2019/06/22 - 2019/06/22
995位(同エリア3971件中)
たかちゃんティムちゃんはるおちゃん・ついでにおまけのまゆみはん。さん
この旅行記のスケジュール
2019/06/22
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栄橋
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嘉手納駅跡
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比謝橋
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イオンタウン読谷
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古堅国民学校跡
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泊城公園
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米軍上陸の地碑
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梵字碑
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渡久地泊城
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特攻艇秘匿洞窟(泊城公園)
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電信屋の碑(沖縄海底電信線記念碑)
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特攻艇秘匿洞窟(比謝川河口)
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阿麻和利の墓
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読谷村下水道発祥の地碑
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艦砲ぬ喰ぇー残さーの歌碑
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艦砲ぬ喰ぇー残さー之碑
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赤犬子大主之墓
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楚辺集落慰霊之碑
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ユーバンタ浜
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この旅行記スケジュールを元に
《2019.June》あみんちゅ令和を迎えたTHE DAY IN OKINAWAを訪ねる旅その弐~中部エリア周遊編~
旅二日目の朝を迎えた。いつもの日差しが差し込まない窓を見ると・・・やはり雨が降っている。梅雨明け宣言されていない時期の来沖は5年目で初めてのことである。ブルーな気分にはなるが仕方がない。頭を切り替えて朝食を食べにレストランへと降りて行く。メインのおかずはセットメニューだが、その他はバイキング形式の食べ放題。メニューの種類とボリュームには圧倒されつつ気の済むまで食べることができた。
行きたい場所はたくさんあるため早めの出発を心がける。チェックアウトする際に預けた車のキーを受け取るが、駐車位置が変わっており、出るときの注意を受ける。段差があるからと言われたがその時は分からなかったものの車に乗り込む際に理解した。そのまま道へと進むと段差がある。なので歩道を少し走って大回りをするようにして出庫した。
走り始めてすぐ停車。ローソンこどもの国前店にて改めてモーニングコーヒーと一服を入れます。一息ついて走り出し、向かった先は道の駅かでな。米軍嘉手納基地脇にある道の駅は飛行場を飛び立つ軍用機を眺めることができる場所である。しかしその立地から騒音調査の拠点にもなっており、敷地内には騒音計測のための機械も置かれている。私が滞在している間にも四発機の離陸があった。あのジェットエンジンの金属音はたまにしか聞かない者には非日常的なものであり、その音で普段の生活にはないものとして楽しむことができるのであろう。しかしこの音が毎日ひっきりなしに聞こえるならば・・・。敢えてコメントは避けるがやはり穏やかなままではいられないであろう。
しかし騒音のレベルというのは現地で体験して初めてわかることであり、自宅に居てわかるものではないだろう。そこでビジュアル的に伝えるものとして、施設内に設置されている騒音計があった。この数値を示せば比較を提示することでどんなものかがわかるだろうと考えた。Take-Offを眺めた展望台から騒音計の存在に気付き、望遠ズームを使って撮影しようとしたところまさかの未点灯であることを知る。高温多湿の場所にありその影響で壊れたのかも知れないが、やはりそれでは人には伝わらないと思う。
