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《2019.June》あみんちゅ令和を迎えたTHE DAY IN OKINAWAを訪ねる旅その参~中部エリア周遊編・後半~<br /><br />来た道を戻って車へと戻り再訪となるチビチリガマに向かった。詳細は別章で述べているので割愛するが、金儲けの道具としてこの場所を利用している自称平和ガイドの浅ましさには閉口するしかない。<br /><br />ガイドの話に飽きている若者の姿を記録するのも良かったが時間が勿体無いので場所を変えることにした。さとうきびの唄の歌碑、これもガイドブックに載っているメジャーな場所である。ただその反面なぜ?が少なからずあるものでもあるようだ。作詞作曲をした寺島尚彦氏はサトウキビ畑の下に眠る戦没者の魂を歌にしようとしたのは、南部糸満でのことだったとしている。確かに現在の糸満は電照菊の方が知られており、サトウキビ畑と言われてもピッとこないようにも感じるが、やはり現在の場所は米軍上陸地点であり、サトウキビ畑もある上に海も見える絶好の場所なのかも知れない。歌碑が建立されたのは寺島氏が逝去した後のことでもあるため、やはりビジュアル的なものから選ばれたようにも思う。ただこちらも碑を建立したまでは良いが維持の点では難がある。ボタンを押すと流れるはずのオルゴールが鳴らない状態であった。これには私だけではなく昨今この地を訪れた方々全てがボヤいていることから、結構な期間放置されているように思えてならない。碑を建立するにはライブや寄付を募ったりして浄財を集めたと記されているが、それを蔑ろにしているように思えてならない。最初だけならば記念碑のようなものにしかならないと考えれば、やはり先行きの見通しが甘かったと言われても仕方がない。作ることではなく、建立当初のステータスを維持することが大切であり、ドラマのインパクトを伝えるものであってはならないと言うのが私の考えです。晴れていれば眺望が素晴らしいのかも知れないが、小雨のパラつく今日であれば・・・と思いつつ車へと戻ることにした。<br /><br />次も未だ辿り着いていない場所のひとつであるシムクガマ。委細は別章で述べているのでアウトラインだけを記す。多くの犠牲者を出したチビチリガマと全員が助かったシムクガマは良く比較される。直線距離にすると1km離れてはいないが、詳細な位置データも少ないために辿り着かなかった。今回はGoogle mapを参考にするが、基本ガマ入口迄は車では行けないためにそのガマへと続く道を探す。ただ現地にはシムクガマ入口を示すものはない。マップを頼りに車を停めて歩くのだが、たまたまシムクガマを探している(らしい)方が居たため、お手並み拝見と車を停めてしばし様子を伺う。その時には車を降りてすぐに戻って来たように感じたため、すぐ近くだと誤解し同じ道を歩き始めた。しばらく進むとやっとシムクガマと書かれた標識を見つけることができた。もうすぐだと思ったのは甘かった。皆無手入れのされていない道は雨水が流れている状態であった。流水のために表面の砂が流れてしまっており、粘土質の表層が剥き出しになっていた。言うまでもなくこの状況で進むのは、一旦滑るとどうなるかわからない。スキーの谷足を心掛けて慎重に歩いて行ったがやはり足を滑らせた。コケるまでにはならなかったが、枝を掴もうと手を伸ばした瞬間、なぜか右手で持っていた車のキーを反射的に投げてしまった。フル込みプランのレンタカーはぶつけても自己負担はないが、唯一鍵を返せなければ返車扱いにはならない。焦る。しかし焦れば焦るほど見つかるものも見つからないので深呼吸して落ち着かせる。確か地面に落ちたような音はしなかった。枝に引っかかっているに違いないと目を凝らして見つめること数分・・・、あった!赤土の粘土質だった故に色の違いがきっかけとなった。わずか数分の出来事だったが私にとっては数時間に思えた出来事であった。<br /><br />この一件がシムクガマに向かうなと暗示しているように感じたが、戻るにも足場が悪過ぎる。ならば行くしかないと気を引き締めて進むことにした。まもなく大きな口を開いた洞窟が見えてきた。中には石碑が建立されており、その様子は写真で見たことがある。シムクガマに辿り着いた瞬間である。<br /><br />1,000人もの住民が避難していたことからかなり大きなものである。ガマ内部にしてはいけないと記されているものはないにしても、雨の影響でガマの奥へと流れる川は見るからに水量を増している。無理をしてガマ体験をして行方不明になったら死者の出なかったガマでの死者となれば洒落にもならない。住人が投降したのは4月のことであり、梅雨明けしていない6月とは比較はできないが、不快指数MAXの状況下で訪れることが出来たのは、沖縄戦末期にガマに避難して息を殺し、砲撃の止む時を待っていた史実をを追体験できたように思えて貴重な体験となった。ただひとつ気づいたこととしてシムクガマに繋がる道には人が歩いた痕跡がなかった。私の先に到着して行ったお兄さんは、滞在時間から見ても途中で引き返しただろうと思う。しかしチビチリガマで出会った若者達がもし訪れているのであれば、足場はもっと荒れていたはずである。引率のガイドは危険と判断した場合、目的地を変更することがあると書かれている。体験者からすると間違った選択ではないが、シムクガマの出来事は過不足なく教えなければいけないことだと考えている。戦跡として真逆の結果を生んだふたつのガマ。そのことを聞いて見で考えて自らの思いを心に刻みつけることが必要だと改めて思う。<br /><br />ガマで一息ついたと思うとすぐに出発。慎重に悪路を踏みしめながら歩いて行く。何故かここで学生時代に学んだ歩行分析のことを思い出し、健常者の歩行歩行パターンではなく片麻痺独特の歩き方を真似しつつ歩いて行く。帰りは流石にコケはしなかったが靴とズボンの裾は土で汚れており、車のマットに足型が付いてしまった。とはいえどうしようもないので濡れた足元を乾かすためにエアコンをフル稼働して一休みする。そして中断したチビチリガマへと再度向かい、人がいなくなった中で数年前の破壊事件によって変わったものを中心に見て行った後に新たな場所を目指して走り出した。<br /><br />読谷村掩体壕、日本軍指揮の元國場組が作った戦闘機等を隠したかまぼこ状のコンクリートの建造物は、当時の北飛行場の北の端に作られた。重機もない環境で県内すべてから招集した住民達の手で昭和19(1944)年6月に完成した。完成当時は南方へと向かう船団の護衛任務や中継飛行場、そして沖縄戦に投入される兵員の輸送としての意味合いが強く、戦闘機が配備されていたにも拘らず敵機迎撃は十・十空襲の時位だったと言われている。また十・十空襲の際には迎撃はしたもの、爆撃の標的にもされており、全滅に近い被害を受けている。飛行場は突貫工事で直されるもその後の基地利用に関して航空特攻隊の配備を巡り大本営・航空軍と第32軍の意見が合わず平行線をたどり、米軍上陸が確実となった昭和20(1945)年3月30日には第32軍によって破壊されることとなる。その後上陸した米軍が沖縄北飛行場を接収し読谷飛行場として利用を開始した。<br /><br />その飛行場破壊を目的とした陸軍の精鋭部隊が投入されることが決まる。義烈空挺隊、所謂コマンド部隊である。昭和20(1945)5月24日熊本健軍飛行場を97重爆12機で沖縄北・南飛行場を破壊すべく旅立った義烈空挺隊。途中帰還機も到達前に撃墜された機もあれど強行着陸を遂行した機もあった。飛行場はパニックになったようだが、空挺隊員や輸送を担当した第三独立飛行隊員は玉砕。そして戦果は翌朝までの飛行場閉鎖に留まった。戦略の是非は結果論と後世に於ける取り方の問題だと思うが義烈空挺隊の沖縄特攻を大本営は最初渋ったと言われている。エリート部隊は本土決戦に温存すると言う説だ。確かに特攻がなければ、部隊の玉砕もなかったかも知れない。第三独立飛行隊操縦士のレベルは非常に高いものであり、海面すれすれに飛ぶ技術訓練では暫しプロペラが海面にぶつかって破損した記録が残っている。しかし空挺隊員を飛行場に送り届けるために低空飛行をした結果8機重爆機は対空砲火の餌食となるものも多く、強行着陸が確認された1機も操縦士は既に息絶えていたと米軍の記録には残っている。人命を武器に変えた特攻でどれ位の戦果が上がったのかは今更言うまでもない。