をかいている。麓の家並は野村の集落。<br />白く険しい坂道と薄紅色の朝焼けの美しい空。<br />すっぽり雪に覆われた坂道を、亀山城に向かって上がる大名行列。

東海道53次、No32 庄野宿(45)を抜けて亀山宿(46)へ

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2018/04/20 - 2018/04/20

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ムッシュ

ムッシュさん

表紙フォトは、浮世絵著作権フリー作品「東海道五十三次」
【東海道五十三次 亀山 広重画】
東海道53次、No32 庄野宿を抜けて亀山宿へ。
広重は、雪景色の亀山城の京口門をかいている。麓の家並は野村の集落。
白く険しい坂道と薄紅色の朝焼けの美しい空。
すっぽり雪に覆われた坂道を、亀山城に向かって上がる大名行列。

旅行の満足度
4.5
  • 井田川駅前に、旧井田川小学校跡碑と二宮金次郎像

    井田川駅前に、旧井田川小学校跡碑と二宮金次郎像

  • 亀山マンホール<br />見上げる亀山城の多聞櫓。今や残るのは、これのみ。

    亀山マンホール
    見上げる亀山城の多聞櫓。今や残るのは、これのみ。

  • 「南妙法蓮華経」と刻まれた、谷口法悦題目塔。

    「南妙法蓮華経」と刻まれた、谷口法悦題目塔。

  • 京都在の日蓮宗信者 谷口法悦は刑死者の供養を発願する。川合刑場跡に「南妙法蓮華経」と刻まれた題目塔を建立した。<br />【谷口法悦供養塔】<br />この供養塔は、東海道の川合と和田の境にあり、昔から「川合のやけ地蔵さん」「法界塔さん」と呼ばれている。総高2.59mで、塔身の正面に「南無妙法蓮華経」、右側に「後五百歳中廣宣流布」、左側に「天長地久國土安穏」、背面に「施主谷口法悦」と刻まれている。<br />  造立者の谷口法悦(生年不詳)は京の日蓮宗の篤信者で、十七世紀末頃、一族と共に各地の寺院、街道筋や追分などに題目塔と呼ばれるこれらの塔を造立したことがわかっている。<br />                  平成十六年九月建之 亀山市教育委員会

    京都在の日蓮宗信者 谷口法悦は刑死者の供養を発願する。川合刑場跡に「南妙法蓮華経」と刻まれた題目塔を建立した。
    【谷口法悦供養塔】
    この供養塔は、東海道の川合と和田の境にあり、昔から「川合のやけ地蔵さん」「法界塔さん」と呼ばれている。総高2.59mで、塔身の正面に「南無妙法蓮華経」、右側に「後五百歳中廣宣流布」、左側に「天長地久國土安穏」、背面に「施主谷口法悦」と刻まれている。
      造立者の谷口法悦(生年不詳)は京の日蓮宗の篤信者で、十七世紀末頃、一族と共に各地の寺院、街道筋や追分などに題目塔と呼ばれるこれらの塔を造立したことがわかっている。
                      平成十六年九月建之 亀山市教育委員会

  • 和田一里塚跡。現在は復元されている。江戸から数えて104里目。

    和田一里塚跡。現在は復元されている。江戸から数えて104里目。

  • 【和田一里塚】<br />街道の両側に復元されている。<br />この辺りから更に急な上り坂になります、右手に和田の一里塚が復元されています<br />野村一里塚とともに亀山市内に所在する旧東海道の一里塚で、慶長九年(1604)幕府の命により亀山城主であった関一政が築造した。<br />  かつてはエノキが植えられており、昭和五十九年の道路拡幅までは塚の一部が遺されていた。現在の塚は、塚跡地の東側に隣接する場所に消滅した和田一里塚を偲んで模式復元したものである。<br />                    平成十三年十月 亀山市教育委員会

    【和田一里塚】
    街道の両側に復元されている。
    この辺りから更に急な上り坂になります、右手に和田の一里塚が復元されています
    野村一里塚とともに亀山市内に所在する旧東海道の一里塚で、慶長九年(1604)幕府の命により亀山城主であった関一政が築造した。
      かつてはエノキが植えられており、昭和五十九年の道路拡幅までは塚の一部が遺されていた。現在の塚は、塚跡地の東側に隣接する場所に消滅した和田一里塚を偲んで模式復元したものである。
                        平成十三年十月 亀山市教育委員会

