糸満・ひめゆり旅行記(ブログ) 一覧に戻る
《2019.June》あみんちゅ令和を迎えたTHE DAY IN OKINAWAを訪ねる旅その四~74年の月日編~<br /><br />明けて6月23日日曜日の朝を迎えた。いつもならば追悼式前に立ち寄る場所を作っており、それをこなすためにバタバタとした出発するが、天気が思わしくないためになかなか行動に移せない。そのため〝濃い〟宿泊客のおじさんと話しながら時間を潰し、追悼式に間に合うように出発することにした。<br /><br />のんびりと出発したためにシャトルバスへの乗り換え場所も、もっとも宿から近い沖縄清明の丘公園を利用するが、到着時間が遅かったのか一番海側に車を停める羽目になった。今更愚痴っても仕方がないので歩いて行くが、参列者も少ないのか待ち時間なしでシャトルバスに乗車でき一路平和祈念公園へと向かう。会場に着いても天気の影響か人数も少ない感じは受けるが、やはり式典会場付近はそれなりに人だかりが出来ていた。<br /><br />式典の推移は別章に記述したのでそちらを読んで頂くとして、通常ならば式典終了と同時に解放されるテント下が早めに解放されたこともあり、そ知らぬフリをして報道エリアの後方まで進み、閉会宣言を待つことする。<br /><br />式典中も雨がパラつく天候だったことからいつものようにのんびりとする訳にも行かず、早め早めの行動を心掛けなければならなかった。閉会宣言の後来賓の退出となるが、ここで意外なことを知ることになります。正午から1分間の〝黙祷〟時間に於いても報道陣は仕事という理由で誰も従わない…。これが〝式典会場の誠〟なのか…と思いつつも言って始まることでもなく仕方がないのかと考えるしかなかった。しかし定位置から退出する来賓を撮影した後の撤収のトロいこと。マジでお焼香待ちしている一般客に喧嘩を売っているのか?と思えるその様子にブチ切れそうになりました。祭壇にお焼香を並べる時間を加味しての行動かも知れないが、その様子から追悼の気持ちのないことが伝わって来たのも確かだった。<br /><br />兎にも角にも準備が整った時には待ち列ができたので素直に並び、順番を待つことする。記録上では開始後3分でお焼香を済ませていることからも遺族を含む今年の参加者の少なさを痛感する。しかし参加をはしていても〝天気との闘い〟をしており私とてひとつひとつを振り返っている余裕はなく、お焼香を済ませると式典参加した少年少女の合唱団の集合写真と、平和の詩を朗読した山内玲奈さんの姿をカメラに収め一旦平和祈念公園からは撤収しようと考えていた。そして今テント下から出ようとした瞬間、先程宿で話し込んでいた濃いおじさと鉢合わせをする。あれ?式典参加はされないんじゃ…と尋ねたところ、追悼式の模様をテレビで見ていたところ突然映像が乱れたので何かあったのかと心配になり急いでやって来たとのこと。何もないですよ~と話していたところ、宿で話をしているうちに私の話があくまで中立の立場を貫いた上での持論だと見えて、話をしてみたいと思ったと聞かされました。<br /><br />このThe day沖縄に訪れる者の多くは、沖縄での多数論である〝軍が悪い〟と決めつけているだけで、なぜ?と聞いても回答を得られない方々が大多数だったという経験がある中で、軍という〝組織〟はともかく、その組織を構成する10万人を超える個々の〝兵士〟のことを十把一絡げに言うことは間違っていると反論した私が、敢えて左翼思想的な考えを持つ宿泊客が滞在するみん宿ヤポネシアに泊まりに来るのか?という気持ちもあったようだ。勿論その場での軽はずみな発言をされる方ではないため〝それっきり〟になるとしか私も思ってはいなかった。また〝自分自身の想い〟を持ってこの日に沖縄を訪れている方々に敢えて不愉快な思いをさせる必要はないということを心掛けていることもあった。<br /><br />わざわざ会場まで足を運んで頂いた上に持ち上げて頂いたことに対し、自分の考えを述べてみた。〝過去は過去〟〝未来は未来〟と分けて考えることは〝夢物語を語るに過ぎない〟、それは沖縄戦に限らず戦争が〝権力と利権〟絡みの争いである以上、過去の〝過ち〟の部分を分析した上で〝未来〟に繋げていかなければならないことを、既に証明されている〝史実〟を引用して解決するのが私の考える〝平和論〟であり、〝空想論〟や〝理想論〟が蔓延る現在に於いて、次世代に〝何を伝える〟のかすら曖昧なまま流していることを危惧しているだけに過ぎないと本心を語った。やはり〝極めて中立な立場だった〟とは言って頂いた。残念ながら置かれている立場や個人の持つ〝知識〟には大きなばらつきがあるのも確かであり、故に戦没者遺族としては身内が悪く言われることに対し反論をすることも普通のことであると考えている。しかし〝空想論〟や〝理想論〟で塗り固めた〝平和論者〟は元を辿れば同じ考えに基づいて派生しているにしか過ぎないため、ひとつ反論したくとも反論できるだけの知識を持つことは並大抵の努力では済まない時代になっていると伺った。<br /><br />結局のところ都合の悪いことは見なかったことにして、都合の良いことを纏めると悪者を作ることはいとも簡単にできることである。しかし悪者を作ったからそれが恒久平和に繋がると安易に考えるには、あまりにもリスクファクターを加味していないのではと危惧する。結果としてこの考えでは将来に繋がるような解決論に繋がるとも到底私には思えない。史実に向き合い〝マイナス因子〟と〝プラス因子〟を中立な立場で抽出し、それを受け止めた上での是非論であれば、過去の過ちとされることが将来的にも生かせることができることに違いないと私は考える。<br /><br />自らの子孫に〝戦争回避〟という術を伝えるのであれば、親世代が徹底論議して方向付けを残してやらないといけない…。〝綺麗事〟として片付けられてしまう机上の論議だけをいつまでも行うのではなく、戦争を回避するには過去の事象からどのような手法を取り入れたら良かった・良いのだろうという〝建設的〟手法こそが未来将来に渡って生きて来るのではないのか?というのが私の意見でもある。<br /><br />こう言った話を書こうと考えてはいなかったが、追悼式への参列を考えて沖縄県は勿論のこと、日本いや世界各地から集まって来ている方々の中には〝沖縄戦〟という過去の〝史実〟を全否定をした上でこの追悼式を〝政治的・思想的〟に執り行われることを望まない方が参列している事実を4年前に初めて追悼式への参列をした際の出来事を記したことからも明白である。敢えて個人の考え方に是非論を言うことは控えている私ではあるが、史実として明確になっていることを意図的に〝語っていない〟のであれば、その出来事を〝事実〟とすれば都合が悪くなることがあるのかと勘繰りたくなるのが人間の深層心理でもある。<br /><br />そして私も含め戦争を知らない世代が、その次の世代に戦争を語り継ぐには並大抵の努力ではできないと考えている。即ち戦後70余年を迎え非公開だったものが公開されるようになり、〝史実とされていた根拠〟が〝史実でなくなった根拠〟に変わることも大いにありうる話である。そういった〝直さねばならない〟部分も積み上げた上で語り継ぐのであれば、それにより〝目指すもの〟も変えなければならないことに繋がるやもしれない。目指すものを〝変えてはいけない〟のではなく〝変えてどうする〟ということを考えて行かねばならない時代になっていると私は思っている。<br /><br />話の最後に憲法第9条の解釈論議の話が出ていたことを思い出した。これも確かに〝日本国憲法〟の平和主義条文に書かれていることには違いないが、意外にこの謂れを知らない方も多いようだった。そもそも憲法第9条平和主義は連合国極東委員会監修のもとで作られたものであり、天皇制維持に対するアレルギーを逸らすためとの意見も数多く存在しているのが事実である。所謂国体主義の下で戦争を仕掛けた大日本帝国、その日本軍統帥権を持つ〝天皇〟の名の下に於いて戦争を始めたとし、〝天皇制が存続すれば新憲法の下でも天皇の名に於いて戦争を始めることができる〟との解釈が、連合国や日本国内でも特に〝民間人〟の中に於いても数多く叫ばれていたということである。それを憲法第1条第1章に於いて天皇について〝日本国の象徴〟とし〝天皇の地位は主権を持つ国民の総意に基づく〟と定義付けることによって天皇制が続いても、総帥権を持たないために戦争を起こすことはできないと言っている。つまりポツダム宣言の受諾条件に付けられた〝国体維持〟、天皇制の存続を認めた上で第9条第1項平和主義に繋げているこじつけめいた部分である。戦勝国の立場からは降伏条件を守った上で、自らへ牙を剥かないことという表現を盛り込んだ〝連合国作成の日本国憲法〟と言っても過言ではない内容である。<br /><br />また自国の定める憲法の外に国際法というものがある。その中にある〝戦争に関する国際法(戦時国際法)〟では、戦争行為そのものは原則違法化するも、従事する国家の政府に一定の権利義務が定められている。政府による〝宣言〟の下で戦いを始める〝権利〟が取り上げられている。全く同じではないが〝宣戦布告〟も宣言のひとつであるとされている。この中に出て来る〝交戦権〟は相手国が攻めてきたので迎撃したということも含まれる。しかし日本国憲法に於いては第9条第2項に〝戦力の不保持〟と〝交戦権の否定〟が示されている。<br /><br />日本国敗戦という時期に於いて自らが生き延びることしか考えられない時代に、混乱と悲劇しか生まない戦争を敢えてする余裕もなかった上に敗戦国として軍政統治下で未来を考えることもなく言われるがまま作られた〝日本国憲法〟。勿論時代背景が変わらなければ考えることもないで良かったのかも知れない。しかし現在一触即発の状態となっている我が国に、70年余前の条文を守って安泰な生活が送れるのであろうかという懸念は昨今言われている通りである。