沖縄では軍イコール軍を構成した軍人も悪いと言うが、果たしてそうなんだろうか?戦闘に巻き込まれて犠牲になった住人に対しては掛ける言葉が浮かばないが、自分自身のひとつしかない命をかけて特攻隊として敵艦に向かった兵士一人一人もまた同じではなかろうかと思うところもある。職業軍人ならばまだしも赤紙で家族を残して徴兵された一般市民が兵士となり、戦場で戦ったことを軍人だからと十把一絡げに表現することが戦没者遺族に対してどれ程辛いことを言っているのかを改めて考えて貰いたい。<br /><br />話は戻るが残念ながら義烈空挺隊の特攻は、考えられていた程のダメージを与えることはできなかった。しかしこの果敢な攻めは陸上自衛隊のエリート集団に位置付けられている空挺隊に引き継がれて現在に至っている。その姿をあの世の奥山・諏訪部の両隊長が、自分達の精神は引き継がれていると感じでいれば、その玉砕の場所とされる地碑の存在も移設はされたが意味をなすように思えてならない。一見して質の悪そうな掩体壕と義烈空挺隊玉砕之地碑の木標を見ながらふとそんな気持ちになった。<br /><br />色々考えたいこともあったが時間の関係もあり、先へと進むことにする。すぐ近くにある忠魂碑のことである。沖縄県の中でも特に反戦運動の活発な場所として名前が挙がる読谷村。そんな背景もあるのかと感じるのがこの忠魂碑である。昭和10(1935)年の建立であることが最近の調査で判明したそうだが、実はこの忠魂碑も移設されたものであることがわかった。元々は読谷国民学校の敷地内にあったが現在の体育館が建てられるため今の場所に来たようだ。丸く削れた部分は米軍の砲撃に破壊されたものであるが、意図的に平面に削り取られている部分を見ることができる。慰霊碑と忠魂碑、一緒のものと誤解されることもあるが、沖縄に於ける慰霊碑とは沖縄戦をはじめとする第二次世界大戦に於いて、集落所縁の戦没者の魂を慰めるために戦後建立されたものである。それに対して忠魂碑とは元々戦死者の霊を慰めるためのものであったが、軍国主義のもとでかえって国民を死に追いやるために利用された象徴として捉えられてしまった節がある。お国のためイコール天皇陛下のためという考えは、住居地が戦場となった沖縄県民にとっては厄介なもの以外ではなかったと言われ、その象徴としての忠魂碑を破壊したと言われている。表面削り取り、説明文等も持ち去った結果が今日見られる忠魂碑となっている。憎しみからそうしたのであろうが、読谷村ではこのように破壊することによって終わらせようとする風潮があるようだ。日の丸焼き打ち事件も然りだが、なんにせよ破壊して生まれることは何もないのではないかと私は思う。基本破壊することによって猜疑心が生じ、結果として良からぬ事件を引き起こす。それの繰り返しではないかと考える。日の丸焼き打ち事件の時はチビチリガマの平和の像が破壊された。忠魂碑の場合は時期などが不明であるために何があったかの記録は残ってはいないが、砲弾跡の残るお国のために亡くなった兵士の御霊を祀るもの。当時はそれが絶対的なものであった生き証人でもあり、保存することで見たものに考えさせるものになったであろうと思っている。人間である以上考え方は千差万別あるのが当たり前でそれを統制することなど不可能なことである。付け焼き刃の持論で語るのは自由だが、そういう意見の持ち主ほど我流の考えを持つ者には対処はできていない。故にわざと誤解を招くような発言を当たり前のこととして語っている。人の意見に耳を貸さず持論を展開するので興味ないものはソッポを向く。これが今の平和教育と呼ばれているものであると私は考えている。つまり少数意見も尊重し、取り上げて論議することができるならばもっと現在の国防論を含めて建設的な論議ができるであろう。それができていないのは単なる異説を取り上げていないことにしか他ならない。結局は戦前戦中の意見統制と同じことをやっているに過ぎないだろう。<br /><br />軍国主義は平和論者を叩いて消し去った。今はまやかしの平和論が蔓延している。悪しき歴史の生き証人として残されている姿を見ると自分自身で平和とはなんぞや?と自問自答しなければいけない、そんな気持ちになった。<br /><br />読谷村の中心部を後にして喜名の集落へと向かう。国道58号線沿いにある3つの慰霊碑に参ることにした。先ずは梯梧之塔、先ず碑文を転記すると〝1948年5月(昭和23年)<br />喜名区民の移動帰郷が可能になり、区長は字東方山地に散乱せる沖縄戦戦没勇士の遺骨を見るに忍びず区の幹部等と相図り数名の援助と青年会全員の協力により遺骨を蒐集し近くにある洞窟に安置し慰霊の塔を建てる。梯梧の樹を植えた事に依り梯梧の塔と命名する。然し、その場所は米軍の立入禁止区域の故、参拝に不自由をきたしたので、1956年(昭和31年)7月、区長は駐在巡査外各位の協力のもと広く浄財を建設資金とし、この梯梧の塔を建立した。尚ほ、梯梧の塔、さくらの塔を建設するにあたり、地主又吉真栄氏はこの土地を提供するなどの協力があった。〟と刻まれていた。<br /><br />梯梧之塔というと糸満市米須集落に同名の慰霊碑が建立されている。梯梧学徒隊として沖縄戦に従軍した私立沖縄昭和高等女学校所縁の戦没者を祀る慰霊碑である。元々学校跡地の那覇市崇元寺に建立されたものが学徒隊所縁の地である糸満に移設されたものである。こちらの名前の由来は学校界隈にあった梯梧の花と並木に因んだ校章によるものであるが、読谷の梯梧之塔は集落区長が中心となって喜名集落東の山谷周辺に散乱する沖縄戦戦没勇士の遺骨を見るに忍びないと考え、昭和23(1948)年5月に遺骨を集めて近くにある洞窟に安置し慰霊の塔を建立した。その際慰霊の塔の両脇に梯梧の樹を植えた事に依り〝梯梧之塔〟と呼ぶことにしたそうだ。しかしこの洞窟は米軍嘉手納弾薬庫地区の一角となったために参拝に行くことができなくなってしまった。そのため昭和31(1956)年7月に現在の場所に新たに梯梧之塔を建立して現在に至っている。<br /><br />建立に至る過程は糸満の米須霊域にある魂魄之塔に似ているように取れるが、梯梧之塔の建立には〝やらなければならない〟理由があったと思われる。遺骨が散乱していた読谷山(喜名東の山)には米軍上陸時に第19航空地区司令部(司令:青柳時香中佐)隷下の特設第一連隊第一大隊(大隊長:黒澤巌少佐)が守備していた。元々この部隊は第56飛行場大隊と第503特設警備工兵隊の約1,200名で編成された正規の軍隊(扱い)ではあるが、常置されている軍人はほんの僅かであり、残りは防衛召集者からなるいわゆる〝ミノカサ部隊〟であった。武器もなく訓練すら受けていない部隊が10万を超える米軍の上陸部隊に何か出来る訳もなく、僅かな時間で全滅の憂き目に遭ったことがわかっている。<br /><br />また古堅に駐屯していた第二大隊(大隊長:野崎眞一大尉)は第四十四飛行場大隊・第五〇四特設警備工兵隊・要塞建築勤務第六中隊・誠第一整備隊に加えて県立農林学校生徒隊から構成された約1,700名の部隊であったが4月2日に全滅した第一大隊のことを知り防衛召集者が恐れをなして敵前逃亡した。野崎大隊長は呆気に取られるもどうしようもない。ましてや学生隊だけにする訳にもいかず、県立農業学校の配属将校であった尚謙少尉から解散命令が出されることとなった。<br /><br />扱いは確かに正規の軍隊であった第一大隊がではあったが、武器も訓練も無くして戦うことは自殺行為であったことには違いなく、結果として大隊長以下兵士は全滅し、その遺骨が散乱していたのも事実である。喜名の住民はそのことを当然知っており、他人事とは思えない思いから遺骨を集めて慰霊したというのが事実である。しかし戦没者の区別をした訳ではなく散乱していた全ての遺骨を集めている。その思いは部隊生存者の手により建立された読谷の〝山吹之塔〟に感謝の意を込めて刻まれている碑文からも伺い知ることができる。なにかと比較される糸満真壁にある砲兵山吹之塔だが、碑の名前の由来となっている砲兵隊の襟章の色ということは同じでも慰霊碑の成り立ちの違いは周りに建立されているものとの一体感にあるように思えてならない。読谷村の山吹之塔は住民達によって梯梧之塔が建立され、その建立意図に対するお礼の意も込めてある。さくらの塔という喜名集落所縁の戦没者をまつるものとして建立された。同一敷地内に仲良く並ぶ梯梧之塔とさくらの塔はいずれも喜名集落自治会の管理となっている。