  • 「衣城 しもむら」という衣料品店だ。個人の住宅。亀山城と間違えそう。<br />亀山城は残っていません。有るのは多聞櫓のみ。

    「衣城 しもむら」という衣料品店だ。個人の住宅。亀山城と間違えそう。
    亀山城は残っていません。有るのは多聞櫓のみ。

  • 【亀山宿江戸口門跡】<br />延宝元年(1673年)城主板倉重常が土塁と土塀で囲まれた曲輪を築き、番所が置かれました。<br />  東西120m、南北70mで、北側と東側に堀を巡らし、土塁と土塀で囲まれた曲輪を形成し、東端には平櫓が一基築かれていた。曲輪内は3つに区画され、それぞれが桝形となっていた。この築造には領内の村々に石高に応じて人足が割り当てられ、総計二万人が動員されている。<br />  西側の区画には番所が置かれ、通行人の監視や警固にあたっていた。ただ、江戸時代前期においてはこの位置が亀山城下の東端と認識されていたことから、江戸口門は東海道の番所としてではなく、城下西端の京口門とともに、亀山城惣構の城門と位置づけることができよう。<br />  現在は往時の状況を示す遺構は存在しないが、地形や地割、ほぼ直角に屈曲した街路にその名残をとどめている。<br />                    平成十五年三月 亀山市教育委員会

    【亀山宿江戸口門跡】
    延宝元年(1673年)城主板倉重常が土塁と土塀で囲まれた曲輪を築き、番所が置かれました。
      東西120m、南北70mで、北側と東側に堀を巡らし、土塁と土塀で囲まれた曲輪を形成し、東端には平櫓が一基築かれていた。曲輪内は3つに区画され、それぞれが桝形となっていた。この築造には領内の村々に石高に応じて人足が割り当てられ、総計二万人が動員されている。
      西側の区画には番所が置かれ、通行人の監視や警固にあたっていた。ただ、江戸時代前期においてはこの位置が亀山城下の東端と認識されていたことから、江戸口門は東海道の番所としてではなく、城下西端の京口門とともに、亀山城惣構の城門と位置づけることができよう。
      現在は往時の状況を示す遺構は存在しないが、地形や地割、ほぼ直角に屈曲した街路にその名残をとどめている。
                        平成十五年三月 亀山市教育委員会

  • 亀山宿は石薬師宿、庄野宿と同様に伊勢参詣の旅人の通行は無く、亀山藩の城下町であり、更に亀山宿は幕府直轄領であった為、その堅苦しさから止宿する参勤大名も無く、はなはだ振るわない宿場。<br /><br />天保14年(1843年)の頃、亀山宿の宿内家数は567軒、うち本陣1、脇本陣1、旅籠21軒で、宿内人口は1,549人でした。

    亀山宿は石薬師宿、庄野宿と同様に伊勢参詣の旅人の通行は無く、亀山藩の城下町であり、更に亀山宿は幕府直轄領であった為、その堅苦しさから止宿する参勤大名も無く、はなはだ振るわない宿場。