本土決戦の場とされていた〝内地〟では実感が湧かない部分があるが、きな臭い出来事が日常起こっている南西諸島に於いては、やはり大きな不安要素になっていると私は思う。内地のようにワンクッション入る余裕のないところで主権たる〝民意〟はどう取り扱われているのだろうか?他人事のように聞こえるかも知れないが私自身はいつも不安に思っていることである。<br /><br />これはひとつ持論ではあるのだが、沖縄に於いて米兵による日本人への〝凶悪犯罪〟の問題が起こっている。黙っていられるレベルはとうの昔に過ぎているが、それを〝日本人差別〟という根本的なものから起こっているという説である。憲法の下〝戦力の不保持〟の一文を誇大解釈をすれば、自国で守れない沖縄県民を守っているのは〝米軍〟であるとされても、反論できないところがある。戦力保持が認められず、精神論で戦いに勝つことができると本気で考えている者等今の時代にいる訳がない。言い換えれば沖縄の〝終わらぬ戦後〟は憲法の条文に拘り過ぎてしまっているがために起こっているのではないかと考える節もある。同じ敗戦国でありながら沖縄のような問題が起こっていないイタリアやドイツ、何が違うかというと〝軍の保持〟の有無である。両国に於ける米兵が罪を犯した際は、米軍基地に於ける現地警察の立ち入りや逮捕権も普通に認められている。しかし沖縄ではそうは行かない。重罪を犯しても基地経由で本国に戻ってしまったら…ということが今なお続いている。結局のところ〝地位協定の見直し〟を何故しないのか?ということになるが、しないのではなく〝できない〟のであろう。特権階級の米兵が、今なお続く戦時統治下の沖縄県民に対して同等の立場だと思っているのか明らかにして貰いたいところである。<br /><br />結局のところ好き好んで戦いをするのは一部の〝利権〟に拘る独裁者であり、戦争をするために駆り出された兵士が同じような解釈をしているとは考え難い…それが第二次世界大戦やその後の戦いの特徴であると常々考えている。敗戦によって憲法に〝平和〟という文字が刻まれるようになったのも事実である。しかし言葉や文字だけの〝平和〟に拘り過ぎて沖縄をはじめとした米軍基地がある街での〝地位協定改正〟を妨げているのもまた〝国民〟であるように思えてならない。言葉を変えることに異論を唱えるのであれば、どのようにすれば凄惨な事件が起こらずに済むようになり、どうすれば争いを〝仕掛けてくる国々〟に対抗できるのかを分かりやすく論じて貰いたいと常々思っている。分かり切ったことではあるが、令和を迎えた今日、70余年前の兵士という人間が犠牲になる〝白兵戦〟など起こり得る訳もない。現実は核弾頭を搭載したミサイルが飛来して来ることでしかない。無人兵器を相手に〝精神論〟は役に立たない。非力な人間の力でどうこう出来るわけがない攻撃に対して、無抵抗で着弾を待って滅びるのが日本民族の考えなのだろうか?<br /><br />長くなったがそんな話をして濃いおじさんとは別れることとなった。慰霊の日を狙って来沖する方は十人十色の考えや行動を持っておられるのが当たり前。偉そうに言う訳ではないが私とて例に漏れないであろう。しかし降り止まない雨が全てのやる気を奪ってしまう今年の慰霊の日、取り敢えずは仕切り直しをすべく駐車場へと戻ることにする。今年利用した沖縄清明の丘公園は、洋風の洒落た建物はありますが実は墓地である。沖縄といえば戦時中にも隠れたりして本来の目的とは違う使い方をされた〝亀甲墓〟が有名だが、最近では内地と同じくお洒落な墓石も増えてる。全く一緒とは言わないがうちのお墓と感じが似ているお墓を見つけたので記録した。死者を尊ぶ考えに変わりはないが、やはり墓石にもブームはあるようだ、ハイ。<br /><br />改めて沖縄清明の丘公園の写真を撮っていると、珍しいバスがやって来た。都市部では当たり前のノンステップバスだが、路線投入されているバスは多くが内地の中古なので、ノンステップ車両は珍しい。ただ都市部の現役車両がオートマチックであるのに対し、どうやらミッション車の様子。どうやら公営バスで整備に手間が掛かるとの理由でオートマチック車に入れ替わった車両が投入している様子。久しぶりに乗って(運転して)みた~いと思う私は物好きなのかも知れない(笑)。<br /><br />時間は天気が悪くとも過ぎて行くのでので先を急ぐことにする。みん宿ヤポネシアに何回宿泊しているの?と聞かれると困るくらいの回数は宿泊しいるが、近くの大度海岸には行ったことがなく、ナビが場所を特定できないために地図だけ利用して向かおうとしたものの、慣れないナビ故車が通れるかどうかは行ってみないとわからない。そんな理由で大度集落で暫し迷子になった後に入り口そのものが違うことに気づき、やっと到着することができたにわか方向音痴の私だった。<br /><br />この大度海岸はシュノーケリングなんかでも有名な場所だが、もうひとつ幕末に乗り組んだ漁船が転覆し、救助された米国の船に乗ってアメリカに渡り、語学を会得して幕末~明治維新にかけて日本が諸外国と結んだ条約の締結の際に通訳として参加した〝ジョン万次郎〟が帰国して最初に上陸した場所でもある。その功績を称えるべく〝ジョン万次郎上陸記念碑〟なるものが昨年平成30(2018)年2月に建立されていた。〝ジョン万ビーチ〟の呼称は私が沖縄に入り浸り始めた頃にはありましたが、意外にも整備されたのは新しいことを知りびっくした。銅像の帽子を被ったジョン万次郎が指差す先には故郷の土佐清水市だと言うこと。ストーリーを作り過ぎている感は否めないものの、たまたまアメリカから持ち込んだ〝アドベンチャー号〟で上陸したのが大度海岸だっただけであり、活躍の舞台は土佐に戻ってから始まったことを考えればわかるような気がする。界隈の海岸へと続く道を見ながら150年前にジョン万次郎はこの道を〝通ったのかも知れない〟なんていう妄想を膨らませるのも楽しかった場所でもあった。<br /><br />天気が良ければ景色も良いのかも知れませんが、小雨がバラつく天気で…ということで次の目的地を目指すことにした。米須霊域は沖縄戦後初の慰霊碑である魂魄之塔を中心とした慰霊碑が集まっている場所であるが、今回は便宜上〝閉館時間〟のある施設から訪れることにする。<br /><br />一年間で今日沖縄慰霊の日のみ開館している沖縄菩提樹苑、宗教が絡むと遠慮したくなる私ではあるが、沖縄戦という民間人を含む多くの人命が失われた場所という理由が考慮され、国外に持ち出されるのは2回目という門外不出の菩提樹に〝逢いたさ〟だけでここ3年間訪れている。沖縄という地で育てるのは難しいとされる菩提樹を枯らさないようにと植えた後に周りに作られた温室のような建物。その中心には〝聖なる菩提樹〟が元気良く枝葉を伸ばしている。菩提樹を沖縄に持って来た経緯の中で関わりが出来たらしいダライラマ14世も来日の折この地を訪れており足跡も残されている他、ブッダ所縁の無憂樹や沙羅双樹の木も植えられており、沖縄の〝小インド〟にいるような錯覚をする。煩悩の塊である私が、暫し〝無〟になれるのはやはり〝本物〟だけが発することができるオーラによるものだと不思議に感じることがある。今年も出会うことができたという〝達成感〟を感じながら沖縄菩提樹苑を後にした。<br /><br />そして魂魄之塔。沖縄戦終戦後に米軍政府が住民達に農作物を作らせるべく真和志村民を摩文仁村に強制移住させた。農地として開墾させようとした場所は今の米須霊域と呼ばれる場所であるが、この地は沖縄戦沖縄島最後の激戦地として多くの人命が失われた上に、その遺骨が放置されていた場所でもあった。つまり土を掘れば必ず遺骨が出てくる場所であったということになる。農作業を続けるにも身内の中に戦没者がいる者達にとっても遺骨をそのまま放置することは決して望ましいことにならないことは明らかであり、金城村長は米軍政府に幾度となく遺骨を集めて慰霊碑を作ることを具申しているものの、軍政府には敵であった兵士の遺骨を集めて作られる慰霊碑は反米の象徴になることを恐れ、なかなか許可を与えなかった。しかし出てくる遺骨をどうにかしなければ復興作業も進まないという現実を目の当たりにして渋々許可を出し、払下げという形を取ってセメント等の資材も提供している。<br /><br />魂魄之塔建立を指揮した真和志村長金城和信氏、長きに渡り沖縄での教育者として尽力されてこられた氏は、沖縄戦に於いて学徒隊として従軍した娘2人を失っている。子供に先立たれたことだけでも身を削られる思いだったと想するが、その想いこそが無造作に散乱している遺骨を放置出来ないという信念に繋がっていることは容易に理解することができる。結果として金城村長が先頭に立ち、住民達の力を借りて1,300余柱の遺骨を集め昭和21(1946)年2月27日に〝魂魄之塔〟と命名された碑が立てられた納骨所が完成した。その後も遺骨収集は続けられ、最終的には3万5千余柱とも言われる遺骨が納められたと言われている。<br /><br />その後琉球政府により那覇市識名に設けられた〝戦没者中央納骨所〟を経て、摩文仁の丘に設けられた国立沖縄戦没者墓園へと多くの遺骨は移動し現在に至っている。また金城村長は魂魄之塔建立の〝思い〟をひめゆりの塔・沖縄師範健児之塔建立時にも込められており、現在の立派な両慰霊塔とは程遠いものの、資材のない時代に於いて『どうやって作ったのか?』という物を完成させ、70余年経った現在でもその姿を見ることができることはありがたいこと以外になにものでもない。金城先生は沖縄の塔とも解釈できる〝魂魄之塔〟をはじめとする初期の慰霊碑建立に多くを語っておられないが、その偉業を伝えるべく魂魄之塔隣に〝胸像〟が建立されて現在に至っている。なお〝魂魄之塔〟を〝沖縄の塔〟と表現したが、金城先生の考えに〝沖縄所縁の戦没者〟を祀るとは一言も書かれてはおらず、出身・所属を抜きにした〝沖縄戦戦没者慰霊碑〟というのが本来であろうと私も思っている。