遺骨収集をやらなければならなかったとは書いたがそれだけが理由でないことがわかる。軍を構成する人員が兵士であるということに間違いはないが、十把一絡げに軍が悪い=軍人が悪いという誤った考えのもとでは絶対にあり得ないひとつの敷地内に仲良く並ぶ両碑の姿を目の当たりにしてそう思った。<br /><br />3つの慰霊碑へと参拝を済ませて車へと戻り、少しだけ車を動かせる。道の駅喜名番所、琉球王府の時代に国頭方西街道の番所(関所)が置かれた場所であり明治期はじめまでは実際に利用されていた古道である。利用されなくなった後も史跡として残っていたが、沖縄戦で破壊された。近年になり沿線の保存状態の良い遺構を含めて整備され、喜名番所は往時の建物が復元されて道の駅とされたようである。しかし歴史ある遺構であれど<br />道の駅としては規模も小さく施設が閉まってしまうと立ち寄る必要もないように思えてしまう。現実の問題をも取り込んだ道の駅かでなの利用客数とを比較すると、歴史を題材にりした道の駅の運営にはなにか物足りなさを感じてしまうのは私だけであろうか?<br /><br />そんな道の駅を後にして嘉手納方面に南下する。そして再訪となる農林健児之塔に到着した。2年前に日没後に訪れてはいるが、真っ暗な中塔の参拝しかできなかった。学徒隊所縁の特設第一連隊の戦没者慰霊碑への参拝もできた。その慰霊碑の建立意図も知ることができ、学徒隊が置かれていた立場もわかったように思う。解散を余儀なくされた部隊で遊撃隊への移動を余儀なくされ、結果として学徒隊戦没者を出すことになったことに因果めいたものを感じてしまう。解散命令が出されたことで自宅に戻ったから戦争を生き延びられたという保証はないにしても、ゲリラ戦による犠牲者は少なくともなかったことになる。明日はどうなるかがわからない戦時中のドタバタした時期に確実という二文字はなかったにせよ、結果は変わったかも知れないという思いが私の中に生まれていた。そんな気持ちを込めつつ二度目の健児之塔参拝を済ませて車へと戻ることにした。<br /><br />海側に車を走らせて向かった先は米軍上陸モニュメントがある公園だった。正直言ってモニュメントを作る必要があったのかすら私の中でも違和感があった。碑を見学して立派なものを作ったものだと感心すればそれまでだったので、訪れた記録だけを残し最後の未訪問地へと向かうことにした。<br /><br />昨日も近くまで来たものの、暗闇の中では場所が特定できずに立ち去っているぎのわんおもと園の界隈。今日は若干でも明るいこともあり付近を歩いて探したところやっと見つけることができた。独立第272大隊(下田部隊)慰霊の碑。嘉数の戦いに於いて玉砕した部隊であるが、その慰霊碑に参拝することは初めて嘉数高台公園を訪れた時から探していた場所でもあった。<br /><br />石垣守備隊の独立混成第45旅団と独立混成第44旅団の基幹となる兵員輸送していた富山丸が米軍潜水艦スタージョン(Sturgeon)の雷撃を受けたことにより轟沈し、約3,700名の兵士が犠牲となっている。その補完部隊として急遽編成され石垣島の独立混成第45旅団へと送られることとなった独立歩兵第272・273の両大隊であったが、沖縄本島に於ける駐屯部隊数に問題が生じ、その結果本隊の独立混成第45旅団の指揮下を離されて第62師団隷下の部隊として沖縄戦を戦うことになった。下田直美大尉以下600名の兵士は嘉数の戦い開戦後僅か数時間で玉砕したとされているがその終焉の地ははっきりしていない。同じく第62師団歩兵第64旅団第23大隊と補完する形で戦っていたとの記録を信じればこの界隈の場所で最期を迎えていることには違いない。いずれにせよ本来の戦場ではなかった沖縄島で玉砕した部隊の兵士達は、勿論軍人ではあれどどういった思いがあったかを考えたく思う。連隊下の大隊であれば1,000名の兵士がいるが、特設された大隊であるために人数も少なかったのは事実である。いきなり配属先が変わったところでの激戦地。ヤブ蚊が多くてゆっくりと考えられなかったのは残念であるが嘉数の戦いに参戦した部隊の慰霊碑のひとつに訪れることができたことに感謝したい。5年越しの想いが叶って来訪できた慰霊碑に手を合わせ、夜の帳が下りた嘉数を後にして糸満へと向かうことにした。<br /><br />嘉数高台公園の駐車場で飲み物を購入して一息ついて、糸満へと走り出す。ナビは例の如く沖縄道西原ICの利用を勧めるが、この時間であれば一般道も所要時間は変わらないのは分かっているためしばらく記憶に頼って車を走らせ、メイン道路へと入る手前で渋滞状況の判断も含めてナビを動かすことにした。国道506号線の高規格幹線道路である旧那覇空港道を南風原南ICまで走って国道507号線から東風平で県道15号線へと入ると後は一本道。与座で国道331号線に合流すると、明日の看板があちこちに立てられている。〝沖縄戦全戦没者追悼式当日は朝から平和祈念公園には自家用車では入れない〟旨、さすがに5回目となると〝わかっている〟と言ってしまうだけであるが、その看板が立ち並ぶ中平和祈念公園へと到着する。6月22日から平和祈念公園では沖縄県平和祈念財団の主催で〝慰霊の日前夜祭〟が毎年行われている。この前夜祭の取り組みについては地元住民、特に内地からの移住者からの厳しい意見が多いようだが、普段ならば沖縄県下で休日となる慰霊の日の前日に、親子連れで夜の平和祈念公園の散策をする〝楽しみ〟にしている住民の方々がおられる以上意見する必要もないと私は思っている。経費を使っているから?なのかも知れないが、どんなことを行うにしても経費は掛かるもの故不特定多数の者が楽しめるものになるならば有益にはなるだろうと感じるのである。そんなことまで〝大人の理論〟を打ち出すのであれば、大先輩が参列する追悼式で大人気ない言動を慎んでから述べて貰いたいと常日頃から思っていることこそ私の意見である。<br /><br />蘊蓄はさておきやはり一日雨が降っていた天気の影響からか、駐車場の込み具合も例年と比較にならない程少ないようである。昨年よりもは少し到着が遅いが、式典会場のテントと平和祈念堂の芝生広場に広がってる平和という文字を形どったキャンドルサービスもなかったようで、雲が垂れ込んでいるために良くわかる〝光の柱尖塔〟、それにライトアップされた平和祈念堂等々敷地内の建造物が来園者の少なさからこれ程目立つものだったのかと5年目にして改めて感じる〝新しい発見〟でもあった。<br /><br />とは言え自分自身も雨の中の行動が続いたためにかなり体力を消耗している。見るものだけ見てカメラに収めたら明日に備えて体を休ませないとという気分が頭の中をクルクルと回り始めた。こうなると思考回路は吹っ飛び何事にも集中できなくなるのがが私の常であるため、20分の滞在で本日の行程を切る上げることにした。<br /><br />本日の宿までは車で5分とはかからない距離ではあるが、先にいつも利用させて貰っているファミリーマート糸満米須店へと向かい、飲み物とタバコを購入して今来た道を戻るように走り、大度のみん宿ヤポネシアに到着する。21:21到着ということは約12時間ハンドルを握っては歩いてを繰り返した1日ということになる。雨のではやはり疲れた…。<br /><br />この時期この宿には〝濃い人〟以外が泊っていることを見たことがない。今年も私を含め3組が同宿。しかしいつもながら濃い人の話は面白い。押し込まれることもあるが、戦跡というものは公平な立場で見れば見る程悪者と善人の区別がつかなくなることが多いと言われることが多い。自分の意見に不利なことは遠ざけて、都合の良いことだけを話すことは、平和ガイドの在り方という点で少し話したが、この場所ではそんな話が普通に飛び交っているのである。私は敢えて良い悪いを述べない話し方しかしないようにしている。その代わり反論すべき点では、自分が知りえた知識で以ってやんわりと口をはさむようにしている。今回は立ち寄った場所自体が知名度がそれほど高くはない場所が多かったため、話のネタにするには困らなかった。いつもの奥さんご自慢の自然食を頂きながらワイワイと話を交わし、翌日の朝にはまたそれぞれの旅行者が今日の行程目的地を巡るために出発する。そんな一晩を過ごすことができる宿ゆえに今年も一部屋空けて頂いていたようだ。シャワーを浴びてどこへ行くかも程々にしか確認せずに寝ることにする。雨だけは降らないで欲しいと思いながら…zzz。<br /><br />   《翌日に続く》