    天保14年(1843年)の頃、亀山宿の宿内家数は567軒、うち本陣1、脇本陣1、旅籠21軒で、宿内人口は1,549人でした。

  • 亀山城多門櫓を示す道標

    亀山城多門櫓を示す道標

  • 西町の旧舘家(たちけ)住宅(桝屋=ますやは昔の屋号)。幕末から大正にかけて呉服商を営んでいた大店。現在の主屋は1873年に建てられた。<br /><br />「西町問屋場跡<br />問屋場とは、江戸叶代の各宿において。主に公用の荷物などを運ぶ伝馬人足の継ぎ立てのほか、一般の商品物資などの継ぎ立て業務をおこなう施設で町の重役である宿役人がこれを受け持った。<br />東町と西町からなる亀山宿では、代々宿役人であった東町の樋口家(本陣の家)と<br />西町の若林家(家業は米問屋)が、十日あるいは二十日程の期間で定期的に交替しながら宿継ぎの問屋業務を担当している。<br />現在、西町の問屋場跡は、後世の道路改良などにより厳密に比定することはむずかしいが、享和三年(1803)の「亀山領内東海道分間絵図」(亀山市指定文化財・伊藤容子氏蔵)や文化四年(1807)の「伊勢国鈴鹿郡亀山宿之図」(亀山市歴史博物館蔵)から、おおむねこの辺りに宿役人若林家の屋敷や借家、問屋場が並んでいたことが確認できる。なお、元治二年(1865)には、若林家の借家や問屋場などは、日野屋に譲り渡されている<br />(亀山市歴史博物館田中稲造氏寄託資料)。」<br />この場所からの見晴らしが上等であった。亀山城も下の石垣から始まって良く見える。<br />ちょっとした休憩所が設けられていた。

    西町の旧舘家(たちけ)住宅(桝屋=ますやは昔の屋号)。幕末から大正にかけて呉服商を営んでいた大店。現在の主屋は1873年に建てられた。

    「西町問屋場跡
    問屋場とは、江戸叶代の各宿において。主に公用の荷物などを運ぶ伝馬人足の継ぎ立てのほか、一般の商品物資などの継ぎ立て業務をおこなう施設で町の重役である宿役人がこれを受け持った。
    東町と西町からなる亀山宿では、代々宿役人であった東町の樋口家(本陣の家)と
    西町の若林家(家業は米問屋)が、十日あるいは二十日程の期間で定期的に交替しながら宿継ぎの問屋業務を担当している。
    現在、西町の問屋場跡は、後世の道路改良などにより厳密に比定することはむずかしいが、享和三年(1803)の「亀山領内東海道分間絵図」(亀山市指定文化財・伊藤容子氏蔵)や文化四年(1807)の「伊勢国鈴鹿郡亀山宿之図」(亀山市歴史博物館蔵)から、おおむねこの辺りに宿役人若林家の屋敷や借家、問屋場が並んでいたことが確認できる。なお、元治二年(1865)には、若林家の借家や問屋場などは、日野屋に譲り渡されている
    (亀山市歴史博物館田中稲造氏寄託資料)。」
    この場所からの見晴らしが上等であった。亀山城も下の石垣から始まって良く見える。
    ちょっとした休憩所が設けられていた。

  • 亀谷城跡に現存する【多門櫓】は、ほぼ当時の姿。<br />天正18年岡本宗憲により築城された亀山城。築城時は、本丸、二の丸、三の丸からなり、天守もあったが、1632年取り壊された。徳川家の宿泊所として使われるようになってから天守台に多門櫓が増築された。<br />これを支える高石垣は、野面石を扇形勾配に積み上げた石積み。400年経つ今ものこる。<br /><br />【伊勢亀山城】<br /> 伊勢亀山城は、文永二年(1265)若山(亀山市若山町)に関実忠が最初に築城し、元亀四年(1573)織田信長により関盛信が追放されるまで、関氏十六代の居城であった。ただし、関氏時代のうちに現在の位置に遷されたとされ、発掘調査においても戦国時代末期の空堀が確認されている。<br />  天正十八年(1590)岡本宗憲が入城後、新たに築城されたとされ、この城については『九々五集』に本丸・二之丸・三之丸からなり、天守も建てられたと記される。<br />  また三宅氏が城主の時、丹波亀山城の天守を解体するよう命じられた堀尾忠晴が間違えて伊勢亀山城の天守を取り壊したと伝えられるが真偽のほどは定かでない。<br />  寛永十三年(1636)本多俊次が城主になると亀山城の大改修に着手し、東西700m、南北500mに及ぶ縄張りが確定する。城の外周は堀が廻り、一部は谷をせき止めて水堀とした。城内には本丸、二之丸、東三之丸、西之丸、西出丸の曲輪があり、本丸には将軍家旅館として整備された本丸御殿、二之丸には城主居館と藩庁を兼ねたニ之丸御殿が設けられた。<br />  亀山城の別名としては唯一の出典である『九々五集』に姫垣を意味する「粉堞城(ふんちょうじょう)」と記されている。<br />  城主は八家がめまぐるしく入れ替わったが、延享元年(1744)石川総慶が城主となると、以後は石川家十一代で明治維新を迎えることとなる。<br />  明治六年の廃城令によりほとんどの建造物は取り壊され、現在は多門櫓と石垣、土塁、堀の一部が残されているに過ぎない。多門櫓は、県下で原位置のまま遺存する唯一の城郭建築として昭和二十八年に三重県指定文化財に指定された。また、石坂門は近年の発掘調査により石垣基礎の一部が発見され歴史博物館前庭に移設されており、わずかではあるが往時の姿を偲ぶことができる。<br /><br />     平成十六年九月建之 亀山市教育委員会