道の駅という観光客の立ち寄り地として、土産物を売る傍ら嘉手納基地関連の資料館が作られていることで、多くの観光客に過去に起こった事故や事件に加え基地を拠点とする軍用機の情報や歴史等を伝える姿勢には感情に任せて誤った内容を伝える訳でもなく作られていることから、見た者の感性で捉えられるようにしていることには私も賛同する。しかしこの場所を知らない者にどう伝えるかという手段については、騒音計の示す値を見せる以外にはないのではなかろうか?せっかくの施設を活かせるのであれば、そういう点には気配りをして貰いたいと感じるのは私だけではないと思う。
小雨がパラつく中では積極的に行動する気にもなれず車に戻るが、その瞬間大粒の雨が降って来た。停車した状態ではワイパーを回しても前が見えないこともあり、車内で雨宿りをする。その時間を利用して雨が降り続いた時と止んだときに行くことができる場所を切り分ける。そしてある程度視界が広がったのを確認して次の目的地を目指して走り出す。
栄橋、戦前製糖会社の工場にサトウキビを搬入するために作られた橋であり、コンクリート製の床板中央には鉄軌道が敷かれており馬に引かせた荷馬車が走っていたが、沖縄戦に於いて米軍の侵攻を阻止すべく日本軍によって爆破され、現在では橋桁の基礎部分と床板の鉄骨部分だけが残っていると書かれていた。その部分だけでも記録できれば戦跡の資料となると読み、向かってはみたがまず場所がわからない。橋としては残っていないため道としても表示されないため、スマホのGPSデータを、Googlemapに反映させて位置関係を確認しながら進むしかない。そしてどうやらここらしいという場所に辿り着くと確かに看板は建てられており、この先に橋脚跡があるのだろうとはわかるものの、木々が生い茂っており一筋縄では進めないことがわかった。戦跡の保存を沖縄県だけに任せることができないことはわかっているが、戦跡資料の中に掲載されている写真に関しては見ること位は出来るだろうと初訪問の者だと思うに違いない。しかし現状はどうなのか?その部分が曖昧なままで放置されているのも現実である。うちの店でも沖縄に戦争の傷跡と調べに行くと言えば、間違いなく変わっていますね~という反応が返ってくる。マニアックなのはわかっているが、戦争の傷跡の残る史跡の今を調べるのが私の真の目的である。残念ながら雨の中足元の悪い樹木林の中へと入って行く勇気はヘタレの私には持ち合わせていない。今回は栄橋跡地付近の今として取り上げるだけに留めておく。
そして嘉手納ロータリーを越えて市街地の中心部に向かい、コインパーキングに車を停めて近くの石碑を見に行った。嘉手納駅跡と刻まれた石碑、現在沖縄では沖縄都市モノレール線(通称:ゆいレール)が鉄道として唯一の存在であるが、その昔沖縄県営鉄道が嘉手納から那覇市の古波蔵駅を結んでいた嘉手納線なるものが存在した。軌間762mmという狭軌の鉄道を軽便鉄道と呼ぶが、地元では荷物輸送の他に通勤通学の足として利用されており、親しみを込めてケービンと呼んでいた。しかし沖縄での地上戦を前にして運行は中止され、熾烈な地上戦が行われた結果線路・車両とも壊滅的な被害を受けたことにより、復活することなく廃止された幻の鉄道でもある。嘉手納駅跡とは言っても実際には沖縄で最も多い貨物量を扱う駅だったことからかなり広いヤードがあったに違いないが、国道58号線や嘉手納ロータリーを作る際、また周辺の再開発に伴い往時の用地はほとんどはすでに転用されているために広大な敷地の中のピンポイントに石碑が建立されているに過ぎない。真新しい石碑ゆえにそう感じられることは残念であった。
雨が降りしきる中車を走らせ、読谷村へと向かう。その境界部分にある比謝橋、北部国頭と中頭を結ぶ西街道に於いて比謝川を渡る交通の要衝として古よりその存在感を発揮していた場所である。元は木橋であったが修理の度に住民が駆り出され、大きな負担となっていた。それを見た尚王朝が南風原親方に命じ石橋に架け替えさせ、手を取られることがなくなった民は大変喜んだという歴史を持っている。川を橋で渡る利便性はしばしば戦闘にも利用され、薩摩の琉球侵攻の際にも薩摩軍がこの橋を渡って首里へと向かっている。沖縄戦に於いても上陸した米軍の侵攻を止めようと日本軍が橋を破壊しようと爆薬を仕掛けたものの、橋の表面に穴が開くだけで破壊することができず、遂には米軍の南下を許すこととなったことでも知られている。その後米軍によって鉄橋に置き換えられて戦車等の南下を推し進める結果となった史実にはたかが橋されど橋と軽視した結果に沖縄戦の戦果との因果めいたものを感じた。また同一敷地内にある吉屋チルーの歌碑にも橋の存在に対する恨みが刻まれているように感じた。女流琉歌の歌人でもある吉屋チルーは、遊女として身売りされる際に、この橋がなければ身売りの話もなかったかも知れないと詠んでいる。8歳で遊郭に売られた彼女は18歳の時に職を絶って自害したと伝えられているが、若干8歳の少女がその様な歌を詠めたのかは疑問に思うところでもある。早熟なところもあったのかも知れないが、家庭の事情で身売りを余儀なくされた彼女のことを後世に於いて判官贔屓され、デフォルメされた部分もあるかとも考えられる。いずれにせよ史実はどうなのかを知る由もない。小雨のパラつく中未だ残る石橋の橋脚の部分を見ながら王府時代に想いを馳せるしかなかった。