《2019.June》あみんちゅ令和を迎えたTHE DAY IN OKINAWAを訪ねる旅その参~中部エリア周遊編・後半~

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2019/06/22 - 2019/06/22

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《2019.June》あみんちゅ令和を迎えたTHE DAY IN OKINAWAを訪ねる旅その参~中部エリア周遊編・後半~

来た道を戻って車へと戻り再訪となるチビチリガマに向かった。詳細は別章で述べているので割愛するが、金儲けの道具としてこの場所を利用している自称平和ガイドの浅ましさには閉口するしかない。

ガイドの話に飽きている若者の姿を記録するのも良かったが時間が勿体無いので場所を変えることにした。さとうきびの唄の歌碑、これもガイドブックに載っているメジャーな場所である。ただその反面なぜ?が少なからずあるものでもあるようだ。作詞作曲をした寺島尚彦氏はサトウキビ畑の下に眠る戦没者の魂を歌にしようとしたのは、南部糸満でのことだったとしている。確かに現在の糸満は電照菊の方が知られており、サトウキビ畑と言われてもピッとこないようにも感じるが、やはり現在の場所は米軍上陸地点であり、サトウキビ畑もある上に海も見える絶好の場所なのかも知れない。歌碑が建立されたのは寺島氏が逝去した後のことでもあるため、やはりビジュアル的なものから選ばれたようにも思う。ただこちらも碑を建立したまでは良いが維持の点では難がある。ボタンを押すと流れるはずのオルゴールが鳴らない状態であった。これには私だけではなく昨今この地を訪れた方々全てがボヤいていることから、結構な期間放置されているように思えてならない。碑を建立するにはライブや寄付を募ったりして浄財を集めたと記されているが、それを蔑ろにしているように思えてならない。最初だけならば記念碑のようなものにしかならないと考えれば、やはり先行きの見通しが甘かったと言われても仕方がない。作ることではなく、建立当初のステータスを維持することが大切であり、ドラマのインパクトを伝えるものであってはならないと言うのが私の考えです。晴れていれば眺望が素晴らしいのかも知れないが、小雨のパラつく今日であれば・・・と思いつつ車へと戻ることにした。

次も未だ辿り着いていない場所のひとつであるシムクガマ。委細は別章で述べているのでアウトラインだけを記す。多くの犠牲者を出したチビチリガマと全員が助かったシムクガマは良く比較される。直線距離にすると1km離れてはいないが、詳細な位置データも少ないために辿り着かなかった。今回はGoogle mapを参考にするが、基本ガマ入口迄は車では行けないためにそのガマへと続く道を探す。ただ現地にはシムクガマ入口を示すものはない。マップを頼りに車を停めて歩くのだが、たまたまシムクガマを探している(らしい)方が居たため、お手並み拝見と車を停めてしばし様子を伺う。その時には車を降りてすぐに戻って来たように感じたため、すぐ近くだと誤解し同じ道を歩き始めた。しばらく進むとやっとシムクガマと書かれた標識を見つけることができた。もうすぐだと思ったのは甘かった。皆無手入れのされていない道は雨水が流れている状態であった。流水のために表面の砂が流れてしまっており、粘土質の表層が剥き出しになっていた。言うまでもなくこの状況で進むのは、一旦滑るとどうなるかわからない。スキーの谷足を心掛けて慎重に歩いて行ったがやはり足を滑らせた。コケるまでにはならなかったが、枝を掴もうと手を伸ばした瞬間、なぜか右手で持っていた車のキーを反射的に投げてしまった。フル込みプランのレンタカーはぶつけても自己負担はないが、唯一鍵を返せなければ返車扱いにはならない。焦る。しかし焦れば焦るほど見つかるものも見つからないので深呼吸して落ち着かせる。確か地面に落ちたような音はしなかった。枝に引っかかっているに違いないと目を凝らして見つめること数分・・・、あった!赤土の粘土質だった故に色の違いがきっかけとなった。わずか数分の出来事だったが私にとっては数時間に思えた出来事であった。

この一件がシムクガマに向かうなと暗示しているように感じたが、戻るにも足場が悪過ぎる。ならば行くしかないと気を引き締めて進むことにした。まもなく大きな口を開いた洞窟が見えてきた。中には石碑が建立されており、その様子は写真で見たことがある。シムクガマに辿り着いた瞬間である。

1,000人もの住民が避難していたことからかなり大きなものである。ガマ内部にしてはいけないと記されているものはないにしても、雨の影響でガマの奥へと流れる川は見るからに水量を増している。無理をしてガマ体験をして行方不明になったら死者の出なかったガマでの死者となれば洒落にもならない。住人が投降したのは4月のことであり、梅雨明けしていない6月とは比較はできないが、不快指数MAXの状況下で訪れることが出来たのは、沖縄戦末期にガマに避難して息を殺し、砲撃の止む時を待っていた史実をを追体験できたように思えて貴重な体験となった。ただひとつ気づいたこととしてシムクガマに繋がる道には人が歩いた痕跡がなかった。私の先に到着して行ったお兄さんは、滞在時間から見ても途中で引き返しただろうと思う。しかしチビチリガマで出会った若者達がもし訪れているのであれば、足場はもっと荒れていたはずである。引率のガイドは危険と判断した場合、目的地を変更することがあると書かれている。体験者からすると間違った選択ではないが、シムクガマの出来事は過不足なく教えなければいけないことだと考えている。戦跡として真逆の結果を生んだふたつのガマ。そのことを聞いて見で考えて自らの思いを心に刻みつけることが必要だと改めて思う。

ガマで一息ついたと思うとすぐに出発。慎重に悪路を踏みしめながら歩いて行く。何故かここで学生時代に学んだ歩行分析のことを思い出し、健常者の歩行歩行パターンではなく片麻痺独特の歩き方を真似しつつ歩いて行く。帰りは流石にコケはしなかったが靴とズボンの裾は土で汚れており、車のマットに足型が付いてしまった。とはいえどうしようもないので濡れた足元を乾かすためにエアコンをフル稼働して一休みする。そして中断したチビチリガマへと再度向かい、人がいなくなった中で数年前の破壊事件によって変わったものを中心に見て行った後に新たな場所を目指して走り出した。

読谷村掩体壕、日本軍指揮の元國場組が作った戦闘機等を隠したかまぼこ状のコンクリートの建造物は、当時の北飛行場の北の端に作られた。重機もない環境で県内すべてから招集した住民達の手で昭和19(1944)年6月に完成した。完成当時は南方へと向かう船団の護衛任務や中継飛行場、そして沖縄戦に投入される兵員の輸送としての意味合いが強く、戦闘機が配備されていたにも拘らず敵機迎撃は十・十空襲の時位だったと言われている。また十・十空襲の際には迎撃はしたもの、爆撃の標的にもされており、全滅に近い被害を受けている。飛行場は突貫工事で直されるもその後の基地利用に関して航空特攻隊の配備を巡り大本営・航空軍と第32軍の意見が合わず平行線をたどり、米軍上陸が確実となった昭和20(1945)年3月30日には第32軍によって破壊されることとなる。その後上陸した米軍が沖縄北飛行場を接収し読谷飛行場として利用を開始した。

その飛行場破壊を目的とした陸軍の精鋭部隊が投入されることが決まる。義烈空挺隊、所謂コマンド部隊である。昭和20(1945)5月24日熊本健軍飛行場を97重爆12機で沖縄北・南飛行場を破壊すべく旅立った義烈空挺隊。途中帰還機も到達前に撃墜された機もあれど強行着陸を遂行した機もあった。飛行場はパニックになったようだが、空挺隊員や輸送を担当した第三独立飛行隊員は玉砕。そして戦果は翌朝までの飛行場閉鎖に留まった。戦略の是非は結果論と後世に於ける取り方の問題だと思うが義烈空挺隊の沖縄特攻を大本営は最初渋ったと言われている。エリート部隊は本土決戦に温存すると言う説だ。確かに特攻がなければ、部隊の玉砕もなかったかも知れない。第三独立飛行隊操縦士のレベルは非常に高いものであり、海面すれすれに飛ぶ技術訓練では暫しプロペラが海面にぶつかって破損した記録が残っている。しかし空挺隊員を飛行場に送り届けるために低空飛行をした結果8機重爆機は対空砲火の餌食となるものも多く、強行着陸が確認された1機も操縦士は既に息絶えていたと米軍の記録には残っている。人命を武器に変えた特攻でどれ位の戦果が上がったのかは今更言うまでもない。沖縄では軍イコール軍を構成した軍人も悪いと言うが、果たしてそうなんだろうか?戦闘に巻き込まれて犠牲になった住人に対しては掛ける言葉が浮かばないが、自分自身のひとつしかない命をかけて特攻隊として敵艦に向かった兵士一人一人もまた同じではなかろうかと思うところもある。職業軍人ならばまだしも赤紙で家族を残して徴兵された一般市民が兵士となり、戦場で戦ったことを軍人だからと十把一絡げに表現することが戦没者遺族に対してどれ程辛いことを言っているのかを改めて考えて貰いたい。

話は戻るが残念ながら義烈空挺隊の特攻は、考えられていた程のダメージを与えることはできなかった。しかしこの果敢な攻めは陸上自衛隊のエリート集団に位置付けられている空挺隊に引き継がれて現在に至っている。その姿をあの世の奥山・諏訪部の両隊長が、自分達の精神は引き継がれていると感じでいれば、その玉砕の場所とされる地碑の存在も移設はされたが意味をなすように思えてならない。一見して質の悪そうな掩体壕と義烈空挺隊玉砕之地碑の木標を見ながらふとそんな気持ちになった。