しがし慰霊の日には朝から多くの人が訪れる場所として新聞やニュースでも報道されていることから敢えてここでは〝沖縄の塔〟という表現を用いている。<br /><br />魂魄之塔界隈には〝都道府県慰霊碑〟がいくつか建立されており、大分の塔(大分県)・北霊碑(北海道)・大和の塔(奈良県)・紀乃國之塔(和歌山県)・島根の塔(島根県)・讃岐の奉公塔(香川県)・ひろしまの塔(広島県)、そして少し離れた場所に東京の塔(東京都)・因伯の塔(鳥取県)がこの地に建てられた。また学徒隊関係のものとして〝開南健児之塔〟、軍関係のものとして〝有川中将以下将兵自決之壕〟がそれぞれ建立されている。<br /><br />都道府県別慰霊碑と開南健児之塔は別章で述べているためここでは割愛し、〝有川中将以下将兵自決之壕〟に絞ることにする。<br /><br />米須霊域に於いて〝違和感〟として語られることが多い〝有川中将以下将兵自決之壕〟の碑。軍人を祀るものとして建立されていることがそう言われる所以だそうだが、実際魂魄之塔の周りには個人の墓や慰霊碑という物も建立されている。また〝刻銘者無〟の碑が多い中で、丁度第32軍司令官牛島満大将以下幕僚が摩文仁の丘で自決した頃、歩兵第64旅団長有川主一中将以下司令部将校が自決している。その場所が碑の隣にある縦穴(ドリーネ)下部にあるガマであったがために平地に於いて〝有川中将以下将兵自決之壕〟が後に建立された。<br /><br />確かに兵卒や民間人の戦没者に於いて〝戦死場所〟が特定できた者の少なさを考えると、最期の地がわかっていることに対する思いはあるだろう。ただそれを十把一絡げにして〝場違い〟と評するのは如何なものかと思えてならない。有川旅団長の娘さんが碑の永代管理の締結をされたことが碑に刻まれているが、そこにはやはり〝父親〟としての像が浮かんでくる。立場というのは千差万別ではあったが、固定観念だけでその存在を否定する〝浅はかなこと〟は慎むべしと痛感する碑であった。今日の慰霊の日には花を手向けられた方もおられたようで、いつもとは違う印象を受けた〝有川中将以下将兵自決之壕〟の碑であった。<br /><br />そして米須霊域を出立し、梯梧之塔へと向かうことにする。途中の〝ずゐせん之塔〟と〝ひむかいの塔〟にも立ち寄って手を合わせることは忘れない。そして毎年利用している〝ひめゆり観光センターでいご〟の駐車場へと車を停め、梯梧之塔へと向かうことにする。到着時間が遅くなったため、慰霊祭を行っておられたスタッフ氏達は既に撤収されていたが、天候が悪いために全体的に参列数が少ないと言われていた今日の日に多くの花が手向けられていたことにはホッとした。<br /><br />次いで閉館前に到着できた〝ひめゆり平和祈念館〟を駆け足で回ることにした。こちらも既に〝ひめゆりの塔〟前の慰霊祭壇は撤去されており、花のリサイクルといった不愉快なシーンを見かけることもなかったのが逆に良かったと思う。30分強の時間で回ってきたのは、やはり天気がしっくりこないことが原因だった。界隈では一番人が集まっていた〝ひめゆりの塔〟でも人の流れを見ていても引き上げるのが例年になく早いように思える。マイペースにしか進まない私ではあるが、人の流れに影響もあったのか最後に沖縄県営平和祈念公園へと戻ることにする。<br /><br />珍しく平和祈念館への通路が開放されていたので、雨の中少しでも歩く距離を減らそうと行ける場所まで行ってみるが、スペースが無くいつもの公園駐車場を利用することにした。シトシトと降る雨の中、初めて園内バスを利用した。以前は一日中利用して100円で慰霊の日だけは1乗車あたり100円であった。しかし全てが値上がりしている時代に於いていつの頃からか普段から1乗車当たり100円になっている。Δ89高地と呼ばれていた摩文仁の丘、即ち標高89mとなる訳だが、公園から歩くには急な坂があり、体力がなければかなりキツいものでもある。今までは休憩を入れながら頂上まで歩いていた。しかし雨天だと休憩できる場所も限られるとあって不安が残る。そんな中で公園売店付近に停車している青いバスを発見した。〝ゆいバス〟という糸満の貸切バスを運行している会社だが、慰霊の日は園内バスの運行を請け負っているようだ。バスを見た瞬間〝歩くのやめ!〟と気持ちを切り替え、乗車する旨を伝えて車内に落ち着いた。運賃100円は料金箱が置かれており、ドライバー氏は触れられないようになっているようだ。日本に於ける旅客運送に関する法律のややこしさそのものであり、小銭がなければお釣りが出せないので〝乗車できない〟ことになってしまう。そういう場合はどうするのかわからないが、利用者の便宜を図るべくバスが投入されているのに…という思いが残る。<br /><br />蘊蓄はさておき私の乗ったバスはハザードを点けたまま恐ろしくゆっくりとしたスピードで走って行く。途中のバス停から乗車する方も結構いた。やはり雨の影響だろうと思わせる乗車の様子、運賃を慌てて用意する姿からも容易にわかることであった。<br /><br />私は摩文仁の丘の最も標高の高い場所で下車する。勿論バスが行くことができる場所ゆえに〝しづたまの碑〟付近迄となる。そして先ず最初に向かったのは摩文仁の丘で最も新しい慰霊碑である台湾之碑だ。第二次世界大戦中日本の植民地であった台湾からも多くの台湾人が日本兵として戦い、そして故郷を再見することなく斃れた史実がある。日本の各都道府県が建立した慰霊碑、そして台湾と同じく植民地支配をしていた朝鮮半島でも韓国人戦没者慰霊碑や青丘之塔等が建立されている。しかし戦後の国交問題等により台湾人の慰霊碑は建立されて来なかった。台湾にとっては悲願だった慰霊碑の建立は、空華の塔管理者である〝沖縄翼友会〟の土地の提供に始まり現在の地に建立されることになった。碑の竣工時の式典には元中華民国総統であった李登輝氏が高齢にも拘らず参列している。従軍経験のある彼にとってはやっと念願が叶ったという気持ちが大いにあったことは容易に想像できる。慰霊碑建立を純粋に〝戦没者慰霊〟という意味合いで捉えている台湾の人々や関連の方々の姿が当時の様子からも伺える。屈曲した歴史観を与えずとも台湾之塔には今後祖国の英霊を慰霊するために多くの観光客も来るであろう。そんな気持ちが素直に伝わってくる慰霊碑であるからこと、私も素直に手を合わせることができたのであろう。<br /><br />現在沖縄での平和教育に於いて、半島戦没者の慰霊碑を題材にしたことを押し付けのように利用している節がある。そのことが戦争を知らない世代に日本が悪いことをして補償もしないかの如く誤解を与えている。勿論徴兵を行ったのは事実であり、そのことをもみ消そうとするのは如何なものかと逆に思うのだが、そんなことを日本国政府も言っている訳ではない。しかし1965年12月18日に効力を発した〝財産及び請求権に関する問題の解決並びに経済協力に関する日本国と大韓民国との間の協定〟をどう説明するのだろうか?署名をした〝李東元〟は大韓民国を代表したのではないのか?個人の請求権は消えていないというが、ならば〝漢江の奇跡〟に費やされた5億ドルは本来ならば徴用工や慰安婦となった国民への補償金の〝横流し〟だったのかと言い訳するのかどっちだ?と歴代の大統領に問いたい。当時の大韓民国国家予算の1.5倍近い補償金の行方を説明できなければ国民を裏切り続けてきた〝尻拭い〟を日本に押し付けようとしていると言われても仕方がないであろう。結局事実関係を知らない韓国国民と、不正確な史実を教わった日本国民との啀み合い。それが両国の関係悪化に繋がって何の利益を生むのか私は知りたい。その様な政治の闇に慰霊碑が利用されることを戦没者が望んでいる訳がない。そんな都合の良い理由で作られてはいない台湾之碑だからこそ、建立されたことを素直に喜び、雨の中であっても訪れて手を合わしたいと考えた私は間違っているのだろうか?<br /><br />まあ私の思いはさて置き、台湾之塔には参拝できた。そして空華之塔、飛行第十九戦隊特攻之碑、ダバオ之碑、義烈空挺隊之碑、しづたまの碑、樺太之碑、安らかにの各慰霊碑を回った後勇魂之塔へと向かう。碑の建立されている付近は高マブニグスク跡と呼ばれる場所であり、三山時代の摩文仁按司が勢力に陰りの見えた南山を見限り第一尚氏に付いたとされる伝承はあるものの委細は不明とされている場所である。しかし平和祈念公園が整備された今日、公園一帯が望める場所としてガイドブックにも景色の写真が掲載されている場所でもある。グスク跡向かいに建立されている〝勇魂之碑〟は第32軍司令部戦没者慰霊碑である。決して司令官と参謀長だけを祀っている訳ではないことは誤解のないようにしたいものだ。<br /><br />更に上を目指すと沖縄師範健児之塔へと向かう下りの階段を超えると摩文仁の丘頂上に至り、黎明之塔が聳えている。第32軍司令官牛島満大将と参謀長長勇中将を祀る慰霊碑は、サンフランシスコ講和条約の効力発生後の昭和27(1952)年6月に当初の碑が建立されている。戦後沖縄に米軍基地を作るにあたり多くの労働者が沖縄の地にやって来た。その中には元部下もたくさんおり、元部下や沖縄の関係者、そして沖縄仏教会の協力を得て作られたものと言われている。摩文仁の丘では最も早い時期に作られた慰霊碑であるがために、沖縄戦を泥沼化させた軍首脳の慰霊碑が最初に作られた上に摩文仁の丘頂上から見下ろす位置に建立されたのかという否定論が多かったようだが、その他の将軍閣下と呼ばれる立場だった高級将校の遺骨収集が行われたのがやはり同時期に始まっていることから、日本が復権するまでできなかったことを表している。魂魄之塔建立時でも軍政統治している米軍から許可が下りなかった史実。司令官ともなると、慰霊碑が反米思想の中核となることを恐れていたと言っても過言ではないだろう。慰霊碑が思想的抵抗の中核にならなくなったとされる頃の昭和37(1962)年10月に南方同胞援護会の助成により現在の碑に改修されたのは、都道府県別だが慰霊碑ラッシュとなった時期に被っている。