そして車へと戻り次の目的地を目指すが、南国の梅雨とはこんなものなのかと土砂降りと小雨を繰り返す。強く降る時には手持ちの折り畳み傘では風が巻き上げる雨粒で結構濡れてしまう。湿気も高く不快指数が高いため濡れたくはないため、ジャンプ傘を購入するためにイオン読谷店に立ち寄った。以前ダイソーがあったと記憶していたが間違いではなかった。本当かどうかは知らないが、同じダイソーの傘でも沖縄のものは丈夫だと聞いたことがある。その言葉を信じて購入するが、気のせいか嘘でもないようにも思える。これで雨対策は増強された。後はひとつでも多くのこ目的地を回るだけである。
そして読谷村の住宅地の中をぐるぐる回る。別に意図的にしている訳ではなく、単純に場所がわからないだけである。家々の隙間の空き地に目的地を見つけることができた。古堅国民学校跡。校門門柱には古堅国民学校と古堅青年学校と書かれているが、門柱が角欠けしていることに気づいた。沖縄戦当時学校などは集められた10万もの兵士のための営舎として個人宅とともに摂取された。古堅国民学校も例に漏れず第24師団第24輜重兵連隊第5中隊の他野戦病院部隊も一時駐屯していた。そのため校舎が使えなくなり民家などでの分散授業や青空学級も行われていた。
米軍上陸の直前には空襲で校舎等は全壊し、校門門柱も損傷を受けている。更に戦中・戦後には見せしめの意味を込めて押し倒され朝た挙句ブルドーザーで引きずり回されたことなどにより、特に角の部分が大きく損傷を受けたと言われている。戦後学校跡地は住民に分割されたために古堅国民学校から変わった古堅小学校は移設され、近くには古堅南小学校が作られることとなった。学校跡地はが細分化されたことにより、国民学校校門門柱は古堅南小学校の敷地内に移設された後現在の地に建てられたが、既に土地が分割されて住居となっている中で往時の学校跡地はそれなりの広さしか残っていなかった。そのような理由から再び校門門柱も移設を余儀なくされ、戦火を潜り抜けたデイゴの古木の近くに移築されて現在に至っている。見るからに住宅1軒分の敷地に校門門柱、デイゴの古木、国旗掲揚跡、古堅国民学校の復元模型が置かれている現在の状態では王子を偲ばせるものはまったくないと言っても過言ではない。その中で樹齢100年と言われるデイゴの古木が広げる枝葉だけが往時の様子を伝えているに過ぎないのが現実である。創立117年を迎える古堅小学校の創立100年までの沿革が刻まれた記念碑はあるが、それで往時を知ることは到底できないと感じた。
敷地内に残る国民学校当時の遺物を見ることはできるが、やはり細かく見るのではなく枝を大きく伸ばすデイゴの木の周りで子供達がはしゃぎ回っていたことを想像するのが一番良いように思えてならなかった。戦後70余年の月日が経ち、往時を偲ばせるものの多くは開発の影に隠れて消滅しているものも少なくない。そのことを踏まえるとデイゴの木が残っているだけでもその価値は十分にあるであろう。そんな気持ちがふと頭の中を過ぎった気がした。
古堅国民学校跡地から海側へと車を進めると渡久地浜に辿り着く。東シナ海に沈むサンセットの絶景ポイントであり、BBQも楽しめるビーチとして有名な場所であるが、ここは間違いなく戦跡でもある。昭和20(1945)年4月1日、最も熾烈な地上戦と称される沖縄戦の始まりとなる米軍の機動部隊が上陸したばしょである。元々ここからの上陸は日本軍はまったく考えておらず、結果無血上陸を許すこととなり、僅か2ヶ月半で沖縄守備軍は壊滅し日本軍の組織的抵抗は終了する。第62師団第63歩兵旅団第12大隊(連隊に相当)が遅滞作戦を講じるも人員・火器の差は歴然で死力を尽くして戦ったものの、大隊兵力の7割を失って撤退することとなった。勿論賀谷中佐率いる第12大隊は予想以上の戦果を挙げたことは疑う余地のないことではある。しかし勢いづく米軍機動部隊の侵攻を止めるにはあまりにも非力であったこともまた事実である。
想定外の場所からの上陸。しかしその地に立って見るとビーチと呼ばれるばしょであることからも海からの上陸が容易な場所であることをうかがい知ることができる。震洋・マルレと言った特攻艇秘匿基地が作られていたがなすすべもなく破壊され、特攻艇そのものの存在までが知られてしまうこととなった。
また泊城公園の名前の由来となっており、組踊本部大主の物語の舞台となる城(グスク)があった場所であるとの伝承が残る場所でもある。北山按司だった父を家臣である本部大主な殺害された若按司。潮平大主に導かれ家臣とともに落ち延びた先がここだとされている。落ち延びる過程で母は流れ矢に当たって亡くなり、動けなくなった幼い妹を置き去りにするしかなかった若按司。しかしその後この地で家臣とともに戦略を練り続け、遂に18年後本部大主を殺害し親の敵討ちをしたという伝承がある。第一尚氏王朝が沖縄を統一する前の三山戦国時代の話は、やはり本土で起こっていた下克上そのものの沖縄版という印象を受ける。敵討ちを遂げた若按司ではあったが初代北山王となる怕尼芝(はにじ)に攻め込まれ、遂にこの場所で最後を遂げたとされている。
主従関係は勿論のこと血縁関係ですら関係なく争っていた戦国時代の話ゆえ、解釈論は沢山あり過ぎる上にどの話も真実味を帯びているものなので史実はどうなのかはわからない。しかし数百年の後沖縄戦のきっかけとなる場所となったことは、輪廻転生の繰り返しと思えなくもない。歴史の舞台となったこの地に立ち、史実を踏まえて自分はどう考えるのか?と振り返り、過ちをくりかえさないことが大切だと感じることができる場所だと私には思えた。