色々考えたいこともあったが時間の関係もあり、先へと進むことにする。すぐ近くにある忠魂碑のことである。沖縄県の中でも特に反戦運動の活発な場所として名前が挙がる読谷村。そんな背景もあるのかと感じるのがこの忠魂碑である。昭和10(1935)年の建立であることが最近の調査で判明したそうだが、実はこの忠魂碑も移設されたものであることがわかった。元々は読谷国民学校の敷地内にあったが現在の体育館が建てられるため今の場所に来たようだ。丸く削れた部分は米軍の砲撃に破壊されたものであるが、意図的に平面に削り取られている部分を見ることができる。慰霊碑と忠魂碑、一緒のものと誤解されることもあるが、沖縄に於ける慰霊碑とは沖縄戦をはじめとする第二次世界大戦に於いて、集落所縁の戦没者の魂を慰めるために戦後建立されたものである。それに対して忠魂碑とは元々戦死者の霊を慰めるためのものであったが、軍国主義のもとでかえって国民を死に追いやるために利用された象徴として捉えられてしまった節がある。お国のためイコール天皇陛下のためという考えは、住居地が戦場となった沖縄県民にとっては厄介なもの以外ではなかったと言われ、その象徴としての忠魂碑を破壊したと言われている。表面削り取り、説明文等も持ち去った結果が今日見られる忠魂碑となっている。憎しみからそうしたのであろうが、読谷村ではこのように破壊することによって終わらせようとする風潮があるようだ。日の丸焼き打ち事件も然りだが、なんにせよ破壊して生まれることは何もないのではないかと私は思う。基本破壊することによって猜疑心が生じ、結果として良からぬ事件を引き起こす。それの繰り返しではないかと考える。日の丸焼き打ち事件の時はチビチリガマの平和の像が破壊された。忠魂碑の場合は時期などが不明であるために何があったかの記録は残ってはいないが、砲弾跡の残るお国のために亡くなった兵士の御霊を祀るもの。当時はそれが絶対的なものであった生き証人でもあり、保存することで見たものに考えさせるものになったであろうと思っている。人間である以上考え方は千差万別あるのが当たり前でそれを統制することなど不可能なことである。付け焼き刃の持論で語るのは自由だが、そういう意見の持ち主ほど我流の考えを持つ者には対処はできていない。故にわざと誤解を招くような発言を当たり前のこととして語っている。人の意見に耳を貸さず持論を展開するので興味ないものはソッポを向く。これが今の平和教育と呼ばれているものであると私は考えている。つまり少数意見も尊重し、取り上げて論議することができるならばもっと現在の国防論を含めて建設的な論議ができるであろう。それができていないのは単なる異説を取り上げていないことにしか他ならない。結局は戦前戦中の意見統制と同じことをやっているに過ぎないだろう。

軍国主義は平和論者を叩いて消し去った。今はまやかしの平和論が蔓延している。悪しき歴史の生き証人として残されている姿を見ると自分自身で平和とはなんぞや?と自問自答しなければいけない、そんな気持ちになった。

読谷村の中心部を後にして喜名の集落へと向かう。国道58号線沿いにある3つの慰霊碑に参ることにした。先ずは梯梧之塔、先ず碑文を転記すると〝1948年5月(昭和23年)
喜名区民の移動帰郷が可能になり、区長は字東方山地に散乱せる沖縄戦戦没勇士の遺骨を見るに忍びず区の幹部等と相図り数名の援助と青年会全員の協力により遺骨を蒐集し近くにある洞窟に安置し慰霊の塔を建てる。梯梧の樹を植えた事に依り梯梧の塔と命名する。然し、その場所は米軍の立入禁止区域の故、参拝に不自由をきたしたので、1956年(昭和31年)7月、区長は駐在巡査外各位の協力のもと広く浄財を建設資金とし、この梯梧の塔を建立した。尚ほ、梯梧の塔、さくらの塔を建設するにあたり、地主又吉真栄氏はこの土地を提供するなどの協力があった。〟と刻まれていた。

梯梧之塔というと糸満市米須集落に同名の慰霊碑が建立されている。梯梧学徒隊として沖縄戦に従軍した私立沖縄昭和高等女学校所縁の戦没者を祀る慰霊碑である。元々学校跡地の那覇市崇元寺に建立されたものが学徒隊所縁の地である糸満に移設されたものである。こちらの名前の由来は学校界隈にあった梯梧の花と並木に因んだ校章によるものであるが、読谷の梯梧之塔は集落区長が中心となって喜名集落東の山谷周辺に散乱する沖縄戦戦没勇士の遺骨を見るに忍びないと考え、昭和23(1948)年5月に遺骨を集めて近くにある洞窟に安置し慰霊の塔を建立した。その際慰霊の塔の両脇に梯梧の樹を植えた事に依り〝梯梧之塔〟と呼ぶことにしたそうだ。しかしこの洞窟は米軍嘉手納弾薬庫地区の一角となったために参拝に行くことができなくなってしまった。そのため昭和31(1956)年7月に現在の場所に新たに梯梧之塔を建立して現在に至っている。

建立に至る過程は糸満の米須霊域にある魂魄之塔に似ているように取れるが、梯梧之塔の建立には〝やらなければならない〟理由があったと思われる。遺骨が散乱していた読谷山(喜名東の山)には米軍上陸時に第19航空地区司令部(司令:青柳時香中佐)隷下の特設第一連隊第一大隊(大隊長:黒澤巌少佐)が守備していた。元々この部隊は第56飛行場大隊と第503特設警備工兵隊の約1,200名で編成された正規の軍隊(扱い)ではあるが、常置されている軍人はほんの僅かであり、残りは防衛召集者からなるいわゆる〝ミノカサ部隊〟であった。武器もなく訓練すら受けていない部隊が10万を超える米軍の上陸部隊に何か出来る訳もなく、僅かな時間で全滅の憂き目に遭ったことがわかっている。

また古堅に駐屯していた第二大隊(大隊長:野崎眞一大尉)は第四十四飛行場大隊・第五〇四特設警備工兵隊・要塞建築勤務第六中隊・誠第一整備隊に加えて県立農林学校生徒隊から構成された約1,700名の部隊であったが4月2日に全滅した第一大隊のことを知り防衛召集者が恐れをなして敵前逃亡した。野崎大隊長は呆気に取られるもどうしようもない。ましてや学生隊だけにする訳にもいかず、県立農業学校の配属将校であった尚謙少尉から解散命令が出されることとなった。

扱いは確かに正規の軍隊であった第一大隊がではあったが、武器も訓練も無くして戦うことは自殺行為であったことには違いなく、結果として大隊長以下兵士は全滅し、その遺骨が散乱していたのも事実である。喜名の住民はそのことを当然知っており、他人事とは思えない思いから遺骨を集めて慰霊したというのが事実である。しかし戦没者の区別をした訳ではなく散乱していた全ての遺骨を集めている。その思いは部隊生存者の手により建立された読谷の〝山吹之塔〟に感謝の意を込めて刻まれている碑文からも伺い知ることができる。なにかと比較される糸満真壁にある砲兵山吹之塔だが、碑の名前の由来となっている砲兵隊の襟章の色ということは同じでも慰霊碑の成り立ちの違いは周りに建立されているものとの一体感にあるように思えてならない。読谷村の山吹之塔は住民達によって梯梧之塔が建立され、その建立意図に対するお礼の意も込めてある。さくらの塔という喜名集落所縁の戦没者をまつるものとして建立された。同一敷地内に仲良く並ぶ梯梧之塔とさくらの塔はいずれも喜名集落自治会の管理となっている。遺骨収集をやらなければならなかったとは書いたがそれだけが理由でないことがわかる。軍を構成する人員が兵士であるということに間違いはないが、十把一絡げに軍が悪い=軍人が悪いという誤った考えのもとでは絶対にあり得ないひとつの敷地内に仲良く並ぶ両碑の姿を目の当たりにしてそう思った。

3つの慰霊碑へと参拝を済ませて車へと戻り、少しだけ車を動かせる。道の駅喜名番所、琉球王府の時代に国頭方西街道の番所(関所)が置かれた場所であり明治期はじめまでは実際に利用されていた古道である。利用されなくなった後も史跡として残っていたが、沖縄戦で破壊された。近年になり沿線の保存状態の良い遺構を含めて整備され、喜名番所は往時の建物が復元されて道の駅とされたようである。しかし歴史ある遺構であれど
道の駅としては規模も小さく施設が閉まってしまうと立ち寄る必要もないように思えてしまう。現実の問題をも取り込んだ道の駅かでなの利用客数とを比較すると、歴史を題材にりした道の駅の運営にはなにか物足りなさを感じてしまうのは私だけであろうか?

