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『西尾市歴史公園』として整備された西尾城跡には、京都から『旧近衛邸』が移築され、『三河の小京都』の風情を醸しています。その公園には『旧近衛邸』のうちの数寄屋造りの書院棟と茶室棟が移築され、その周りに枯山水庭園が造られました。

2019秋、西尾城と城下町(2/7):本丸丑寅櫓、旧近衛邸、西尾神社、御剣八幡宮、陶器狛犬

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2019/10/23 - 2019/10/23

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旅人のくまさん

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『西尾市歴史公園』として整備された西尾城跡には、京都から『旧近衛邸』が移築され、『三河の小京都』の風情を醸しています。その公園には『旧近衛邸』のうちの数寄屋造りの書院棟と茶室棟が移築され、その周りに枯山水庭園が造られました。

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  • 本丸丑寅櫓の建物光景です。城郭図や平成6年(1994年)の発掘調査などに基づき、平成8年(1996年)に再建されました。西尾城の特色は、天守が本丸ではなく二の丸にあり、城下に士農工商が混在していたこと、『総構え』と呼ばれる城下町の周囲を堀と土塁で囲んだことにあります。(西尾市公式HP)

    イチオシ

    本丸丑寅櫓の建物光景です。城郭図や平成6年(1994年)の発掘調査などに基づき、平成8年(1996年)に再建されました。西尾城の特色は、天守が本丸ではなく二の丸にあり、城下に士農工商が混在していたこと、『総構え』と呼ばれる城下町の周囲を堀と土塁で囲んだことにあります。(西尾市公式HP)

  • 平成8年(1996年)に再建された、本丸丑寅櫓のズームアップ光景です。本丸丑寅(うしとら)櫓は、本丸の丑寅(北東)の隅に建てられた櫓で、城内の隅櫓のうち一番高い建物でした。高さ約10メートルの三層の木造本瓦葺、壁面上部は漆喰塗籠、腰部は下見板張りとなっています。(西尾市公式HP)

    平成8年(1996年)に再建された、本丸丑寅櫓のズームアップ光景です。本丸丑寅(うしとら)櫓は、本丸の丑寅(北東)の隅に建てられた櫓で、城内の隅櫓のうち一番高い建物でした。高さ約10メートルの三層の木造本瓦葺、壁面上部は漆喰塗籠、腰部は下見板張りとなっています。(西尾市公式HP)

  • 『丸馬出』のタイトルがあった説明版の光景です。発掘調査により、白砂が敷かれている場所は、深さ2.6メートルの堀の跡です。戦国時代に築かれた虎口の『丸馬出』と特定されています。武田流の築城で有名な『丸馬出』ですが、徳川家康も採り入れていたようです。その理由は、譜代の家臣の石川数正が、1585年に秀吉側に出奔し、戦略の立て直しが必要になったとする説があります。

    『丸馬出』のタイトルがあった説明版の光景です。発掘調査により、白砂が敷かれている場所は、深さ2.6メートルの堀の跡です。戦国時代に築かれた虎口の『丸馬出』と特定されています。武田流の築城で有名な『丸馬出』ですが、徳川家康も採り入れていたようです。その理由は、譜代の家臣の石川数正が、1585年に秀吉側に出奔し、戦略の立て直しが必要になったとする説があります。

  • 庭園として整備された、二の丸跡の『丸馬出』の光景です。徳川譜代の家臣の石川数正(1533~1593年?)は、豊臣時代の松本藩の初代藩主で松本城主だったことでも有名です。その略歴を少し紹介しておきます。徳川家康の片腕として『酒井忠次(ただつぐ:1527~1596年)』と共に活躍しましたが、天正12年(1584年)に起きた小牧・長久手の戦いの後に出奔し、豊臣秀吉に臣従しました。