また米軍上陸の地の隣には梵字碑なるものが建立されている。戦国時代に真言宗の僧侶日秀上人が琉球金武に流れ着き金武観音堂を創建したとされる逸話が残っているが、その日秀上人に纏わるものとして崇められているようだ。海路や水路に依存していた人や荷物の移動・運搬時の航海の安全を祈念しているものだそうだが、この渡久地浜にあるということは米軍上陸の安全をも祈念していたようにも取れることに皮肉なものを感じた私であった。
次の目的地は梵字碑からそのまま歩いて迎える場所のようにも思えるが、道路の途中には私有地らしいバリケードがあったりと微妙に行き辛い感じを受け、一旦車へと戻ってから車道を迂回することにした。沖縄海底電信線記念碑、明治29(1896)年に鹿児島・沖縄を結ぶ電信線がここ渡久地浜に陸揚げされ、離島苦を抱えていた沖縄に新しい文化を吹き込んだ。翌年には石垣島経由で台湾線、明治38(1905)年には南洋ヤップ島まで海底電信線が引かれ海外通信にも貢献している。その後沖縄島内の通信線も整備されたが、沖縄戦に於いて破壊され、戦後別の場所に通信線が陸上げされて今日に至っている。しかし半世紀に渡る海底電信線の功績を称えるべく昭和63(1988)年に建立されたものである。海底通信線を陸揚げした場所だった以外にもこの場所が重要だったことを伝えるものがあることはあまり知られてはいない。生憎の空模様だが海岸線を歩くとそれを確認することができる。海岸に残る穴、ものによってはモルタルで塞がれたものもある。沖縄戦に於いて特攻兵器として作られたマルレ・震洋を隠すために掘られた特殊艇秘匿洞窟群である。物資のない中で戦績の起死回生を図るために作られた特殊艇。ベニヤ板で作られ250kg爆弾を積んでいて敵艦に体当たりをする兵器とされているが、実際のところ鋼鉄の艦船に立ち向かって戦果を挙げることが可能だったかどうかは疑わしいものである。戦果はあったようだが、特攻機と同じく片道切符の死出の旅に出て帰ることがなかった若者達の命の代償とはならなかったと思えて仕方がない。また量産を念頭において作られたものであるため数は沢山あったようだ。しかし迎撃拠点ではなく、上陸地となった場所に秘匿洞窟群を設けたことで秘密裏に進められてきた特攻兵器は、上陸後早いうちに米軍に摂取されその存在を知られた上に兵器としての内容までも露見させてしまっている。意外性は極めて高いものの、破壊力はあくまで最高の条件下での突入ができた場合での話だったことを考えると、実際の戦績は如何なものだったのか?と思わずにはいられない。
戦後70余年が過ぎ、特殊艇秘匿洞窟には海を渡って来たゴミが主人となっている現在。その洞窟群と米軍上陸地点との距離を見てみれば、特殊艇とは名ばかりであったと思わざるを得ない。特攻というものは結果を度外視して始められたという説が一般的になっている現在において、その説を裏付けるような洞窟群の様子を見て語るのでは重みも違うと考える。確かに観光地ではないが間違いなく沖縄戦を語るのに不可欠な遺構であるように私には思えた。
次に立ち寄った場所は再び住宅地の中にあった。第一尚氏王朝の時代に悪政を強いていた勝連按司の茂知附按司を倒して10代目の按司となった阿麻和利。東アジアとの交流や大陸の技術を積極的に取り入れることにより、次第に勢力を伸ばして行った。攻められると厄介だと考えた第一尚氏王統第6代国王である尚泰久王は、娘の百度踏揚(ももふとふみあがり)を阿麻和利に妻に娶らせて懐柔策を取った。国王との蜜な関係を利用して、目の上のたんこぶ的な存在であった中城按司である護佐丸の王府に対する謀叛を尚泰久王に讒言し、自らが追討軍を率いて護佐丸を攻めた。築城を含む軍師であった護佐丸は、戦えば負けることがなかったはず。しかし尚泰久王に謀叛の疑いをかけられたことに対し、身の潔白を証明するために妻子と共に自害して果てた。ただ護佐丸は謀叛を起こす気は毛頭なく、阿麻和利との戦いも自身の外孫である百度踏揚の存在もあり、争う気は毛頭なかった。事実阿麻和利は護佐丸を倒した勢いで王府打倒に反旗を翻す。しかしこのことは祖父を殺された百度踏揚によって父尚泰久王にいち早く伝えられ、越来賢雄を総大将とした阿麻和利掃討軍を勝連城に派遣する。堅固な城に越来賢雄も攻めあぐねるが、女装して城内に忍び込み油断をさせた阿麻和利を打ち滅ぼす。元は百度踏揚が阿麻和利に降嫁した際の従者であったが、この戦の功により越来間切総地頭職を授けられ百度踏揚を妻とする。しかし尚泰久王の逝去後尚徳王の代で後ろ盾を失った第一尚氏王朝は滅亡する。その際第一尚氏王朝の重臣であった越来賢雄も攻め込まれて殺害された。以降百度踏揚は結婚をせずに弟である三津葉多武喜(ミツバタブキ)を頼り玉城の大川グスクへと入り余生を過ごすものの若くして逝去したと伝えられている。
これはあくまでフィクションで伝承を組み合わせているものにしか過ぎない。阿麻和利を忠臣とする伝承もあるが、やはり墓を見る限りそうは思えない。権力争いからはじまり、忠臣を失った王朝が衰退するのは万国共通のことである。小雨の降り続く中で訪れる者もいないような阿麻和利の墓の前でそう思った。