そんな道の駅を後にして嘉手納方面に南下する。そして再訪となる農林健児之塔に到着した。2年前に日没後に訪れてはいるが、真っ暗な中塔の参拝しかできなかった。学徒隊所縁の特設第一連隊の戦没者慰霊碑への参拝もできた。その慰霊碑の建立意図も知ることができ、学徒隊が置かれていた立場もわかったように思う。解散を余儀なくされた部隊で遊撃隊への移動を余儀なくされ、結果として学徒隊戦没者を出すことになったことに因果めいたものを感じてしまう。解散命令が出されたことで自宅に戻ったから戦争を生き延びられたという保証はないにしても、ゲリラ戦による犠牲者は少なくともなかったことになる。明日はどうなるかがわからない戦時中のドタバタした時期に確実という二文字はなかったにせよ、結果は変わったかも知れないという思いが私の中に生まれていた。そんな気持ちを込めつつ二度目の健児之塔参拝を済ませて車へと戻ることにした。

海側に車を走らせて向かった先は米軍上陸モニュメントがある公園だった。正直言ってモニュメントを作る必要があったのかすら私の中でも違和感があった。碑を見学して立派なものを作ったものだと感心すればそれまでだったので、訪れた記録だけを残し最後の未訪問地へと向かうことにした。

昨日も近くまで来たものの、暗闇の中では場所が特定できずに立ち去っているぎのわんおもと園の界隈。今日は若干でも明るいこともあり付近を歩いて探したところやっと見つけることができた。独立第272大隊(下田部隊)慰霊の碑。嘉数の戦いに於いて玉砕した部隊であるが、その慰霊碑に参拝することは初めて嘉数高台公園を訪れた時から探していた場所でもあった。

石垣守備隊の独立混成第45旅団と独立混成第44旅団の基幹となる兵員輸送していた富山丸が米軍潜水艦スタージョン(Sturgeon)の雷撃を受けたことにより轟沈し、約3,700名の兵士が犠牲となっている。その補完部隊として急遽編成され石垣島の独立混成第45旅団へと送られることとなった独立歩兵第272・273の両大隊であったが、沖縄本島に於ける駐屯部隊数に問題が生じ、その結果本隊の独立混成第45旅団の指揮下を離されて第62師団隷下の部隊として沖縄戦を戦うことになった。下田直美大尉以下600名の兵士は嘉数の戦い開戦後僅か数時間で玉砕したとされているがその終焉の地ははっきりしていない。同じく第62師団歩兵第64旅団第23大隊と補完する形で戦っていたとの記録を信じればこの界隈の場所で最期を迎えていることには違いない。いずれにせよ本来の戦場ではなかった沖縄島で玉砕した部隊の兵士達は、勿論軍人ではあれどどういった思いがあったかを考えたく思う。連隊下の大隊であれば1,000名の兵士がいるが、特設された大隊であるために人数も少なかったのは事実である。いきなり配属先が変わったところでの激戦地。ヤブ蚊が多くてゆっくりと考えられなかったのは残念であるが嘉数の戦いに参戦した部隊の慰霊碑のひとつに訪れることができたことに感謝したい。5年越しの想いが叶って来訪できた慰霊碑に手を合わせ、夜の帳が下りた嘉数を後にして糸満へと向かうことにした。

嘉数高台公園の駐車場で飲み物を購入して一息ついて、糸満へと走り出す。ナビは例の如く沖縄道西原ICの利用を勧めるが、この時間であれば一般道も所要時間は変わらないのは分かっているためしばらく記憶に頼って車を走らせ、メイン道路へと入る手前で渋滞状況の判断も含めてナビを動かすことにした。国道506号線の高規格幹線道路である旧那覇空港道を南風原南ICまで走って国道507号線から東風平で県道15号線へと入ると後は一本道。与座で国道331号線に合流すると、明日の看板があちこちに立てられている。〝沖縄戦全戦没者追悼式当日は朝から平和祈念公園には自家用車では入れない〟旨、さすがに5回目となると〝わかっている〟と言ってしまうだけであるが、その看板が立ち並ぶ中平和祈念公園へと到着する。6月22日から平和祈念公園では沖縄県平和祈念財団の主催で〝慰霊の日前夜祭〟が毎年行われている。この前夜祭の取り組みについては地元住民、特に内地からの移住者からの厳しい意見が多いようだが、普段ならば沖縄県下で休日となる慰霊の日の前日に、親子連れで夜の平和祈念公園の散策をする〝楽しみ〟にしている住民の方々がおられる以上意見する必要もないと私は思っている。経費を使っているから?なのかも知れないが、どんなことを行うにしても経費は掛かるもの故不特定多数の者が楽しめるものになるならば有益にはなるだろうと感じるのである。そんなことまで〝大人の理論〟を打ち出すのであれば、大先輩が参列する追悼式で大人気ない言動を慎んでから述べて貰いたいと常日頃から思っていることこそ私の意見である。

蘊蓄はさておきやはり一日雨が降っていた天気の影響からか、駐車場の込み具合も例年と比較にならない程少ないようである。昨年よりもは少し到着が遅いが、式典会場のテントと平和祈念堂の芝生広場に広がってる平和という文字を形どったキャンドルサービスもなかったようで、雲が垂れ込んでいるために良くわかる〝光の柱尖塔〟、それにライトアップされた平和祈念堂等々敷地内の建造物が来園者の少なさからこれ程目立つものだったのかと5年目にして改めて感じる〝新しい発見〟でもあった。

とは言え自分自身も雨の中の行動が続いたためにかなり体力を消耗している。見るものだけ見てカメラに収めたら明日に備えて体を休ませないとという気分が頭の中をクルクルと回り始めた。こうなると思考回路は吹っ飛び何事にも集中できなくなるのがが私の常であるため、20分の滞在で本日の行程を切る上げることにした。

本日の宿までは車で5分とはかからない距離ではあるが、先にいつも利用させて貰っているファミリーマート糸満米須店へと向かい、飲み物とタバコを購入して今来た道を戻るように走り、大度のみん宿ヤポネシアに到着する。21:21到着ということは約12時間ハンドルを握っては歩いてを繰り返した1日ということになる。雨のではやはり疲れた…。

この時期この宿には〝濃い人〟以外が泊っていることを見たことがない。今年も私を含め3組が同宿。しかしいつもながら濃い人の話は面白い。押し込まれることもあるが、戦跡というものは公平な立場で見れば見る程悪者と善人の区別がつかなくなることが多いと言われることが多い。自分の意見に不利なことは遠ざけて、都合の良いことだけを話すことは、平和ガイドの在り方という点で少し話したが、この場所ではそんな話が普通に飛び交っているのである。私は敢えて良い悪いを述べない話し方しかしないようにしている。その代わり反論すべき点では、自分が知りえた知識で以ってやんわりと口をはさむようにしている。今回は立ち寄った場所自体が知名度がそれほど高くはない場所が多かったため、話のネタにするには困らなかった。いつもの奥さんご自慢の自然食を頂きながらワイワイと話を交わし、翌日の朝にはまたそれぞれの旅行者が今日の行程目的地を巡るために出発する。そんな一晩を過ごすことができる宿ゆえに今年も一部屋空けて頂いていたようだ。シャワーを浴びてどこへ行くかも程々にしか確認せずに寝ることにする。雨だけは降らないで欲しいと思いながら…zzz。

   《翌日に続く》

旅行の満足度
5.0
観光
5.0
ショッピング
5.0
交通
5.0
同行者
一人旅
一人あたり費用
3万円 - 5万円
交通手段
高速・路線バス レンタカー ANAグループ JRローカル 徒歩
旅行の手配内容
個別手配

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  • チビチリガマにやってきた。<br /><br />チビチリガマ 14:42( 2.8km・28.4km・65.0km・24.0km/h )<br />       15:17

    チビチリガマにやってきた。

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  • ガマは元通りになっていたように思う…。

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    チビチリガマ 名所・史跡

  • 平和の像も修復されていた…。

    イチオシ

    地図を見る

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    チビチリガマ 名所・史跡

  • チビチリガマの歌碑は大丈夫だったと見える…。

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    チビチリガマ 名所・史跡

  • ガイドの話に興味が持てず、明後日の方向を向いている若者。

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    チビチリガマ 名所・史跡

  • ガイドの話に興味が持てず、明後日の方向を向いている若者。一方通行の話をし続けても興味がなければ飽きてしまうのである。

    ガイドの話に興味が持てず、明後日の方向を向いている若者。一方通行の話をし続けても興味がなければ飽きてしまうのである。

    チビチリガマ 名所・史跡

  • 違和感を感じて仕方がない地蔵様…。

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    チビチリガマ 名所・史跡

  • さとうきび畑の歌碑。<br /><br />さとうきび畑の歌碑 15:19( 0.5km・28.9km・65.5km・15.0km/h )<br />          15:25

    さとうきび畑の歌碑。

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    さとうきび畑 歌碑 名所・史跡

  • 唄は素晴らしいが…。

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  • オルゴールの点検を早くして貰いたい…。

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    さとうきび畑 歌碑 名所・史跡

  • シムクガマの入口を見つけることができた。<br /><br />シムクガマ 15:35( 3.2km・32.1km・68.7km・19.2km/h )<br />      16:02

    シムクガマの入口を見つけることができた。

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  • この標識を見落とすとハマるしかない…。

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  • この辺りはまだ余裕があった…。

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  • マムシ出没や降雨時の注意が書かれている。侮ってはいけないことを後で知ることになった…。<br /><br />地表を雨水が曲がれているのがわかる。