    亀谷城跡に現存する【多門櫓】は、ほぼ当時の姿。
    天正18年岡本宗憲により築城された亀山城。築城時は、本丸、二の丸、三の丸からなり、天守もあったが、1632年取り壊された。徳川家の宿泊所として使われるようになってから天守台に多門櫓が増築された。
    これを支える高石垣は、野面石を扇形勾配に積み上げた石積み。400年経つ今ものこる。

    【伊勢亀山城】
     伊勢亀山城は、文永二年(1265)若山(亀山市若山町)に関実忠が最初に築城し、元亀四年(1573)織田信長により関盛信が追放されるまで、関氏十六代の居城であった。ただし、関氏時代のうちに現在の位置に遷されたとされ、発掘調査においても戦国時代末期の空堀が確認されている。
      天正十八年(1590)岡本宗憲が入城後、新たに築城されたとされ、この城については『九々五集』に本丸・二之丸・三之丸からなり、天守も建てられたと記される。
      また三宅氏が城主の時、丹波亀山城の天守を解体するよう命じられた堀尾忠晴が間違えて伊勢亀山城の天守を取り壊したと伝えられるが真偽のほどは定かでない。
      寛永十三年(1636)本多俊次が城主になると亀山城の大改修に着手し、東西700m、南北500mに及ぶ縄張りが確定する。城の外周は堀が廻り、一部は谷をせき止めて水堀とした。城内には本丸、二之丸、東三之丸、西之丸、西出丸の曲輪があり、本丸には将軍家旅館として整備された本丸御殿、二之丸には城主居館と藩庁を兼ねたニ之丸御殿が設けられた。
      亀山城の別名としては唯一の出典である『九々五集』に姫垣を意味する「粉堞城(ふんちょうじょう)」と記されている。
      城主は八家がめまぐるしく入れ替わったが、延享元年(1744)石川総慶が城主となると、以後は石川家十一代で明治維新を迎えることとなる。
      明治六年の廃城令によりほとんどの建造物は取り壊され、現在は多門櫓と石垣、土塁、堀の一部が残されているに過ぎない。多門櫓は、県下で原位置のまま遺存する唯一の城郭建築として昭和二十八年に三重県指定文化財に指定された。また、石坂門は近年の発掘調査により石垣基礎の一部が発見され歴史博物館前庭に移設されており、わずかではあるが往時の姿を偲ぶことができる。

         平成十六年九月建之 亀山市教育委員会

  • 木立の向こうに見えるのは、亀山城址公園。

    木立の向こうに見えるのは、亀山城址公園。

  • 【西ノ丸歴史広場】<br />亀山城西之丸外堀遺構の一部が保存されています。<br />西之丸は亀山城の西南部分にあたり、文政六年(1823年)には藩校明倫舎が置かれました、この外堀の外周に東海道が配されました。

    【西ノ丸歴史広場】
    亀山城西之丸外堀遺構の一部が保存されています。
    西之丸は亀山城の西南部分にあたり、文政六年(1823年)には藩校明倫舎が置かれました、この外堀の外周に東海道が配されました。