結局のところ〝沖縄戦全戦没者記名碑〟とされる平和の礎の建立が平成7(1995)年6月であるのに対し、黎明之塔が40年も早く建立されだという事実があって、その差を掻き立てているものが多々あるからではないかとも感じられる。しかしながら一般的には先程記した〝沖縄戦全戦没者記名碑〟という但し書きには一部例外が含まれており、沖縄出身者に関しては満州事変から終戦後の昭和20(1945)年9月までの戦没者に加え、南洋群島や満洲などの移民先に於いて戦災に巻き込まれて亡くなった方、疎開船など船舶事故や目的地となった疎開先での戦災死、原爆による被爆死までも記名対象者となっている。故に実際の沖縄戦戦没者数とは異なっているのが事実である。20余万名と言われる沖縄戦の戦没者に対し平成30(2018)年9月現在の平和の礎刻銘者数が24万1千余名である〝差〟こそが正しく沖縄戦全戦没者数以外の戦没者数となる訳である。無論この考え方を否定する気は毛頭ないが、どこまでの戦没者を対象とするかは論議にかなり時間を費やしたと言われている。2名と20万余名を対象にするだけでもその過程に大きな差ができるのは明白である。基本日本人の考えでは多くの者の目に触れる場所に名前を刻むことに抵抗があり、広島の原爆死没者名簿への搭載確認をするのに死没者遺族・親戚に限るとされていることからもわかるであろう。勿論全ての者が同じ考えを持っている訳ではなく、特に一家全滅した家族であれば、その生きた〝証〟が平和の礎への刻銘と考える親戚もいる筈である。平和の礎は新たに判明したというよりも刻銘を希望したために追加されているものが多いと聞いている。これが今なお〝未完成〟なままの〝平和の礎〟と称される所以であるが、多くの対象者を同等に扱うにも無理強いをすることはできない。そう言った考えのもとで作られたならば建立が遅れた理由になるのではないだろうか?実際リーダーの牽引力によって渋る米国軍政府を動かして作られた魂魄之塔をはじめとする〝沖縄戦戦没者慰霊塔〟は、戦後一年以内に完成しているのは紛れもない事実である。<br /><br />半ばこじつけ感もあるが慰霊碑の建立は許可を得るという点でもなんでも認められるものでもなかった。ゆえに対象者と慰霊する目的がはっきりしていなければ、沖縄の本土復帰前には建立することが難しかったことから建立時期の早い遅いが出てしまった。ただそれだけのことである。決して軍での位の高さや人物を選り分けてやったことではないことを建立の碑文を改めて読んで改めてそう感じた私だった。<br /><br />摩文仁の丘頂上までやって来て目的を遂行することができたが、夕暮れ時になって再び雨足が強くなって来た。雨に祟られた今回の沖縄の旅だったため体力の消耗は5年間で最高レベルに達している。丘を下るのは歩こうかと思案しているうちにちょうど園内バスがやって来た。ひとりで行動しているとなぜか年齢相応に見て貰えないところがあり、バス停にいるにも関わらず〝乗りますか?〟とドライバー氏に尋ねられた。寸分違わず〝ハイ!〟と答えて乗車し、行きとは違うルートを辿って公園へと戻る。<br /><br />ちなみに慰霊の日には平和祈念公園内に喫煙所は撤去される。それ以外の日にしばらく訪れていないためずっとなのか今日だけなのかはわからないが、いったん車へと戻って一服し、再び公園内を歩くことにする。島守之塔と栃木の塔、隣り合わせにある慰霊碑だが、戦中の沖縄に人生を捧げた沖縄県最後の官選知事である島田叡氏、そして沖縄県警察部長であった荒井退造氏をはじめとする沖縄県職員戦没者を祀る慰霊碑と栃木県出身の戦没者を祀る慰霊碑である。島田知事と荒井部長は識名霊園内のシッポウジヌガマ・轟壕という県庁壕が置かれた足跡を辿って氏の功績を知ってから毎年訪れている場所である。そして栃木の塔は他ならぬ私の祖父が祀られている都道府県別慰霊碑だ。平和祈念公園に来れば必ず訪れて一年の報告を行っている。残念ながら娘である母は平和の礎を訪れることなく亡くなってしまった。父親曰く〝行きたくなかったんだろう〟と冷たい言葉が返って来た。本心は今から知る由もないが、孫は雨の中今年もやって来たよと報告をする。そしてまた来年のこの日にやって来るよと挨拶をして、平和の礎の刻銘場所を尋ねた。刻銘場所を調べるパソコンは既にサービス提供を終了しているが、さすがにそんなものは必要ない。気の向くまま足の向くまま歩けばちゃんと到着する。ここでも出来の悪い孫ですが今年も来ましたと報告をする。<br /><br />東京にある祖父のお墓に遺骨は入っておらず沖縄の石が代わりに入っていると母から聞いたことがある。しかしお墓は間違いなくあるために平和の礎を墓碑とは思ってはいない。あくまで祖父がこの地におり、戦死したという〝証〟にしか過ぎない。手は合わせるがお墓で行う作法はしない。なぜなのか?残念ながらお墓であれば祖父の名前以外は親族の名前が書かれているはずであり、もし同一部隊の戦友の名前が記されていれば〝お墓〟という認識も持つかも知れない。しかし平和の礎では〝同郷〟の50音順での戦没者名が前後に記されているため、戦死者名簿のようにしか思えなくなって来た。慣れなのだろうか?それとも事務的な刻銘の仕方が、色々な知識を得たことによって合理的に考えるようになって来たのかも知れない。ただ一番の理由は〝お墓〟であれば頻繁にも来れない場所であれば墓仕舞いをするしかないという現実を知りたくないのかも知れない。平和の礎に半永久的に名前が残るのはありがたいと思う反面、来る人が居なくなったら…という気持ちにもさせられる。黒御影石に刻まれた祖父の名前に、来られる間だけは間違いなく尋ねるからとしか言えなかった自分自身が悲しかった。<br /><br />平和の礎の祖父の名前に挨拶を済ませ、平和の火へと向かう。晴れていれば夕方でも素晴らしい景色が堪能できる場所であるが、天候が悪いとこんなに冴えない場所なのかと改めて思う。二方向からの撮影を済ませ、平和の礎の碑をカメラに収めると車へと向かうことにする。途中の参道にはペットボトルキャンドルが並べられ夜になるのを待っている。しかしこの雨の中写真で切り取ってもインパクトが何もない。逆に敷石の色に同調してしまうために〝設置意図〟すら全く分からないものとなってしまった。これでは日暮れを待っても仕方がないと割り切って車へと戻り、食事とお土産購入のために〝サンエー西原シティ店〟を目指して出発することにした。<br /><br />糸満から約20km離れた中頭郡西原町のスーパーである〝サンエー西原シティ店〟、仮に本日の宿泊先である奥武島までまっすぐ走れば9km。経由することにより約4倍の距離を走ることになる。ただ沖縄県を地盤にしたスーパーゆえ値段はお土産物屋で購入するより安く手に入る。私が購入するお土産の数など数知れているが、お目当てはやはり〝PVブランド品〟である。サンエーはニチリウグループに属しており、同系列の店舗は日本全国にある。我が街滋賀県ならば平和堂がそうであるが、普段使用する日用品や食品類はやはり割安感があることと見慣れていることから〝安心感〟があることも確かである。私は沖縄へ行く度にティーパックの〝さんぴん茶〟を購入している。中身は普通のジャスミン茶だが、さんぴん茶と書かれてあるだけで沖縄らしい物だと勝手に思っている。これに関してはイオンや土産物屋での価格調査をしてみたが、やはりサンエーが一番安かった。また広過ぎず狭過ぎずの土産物コーナーは〝前年には見てないもの〟という選択基準で選ぶ私にはちょうど良い売り場面積だと思う。<br /><br />3階の屋内駐車場に先ずは車を停める。そして第一に腹ごしらえだがフードコートも充実している上に〝沖縄料理〟も手軽に食べられるとあって私的には非常に使い勝手が良い。今回は〝めん家〟でフーチャンプルー定食をオーダーした。敢えてフードコート?とは言われるが、コテコテの地の物を扱うお店では濃過ぎて味が分からなくなることもある。フードコートレベルだと〝食べ易さ〟を考えているのでそんなことはあり得ない。うっかり飲み物をオーダーすることを忘れてしまったものの、メインディッシュは私的に〝Excellent〟なお味だった。<br /><br />食事を終えお腹も満腹、お土産も数を勘定して必要数を確保したことを確認し、いよいよ今日のラストランに挑むことにする。勿論ある程度はナビ頼みだ。しかし利用している車種が違うとナビの示すルートも変わってくる。検索条件に〝一般道〟と〝渋滞回避〟を入れておいたらいつもとは違い〝与那原〟を経由するルートを示していたようだ。夜なので景色を楽しむこともできないが、未だ宿泊したことのない〝ユインチホテル南城〟近くを通過し、いつか宿泊予定に入れてみようと思いながら快走し、奥武島入口交差点まで来ればもうすぐだ。島へと渡る奥武橋を渡り切って左折すれば奥武島の周回道路となり、数分で1年ぶりとなる〝ゲストハウスりゅうかく〟に到着する。<br /><br />21:48というのは非常識な時間なのかも知れないが、夕食を外で済ませて来ないといけないから仕方がない。まぁオジィとオバァには許して貰っているので毎年のことにはなっている。201号室シングルルームは昨年同様だが、お茶目な光子おばぁは〝さて今年は何が変わったでしょうか?〟と謎掛けをしてくる。ただ泊まっているだけじゃないよ~と昨年の写真を見ながら違いを探す。今年はすぐに分かった。シャワールームが広くなったと感じたので、昨年の記録を確認するとシャンプー等がタオル掛けにぶら下がっていた。ただそれだけだったのだが、限りあるスペースをいかに有効活用して快適に利用できるかを考えているおふたりの〝探究心〟には脱帽するしかない。車での移動も歩いた行動距離も大した物ではなかったが、慣れない南国の雨の中体力をかなり消耗しており、シャワーを浴びたら即ベッドイン…zzz。そしてついに明日は帰る日となってしまった…。<br /><br />  《翌日に続く》