    庭園として整備された、二の丸跡の『丸馬出』の光景です。徳川譜代の家臣の石川数正(1533~1593年?)は、豊臣時代の松本藩の初代藩主で松本城主だったことでも有名です。その略歴を少し紹介しておきます。徳川家康の片腕として『酒井忠次(ただつぐ:1527~1596年)』と共に活躍しましたが、天正12年(1584年)に起きた小牧・長久手の戦いの後に出奔し、豊臣秀吉に臣従しました。

  • 天正12年(1584年)に起きた小牧・長久手の戦いは、秀吉と家康が初めて戦火を交えた戦いです。石川数正は、天文2年(1533年)、石川右馬允康正の子(異説に石川右近正勝の子)として三河国で誕生しました。徳川家康が、駿河国の大名・今川義元の人質になっていた時代から近侍として仕えました。永禄3年(1560年)、今川義元が桶狭間の戦いで織田信長に敗れ、松平元康(家康)が独立すると、数正は今川氏真(うじざね:1538~1615年)と交渉し、当時今川氏の人質だった家康の嫡男・信康と駿府に留め置かれていた家康の正室・築山殿を取り戻しました。永禄4年(1561年)、家康が織田信長と石ヶ瀬で紛争を起こした際には、先鋒を務めました。それほどの信頼のある数正でしたから、家康の驚きは並大抵ではなかったでしょう。

    天正12年(1584年)に起きた小牧・長久手の戦いは、秀吉と家康が初めて戦火を交えた戦いです。石川数正は、天文2年(1533年)、石川右馬允康正の子(異説に石川右近正勝の子)として三河国で誕生しました。徳川家康が、駿河国の大名・今川義元の人質になっていた時代から近侍として仕えました。永禄3年(1560年)、今川義元が桶狭間の戦いで織田信長に敗れ、松平元康(家康)が独立すると、数正は今川氏真(うじざね:1538~1615年)と交渉し、当時今川氏の人質だった家康の嫡男・信康と駿府に留め置かれていた家康の正室・築山殿を取り戻しました。永禄4年(1561年)、家康が織田信長と石ヶ瀬で紛争を起こした際には、先鋒を務めました。それほどの信頼のある数正でしたから、家康の驚きは並大抵ではなかったでしょう。

  • 家康の驚きはそれだけではなく、当時厳しく敵対していた豊臣側に、徳川側の軍事機密が筒抜けになってしまったことにもありました。出奔の理由は謎とされ、『家康と不仲になった』『秀吉から提案された条件に目が眩んだ』『対秀吉強硬派から数正が秀吉と内通しているとの猜疑を受けた』『徳川家の為に犠牲となった形で投降したふりをした』という説など、諸説入り乱れていますが、今でもはっきりとした理由は分かっていません。徳川側が、豊臣に筒抜けになった軍政を見直す必要に迫られたのは想像に難くありません。

    家康の驚きはそれだけではなく、当時厳しく敵対していた豊臣側に、徳川側の軍事機密が筒抜けになってしまったことにもありました。出奔の理由は謎とされ、『家康と不仲になった』『秀吉から提案された条件に目が眩んだ』『対秀吉強硬派から数正が秀吉と内通しているとの猜疑を受けた』『徳川家の為に犠牲となった形で投降したふりをした』という説など、諸説入り乱れていますが、今でもはっきりとした理由は分かっていません。徳川側が、豊臣に筒抜けになった軍政を見直す必要に迫られたのは想像に難くありません。

  • 観光用の道案内標識の光景です。右手前向きの矢印が天守台(180メートル)、左向きの矢印が本丸丑寅櫓と西尾市資料館で、どちらも150メートルの距離表示でした。左手奥に、名物の時計台が見えていました。見学の最後に、西尾市資料館に立寄りました。

    観光用の道案内標識の光景です。右手前向きの矢印が天守台(180メートル)、左向きの矢印が本丸丑寅櫓と西尾市資料館で、どちらも150メートルの距離表示でした。左手奥に、名物の時計台が見えていました。見学の最後に、西尾市資料館に立寄りました。