  • 亀山城の外堀の地図<br /><br />『亀山城西之丸と外堀』。<br />「亀山城は、それまであった戦国期の亀山城の城郭を母体として、岡本宗憲により天正18年(1590)に築かれました。 築城時には、本丸・二之丸・三之丸からからなり、天守もあげられていたとされます。 寛永13年(1636)本多俊次 が城主となると亀山城の大改修に着手し、西出丸や東三之丸、西之丸が整備され、この形状が明治時代まで続きました。<br />西之丸は、亀山城の西南部分にあたり、家中屋敷と表記されることもあり、作事場や重臣の屋敷地のほか文政6年(1823)には藩校「明倫舎」もおかれました。<br />この復元した西之丸外堀は、城の外周を取り囲む亀山城外堀の一部で、特に東海道と外堀が並行して接する場所にあたり、防御上、また城の景観上重要な場所でありました。町屋側には番所、復元地南の西之丸側には西之丸西櫓がありました。<br />この地点は、発掘調査の結果、町屋側から見て、深さが1.8m程度の水堀で、水深は60cm程度でした。 この深さでは、城の防御に適さないと思われますが、堀の斜面は急こう配で城内側には土居(防御のための土手)があって、堀底から3m以上の高低差があり、 さらに土居上には土塀が設けられていましたので、十分な防御機能を有していたものと思われます。<br />なお、工事にあたり、遺構面を保護するために全体に1mかさ上げをし、水堀を表現するために水面の高さで復元しました。 亀山城及び城下には、城郭として旧亀山城多門櫓(県史跡)及び二之丸帯曲輪、池の側・亀山公園池・西之丸外堀等の堀、武家屋敷として亀山城主石川家家老加藤家屋敷跡(市史跡)、 旧東海道沿いの町家として旧舘家住宅(市有形)等の文化財があり、亀山城及び城下全体が歴史的な趣をよく残しています。このことから、市では、平成20年12月に「亀山市歴史的風致維持向上計画」を策定(平成21年1月歴史まちづくり法により認定)して、その一体的な保存整備に取り組んでいます。」

    亀山城の外堀の地図

    『亀山城西之丸と外堀』。
    「亀山城は、それまであった戦国期の亀山城の城郭を母体として、岡本宗憲により天正18年(1590)に築かれました。 築城時には、本丸・二之丸・三之丸からからなり、天守もあげられていたとされます。 寛永13年(1636)本多俊次 が城主となると亀山城の大改修に着手し、西出丸や東三之丸、西之丸が整備され、この形状が明治時代まで続きました。
    西之丸は、亀山城の西南部分にあたり、家中屋敷と表記されることもあり、作事場や重臣の屋敷地のほか文政6年(1823)には藩校「明倫舎」もおかれました。
    この復元した西之丸外堀は、城の外周を取り囲む亀山城外堀の一部で、特に東海道と外堀が並行して接する場所にあたり、防御上、また城の景観上重要な場所でありました。町屋側には番所、復元地南の西之丸側には西之丸西櫓がありました。
    この地点は、発掘調査の結果、町屋側から見て、深さが1.8m程度の水堀で、水深は60cm程度でした。 この深さでは、城の防御に適さないと思われますが、堀の斜面は急こう配で城内側には土居(防御のための土手)があって、堀底から3m以上の高低差があり、 さらに土居上には土塀が設けられていましたので、十分な防御機能を有していたものと思われます。
    なお、工事にあたり、遺構面を保護するために全体に1mかさ上げをし、水堀を表現するために水面の高さで復元しました。 亀山城及び城下には、城郭として旧亀山城多門櫓(県史跡)及び二之丸帯曲輪、池の側・亀山公園池・西之丸外堀等の堀、武家屋敷として亀山城主石川家家老加藤家屋敷跡(市史跡)、 旧東海道沿いの町家として旧舘家住宅(市有形)等の文化財があり、亀山城及び城下全体が歴史的な趣をよく残しています。このことから、市では、平成20年12月に「亀山市歴史的風致維持向上計画」を策定(平成21年1月歴史まちづくり法により認定)して、その一体的な保存整備に取り組んでいます。」

  • 浮世絵著作権フリー作品「東海道五十三次」からの画像<br />「東海道五拾三次之内 【亀山】 雪晴」<br />坂の下から見上げると門と番所が聳え、その姿が壮麗であったところから、<br />「亀山に過ぎたるものが二つあり、伊勢屋蘇鉄(そてつ)に京口御門」と謡われました。<br />広重は雪景色の亀山城の京口門を描いています。右上隅に、見上げる亀山城多門櫓、左下に麓の家並みは野村の集落です。<br /><br />『広重 東海道五拾三次之内 亀山 雪晴』。<br />「雪の朝の亀山城の前を大名行列が通っていく。山の傾斜、行列、雪に包まれた松の線の方向を同じくし、二本の松がそれらの線と交差して自然の力強さを表わしている。銀世界に左手の紅色の空のぼかしが、晴れた日の日差しを表わしている。<br />前図の庄野と並べると、主題構図も対象的で、続き絵としてのおもしろさもある。」