《2019.June》あみんちゅ令和を迎えたTHE DAY IN OKINAWAを訪ねる旅その四~74年の月日編~

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2019/06/23 - 2019/06/23

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たかちゃんティムちゃんはるおちゃん・ついでにおまけのまゆみはん。

たかちゃんティムちゃんはるおちゃん・ついでにおまけのまゆみはん。さん

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《2019.June》あみんちゅ令和を迎えたTHE DAY IN OKINAWAを訪ねる旅その四~74年の月日編~

明けて6月23日日曜日の朝を迎えた。いつもならば追悼式前に立ち寄る場所を作っており、それをこなすためにバタバタとした出発するが、天気が思わしくないためになかなか行動に移せない。そのため〝濃い〟宿泊客のおじさんと話しながら時間を潰し、追悼式に間に合うように出発することにした。

のんびりと出発したためにシャトルバスへの乗り換え場所も、もっとも宿から近い沖縄清明の丘公園を利用するが、到着時間が遅かったのか一番海側に車を停める羽目になった。今更愚痴っても仕方がないので歩いて行くが、参列者も少ないのか待ち時間なしでシャトルバスに乗車でき一路平和祈念公園へと向かう。会場に着いても天気の影響か人数も少ない感じは受けるが、やはり式典会場付近はそれなりに人だかりが出来ていた。

式典の推移は別章に記述したのでそちらを読んで頂くとして、通常ならば式典終了と同時に解放されるテント下が早めに解放されたこともあり、そ知らぬフリをして報道エリアの後方まで進み、閉会宣言を待つことする。

式典中も雨がパラつく天候だったことからいつものようにのんびりとする訳にも行かず、早め早めの行動を心掛けなければならなかった。閉会宣言の後来賓の退出となるが、ここで意外なことを知ることになります。正午から1分間の〝黙祷〟時間に於いても報道陣は仕事という理由で誰も従わない…。これが〝式典会場の誠〟なのか…と思いつつも言って始まることでもなく仕方がないのかと考えるしかなかった。しかし定位置から退出する来賓を撮影した後の撤収のトロいこと。マジでお焼香待ちしている一般客に喧嘩を売っているのか?と思えるその様子にブチ切れそうになりました。祭壇にお焼香を並べる時間を加味しての行動かも知れないが、その様子から追悼の気持ちのないことが伝わって来たのも確かだった。

兎にも角にも準備が整った時には待ち列ができたので素直に並び、順番を待つことする。記録上では開始後3分でお焼香を済ませていることからも遺族を含む今年の参加者の少なさを痛感する。しかし参加をはしていても〝天気との闘い〟をしており私とてひとつひとつを振り返っている余裕はなく、お焼香を済ませると式典参加した少年少女の合唱団の集合写真と、平和の詩を朗読した山内玲奈さんの姿をカメラに収め一旦平和祈念公園からは撤収しようと考えていた。そして今テント下から出ようとした瞬間、先程宿で話し込んでいた濃いおじさと鉢合わせをする。あれ?式典参加はされないんじゃ…と尋ねたところ、追悼式の模様をテレビで見ていたところ突然映像が乱れたので何かあったのかと心配になり急いでやって来たとのこと。何もないですよ~と話していたところ、宿で話をしているうちに私の話があくまで中立の立場を貫いた上での持論だと見えて、話をしてみたいと思ったと聞かされました。

このThe day沖縄に訪れる者の多くは、沖縄での多数論である〝軍が悪い〟と決めつけているだけで、なぜ?と聞いても回答を得られない方々が大多数だったという経験がある中で、軍という〝組織〟はともかく、その組織を構成する10万人を超える個々の〝兵士〟のことを十把一絡げに言うことは間違っていると反論した私が、敢えて左翼思想的な考えを持つ宿泊客が滞在するみん宿ヤポネシアに泊まりに来るのか?という気持ちもあったようだ。勿論その場での軽はずみな発言をされる方ではないため〝それっきり〟になるとしか私も思ってはいなかった。また〝自分自身の想い〟を持ってこの日に沖縄を訪れている方々に敢えて不愉快な思いをさせる必要はないということを心掛けていることもあった。

わざわざ会場まで足を運んで頂いた上に持ち上げて頂いたことに対し、自分の考えを述べてみた。〝過去は過去〟〝未来は未来〟と分けて考えることは〝夢物語を語るに過ぎない〟、それは沖縄戦に限らず戦争が〝権力と利権〟絡みの争いである以上、過去の〝過ち〟の部分を分析した上で〝未来〟に繋げていかなければならないことを、既に証明されている〝史実〟を引用して解決するのが私の考える〝平和論〟であり、〝空想論〟や〝理想論〟が蔓延る現在に於いて、次世代に〝何を伝える〟のかすら曖昧なまま流していることを危惧しているだけに過ぎないと本心を語った。やはり〝極めて中立な立場だった〟とは言って頂いた。残念ながら置かれている立場や個人の持つ〝知識〟には大きなばらつきがあるのも確かであり、故に戦没者遺族としては身内が悪く言われることに対し反論をすることも普通のことであると考えている。しかし〝空想論〟や〝理想論〟で塗り固めた〝平和論者〟は元を辿れば同じ考えに基づいて派生しているにしか過ぎないため、ひとつ反論したくとも反論できるだけの知識を持つことは並大抵の努力では済まない時代になっていると伺った。

結局のところ都合の悪いことは見なかったことにして、都合の良いことを纏めると悪者を作ることはいとも簡単にできることである。しかし悪者を作ったからそれが恒久平和に繋がると安易に考えるには、あまりにもリスクファクターを加味していないのではと危惧する。結果としてこの考えでは将来に繋がるような解決論に繋がるとも到底私には思えない。史実に向き合い〝マイナス因子〟と〝プラス因子〟を中立な立場で抽出し、それを受け止めた上での是非論であれば、過去の過ちとされることが将来的にも生かせることができることに違いないと私は考える。

自らの子孫に〝戦争回避〟という術を伝えるのであれば、親世代が徹底論議して方向付けを残してやらないといけない…。〝綺麗事〟として片付けられてしまう机上の論議だけをいつまでも行うのではなく、戦争を回避するには過去の事象からどのような手法を取り入れたら良かった・良いのだろうという〝建設的〟手法こそが未来将来に渡って生きて来るのではないのか?というのが私の意見でもある。

こう言った話を書こうと考えてはいなかったが、追悼式への参列を考えて沖縄県は勿論のこと、日本いや世界各地から集まって来ている方々の中には〝沖縄戦〟という過去の〝史実〟を全否定をした上でこの追悼式を〝政治的・思想的〟に執り行われることを望まない方が参列している事実を4年前に初めて追悼式への参列をした際の出来事を記したことからも明白である。敢えて個人の考え方に是非論を言うことは控えている私ではあるが、史実として明確になっていることを意図的に〝語っていない〟のであれば、その出来事を〝事実〟とすれば都合が悪くなることがあるのかと勘繰りたくなるのが人間の深層心理でもある。

そして私も含め戦争を知らない世代が、その次の世代に戦争を語り継ぐには並大抵の努力ではできないと考えている。即ち戦後70余年を迎え非公開だったものが公開されるようになり、〝史実とされていた根拠〟が〝史実でなくなった根拠〟に変わることも大いにありうる話である。そういった〝直さねばならない〟部分も積み上げた上で語り継ぐのであれば、それにより〝目指すもの〟も変えなければならないことに繋がるやもしれない。目指すものを〝変えてはいけない〟のではなく〝変えてどうする〟ということを考えて行かねばならない時代になっていると私は思っている。

話の最後に憲法第9条の解釈論議の話が出ていたことを思い出した。これも確かに〝日本国憲法〟の平和主義条文に書かれていることには違いないが、意外にこの謂れを知らない方も多いようだった。そもそも憲法第9条平和主義は連合国極東委員会監修のもとで作られたものであり、天皇制維持に対するアレルギーを逸らすためとの意見も数多く存在しているのが事実である。所謂国体主義の下で戦争を仕掛けた大日本帝国、その日本軍統帥権を持つ〝天皇〟の名の下に於いて戦争を始めたとし、〝天皇制が存続すれば新憲法の下でも天皇の名に於いて戦争を始めることができる〟との解釈が、連合国や日本国内でも特に〝民間人〟の中に於いても数多く叫ばれていたということである。それを憲法第1条第1章に於いて天皇について〝日本国の象徴〟とし〝天皇の地位は主権を持つ国民の総意に基づく〟と定義付けることによって天皇制が続いても、総帥権を持たないために戦争を起こすことはできないと言っている。つまりポツダム宣言の受諾条件に付けられた〝国体維持〟、天皇制の存続を認めた上で第9条第1項平和主義に繋げているこじつけめいた部分である。戦勝国の立場からは降伏条件を守った上で、自らへ牙を剥かないことという表現を盛り込んだ〝連合国作成の日本国憲法〟と言っても過言ではない内容である。

また自国の定める憲法の外に国際法というものがある。その中にある〝戦争に関する国際法(戦時国際法)〟では、戦争行為そのものは原則違法化するも、従事する国家の政府に一定の権利義務が定められている。政府による〝宣言〟の下で戦いを始める〝権利〟が取り上げられている。全く同じではないが〝宣戦布告〟も宣言のひとつであるとされている。この中に出て来る〝交戦権〟は相手国が攻めてきたので迎撃したということも含まれる。しかし日本国憲法に於いては第9条第2項に〝戦力の不保持〟と〝交戦権の否定〟が示されている。

日本国敗戦という時期に於いて自らが生き延びることしか考えられない時代に、混乱と悲劇しか生まない戦争を敢えてする余裕もなかった上に敗戦国として軍政統治下で未来を考えることもなく言われるがまま作られた〝日本国憲法〟。勿論時代背景が変わらなければ考えることもないで良かったのかも知れない。しかし現在一触即発の状態となっている我が国に、70年余前の条文を守って安泰な生活が送れるのであろうかという懸念は昨今言われている通りである。本土決戦の場とされていた〝内地〟では実感が湧かない部分があるが、きな臭い出来事が日常起こっている南西諸島に於いては、やはり大きな不安要素になっていると私は思う。内地のようにワンクッション入る余裕のないところで主権たる〝民意〟はどう取り扱われているのだろうか?他人事のように聞こえるかも知れないが私自身はいつも不安に思っていることである。