  • 『旧近衛邸』の入口門になるようです。旧近衛邸は、元は京都御所の北、現在『近衛邸跡』として庭園の遺構のみ残る場所に、江戸時代末期に建てられたものです。通称『桜木御殿』と呼ばれる、桜の名所にもなっていたようです。一時は、小松宮彰仁親王や山階宮晃親王の別邸としても使用されていました。

    『旧近衛邸』の入口門になるようです。旧近衛邸は、元は京都御所の北、現在『近衛邸跡』として庭園の遺構のみ残る場所に、江戸時代末期に建てられたものです。通称『桜木御殿』と呼ばれる、桜の名所にもなっていたようです。一時は、小松宮彰仁親王や山階宮晃親王の別邸としても使用されていました。

  • 少し離れた場所から眺めた『旧近衛邸』の建物光景です。近衛家の第27代当主の『近衛忠煕(ただひろ):1808~1898年)』の養女として迎えられた、『篤姫(あつひめ):1836~1883年)』が、京都時代のこの茶室でお茶を嗜んだようです。篤姫は、薩摩藩島津家の一門に生まれ、島津本家の養女から五摂家筆頭・近衛家の娘として徳川家に嫁ぎ、江戸幕府第13代将軍徳川家定の御台所となった女性です。

    イチオシ

    少し離れた場所から眺めた『旧近衛邸』の建物光景です。近衛家の第27代当主の『近衛忠煕(ただひろ):1808~1898年)』の養女として迎えられた、『篤姫(あつひめ):1836~1883年)』が、京都時代のこの茶室でお茶を嗜んだようです。篤姫は、薩摩藩島津家の一門に生まれ、島津本家の養女から五摂家筆頭・近衛家の娘として徳川家に嫁ぎ、江戸幕府第13代将軍徳川家定の御台所となった女性です。

  • 文字が擦れて読み取り難かった標識の光景です。一番右が『桜』らしい文字、次の2文字は全く読めず、左の二文字が『海蝋』でした。『海蝋』を右からと左から読んで検索してみましたが、結局、解読できませんでした。『旧近衛邸』の話題に戻ります。後に京都・神宮丸太町に移築され、昭和末期に取り壊しが決まった際に西尾文化協会が取得、1995年(平成7年)に西尾に移築、寄贈されました。

    文字が擦れて読み取り難かった標識の光景です。一番右が『桜』らしい文字、次の2文字は全く読めず、左の二文字が『海蝋』でした。『海蝋』を右からと左から読んで検索してみましたが、結局、解読できませんでした。『旧近衛邸』の話題に戻ります。後に京都・神宮丸太町に移築され、昭和末期に取り壊しが決まった際に西尾文化協会が取得、1995年(平成7年)に西尾に移築、寄贈されました。

  • 西尾城址の堀跡のようです。はっきりとは分かりませんでしたが、本丸と二之丸との間の内堀のようでした。周りには草木が生い茂っていますが、昔のままの姿を留めているように見えました。

    西尾城址の堀跡のようです。はっきりとは分かりませんでしたが、本丸と二之丸との間の内堀のようでした。周りには草木が生い茂っていますが、昔のままの姿を留めているように見えました。

  • 左手に見えてきたのは、西尾城時代の石垣の遺構のようです。その石垣に続いて、屋根が付いた立派な塀が見えてきました。こちらは再建されたお城の塀ではなく、城址内にある神社の塀だったかもしれません。築地塀か、築地塀を模した造りのようでした。

    左手に見えてきたのは、西尾城時代の石垣の遺構のようです。その石垣に続いて、屋根が付いた立派な塀が見えてきました。こちらは再建されたお城の塀ではなく、城址内にある神社の塀だったかもしれません。築地塀か、築地塀を模した造りのようでした。

  • 木々の間から見えていた、西尾城の堀跡の光景です。はっきりとは分かりませんでしたが、先ほど紹介した、本丸と二之丸との間の内堀のようでした。二の丸側になる対岸には、高くはありませんが護岸の石垣が見えていました。

    木々の間から見えていた、西尾城の堀跡の光景です。はっきりとは分かりませんでしたが、先ほど紹介した、本丸と二之丸との間の内堀のようでした。二の丸側になる対岸には、高くはありませんが護岸の石垣が見えていました。