    浮世絵著作権フリー作品「東海道五十三次」からの画像
    「東海道五拾三次之内 【亀山】 雪晴」
    坂の下から見上げると門と番所が聳え、その姿が壮麗であったところから、
    「亀山に過ぎたるものが二つあり、伊勢屋蘇鉄(そてつ)に京口御門」と謡われました。
    広重は雪景色の亀山城の京口門を描いています。右上隅に、見上げる亀山城多門櫓、左下に麓の家並みは野村の集落です。

    『広重 東海道五拾三次之内 亀山 雪晴』。
    「雪の朝の亀山城の前を大名行列が通っていく。山の傾斜、行列、雪に包まれた松の線の方向を同じくし、二本の松がそれらの線と交差して自然の力強さを表わしている。銀世界に左手の紅色の空のぼかしが、晴れた日の日差しを表わしている。
    前図の庄野と並べると、主題構図も対象的で、続き絵としてのおもしろさもある。」

  • 『京口門跡』。<br />「亀山宿の西端、西町と野村の境を流れる滝川左岸の崖上に築かれた門である。<br />『九々五集』によれば、亀山藩主板倉重常によって寛文一二年(一六七二)に完成したとされる。翌延宝元年(一六七三)に東町に築かれた江戸口門とともに亀山城総構の城門として位置付けられ、両門の建設によって東海道が貫通する城下の東西が画された。 京口門は石垣に冠木門・棟門・白壁の番所を構え、通行人の監視にあたっていた。 また、門へ通じる坂道は左右に屈曲し、道の両脇にはカラタチが植えられ不意の侵入を防いだとされる。<br />大正三年、京口橋が掛けられたことで坂道を登る道筋は途絶えてしまったが、往時は坂の下から見上げると、門・番所がそびえる姿が壮麗であったことから、<br />「亀山に過ぎたるものの二つあり伊勢屋蘇鉄に京口御門」と謡われるほどであった。歌川広重「東海道五拾三次」のうち『雪晴』をはじめとする風景画の舞台として著名である。」 <br />尚、伊勢屋の蘇鉄の木は亀山宿の旅籠「伊勢屋」の庭にあったのだが、昭和59年の道路拡幅工事のため亀山市に寄贈され、市の文化会館の玄関前に植えられた。株回りが約5mの立派なもの。あの京口御門ができたのが江戸時代の寛文12年(1672)であるので、300年を超える樹齢を誇っているのだと。

    『京口門跡』。
    「亀山宿の西端、西町と野村の境を流れる滝川左岸の崖上に築かれた門である。
    『九々五集』によれば、亀山藩主板倉重常によって寛文一二年(一六七二)に完成したとされる。翌延宝元年(一六七三)に東町に築かれた江戸口門とともに亀山城総構の城門として位置付けられ、両門の建設によって東海道が貫通する城下の東西が画された。 京口門は石垣に冠木門・棟門・白壁の番所を構え、通行人の監視にあたっていた。 また、門へ通じる坂道は左右に屈曲し、道の両脇にはカラタチが植えられ不意の侵入を防いだとされる。
    大正三年、京口橋が掛けられたことで坂道を登る道筋は途絶えてしまったが、往時は坂の下から見上げると、門・番所がそびえる姿が壮麗であったことから、
    「亀山に過ぎたるものの二つあり伊勢屋蘇鉄に京口御門」と謡われるほどであった。歌川広重「東海道五拾三次」のうち『雪晴』をはじめとする風景画の舞台として著名である。」 
    尚、伊勢屋の蘇鉄の木は亀山宿の旅籠「伊勢屋」の庭にあったのだが、昭和59年の道路拡幅工事のため亀山市に寄贈され、市の文化会館の玄関前に植えられた。株回りが約5mの立派なもの。あの京口御門ができたのが江戸時代の寛文12年(1672)であるので、300年を超える樹齢を誇っているのだと。