これはひとつ持論ではあるのだが、沖縄に於いて米兵による日本人への〝凶悪犯罪〟の問題が起こっている。黙っていられるレベルはとうの昔に過ぎているが、それを〝日本人差別〟という根本的なものから起こっているという説である。憲法の下〝戦力の不保持〟の一文を誇大解釈をすれば、自国で守れない沖縄県民を守っているのは〝米軍〟であるとされても、反論できないところがある。戦力保持が認められず、精神論で戦いに勝つことができると本気で考えている者等今の時代にいる訳がない。言い換えれば沖縄の〝終わらぬ戦後〟は憲法の条文に拘り過ぎてしまっているがために起こっているのではないかと考える節もある。同じ敗戦国でありながら沖縄のような問題が起こっていないイタリアやドイツ、何が違うかというと〝軍の保持〟の有無である。両国に於ける米兵が罪を犯した際は、米軍基地に於ける現地警察の立ち入りや逮捕権も普通に認められている。しかし沖縄ではそうは行かない。重罪を犯しても基地経由で本国に戻ってしまったら…ということが今なお続いている。結局のところ〝地位協定の見直し〟を何故しないのか?ということになるが、しないのではなく〝できない〟のであろう。特権階級の米兵が、今なお続く戦時統治下の沖縄県民に対して同等の立場だと思っているのか明らかにして貰いたいところである。

結局のところ好き好んで戦いをするのは一部の〝利権〟に拘る独裁者であり、戦争をするために駆り出された兵士が同じような解釈をしているとは考え難い…それが第二次世界大戦やその後の戦いの特徴であると常々考えている。敗戦によって憲法に〝平和〟という文字が刻まれるようになったのも事実である。しかし言葉や文字だけの〝平和〟に拘り過ぎて沖縄をはじめとした米軍基地がある街での〝地位協定改正〟を妨げているのもまた〝国民〟であるように思えてならない。言葉を変えることに異論を唱えるのであれば、どのようにすれば凄惨な事件が起こらずに済むようになり、どうすれば争いを〝仕掛けてくる国々〟に対抗できるのかを分かりやすく論じて貰いたいと常々思っている。分かり切ったことではあるが、令和を迎えた今日、70余年前の兵士という人間が犠牲になる〝白兵戦〟など起こり得る訳もない。現実は核弾頭を搭載したミサイルが飛来して来ることでしかない。無人兵器を相手に〝精神論〟は役に立たない。非力な人間の力でどうこう出来るわけがない攻撃に対して、無抵抗で着弾を待って滅びるのが日本民族の考えなのだろうか?

長くなったがそんな話をして濃いおじさんとは別れることとなった。慰霊の日を狙って来沖する方は十人十色の考えや行動を持っておられるのが当たり前。偉そうに言う訳ではないが私とて例に漏れないであろう。しかし降り止まない雨が全てのやる気を奪ってしまう今年の慰霊の日、取り敢えずは仕切り直しをすべく駐車場へと戻ることにする。今年利用した沖縄清明の丘公園は、洋風の洒落た建物はありますが実は墓地である。沖縄といえば戦時中にも隠れたりして本来の目的とは違う使い方をされた〝亀甲墓〟が有名だが、最近では内地と同じくお洒落な墓石も増えてる。全く一緒とは言わないがうちのお墓と感じが似ているお墓を見つけたので記録した。死者を尊ぶ考えに変わりはないが、やはり墓石にもブームはあるようだ、ハイ。

改めて沖縄清明の丘公園の写真を撮っていると、珍しいバスがやって来た。都市部では当たり前のノンステップバスだが、路線投入されているバスは多くが内地の中古なので、ノンステップ車両は珍しい。ただ都市部の現役車両がオートマチックであるのに対し、どうやらミッション車の様子。どうやら公営バスで整備に手間が掛かるとの理由でオートマチック車に入れ替わった車両が投入している様子。久しぶりに乗って(運転して)みた~いと思う私は物好きなのかも知れない(笑)。

時間は天気が悪くとも過ぎて行くのでので先を急ぐことにする。みん宿ヤポネシアに何回宿泊しているの?と聞かれると困るくらいの回数は宿泊しいるが、近くの大度海岸には行ったことがなく、ナビが場所を特定できないために地図だけ利用して向かおうとしたものの、慣れないナビ故車が通れるかどうかは行ってみないとわからない。そんな理由で大度集落で暫し迷子になった後に入り口そのものが違うことに気づき、やっと到着することができたにわか方向音痴の私だった。

この大度海岸はシュノーケリングなんかでも有名な場所だが、もうひとつ幕末に乗り組んだ漁船が転覆し、救助された米国の船に乗ってアメリカに渡り、語学を会得して幕末~明治維新にかけて日本が諸外国と結んだ条約の締結の際に通訳として参加した〝ジョン万次郎〟が帰国して最初に上陸した場所でもある。その功績を称えるべく〝ジョン万次郎上陸記念碑〟なるものが昨年平成30(2018)年2月に建立されていた。〝ジョン万ビーチ〟の呼称は私が沖縄に入り浸り始めた頃にはありましたが、意外にも整備されたのは新しいことを知りびっくした。銅像の帽子を被ったジョン万次郎が指差す先には故郷の土佐清水市だと言うこと。ストーリーを作り過ぎている感は否めないものの、たまたまアメリカから持ち込んだ〝アドベンチャー号〟で上陸したのが大度海岸だっただけであり、活躍の舞台は土佐に戻ってから始まったことを考えればわかるような気がする。界隈の海岸へと続く道を見ながら150年前にジョン万次郎はこの道を〝通ったのかも知れない〟なんていう妄想を膨らませるのも楽しかった場所でもあった。

天気が良ければ景色も良いのかも知れませんが、小雨がバラつく天気で…ということで次の目的地を目指すことにした。米須霊域は沖縄戦後初の慰霊碑である魂魄之塔を中心とした慰霊碑が集まっている場所であるが、今回は便宜上〝閉館時間〟のある施設から訪れることにする。

一年間で今日沖縄慰霊の日のみ開館している沖縄菩提樹苑、宗教が絡むと遠慮したくなる私ではあるが、沖縄戦という民間人を含む多くの人命が失われた場所という理由が考慮され、国外に持ち出されるのは2回目という門外不出の菩提樹に〝逢いたさ〟だけでここ3年間訪れている。沖縄という地で育てるのは難しいとされる菩提樹を枯らさないようにと植えた後に周りに作られた温室のような建物。その中心には〝聖なる菩提樹〟が元気良く枝葉を伸ばしている。菩提樹を沖縄に持って来た経緯の中で関わりが出来たらしいダライラマ14世も来日の折この地を訪れており足跡も残されている他、ブッダ所縁の無憂樹や沙羅双樹の木も植えられており、沖縄の〝小インド〟にいるような錯覚をする。煩悩の塊である私が、暫し〝無〟になれるのはやはり〝本物〟だけが発することができるオーラによるものだと不思議に感じることがある。今年も出会うことができたという〝達成感〟を感じながら沖縄菩提樹苑を後にした。

そして魂魄之塔。沖縄戦終戦後に米軍政府が住民達に農作物を作らせるべく真和志村民を摩文仁村に強制移住させた。農地として開墾させようとした場所は今の米須霊域と呼ばれる場所であるが、この地は沖縄戦沖縄島最後の激戦地として多くの人命が失われた上に、その遺骨が放置されていた場所でもあった。つまり土を掘れば必ず遺骨が出てくる場所であったということになる。農作業を続けるにも身内の中に戦没者がいる者達にとっても遺骨をそのまま放置することは決して望ましいことにならないことは明らかであり、金城村長は米軍政府に幾度となく遺骨を集めて慰霊碑を作ることを具申しているものの、軍政府には敵であった兵士の遺骨を集めて作られる慰霊碑は反米の象徴になることを恐れ、なかなか許可を与えなかった。しかし出てくる遺骨をどうにかしなければ復興作業も進まないという現実を目の当たりにして渋々許可を出し、払下げという形を取ってセメント等の資材も提供している。

魂魄之塔建立を指揮した真和志村長金城和信氏、長きに渡り沖縄での教育者として尽力されてこられた氏は、沖縄戦に於いて学徒隊として従軍した娘2人を失っている。子供に先立たれたことだけでも身を削られる思いだったと想するが、その想いこそが無造作に散乱している遺骨を放置出来ないという信念に繋がっていることは容易に理解することができる。結果として金城村長が先頭に立ち、住民達の力を借りて1,300余柱の遺骨を集め昭和21(1946)年2月27日に〝魂魄之塔〟と命名された碑が立てられた納骨所が完成した。その後も遺骨収集は続けられ、最終的には3万5千余柱とも言われる遺骨が納められたと言われている。

その後琉球政府により那覇市識名に設けられた〝戦没者中央納骨所〟を経て、摩文仁の丘に設けられた国立沖縄戦没者墓園へと多くの遺骨は移動し現在に至っている。また金城村長は魂魄之塔建立の〝思い〟をひめゆりの塔・沖縄師範健児之塔建立時にも込められており、現在の立派な両慰霊塔とは程遠いものの、資材のない時代に於いて『どうやって作ったのか?』という物を完成させ、70余年経った現在でもその姿を見ることができることはありがたいこと以外になにものでもない。金城先生は沖縄の塔とも解釈できる〝魂魄之塔〟をはじめとする初期の慰霊碑建立に多くを語っておられないが、その偉業を伝えるべく魂魄之塔隣に〝胸像〟が建立されて現在に至っている。なお〝魂魄之塔〟を〝沖縄の塔〟と表現したが、金城先生の考えに〝沖縄所縁の戦没者〟を祀るとは一言も書かれてはおらず、出身・所属を抜きにした〝沖縄戦戦没者慰霊碑〟というのが本来であろうと私も思っている。しがし慰霊の日には朝から多くの人が訪れる場所として新聞やニュースでも報道されていることから敢えてここでは〝沖縄の塔〟という表現を用いている。