  • 西尾城の遺跡の石垣になるようです。野面積ではなく、打込み接ぎの積み方でした。左上に顔を覗かせているのは石材ではなく、根元から伐採された大木の切り株でした。相当の大木に育っていたようです。

    西尾城の遺跡の石垣になるようです。野面積ではなく、打込み接ぎの積み方でした。左上に顔を覗かせているのは石材ではなく、根元から伐採された大木の切り株でした。相当の大木に育っていたようです。

  • 同じく、こちらも西尾城の遺跡の石垣になるようです。草や苔一つ生えていないのは、推測ですが、比較的最近積み直されたためのようです。その背後には、土塁も見えていましたが、土塁も遺構のようです。

    同じく、こちらも西尾城の遺跡の石垣になるようです。草や苔一つ生えていないのは、推測ですが、比較的最近積み直されたためのようです。その背後には、土塁も見えていましたが、土塁も遺構のようです。

  • 左手に見えるのは、神社の塀越しに眺めた本丸丑寅櫓の光景です。後ほど、入城して見学しました。西尾城址には、歴史の古い『御劔八幡宮』があります。右手に見えているのは、その寺社の屋根のようです。

    左手に見えるのは、神社の塀越しに眺めた本丸丑寅櫓の光景です。後ほど、入城して見学しました。西尾城址には、歴史の古い『御劔八幡宮』があります。右手に見えているのは、その寺社の屋根のようです。

  • 『陸軍大尉・正七位・中澤稔之碑』の文字が刻まれた慰霊碑の光景です。まだ新しい碑ですから、日清・日露戦争ではなく、太平洋戦争のようです。推測ですが、学徒出陣された地元の有力者の御子息かも知れません。並の力では、西尾城址内に慰霊碑を建てるのは難しいことでしょう。

    『陸軍大尉・正七位・中澤稔之碑』の文字が刻まれた慰霊碑の光景です。まだ新しい碑ですから、日清・日露戦争ではなく、太平洋戦争のようです。推測ですが、学徒出陣された地元の有力者の御子息かも知れません。並の力では、西尾城址内に慰霊碑を建てるのは難しいことでしょう。

  • 台座に『稲垣一郎先生像』の表示があった立派な造りの銅像の光景です。ネット情報によれば、稲垣一郎氏は、西尾の製茶業者で、西尾町長や愛知県会議員などを務め、西尾茶の宣伝に尽力した人のようです。教育者としての先生ではなかったようです。せっかくの機会ですから、『西尾茶』についても紹介しておきます。『西尾茶(にしおちゃ)』は、西尾市を中心に安城市との2市で生産される茶で、そのブランド名です。登録商標は『西尾の抹茶(にしおのまっちゃ:権利者は西尾茶協同組合)』です。生産される茶のほとんどが抹茶に使用され、特に加工食品などでよく使われています。

    台座に『稲垣一郎先生像』の表示があった立派な造りの銅像の光景です。ネット情報によれば、稲垣一郎氏は、西尾の製茶業者で、西尾町長や愛知県会議員などを務め、西尾茶の宣伝に尽力した人のようです。教育者としての先生ではなかったようです。せっかくの機会ですから、『西尾茶』についても紹介しておきます。『西尾茶(にしおちゃ)』は、西尾市を中心に安城市との2市で生産される茶で、そのブランド名です。登録商標は『西尾の抹茶(にしおのまっちゃ:権利者は西尾茶協同組合)』です。生産される茶のほとんどが抹茶に使用され、特に加工食品などでよく使われています。

  • 現在は、西尾市歴史公園として整備されている、西尾城址の光景です。『西尾の抹茶』の紹介の続きです。抹茶生産では全国1、2を争うシェアを占めますが、全国的な知名度が低いのが課題とされています。2005年(平成17年)の全国調査では、全国の茶の知名度でのランキング外となり、1位静岡茶、2位宇治茶、3位が八女茶でした。その後、抹茶に特定したブランドで巻返しを図っているようです。