海側へと走り楚辺へと向かいます。夕陽がきれいな崖という意味のユウバンタ、ライブ会場になったりもする広場である。その昔は水質汚染もあり泳ぐなど以ての外だったようだが、楚辺浄化センターができたことにより飛躍的に改善され付近のユーバンタ浜は地元住民が集う穴場的ビーチとして知られている。また沖縄初の下水道処理施設ができたことを記念する下水道発祥の地という石碑が広場に建立されており、その功績を今に伝えている。そんなユーバンタだがガイドブックにも掲載されている有名なものがある。艦砲ぬ喰(く)ぇー残(ぬく)さーの歌碑。比嘉恒敏(ひがこうびん)氏の作詞作曲による島唄は、彼の娘達で構成されているでいご娘が歌ったことで大ブレークした。大阪でそして沖縄で戦争により家族を失った彼が生き残ったことを自虐的に表現した「貴方も 私も お前も 俺も 艦砲の喰い残し」という一節には、あの艦砲射撃を生き抜いた者ならばどんな苦しいことにも耐えられるという信念が込められていると知った。残念ながら比嘉氏は昭和48(1973)年に飲酒運転の米兵の車に突っ込まれ、再婚した妻シゲさんは即死、比嘉氏も重傷を負い数日後に亡くなった。比嘉氏の4人の娘で構成するでいご娘は父母の死後活動を休止していたが、父の残した艦砲ぬ喰ぇー残さーの歌を残そうと昭和50(1975)年にレコードが発売されている。強烈な反戦民謡でありながらとてもヒットしたのは、沖縄言葉の歌詞がいかに人の心を打ったのかを表しているように考える。その歌碑は生前の父所縁の地であるユーバンタ浜に平成25(2013)年の慰霊の日に建立された。それから6年の月日が経った訳だが、碑の管理に少し難があった。ボタンを押せば流れるはずの歌が流れない。確かに常に海風に晒されているため、設備の劣化は仕方がないのかも知れない。しかしあのメロディに乗った歌詞だからこそ多くの人の心を打つのであって、それを期待した者からすると良くある故障か?と幻滅する。維持をするのし費用はかかるだろうか、見掛け倒しだとなくては良い機能のように思えた。
またこの界隈には下水処理場の他にも特殊艇を隠していたような微妙な奥行きを持つ洞窟がある。そしてビーチを越えて楚辺の集落へと入ると、集落出身の軍人・軍属や住人の戦没者を祀る慰霊碑がある。住んでいる場所で戦闘があった史実を裏付けるものと言えるであろう。明日慰霊の日に慰霊祭が行われると見えるが、この碑の存在を掲載しているのは、数年前に沖縄県が纏めた県内慰霊碑一覧しかないのが事実である。
《次編(後半)へ続く》
- 旅行の満足度
- 5.0
- 観光
- 5.0
- ホテル
- 5.0
- 交通
- 5.0
- 同行者
- 一人旅
- 一人あたり費用
- 3万円 - 5万円
- 交通手段
- 高速・路線バス レンタカー ANAグループ JRローカル 徒歩
- 旅行の手配内容
- 個別手配
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ガッツり朝食を頂いて…。
サンライズホテルレストラン グルメ・レストラン
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出発します。
サンライズ観光ホテル 09:11( 0.0km・0.0km・36.6.km・0.0km/h )サンライズ観光ホテル 宿・ホテル
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ローソンこどもの国前店でいきなり一服(笑)。
ローソン沖縄こどもの国前店 09:14( 0.4km・0.4km・37.0km・6.0km/h )
09:28 -
道の駅かでなに立ち寄る。
道の駅 かでな 道の駅
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さすが嘉手納と言えば〝甘藷〟だね。
道の駅 かでな 道の駅
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嘉手納と言えばサツマイモの栽培を伝えて飢饉に備えるようにした野國總管(のぐにそうかん)。
道の駅 かでな 道の駅
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道の駅かでな展示室、在日米軍飛行場の姿。
道の駅 かでな 道の駅
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道の駅かでな展示室、在日米軍飛行場の姿。
道の駅 かでな 道の駅
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道の駅かでな展示室、平和なムラと町の賑わい。
道の駅 かでな 道の駅
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展望台からは米軍嘉手納基地が一望できる。
道の駅 かでな 道の駅
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中型機が駐機していた。
道の駅 かでな 道の駅
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どうやら大型爆撃機が離陸するようだ。
道の駅 かでな 道の駅
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滑走路を目いっぱい使うのか…。。
道の駅 かでな 道の駅