魂魄之塔界隈には〝都道府県慰霊碑〟がいくつか建立されており、大分の塔(大分県)・北霊碑(北海道)・大和の塔(奈良県)・紀乃國之塔(和歌山県)・島根の塔(島根県)・讃岐の奉公塔(香川県)・ひろしまの塔(広島県)、そして少し離れた場所に東京の塔(東京都)・因伯の塔(鳥取県)がこの地に建てられた。また学徒隊関係のものとして〝開南健児之塔〟、軍関係のものとして〝有川中将以下将兵自決之壕〟がそれぞれ建立されている。

都道府県別慰霊碑と開南健児之塔は別章で述べているためここでは割愛し、〝有川中将以下将兵自決之壕〟に絞ることにする。

米須霊域に於いて〝違和感〟として語られることが多い〝有川中将以下将兵自決之壕〟の碑。軍人を祀るものとして建立されていることがそう言われる所以だそうだが、実際魂魄之塔の周りには個人の墓や慰霊碑という物も建立されている。また〝刻銘者無〟の碑が多い中で、丁度第32軍司令官牛島満大将以下幕僚が摩文仁の丘で自決した頃、歩兵第64旅団長有川主一中将以下司令部将校が自決している。その場所が碑の隣にある縦穴(ドリーネ)下部にあるガマであったがために平地に於いて〝有川中将以下将兵自決之壕〟が後に建立された。

確かに兵卒や民間人の戦没者に於いて〝戦死場所〟が特定できた者の少なさを考えると、最期の地がわかっていることに対する思いはあるだろう。ただそれを十把一絡げにして〝場違い〟と評するのは如何なものかと思えてならない。有川旅団長の娘さんが碑の永代管理の締結をされたことが碑に刻まれているが、そこにはやはり〝父親〟としての像が浮かんでくる。立場というのは千差万別ではあったが、固定観念だけでその存在を否定する〝浅はかなこと〟は慎むべしと痛感する碑であった。今日の慰霊の日には花を手向けられた方もおられたようで、いつもとは違う印象を受けた〝有川中将以下将兵自決之壕〟の碑であった。

そして米須霊域を出立し、梯梧之塔へと向かうことにする。途中の〝ずゐせん之塔〟と〝ひむかいの塔〟にも立ち寄って手を合わせることは忘れない。そして毎年利用している〝ひめゆり観光センターでいご〟の駐車場へと車を停め、梯梧之塔へと向かうことにする。到着時間が遅くなったため、慰霊祭を行っておられたスタッフ氏達は既に撤収されていたが、天候が悪いために全体的に参列数が少ないと言われていた今日の日に多くの花が手向けられていたことにはホッとした。

次いで閉館前に到着できた〝ひめゆり平和祈念館〟を駆け足で回ることにした。こちらも既に〝ひめゆりの塔〟前の慰霊祭壇は撤去されており、花のリサイクルといった不愉快なシーンを見かけることもなかったのが逆に良かったと思う。30分強の時間で回ってきたのは、やはり天気がしっくりこないことが原因だった。界隈では一番人が集まっていた〝ひめゆりの塔〟でも人の流れを見ていても引き上げるのが例年になく早いように思える。マイペースにしか進まない私ではあるが、人の流れに影響もあったのか最後に沖縄県営平和祈念公園へと戻ることにする。

珍しく平和祈念館への通路が開放されていたので、雨の中少しでも歩く距離を減らそうと行ける場所まで行ってみるが、スペースが無くいつもの公園駐車場を利用することにした。シトシトと降る雨の中、初めて園内バスを利用した。以前は一日中利用して100円で慰霊の日だけは1乗車あたり100円であった。しかし全てが値上がりしている時代に於いていつの頃からか普段から1乗車当たり100円になっている。Δ89高地と呼ばれていた摩文仁の丘、即ち標高89mとなる訳だが、公園から歩くには急な坂があり、体力がなければかなりキツいものでもある。今までは休憩を入れながら頂上まで歩いていた。しかし雨天だと休憩できる場所も限られるとあって不安が残る。そんな中で公園売店付近に停車している青いバスを発見した。〝ゆいバス〟という糸満の貸切バスを運行している会社だが、慰霊の日は園内バスの運行を請け負っているようだ。バスを見た瞬間〝歩くのやめ!〟と気持ちを切り替え、乗車する旨を伝えて車内に落ち着いた。運賃100円は料金箱が置かれており、ドライバー氏は触れられないようになっているようだ。日本に於ける旅客運送に関する法律のややこしさそのものであり、小銭がなければお釣りが出せないので〝乗車できない〟ことになってしまう。そういう場合はどうするのかわからないが、利用者の便宜を図るべくバスが投入されているのに…という思いが残る。

蘊蓄はさておき私の乗ったバスはハザードを点けたまま恐ろしくゆっくりとしたスピードで走って行く。途中のバス停から乗車する方も結構いた。やはり雨の影響だろうと思わせる乗車の様子、運賃を慌てて用意する姿からも容易にわかることであった。

私は摩文仁の丘の最も標高の高い場所で下車する。勿論バスが行くことができる場所ゆえに〝しづたまの碑〟付近迄となる。そして先ず最初に向かったのは摩文仁の丘で最も新しい慰霊碑である台湾之碑だ。第二次世界大戦中日本の植民地であった台湾からも多くの台湾人が日本兵として戦い、そして故郷を再見することなく斃れた史実がある。日本の各都道府県が建立した慰霊碑、そして台湾と同じく植民地支配をしていた朝鮮半島でも韓国人戦没者慰霊碑や青丘之塔等が建立されている。しかし戦後の国交問題等により台湾人の慰霊碑は建立されて来なかった。台湾にとっては悲願だった慰霊碑の建立は、空華の塔管理者である〝沖縄翼友会〟の土地の提供に始まり現在の地に建立されることになった。碑の竣工時の式典には元中華民国総統であった李登輝氏が高齢にも拘らず参列している。従軍経験のある彼にとってはやっと念願が叶ったという気持ちが大いにあったことは容易に想像できる。慰霊碑建立を純粋に〝戦没者慰霊〟という意味合いで捉えている台湾の人々や関連の方々の姿が当時の様子からも伺える。屈曲した歴史観を与えずとも台湾之塔には今後祖国の英霊を慰霊するために多くの観光客も来るであろう。そんな気持ちが素直に伝わってくる慰霊碑であるからこと、私も素直に手を合わせることができたのであろう。

現在沖縄での平和教育に於いて、半島戦没者の慰霊碑を題材にしたことを押し付けのように利用している節がある。そのことが戦争を知らない世代に日本が悪いことをして補償もしないかの如く誤解を与えている。勿論徴兵を行ったのは事実であり、そのことをもみ消そうとするのは如何なものかと逆に思うのだが、そんなことを日本国政府も言っている訳ではない。しかし1965年12月18日に効力を発した〝財産及び請求権に関する問題の解決並びに経済協力に関する日本国と大韓民国との間の協定〟をどう説明するのだろうか?署名をした〝李東元〟は大韓民国を代表したのではないのか?個人の請求権は消えていないというが、ならば〝漢江の奇跡〟に費やされた5億ドルは本来ならば徴用工や慰安婦となった国民への補償金の〝横流し〟だったのかと言い訳するのかどっちだ?と歴代の大統領に問いたい。当時の大韓民国国家予算の1.5倍近い補償金の行方を説明できなければ国民を裏切り続けてきた〝尻拭い〟を日本に押し付けようとしていると言われても仕方がないであろう。結局事実関係を知らない韓国国民と、不正確な史実を教わった日本国民との啀み合い。それが両国の関係悪化に繋がって何の利益を生むのか私は知りたい。その様な政治の闇に慰霊碑が利用されることを戦没者が望んでいる訳がない。そんな都合の良い理由で作られてはいない台湾之碑だからこそ、建立されたことを素直に喜び、雨の中であっても訪れて手を合わしたいと考えた私は間違っているのだろうか?

まあ私の思いはさて置き、台湾之塔には参拝できた。そして空華之塔、飛行第十九戦隊特攻之碑、ダバオ之碑、義烈空挺隊之碑、しづたまの碑、樺太之碑、安らかにの各慰霊碑を回った後勇魂之塔へと向かう。碑の建立されている付近は高マブニグスク跡と呼ばれる場所であり、三山時代の摩文仁按司が勢力に陰りの見えた南山を見限り第一尚氏に付いたとされる伝承はあるものの委細は不明とされている場所である。しかし平和祈念公園が整備された今日、公園一帯が望める場所としてガイドブックにも景色の写真が掲載されている場所でもある。グスク跡向かいに建立されている〝勇魂之碑〟は第32軍司令部戦没者慰霊碑である。決して司令官と参謀長だけを祀っている訳ではないことは誤解のないようにしたいものだ。