  • 光明寺の山門鐘楼。浄土真宗本願寺派。街道に鐘楼門。

    光明寺の山門鐘楼。浄土真宗本願寺派。街道に鐘楼門。

  • 【野村の一里塚】<br />塚木の椋(むく)は樹齢400年を超え、椋木(ムクノキ)は、塚木としては全国でもここだけ。<br />江戸時代に築かれた塚がそのまま残っている。<br />江戸日本橋より105里目で国史跡です。<br />この一里塚は、東海道の一里塚の一つとして築造されたもので、もと街道をはさんで南北に塚があったが、大正三年に南側のものは取り去られ、北側の塚のみとなってしまった。<br /><br /> 塚の上には、目通り幹囲5m、高さ20mの椋(ムク)の木がある。<br />本県における旧東海道においては、桑名宿から坂の下宿の間に十二ヵ所の一里塚が設置されていたが、いま、残るものは、この一里塚だけであり、わが国交通史上、貴重な遺跡として、昭和九年一月二十二日、国の史跡として指定された。<br /><br />『史跡野村一里塚』碑。<br />「一里塚は、江戸時代のはじめ、徳川幕府が江戸日本橋を基点とし、街道に沿って一里ごとに設けさせた里程標で、塚を築き、その上に樹木を植えた。<br />この一里塚は、東海道の一里塚の一つとして築造されたもので、もと街道をはさんで南北に塚があったが、大正3年に南側のものは取り去られ、北側の塚のみとなってしまった。塚の上には、目通り幹囲5m、高さ20mの椋(ムク)の木がある。<br />本県における旧東海道においては桑名宿から坂下宿の間に12ヵ所の一里塚が設置されていたが、いま、残るものは、この一里塚だけであり、わが国交通史上、貴重な遺跡として、昭和9年1月22日、国の史跡として指定された。」

    【野村の一里塚】
    塚木の椋(むく)は樹齢400年を超え、椋木(ムクノキ)は、塚木としては全国でもここだけ。
    江戸時代に築かれた塚がそのまま残っている。
    江戸日本橋より105里目で国史跡です。
    この一里塚は、東海道の一里塚の一つとして築造されたもので、もと街道をはさんで南北に塚があったが、大正三年に南側のものは取り去られ、北側の塚のみとなってしまった。

     塚の上には、目通り幹囲5m、高さ20mの椋(ムク)の木がある。
    本県における旧東海道においては、桑名宿から坂の下宿の間に十二ヵ所の一里塚が設置されていたが、いま、残るものは、この一里塚だけであり、わが国交通史上、貴重な遺跡として、昭和九年一月二十二日、国の史跡として指定された。

    『史跡野村一里塚』碑。
    「一里塚は、江戸時代のはじめ、徳川幕府が江戸日本橋を基点とし、街道に沿って一里ごとに設けさせた里程標で、塚を築き、その上に樹木を植えた。
    この一里塚は、東海道の一里塚の一つとして築造されたもので、もと街道をはさんで南北に塚があったが、大正3年に南側のものは取り去られ、北側の塚のみとなってしまった。塚の上には、目通り幹囲5m、高さ20mの椋(ムク)の木がある。
    本県における旧東海道においては桑名宿から坂下宿の間に12ヵ所の一里塚が設置されていたが、いま、残るものは、この一里塚だけであり、わが国交通史上、貴重な遺跡として、昭和9年1月22日、国の史跡として指定された。」

  • 野村の一里塚

    野村の一里塚

  • 【布気皇館太神社(ふけこうたつだいじんじゃ)】の参道。奥に長さ120m。<br />延喜式神名帳に小布気神社と記載された古社で、この地神戸七卿(七ケ村)の総社です。<br />参道の両脇には六十六基の常夜灯が並ぶ。秋には見事な紅葉が参道を覆う。<br />神社の斜め向いには元禄三年(1690)に出店された「能古茶屋」があり、芭蕉も立ち寄っている。

    【布気皇館太神社(ふけこうたつだいじんじゃ)】の参道。奥に長さ120m。
    延喜式神名帳に小布気神社と記載された古社で、この地神戸七卿(七ケ村)の総社です。
    参道の両脇には六十六基の常夜灯が並ぶ。秋には見事な紅葉が参道を覆う。
    神社の斜め向いには元禄三年(1690)に出店された「能古茶屋」があり、芭蕉も立ち寄っている。