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アップにすると生活の中に軍用機があることが分かるであろう…。
道の駅 かでな 道の駅
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イチオシ
ただこういう時にビジュアル的なものが役に立つのだが、生憎騒音計は壊れているようだ…。
道の駅 かでな 道の駅
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離陸するようだ…。
道の駅 かでな 道の駅
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前輪が浮き上がった。
道の駅 かでな 道の駅
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あっという間の離陸だった。
道の駅 かでな 道の駅
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基地側以外では生活感が出ている気がする。
道の駅 かでな 道の駅
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ドライブインという名のレストランのようだ。
ロータリードライブイン UP-KITTY グルメ・レストラン
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出発しようとするとスコールに見舞われ、しばし出発延期。
道の駅 かでな 道の駅
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止んだようなので出発する。
道の駅かでな 09:47(7 9.km・8.3km・44.k9m・24.9km/h )
10:31道の駅 かでな 道の駅
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戦時中に米軍の侵攻を止めようと日本軍によって爆破された栄橋。木々が茂っている上に足元も悪いので今回は此処までにしておく。
とある場所 10:35 ( 1.0km・9.3km・45.9km・15.0km/h )
10:54
栄橋 10:57( 1.5.km・10.8km・47.4km・30.0km/h )
11:02 -
戦前・戦中には沖縄に〝沖縄県営鉄道(ケービン)〟が走っていた。嘉手納駅はケービン嘉手納線の終着駅であった。
嘉手納駅跡 11:14( 2.1km・12.9km・49.5km・10.5km/h )
11:30 -
比謝橋碑文とは…
比謝橋は、1716(康熙55)年から1717(康熙56)年に木橋から石橋に改築された。比謝橋碑文は、その際に建立された石碑である。石碑には漢文で、比謝橋一帯の地誌や比謝橋架橋の歴史等が記されている。それによると、当初の木造橋は風雨や虫害で傷んでいたことから1667(康熙6)年と1689(康熙28)年に修理を行ったが、修理のたびに人民は工事に駆り出され、多大な負担を負わされてきた。そこで琉球王府は南風原親方等に命じて石橋に改築したところ、人民に大変喜ばれたと記されている。読谷村教育委員会は、比謝橋碑文が比謝橋架橋やせき石造建造物の歴史及び交通史を知る上で重要なものであることから、読谷村指定文化財(有形文化財)として2012(平成24)年5月23日に指定した。2013(平成25)年3月 読谷村教育委員会 -
吉屋チルー歌碑とは…
この歌は、女流歌人吉屋チルー(一六五〇~一六六八)の作品で、八歳に那覇仲島の遊郭に身売りされる際、詠んだといわれる。チルーが詠んだと思われる歌は二〇首余あるが、その作品のほとんどは抒情的である。 生地などまだ謎の部分が多いが、『苔の下』を表した平敷屋朝敏をはじめ後世の人々は、チルーの生涯や作品に心を寄せ、歌劇、映画、民謡、歌曲の世界に登場させている。 恨めしい比謝橋は 情けのない人が 私を渡そうと思って かけたのでしょうか 身売りという不条理を背負ったチルーのやり場のない気持ちが、比謝橋や橋をかけた人に向けられ、絶望的な悲しみが伝わってくる。
平成十七年七月二日 読谷村文化協会 -
比謝矼友竹亭とは…顕彰碑のようだ。
比謝矼友竹亭とは、廃藩置県後、首里から旧王府所領の牧原・久得・御殿敷あたりに移住してきた旧士族同好者たちの琉歌創作サークルである。その活動は、越来村在住の山内盛熹を点者に迎え、比謝川河畔のこの地に店舗を構えていた黒糖仲買商人「全通店」の広間で行われた。活動成果は明治40年から大正5年にかけて、再々琉球新報や沖縄毎日新聞等の文芸欄に発表され、その数実に700余首にも及び、県琉歌界隆盛の一翼を担ってきた。またこのサークル活動は実に本村記録文学の嚆矢で、その影響は本村の琉歌ならびに三線音楽の発展に大いに寄与し今日に及んでいる。ここに本協会は先人の遺徳をしのび、その功績を称えて顕彰碑を建立する。
平成17年7月2日 読谷村文化協会 -
橋脚跡が残っている付近だが、足場が悪くこれ以上は進むことができなかった…。
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比謝橋北詰めにある交通安全之碑。取り上げられている文献もあるがよくわからない。730に由来するものか?