    マムシ出没や降雨時の注意が書かれている。侮ってはいけないことを後で知ることになった…。

    地表を雨水が曲がれているのがわかる。

  • 見た目でも滑りそうだったため、蟹歩きを試みるが無駄だった…。滑った瞬間写真中央部の木にしがみつこうとしたが、その際右手で握り締めていた車のキーを投げてしまった…。出てきたので良かったが。

    見た目でも滑りそうだったため、蟹歩きを試みるが無駄だった…。滑った瞬間写真中央部の木にしがみつこうとしたが、その際右手で握り締めていた車のキーを投げてしまった…。出てきたので良かったが。

  • やっと辿り着くことができた。

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  • 1,000人もの避難民がいたということで奥行きはかなりあるようだ。

    1,000人もの避難民がいたということで奥行きはかなりあるようだ。

  • 救命洞窟之碑。

    イチオシ

    地図を見る

    救命洞窟之碑。

  • 米軍と交渉し、結果1,000名もの避難民の命を救ったハワイ帰りのオジィ2人、比嘉平三氏(当時63歳)と比嘉平治氏(当時72歳)。

    米軍と交渉し、結果1,000名もの避難民の命を救ったハワイ帰りのオジィ2人、比嘉平三氏(当時63歳)と比嘉平治氏(当時72歳)。

  • 水の流れは結構急だ。

    水の流れは結構急だ。

  • ガマの奥へと水は流れて行く。

    ガマの奥へと水は流れて行く。

  • 奥の方が流れは穏やかに見えた…。

    奥の方が流れは穏やかに見えた…。

  • 拝所もあった。

    拝所もあった。

  • 分かっているから入ったが、ガマは人の出入りを拒んでいるようにも見える…。

    分かっているから入ったが、ガマは人の出入りを拒んでいるようにも見える…。

  • 三年越しのシムクガマ訪問は叶えられた。

    三年越しのシムクガマ訪問は叶えられた。

  • 下りも怖かったが上りも怖い…。

    下りも怖かったが上りも怖い…。

  • 下りで滑ったしまった場所ゆえ、細心の注意をして上って行く…。

    下りで滑ったしまった場所ゆえ、細心の注意をして上って行く…。

  • ここまで来れたら大丈夫であろう…。

    ここまで来れたら大丈夫であろう…。

  • 落ち着いてチビチリガマを再訪する。<br /><br />先ほど読んでいた途中に割り込まれて立ち去ったが、チビチリガマ犠牲者法名板は復元されていた。

    落ち着いてチビチリガマを再訪する。

    先ほど読んでいた途中に割り込まれて立ち去ったが、チビチリガマ犠牲者法名板は復元されていた。

    チビチリガマ 名所・史跡

  • どんなものでも破壊することは疑いと憎しみを生み出すことを心に留め置いて貰いたい…。

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    チビチリガマ 名所・史跡

  • 改めて手を合わせて出発する。<br /><br />チビチリガマ 16:10( 2.8km・28.4.km・71.5km・21.0km/h )<br />       16:31

    改めて手を合わせて出発する。

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           16:31

    チビチリガマ 名所・史跡

  • 掩体壕へとやって来た。標識がないと書かれているものを散見するが、読谷村ではほとんどの場所に表示がある。<br /><br />掩体壕 16:44( 5.4km・40.3km・76.9km・24.3km/h )<br />    16:51

    掩体壕へとやって来た。標識がないと書かれているものを散見するが、読谷村ではほとんどの場所に表示がある。

    掩体壕 16:44( 5.4km・40.3km・76.9km・24.3km/h )
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  • 掩体壕全景。右側には義烈空挺隊玉砕之地碑が見えている。

    掩体壕全景。右側には義烈空挺隊玉砕之地碑が見えている。

    読谷村掩体壕 名所・史跡

  • 掩体壕にて、たかティムさん。

    掩体壕にて、たかティムさん。

    読谷村掩体壕 名所・史跡

  • 義烈空挺隊玉砕之地碑。移設されてこの場所に建立された。

    義烈空挺隊玉砕之地碑。移設されてこの場所に建立された。

  • 忠魂碑(読谷村)へとやって来た。反戦運動が県内でも激しいと言われるところだと考えれば良いのだろうか…。<br /><br />忠魂碑 16:53( 0.1km・40.4km・77.0km・3.0km/h )<br />    16:58

    忠魂碑(読谷村)へとやって来た。反戦運動が県内でも激しいと言われるところだと考えれば良いのだろうか…。

    忠魂碑 16:53( 0.1km・40.4km・77.0km・3.0km/h )
        16:58

    忠魂碑 名所・史跡

  • 喜名集落の住人によって集められた将兵の遺骨を集め、その場所の両脇に梯梧の木を木を植えたことから名付けられた〝梯梧之塔〟。<br /><br />梯梧之塔 17:07( 3.2km・43.6km・80.2km・21.3km/h )<br />     17:14

    喜名集落の住人によって集められた将兵の遺骨を集め、その場所の両脇に梯梧の木を木を植えたことから名付けられた〝梯梧之塔〟。

    梯梧之塔 17:07( 3.2km・43.6km・80.2km・21.3km/h )
         17:14

  • 喜名集落住民の戦没犠牲者を祀ったさくら之塔。

    喜名集落住民の戦没犠牲者を祀ったさくら之塔。

  • 山吹の碑。<br /><br />第56飛行場大隊として転任配備され、後に特設第一連隊第一大隊長となった黒澤巌少佐以下1,700名は武器らしい武器もなく、訓練も受けていない状態で米軍の上陸部隊時前に立ちはだかって玉砕した。<br />配置転換前の黒澤隊長が所属していた〝満州第1国境守備隊第1地区隊砲兵第2中隊〟の生存者達が、喜名集落の住民達の黒澤隊長以下将兵の遺骨収集と梯梧之塔に祀ったということに感謝の意を示している。碑の名前は砲兵隊の襟章カラーである山吹に由来しているが、糸満真壁にある砲兵山吹之碑とは全く異なっているものである。<br /><br />また隣には〝北飛行場周辺無名戦没者 七百余柱之霊他〟と刻まれた碑が建立されている。特設第一連隊第一大隊犠牲者を指していることがわかる。 

    山吹の碑。

    第56飛行場大隊として転任配備され、後に特設第一連隊第一大隊長となった黒澤巌少佐以下1,700名は武器らしい武器もなく、訓練も受けていない状態で米軍の上陸部隊時前に立ちはだかって玉砕した。
    配置転換前の黒澤隊長が所属していた〝満州第1国境守備隊第1地区隊砲兵第2中隊〟の生存者達が、喜名集落の住民達の黒澤隊長以下将兵の遺骨収集と梯梧之塔に祀ったということに感謝の意を示している。碑の名前は砲兵隊の襟章カラーである山吹に由来しているが、糸満真壁にある砲兵山吹之碑とは全く異なっているものである。

    また隣には〝北飛行場周辺無名戦没者 七百余柱之霊他〟と刻まれた碑が建立されている。特設第一連隊第一大隊犠牲者を指していることがわかる。 

  • 道の駅喜名番所で一息入れて、南下をはじめるとしよう。<br /><br />道の駅喜名番所 17:21( 3.4km・47.0km・83.6km・29.1km/h )<br />        17:35

    道の駅喜名番所で一息入れて、南下をはじめるとしよう。

    道の駅喜名番所 17:21( 3.4km・47.0km・83.6km・29.1km/h )
            17:35

    道の駅 喜名番所 道の駅

  • 農林健児之塔を再訪した。<br /><br />農林健児之塔 17:53( 5.4km・52.4km・89.0km・18.0km/h )<br />       18:06

    農林健児之塔を再訪した。

    農林健児之塔 17:53( 5.4km・52.4km・89.0km・18.0km/h )
           18:06

  • 野國總管宮。歴史はそれほど古いものではなく〝蕃薯(甘藷)伝来350周年記念事業〟の一環として当時の嘉手納村が1955(昭和30)年に建立、分骨を祀り遺徳を現在に伝えているものである。嘉手納の…考えによっては沖縄の父と言っても過言ではない人物である。

    野國總管宮。歴史はそれほど古いものではなく〝蕃薯(甘藷)伝来350周年記念事業〟の一環として当時の嘉手納村が1955(昭和30)年に建立、分骨を祀り遺徳を現在に伝えているものである。嘉手納の…考えによっては沖縄の父と言っても過言ではない人物である。