    現在は、西尾市歴史公園として整備されている、西尾城址の光景です。『西尾の抹茶』の紹介の続きです。抹茶生産では全国1、2を争うシェアを占めますが、全国的な知名度が低いのが課題とされています。2005年(平成17年)の全国調査では、全国の茶の知名度でのランキング外となり、1位静岡茶、2位宇治茶、3位が八女茶でした。その後、抹茶に特定したブランドで巻返しを図っているようです。

  • 『西尾神社』のタイトルがあった石造の説明版の光景です。西尾神社奉賛会によって昭和53年(1978年)10月に建立されたことが記されていました。ご祭神は、『殉国の英霊6百4十余霊』と記されていました。<br />

    『西尾神社』のタイトルがあった石造の説明版の光景です。西尾神社奉賛会によって昭和53年(1978年)10月に建立されたことが記されていました。ご祭神は、『殉国の英霊6百4十余霊』と記されていました。

  • 『西尾神社』の文字が刻まれた石標の光景です。第二次大戦での軍人と軍属の方の戦死者を祀った神社のようです。右後方に見えている小さな社が、『西尾神社』のようでしたが、はっきりしませんでした。

    『西尾神社』の文字が刻まれた石標の光景です。第二次大戦での軍人と軍属の方の戦死者を祀った神社のようです。右後方に見えている小さな社が、『西尾神社』のようでしたが、はっきりしませんでした。

  • 『御劔八幡宮』のタイトルがあった説明パネルの光景です。松山への遷座ののち、承久年中(1219~1922年)に三河国守護・足利義氏が西条城を築城する時に現地へ移し、源家相伝の宝剣・髭切丸と白旗一流(ひとながれ)を納めたと伝えられています。(西尾市公式HP)

    『御劔八幡宮』のタイトルがあった説明パネルの光景です。松山への遷座ののち、承久年中(1219~1922年)に三河国守護・足利義氏が西条城を築城する時に現地へ移し、源家相伝の宝剣・髭切丸と白旗一流(ひとながれ)を納めたと伝えられています。(西尾市公式HP)

  • 『御劔八幡宮』の石の鳥居の光景です。真直ぐ伸びた舗装の参道の先に、『御劔八幡宮』の社が見えていました。西尾城の歴代城主の信仰が篤かったとされる伝統ある神社です。殊に武家との繋がりが深い『八幡社』の名前です。

    『御劔八幡宮』の石の鳥居の光景です。真直ぐ伸びた舗装の参道の先に、『御劔八幡宮』の社が見えていました。西尾城の歴代城主の信仰が篤かったとされる伝統ある神社です。殊に武家との繋がりが深い『八幡社』の名前です。

  • 基壇の上に建てられた、『御劔八幡宮(みつるぎはちまんぐう)』の社殿のズームアップ光景です。三方を鎮守の杜が取り囲んでいました。『拝殿』と『本殿』が西尾市文化財に指定されていますが、こちらが本殿のようでした。参道脇の石灯篭も市指定の文化財です。

    基壇の上に建てられた、『御劔八幡宮(みつるぎはちまんぐう)』の社殿のズームアップ光景です。三方を鎮守の杜が取り囲んでいました。『拝殿』と『本殿』が西尾市文化財に指定されていますが、こちらが本殿のようでした。参道脇の石灯篭も市指定の文化財です。

  • 『御劔八幡宮』の拝殿光景です。御剱八幡宮(みつるぎはちまんぐう)は、西尾城本丸跡に鎮座する神社で、古くは文徳天皇の皇子・八条院宮が渥美郡伊川津から当地へ移り住んだ際に松山(現在の山下町東八幡山あたり)へ遷座したと伝わります。(西尾市公式HP)

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    『御劔八幡宮』の拝殿光景です。御剱八幡宮(みつるぎはちまんぐう)は、西尾城本丸跡に鎮座する神社で、古くは文徳天皇の皇子・八条院宮が渥美郡伊川津から当地へ移り住んだ際に松山(現在の山下町東八幡山あたり)へ遷座したと伝わります。(西尾市公式HP)