比謝橋 11:39( 2.4km・15.3km・51.9km・16.0km/h )
11:49 -
イオンタウン読谷に立ち寄る。
イオンタウン読谷 11:53( 1.5km・16.8km・53.4km・22.5km/h )
12:18 -
雨が時折強く降ると手持ちの折り畳み傘では心もとないため、ダイソーで購入する。南国の100均の傘は侮れないと私自身の経験があるためだ。
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古堅国民学校跡を訪れる。
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イチオシ
おきなわの名木とされている旧古堅国民学校跡のデイゴは…、大きすぎて敷地内でからは撮れないものだった…。
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古堅尋常高等小学校と古堅国民学校の沿革。
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沿革の裏には古堅国民学校の模型があった。
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国旗掲揚台も残存していた。
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そろそろ出発するとしよう。
古堅国民学校跡 12:25( 1.1km・17.9km・54.3km・9.4km/h )
12:32 -
泊城公園へとやって来た。
渡具知公園 12:36( 1.6km・19.5km・56.1km・24.0km/h )
12:38
泊城公園 12:40( 0.3km・19.8km・56.4km・9.0km/h )
13:31 -
先に梵字碑と米軍上陸の地碑へと向かうことにする。
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駐車場から上陸地碑までまずは上ってきたことをほめるためにたかティムショット♪
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東シナ海…。
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嘉手納の街と比謝川の河口…。
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比謝川は内陸方向へと伸びている…。
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米軍上陸時の様子(地図)。
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勿為沖縄戦場
一九四五年四月一日米軍は読谷村の西海岸から沖縄本島へ上陸した。
沖縄戦は鉄の暴風といわれ、一木一草焼き尽くし、緑豊かな故郷は、がれきと化し、住民を巻き込んだ悲惨な地上戦であった。
かつて経験したことのないこの戦争は島の文化と人々の平和な暮らしと多くの尊い人命を奪った。
この美しい海岸が二度と再び如何なる軍隊の上陸の地ともならないことを村民は祈念する。
太平洋戦争・沖縄戦終結五十周年を期してこの碑を建立する。
一九九五年十二月 沖縄県読谷村 -
上陸後前線部隊への軍需物資などを陸揚げする米軍。
この碑の建つ付近から比謝川の河口部・旧渡具知港を望む。
対岸は現在の嘉手納町。 -
三つの碑は海へと向いている…。
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反戦意識が強い読谷村だから感じられるところもあった…。
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嘉手納町が変わらぬ見え方をし続けて欲しいものだと思う…。
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梵字碑。
刻まれた文字は古代インドのサンスクリット語で〝ア・ビ・ラ・ウン・ケン〟と読み、漢字では〝阿毘羅吽欠〟と書く。これは大日如来の真言で唱えることにより、魔障を退散させ、善福を招く力があると云う。
元は渡具知港が見渡せる断崖上にあったそうで航海の安全を祈願したものらしい。 -
渡具知泊城(トゥマイグシク)、全景。
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この手履きの由緒書きは知る人ぞ知る有名なものらしい。
渡具知泊城
今から600年前の三山戦国時代に中今帰仁城主按司は臣下本部大主の謀反にあって城を奪われた。その後世代わりの騒動となった(今帰仁騒動)。
按司の嗣子千代松金は名を丘春と改め読谷山間切・北谷間切砂辺村へと落ち延びた。丘春は仇討の機会を待ち、18年後に読谷山大木徳武佐で旧臣を集め挙兵し本部大主を討って城を奪還した。
そして次の代の仲宗根若按司の時に後北山の怕尼芝に攻められ中北山は滅び、仲宗根若按司は本部具志堅で亡くなった。
隠居の身の仲宗根按司丘春は戦に追われ住み慣れた読谷山間切に戻って当地にて城奪還の体制を整えたが力およばず遂に当地で終身した。
按司丘春そして臣下の骨玉は東の方の鷹の目洞窟に葬られ以後この地一帯を渡具知泊城と称した。
1979年12月22日 -
晴れていればさぞかしキレイであろう…。
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この辺りであろうか…見方を変えれば〇〇に見える岩が多いという場所は…。
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渡具知泊城を追っかけて行くと…。
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渡具知泊城公園敷地内に2ケ所の特殊艇秘匿洞窟があるというのは…。
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この辺りであろうか…。
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天気が良ければもう少しハッキリと分かるのであるが…。