更に上を目指すと沖縄師範健児之塔へと向かう下りの階段を超えると摩文仁の丘頂上に至り、黎明之塔が聳えている。第32軍司令官牛島満大将と参謀長長勇中将を祀る慰霊碑は、サンフランシスコ講和条約の効力発生後の昭和27(1952)年6月に当初の碑が建立されている。戦後沖縄に米軍基地を作るにあたり多くの労働者が沖縄の地にやって来た。その中には元部下もたくさんおり、元部下や沖縄の関係者、そして沖縄仏教会の協力を得て作られたものと言われている。摩文仁の丘では最も早い時期に作られた慰霊碑であるがために、沖縄戦を泥沼化させた軍首脳の慰霊碑が最初に作られた上に摩文仁の丘頂上から見下ろす位置に建立されたのかという否定論が多かったようだが、その他の将軍閣下と呼ばれる立場だった高級将校の遺骨収集が行われたのがやはり同時期に始まっていることから、日本が復権するまでできなかったことを表している。魂魄之塔建立時でも軍政統治している米軍から許可が下りなかった史実。司令官ともなると、慰霊碑が反米思想の中核となることを恐れていたと言っても過言ではないだろう。慰霊碑が思想的抵抗の中核にならなくなったとされる頃の昭和37(1962)年10月に南方同胞援護会の助成により現在の碑に改修されたのは、都道府県別だが慰霊碑ラッシュとなった時期に被っている。結局のところ〝沖縄戦全戦没者記名碑〟とされる平和の礎の建立が平成7(1995)年6月であるのに対し、黎明之塔が40年も早く建立されだという事実があって、その差を掻き立てているものが多々あるからではないかとも感じられる。しかしながら一般的には先程記した〝沖縄戦全戦没者記名碑〟という但し書きには一部例外が含まれており、沖縄出身者に関しては満州事変から終戦後の昭和20(1945)年9月までの戦没者に加え、南洋群島や満洲などの移民先に於いて戦災に巻き込まれて亡くなった方、疎開船など船舶事故や目的地となった疎開先での戦災死、原爆による被爆死までも記名対象者となっている。故に実際の沖縄戦戦没者数とは異なっているのが事実である。20余万名と言われる沖縄戦の戦没者に対し平成30(2018)年9月現在の平和の礎刻銘者数が24万1千余名である〝差〟こそが正しく沖縄戦全戦没者数以外の戦没者数となる訳である。無論この考え方を否定する気は毛頭ないが、どこまでの戦没者を対象とするかは論議にかなり時間を費やしたと言われている。2名と20万余名を対象にするだけでもその過程に大きな差ができるのは明白である。基本日本人の考えでは多くの者の目に触れる場所に名前を刻むことに抵抗があり、広島の原爆死没者名簿への搭載確認をするのに死没者遺族・親戚に限るとされていることからもわかるであろう。勿論全ての者が同じ考えを持っている訳ではなく、特に一家全滅した家族であれば、その生きた〝証〟が平和の礎への刻銘と考える親戚もいる筈である。平和の礎は新たに判明したというよりも刻銘を希望したために追加されているものが多いと聞いている。これが今なお〝未完成〟なままの〝平和の礎〟と称される所以であるが、多くの対象者を同等に扱うにも無理強いをすることはできない。そう言った考えのもとで作られたならば建立が遅れた理由になるのではないだろうか?実際リーダーの牽引力によって渋る米国軍政府を動かして作られた魂魄之塔をはじめとする〝沖縄戦戦没者慰霊塔〟は、戦後一年以内に完成しているのは紛れもない事実である。

半ばこじつけ感もあるが慰霊碑の建立は許可を得るという点でもなんでも認められるものでもなかった。ゆえに対象者と慰霊する目的がはっきりしていなければ、沖縄の本土復帰前には建立することが難しかったことから建立時期の早い遅いが出てしまった。ただそれだけのことである。決して軍での位の高さや人物を選り分けてやったことではないことを建立の碑文を改めて読んで改めてそう感じた私だった。

摩文仁の丘頂上までやって来て目的を遂行することができたが、夕暮れ時になって再び雨足が強くなって来た。雨に祟られた今回の沖縄の旅だったため体力の消耗は5年間で最高レベルに達している。丘を下るのは歩こうかと思案しているうちにちょうど園内バスがやって来た。ひとりで行動しているとなぜか年齢相応に見て貰えないところがあり、バス停にいるにも関わらず〝乗りますか?〟とドライバー氏に尋ねられた。寸分違わず〝ハイ!〟と答えて乗車し、行きとは違うルートを辿って公園へと戻る。

ちなみに慰霊の日には平和祈念公園内に喫煙所は撤去される。それ以外の日にしばらく訪れていないためずっとなのか今日だけなのかはわからないが、いったん車へと戻って一服し、再び公園内を歩くことにする。島守之塔と栃木の塔、隣り合わせにある慰霊碑だが、戦中の沖縄に人生を捧げた沖縄県最後の官選知事である島田叡氏、そして沖縄県警察部長であった荒井退造氏をはじめとする沖縄県職員戦没者を祀る慰霊碑と栃木県出身の戦没者を祀る慰霊碑である。島田知事と荒井部長は識名霊園内のシッポウジヌガマ・轟壕という県庁壕が置かれた足跡を辿って氏の功績を知ってから毎年訪れている場所である。そして栃木の塔は他ならぬ私の祖父が祀られている都道府県別慰霊碑だ。平和祈念公園に来れば必ず訪れて一年の報告を行っている。残念ながら娘である母は平和の礎を訪れることなく亡くなってしまった。父親曰く〝行きたくなかったんだろう〟と冷たい言葉が返って来た。本心は今から知る由もないが、孫は雨の中今年もやって来たよと報告をする。そしてまた来年のこの日にやって来るよと挨拶をして、平和の礎の刻銘場所を尋ねた。刻銘場所を調べるパソコンは既にサービス提供を終了しているが、さすがにそんなものは必要ない。気の向くまま足の向くまま歩けばちゃんと到着する。ここでも出来の悪い孫ですが今年も来ましたと報告をする。

東京にある祖父のお墓に遺骨は入っておらず沖縄の石が代わりに入っていると母から聞いたことがある。しかしお墓は間違いなくあるために平和の礎を墓碑とは思ってはいない。あくまで祖父がこの地におり、戦死したという〝証〟にしか過ぎない。手は合わせるがお墓で行う作法はしない。なぜなのか?残念ながらお墓であれば祖父の名前以外は親族の名前が書かれているはずであり、もし同一部隊の戦友の名前が記されていれば〝お墓〟という認識も持つかも知れない。しかし平和の礎では〝同郷〟の50音順での戦没者名が前後に記されているため、戦死者名簿のようにしか思えなくなって来た。慣れなのだろうか?それとも事務的な刻銘の仕方が、色々な知識を得たことによって合理的に考えるようになって来たのかも知れない。ただ一番の理由は〝お墓〟であれば頻繁にも来れない場所であれば墓仕舞いをするしかないという現実を知りたくないのかも知れない。平和の礎に半永久的に名前が残るのはありがたいと思う反面、来る人が居なくなったら…という気持ちにもさせられる。黒御影石に刻まれた祖父の名前に、来られる間だけは間違いなく尋ねるからとしか言えなかった自分自身が悲しかった。

平和の礎の祖父の名前に挨拶を済ませ、平和の火へと向かう。晴れていれば夕方でも素晴らしい景色が堪能できる場所であるが、天候が悪いとこんなに冴えない場所なのかと改めて思う。二方向からの撮影を済ませ、平和の礎の碑をカメラに収めると車へと向かうことにする。途中の参道にはペットボトルキャンドルが並べられ夜になるのを待っている。しかしこの雨の中写真で切り取ってもインパクトが何もない。逆に敷石の色に同調してしまうために〝設置意図〟すら全く分からないものとなってしまった。これでは日暮れを待っても仕方がないと割り切って車へと戻り、食事とお土産購入のために〝サンエー西原シティ店〟を目指して出発することにした。

糸満から約20km離れた中頭郡西原町のスーパーである〝サンエー西原シティ店〟、仮に本日の宿泊先である奥武島までまっすぐ走れば9km。経由することにより約4倍の距離を走ることになる。ただ沖縄県を地盤にしたスーパーゆえ値段はお土産物屋で購入するより安く手に入る。私が購入するお土産の数など数知れているが、お目当てはやはり〝PVブランド品〟である。サンエーはニチリウグループに属しており、同系列の店舗は日本全国にある。我が街滋賀県ならば平和堂がそうであるが、普段使用する日用品や食品類はやはり割安感があることと見慣れていることから〝安心感〟があることも確かである。私は沖縄へ行く度にティーパックの〝さんぴん茶〟を購入している。中身は普通のジャスミン茶だが、さんぴん茶と書かれてあるだけで沖縄らしい物だと勝手に思っている。これに関してはイオンや土産物屋での価格調査をしてみたが、やはりサンエーが一番安かった。また広過ぎず狭過ぎずの土産物コーナーは〝前年には見てないもの〟という選択基準で選ぶ私にはちょうど良い売り場面積だと思う。

3階の屋内駐車場に先ずは車を停める。そして第一に腹ごしらえだがフードコートも充実している上に〝沖縄料理〟も手軽に食べられるとあって私的には非常に使い勝手が良い。今回は〝めん家〟でフーチャンプルー定食をオーダーした。敢えてフードコート?とは言われるが、コテコテの地の物を扱うお店では濃過ぎて味が分からなくなることもある。フードコートレベルだと〝食べ易さ〟を考えているのでそんなことはあり得ない。うっかり飲み物をオーダーすることを忘れてしまったものの、メインディッシュは私的に〝Excellent〟なお味だった。

食事を終えお腹も満腹、お土産も数を勘定して必要数を確保したことを確認し、いよいよ今日のラストランに挑むことにする。勿論ある程度はナビ頼みだ。しかし利用している車種が違うとナビの示すルートも変わってくる。検索条件に〝一般道〟と〝渋滞回避〟を入れておいたらいつもとは違い〝与那原〟を経由するルートを示していたようだ。夜なので景色を楽しむこともできないが、未だ宿泊したことのない〝ユインチホテル南城〟近くを通過し、いつか宿泊予定に入れてみようと思いながら快走し、奥武島入口交差点まで来ればもうすぐだ。島へと渡る奥武橋を渡り切って左折すれば奥武島の周回道路となり、数分で1年ぶりとなる〝ゲストハウスりゅうかく〟に到着する。

21:48というのは非常識な時間なのかも知れないが、夕食を外で済ませて来ないといけないから仕方がない。まぁオジィとオバァには許して貰っているので毎年のことにはなっている。201号室シングルルームは昨年同様だが、お茶目な光子おばぁは〝さて今年は何が変わったでしょうか?〟と謎掛けをしてくる。ただ泊まっているだけじゃないよ~と昨年の写真を見ながら違いを探す。今年はすぐに分かった。シャワールームが広くなったと感じたので、昨年の記録を確認するとシャンプー等がタオル掛けにぶら下がっていた。ただそれだけだったのだが、限りあるスペースをいかに有効活用して快適に利用できるかを考えているおふたりの〝探究心〟には脱帽するしかない。車での移動も歩いた行動距離も大した物ではなかったが、慣れない南国の雨の中体力をかなり消耗しており、シャワーを浴びたら即ベッドイン…zzz。そしてついに明日は帰る日となってしまった…。

  《翌日に続く》

旅行の満足度
5.0
観光
5.0
ホテル
5.0
グルメ
5.0
ショッピング
5.0
交通
5.0
同行者
一人旅
一人あたり費用
3万円 - 5万円
交通手段
高速・路線バス レンタカー ANAグループ JRローカル 徒歩
旅行の手配内容
個別手配
42いいね!

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