  • 陶器製の獅子像の光景です。『御劔八幡宮』の説明パネルには、『石灯篭』『陶獅子』、『鰐口』等は、西尾市の指定文化財であることが紹介されていました。左足が修復された雄獅子でした。

    陶器製の獅子像の光景です。『御劔八幡宮』の説明パネルには、『石灯篭』『陶獅子』、『鰐口』等は、西尾市の指定文化財であることが紹介されていました。左足が修復された雄獅子でした。

  • 一対になった、西尾市指定の文化財の陶器製の獅子像のもう片方の光景です。こちらは吽形の雌獅子です。西尾市の文化財一覧には、市指定の文化財として、石灯篭6基(3対)、陶製狛犬(1対)が、江戸時代の延宝6年(1678年)と掲載されていました。鰐口(1口)は、室町時代の永禄7年(1564年)でした。

    一対になった、西尾市指定の文化財の陶器製の獅子像のもう片方の光景です。こちらは吽形の雌獅子です。西尾市の文化財一覧には、市指定の文化財として、石灯篭6基(3対)、陶製狛犬(1対)が、江戸時代の延宝6年(1678年)と掲載されていました。鰐口(1口)は、室町時代の永禄7年(1564年)でした。

  • 源家相伝の宝剣の『髭切丸』に因む名前の、『御劔八幡宮』の拝殿のズームアップ光景です。『御劔八幡宮』の拝殿と本殿の遷移についての紹介です。延宝6年(1678年)、藩主の土井利長公により社殿が再建され、以後、幾度も修築がなされてきたようです。本殿は『一間社流造』、拝殿が『入母屋造』で、いずれも檜皮葺です。

    源家相伝の宝剣の『髭切丸』に因む名前の、『御劔八幡宮』の拝殿のズームアップ光景です。『御劔八幡宮』の拝殿と本殿の遷移についての紹介です。延宝6年(1678年)、藩主の土井利長公により社殿が再建され、以後、幾度も修築がなされてきたようです。本殿は『一間社流造』、拝殿が『入母屋造』で、いずれも檜皮葺です。

  • 平成24年(2012年)に西尾市観光協会により建立された『御劔八幡宮』のタイトルがあった説明看板の光景です。先に紹介した同名のパネルより詳しい内容が記されていました。『本殿』『拝殿』『渡殿』の西尾市の指定文化財でした。また、石灯篭が三対あるのは、歴代城主の土井氏、三浦氏、大給松平氏の寄進によるもののようです。

    平成24年(2012年)に西尾市観光協会により建立された『御劔八幡宮』のタイトルがあった説明看板の光景です。先に紹介した同名のパネルより詳しい内容が記されていました。『本殿』『拝殿』『渡殿』の西尾市の指定文化財でした。また、石灯篭が三対あるのは、歴代城主の土井氏、三浦氏、大給松平氏の寄進によるもののようです。

  • 石の鳥居の先に小さな社が見えていますが、こちらの鳥居の脇には『神明社』の石標がありました。『神明神社(しんめいじんじゃ)』は、天照大御神を主祭神とし、伊勢神宮内宮(三重県伊勢市)を総本社とする神社です。神明社(しんめいしゃ)、神明宮(しんめいぐう)、皇大神社(こうたいじんじゃ)、天祖神社(てんそじんじゃ)などともいい、通称として『お伊勢さん』と呼ばれます。

    石の鳥居の先に小さな社が見えていますが、こちらの鳥居の脇には『神明社』の石標がありました。『神明神社(しんめいじんじゃ)』は、天照大御神を主祭神とし、伊勢神宮内宮(三重県伊勢市)を総本社とする神社です。神明社(しんめいしゃ)、神明宮(しんめいぐう)、皇大神社(こうたいじんじゃ)、天祖神社(てんそじんじゃ)などともいい、通称として『お伊勢さん』と呼ばれます。

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