  • 布気皇館太神社(ふけこうたつだいじんじゃ)の本堂。この先、歩程は、関宿に向かう。<br /><br />「布気皇舘太神社<br />神 紋  揚羽蝶<br />鎮座地  亀山市布気町一六六三番地<br />御祭神<br />天照大御神    建速須佐之男命<br />豊受大神     品陀和氣命<br />猿田彦大神    稲田比賣命<br />伊吹戸主大神   高御産業日神<br />宇迦之御魂神   手刀雄命<br />大名牟遅神    手置帆負命<br />菅原道真     火之迦具土神<br />火之夜勢速男命  帯中日子神<br />宇都志國玉神   廣國押武金日神<br />木花佐久夜比賣命 五男三女神<br />天宇受賣命<br />祭 祀 例 祭  十月十五日<br />         獅子舞 丑、辰、未、戌の一月一日から三日<br />由緒 <br />延喜式巻九「伊勢国鈴鹿郡19座並小布氣神社」とあり、垂仁天皇18年の創始にかかる式内社です。<br />社名の皇舘とは、垂仁天皇の御宇、天照大御神が忍山に御遷幸の折、大比古命が神田・神戸を献じたことに由来し、野尻、落針、太岡寺、山下、木下、小野、鷲山の七ヶ村を神戸郷といいました。<br />九々五集巻第六上には、「高野大神宮 関氏より続テ亀山御城主御氏神三社之内 <br />神辺七郷惣社ノ宮(略)宮地長長八十間横百間」とあり、また同書の巻第九の巻末に記述の「舘殿御由来」には「抑勢州鈴鹿郡神戸庄皇舘多賀ノ宮は豊受皇太神宮の荒魂の御神なり。夫レ神戸と申侍るは人王十代崇神天皇七かのへ寅歳奉勅命て諸国所々に御舘を改め其郡の宗廟として荒魂の卸神を社の神戸なり」とあります。<br />布気皇舘太神社は、時代によっていろいろな名で村人に親しまれたが、明治41年近郷の小社小詞を合祀し、現在の社名となりました。」

    布気皇館太神社(ふけこうたつだいじんじゃ)の本堂。この先、歩程は、関宿に向かう。

    「布気皇舘太神社
    神 紋  揚羽蝶
    鎮座地  亀山市布気町一六六三番地
    御祭神
    天照大御神    建速須佐之男命
    豊受大神     品陀和氣命
    猿田彦大神    稲田比賣命
    伊吹戸主大神   高御産業日神
    宇迦之御魂神   手刀雄命
    大名牟遅神    手置帆負命
    菅原道真     火之迦具土神
    火之夜勢速男命  帯中日子神
    宇都志國玉神   廣國押武金日神
    木花佐久夜比賣命 五男三女神
    天宇受賣命
    祭 祀 例 祭  十月十五日
             獅子舞 丑、辰、未、戌の一月一日から三日
    由緒 
    延喜式巻九「伊勢国鈴鹿郡19座並小布氣神社」とあり、垂仁天皇18年の創始にかかる式内社です。
    社名の皇舘とは、垂仁天皇の御宇、天照大御神が忍山に御遷幸の折、大比古命が神田・神戸を献じたことに由来し、野尻、落針、太岡寺、山下、木下、小野、鷲山の七ヶ村を神戸郷といいました。
    九々五集巻第六上には、「高野大神宮 関氏より続テ亀山御城主御氏神三社之内 
    神辺七郷惣社ノ宮(略)宮地長長八十間横百間」とあり、また同書の巻第九の巻末に記述の「舘殿御由来」には「抑勢州鈴鹿郡神戸庄皇舘多賀ノ宮は豊受皇太神宮の荒魂の御神なり。夫レ神戸と申侍るは人王十代崇神天皇七かのへ寅歳奉勅命て諸国所々に御舘を改め其郡の宗廟として荒魂の卸神を社の神戸なり」とあります。
    布気皇舘太神社は、時代によっていろいろな名で村人に親しまれたが、明治41年近郷の小社小詞を合祀し、現在の社名となりました。」

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