  • 砂辺馬場公園、ここには〝米軍上陸地モニュメント〟があると聞き、その建立意図が知りたくてやって来た。<br /><br />モニュメント敷地内に建立されている〝砂辺の浜之歌碑〟。碑には歌詞が刻まれている。<br /><br />砂辺の浜<br />作詞作曲 喜屋武繁雄<br />一 砂辺浜下りて語らなや今宵<br />愛の浜風にシューラヨー<br />ぬりてまた遊は<br />二 銀色ながち<br />月ん照りまさて<br />波に浮く小船シューラヨー<br />まさて又美らさ<br />三 浜風と連りてさざ波の 踊り<br />千島唄しゆるシューラヨー<br />浜や又ぬどか<br />四 遊びたわふりて更きる夜も知らん<br />いちやし忘りゆがシューラヨー<br />恋し砂辺浜<br /><br />米軍上陸モニュメント 18:19( 2.7km・55.1km・91.7km・12.5km/h )<br />           18:41

    砂辺馬場公園、ここには〝米軍上陸地モニュメント〟があると聞き、その建立意図が知りたくてやって来た。

    モニュメント敷地内に建立されている〝砂辺の浜之歌碑〟。碑には歌詞が刻まれている。

    砂辺の浜
    作詞作曲 喜屋武繁雄
    一 砂辺浜下りて語らなや今宵
    愛の浜風にシューラヨー
    ぬりてまた遊は
    二 銀色ながち
    月ん照りまさて
    波に浮く小船シューラヨー
    まさて又美らさ
    三 浜風と連りてさざ波の 踊り
    千島唄しゆるシューラヨー
    浜や又ぬどか
    四 遊びたわふりて更きる夜も知らん
    いちやし忘りゆがシューラヨー
    恋し砂辺浜

    米軍上陸モニュメント 18:19( 2.7km・55.1km・91.7km・12.5km/h )
               18:41

  • モニュメント前の碑文にはこう刻まれていた。<br /><br />第二次世界大戦米軍上陸地モニュメント<br /> 1945年4月1日に米軍は、海面を黒く覆い尽くす戦艦・駆逐艦・砲艦計219隻から山の原形を破壊する程に熾烈な艦砲射撃後、北谷西海岸から上陸した。日本で唯一の悲惨な地上戦は、一般住民をも巻き込み沖縄県全土で20万余の尊い人命を奪い去った。<br /> 私たちは、沖縄戦の体験と実相から、戦争の不条理と残酷さを正しく次代に伝え、平和の理念として戦争につながる一切の行為を否定する。そして、平和憲法の人間尊重の精神に立脚した未来永劫の平和な北谷町の建設を図るため、沖縄戦の風化を許さない歴史的礎として、米軍上陸地碑をここに建造する。<br />1991年4月1日<br />北谷町長 島袋雅夫<br /><br />やはりだからなんなの?という点がわからなかった。

    モニュメント前の碑文にはこう刻まれていた。

    第二次世界大戦米軍上陸地モニュメント
     1945年4月1日に米軍は、海面を黒く覆い尽くす戦艦・駆逐艦・砲艦計219隻から山の原形を破壊する程に熾烈な艦砲射撃後、北谷西海岸から上陸した。日本で唯一の悲惨な地上戦は、一般住民をも巻き込み沖縄県全土で20万余の尊い人命を奪い去った。
     私たちは、沖縄戦の体験と実相から、戦争の不条理と残酷さを正しく次代に伝え、平和の理念として戦争につながる一切の行為を否定する。そして、平和憲法の人間尊重の精神に立脚した未来永劫の平和な北谷町の建設を図るため、沖縄戦の風化を許さない歴史的礎として、米軍上陸地碑をここに建造する。
    1991年4月1日
    北谷町長 島袋雅夫

    やはりだからなんなの?という点がわからなかった。

  • やっと辿り着いた場所は…ぎのわんおもと園の隣でした。独立歩兵第272大隊(下田部隊)慰霊碑・独立歩兵第23大隊慰霊碑。<br /><br />独立歩兵第272大隊慰霊碑 19:19( 15.4km・70.5km・107.1km・24.3km/h )<br />             19:28

    やっと辿り着いた場所は…ぎのわんおもと園の隣でした。独立歩兵第272大隊(下田部隊)慰霊碑・独立歩兵第23大隊慰霊碑。

    独立歩兵第272大隊慰霊碑 19:19( 15.4km・70.5km・107.1km・24.3km/h )
                 19:28

  • こちらは独立歩兵第23大隊慰霊碑。第62師団歩兵第64旅団独立歩兵第23大隊のことである。

    こちらは独立歩兵第23大隊慰霊碑。第62師団歩兵第64旅団独立歩兵第23大隊のことである。

  • 独立歩兵第23大隊慰霊碑、正式名称を〝捧英魂碑(ほうえいこんひ)〟という。<br /><br />噫 盡忠幾萬ノ戦士ノ尊<br />キ血潮デ染ミシ此ノ山河<br />ヲ望メバ悲憤の雄叫ビ今<br />尚響キ阿修羅ノ如キ共ノ<br />勇姿ココニ髣髴タリ<br />七生報國ノ斗魂今ヤ祖國<br />ノ興隆ニ見ル<br />萬世ニ共ノ偉勲ヲ称エ謹<br />ンデ茲ニ殉國ノ英霊ヲ弔フ<br /><br /> 石部隊生存者

    独立歩兵第23大隊慰霊碑、正式名称を〝捧英魂碑(ほうえいこんひ)〟という。

    噫 盡忠幾萬ノ戦士ノ尊
    キ血潮デ染ミシ此ノ山河
    ヲ望メバ悲憤の雄叫ビ今
    尚響キ阿修羅ノ如キ共ノ
    勇姿ココニ髣髴タリ
    七生報國ノ斗魂今ヤ祖國
    ノ興隆ニ見ル
    萬世ニ共ノ偉勲ヲ称エ謹
    ンデ茲ニ殉國ノ英霊ヲ弔フ

     石部隊生存者

  • 慰霊碑建立発起人として石部隊(第62師団)の生存者名が刻まれていた。

    慰霊碑建立発起人として石部隊(第62師団)の生存者名が刻まれていた。

  • 独立歩兵第272大隊慰霊碑。碑には〝球14212 下田部隊 慰霊碑〟と刻まれていた。<br />下田直美少佐(戦死後)以下戦没将兵600余名を祀っている。

    独立歩兵第272大隊慰霊碑。碑には〝球14212 下田部隊 慰霊碑〟と刻まれていた。
    下田直美少佐(戦死後)以下戦没将兵600余名を祀っている。

  • それ以外の碑文もなく建立者名は〝下田部隊生存者有志一同〟と刻まれていた。

    それ以外の碑文もなく建立者名は〝下田部隊生存者有志一同〟と刻まれていた。

  • 嘉数高台公園駐車場にて仕切り直して糸満へと向かう。<br /><br />嘉数高台公園 19:32( 0.8km・71.3km・107.9km・12.0km/h )<br />       19:55

    嘉数高台公園駐車場にて仕切り直して糸満へと向かう。

    嘉数高台公園 19:32( 0.8km・71.3km・107.9km・12.0km/h )
           19:55

    嘉数高台公園 公園・植物園

  • 平和祈念公園に到着した。光の柱尖塔に飛行機が近付く様を撮ってみた。<br /><br />平和祈念公園 20:45( 28.5km・99.8km・136.4km・31.7km/h )<br />       21:05

    平和祈念公園に到着した。光の柱尖塔に飛行機が近付く様を撮ってみた。

    平和祈念公園 20:45( 28.5km・99.8km・136.4km・31.7km/h )
           21:05

    沖縄県営平和祈念公園 公園・植物園

  • 平和祈念堂のライトアップは例年の如く…。*

    イチオシ

    地図を見る

    平和祈念堂のライトアップは例年の如く…。*

    平和祈念堂 名所・史跡

  • 人が少ないと光を邪魔する者がないことに気づく。平和祈念堂のライトアップがこんなにキレイなものとは初めて知った。

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    人が少ないと光を邪魔する者がないことに気づく。平和祈念堂のライトアップがこんなにキレイなものとは初めて知った。

    平和祈念堂 名所・史跡

  • ファミマで飲み物とタバコを購入する。<br /><br />ファミリーマート糸満米須店 21:12( 3.2km・103.0km・139.6km・27.4km/h )<br />              21:18

    ファミマで飲み物とタバコを購入する。

    ファミリーマート糸満米須店 21:12( 3.2km・103.0km・139.6km・27.4km/h )
                  21:18

  • 本日の宿であるみん宿ヤポネシアに到着した。<br /><br />みん宿ヤポネシア 21:21( 1.3km・104.3km・140.9km・19.5km/h )//

    本日の宿であるみん宿ヤポネシアに到着した。

    みん宿ヤポネシア 21:21( 1.3km・104.3km・140.9km・19.5km/h )//

    みん宿ヤポネシア 宿・ホテル

  • お部屋は昨年と同じく…。

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    みん宿ヤポネシア 宿・ホテル

  • 二段ベットの部屋…。

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    みん宿ヤポネシア 宿・ホテル

  • ここが一番エアコンが良く効くそうだ。

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    みん宿ヤポネシア 宿・ホテル

  • 奥さん自慢のお食事。

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    奥さん自慢のお食事。

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