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沖縄海底電信線記念碑へと立ち寄った。ここに電信線が陸揚げされたことにより沖縄と本土の電信網が繋がった。
沖縄海底電信線記念碑 13:35( 0.9km・20.7km・57.3km・13.5km/h )
14:00 -
そしてこの比謝川河口付近には、4つの特攻艇秘匿洞窟が確認されている。
手前(電信屋の碑)側から1つ目はコンクリートで入口が塞がれていた。 -
2つめは草が覆い被さっていた。
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一番程度が良いとされる3つ目を覗いてみる。
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奥行きはそこそこ確認できる。
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ただ深さに関しては長きに渡りゴミや流木、土などが流れ込んでいるために不明である…。
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洞窟内部からの撮影は無理だが、ここから特攻艇に乗って若き兵士は米軍艦艇に向かっていったのであろうか…。
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比謝川河口にあるために、訪れるのは個人の意思で行く場所である。
訪れた記録としてたかティムショット。 -
残りのひとつはわかり辛い場所にあるとのことだった…。
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阿麻和利の墓を訪れた。
阿麻和利の墓 14:10( 2.9km・23.6km・60.2km・17.4km/h )
14:14 -
阿麻和利とはどのような人物だったのだろうか…。
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ユーバンタ浜へとやって来た。入口の石碑には読谷村下水道発祥の地と刻まれている。
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艦砲ぬ喰ぇー残さーの歌碑を訪ねる。
艦砲の碑 14:22( 2.0km・25.6km・62.2km・15.0km/h )
14:35 -
艦砲ぬ喰ぇー残さーの歌碑建立の沿革。
艦砲ぬ喰ぇー残さー之碑とは…
楚辺集落ユーバンタ浜に建立されている〝艦砲ぬ喰ぇ残さー〟の碑と歌碑。楚辺集落発祥の地とされるこの場所に歌碑が建立されたのは平成25(2015)年のことでした。
碑と歌碑は別の物で注意が必要ですが、やはり歌碑に備え付けてある〝音楽の鳴るスイッチ〟は壊れているようで、サトウキビ畑の歌の碑と同様メンテナンスが必要でした。
米軍上陸地から直線距離にするとさほど離れていない場所にあることから、やはり昭和20(1945)年4月1日には海が艦船で真っ黒になっていた光景が広がっていたのだと推測します。
碑の名前である〝艦砲ぬ喰ぇ残さー〟と言う名称が知られ過ぎており、その歌の内容まではあまり分析されていないようにも思います。
私自身も沖縄戦中~戦後の様子を歌にしたものだとしか考えていなかったこともあるのですが、5番まである歌詞の繰り返し部分にされている〝うんじゅん わんにん いゃーん わんにん 艦砲ぬ喰ぇーぬくさー〟とはヤマト言葉になおすならば〝あなたも私も俺もお前も艦砲射撃の食い残し〟となり、運良く生き残ったとは考えていない気持ちが込められていることに気付きました。
艦砲射撃にすら〝喰われなかった〟とは、嫌われた結果生き残ったと言っているように思えて仕方がなく、それに加えて各番の歌詞に書かれている内容が、その様子を表しているように感じました。
訳して始めてわかったようなことですが、やはりウチナー言葉で書かれている沖縄民謡ゆえ、現文そのままで解釈するとまた違う思いを感じることができるのかも…。そんな気持ちになった〝艦砲ぬ喰ぇ残さー〟の歌碑だった。 -
艦砲ぬ喰ぇー残さー之碑と刻まれている。
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艦砲ぬ喰ぇー残さー之碑を後にしてユーバンタ浜を歩くことにする。
艦砲の碑 14:22( 2.0km・25.6km・62.2km・15.0km/h )
14:35 -
これは〝ガマ〟だろうか、形的には特殊艇秘匿洞窟にも見えなくはない…。
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こういった雑な取り扱いがされているのがそう思えて仕方がない…。
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穴場と言われるユーバンタ浜を越えて楚辺の集落へと向かう…。
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特殊艇秘匿洞窟に拘り過ぎたのか、ちょっとしたものがそう見えて仕方がない…。
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なにか意味深な岩のトンネル…。
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しかしどう見ても人為的な造りだろう…
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赤犬子(あかいんこ)とは沖縄の三線(三味線)音楽の始祖として尊崇されている伝説上の人物である。そのお墓とされる場所である。
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楚辺集落の慰霊之碑。集落出身の軍人軍属と一般住人の戦没者を記銘してあった。
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再びユーバンタ浜を横切って車へと戻る。そして次編に続く・・・。
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